最終更新日 2025-06-11

江上武種

「江上武種」の画像

戦国武将 江上武種の実像:肥前における動乱と興亡

序章:江上武種とその時代背景

江上武種の概要と本報告書の目的

江上武種は、日本の戦国時代、肥前国(現在の佐賀県、長崎県の一部)において活動した武将である。彼は、鎌倉時代以来の名門である少弐氏の重臣として頭角を現し、肥前勢福寺城主を務めた。しかし、戦国時代の肥前国は、新興勢力である龍造寺隆信の急速な台頭により、旧来の権力構造が大きく揺らいだ時期にあたる。江上武種は、この龍造寺隆信の家督相続に反対する「東肥前十九将」の一人として、隆信と激しく対立した。その後、龍造寺家臣である小田政光を討ち取るなどの武功を挙げたが、最終的には龍造寺氏の軍門に下り、その家臣となった。

本報告書は、現存する諸資料に基づき、江上武種の出自、少弐氏への臣従、龍造寺隆信との対立と協調、居城であった勢福寺城との関わり、そして彼とその一族のその後の足跡を詳細に追うことで、江上武種という武将の実像を多角的に検証し、戦国時代の肥前地域史における彼の歴史的意義を明らかにすることを目的とする。利用者より提供された江上武種に関する概要は、彼の複雑な立場と動向を理解する上での重要な出発点となる。

戦国時代の肥前国における政治状況

江上武種が生きた16世紀の肥前国は、まさに群雄割拠の様相を呈していた。長らく肥前国の守護職を世襲してきた少弐氏は、宿敵である周防の大内氏との長年にわたる抗争や内紛により、その勢力を著しく衰退させていた。一方で、少弐氏の家臣筋であった龍造寺氏が、龍造寺家兼、そして曾孫の隆信の代に急速に力をつけ、肥前国における新たな支配者としての地位を確立しようとしていた。

この少弐氏の衰退と龍造寺氏の台頭という国内の権力変動に加えて、九州の二大勢力である豊後の大友氏と薩摩の島津氏が、それぞれ肥前国の支配権を巡って影響力を行使し、時には直接的な軍事介入も行った。このような複雑な政治状況下で、肥前国内の国人領主たちは、自らの家門と所領を維持するために、ある時は互いに連携し、ある時は敵対するという、離合集散を繰り返さざるを得なかった。

江上武種の生涯に見られる主家の変遷や、敵対と従属の繰り返しは、このような肥前国における権力構造の流動性と深く結びついている。彼の少弐氏への忠誠、龍造寺氏への反抗と帰順、そして大友氏との一時的な連携といった一連の行動は、単に個人の意志や変節として片付けられるものではなく、激動する時代の中で一族の存続を賭けた国人領主の必死の生存戦略の現れと解釈することができる。強大な勢力に囲まれた弱小な国人領主が、時々刻々と変化する状況の中で、その都度、最善と思われる選択を模索した結果、立場を変えざるを得なかった事例は、戦国時代の他の地域における国人領主の動向にも共通して見られる特徴である。

第一章:江上氏の出自と江上武種の登場

江上氏の起源と系譜

江上氏の出自については、本姓を東漢氏(やまとのあやうじ)系の有力氏族である大蔵氏とし、大蔵春実を祖とする九州大蔵氏の嫡流、原田氏の庶家にあたるとされる。具体的には、原田種成の第四子であった種光が、筑後国三潴郡江上村(現在の福岡県久留米市城島町江上)に土着し、江上姓を名乗ったのがその始まりと伝えられている。

江上氏の歴史において重要な転機となったのは、六代当主とされる氏種の時代である。彼は元寇(蒙古襲来)の際に軍功を挙げ、その恩賞として肥前国神埼荘の地頭職を賜り、一族を率いて肥前へ移住したとされている。この元寇という国家的な大事業における軍功は、鎌倉幕府から直接的な評価を受けたことを意味し、江上氏の家格を高め、肥前における勢力基盤を築く上で大きな意味を持ったと考えられる。

