本報告書は、戦国時代から江戸時代初期にかけての激動の時代を駆け抜け、主君・上杉景勝を支え続けた武将、水原親憲(すいばら ちかのり)の生涯を、その出自から晩年に至るまで網羅的かつ詳細に追跡し、その多面的な実像に迫るものである。
水原親憲の生涯は、大関(おおぜき)氏、水原氏、そして杉原(すいばら)氏という三つの姓の変遷に象徴される。この変遷は単なる改名に留まらず、彼の主君への忠誠、戦場での功績、そして時代の大きな転換点における彼の巧みな政治的判断を物語る、極めて重要な指標である。彼は、軍神・上杉謙信の死という上杉家最大の危機に際して確固たる立場を示し、関ヶ原の戦いに連動した慶長出羽合戦では絶体絶命の状況下で上杉軍を救い、徳川の世が確立された大坂の陣では最後の武功を立てた。その功績は、上杉家の存続に不可欠なものであったと言っても過言ではない。
本報告書では、利用者様が既に把握されている概要を基盤としつつ、現存する史料を丹念に読み解き、彼の軍事的功績、政治的役割、そして「鴨居をさえぎる」ほどの長身に「馬の如き」顔という異色の容貌に代表される特異な人物像を多角的に分析する。これにより、これまで逸話として断片的に語られることの多かった親憲の全体像を再構築し、彼が上杉家にとって如何なる存在であったかを明らかにすることを目的とする。
西暦 |
和暦 |
年齢 |
主要な出来事、役職、知行の変化 |
1546年 |
天文15年 |
1歳 |
越後国魚沼郡浦佐城主・大関親信の子として誕生。幼名は弥七 1 。 |
1561年 |
永禄4年 |
16歳 |
『上杉将士書上』によれば、第四次川中島の戦いで武功を挙げたとされるが、確実な史料での裏付けはない 3 。 |
1578年 |
天正6年 |
33歳 |
3月、上杉謙信が急死。家督を巡り「御館の乱」が勃発。一貫して上杉景勝を支持する 3 。 |
1579年 |
天正7年 |
34歳 |
2月、御館の乱において魚沼郡広瀬の小平尾を攻略するなどの軍功を立てる 3 。 |
1580年 |
天正8年 |
35歳 |
この頃、一時的に上杉家を出奔し、会津の蘆名氏家臣・新国貞通のもとに身を寄せる。景勝と蘆名盛隆の外交を仲介する 3 。 |
1583年 |
天正11年 |
38歳 |
2月、越中国の防備にあたり、その功により知行を与えられる 3 。 |
1586年 |
天正14年 |
41歳 |
新発田重家の乱で討死した水原満家の名跡を継ぐよう景勝に命じられる(『北越詩話』等による) 3 。 |
1594年 |
文禄3年 |
49歳 |
2月付の景勝からの朱印状では宛名が「大関常陸」だが、同年付の『文禄三年定納員数目録』では「水原常陸」として記載。知行3,414石 3 。 |
1598年 |
慶長3年 |
53歳 |
景勝の会津120万石への移封に従う。猪苗代城代に任じられ、5,500石を知行する 9 。 |
1600年 |
慶長5年 |
55歳 |
慶長出羽合戦(長谷堂城の戦い)に参加。撤退戦で殿(しんがり)を務め、鉄砲隊を率いて最上軍の追撃を阻止し、上杉軍本隊の退却を成功させる 3 。 |
1614年 |
慶長19年 |
69歳 |
大坂冬の陣に参陣。鴫野の戦いで鉄砲隊を率いて活躍し、佐竹軍を救援する 11 。 |
1615年 |
元和元年 |
70歳 |
大坂冬の陣での戦功により、将軍・徳川秀忠から感状を賜る。宛名が「杉原常陸介」と誤記されていたため、以降「杉原」姓に改める 8 。 |
1616年 |
元和2年 |
71歳 |
5月13日、死去。墓所は米沢の林泉寺 1 。 |
