水野勝成は徳川家康の従兄弟。「鬼日向」と恐れられた猛将で、放浪生活を経て徳川に帰参。関ヶ原・大坂の陣・島原の乱で活躍。備後福山藩初代藩主として善政を敷き、88歳で大往生を遂げた。
戦国乱世の終焉から江戸泰平の世へと時代が大きく転換する中で、一人の武将がその両方の時代を、極めて鮮烈な個性をもって駆け抜けた。その名を水野勝成(みずのかつなり)という。「鬼日向(おにひゅうが)」と敵に恐れられた当代随一の猛将でありながら、治世においては「良将の中の良将」と讃えられた稀代の名君 1 。彼の生涯は、まさに「事実は小説よりも奇なり」という言葉を体現したかのような、波瀾万丈の物語である 2 。
徳川家康の従兄弟という、輝かしい血筋に生まれながら 4 、若くして父との確執から勘当され、15年にも及ぶ過酷な放浪生活に身を投じる 6 。その間、仙石秀久、佐々成政、小西行長、加藤清正、黒田孝高といった名だたる大名家を渡り歩き、自らの武勇のみを頼りに生き抜いたその姿は、「戦国最強のフリーランス」と呼ぶにふさわしい 2 。
やがて徳川家へ帰参を果たすと、関ヶ原の戦い、大坂の陣、そして島原の乱といった、徳川の世の礎を固める重要な戦いで、他の追随を許さぬ武功を挙げる。しかし、その一方で、大将の身でありながら軍令を無視して自ら先陣に立つなど、組織人としては破格の行動を繰り返し、主君を悩ませ続けた 9 。
ところが、ひとたび備後福山10万石の藩主となるや、その姿は一変する。戦場で培った決断力と、放浪時代に得た民衆への深い洞察力を武器に、城郭の建設、全国でも最初期とされる上水道網の整備や藩札の発行、そして数々の産業振興策を断行し、荒涼とした土地を豊かな国へと変貌させたのである 11 。
本報告書は、この水野勝成という、猛将と名君、破壊と創造という、一見矛盾した二つの顔を持つ人物の生涯を徹底的に追跡するものである。その破天荒な行動の背後にあった人間性、特に15年間の流浪生活が彼の統治哲学に与えた影響を深く分析し、彼が日本の歴史に残した真の遺産とは何であったのかを解き明かすことを目的とする。
和暦(西暦) |
年齢 |
主な出来事 |
永禄7年(1564) |
1歳 |
三河国にて水野忠重の嫡男として生まれる。徳川家康とは従兄弟 2 。 |
天正7年(1579) |
16歳 |
遠江高天神城攻めで初陣を飾る 6 。 |
天正9年(1581) |
18歳 |
第二次高天神城の戦いで武功を挙げ、織田信長から感状と刀を賜る 15 。 |
天正10年(1582) |
19歳 |
天正壬午の乱(黒駒の合戦)で、徳川軍として北条軍と戦い、抜け駆けして大功を立てる 15 。 |
天正12年(1584) |
21歳 |
小牧・長久手の戦いで軍令違反。蟹江城合戦後、父・忠重の寵臣を斬殺し勘当され、出奔。「奉公構」の処分を受ける 13 。 |
天正13年(1585) |
22歳 |
豊臣秀吉に仕え、四国征伐などで活躍。摂津に728石の知行を得るも、後に逃亡 17 。 |
天正15年(1587) |
24歳 |
九州に渡り、肥後の佐々成政に1000石で仕える。肥後国人一揆の鎮圧で活躍 2 。 |
天正16年(1588) |
25歳 |
小西行長に1000石で仕える。天正天草合戦で活躍 16 。 |
天正17年(1589) |
26歳 |
加藤清正、立花宗茂、黒田孝高(官兵衛)に仕えるも、いずれも長続きせず出奔 2 。 |
文禄3年(1594) |
31歳 |
備中国成羽の三村親成の食客となる。世話役の娘・於登久との間に嫡男・勝俊が生まれる 6 。 |
慶長4年(1599) |
36歳 |
徳川家康の仲介で父・忠重と15年ぶりに和解し、水野家に帰参する 6 。 |
慶長5年(1600) |
37歳 |
父・忠重が暗殺され、家督を相続し三河刈谷3万石の藩主となる。関ヶ原の戦いでは大垣城攻めで功を挙げる 11 。 |
