徳川家康の母・於大の方の甥にあたり、その縁故から家康に重用され、紀州徳川家の付家老として新宮に3万5千石を与えられた武将、水野重央(みずの しげなか)。この概要は、彼の生涯の重要な側面を捉えているが、その全体像を語るには十分ではない。彼の人生は、単に血縁によって幸運を得た一人の武将の物語にとどまらない。それは、戦国乱世から江戸泰平の世へと移行する時代の武家の生き様、そして徳川幕府がその支配体制を盤石にするために創出した「付家老(つけがろう)」という特異な制度の本質を映し出す、貴重な歴史的証左である。
水野重央は、徳川家康という絶対的な権力者との血縁という、他に代えがたい政治的資本を手に、そのキャリアを築いた。しかし、彼の役割は単なる縁故者としての栄達ではなかった。家康は彼を、御三家筆頭である紀州徳川家の藩祖・徳川頼宣の傅役(もりやく)、そして後見人という極めて重要な地位に据えた。これは、強大な力を持つ御三家を、幕府が内側から補佐し、同時に監視・統制するための深謀遠慮に満ちた人事であった。
本報告書は、水野重央の出自と徳川家との宿縁から説き起こし、家康の側近としての活躍、そして紀州藩付家老としての統治と、その死後に露呈した付家老という身分の葛藤までを時系列に沿って詳細に追跡する。各時代の彼の役割と、その背景にある政治的・社会的文脈を解き明かすことで、重央が江戸初期の幕藩体制の安定にいかに寄与したかを分析し、その歴史的評価を再構築することを目的とする。彼の生涯を徹底的に掘り下げるとき、徳川幕府の巧緻な支配構造と、その中で生きた一人の武将の実像が鮮やかに浮かび上がってくるであろう。
水野重央の生涯を理解する上で、その出自、すなわち水野一族と徳川家との間に結ばれた固い絆を抜きにして語ることはできない。この血縁こそが、彼のキャリアの礎であり、その後の運命を決定づける最大の要因となった。
水野重央は、元亀元年(1570年)、尾張国に生まれた 1 。父は水野忠分(ただわけ)、水野惣領家当主・水野忠政の八男であった 3 。重央は忠分の三男であり、通称を藤四郎、または藤次郎と称した 1 。彼の諱(いみな)は、初め重信(しげのぶ)、後に重央、さらに重仲(しげなか)へと改められたと伝わる 2 。
彼が属する水野氏は、尾張国知多郡の緒川城や三河国刈谷城を拠点とした有力な国人領主であった 4 。戦国時代、水野氏は激動の情勢を巧みに生き抜いた。重央の祖父・忠政の代には今川氏に属していたが、その子、すなわち重央の伯父にあたる水野信元の代になると、尾張で台頭する織田氏に接近するという柔軟な外交戦略を展開した 6 。重央の父・忠分も、兄・信元の命を受けて布土城主を務めるなど、一族の中核として活動した記録が残っている 9 。
水野重央の生涯を決定づけたのは、徳川家康との極めて近い血縁関係であった。重央の父・忠分は、徳川家康の生母である於大の方(おだいのかた)の実の弟である 3 。この関係から、水野重央は家康にとって母方の従兄弟(いとこ)という、非常に近しい間柄にあった 11 。
この血縁は、単なる親戚付き合い以上の意味を持っていた。それは、徳川家臣団の中で彼を特別な存在たらしめる「政治的資本」であった。三河以来の譜代家臣とは異なる「御内衆」とも言うべき特別な立場は、家康からの個人的な信頼と寵愛を保証するものであり、彼のキャリアにおける異例の抜擢と昇進の根源となった。彼の生涯は、個人の武功や才覚以上に、この「血縁」がいかに強力な武器となり得たかを示す典型例と言える。
水野一族の歩みは、決して平坦なものではなかった。伯父の水野信元は、織田信長の重臣・佐久間信盛の讒言により無実の罪で殺害されるという悲劇に見舞われた。しかし、後に信長自身がその冤罪を認め、信元の末弟にあたる水野忠重(重央の叔父)に旧領の一部を与えて水野家を再興させている 8 。この出来事は、水野氏が信長、秀吉、家康と続く天下人の下で、いかに危うい綱渡りをしながらも生き残ってきたかを示している。
