水野忠清(みずの ただきよ)は、天正10年(1582年)に生を受け、正保4年(1647年)にその生涯を閉じた、江戸時代前期の譜代大名である [1, 2]。彼の名は、数多の武勇伝と奇行で「鬼日向」の異名をとった兄・水野勝成の華々しい活躍の影に隠れがちである [3]。しかし、忠清の生涯を丹念に追うとき、そこには戦国の荒々しい気風が薄れ、新たな統治体制が確立されていく時代において、武将として、そして有能な行政官として、着実に徳川幕府の基盤を支えた一人の男の姿が浮かび上がる。
水野氏は、徳川家康の生母・於大の方を輩出した名門であり、徳川家とは極めて近しい姻戚関係にあった [4, 5, 6]。この血縁は、忠清の生涯を通じて有利に作用したことは想像に難くない。彼は、兄が水野宗家の家督を継いだ後、次期将軍・徳川秀忠の直臣となり、上野小幡藩一万石の大名としてそのキャリアを始動させた [7, 8]。その後、大坂の陣での武功とそれに続く蹉跌を乗り越え、三河刈谷藩、三河吉田藩、そして最終的には信濃松本藩七万石へと、着実にその石高を増やしていく [1, 9]。その軌跡は、徳川政権下における譜代大名の、一つの理想的な立身出世の姿を映し出している。
忠清の生涯は、兄・勝成の破天荒な生き様とは実に対照的である。家督を継ぐ身でありながら父と対立し、諸国を放浪した勝成は、その比類なき武勇で名を馳せたが、組織人としては異端の存在であった [3, 10]。一方、宗家を継ぐ立場にない四男・忠清にとって、成功への道は組織への忠誠と着実な功績の積み重ねにあった。彼が選んだのは、将来の権力の中枢である徳川秀忠に直接仕えるという、最も確実かつ賢明な道であった [2, 7]。忠清の「堅実さ」は、単に地味な性格に起因するものではなく、自らの置かれた状況を冷静に分析し、最も成功確率の高い道を選び取った、彼の優れた政治的嗅覚と現実主義の現れと解釈できる。徳川幕府という巨大な組織は、勝成のような規格外の英雄と、忠清のような忠実な官僚という、両輪によってその安定を築き上げていったのである。
本報告書は、この水野忠清の生涯を、出自から徳川家への出仕、大坂の陣での活躍、そして各地の藩主として見せた統治者としての一面まで、あらゆる角度から詳細に解き明かすものである。さらに、彼が創始した大名家が辿った栄光と波乱の歴史を追うことで、一人の武将が後世に遺したものの複雑さと奥深さに迫ることを目的とする。
西暦(和暦) |
年齢 |
出来事 |
官位・役職 |
藩と石高 |
1582年(天正10年) |
1歳 |
三河国刈谷にて、水野忠重の四男として誕生 [1, 7, 11]。 |
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1600年(慶長5年) |
19歳 |
父・忠重が加賀井重望に暗殺される。関ヶ原の戦いに出陣 [1, 7]。 |
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1602年(慶長7年) |
21歳 |
徳川秀忠に仕え、大名となる。従五位下隼人正に叙任 [1, 7, 11]。 |
従五位下隼人正 |
上野国小幡藩 一万石 |
1605年(慶長10年) |
24歳 |
書院番頭に任じられ、奏者番を兼任する [2, 9]。 |
書院番頭、奏者番 |
上野国小幡藩 一万石 |
1614年(慶長19年) |
33歳 |
大坂冬の陣に従軍。秀忠本陣を警護する [2, 12]。 |
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上野国小幡藩 一万石 |
1615年(元和元年) |
34歳 |
大坂夏の陣で大野治房の部隊を破る。論功行賞で青山忠俊と争い閉門 [8, 9]。 |
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上野国小幡藩 一万石 |
