永井左衛門
永井左衛門は伊勢丹生の水銀豪商。水銀独占と金融業で富を築き、民間紙幣「丹生羽書」を発行。娘の殊法を通じて三井家へ商業ノウハウを伝え、三井財閥の源流となった。
伊勢丹生の豪商 永井左衛門 ― 水銀、金融、そして三井家へ続く富の源流
序論:謎多き豪商、永井左衛門の実像に迫る
本報告書は、戦国時代から江戸時代初期にかけて、伊勢国にその名を轟かせた商人、「永井左衛門」に関する散逸した情報を統合し、その人物像、事業内容、そして歴史的意義を包括的に解明することを目的とする。ユーザー様が提示された「桑名の商人」「三井高利の外祖父」という情報を出発点とし、その情報の背景にある、より広範で深遠な歴史的文脈、すなわち伊勢丹生という特異な地域経済と、そこから生まれた富が、後の巨大財閥・三井家の源流へと注ぎ込んでいく壮大な歴史の潮流を掘り下げていく。
永井左衛門自身を主題とした独立した研究は、これまで極めて少なかった。彼の名は、主に三井家の歴史、とりわけ「三井家商いの元祖」と称される娘・殊法(しゅほう)の出自を語る文脈で、断片的に言及されるに留まってきた 1 。このため、彼の人物像は、三井家の栄光の背景に霞む、やや曖昧な存在として捉えられがちであった。本報告書は、彼を単なる「三井家の縁戚」という受動的な立場から解放し、伊勢国丹生という、古代から続く水銀生産の地を基盤とした独立した経済主体、すなわち中世から近世への社会・経済移行期を象徴する革新的な豪商として再評価を試みるものである。
三井財閥の始祖・三井高利の類稀なる商才が、母・殊法を通じてその実家である永井家から受け継がれたものであることは、三井家の家伝においても明確に指摘されている 1 。この「血」と「家風」の継承を具体的に解明するためには、その源流である永井家の経済的基盤、事業の先進性、そして商業文化を徹底的に分析することが不可欠である。本報告書は、永井左衛門とその一族を、三井家成功の重要な「前史」として、また日本近世経済史における特筆すべき事例として明確に位置づけることを目指す。
第一章:永井左衛門とは何者か ― 呼称と実名の解明
永井左衛門という人物の実像に迫る第一歩は、史料に残された複数の呼称を丹念に分析し、そこに込められた社会的意味を読み解くことである。彼の名は、単なる個人名に留まらず、その社会的地位や一族の文化を雄弁に物語っている。
1.1 「左衛門」「左兵衛」「浄観」― 呼称の分析と人物の同定
史料を渉猟すると、永井左衛門を指すと思われる呼称が複数存在することに気づく。「永井左衛門」 3 、「永井左兵衛(左兵衛)」 4 、そして「永井浄観」 6 である。これらは、同一人物の異なる呼称、あるいは一族内の極めて近しい人物を指すものと解釈でき、それぞれが彼の多面的な姿を映し出している。
まず、「左衛門(さえもん)」および「左兵衛(さひょうえ)」は、朝廷の警護を担った衛門府の官職名に由来する、いわゆる官途名(受領名)である。武士階級が公式に名乗るのが本義であるが、戦国時代から安土桃山時代にかけては、有力な商人が大名への献金や御用を務める見返りとして、こうした名乗りを許される例が各地で見られた 7 。これは、商人が自らの経済力を背景に、武士階級に準ずる社会的権威を獲得しようとした時代の風潮を反映している。永井家が、伊勢国司であった北畠氏や、後に天下人となる織田氏とも出入りがあったと伝えられていること 11 を踏まえれば、永井左衛門もまた、水銀という戦略物資の供給などを通じてこれらの権力者と密接な関係を築き、その証として「左衛門」や「左兵衛」といった官途名を名乗ることを許されたと推察される。この名は、単なる呼称ではなく、商取引における信用と権威を高めるための戦略的な「ブランド」として機能したのである。それは、永井家が単なる地方商人ではなく、大名とも対等に近い立場で交渉しうる力を持っていたことの証左に他ならない。