水原親憲の生涯を理解する上で、彼の出自と、彼が如何にして越後の名門「水原」の名跡を継ぐに至ったかという経緯は、極めて重要な意味を持つ。それは、彼の個人的なキャリアの出発点であると同時に、上杉景勝による新たな支配体制構築の意図が色濃く反映された出来事であった。
水原親憲は、天文15年(1546年)、越後国魚沼郡の浦佐城主であった大関阿波守親信(おおぜきあわのかみちかのぶ)の子として生を受けた 1 。幼名は弥七と伝わる 2 。
彼が生まれた大関氏は、越後土着の国人衆とは一線を画す、特異な背景を持つ一族であった。その源流は、遠く下野国那須郡(現在の栃木県北東部)に遡る 13 。那須氏を中心とする武士団「那須七騎」の一角を占めた名族・大関氏の一族が、何らかの経緯で越後に移住し、上杉家に仕えるようになったのが、親憲の家系であったとされる 13 。
この事実は、親憲の立場を考察する上で重要な示唆を与える。彼は、越後の国人衆が持つ複雑な血縁関係や地縁のしがらみから、比較的自由な立場にあった。上杉家、特に後の主君となる景勝にとって、こうした「準外様」とも言える彼の出自は、純粋に個人の能力と忠誠心を評価する上で、むしろ好都合であった可能性が考えられる。越後の国人衆、特に揚北衆(あがきたしゅう)と呼ばれる阿賀野川以北の勢力は、独立性が強く、時には主家である上杉氏に反旗を翻すことも少なくなかった。親憲が、そうした土着勢力とは異なる背景を持っていたことは、後に彼が異例の抜擢を受ける遠因となったのである。
親憲がその名跡を継ぐことになる水原氏は、越後における屈指の名門であった。その祖は伊豆国を源流とする平姓大見氏とされ、鎌倉時代に越後国白河庄の地頭となって以来、この地に根を張った 15 。同じく大見氏の系統からは安田氏や山浦氏といった有力な国人が輩出されており、水原氏は揚北衆の中核をなす存在として重きをなしていた 16 。
戦国時代に入り、水原氏は上杉謙信に臣従する。謙信の死後、上杉家の家督を巡って勃発した「御館の乱」では、当時の当主であった水原満家(みついえ)は上杉景勝を支持し、その勝利に貢献した 15 。しかし、その後の天正9年(1581年)から始まった新発田重家(しばたしげいえ)の反乱は、水原氏の運命を暗転させる。
新発田重家は、御館の乱における恩賞への不満から上杉景勝に反旗を翻した、同じく揚北衆の有力者である 20 。水原満家は、この反乱の鎮圧戦において景勝方として奮戦したが、新発田城攻めの帰路、放生橋の合戦などで殿(しんがり)を務めた際に、新発田軍の猛追を受けて討死を遂げた 12 。この満家の死により、鎌倉時代から続いた名門・水原氏は、事実上、断絶の時を迎えたのである 12 。
水原満家の死と水原氏の断絶は、単に一つの家が歴史から姿を消したというだけではない。それは、揚北衆における親景勝派の有力な一角が崩れ、この地域に深刻な政治的・軍事的空白が生まれたことを意味した。景勝にとって、この空白を放置することは、新発田方に与する勢力や日和見的な国人衆に付け入る隙を与える極めて危険な状況であった。早急に「水原」という影響力のある名跡を、最も信頼できる人物に継承させ、この地域の動揺を鎮める必要に迫られたのである。
この政治的空白を埋めるべく、上杉景勝が白羽の矢を立てたのが、大関親憲であった。景勝は、忠臣・水原満家の死と名家の断絶を惜しみ、親憲に対して水原氏の名跡を継ぐことを命じた 18 。これにより、大関弥七親憲は、新たに「水原常陸介親憲(すいばらひたちのすけちかのり)」として、歴史の表舞台に立つことになったのである 2 。
この名跡継承は、天正14年(1586年)頃に行われたとされているが、史料上には若干の混乱が見られる(詳細は次章で詳述する) 3 。