慶長6年(1601) |
38歳 |
従五位下日向守に叙任される。以後「鬼日向」と渾名される 15 。 |
慶長19年(1614) |
51歳 |
大坂冬の陣に参陣 3 。 |
元和元年(1615) |
52歳 |
大坂夏の陣で大和方面軍の先鋒大将を務める。軍令を無視して一番乗りを果たし、後藤又兵衛隊を破るなど大活躍 9 。戦功により大和郡山6万石に加増転封 12 。 |
元和5年(1619) |
56歳 |
備後福山10万石に加増転封。初代福山藩主となる 11 。 |
元和8年(1622) |
59歳 |
福山城を完成させ、地名を「福山」と命名。城下町、上水道などの整備を進める 1 。 |
寛永7年(1630) |
67歳 |
全国でも最初期とされる藩札を発行したと伝わる 26 。 |
寛永15年(1638) |
75歳 |
島原の乱に幕府の要請で参陣。総攻撃を献策し、乱の鎮圧に貢献する 10 。 |
寛永16年(1639) |
76歳 |
家督を嫡男・勝俊に譲り隠居。号を一分齋とする 15 。 |
慶安4年(1651) |
88歳 |
福山城にて死去。賢忠寺に葬られる 12 。 |
水野勝成の生涯を理解する上で、その出自は極めて重要な意味を持つ。彼は永禄7年(1564年)、水野忠重の嫡男として生を受けた 5 。生誕地については三河国刈谷(現在の愛知県刈谷市)とする説が一般的だが、父・忠重が当時、同国の岡崎に住んでいたという記録もあり、正確な場所には若干の異説も存在する 16 。
彼の家系で特筆すべきは、徳川宗家との密接な血縁関係である。勝成の父・忠重の姉、すなわち勝成の伯母にあたる於大の方は、徳川家康の生母であった 3 。これにより、勝成と家康は従兄弟という、当時の武家社会において極めて強固な縁で結ばれていた。この関係は、後の彼の波乱に満ちた人生において、幾度となく重要な役割を果たすことになる。
父である水野忠重もまた、戦国乱世を生き抜いた典型的な武将であった。彼は兄・信元との不和から一時は徳川家を離れ、織田信長に仕え、本能寺の変後は再び家康に属し、後には豊臣秀吉の直臣ともなるなど、主家を渡り歩いた経歴を持つ 18 。このような父の生き様は、特定の主君に生涯を捧げるという価値観が絶対ではなかった時代の空気を、勝成が幼い頃から肌で感じる環境にあったことを示唆している。恵まれた血筋と、戦国の現実を体現する父。この二つの要素が、若き勝成の中に、後の反骨精神の萌芽を育んだのかもしれない。
勝成の武人としての才能は、早くから開花した。天正7年(1579年)、16歳にして遠江高天神城攻めに従軍し、初陣を飾る 14 。この時は大きな戦闘には至らなかったが、翌天正8年(1580年)から本格化した第二次高天神城の戦いでは、10代半ばにして敵の首級を挙げるという鮮烈な活躍を見せた 3 。この功績は時の天下人・織田信長の耳にも達し、直々に感状と刀を賜るという、若武者としては破格の栄誉に浴している 8 。
彼の武勇と、そして規律よりも個人の武功を優先する気質がより顕著に現れたのが、天正10年(1582年)の本能寺の変後に起きた天正壬午の乱である。甲斐・信濃を巡る徳川と北条の争いの中で、勝成は徳川軍の一員として黒駒の合戦に参加した。この時、徳川家の重臣である鳥居元忠が、勝成の部隊に知らせずに自軍だけで抜け駆けを行った。これを知った勝成は、元忠の指揮を無視することは軍令違反であると知りながらも、「抜け駆けされた」と激怒。結局、自らも敵陣に単独で突入し、一説には約300もの首級を挙げるという、常軌を逸した武功を立てた 8 。
この逸話は、彼の並外れた戦闘能力と同時に、名誉を重んじ、たとえ相手が重臣であっても自らの矜持を貫こうとする、強烈な独立心と反骨精神を象徴している。信長に認められた才能と、誰にも抑えられない激情。この二つを併せ持った若き勝成は、輝かしい未来が約束されたエリートでありながら、同時にいつ爆発してもおかしくない危険な存在でもあった。