その後、時代は下り、室町時代後期の永享6年(1434年)、十二代当主の常種は、少弐氏が九州探題であった渋川満直を征討する際に協力した。この功績により、江上氏は神埼郡の要衝である勢福寺城の城主となり、以後、少弐氏の有力な与党として行動するようになった。勢福寺城という軍事的に重要な拠点を任されたことは、江上氏が少弐氏の麾下において、単なる在地領主ではなく、軍事的な中核を担う存在であったことを示唆している。

江上武種の登場

江上武種は、この江上氏の第15代当主にあたる人物である 1。彼の父は、江上興種とされている 1。

史料によれば、武種の生年は大永5年(1525年)とされ、没年については詳らかではない。彼が称した官途名は左馬大輔(さまのたいふ)であり 1、これは当時の武士が任官を望んだり自称したりした武家官位の一つで、一定の社会的地位を有していたことを示している。

武種は当初、父祖以来の関係から、肥前の名門守護大名であった少弐資元(しょうに すけもと)と、その子である冬尚(ふゆひさ)の二代にわたって仕えた 1 。彼が歴史の表舞台で活動した主要な時期は、16世紀半ばから後半にかけてであり、これはまさに少弐氏の権威が失墜し、龍造寺隆信が肥前統一へと邁進する、肥前国が最も激動した時代と完全に一致する。

表1:江上武種 略歴表

項目

内容

主な典拠

生没年

1525年 -?年

主な居城

江上城(筑後三潴郡)、勢福寺城(肥前神埼荘)、城原城、蓮池城

1

官途名

左馬大輔

1

主要な主君の変遷

少弐資元 → 少弐冬尚 → 龍造寺隆信

1

主な合戦・事績

天文20年(1551年):龍造寺隆信の家督相続に反対し、「東肥前十九将」の一人として蜂起

1

天文24年(1555年):龍造寺隆信軍の攻撃を受け、勢福寺城を一時退去

1

永禄元年(1558年):長者林の戦い(牟田前の戦い)で龍造寺家臣・小田政光を討伐

1

永禄2年(1559年):龍造寺隆信の攻撃により少弐冬尚自害。武種は筑後へ逃れるも、後に和睦し勢福寺城へ帰還

1

時期不明:龍造寺氏に属し、神代氏攻めなどに参加

1

永禄12年(1569年):大友氏に通じ、龍造寺氏に一時離反

1

元亀2年(1571年):龍造寺軍の攻撃を受け、和睦。龍造寺隆信の子・家種を養子に迎える

1

天正17年(1589年):蓮池城へ移る。勢福寺城は廃城か

2

この略歴表は、江上武種の複雑な生涯における主要な出来事を時系列で整理したものである。彼の居城の変遷や主君の移り変わりは、当時の肥前国における勢力図の目まぐるしい変化と、その中で彼が置かれた立場を如実に物語っている。以降の章では、これらの事績についてより詳細に検討していく。

第二章:龍造寺隆信の台頭と江上武種の抵抗

龍造寺隆信の家督相続と肥前国内の動揺

天文19年(1550年)、龍造寺氏の当主であった龍造寺胤栄が死去すると、龍造寺一門では家督相続を巡る問題が浮上した。結果として、龍造寺家兼の曾孫にあたる隆信(当時は胤信)が本家を相続することになったが、この決定は家中や周辺国人衆の間に少なからぬ波紋を広げた。隆信の父・周家は早くに亡くなっており、また隆信自身も若年であったこと、さらにはその気性の激しさから、彼の家督相続に疑問を呈する者もいたとされる。