景勝が親憲を抜擢した背景には、複合的な意図があったと考えられる。第一に、御館の乱以来、一貫して自身を支え、数々の武功を立ててきた親憲に対する最大の恩賞であった。第二に、断絶した名門・水原氏の権威と影響力を利用し、動揺する揚北衆に対する支配力を維持・強化する狙いがあった。そして第三に、新発田重家の反乱という未曾有の危機に直面する中で、自らの支配体制を再構築し、家中を一枚岩にするための布石であった。
このように、水原親憲の「水原氏継承」は、彼自身の武勇と忠誠心、そして主君・上杉景勝の冷徹な政治的判断とが交差する点において実現した、極めて象徴的な出来事であった。彼は、自らの実力で勝ち取った栄誉と、主君から託された重責とを背負い、上杉家の中核を担う武将として、新たなキャリアを歩み始めることになったのである。
水原親憲の武将としてのキャリアは、上杉謙信の時代に芽吹き、主君が上杉景勝へと代わる激動期に本格的に開花した。確実な史料に基づく彼の初期の軍歴は、上杉家の内乱「御館の乱」から始まる。この時期の彼の動向は、後の活躍を予感させるに十分なものであった。
後世に編纂された軍記物である『上杉将士書上』には、永禄4年(1561年)、親憲がわずか16歳で第四次川中島の戦いに参陣し、武功を挙げて主君・上杉謙信から賞賛されたという、勇壮な記述が見られる 3 。これが事実であれば、彼の武才が早くから開花していたことを示すものとなる。
しかしながら、より信頼性が高いとされる同時代の一次史料において、親憲の名が明確に登場するのは、謙信が没した後の「御館の乱」以降のことである 3 。戦国時代の軍記物には、英雄の若き日を華々しく飾るための創作や脚色が加えられることが少なくない。そのため、川中島での活躍は、彼の後年の名声から遡って描かれた逸話である可能性を否定できない。したがって、本報告書では、確実性の高い史料に基づき、彼のキャリアの本格的な始動を御館の乱と位置づける。これは、彼の真価が謙信時代よりも、景勝が家督を継いで以降の困難な時代にこそ発揮されたことを示唆している。
天正6年(1578年)3月13日、上杉謙信が急死すると、上杉家は後継者を巡って大きく揺れた。謙信の養子であった上杉景勝(長尾政景の実子)と上杉景虎(北条氏康の実子)との間で、家督を賭けた内乱「御館の乱」が勃発したのである 5 。
この上杉家を二分する争いの中で、水原親憲は一貫して上杉景勝を支持した 3 。天正7年(1579年)2月には、景虎方の拠点であった魚沼郡広瀬の小平尾を攻略し、翌天正8年(1580年)5月には、深沢利重や栗林政頼といった武将らと共に景勝方の重要拠点である上田の守備につくなど、軍事面で着実に功績を重ね、景勝方の勝利に大きく貢献した 3 。
親憲が景勝を支持した背景には、単なる個人的な忠誠心だけでなく、彼の地理的・政治的な立場が大きく影響していた。親憲の父・親信は魚沼郡浦佐城主であり、この魚沼郡上田庄一帯は、まさしく景勝の出身母体である上田長尾家の本拠地であった 3 。つまり、親憲は元々、景勝の勢力基盤に属する武将であり、彼の景勝支持は極めて自然かつ必然的な選択であったと言える。この乱を通じて、彼は景勝派の中核メンバーとして、主君からの信頼を確固たるものにしていった。
御館の乱が景勝の勝利に終わった後、親憲の経歴には不可解な空白期間が存在する。彼は一時的に上杉家を離れ、国境を越えて会津の蘆名氏家臣で長沼城主であった新国貞通(にっくにさだみち)のもとに身を寄せていた時期があったのである 3 。