徳川の世が到来すると、家康は水野一族を巧みに配置し、自らの支配体制の強化に利用した。その最も顕著な例が、重央とその兄・水野分長(わけなが)の配置である。重央が家康の十男・徳川頼宣(紀州藩祖)に付けられたのに対し、兄の分長は十一男・徳川頼房(水戸藩祖)に仕えることとなった 4 。
これは偶然の人事ではない。家康が最も信頼する血縁者である水野家の兄弟を、御三家のうちの二つ、紀州と水戸にそれぞれ付家老として送り込むことで、強大な潜在力を持つ親藩を内側から監視・輔弼する体制を構築したのである。この戦略的な配置は、徳川幕府の安定を願う家康の深謀遠慮と、一族の安泰を図る水野家の利害が一致した結果であり、徳川による「御三家」統制システムの巧緻な設計を物語っている。
徳川家康との強い血縁を背景に、水野重央は若くしてその側近として取り立てられ、天下統一事業の重要な局面を間近で経験することになる。彼の初期のキャリアは、家康の個人的な信頼がいかに厚かったかを如実に示している。
重央のキャリアは、異例の早さで始まった。天正4年(1576年)、わずか7歳で母方の従兄である家康に初めて謁見 1 。その後、家康の近習として仕え、早くも5,500石という破格の知行を与えられた 1 。
彼の出世は続き、天正16年(1588年)には19歳の若さで大番頭(おおばんがしら)に就任する 1 。大番頭は、将軍の親衛隊を率いる重要な役職であり、通常は経験豊富な武将が任じられる地位である。この若さでの抜擢は、家康が彼を単なる縁者としてではなく、信頼できる側近として育成しようという明確な意図を持っていたことの証左である。さらに天正20年(1592年)には、武蔵国埼玉郡および上総国山辺郡内に1,500石を加増され、その知行は7,000石に達した 1 。
こうした重用は、家康の権力基盤の構築戦略と深く関わっている。家康は、三河以来の譜代家臣団を中核としつつも、彼らが時に強い発言力を持つ同族集団となることを警戒していた。そこで、井伊直政のような新参の実力者や、水野重央のような血縁者を側近に登用することで、権力を自らの手元に集中させ、譜代家臣団への牽制を図ったと考えられる。重央に与えられた役割は、譜代の重臣たちが担う「藩屏(はんぺい)」としてのそれとは異なり、主君個人の信頼にのみ基づく「親衛」としての性格が強かった。
水野重央は、徳川の天下を決定づけた二大決戦にも、家康の側近として参加している。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、家康の本隊に属して参陣した記録が残っている 15 。また、慶長19年(1614年)の冬の陣、翌年の夏の陣からなる大坂の陣にも従軍した 11 。
彼の具体的な武功を詳述した史料は多くない。これは、彼の役割が前線で部隊を指揮する戦闘指揮官というよりは、家康の本陣近くで主君を護衛し、その命令を伝達する旗本としての役割が主であったためと推察される。しかし、天下分け目の戦いに、常に最高権力者の傍らに侍っていたという事実は、彼が徳川軍の中枢に位置する重要な人物であったことを明確に示している。
天下統一を果たした家康は、次なる課題として徳川による恒久的な支配体制の構築に着手した。その核心にあったのが、尾張・紀州・水戸の「御三家」の創設である。この国家的大事業において、水野重央は極めて重要な役割を担うこととなる。
慶長12年(1607年)、水野重央のキャリアは大きな転機を迎える。家康の十男であり、後の紀州徳川家初代藩主となる徳川頼宣(当時6歳)の傅役(教育係兼後見人)に任命されたのである 11 。傅役は、単に学問を教えるだけの役職ではない。幼い主君の人間形成に深く関与し、将来の藩主として必要な政治感覚を養わせる、事実上の政治顧問であり後見人であった。特に、将軍家に次ぐ家格を持つ御三家の藩祖となる頼宣の傅役は、その藩の未来、ひいては徳川幕府の安泰を左右するほどの重責であった。家康がこの大役に、自らの従兄弟である重央を任命したことは、彼に対する絶大な信頼の証に他ならない。