一方、「浄観(じょうかん)」という名は、大正14年(1925年)に三井家が永井家の菩提寺である西導寺(現・三重県多気町)に建立した墓碑に見られるもので、これは法名(仏門に入った者の名)である可能性が極めて高い 6 。彼の娘である殊法もまた、俗名は伝わっておらず、法名で後世に知られている 1 。この事実は、永井家が深く仏教に帰依する家風を持っていたことを示唆している。激動の戦国時代において、信仰は個人の精神的な支えであると同時に、寺院という情報、金融、人脈の結節点との繋がりを確保する重要な手段でもあった。永井左衛門が晩年に「浄観」と名乗ったとすれば、それは現世で築き上げた富と権力を、来世の安寧と結びつけようとする、当時の有力者に共通する価値観の表れであったと言えよう。商業的成功と篤い信仰心の両立は、永井家の存続と繁栄を支える重要な経営戦略の一部であったと考えられる。
1.2 戦国期伊勢商人としての永井左衛門の輪郭
永井左衛門の正確な生没年は詳らかではない。しかし、娘の殊法が天正18年(1590年)に生まれたという記録から 1 、彼が商人として最も活発に活動したのは、16世紀中頃から後半、すなわち織田信長や豊臣秀吉が天下統一を進めた戦国時代末期から安土桃山時代にかけての時期であったと推定できる。この時代は、旧来の荘園制が崩壊し、新たな商業・流通網が形成される、まさに群雄割拠の経済動乱期であった。
ユーザー情報に見られる「桑名の商人」という記述 3 は、彼の活動範囲を考える上で重要な示唆を与える。永井家の本拠地は、内陸の伊勢国多気郡丹生村であったことが複数の史料で確認されている 1 。一方で、桑名は伊勢湾に面した当時最大の港湾都市であり、木曽の材木や伊勢神宮への奉納米などが集まる一大集散地として栄えていた 12 。したがって、「桑名の商人」という表現は、永井左衛門が桑名に居住していたことを意味するのではなく、内陸の丹生で生産・集荷した水銀やその他の商品を、桑名港を拠点として京や堺、あるいは東国へと輸送する広域な流通ネットワークを掌握していたことを示している。丹生という生産地と、桑名という物流拠点を結びつけたことこそが、彼の商業活動の根幹をなしていたのである。
表1:永井左衛門の呼称と推定される人物像
呼称 |
呼称の種類 |
主な出典史料 |
示唆される人物像・社会的背景 |
永井左衛門 |
通称 / 官途名 |
3 |
伊勢丹生を拠点に広域な商業活動を展開した豪商としての通称。 |
永井左兵衛 |
官途名 |
4 |
大名との関係を通じて獲得したとみられる社会的地位の表象。武家階級に準ずる権威を示し、商取引を有利に進めるためのブランド。 |
永井浄観 |
法名 |
6 |
晩年の仏教への深い帰依を示す。一族の篤い信仰心と、信仰を社会的ネットワーク構築にも活用した文化的側面を窺わせる。 |
第二章:伊勢国丹生 ― 永井家が根差した「水銀の郷」の歴史的背景
永井左衛門という商人の巨大な富と影響力を理解するためには、彼が根を下ろした土地、伊勢国丹生の特異な歴史的・地理的背景を解明することが不可欠である。丹生は単なる一村落ではなく、古代から日本の産業と文化を支え続けた戦略的資源の供給地であった。
2.1 古代から続く「丹」の産地
「丹生(にう)」という地名は、その名の通り「丹(に)を生む」土地であることに由来する 13 。この「丹」とは、水銀の唯一の実用的な鉱石である辰砂(しんしゃ)を指す。丹生の地は、古代より日本有数の、ある時期においては国内随一の水銀産地として知られていた 15 。
その歴史は極めて古く、『続日本紀』には文武天皇2年(698年)に伊勢国から朱砂(辰砂)が献上された記録が残る 18 。さらに、日本史上最も有名な仏教建造物の一つである奈良・東大寺の大仏(盧舎那仏像)が8世紀に造立された際、その巨大な像を黄金に輝かせるための鍍金(金アマルガム法)に不可欠な水銀が、この丹生の地から約720kgも供給されたと伝えられている 16 。これは、丹生が古代国家の最重要プロジェクトを支えるほどの生産能力と技術を有していたことを物語る。
この特異な土地がなぜ水銀を産したのか、その理由は地質構造にある。丹生地域は、西南日本を東西に貫く巨大な断層帯である「中央構造線」の付近に位置している 17 。この地質学的な境界領域は、地下深部からの熱水活動が活発であり、水銀鉱床が形成されやすいという特徴を持つ。永井家の富は、まさにこの地球規模の活動がもたらした奇跡的な恵みの上に築かれたものであった。
2.2 丹生神社と水銀採掘を巡る信仰