この出奔の具体的な理由は、史料には明記されていない。御館の乱後の論功行賞を巡る不満や、勝利後に生じた上杉家中の新たな内部対立が原因であった可能性も考えられる 6 。しかし、注目すべきは、彼が単なる亡命者としてではなく、特別な存在として扱われていた点である。天正8年(1580年)6月には、蘆名氏の当主・蘆名盛隆の家臣を通じて、景勝と盛隆の友好関係を仲介してほしいと依頼されている 3 。
これは、親憲が敵国であった会津においても、その武将としての名声と価値を高く評価されていたことを示している。彼が上杉家にとって失うには惜しい人材であったことの証左であり、同時に、彼自身が国境を越えて通用する交渉能力や政治的感覚を身につけていたことを物語っている。この会津での経験は、彼の視野を広げ、後の外交的な場面や政治的な判断において、大きな糧となった可能性は十分に考えられる。
上杉家に帰参し、新発田重家の乱などで再び功を立てた親憲は、前述の通り、断絶した名門・水原氏の名跡を継ぐことを景勝から命じられる。この継承時期については、天正14年(1586年)頃とする説が一般的であるが、史料上には興味深い「ずれ」が見られる 3 。
文禄3年(1594年)2月、出羽国最上方面での戦功に対して上杉景勝から親憲に与えられた朱印状(公的な感状)の宛名は、依然として「大関常陸」となっているのである 3 。しかし、ほぼ同時期に作成された上杉家の公式な軍役台帳である『文禄三年定納員数目録』においては、彼は「水原常陸」として記載され、3,414石の知行と149人の軍役を負担する、まぎれもない水原氏当主として記録されている 3 。
この史料上の「ねじれ」は、改名という行為が、現代の我々が考えるように一度の布告で即座に全ての文書で統一されるものではなかったことを示唆している。公式な台帳類では、家の格式や軍役を規定する上で重要な新しい姓「水原」が用いられる一方で、主君から個人へ直接下される感状のような文書では、旧来の馴染み深い姓「大関」が慣習的に使われ続けた可能性がある。これは、戦国時代の武家社会における改名の実態と、公式名称と通称が併用される過渡的な状況を示す、非常に貴重な事例と言える。文禄3年(1594年)という年は、まさに親憲にとって「大関」から「水原」へと完全に移行する、その過渡期であったと結論づけられる。
越後を統一した上杉景勝が、豊臣政権下で会津120万石の大大名へと飛躍した時代、水原親憲は単なる一武将から、上杉家の屋台骨を支える重臣、すなわち「柱石」として、その真価を最大限に発揮することになる。特に、関ヶ原の戦いと連動して起きた慶長出羽合戦における彼の働きは、上杉家の存亡に直結するほどの決定的なものであった。
慶長3年(1598年)、豊臣秀吉の命により、上杉景勝は長年本拠地としてきた越後を離れ、会津120万石へと移封された 10 。これは上杉家にとって空前の加増であり、豊臣政権におけるその地位の高さを物語るものであった。水原親憲も主君に従い、会津の地へと赴いた。
会津において、親憲は猪苗代城(いなわしろじょう)、別名・亀ヶ城の城代に任じられ、5,500石という高禄を与えられた 9 。当初は福島城代を務め、その後任として猪苗代へ移ったとの記録もある 30 。
猪苗代城は、単なる支城ではない。会津盆地の西の入り口に位置し、北には奥州の覇者・伊達政宗の領地が広がる、国防の最前線であった 30 。景勝がこの戦略的に極めて重要な城の守りを親憲に託したという事実は、彼の武勇と指揮能力、そして何よりもその忠誠心に対する景勝の絶対的な信頼を雄弁に物語っている。
当時の上杉家中の序列を、『会津御在城分限帳』から見てみると、彼の立場はより明確になる。
役職・居城 |
武将名 |
実名 |
石高 |
備考 |
羽州米沢城主 |
直江山城守 |
直江兼続 |
30,000石 |