若き勝成の強烈な自我は、やがて実の父・忠重との間で決定的な破局を迎える。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いは、その引き金となった。当時、目を患っていた勝成は、兜を被らずに戦場に出た。これを見た父・忠重は、陣中において「お前の兜は小便壺にでもしたのか」と厳しく叱責した 9 。この屈辱的な言葉に、勝成の自尊心は激しく傷つけられた。彼はその場で「兜がなく討たれても時の運。一番首を取るか、自分が取られるか見ておれ」と言い放ち、父の軍勢を離れて敵陣に一番乗りを果たし、その首を総大将である家康の前に直接持参したという 15 。
この一件で生じた亀裂は、同年の蟹江城合戦後の桑名(三重県)の陣中において、修復不可能なものとなる。勝成の度重なる軍令違反や素行不良を、父の寵臣であった富永半兵衛が忠重に告げ口した。これに逆上した勝成は、なんと富永を斬殺してしまう 13 。
息子の度を越した凶行に、父・忠重の怒りは頂点に達した。彼は勝成を勘当するに留まらず、他家への仕官一切を禁じる「奉公構(ほうこうがまえ)」という、極めて過酷な処分を下したのである 9 。これは、武士としての社会的な生命を絶つに等しい処置であった。家康の従兄弟という恵まれた立場にありながら、自らの激情によってその全てを失い、21歳の勝成は、たった一人で荒野へと放り出されることになった。この自ら招いた苦難こそが、後の彼を類稀な人物へと鍛え上げていく、長く厳しい試練の始まりであった。
父・忠重による「奉公構」という、武士社会からの事実上の追放宣告を受け、水野勝成の15年間にわたる流浪の旅が始まった 6 。家も名も失った彼が頼れるものは、ただ己の腕一本であった。
出奔後、彼はまず織田信雄、次いで家康に仕官を試みるが、父の横槍が入りいずれも叶わなかった 18 。その後、彼は豊臣秀吉の配下に入り、紀州征伐や四国征伐で武功を挙げ、一時は摂津国に700石余りの知行を与えられるほどの評価を得る 18 。年商5千万円ほどにも相当する厚遇であったが 8 、父・忠重が秀吉の直臣となると、勘当された父と同じ主君に仕えることを潔しとせず、その地位をあっさりと捨てて再び流浪の身となる 19 。一説には、この逃亡が秀吉の怒りを買い、刺客を放たれたとまで言われている 17 。
金や名誉では、彼の自由な魂を縛ることはできなかった。彼は九州へと渡り、ここから彼の「戦国最強のフリーランス」としてのキャリアが本格化する。肥後熊本城主・佐々成政に1000石で召し抱えられたのを皮切りに、その後は小西行長(1000石)、加藤清正、立花宗茂、そして豊前の黒田孝高(官兵衛)と、いずれも当代きっての名だたる武将たちのもとを、傭兵のように渡り歩いた 2 。黒田家に仕えた際には、後に大坂の陣で宿敵として再会することになる猛将・後藤又兵衛と殿(しんがり)の役を争うなど、常に最前線でその武勇を轟かせた 2 。
この豪華な仕官先の顔ぶれは、父による「奉公構」という足枷がありながらも、それを上回るほどに勝成の武名が広く知れ渡っていたことの証左である。しかし、彼はどの家にも定着することなく、輝かしい戦績を残しては忽然と姿を消す、ということを繰り返した。それは、彼の束縛を嫌う天性の気質に加え、一つの場所に留まることの危険性を本能的に察知していたからかもしれない。
勝成の武勇は、流浪の身であっても全く錆びつくことはなかった。特に九州での戦歴は、彼の戦闘能力が本物であったことを雄弁に物語っている。
天正15年(1587年)、佐々成政の配下として肥後国人一揆の鎮圧に参加。菊池城攻めでは一番槍の功名を挙げ、隈本城が包囲された際には救援部隊の先鋒として敵を追い払うなど、縦横無尽の活躍を見せた 2 。