長きにわたる鉱山開発の歴史は、丹生の地に独特の信仰文化を育んだ。その中心となったのが、丹生神社と丹生山神宮寺(通称:丹生大師)である。
丹生神社は、延喜式神名帳にもその名が見える由緒ある神社で、一説には継体天皇16年(523年)の創建と伝えられる 18 。祭神には土の神である埴山姫命(はにやまひめのみこと)や水の神である水波能売命(みずはのめのみこと)などが祀られているが 20 、鉱山の神である金山彦命(かなやまひこのみこと)も合祀され、神宝として古い鉱山用具が残されているとも言われる 14 。これは、神社が水銀採掘に従事する人々の信仰の中心であり、その安全と豊穣を祈る場であったことを示している。
さらに興味深いのは、真言宗との深い関わりである。丹生の地には「丹生大師」として親しまれる丹生山神宮寺があり 13 、弘法大師空海が高野山を開く際に、狩人に化身した高野明神と、丹生都比売明神(にうつひめみょうじん)に導かれたという有名な伝説が残されている 21 。丹生都比売神は元来、水銀鉱業と深く関わる神であった。空海が唐で学んだ知識の中には、仏教の教義だけでなく、水銀の精錬や利用法といった錬金術的な技術も含まれていた可能性が指摘されている 22 。水銀は、密教の儀式における薬品や防腐剤としても重要であり、空海やその後の真言宗の僧たちが、この戦略的資源の産地である丹生や高野山の利権に関与していたという説は根強い 23 。
永井家のような豪商がこの地で活動する上で、こうした宗教的権威との連携は不可欠であった。彼らは神仏への寄進を通じて信仰の篤さを示すと同時に、地域の精神的支柱である寺社との関係を強化し、自らの事業の正当性と安定性を確保していたと考えられる。永井家の富の源泉は、単なる経済活動に留まらず、この地の地質、歴史、そして信仰が複雑に絡み合った、重層的な構造の上に成り立っていたのである。
第三章:丹生水銀と水銀座 ― 永井家の富の源泉
永井家の財産は、丹生の地が産する水銀という稀少資源の独占的支配によって築かれた。戦国時代において水銀は、美を飾り、権威を象徴し、病を癒す万能の物質であり、その需要は計り知れないものがあった。永井家は、この価値ある商品の生産から販売までを掌握する特権的な商人組合「水銀座」の中核を担っていたと考えられる。
3.1 戦国期の必需品としての水銀
戦国時代から江戸時代初期にかけて、水銀の用途は多岐にわたっていた。最も重要な用途の一つが、前述の通り仏像や寺社建築、武具などの鍍金である。また、辰砂は鮮やかな朱色の顔料として、朱肉、漆器、絵の具などに広く用いられた。
さらに、丹生周辺の地域経済を支えたのが、「伊勢白粉(いせおしろい)」または「射和軽粉(いざわけいふん)」と呼ばれる高級化粧品の生産であった 18 。これは、水銀と食塩などを加熱して昇華させた塩化第一水銀(甘汞)を主成分とする白い粉で、その製法は鎌倉時代に中国から伝来したとされる 18 。水銀の産地であるこの地域は白粉生産の最適地となり、室町時代の文安年間(1444年頃)には83軒もの窯元が存在したという記録があるほどの一大産業に発展していた 18 。永井家は、この伊勢白粉の原料となる水銀の供給者として、莫大な利益を上げていたことは想像に難くない。
このほか、水銀化合物は梅毒の治療薬といった医薬品として、あるいは非公式ながら堕胎薬としても用いられたとされ 14 、その需要は人々の生活の隅々にまで及んでいた。
3.2 特権商人組合「水銀座」と永井家の役割
これほど重要な商品の流通を、自由な市場原理に任せることはあり得なかった。丹生には、日本で唯一の「水銀座(みずぎんざ)」と呼ばれる座(同業者組合)が存在し、水銀の生産と販売を独占的に支配していた 18 。座とは、特定の商品の生産・販売に関する独占権を、本所(ほんじょ)と呼ばれる庇護者から保証される見返りに、運上金(営業税)を納める中世的な経済組織である。
驚くべきことに、水銀座の本所は、近隣の伊勢神宮ではなく、京の朝廷に君臨する摂関家であった可能性が研究者によって指摘されている 18 。これは、丹生の水銀が単なる地方の産物ではなく、国家レベルで管理されるべき戦略物資と見なされていたことを意味する。摂関家の権威を笠に着た水銀座の商人たちは、時に伊勢神宮側と商取引の利権を巡って訴訟を起こすほどの強大な力を持っていた 18 。平安時代後期の説話集『今昔物語集』には、莫大な富を持ち、盗賊の多い鈴鹿の山を少数の供だけで悠々と越えていく伊勢の水銀商人の逸話が収められており、古くからこの地の商人が規格外の富と権勢を誇っていたことが窺える 25 。