執政 |
奥州白石城主 |
甘粕備後守 |
甘糟景継 |
20,000石 |
|
奥州梁川城主 |
須田大炊助 |
須田長義 |
20,000石 |
|
奥州福島城主 |
本庄越前守 |
本庄繁長 |
10,000石 |
揚北衆 |
奥州猪苗代城代 |
水原常陸介 |
水原親憲 |
5,500石 |
揚北衆 |
奥州千坂対馬守 |
千坂景親 |
5,500石 |
|
|
奥州志田修理亮 |
志駄義秀 |
5,000石 |
出羽東禅寺城代 |
|
※出典: 10 を基に作成。
この表が示すように、親憲の5,500石という知行は、執政・直江兼続の3万石や、2万石クラスの重臣には及ばないものの、千坂景親らと並ぶ家中の上層部に位置している。特に、対伊達の最前線を担うという軍事的な重要性を鑑みれば、彼の石高は実質的な価値以上の重みを持っていたと言えよう。景勝は、最も信頼でき、かつ軍事能力に長けた武将を、国家の命運を左右する最重要拠点に配置したのである。
慶長5年(1600年)、豊臣秀吉の死後に天下の実権を握った徳川家康と、それに反発する石田三成との対立が頂点に達し、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発する。上杉景勝は三成方の西軍に与し、家康が西へ向かった隙に、家康方の東軍に属する北の隣国・最上義光の領地へ侵攻した。これが「慶長出羽合戦」、通称「北の関ヶ原」である 9 。
総大将・直江兼続が率いる上杉軍本隊に属した水原親憲は、畑谷城の攻略や、最上氏の重要拠点である長谷堂城の包囲戦に参加した 9 。しかし、上杉軍の予想に反し、関ヶ原の本戦はわずか一日で西軍の壊滅的な敗北に終わる。この報が直江兼続のもとに届くと、戦況は一変した。背後を家康に突かれる危険が生じ、上杉軍は全軍撤退を余儀なくされたのである。
この撤退戦こそ、水原親憲の武将としての評価を決定づけた、生涯最大のハイライトであった。勝利に沸き、勢いに乗る最上義光軍と、援軍として駆けつけた伊達政宗軍が、退却する上杉軍に猛然と襲いかかった。この絶体絶命の状況で、全軍の最後尾にあって敵の追撃を食い止める「殿(しんがり)」という最も困難な役目を、親憲は引き受けたのである 3 。
親憲が駆使したのは、旧来の槍働きや騎馬突撃ではなかった。彼が率いたのは、200名の鉄砲隊であった 3 。彼は富神山の東麓などに巧みに兵を配置し 14 、追撃してくる最上軍を待ち伏せた。そして、敵が射程内に入るや、統率された一斉射撃を浴びせ、大打撃を与えたのである 11 。この戦いでは、陣頭指揮を執っていた最上義光の兜に弾が当たり、側近の武将が討ち取られるほどの激戦であったと伝わる 35 。
この親憲の戦術は、単なる一騎当千の武勇ではなく、鉄砲という新兵器の特性を最大限に活かした、極めて高度な集団戦法であった。地形を利用した伏兵、射撃と移動を繰り返す巧みな部隊運用は、彼が上杉軍の鉄砲奉行に任じられていた 13 という記録を裏付けるに十分な、卓越した戦術眼の現れであった。
この見事な殿軍がなければ、直江兼続率いる上杉軍本隊は壊滅的な打撃を受け、戦後の上杉家の存続すら危うかった可能性が高い。水原親憲の戦術的勝利は、関ヶ原における上杉家の政治的敗北の中で得られた一筋の光明であり、その後の米沢30万石への減移封と、藩の存続を可能にした大きな礎の一つとなったのである。
関ヶ原の戦いを経て、世は徳川の治世へと大きく舵を切った。上杉家は会津120万石から米沢30万石へと大幅に減移封され、苦難の時代を迎える。その中で、老将・水原親憲は、最後の戦場である大坂の陣で再びその武勇を示し、彼の名を後世に伝える上で最も有名な逸話、すなわち「杉原」への改姓のきっかけとなる出来事に遭遇する。