頼宣が常陸水戸藩25万石の藩主となると、重央は常陸国内に1万石の知行を与えられ、同じく傅役であった三浦為春らと共に水戸へ赴いた 11 。そして、幼い頼宣に代わって藩の政務を実質的に執り行ったのである 4 。
慶長14年(1609年)、頼宣が常陸水戸から駿府50万石へ移封されると、重央の立場も大きく変わる。彼は頼宣の領地の一部である遠江浜松城主となり、二万五千石を与えられた 4 。これは、前任の浜松城主・松平忠頼が家臣間の刃傷沙汰に巻き込まれて殺害され、その家が改易となったことを受けた措置であった 4 。
浜松城は、若き日の家康が本拠地とし、天下取りの足がかりを築いた「出世城」として知られる徳川家にとっての要衝である。その城主に任命されたことは、重央が単なる傅役ではなく、幕府の重要拠点を任される大名格の人物として公式に認められたことを意味する。翌慶長15年(1610年)には、彼の知行地の詳細を記した「浜松領之内御知行割(水野重仲知行割帳)」が作成されており、彼が名目上の城主ではなく、実質的な領地経営を行っていたことが確認できる 19 。
この浜松城主への任命は、単なる加増以上の戦略的な意味合いを持っていた。付家老という役職は、藩主や他の重臣から軽んじられては、その監視・輔弼という重要な役割を全うできない。そこで家康は、重央に浜松城という象徴的な城と大名級の石高を与えることで、彼が将来赴くことになる紀州藩内での権威をあらかじめ高めておいたのである。これは、紀州藩の統治を円滑に進めるための、家康による周到な布石であった。
慶長16年(1611年)、重央は正式に頼宣の付家老に任命された 11 。この「付家老」という制度こそ、徳川幕府が御三家を統制するために生み出した巧妙な仕組みであった。付家老は、大名格の所領と権威を持ちながらも、その身分はあくまで主君(この場合は頼宣)の家臣、すなわち幕府から見れば「陪臣(ばいしん)」として扱われた 2 。
彼らの役割は二重的であった。一つは、藩主を忠実に補佐し、藩政を安定させること。もう一つは、藩の動向を逐一幕府に報告し、藩主が幕府に反するような動きを見せた場合にはこれを抑えるという、「目付」としての役割である 22 。水野重央は、この前例のない難しい役職の初代として、紀州藩の基礎を築くと同時に、幕府の意向を藩政に反映させるという重責を担うことになったのである。
彼のキャリアパス(水戸→浜松→新宮)は、常に主君・頼宣の成長と徳川家の領地再編戦略に完全に連動していた 11 。これは、重央のアイデンティティが「徳川家康の家臣」から「徳川頼宣の家臣」へと移行したことを意味し、彼の生涯そのものが、徳川宗家から御三家という分家が確立していくプロセスを体現していたと言えるだろう。
西暦(和暦) |
年齢 |
出来事 |
役職・官位 |
石高・領地 |
典拠 |
1570 (元亀元) |
1 |
尾張国にて水野忠分の子として誕生 |
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1 |
1576 (天正四) |
7 |
徳川家康に初謁見 |
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1 |
(不明) |
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家康に近侍 |
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5,500石 |
11 |
1588 (天正十六) |
19 |
大番頭に就任 |
大番頭 |
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1 |
1592 (天正二十) |
23 |
武蔵・上総で加増 |
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7,000石 |
1 |
1600 (慶長五) |
31 |
関ヶ原の戦いに従軍 |