戦国時代、この水銀座の中核を担い、その利権を実質的に差配していたのが永井家であったと考えられる。彼らの役割は、単に水銀を売買することに留まらなかっただろう。生産量の管理、品質の保証、価格の決定、そして丹生から桑名港を経て全国へと至る複雑なサプライチェーンの維持、さらには摂関家や伊勢国司といった政治的庇護者との交渉まで、その活動は多岐にわたっていたはずである。水銀座は、現代でいうところの独占的な企業体(カルテル)であり、永井左衛門はその最高経営責任者に近い立場にあったと見ることができる。
3.3 永井家の屋号「角屋」「梅屋」と事業の実態
永井家の屋号として、史料には「角屋(かどや)」 4 と「梅屋(うめや)」 18 の二つが伝えられている。これは、一族の分家や、あるいは事業部門ごとに屋号を使い分けていた可能性を示唆しており、彼らの事業の多角化と組織の複雑さを物語っている。
例えば、「角屋」は水銀の採掘や精錬、伊勢白粉の製造といった生産・卸売部門を担い、「梅屋」は後述する金融業や紙幣発行といった、より高度な商業・金融部門を担っていた、というような分業体制が考えられる。特に「梅屋」という屋号は、日本における紙幣の先駆けの一つである「丹生羽書(梅屋札)」と直接結びついており 18 、永井家が単なる資源商人から、金融資本家へと進化していく過程を象徴している。このように、複数の屋号を使い分ける洗練された事業形態は、永井家が当時としては極めて先進的な経営感覚を持っていたことを示している。
第四章:角屋・梅屋永井家 ― 金融業と羽書発行に見る商業活動の先進性
永井家は、水銀という物理的な資源の独占で得た莫大な富を元手に、より抽象的で、しかしより強力な力を持つ「信用」を商う金融業へと事業の軸足を移していった。これは、資源独占から金融支配へと至る、経済発展の古典的かつ高度な戦略的転換であった。その頂点に立つのが、自らの信用を形にした民間紙幣「丹生羽書」の発行である。
4.1 水銀資本を元手とした金融業
永井家の事業の第二の柱は、金融業であった 11 。水銀取引によって蓄積された潤沢な資本は、彼らの手によって地域の隅々にまで貸し付けられ、さらなる富を生み出す源泉となった。
彼らの融資先は、近隣の農民や小規模な商人にとどまらなかった。より重要なのは、戦国大名への貸付、いわゆる「大名貸」である。史料によれば、永井家は伊勢国司であった名門・北畠氏や、尾張から勢力を伸ばしてきた織田氏といった有力な戦国大名とも取引関係があり、彼らの軍資金や領国経営の資金を融通していたと考えられている 11 。これは、永井家が単なる御用商人ではなく、大名の財政を左右し、時にはその政策決定にまで影響を及ぼしうる、地域の政治経済におけるフィクサー的な存在であったことを示している。大名に金を貸すということは、経済的な利益だけでなく、自らの事業の安全を保障させ、新たな利権を獲得するための強力な政治的手段でもあった。
4.2 日本紙幣史の先駆け「丹生羽書(梅屋札)」
永井家の商業活動の先進性を最も象徴するのが、民間紙幣「丹生羽書(にうはがき)」、またの名を「梅屋札(うめやふだ)」の発行である 18 。現存する札から、少なくとも寛永年間(1624-1644年)には流通していたことが確認されており、伊勢山田で発行された「山田羽書」 28 と並んで、日本で最も古い紙幣の一つに数えられる。
正貨(金銀銭)との兌換を保証する紙幣の発行は、それを裏付ける圧倒的な財力と、社会からの絶対的な信用がなければ不可能である 18 。永井家がこれを成し遂げたという事実は、彼らが単なる一商家ではなく、地域経済の信用の中心、いわば「民間の中央銀行」とも言うべき役割を担っていたことを意味する。重くかさばる硬貨を持ち運ぶ不便さを解消する羽書は、永井家が支配する商業圏内での取引を飛躍的に円滑化し、経済活動そのものを活性化させる強力なツールであった。