慶長19年(1614年)、豊臣家と徳川家の最終決戦である大坂の陣が勃発すると、上杉景勝は徳川方として参陣を命じられた。この時、親憲は70歳近い高齢であったが、主君に従い、最後の戦場へと赴いた 5 。
彼がその老練な指揮能力を遺憾なく発揮したのは、大坂冬の陣における「鴫野(しぎの)の戦い」であった。この戦いで、同じ徳川方の佐竹義宣の軍勢が、豊臣方の木村重成や後藤又兵衛らの猛攻を受けて苦戦に陥っていた。この危機的状況を打開すべく、親憲は自慢の鉄砲隊を率いて救援に駆けつけ、的確な射撃で敵の攻勢を頓挫させ、佐竹軍の窮地を救うという大きな戦功を挙げたのである 8 。
この活躍は、敵味方が入り乱れる戦場において、戦局全体を見渡す冷静な判断力と、精鋭部隊を自在に操る卓越した指揮能力の賜物であった。この功により、親憲は二代将軍・徳川秀忠から直々に感状を賜るという、武士として最高級の栄誉に浴した 11 。
この将軍秀忠から下賜された感状が、親憲の後半生、そして彼の子孫の姓を決定づける奇妙な逸話を生んだ。感状の宛名は、秀忠に仕える祐筆(ゆうひつ、書記役)の誤記により、「水原(すいばら)常陸介」と書かれるべきところを、誤って「杉原(すぎはら、或いは、すいばら)常陸介」と記されていたのである 3 。
感状を受け取った親憲は、この誤りにすぐに気づいた。しかし、彼はその場で誤りを指摘したり、訂正を求めたりすることはしなかった。将軍家から直接下賜された感状は絶対のものであり、それに異議を唱えることは、将軍の権威を損ないかねない無粋な行為である。親憲は、この誤記を黙って受け入れ、感状を恭しく拝領した。そして、これ以降、自らの姓を「水原」から、将軍に与えられた「杉原」へと改めたのである。ただし、読み方だけは旧来の「すいばら」のままであったと伝わる 3 。
この一連の対応は、親憲の老練な政治感覚と、新しい時代への処世術を象徴している。戦国の世であれば、自らの名誉に関わる誤記に対しては、猛然と抗議したかもしれない。しかし、将軍の権威が絶対のものとなった江戸時代においては、幕府の小さな過ちを寛大に受け流すことこそが、徳川家への恭順の意を示す最上の振る舞いであった。彼は、この偶然の出来事を逆手に取り、将軍から直接与えられた姓を名乗るという形で、徳川体制下で生きる上杉家家臣として、自らの家の格式を高めることに成功したのである。これは、戦国の荒波を生き抜いてきた老将が、新しい時代の秩序と価値観を的確に理解し、見事に適応してみせた姿であった。
大坂の陣から程なくして、親憲の武将としての長い生涯は、静かに終わりを迎える。元和2年(1616年)5月13日、彼は71年の生涯に幕を閉じた 1 。
彼の最期については、その忠義心を象徴する一つの伝説が残されている。江戸での勤めを終えて米沢へ帰国する主君・景勝を、領地の入り口である板谷峠(いたやとうげ)まで出迎えた際、主君の姿を認めた親憲は、その場で馬上から崩れるようにして息を引き取ったというものである 13 。これが史実であるかどうかの確証はないが、生涯をかけて主君に仕え抜いた彼の生き様を、後世の人々がこのように語り伝えたくなるほど、彼の忠誠心は深く印象的であったのだろう。
彼の亡骸は、上杉家の菩提寺である米沢の春日山林泉寺(りんせんじ)に手厚く葬られた 3 。林泉寺の墓域には、今なお彼の墓石が残り、上杉家の激動の時代を支え抜いた老将の魂を静かに今に伝えている 40 。
水原親憲という人物の魅力は、その戦場での功績のみに留まらない。彼にまつわる数々の逸話は、戦国武将の典型的なイメージを覆すような、極めて個性的で人間味あふれる姿を我々に伝えてくれる。それは、豪放磊落な剛勇さと、繊細な文化的素養が同居する、稀有な人物像である。