佐々成政が一揆の責任を問われて切腹させられた後、天正16年(1588年)からは新たに肥後に入った小西行長に仕える。翌年に天正天草合戦が勃発すると、行長の弟・小西主殿介の副将として出陣。加藤清正の援軍と共に志岐城を攻略し、天草種元の本拠地である本渡城を陥落させるなど、合戦の勝利に大きく貢献した 2 。
これらの戦いにおいて、彼は常に最前線で具体的な戦功を挙げ続けている。それは、彼が諸大名から禄を以て迎えられた理由を裏付けるものであり、同時に、この九州での過酷な実戦経験が、彼の戦術家としての視野をさらに広げ、磨きをかけたことは想像に難くない。
輝かしい戦歴を重ねる一方で、勝成の放浪生活には謎に包まれた雌伏の期間も存在する。九州の諸大名のもとを去った後、彼は備後・備中(現在の広島県東部・岡山県西部)地方を流浪した。この時期の彼については、尺八を吹きながら喜捨を請う虚無僧(こむそう)の姿で諸国を巡った、あるいは姫谷焼の陶工として糊口をしのいだ、果ては大坂で盗みを働いていたなど、真偽不明ながらも彼の困窮ぶりを伝える数々の伝説が残されている 4 。
こうした流浪の果てに、文禄3年(1594年)、彼は備中国成羽(なりわ)の国人領主・三村親成の食客として、ようやく安住の地を得る 2 。しかし、ここでも彼の激情家の気質は変わらなかった。月見の宴席で、茶坊主の作法が無礼だとして斬り捨て、またもや出奔してしまう。だが、不思議なことに翌年には再び三村家に戻り、食客として迎え入れられている。彼の並外れた武勇と、どこか憎めない人間性が、三村親成を惹きつけたのかもしれない。
そしてこの成羽の地で、彼の人生における最大の転機が訪れる。彼の世話役を務めていた於登久(おとく)という娘との間に、後の福山藩二代藩主となる嫡男・勝俊(幼名・長吉)が誕生したのである 2 。それまで己の武のみを頼りに生きてきた一匹狼の放浪者に、「守るべき家族」と「継承すべき未来」という新たな視点が与えられた瞬間であった。この子の存在が、彼を単なる荒武者から、家を背負う責任感を持つ人物へと変容させる、大きなきっかけとなったことは間違いない。15年に及んだ長く暗いトンネルの先に、ようやく再起の光が見え始めていた。
豊臣秀吉が慶長3年(1598年)に没し、天下の情勢が徳川家康へと大きく傾き始めると、水野勝成の運命もまた劇的に転回する。秀吉の死後、勝成は潜伏先から上洛し、京都の伏見城で従兄弟である家康に謁見した 15 。天下取りに向けて、武勇に優れた人材を一人でも多く確保したい家康にとって、勝成はまさにうってつけの存在であった。家康自らの、あるいは彼の意を受けた家臣・山岡景友の仲介により、勝成は父・忠重と対面。実に15年ぶりとなる親子の和解が成立し、ついに水野家への帰参が許されたのである 6 。
しかし、運命の皮肉か、この和解の時間は長くは続かなかった。慶長5年(1600年)、家康が会津の上杉景勝討伐の兵を挙げると、勝成もその一員として従軍。下野国小山(現在の栃木県小山市)に在陣中、衝撃的な報せが届く。父・忠重が、三河国池鯉鮒(ちりゅう)での酒宴の席で、西軍に通じた加賀野井重望によって暗殺されたというのである 6 。
悲しみに暮れる暇もなく、勝成は家康の許可を得て直ちに本国へ帰還。37歳にして、図らずも父の遺領である三河刈谷3万石を継ぎ、水野家の当主となった 12 。15年の放浪の末に手にしたのは、父との和解と、その直後の永遠の別れ、そして天下分け目の戦いを目前にした大名の座であった。彼は、否応なく徳川体制の中核を担う武将として、歴史の表舞台へと押し出されたのである。
家督を継いだ勝成は、直後に勃発した関ヶ原の戦いへと出陣する。彼の武勇を考えれば、本戦での先鋒を望んだであろうことは想像に難くない。しかし、家康は彼に本戦への参加を許さず、西軍の拠点である大垣城(岐阜県大垣市)の抑えという、後方支援の任を命じた 8 。これは、彼の激情的な性格を熟知する家康が、勝手な行動で東軍全体の戦線を混乱させることを危惧したためとも言われている 9 。