ここで注目すべきは、伊勢神宮のお膝元で発行された山田羽書が、複数の有力商人からなる「株仲間」という組織によって共同で発行・運営されていた 31 のに対し、丹生羽書は「梅屋」すなわち永井家という一個人の商家によって発行された可能性が高い点である。これは、永井家の財力と信用が、他の商人の連合体に匹敵する、あるいはそれを凌駕するほど突出していたことを示唆している。
水銀という実物資産の支配から始まり、その富を元手にした金融業へ、そしてついには自らが信用の源泉となって通貨を発行するに至る。この永井家の歩みは、物理的な富を抽象的な金融資本へと転換させ、地域経済の覇権を握るという、極めて高度な資本主義的発展の萌芽を、戦国末期から江戸初期という時代にすでに見せていたのである。
第五章:娘・殊法と三井家 ― 巨大財閥の源流への影響
永井家が日本経済史に残した最も永続的な影響は、その富や事業そのものよりも、娘・殊法を通じて、その卓越した商才と革新的な商業精神が三井家にもたらされ、後の巨大財閥の礎となった点にある。これは、単なる血縁関係を超えた、商業文化の戦略的な移植と継承の物語である。
表2:永井家・三井家関連年表
西暦/和暦 |
永井家の動向 |
三井家の動向 |
時代の出来事 |
c. 1550s- |
永井左衛門、伊勢丹生にて豪商として活動。水銀・金融業で勢力を拡大。 |
|
戦国時代 |
1588 (天正16) |
|
三井高安の子・高俊、蒲生氏郷が開いた松坂に移住か。 |
刀狩令 |
1590 (天正18) |
永井左衛門の娘・殊法、誕生 1 。 |
|
豊臣秀吉、天下統一 |
1600 (慶長5) |
|
|
関ヶ原の戦い |
1602 (慶長7) |
娘・殊法(13歳)、三井高俊に嫁ぐ 4 。 |
三井高俊(22歳)、殊法と結婚。 |
|
1603 (慶長8) |
|
|
江戸幕府開府 |
1622 (元和8) |
|
三井高俊・殊法夫妻の四男として高利、松坂に誕生 33 。 |
|
1624-1644 |
永井家(梅屋)、丹生羽書を発行 18 。 |
|
寛永年間 |
1635 (寛永12) |
|
三井高利(14歳)、江戸へ出て長兄・俊次の店で奉公を始める 34 。 |
参勤交代の制度化 |
1649 (慶安2) |
|
高利(28歳)、母・殊法の世話のため松坂に帰郷。金融業を営む 35 。 |
|
1673 (延宝元) |
|
高利(52歳)、江戸本町に「三井越後屋呉服店」を開業 36 。 |
|
1676 (延宝4) |
殊法、87歳で死去 4 。 |
|
|
5.1 戦略的婚姻と同盟
慶長7年(1602年)、永井左衛門の娘である殊法は、13歳の若さで伊勢松坂の商人、三井高俊のもとへ嫁いだ。この時、夫の高俊は22歳であった 4 。三井家は、高俊の祖父・高安の代に近江の武士から商人に転じた家であり、当時は松坂で質屋や酒・味噌を商う新興の商家であった 1 。
この婚姻は、単なる家と家の結びつき以上の、極めて戦略的な意味合いを持つ同盟であったと解釈できる。一方の永井家は、伊勢国丹生に深く根を張り、水銀と金融によって何世代にもわたり莫大な富と信用を築き上げてきた旧来の豪商である。彼らにとっては、新興商業都市として発展著しい松坂に確固たる足掛かりを築き、新たな事業展開の拠点とする狙いがあっただろう。もう一方の三井家は、武士の家柄という社会的な箔は持ちながらも、商売の経験は浅い。彼らにとって、伊勢屈指の豪商である永井家との縁組は、その莫大な資産と、何物にも代えがたい商売のノウハウ、そして広範な人脈という絶大な後ろ盾を得ることを意味した。この結婚は、永井家の「資本とノウハウ」と、三井家の「家柄と将来性」とを掛け合わせた、巧みな事業投資であったと言える。
5.2 「三井家商いの元祖」殊法の商才と永井家の家風
この戦略的同盟の成功を決定づけたのが、殊法自身の類稀なる商才であった。夫である高俊は、武家の出であるためか商売には不熱心で、連歌や俳諧といった風雅な趣味に興じることが多かったと伝えられる 37 。そのため、三井家の家業であった質屋や酒・味噌の販売は、実質的に殊法が一人で切り盛りしていた 2 。三井家が後に編纂した『商売記』や『家伝記』といった記録には、彼女の商才を「若き時分より、天性商心、始末、費をいとひ、古今めづらしき女人」「此人女には又無比類、売買に名を得」と、最大限の賛辞で称えている 1 。