親憲の人物像を語る上で、まず触れなければならないのは、その一度見たら忘れられないであろう特異な容貌である。江戸時代の米沢藩の逸話集『米沢里人談』には、彼の姿が次のように活写されている。「其長(そのたけ)鴨居をさえぎり、面(おもて)は馬の如く、黒子(ほくろ)多くして黒大豆を蒔(まき)たる如く」 7 。これは、鴨居に頭がぶつかるほどの長身で、馬のように面長な顔には、まるで黒豆をばらまいたかのように多くの黒子があった、という意味である。この異相は、彼の存在感を一層際立たせていたに違いない。
性格は豪放磊落そのものであった。普段は無口で笑うことが滅多になかったとされる主君・上杉景勝の前でさえ、彼は物怖じしなかった。ある酒宴の席で、親憲は自らの顔に紅や白粉を塗りたくり、真っ赤な頭巾をかぶり、棕櫚(しゅろ)の箒に紙をちぎって飾り付けたものを掲げ持って進み出て、滑稽な舞を披露した。これには、さすがの景勝も表情を崩し、かすかに笑みを浮かべたと伝わる 8 。また、戦場へ向かう厳粛な道中ですら、馬に乗りながら供の者と世間話に興じ、大笑いしながら進んでいくため、沿道の人々は「あれが今から合戦に向かう武者なのか」と目を丸くしたという 8 。
これらの逸話は、彼が単に豪快な人物であったことを示すだけでなく、場の空気を読み、人心を掌握する能力に長けていたことをも示唆している。常に緊張を強いられる主君を和ませ、部下の士気を高める彼の振る舞いは、組織における潤滑油としての重要な役割も果たしていた。厳しい戦国の世を生き抜く上で、こうした人間的魅力もまた、彼の大きな武器の一つであったと考えられる。
彼の武勇と、物事の本質を見抜く慧眼を物語る逸話も数多く残されている。
これらの逸話群は、彼が単なる猪武者ではなく、戦いの本質や政治の力学を大局的に捉えることができる、優れたリアリスト(現実主義者)であったことを強く示している。彼の言動には、戦国乱世の価値観と、徳川の治世という新しい時代の価値観の双方を客観的に比較し得た人物ならではの、鋭い洞察力が窺える。
親憲の人物像の奥深さは、その武骨さや豪胆さの一方で、豊かな文化的素養を兼ね備えていた点にある。『上杉将士書上』は、彼を「風流者で、乱舞、連歌をよくし、茶の湯の数寄者でもあり、人の噂にのぼることの多い男であった」と記している 8 。
彼の独特の美意識は、その武具にも現れていた。現存する彼の兜の前立てには、「風の神、雷の神、火の神」と記された団扇(うちわ)があしらわれている 7 。この兜は現在、山形県米沢市の宮坂考古館に収蔵されており、彼の個性的な精神世界を今に伝えている 8 。
武勇と教養、剛と柔。一見すると相反するこれらの要素が、水原親憲という一人の武将の中で見事に融合していた。これは、戦国時代における理想的な武将像の一つである「文武両道」を体現するものであり、彼が単なる戦闘の専門家ではなく、豊かな人間性と文化的背景を持った人物であったことを示している。
水原親憲について語られる際、時折「鬼兵庫(おにひょうご)」という勇ましい異名が用いられることがあるが、これは後世に生じた誤解である可能性が極めて高い。
様々な史料を検証すると、「鬼兵庫」の異名で知られるのは、織田信長や森長可に仕えた美濃の武将・各務元正(かがみ もとまさ)であることが確認できる 47 。彼はその武勇から「鬼兵庫」と称され、数々の武功伝が残されている。
一方、水原親憲の官途名は、史料において一貫して「常陸介(ひたちのすけ)」であり、「兵庫助(ひょうごのすけ)」やそれに類する官職に就いた記録は見当たらない 2 。