このような状況下で、天文20年(1551年)9月、龍造寺氏の宿老であった土橋栄益(つちはし えいます)が、隆信の従叔父にあたる龍造寺鑑兼(あきかね)を新たな当主として擁立し、隆信に対して公然と反旗を翻した 1 。この動きの背景には、龍造寺家兼の死後、急速に勢力を拡大し、強権的な支配を進めようとする隆信に対する、旧来の勢力や少弐氏恩顧の国人衆の強い警戒感があったと考えられる。龍造寺隆信の家督相続問題は、単に龍造寺一門の内紛に留まらず、肥前国全体の勢力図を塗り替える大きな契機となった。少弐氏の権威が著しく低下する中で、肥前国の国人領主たちは新たな秩序形成の動きに極めて敏感に反応し、自らの生き残りをかけて隆信方、あるいは反隆信方へと分かれていくことになったのである。

「東肥前十九将」の蜂起と江上武種の参加

土橋栄益による龍造寺鑑兼の擁立に呼応し、肥前国東部の国人領主たちが次々と反龍造寺隆信の旗幟を鮮明にした。江上武種もまた、この動きに加わった主要な武将の一人であった。彼は、三瀬城主の神代勝利(くましろ かつとし)、八戸城主の八戸宗暘(やえ むねてる)、蓮池城主の小田政光(おだ まさみつ)、勝尾城主の筑紫惟門(つくし これかど)らと共に、龍造寺鑑兼を支持し、隆信と真っ向から対立した 1 。この反龍造寺隆信連合は、後世「東肥前十九将」と称されることがある。

『佐賀市史』などの記録によれば、土橋栄益が龍造寺鑑兼を擁立した際に馳せ参じた諸将として、上記の武将たちに加え、高木城の高木鑑房(たかぎ あきふさ)・高木胤秀(たねひで)親子、西島城の横岳資誠(よこたけ すけのぶ)、馬場鑑周(ばば あきちか)、姉川城の姉川惟安(あねがわ これやす)、本告頼景(もとつぐ よりかげ)、宗田氏(資料によっては宗尚夏とも)、藤崎盛義(ふじさき もりよし)、出雲氏忠(いずも うじただ)、白虎山城の綾部鎮幸(あやべ しげゆき)、朝日山城の朝日宗(あさひ むねとき、宗時とも)、大塚鎮尚(おおつか しげひさ)以下の三大塚、多久城の多久宗時(たく むねとき)、そして島原半島に勢力を持つ有馬氏などが名を連ねている。

この「東肥前十九将」という呼称は、反龍造寺隆信連合の規模の大きさと、その主な活動範囲が肥前国東部であったことを示唆している。この連合は、実質的には少弐氏の旧臣や、龍造寺隆信の急速な勢力拡大と強圧的な支配を恐れる国人衆が、龍造寺鑑兼という血縁者を旗頭として一時的に結集したものであった。江上武種は、少弐氏譜代の重臣であり、勢福寺城という要衝を抑える有力国人として、この連合の中で中心的な役割を担った一人であったと考えられて然るべきである。しかしながら、戦国時代におけるこのような国人領主の連合体は、各々の利害が複雑に絡み合い、必ずしも一枚岩ではなかった。そのため、龍造寺隆信の巧みな調略や断固たる軍事行動によって、徐々に切り崩されていく運命にあったと言える。江上武種がこの連合に参加した動機としては、主家である少弐氏の復権、あるいは少なくともその影響力の維持を意図したものであったと推察される。

土橋栄益と龍造寺鑑兼の役割

この反龍造寺隆信の動きにおいて、中心的な役割を果たしたのは土橋栄益であった。彼は龍造寺氏の宿老でありながら、豊後の大友義鎮(後の大友宗麟)とも通じており、外部勢力との連携も視野に入れながら隆信排除を画策した。栄益は、龍造寺一門であり、かつ大友氏とも繋がりを持つ龍造寺鑑兼を名目上の当主として擁立することで、反乱の大義名分を整え、広範な国人衆の支持を集めようとしたのである 1