この卓越した商才が、彼女が生まれ育った永井家で培われたものであることは疑いようがない。水銀という戦略物資の取引、大名を相手にした金融、そして自前の紙幣発行といった、極めて高度で複雑な商業活動が日常的に行われる環境で育った彼女にとって、松坂での店経営は、その能力を発揮する格好の舞台であった。
殊法の経営哲学は、永井家の家風そのものであった。彼女は徹底した倹約家であったと同時に、商売の根幹をなす「信用」を何よりも重んじた。30両もの大金が入った財布を拾った際には、すぐに人を走らせて落とし主を探し出し、無事に届けさせたという逸話は、その人柄をよく表している 1 。目先の利益よりも長期的な信用を重視するこの姿勢は、まさしく金融業を家業とする永井家で叩き込まれた「信用の経済学」の実践であった。
5.3 永井家から三井家へ ― 資産と「商いの遺伝子」の継承
殊法が三井家にもたらしたものは、嫁入りの際の持参金といった直接的な資産に留まらなかった。それ以上に重要だったのは、永井家が何世代にもわたって蓄積してきた「商いのノウハウ」と「信用経済の精神」という、金銭には換えがたい無形の資産であった。殊法という一人の女性を介して、永井家の商業文化、いわば「商いの遺伝子」が、三井家へと移植されたのである。
彼女の四男である三井高利は、その生涯で最も多感な幼少期から青年期にかけて、母・殊法がたくましく店を切り盛りする姿を間近で見て育った 1 。高利が後に江戸で越後屋を創業し、「現金掛値なし」「店先売り」といった、当時の常識を覆す画期的な商法で大成功を収めた背景には、母から受け継いだ徹底した合理主義と、顧客からの信用を第一とする経営哲学があったことは明らかである。
三井家の家伝が「まことに三井家商いの元祖は殊法である」と結論付けているのは 1 、単なる母への賛辞ではない。それは、三井家の巨大な成功の根幹に、永井左衛門とその一族が築き上げた商業帝国の血と家風が存在するという、歴史的事実を的確に表現した言葉なのである。日本の商業史において、父系継承が主流である中で、三井家の勃興は、母系を通じて商業文化が決定的な形で継承された、極めて興味深い事例と言える。
結論:戦国・江戸初期における伊勢商人の典型としての永井左衛門
本報告書を通じて行ってきた分析は、永井左衛門という人物が、これまで考えられてきた以上に、日本の経済史において重要な位置を占める存在であったことを明らかにしている。
本報告書の総括:永井左衛門の歴史的実像
永井左衛門は、単なる一地方の富裕な商人ではなかった。彼は、戦国時代から江戸初期という激動の時代に、日本の産業と文化に不可欠な戦略資源「水銀」の生産と流通を、特権的商人組合「水銀座」の中核として牛耳り、その過程で得た莫大な富を元手に、大名貸を含む金融業、さらには自前の通貨発行にまで手を広げた、規格外の豪商であった。彼の名乗った「左衛門」という官途名は、その経済力がもたらした社会的地位の高さを示す象徴であり、その活動のすべては、伊勢国丹生という水銀を産する特異な土地と分かちがたく結びついていた。
一地方豪商が日本経済史に与えた影響の再評価
永井家の商業活動は、中世的な「座」のシステムを巧みに利用しつつ、信用を基盤とする近世的な経済システムを先取りするものであった。彼らが発行した民間紙幣「丹生羽書」は、藩札が一般化する以前の貨幣経済のあり方を示す、日本の金融史における重要なマイルストーンと評価できる。
そして何よりも、永井家の歴史的意義を不滅のものとしているのは、娘・殊法を通じて、その莫大な有形・無形の資産、すなわち財産、事業ノウハウ、そして「商いの精神」そのものを三井家にもたらし、後の日本を代表する巨大財閥の誕生を準備した点にある。三井高利の革新的な商法は、永井家が何世代にもわたって実践してきた合理性と信用第一主義の延長線上に花開いたものであり、その意味で、永井左衛門は三井財閥の「隠れたる源流」と呼ぶにふさわしい。
今後の研究への展望