1616年(元和2年) |
35歳 |
徳川家康の死の直前に赦免され、加増の上で移封される [9, 13]。 |
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三河国刈谷藩 二万石 |
1626年(寛永3年) |
45歳 |
将軍家光の上洛に供奉し、後水尾天皇の二条城行幸に尽力 [14]。 |
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三河国刈谷藩 二万石 |
1632年(寛永9年) |
51歳 |
加増の上、三河国吉田に移封される [1, 9, 15]。 |
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三河国吉田藩 四万石 |
1634年(寛永11年) |
53歳 |
家光の吉田城宿泊を饗応し、加増される [16, 17]。 |
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三河国吉田藩 四万五千石 |
1637年(寛永14年) |
56歳 |
幕命により吉田城下で寛永通宝を鋳造する [16, 17]。 |
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三河国吉田藩 四万五千石 |
1642年(寛永19年) |
61歳 |
加増の上、信濃国松本に移封される [1, 6, 9]。 |
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信濃国松本藩 七万石 |
1647年(正保4年) |
66歳 |
5月28日、江戸にて死去。墓所は小石川伝通院 [1, 9]。 |
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信濃国松本藩 七万石 |
水野忠清の生涯を理解する上で、彼が生まれた水野家という特異な家系と、彼がキャリアを歩み始めた時代の転換期を把握することは不可欠である。
忠清は、天正10年(1582年)、三河刈谷城主・水野忠重の四男として、その本拠地である刈谷で生を受けた [1, 11, 18]。母は宇川氏と伝わる [2, 11]。水野氏は、徳川家康の母・於大の方の実家であり、徳川家にとって最も信頼すべき外戚の一つであった [15, 19]。父・忠重は家康の叔父にあたり、織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康に仕え、姉川の戦いや三方ヶ原の戦い、小牧・長久手の戦いなど、数々の合戦で武功を挙げた歴戦の将であった [3, 4, 20, 21]。
しかし、慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いを目前に控えた混乱の最中、水野家に悲劇が襲う。父・忠重は、美濃国大垣での酒宴の席で、同席していた加賀井重望に口論の末に斬りつけられ、命を落としたのである [1, 9, 22]。重望は即座に堀尾吉晴らによって討ち取られたが、その懐からは石田三成からの密書が見つかったとされ、この暗殺が西軍による家康方要人の切り崩し工作の一環であった可能性が示唆されている [10]。この父の非業の死は、19歳の忠清にとって、時代の大きなうねりを肌で感じる強烈な体験となったことであろう。
父・忠重の死後、水野宗家の家督は、長年にわたり父との確執から家を出て諸国を放浪し、この時期にようやく徳川家康の仲介で帰参を果たしていた長兄・勝成が継承した [7, 9, 23]。家督を継ぐ立場になかった忠清は、家康の命により、その三男であり、すでに徳川家の後継者として定まっていた徳川秀忠に仕えることとなった [3, 7, 8]。これは、将来の権力の中枢に直結する道であり、四男という立場にあった忠清にとって、自らの未来を切り拓くための最善の選択であった。