だが、勝成はこの地味な任務において、武力一辺倒ではない、知将としての一面を遺憾なく発揮する。9月14日深夜、石田三成ら西軍の主力が関ヶ原へ向けて出陣した隙を突き、彼は松平康長らと共に大垣城へ猛攻を仕掛け、三の丸を瞬く間に占拠した 16 。
そして、翌15日に関ヶ原での東軍勝利の報が届くと、勝成の真骨頂が発揮される。彼は籠城する西軍諸将との降伏交渉の任を担った。ここで活きたのが、15年間の放浪で培った人脈であった。城将の一人であった秋月種長は、かつて勝成が九州を放浪していた時代の旧知の仲だったのである 3 。勝成の巧みな説得により、秋月種長をはじめとする複数の将が東軍に内応。これにより、堅城であった大垣城は、最小限の犠牲で開城に至った。
この一連の働きは、彼が単なる猛将ではなく、人心を読み、交渉によって目的を達成する智略をも持ち合わせていることを家康に示す絶好の機会となった。さらにこの戦いの過程で、父の仇である加賀野井重望の息子を討ち取ったとも 11 、敵将・福原長堯から名刀「名物日向正宗」(国宝)を戦利品として得たとも伝えられている 29 。武勇だけではない、彼の多面的な能力が、天下分け目の戦いで大きな功績を挙げさせたのである。
関ヶ原の戦後、勝成はその功績を認められ、慶長6年(1601年)に従五位下日向守(ひゅうがのかみ)に叙任された 3 。この「日向守」という官位は、本能寺の変を起こした逆臣・明智光秀が名乗っていたため、武士の間では縁起が悪いと避けられていた。しかし、勝成はそうした世間の迷信を意にも介さず、笑い飛ばして喜んで拝命したという 8 。この豪胆さと、戦場での鬼神の如き勇猛さから、彼はやがて「鬼日向」と渾名されるようになる 1 。
彼の「鬼」としての本能が最も激しく発揮されたのが、元和元年(1615年)の大坂夏の陣であった。この時、彼は大和方面軍の先鋒大将という、軍の最高責任者の一人に任じられていた。彼の性格を知る家康は、事前に「大将なのだから、昔のように自ら先頭に立って戦ってはならん」と、強く釘を刺していた 9 。
しかし、戦の火蓋が切られると、勝成の戦人としての血が命令を凌駕した。道明寺の戦いにおいて、彼は51歳という年齢にもかかわらず、家康の命令を完全に無視。自ら一番槍を手に敵陣に突撃し、かつて黒田家で戦功を競い合った旧知の猛将・後藤又兵衛(基次)の部隊と激突、これを壊滅させた 9 。その後も勢いは止まらず、薄田兼相の部隊を打ち破り、真田信繁(幸村)軍の退路を断つなど、獅子奮迅の働きを見せる。そしてついには、大坂城の桜門に一番旗を掲げるという大功を立てたのである 10 。
この軍令違反の活躍は、家康を激怒させたと同時に、その戦功の大きさを認めざるを得ないものであった。戦後、彼は3万石の加増を受け、大和郡山6万石の領主となる 3 。この処遇は、彼の功績への褒賞であると同時に、命令違反に対する不満が入り混じった、家康の複雑な評価の表れであったのかもしれない。この大坂の陣での「暴走」は、彼の戦国武将としての、最後の、そして最も鮮烈な輝きであった。
大坂の陣が終結し、徳川による泰平の世が盤石のものとなると、水野勝成の役割もまた、戦場の勇士から国家鎮護の重鎮へと変化する。元和5年(1619年)、幕府は広島城の無断修築を咎めて福島正則を改易。その旧領である安芸・備後を分割し、備後南部の要衝に、勝成を大和郡山6万石から4万石加増した10万石の大名として入封させた 11 。