本報告書は、現存する二次史料や断片的な記録を基に永井左衛門の実像を再構築する試みであったが、その全貌を解明するには、まだ多くの課題が残されている。特に、永井家の商家文書、すなわち「角屋」や「梅屋」の経営実態を示す大福帳や仕切書といった一次史料の発見が切に待たれる。また、丹生の水銀採掘と「水銀座」の組織構造や運営実態に関するさらなる実証的研究は、中世から近世にかけての日本の資源管理と経済構造を理解する上で極めて重要な研究課題である。
永井左衛門とその一族の研究は、単に一商家の歴史を掘り起こすに留まらない。それは、戦国という混沌から近世という新たな秩序が生まれる過程で、商人がいかにして富を築き、社会を動かし、そして次代へとその遺産を繋いでいったのかを解き明かす、日本近世経済史の未だ光の当てられていない深層を探る鍵を握っている。今後の研究の進展が大いに期待される分野である。
引用文献
- 三井と女性たちの活躍(前編) https://www.mitsuipr.com/history/columns/031/
- 02 松坂の高利 | 公益財団法人 三井文庫 https://mitsui-bunko.or.jp/archives/story02/
- 『信長の野望嵐世記』武将総覧 - 火間虫入道 http://hima.que.ne.jp/nobu/bushou/ransedata.cgi?keys17=%88%C9%90%A8%8Eu%96%80&print=20&tid=&did=&p=1
- 三井殊法 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%BA%95%E6%AE%8A%E6%B3%95
- 三井高利 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%BA%95%E9%AB%98%E5%88%A9
- 展示品一覧 https://ja.kyoto.travel/resource/news/files/______________________________.pdf
- 友野宗善(とものそうぜん)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E5%8F%8B%E9%87%8E%E5%AE%97%E5%96%84-1095232
- 戦国大名毛利氏の尾道町支配と渋谷氏 https://www.pref.hiroshima.lg.jp/soshiki_file/monjokan/kiyo/kiyo_04matsui2.pdf
- 〜堺の商人、呂宋助左衛門とは〜 - Made In Local https://madeinlocal.jp/area/sakai-senshu/knowledge/097
- 友野氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%8B%E9%87%8E%E6%B0%8F
- 江戸時代初期の「三井家」と松坂・丹生・射和の商家との婚姻 - 松阪市 https://www.city.matsusaka.mie.jp/uploaded/attachment/33410.pdf
- 桑名の歴史 思いつくまま(1) 2013.11.30 諸戸徳成邸 西羽 晃 桑名の郷土史を勉強している西 https://kuwana-sanpo.com/pdf/kuwananorekishi1.pdf
- 丹生水銀鉱跡 | 観光スポット | 観光三重(かんこうみえ) https://www.kankomie.or.jp/spot/8493
- 2018「水銀鉱採掘跡・丹生日ノ谷」を訪ねて|高坂正澄 - note https://note.com/tadanomorita/n/ncfdb5bd33811
- 水銀の里 丹生を歩く|イベント詳細 - 三重県総合文化センター https://www.center-mie.or.jp/manabi/event/sponsor/detail/25693
- 見どころ - 丹生大師 http://000.pz1.jp/pg989.html
- 三重県総合博物館 辰砂・黒辰砂(Cinnabar / Metacinnabar) https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/MieMu/82906046593.htm