関ヶ原の戦いでは、忠清は家康に従って初陣を飾る [1, 11, 14]。戦後、その功績と水野家という出自が評価され、慶長7年(1602年)、秀忠から上野国小幡(現在の群馬県甘楽町)に一万石の所領を与えられ、21歳の若さで大名の仲間入りを果たした [1, 7, 8]。同年、従五位下隼人正に叙任される [2, 11]。さらに慶長10年(1605年)には、将軍の親衛隊ともいえる書院番の番頭に任じられ、諸大名や旗本が将軍に奏上事を取り次ぐ役職である奏者番を兼務することになる [2, 8, 9]。これにより、忠清は秀忠の側近としての地位を確固たるものにした。
忠清のキャリア形成を考える上で、もう一人の兄、次兄・忠胤の存在を無視することはできない。忠胤もまた、関ヶ原の戦功により三河国内に一万石を与えられた大名であり、幕府の大番頭を務めていた [24, 25]。しかし、慶長14年(1609年)、忠胤の江戸屋敷で開かれた宴席において、彼の配下の者が些細なことから浜松藩主・松平忠頼を殺害するという事件が発生した [24, 26]。この事件で、忠胤は家臣の監督不行き届きという重い責任を問われ、切腹を命じられ、家は改易となった [25, 26]。この兄の悲劇的な末路は、忠清に大きな教訓を与えたはずである。江戸幕府初期の社会では、武功を立てることと同じくらい、あるいはそれ以上に、家中の統制を保ち、将軍の信頼を損なわないよう堅実に務めを果たすことが重要であった。兄・忠胤の失脚は、忠清のその後の慎重で実直な行動様式を形成する一因となった可能性は高い。彼は、破天荒な長兄・勝成と、不祥事で身を滅ぼした次兄・忠胤という二つの対照的な姿を見ながら、自らの歩むべき道を定めていったのである。
徳川秀忠の側近として着実にキャリアを積んでいた水野忠清にとって、武将としての真価が問われる最大の舞台が、慶長19年(1614年)から元和元年(1615年)にかけて行われた大坂の陣であった。この戦いでの彼の活躍と、その直後に経験した大きな挫折、そして劇的な復活は、彼の生涯におけるハイライトと言える。
慶長19年の大坂冬の陣において、忠清は将軍・秀忠の本陣が置かれた岡山砦の警備という重要な任に就いた [2, 12]。これは、秀忠の側近として深い信頼を得ていたことの証左である。
戦が膠着し、和議を経て再び開戦となった元和元年の大坂夏の陣では、忠清はより積極的な役割を担う。最終決戦となった天王寺・岡山の戦いにおいて、彼は徳川方の旗本勢の先陣を務め、阿倍野方面に布陣した [8, 27]。ここで忠清の部隊は、豊臣方の主力を担う猛将・大野治房の軍勢と激突する。激戦の末、忠清は治房の部隊を打ち破り、敵兵の首級を一つ挙げるという大きな武功を立てた [8, 9]。
一部で、忠清がこの戦いで大野治房自身を討ち取ったとする説が流布しているが、これは史実とは異なる [28]。大野治房は夏の陣の落城後も生き延び、大坂城から脱出した後、京都近郊で捕縛され斬首されたと記録されている [29]。したがって、忠清の功績は「大野治房の部隊に壊滅的な打撃を与えた」と理解するのが正確であり、総大将格の部隊を破ったという点で、その軍功の価値が些かも損なわれるものではない。
輝かしい武功を挙げた忠清であったが、その直後、彼のキャリアを揺るがす事件が起こる。戦後の論功行賞を巡って、同じく秀忠の側近であった青山忠俊と、どちらの功が上であるかで激しい口論を繰り広げたのである [8, 9, 12, 13]。青山忠俊は、秀忠が将軍になる以前からの傅役(教育係)であり、秀忠が最も信頼を置く重臣の一人であった。その人物と戦功を公然と争う行為は、将軍・秀忠の逆鱗に触れた。結果、忠清と忠俊は共に閉門(自宅謹慎)という厳しい処分を命じられてしまう [8, 9]。