この配置は、単なる加増転封ではなかった。備後の地は、西国に睨みを利かせる毛利家をはじめとする有力外様大名への備えとなる、極めて重要な戦略拠点であった。幕府がこの地に、徳川家親藩であり、かつ比類なき実戦経験を持つ勝成を送り込んだのは、彼を「西国の鎮衛(さいごくのちんえい)」、すなわち西日本を監視し、有事にはこれを鎮圧する司令官として絶大な信頼を寄せていたことの証左である 24 。軍令違反の常習者であった彼が、幕府の防衛戦略の要に据えられたという事実は、彼の持つ圧倒的な戦闘能力と突破力が、組織の論理を超えて評価されていたことを物語っている。
福山の地に入った勝成は、そのエネルギーを新たな城と町の創造へと注ぎ込んだ。彼は、当時まだ広大な干潟が広がる常興寺山を築城の地に定め、元和8年(1622年)までの4年近い歳月を費やして、壮麗な福山城を完成させた 1 。この城は、五重の天守を中心に多数の櫓が林立する、10万石の大名の居城としては破格の規模を誇るものであった 11 。これは、武家諸法度によって原則禁止されていた新規築城が、幕府の特命によって例外的に認められた、近世城郭の最後期を飾る傑作である 11 。その威容は、西国の諸大名に対する幕府の権威を示すための、まさに「見せる城」であった。
城の完成と並行して、勝成は合理的な城下町の建設にも着手する。特筆すべきは、その画期的な入植政策である。彼は、干潟を埋め立てて新たに造成された城下の土地に入植した者に対し、土地にかかる税金である地子銭(じしせん、現在の固定資産税に相当)を永代にわたって免除するという大胆な布告を出した 4 。この政策は絶大な効果を発揮し、各地から商人や職人が集まり、城下は急速に発展した。放浪時代に民の苦労を肌で知った彼ならではの、人心の機微を捉えた経済振興策であり、彼の統治者としての非凡な才能を示す最初の事例となった。
勝成の藩主としての手腕は、城や町の建設に留まらなかった。彼は、領民の生活と藩の財政を豊かにするための、極めて先進的かつ実践的な政策を次々と打ち出していく。
第一に、 上水道の整備 である。城下町は海沿いの埋立地であったため、良質な井戸水を確保することが困難であった。この問題を解決するため、勝成は福山城の西を流れる芦田川から水を引き、貯水池(蓮池、通称どんどん池)を経て城下全域に配水する、大規模な上水道網(福山旧水道)を築城と同時に整備した 12 。これは全国でも有数の古さを誇る上水道であり 41 、民衆の生活衛生を劇的に改善し、都市の発展を支える生命線となった。
第二に、 藩札の発行 である。藩の財政基盤を固め、領内の経済を円滑化させるため、勝成は全国でも最初期とされる藩札(領内でのみ通用する紙幣)を発行した 11 。史料によれば、その発行は寛永7年(1630年)とされ、これまで最古とされてきた福井藩よりも早いという説が有力である 26 。この福山藩札は信用が高く、隣接する他領でも通用したと記録されており、彼の経済政策が先進的かつ成功裏であったことを示している 26 。
第三に、 産業の振興 である。彼は芦田川の治水工事や干拓による新田開発を精力的に行い、藩の実質的な石高を約3万石も増加させた 24 。さらに、その土地の特性を活かし、い草(びんご畳表の原料)、綿花(備後絣の原料)、そして自らの放浪経験からその価値を知っていたタバコなどの栽培を奨励し、福山藩を代表する特産品へと育て上げた 2 。
これらの政策は、戦場で培った大局観と決断力、そして放浪時代に得た実地の知識と民衆の視点とが、藩政という新たな舞台で見事に融合した結果であった。「鬼日向」は、領民の生活を豊かにする「創造主」へと、その姿を大きく変貌させたのである。
水野勝成の治世が、いかに領民に受け入れられていたか。その何よりの証拠は、江戸時代を通じて頻発した百姓一揆が、彼の治世下ではただの一度も起こらなかったという事実である 13 。