一方、擁立された龍造寺鑑兼は、龍造寺家門(いえかど、隆信の祖父・家純の弟)の子であり、隆信の従甥(じゅうせい、いとこおい)にあたる人物であった。生年は天文11年(1542年)とされ、反乱当時はまだ若年であった。彼は大友義鑑(大友宗麟の父)から偏諱(へんき、名前の一字を与えられること)を受けて「鑑兼」と名乗っており、この事実は彼が大友氏と一定の関係を持っていたことを示している。これらの状況から、鑑兼は自らの積極的な意思によって反乱に加わったというよりは、土橋栄益ら周囲の思惑によって担ぎ上げられた象徴的な存在、いわば傀儡当主であった可能性が高い。事実、乱が鎮圧された後、鑑兼は隆信によってその罪を許され、後に龍造寺家臣として仕えている。このことからも、彼が乱の主導者ではなかったことが窺える。この土橋栄益の乱は、龍造寺氏内部の権力闘争という側面に加え、それに乗じようとする外部勢力(大友氏)や周辺国人領主たちの様々な思惑が複雑に交錯した事件であったと言える。

小田政光との戦いと討伐

龍造寺隆信に敵対した江上武種であったが、その武勇を示す逸話として、龍造寺方についていた小田政光を討ち取った戦いが記録されている。永禄元年(1558年)11月、龍造寺隆信は、かつての主家である少弐氏の当主・少弐冬尚が籠る勢福寺城を攻略すべく大軍を率いて進軍した 1 。この時、江上武種は同じく少弐方であった神代勝利と協力し、龍造寺軍の先鋒を務めていた小田政光の軍勢と激突し、これを打ち破り政光を討ち取るという大きな戦功を挙げた 1 。小田政光は、元々は少弐氏の家臣であったが、天文22年(1553年)に隆信に居城の蓮池城を攻められて降伏し、以後は龍造寺氏に従属していた人物である 1

この戦いは、戦場となった地名から「長者林の戦い」、あるいは「牟田前の戦い」などとも呼ばれている。『佐賀県郷土史会』所蔵の記録によれば、この戦いに際して江上武種は神代勝利に救援を求め、神代勢は三瀬城から出陣して勢福寺城に布陣したとされる。一方、龍造寺軍の先鋒として江上・神代勢と対峙した小田政光は、苦戦の中で主君である龍造寺隆信に再三援軍を要請したが、隆信は最後まで兵を動かさなかったという。これに憤慨した政光は、「隆信の計略であれば致し方なし。もはや討ち死にするのみ」と覚悟を決め、寡兵ながらも奮戦したが、ついに神代勝利の家臣である服部常陸介によって首を討たれたと伝えられている。

注目すべきは、龍造寺隆信の動向である。彼は小田政光からの救援要請を黙殺し、政光が討ち死にしたとの報を受けるや否や、間髪を容れずに兵を転じ、小田氏の居城であった蓮池城を急襲したといわれる。この一連の動きは、隆信がかつての敵であり、一時的に従属させていたに過ぎない小田政光を、いわば見殺しにすることで江上・神代勢の力を削ぎつつ、結果的に政光の勢力を排除することに成功したという、彼の非情かつ冷徹な戦略の一端を示している。江上武種はこの戦いで局地的な勝利を収めたものの、長期的には、この出来事が龍造寺隆信による肥前統一を間接的に助ける形となった可能性も否定できない。この戦いは、戦国時代の武将間に見られる複雑な利害関係と、目的のためには手段を選ばない非情な権謀術数を象徴する出来事の一つと言えるだろう。

なお、一部資料 4 では「長者林の戦い」に関する詳細な情報がないとされているが、複数の資料 1 において関連する記述や戦闘の状況が確認できる。特に は具体的な戦闘名と共にその経緯に触れている。本報告書では、これらの情報を総合し、江上武種と神代勝利が協力して小田政光を討ち取った戦いとして記述する。

表2:東肥前十九将(土橋栄益の乱における主な反龍造寺隆信方武将)一覧表

武将名

主な居城 (推定含む)