この事件は、忠清が単なる従順な官僚ではなく、自らの武功に高い矜持を持ち、それを譲らない激しい気性をも併せ持っていたことを示している。しかし、将軍の最側近と対立することは、彼の政治生命を脅かす極めて危険な行為であった。一歩間違えれば、兄・忠胤のように改易の憂き目に遭う可能性すらあったのである。
絶体絶命の窮地に陥った忠清に、思わぬ救いの手が差し伸べられる。元和2年(1616年)、大御所・徳川家康が駿府城で死の床に就いた際、忠清は閉門中の身でありながら、その枕元に呼び出されたのである [13]。
家康は、今際の際に、忠清に対して直々にその閉門を解くことを告げた。そして、父・忠重が長年にわたって徳川家に尽くした功績と、忠清自身が大坂の陣で立てた軍功を賞賛し、一万石を加増して故郷である三河刈谷の城主とすることを伝えたという [9, 13]。
この家康による死の直前の赦免は、単なる温情によるものではない。そこには、幕府の将来を見据えた高度な政治的判断があった。家康は、秀忠が率いる新政権の基盤を磐石にするため、忠清のような有能な譜代大名を一人でも多く必要としていた。父・忠重の代からの功績 [21] と、水野家という特別な姻戚関係を考慮すれば、忠清を失うことは徳川家にとって大きな損失であった。秀忠が下した厳しい処分を、大御所である家康が自らの死をもって覆す。これにより、忠清に大きな恩を売ると同時に、将軍・秀忠の面子も保つという、絶妙な政治的采配であった。この劇的な赦免劇によって、忠清は武将としてのキャリアを断絶させることなく、新たなステージへと進むことができたのである。
大坂の陣での武功とそれに続く危機を乗り越えた水野忠清は、以後、武将としてだけでなく、領国を経営する統治者・行政官としてその手腕を発揮していく。彼の藩主としての経歴は、着実な加増と移封に彩られており、幕府からの厚い信頼を物語っている。
家康による赦免と一万石の加増を受け、忠清は元和2年(1616年)、二万石の領主として三河刈谷に入封した [1, 9, 14, 15]。刈谷は兄・勝成がかつて治め、そして何よりも自らが生まれた故郷である。この移封は、彼にとって名誉ある凱旋であった。刈谷藩主としての忠清の領地は、碧海郡を中心に、現在の刈谷市、安城市、豊田市、知立市、高浜市にまたがる30ヶ村に及んだ [18]。
この時期、忠清は幕府の公務においても重要な役割を果たしている。寛永3年(1626年)、三代将軍・徳川家光が上洛した際にはこれに供奉し、後水尾天皇が二条城に行幸するという歴史的な行事の成功に尽力した [14]。これは、彼が将軍家の儀礼を支える重臣の一人として認識されていたことを示している。
寛永9年(1632年)、忠清は二万石を加増され、合計四万石で三河吉田(現在の豊橋市)へ移封となる [1, 9, 16, 30]。さらに寛永11年(1634年)、将軍家光が上洛の帰途に吉田城に宿泊した際、忠清はその饗応の任を見事に果たした。この功により、さらに五千石を加増され、吉田藩は四万五千石となった [16, 17]。
吉田藩主時代の忠清の治績で特筆すべきは、幕府の経済政策の一翼を担ったことである。寛永13年(1636年)、幕府は全国的な統一通貨である「寛永通宝」の鋳造を拡大する方針を決定した。翌14年(1637年)、幕府は水戸、仙台、長門など全国の有力藩と並んで、吉田にも鋳銭所を設置することを命じた [17, 31]。忠清はこれを受け、吉田城下の白山権現社の境内に銭座(ぜにざ)を開設し、3年間にわたって寛永通宝の鋳造を行った [16, 17]。この一帯は後に「新銭町」と呼ばれた [17]。
貨幣の鋳造は、不正が許されない国家の根幹に関わる事業である。これを任されたということは、幕府が忠清の統治能力と忠誠心を極めて高く評価し、国家的な重要プロジェクトを託すに足る人物と見なしていたことの何よりの証拠である。この事実は、彼が単なる武功の士ではなく、幕府の信頼を得た有能な行政官僚であったことを明確に示している。このほか、領内で鷹狩りを行うなど、大名としての威光を示した記録も残っている [32]。