彼の統治方法は、法や権力で民を縛り付けるものではなかった。隣国備前岡山藩の名君として知られる池田光政が、福山藩の様子を密かに探らせた際の逸話が残っている。光政は、勝成の領内では監視役の役人も置かれず、家臣に誓詞を書かせることもなく、厳しい法令も出していないにもかかわらず、藩内が平穏で家臣たちが生き生きと働いていることに深く感心し、「勝成こそ良将の中の良将である」と讃えたという 2 。
これは、勝成が放浪生活を通じて学んだ「信頼関係の重要性」を、藩政の根幹に据えていたからに他ならない。彼は、戦場で命を預けてくれる家臣を平時には労り、民の生活を豊かにすることこそが統治の基本であると理解していた。武力によって敵を打ち破る能力は、見事に民を豊かにし、国を治める能力へと昇華された。かつての荒武者は、誰もが認める名君として、その評価を不動のものとしたのである。
福山藩主として善政を敷き、穏やかな日々を送っていた勝成であったが、その武人としての魂が、最後の輝きを放つ時が訪れる。寛永15年(1638年)、九州で大規模なキリシタン一揆である「島原の乱」が勃発した 46 。
当初、幕府が派遣した討伐軍は、原城に立てこもる一揆軍の前に苦戦を強いられ、総大将が討ち死にするという失態を演じる 23 。事態を重く見た幕府は、老中・松平信綱を新たな総大将として派遣すると同時に、白羽の矢を立てたのが、実に75歳という高齢の水野勝成であった。九州の大名以外で唯一の出陣要請であり、彼の持つ比類なき戦歴と実戦経験が、この国家的な危機において不可欠であると判断されたのである 10 。
この報せを受けた勝成は、老いを感じさせず、むしろ奮い立ったという。出陣の命を伝える幕府の使者を屋敷で待つことさえせず、自ら馬を走らせて迎えに出たという逸話は、彼の生涯変わることのなかった武人としての気概を物語っている 4 。彼は嫡男の勝俊、孫の勝貞を伴い、水野家三代揃って最後の戦陣へと赴いた 13 。それは、自らが築き上げた徳川の泰平を、自らの手で守り抜くための戦いであった。
勝成が率いる福山藩兵約6000が島原に到着すると、早速、総大将・松平信綱を中心とする軍議が開かれた。多くの将が、兵糧攻めによる持久戦を主張し、戦況は膠着状態にあった。その中で勝成は、ただ一人、即時総攻撃を強く進言した 10 。
彼の主張の根拠は、戦国の修羅場をくぐり抜けてきた者だけが持つ、的確な戦況判断にあった。彼は、一揆軍の士気や兵站の限界を正確に見抜き、戦を長引かせることの不利を説いた。当初は慎重であった信綱も、乱の長期化を憂慮する幕府の意向と、老将勝成の持つ圧倒的な説得力の前に、その献策を受け入れることを決断する。
総攻撃が開始されると、水野勢は最も困難とされる原城本丸の攻略を担当。3日間にわたる壮絶な激戦の末、ついに本丸を陥落させ、乱の鎮圧に決定的な貢献を果たした 10 。一説には、この時、息子の勝俊が本丸への一番乗りを果たしたとも言われている 47 。戦国の生き残りである勝成の的確な判断が、膠着した戦況を打開し、徳川の世を揺るがした最後の大規模な戦乱を終結へと導いたのである。
島原の乱という最後の大役を果たした翌年の寛永16年(1639年)、勝成は76歳で家督を嫡男・勝俊に譲り、隠居生活に入った 12 。しかし、彼が完全に藩政から手を引くことはなかった。彼は、自らの隠居料として与えられた1万石(一説に2万石)のほとんどを、領内の新田開発や用水路の整備といった公共事業に投じ続けたのである 4 。その姿は、彼が名実ともに「福山の父」としての自覚を持ち、生涯を領民のために捧げたことを示している。
隠居後の彼は、京都の大徳寺で禅の修行に励んだり、若い頃から好んだ俳諧や能楽を楽しんだりと、穏やかな日々を送った 13 。しかし、武人としての気骨は最後まで衰えなかった。慶安3年(1650年)、87歳にしてなお、自ら鉄砲を構え、見事に的に命中させて周囲を驚かせたという逸話が残っている 9 。