龍造寺隆信との関係 (土橋栄益の乱当時)

主な典拠

神代勝利

山内諸城 / 三瀬城

土橋栄益の乱で龍造寺鑑兼を擁立し隆信に敵対

1

高木鑑房

高木城

同上

高木胤秀

(高木城関連か)

同上

小田政光

蓮池城 / 小曲城

同上

1

八戸宗暘

八戸城

同上

1

江上武種

勢福寺城

同上

1

横岳資誠

西島城

同上

5

馬場鑑周

(不明、馬場頼周の一族か)

同上

筑紫惟門

勝尾城

同上

1

姉川惟安

姉川城

同上

本告頼景

(不明)

同上

宗田(宗尚夏?)

(不明)

同上

藤崎盛義

(不明)

同上

出雲氏忠

(不明)

同上

1

綾部鎮幸

白虎山城

同上

1

朝日宗(朝日宗時?)

朝日山城

同上

大塚鎮尚

(不明、三大塚の一人)

同上

多久宗時

梶峰城 / 多久城

同上

有馬氏

日野江城 / 原城

同上

この一覧表は、龍造寺隆信の台頭初期における肥前国内の敵対勢力の規模と、その主要な構成メンバーを具体的に示すものである。江上武種が、これらの国人領主たちと共に反旗を翻したという事実は、当時の肥前国における勢力関係の複雑さと、龍造寺隆信に対する反発の広がりを物語っている。

第三章:勢福寺城主としての江上武種と少弐氏の終焉

勢福寺城の歴史と戦略的重要性

勢福寺城は、肥前国神埼郡(現在の佐賀県神埼市神埼町城原)に位置した山城である。古くは江上氏や、肥前の守護大名であった少弐氏の重要な居城の一つであった。特に少弐氏にとっては、その長い歴史の終焉を迎えることとなる最後の拠点であった 2

勢福寺城の城域は広大であり、山麓の居館群や城下町を内包した「惣構え(そうがまえ)」の城郭であったと推測されている 2 。城の中心となる山城部分は、標高約196メートルの城山山頂に築かれ、周囲の尾根筋にも多数の曲輪群が配されていた 2 。この山頂の主郭からは、眼下に広がる佐賀平野を一望することができ、軍事的な監視や指揮統制において極めて有利な立地条件を備えていた 2 。このような地理的・戦略的な重要性から、勢福寺城は肥前東部における覇権を争う上で鍵となる拠点であり、少弐氏と龍造寺氏による激しい攻防の舞台となったのである。この城を掌握することは、周辺地域の支配と防衛に不可欠であり、その失陥は少弐氏にとって致命的な打撃となる可能性を秘めていた。

龍造寺隆信による勢福寺城攻撃と少弐冬尚の自害

龍造寺隆信の勢力が拡大するにつれて、旧主家である少弐氏との対立は避けられないものとなった。天文24年(1555年)、隆信の軍勢が勢福寺城に来襲した際には、城主であった江上武種は奮戦したものの、衆寡敵せず、城を支えきれずに仁比山(にいやま、現在の神埼市神埼町仁比山)へと一時退却を余儀なくされた 1

その後、永禄元年(1558年)11月、龍造寺隆信は再び勢福寺城に籠る少弐冬尚に対して攻撃を開始した 1 。この戦いにおいて、江上武種は神代勝利と共に龍造寺軍の先鋒であった小田政光を討ち取る功績を挙げ、同年12月3日には隆信との間で一旦和議が成立した 1

しかし、この和議は長くは続かなかった。翌永禄2年(1559年)正月、龍造寺隆信は締結したばかりの約定を一方的に違え、油断していた勢福寺城に対して不意の急襲をかけたのである 1 。この внезапный (sudden) 攻撃に対し、江上武種は城を脱出して筑後国へと逃れた 1 。孤立無援となった少弐冬尚は、もはやこれまでと覚悟を決め、勢福寺城内にて自害して果てた 1 。これにより、鎌倉時代以来、九州北部に勢力を誇った名門少弐氏は、事実上滅亡することとなった。