したがって、水原親憲と「鬼兵庫」という異名を結びつけるのは、武勇に優れた武将の逸話が混同された結果と考えられる。本報告書では、この点を明確に指摘し、訂正するものである。親憲の武勇は、特定の異名がなくとも、長谷堂城の戦いをはじめとする数々の戦功によって十分に証明されている。
一人の武将が築き上げた家名と名誉を、いかにして後世に伝えていくか。これは、戦国の世を生き抜いた武将たちにとって、自らの武功と同じくらい重要な課題であった。水原(杉原)親憲もまた、その例外ではなかった。
親憲には助市(すけいち)という嫡男がいたが、この息子はわずか11歳で夭逝してしまうという不幸に見舞われた 2 。これにより、親憲の直系男子は途絶えることとなった。
しかし、親憲は自らが興した家の断絶を座して見過ごすことはなかった。彼は、娘が嫁いだ下条正親(げじょうまさちか)との間に生まれた次男、すなわち自身の外孫にあたる憲胤(のりたね)を養子として迎え入れ、家督を相続させたのである 2 。
この決断は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武家社会における「家」の存続を最優先する価値観を色濃く反映している。直系の血筋が途絶えた場合、血縁の近い者から養子を迎えて家名を存続させることは、ごく一般的な慣行であった。特に、親憲が将軍・徳川秀忠から感状と共に与えられた「杉原」という姓は、徳川の治世下において特別な意味を持つものであり、この家名を絶やすことなく後世に繋いでいくことは、彼にとって極めて重要な責務であった。
こうして、養子・憲胤が跡を継いだ杉原家は、その後も上杉家の重臣として存続した。米沢藩の公式な家臣団名簿である分限帳(ぶげんちょう)や諸士の系図をまとめた記録には、代々「杉原」氏の名が上級家臣である侍組の一角として記されており、親憲が築いた家が、米沢藩の歴史の中で確かな足跡を残していったことが確認できる 49 。
水原親憲の生涯は、上杉家が最も困難な時代を乗り越えるための、まさに「柱石」としての一生であった。軍神・上杉謙信の死という上杉家最大の危機から、関ヶ原の戦いでの敗北、そして会津120万石から米沢30万石への屈辱的な減移封という苦難の時代を通じて、彼は一貫して主君・上杉景勝を支え続けた。
彼の功績は、慶長出羽合戦・長谷堂城の撤退戦で見せたような、鉄砲隊を駆使する卓越した軍事指揮能力に留まらない。彼は、新発田重家の乱で動揺する揚北衆の地において、断絶した名門・水原氏の権威を継承することで政治的安定をもたらし、会津時代には対伊達の最前線である猪苗代城を守り抜くという、極めて重要な統治・軍事上の役割を果たした。そして、徳川の世が到来すると、将軍から与えられた感状の誤記を逆手に取り「杉原」へと改姓するという巧みな政治感覚で、新しい時代の秩序に家を適応させた。
その人物像は、「猛将」という一言では到底語り尽くせない。鴨居に頭をぶつけるほどの巨躯に馬のような顔という異相を持ち、主君を笑わせるほどの豪放磊落さと人を惹きつける魅力を持ちながら、その内には戦局や政局を冷静に見抜く慧眼を秘めていた。彼は、戦国の遺風を色濃く残す最後の世代の武人でありながら、新しい時代の価値観と秩序を的確に理解し、その中で自らの家と主家を存続させる道を探り続けた、稀有なバランス感覚を持った武将であった。
剛勇にして風流、武骨にして知略に長け、忠義に厚く、そして人間的魅力にあふれる。水原親憲は、上杉家の歴史、ひいては戦国から江戸初期への転換期を語る上で、決して忘れることのできない、深遠な輝きを放つ武将として、再評価されるべきである。