そして慶安4年(1651年)3月15日、福山城内にて、その波乱に満ちた生涯の幕を閉じた。享年88 12 。数えきれないほどの戦場を駆け抜け、命のやり取りを繰り返してきたとは思えない、戦国武将としては驚異的な長寿を全うしての大往生であった。
水野勝成の生涯を振り返る時、我々はそこに驚くほど多彩な評価が並立していることに気づく。「鬼日向」と恐れられた猛将 1 、既成概念に捉われない「傾奇者」 2 、自らの才覚のみで諸国を渡り歩いた「戦国最強のフリーター」 9 、そして領民から慕われた「良将の中の良将」 2 。これら一見矛盾する評価は、しかし、彼の生涯の異なる局面を捉えたものに過ぎない。
彼の本質は、徳川の血筋という恵まれた出自に安住することなく、強烈な自我と独立心をもって自らの道を切り開こうとした点にある。父との確執から始まった15年間の放浪という最大の逆境は、意図せずして彼に、武家社会の常識だけでは得られない、民衆の生活実感と多様な人間社会への深い洞察を与えた。この経験こそが、彼の人間性を陶冶し、単なる荒武者を、国を治める経世家へと昇華させた原動力であった。彼の人生は、逆境がいかに人間を成長させるかの、歴史上稀に見る好例と言えよう。
水野勝成は、日本の歴史が「武」の時代から「文」の時代へと大きく移行する、まさにその転換点を体現した人物である。彼は、徳川家康による天下統一事業においては、関ヶ原や大坂の陣で活躍する一流の武将として、戦乱の終結に貢献した 3 。そして、幕藩体制が確立されると、今度は西国の要である福山藩の初代藩主として、卓越した内政手腕を発揮し、泰平の世の礎を固める役割を担った 24 。
戦を終わらせるための「戦い」と、泰平を維持するための「統治」。その両方において第一級の実績を残した武将は、数多い戦国大名の中でも極めて少ない。彼の存在なくして、江戸幕府による西国支配の安定は、より困難なものだったかもしれない。彼の生涯そのものが、戦国という時代の終焉と、江戸という新たな時代の始まりを象徴しているのである。
水野勝成が残した遺産は、歴史書の記述の中に留まるものではない。彼が400年以上前に築いた福山城は、1945年の空襲で天守が焼失したものの、戦後に市民の熱意によって復元され、今なお福山市のシンボルとして聳え立っている 36 。彼が整備した城下町の骨格、産業の礎は、現代の福山市の発展へと確かに繋がっている 1 。
彼の功績は、物理的なインフラとしてだけでなく、福山の地に生きる人々の精神的な支柱としても受け継がれている。逆境に屈せず、大胆な発想と決断力で未来を切り開いた初代藩主の物語は、地域への誇りと愛着を育む源泉となっている。水野勝成という一人の破格な人物が残した遺産は、400年の時を超えて、今もなお福山の地で生き続けているのである。
「武」の側面(猛将として) |
「文」の側面(名君として) |
高天神城の武功 : 18歳で敵の首級を挙げ、織田信長から感状を賜る 15 。 |
福山城と城下町建設 : 10万石には破格の規模の福山城を築き、地子銭免除策で城下を発展させる 11 。 |
黒駒合戦の抜け駆け : 軍令を無視して敵陣に突入し、大勝利を収める 17 。 |
上水道整備 : 全国でも最初期とされる大規模な上水道網を整備し、民の生活を安定させる 12 。 |
大坂の陣での一番槍 : 51歳で軍の最高責任者でありながら先陣を切り、後藤又兵衛隊を破る 9 。 |
藩札発行 : 全国初の藩札とされる紙幣を発行し、領内経済を活性化させる 11 。 |
島原の乱での献策 : 75歳で出陣し、的確な献策で膠着した戦況を打開、乱を鎮圧に導く 10 。 |
産業振興と新田開発 : い草や綿花などの特産品を育成し、新田開発で石高を大幅に増加させる 2 。 |
「鬼日向」の異名 : その勇猛さから敵味方に恐れられ、武名を天下に轟かせる 1 。 |
一揆ゼロの実現 : 善政により領民の信頼を得て、治世中に一度も百姓一揆を起こさせなかった 13 。 |