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15 |
1607 (慶長十二) |
38 |
徳川頼宣の傅役に任命される |
傅役 |
常陸国内10,000石 |
11 |
1609 (慶長十四) |
40 |
頼宣の駿府移封に伴い、浜松城主となる |
浜松城主 |
遠江浜松25,000石 |
11 |
1611 (慶長十六) |
42 |
頼宣の付家老となる |
付家老 |
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11 |
1614-15 (慶長十九-二十) |
45-46 |
大坂の陣に従軍 |
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11 |
1619 (元和五) |
50 |
頼宣の紀州移封に伴い、新宮城主となる |
新宮城主、紀州藩付家老 |
紀伊新宮35,000石 |
15 |
1621 (元和七) |
52 |
和歌山にて死去 |
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2 |
元和5年(1619年)、徳川頼宣が駿府から紀州和歌山55万5千石への入国を果たすと、水野重央のキャリアも最終段階へと入る。彼は紀伊国新宮の地で、初代領主として新たな統治を開始した。
元和5年(1619年)7月19日、水野重央は紀伊国新宮に三万五千石の領地を与えられ、初代領主(城主)となった 2 。これにより、紀州藩の「付家老・水野家」の歴史が幕を開ける。紀州藩にはもう一人、紀伊田辺城主として三万八千石を与えられた安藤直次が付家老として置かれており、この二家体制で藩主・頼宣を補佐することになった 15 。
この配置は、紀伊国の地理的特性を考慮した巧みな領国統治策であった。紀伊国は山がちで、藩庁のある和歌山と、熊野地方に位置する新宮・田辺は地理的に分断されがちであった。藩主から遠い南部の要衝に、それぞれ信頼できる付家老を置くことで、領内全域に幕府と藩主の権威を行き渡らせ、在地勢力の不穏な動きを抑えるという、極めて合理的で戦略的な配置であった。
重央は着任後、前領主の浅野氏が着手していた新宮城(別名:丹鶴城、沖見城)の築城事業を引き継ぎ、これを本格的な近世城郭として完成させた 26 。熊野川の河口に位置する丘陵に築かれたこの城は、本丸、鐘ノ丸、松ノ丸、二ノ丸、そして川に面した水ノ手といった曲輪から構成され、堅固な石垣で守られていた 26 。
特筆すべきは、この新宮城が単なる軍事拠点ではなかった点である。近年の発掘調査により、城内の「水ノ手郭」から、雛壇状に造成された土地に19棟もの礎石建物群が発見された 29 。床面から炭の粉が多く出土したことなどから、これらは新宮の特産品であった良質な熊野炭を保管・集積するための「炭小屋群」であったと推定されている 29 。
この発見は画期的であった。軍事施設であるはずの城郭内に、これほど大規模な商業関連施設が存在したことは、新宮水野家が紀州藩本体とは別に、熊野炭の生産・流通を掌握し、独自の財源を確保する経済主体であったことを示唆している。この経済的自立性こそが、代々の新宮水野家が抱き続けた「独立大名」への願望の物理的な基盤となり、特に幕末の当主・水野忠央が中央政界で雄飛するための資金源となった可能性が高い。重央が築いたこの経済基盤は、彼の政治的遺産と同様に、後世に大きな影響を与えたのである。
重央が新宮を統治した期間は、元和5年(1619年)から元和7年(1621年)までのわずか2年余りであり、彼の藩政に関する具体的な記録は多くない。しかし、彼が完成させた新宮城と、その周辺に整備した城下町は、その後10代250年にわたる新宮水野家の統治の揺るぎない基礎となった 24 。彼の死後、息子の重良が阿須賀神社に手水鉢を寄進していることから 30 、初代である重央の代から、領内の寺社との関係構築を進め、民心掌握に努めていたことがうかがえる。