寛永19年(1642年)7月、忠清はその功績を認められ、さらに加増を受けて信濃松本七万石の大名として移封された [1, 6, 9, 14]。これが彼のキャリアの頂点であった。松本藩主として、彼は藩の財政基盤を確立するため、大規模な領内総検地(慶安検地)の準備に着手したとされる [6, 33]。この検地は彼の代では完了せず、その死後、跡を継いだ息子の忠職の代で本格的に実施されることとなる [9, 34, 35]。
松本藩主となって5年後の正保4年(1647年)5月28日、忠清は江戸の藩邸にて66年の生涯を閉じた [1, 9]。その亡骸は、徳川家と水野家ゆかりの寺である江戸小石川の伝通院に葬られた [9, 14]。彼の生涯は、戦国の武将としてキャリアを始め、泰平の世の到来と共に優れた行政官へと自己を変革させ、幕府の安定に実務レベルで貢献した、まさに移行期の理想的な大名の姿であった。
水野忠清の官歴や治績は比較的詳細に記録されている一方で、彼の人間性や性格を伝える個人的な逸話は驚くほど少ない。しかし、この「記録の少なさ」こそが、彼の人物像を理解する上で最も重要な鍵となる。彼は、後世に物語として語られることよりも、現実の職務を全うし、家と領地を安定させることを優先した、極めて現実主義的な人物であった。
兄・勝成が「鬼日向」と恐れられ、数々の武勇伝や、大将でありながら自ら一番槍を遂げるなどの奇行で知られているのとは対照的である [3, 36, 37, 38]。忠清に関する記録は、叙任、加増、移封といった公式なものがほとんどを占める [1, 11]。これは、彼が幕府という官僚機構の中で、目立つ行動を避け、波風を立てずに着実にキャリアを築くことに専心していたことの証左と言えよう。彼の目標は、兄のような「英雄」になることではなく、幕府にとって「有能な譜代大名」として家を盤石にすることであった。
しかし、彼が決して意気地のない従順なだけの人物でなかったことは、大坂の陣後の逸話が示している。将軍の傅役であった青山忠俊と一歩も引かずに戦功を争った態度は、自らの働きに対する強い自負と、武人としての激しい気性を内に秘めていたことを物語る [8, 13]。彼は、守るべき一線や自らの名誉が脅かされたときには、敢然と立ち向かう矜持を持っていた。普段の物静かな態度は、彼の思慮深さと自制心の表れであり、決して気概の欠如を意味するものではなかった。
統治者としての忠清は、計画性と実務能力に長けた人物であった。上野小幡から三河刈谷、三河吉田、信濃松本へと、治める藩の規模が大きくなるにつれて着実に実績を積み重ねたことは、彼が優れた統治能力と高い適応力を持っていたことを証明している [1, 9]。特に、吉田藩での寛永通宝の鋳造という国家事業を成功させたこと [16, 17]、そして松本藩で大規模な検地の基礎を築いたこと [33] は、その能力の高さを如実に示している。
同時代の人物による直接的な評価は乏しいが、彼の生涯の軌跡から浮かび上がるのは、新しい時代が求めるリーダー像である。戦国の世が終わり、武勇よりも統治能力が重視される時代へと移行する中で、忠清は求められる役割を見事に演じきった。彼の「逸話の少なさ」は、彼が個人の名声よりも組織の安定と秩序を重んじる、新しいタイプの武家官僚の理想像を体現していたことの証である。彼の「地味さ」こそが、泰平の世を生き抜くための最大の武器であり、成功の要因であったと言えるだろう。
水野忠清が一代で築き上げた七万石の大名家は、彼の死後、栄光と波乱に満ちた運命を辿ることになる。その歴史は、創業者の遺産がいかに偉大であっても、後継者の資質や時代の変化によって家の運命が大きく左右されるという、武家の世界の厳しさを示している。