- 丹生鉱山 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E7%94%9F%E9%89%B1%E5%B1%B1
- 伊勢神宮と弘法大師(丹生の水銀にまつわる話) - note https://note.com/buttoise19/n/n97a558781ca0
- 丹生山神宮寺 http://masayama.justhpbs.jp/niusanjinguuji.html
- 空海と丹生明神 https://www.env.go.jp/content/900414871.pdf
- 水銀の歴史 https://dl.ndl.go.jp/view/prepareDownload?itemId=info%3Andljp%2Fpid%2F11494056&contentNo=1
- 投稿(201件 - 5ページ目):丹生都比売神社 - 和歌山県上古沢駅の投稿 https://hotokami.jp/area/wakayama/Hrttk/Hrttktr/Dmpss/131730/posts/?page=5
- 水銀座(すいぎんざ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%B0%B4%E9%8A%80%E5%BA%A7-1177094
- 11, 川の流れと構造線 - ネーブルジャパン-naveljapan- https://naveljapan.co.jp/column/column-644
- 生誕400年 三井高利の生涯 前編 https://www.mitsuipr.com/history/columns/054/
- Happy Women's Map 三重県多気町 三井財閥の元祖 三井 殊法 女史 / The Originator of the Mitsui Zaibatsu, Ms. Shuho Mitsui|#WOMENSMAP - note https://note.com/happywomensmap/n/n2c6ce07d34ad
- 羽書 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%BD%E6%9B%B8
- 山田羽書(やまだはがき) - 国立印刷局 https://www.npb.go.jp/museum/collection/gallery/osatu/yamada.html
- 日本紙幣の元祖「山田羽書」 - 三重の文化 https://www.bunka.pref.mie.lg.jp/rekishi/kenshi/asp/arekore/detail82.html
- 山田羽書(やまだはがき) - 伊勢河崎商人館 http://www.isekawasaki.jp/hagaki/
- 一寬政期羽書改革の記録一 https://www.imes.boj.or.jp/cm/research/honkoku/mod/yamada1.pdf
- 三井高利生誕400年記念事業 | 松阪市観光インフォメーションサイト https://matsusaka-info.jp/mitsuitakatoshi400/
- 三井家発祥の地・松阪 | 三井広報委員会 https://www.mitsuipr.com/history/edo/
- 三井高利(ミツイタカトシ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E4%B8%89%E4%BA%95%E9%AB%98%E5%88%A9-138823
- 松阪から京都へ 創業者・三井高利の道のりを辿る旅 - 三越伊勢丹ニッコウトラベル https://www.min-travel.co.jp/lounge/report/details/256
- 多気町 地域資源・磁場予備調査報告書 (概要版) https://www.town.taki.mie.jp/material/files/group/4/chiikishigenjibayobichousa.pdf