紀州藩の礎を築いた水野重央であったが、その死は、彼が生涯をかけて体現してきた「付家老」という身分が内包する矛盾を、劇的な形で白日の下に晒すことになった。
元和7年(1621年)11月12日、水野重央は藩主頼宣のいる和歌山城下にてその生涯を閉じた。享年52 2 。戒名は全龍院殿日山常春大居士。墓所は和歌山市直川の全正寺に設けられ、また高野山奥の院にも供養塔が建立されている 2 。
父・重央の死後、家督を継ぐべき長男の重良(しげよし)が、驚くべき行動に出る。彼は付家老という地位が、幕府の直臣(じきさん)ではなく、紀州藩主の家臣、すなわち「陪臣」であることに強い不満を抱き、家督の相続を頑なに拒否したのである 2 。
重良は「陪臣の三万五千石よりも、直参旗本二千石の方が望ましい」と公言して憚らなかったという 32 。彼のこの態度の背景には、水野一族の多くが直参の大名や旗本として幕府に仕え、幕政の中枢で活躍しているのに対し、自分たちは大名格の所領を持ちながらも身分的には一段低いと見なされることへの強い屈辱感があった 5 。この事件は、単なる一個人の矜持の問題ではなかった。それは、江戸初期の武士社会において、石高という「実利」以上に、将軍との直接的な主従関係という「身分(ステータス)」がいかに重要な価値観であったかを示す象徴的な出来事であった。
父の死から1年半以上も当主不在という異常事態に、水野家は無主の状態が続いた 32 。この事態を幕府は極めて重く見た。もし水野家の要求が通り、付家老職を返上して旗本になるような前例ができてしまえば、尾張藩や水戸藩の付家老にも同様の動きが波及し、御三家を統制するという幕府の根幹政策が崩壊しかねなかったからである。
ここに、異例の措置が取られる。時の将軍・徳川秀忠と、その世子で次期将軍であった家光が、自ら重良の説得に乗り出したのである 2 。元和9年(1623年)、上洛に随行していた重良は、山城国竹田において秀忠・家光の両将軍から直々に説得を受け、ついに家督相続を承諾した 33 。その際、家光は自らの手で和州包友の脇差を重良に与え、さらに伏見にあった豊臣秀長の旧邸を屋敷として下賜するなど、破格の待遇で彼を慰撫した 32 。
将軍自らが一陪臣の相続問題の説得に乗り出すというこの一件は、幕府にとって「付家老制度の維持」が、御三家統制の根幹に関わる死活問題であったことを何よりも雄弁に物語っている。それは、水野重央が生涯をかけて務め上げた付家老という役職の、政治的な重要性を逆説的に証明する出来事でもあった。
水野重央の生涯は、徳川家康の従兄弟という類稀な出自を最大限に活用し、戦国時代の武将から泰平の世の統治者へとその役割を変貌させていった、まさに時代の転換期を象徴するものであった。彼の人生は、徳川政権がその支配を盤石なものにしていく過程と、それに伴って新たな支配者層が形成されていく様を映し出す鏡であったと言える。
彼が担った「付家老」という役職は、栄光と葛藤を伴うものであった。大名格の所領と権威を与えられながらも、「陪臣」という身分に甘んじなければならない。この矛盾は、彼の死後、息子・重良の相続拒否という形で噴出した。しかし、この事件を通じて、付家老という制度が徳川幕府の支配構造においていかに重要であったかが逆説的に証明された。重央が築いた新宮における経済的・政治的基盤と、彼の死後に露呈した身分への葛藤は、一つの伏線となった。それは、時代が下って幕末期、九代当主の水野忠央が、一族の悲願であった「独立大名」の地位を求めて中央政界で激しく画策する行動へと繋がっていくのである 32 。
水野重央を、単に縁故によって登用された幸運な人物としてのみ評価するのは、一面的に過ぎる。彼は、徳川幕府の最重要政策の一つである「付家老制度」を、その初代として身をもって体現し、紀州藩の、ひいては江戸幕府二百六十年の泰平の礎を築く上で、目立たぬながらも決定的な役割を果たした「影の功労者」として再評価されるべきである。彼の生涯は、近世初期日本の政治と社会を織りなす複雑な力学を理解するための、極めて貴重なケーススタディなのである。