忠清の死後、家督は子の忠職が継いだ [1, 9]。忠職は父の遺志を継ぎ、慶安2年(1649年)から大規模な総検地(慶安検地)を断行し、藩の財政基盤の確立に努めた [9, 34, 35]。
しかし、三代藩主・忠直(忠清の孫)の時代、藩政は大きな試練を迎える。貞享3年(1686年)、凶作にもかかわらず年貢の増徴を決定したことに領民が反発。安曇郡中萱村の庄屋・多田加助を指導者とする大規模な百姓一揆、いわゆる「貞享騒動(加助騒動)」が発生した [9, 13, 39]。藩側は一旦要求を受け入れたものの、後に約束を反故にして加助ら首謀者とその家族を含む28名を処刑するという厳しい処断を下した [13, 39]。この事件は、藩政の矛盾と領民の不満が噴出したものであり、水野家の統治に暗い影を落とした。
水野家に最大の危機が訪れたのは、六代藩主・忠恒(ただつね、忠清の玄孫)の代であった。享保10年(1725年)、忠恒は江戸城内の松の廊下で、長州藩世子の毛利師就に理由なく斬りかかるという刃傷事件を起こした [13, 15, 40]。
この事件により、幕府は水野家に即刻改易(領地没収)という最も重い処分を下した [13, 15]。忠清が築き上げ、その後5代にわたって維持されてきた信濃松本七万石の水野家は、ここに終わりを告げたのである。
しかし、水野家の血脈は完全には途絶えなかった。家名は忠恒の叔父にあたる忠穀(ただよし)が七千石の旗本として継承することを許された [13, 15, 39]。
そして、改易から約40年後、水野家は劇的な復活を遂げる。八代当主となった忠友は、時の権力者であった老中・田沼意次の側近として才覚を発揮し、明和5年(1768年)に若年寄に任命されると同時に、三河大浜に一万三千石の所領を与えられ、大名への返り咲きを果たした [13, 15]。その後、忠友は側用人、老中格へと出世を重ね、駿河沼津藩三万石の藩主となった [13, 15]。
さらに、その跡を継いだ九代当主・忠成も父同様に老中となり、幕政の中枢で活躍。水野家の石高は最終的に五万石にまで達した [13, 15]。こうして、忠清を祖とする家系は「沼津藩水野家」として幕末まで存続し、再び幕府の重職を担う名門としての地位を確立したのである [15]。
水野忠清の物語は、彼個人の成功譚では終わらない。彼が堅実に築いた礎があったからこそ、その子孫は改易という最大の危機を乗り越え、再び大名として返り咲くことができた。彼の遺産は、波乱万丈の家の歴史を通じて、江戸時代を通じて生き続けたのである。
代 |
氏名 |
続柄 |
在任期間 |
藩と石高 |
主要な出来事 |
初代 |
水野忠清 |
創始者 |
1642-1647年 |
信濃松本藩 七万石 |
松本藩水野家初代 |
2代 |
水野忠職 |
忠清の子 |
1647-1668年 |
信濃松本藩 七万石 |
慶安検地の実施 [9, 34] |
3代 |
水野忠直 |
忠職の子 |
1668-1713年 |
信濃松本藩 七万石 |
貞享騒動(加助騒動) [13, 39] |
4代 |
水野忠周 |
忠直の子 |
1713-1718年 |
信濃松本藩 七万石 |
|
5代 |
水野忠幹 |
忠周の養子 |
1718-1723年 |
信濃松本藩 七万石 |
藩政改革を試みる [13] |
6代 |
水野忠恒 |
忠幹の子 |
1723-1725年 |
信濃松本藩 七万石 |
江戸城で刃傷事件を起こし改易 [13, 15] |
7代 |
水野忠友 |
忠恒の従叔父 |
1768-1781年 |
三河大浜藩→駿河沼津藩 |
大名に復帰。田沼意次の側近として活躍 [13, 15] |
8代 |
水野忠成 |
忠友の子 |
1781-1834年 |
駿河沼津藩 五万石 |
老中として幕政を主導 [13, 15] |
... |
... |
... |
... |
... |
幕末まで沼津藩主として存続 |