少弐冬尚の自害と少弐氏の滅亡は、長年にわたり少弐氏に仕えてきた江上武種にとって、主家を失うという決定的な出来事であった。龍造寺隆信が和議を反故にして急襲したという経緯は、彼の目的達成のためには手段を選ばない非情さと執念を示すものであり、武種を含む肥前国の多くの国人衆に大きな衝撃と動揺を与えたはずである。この事件の後、江上武種は龍造寺氏との関係を根本から再構築せざるを得ない、極めて困難な状況に追い込まれることになった。

江上武種の勢福寺城への帰還と龍造寺氏への臣従

主家である少弐氏が滅亡した後、筑後国に逃れていた江上武種は、龍造寺隆信との間で和睦を結び、再び勢福寺城へ戻ることが許された 1 。少弐氏滅亡後の勢福寺城は、江上武種が城主となり、今度は龍造寺氏の勢力下における重要な支城として機能することになった 2

かつての主君を滅ぼした相手である龍造寺隆信と和睦し、その支配下に入り、旧主の最後の城であった勢福寺城の城主として戻るという選択は、江上武種にとって内心、苦渋に満ちたものであったと推察される。しかし、これは当時の力関係を鑑みた現実的な判断であり、何よりも江上氏一族の存続を優先した結果であったのだろう。勢福寺城が龍造寺氏の支城となったという事実は、肥前国における龍造寺氏の支配体制が着実に確立されていく過程を象徴する出来事であった。

第四章:龍造寺氏への帰属と変節

龍造寺氏旗下での活動

少弐氏滅亡後、龍造寺隆信に降った江上武種は、その麾下(きか)の武将として活動を始める。具体的には、隆信の肥前統一戦において、同じく少弐旧臣でありながら龍造寺氏に抵抗を続けていた神代氏の攻略などに参加した記録が残っている 1 。これは、江上武種が龍造寺氏の支配体制に組み込まれ、その軍事力の一翼を担う存在となったことを示している。かつて敵対した龍造寺氏の指揮下で、旧知の勢力と戦うことは、武種にとって複雑な心境を伴うものであったろうが、新たな主君である隆信への忠誠を示すためには避けられない道であった。

大友氏への一時的内通と龍造寺氏による征討

しかし、江上武種の龍造寺氏への従属は、必ずしも盤石なものではなかった。永禄12年(1569年)、豊後の大友宗麟が龍造寺隆信を討伐すべく大軍を率いて肥前へ侵攻してくると、江上武種の立場は再び揺らぐことになる。武種は、この機に際して龍造寺隆信に援軍を派遣するよう要請したが、隆信がこれに応じなかったため、これを不満として大友方へと寝返り、大友軍による龍造寺氏の拠点の一つである村中城(佐賀城)攻めに加わったとされている 1

この時、江上氏の重臣であった執行種兼(しぎょう たねかね)は、同じく龍造寺氏から離反した牧吉種次(まきよし たねつぐ)と共に、それぞれ嫡男(牧吉氏は次男)を大友氏への人質として差し出しており、江上氏が大友方についたことの確実性を示している。この武種の大友氏への内通は、龍造寺隆信の強圧的な支配に対する不満の現れであると同時に、依然として九州北部に強大な勢力を保持していた大友氏の力に期待を寄せる肥前国人衆の心理を反映していたものと考えられる。隆信が援軍を出さなかったという理由は、武種にとって離反の直接的な口実となった可能性もあるが、隆信側にも何らかの戦略的な判断があったのかもしれない。

しかし、大友氏の肥前侵攻は、元亀元年(1570年)の今山の戦いにおける龍造寺軍の奇襲による大友軍本隊の壊滅によって頓挫する。これにより、龍造寺隆信は危機を脱し、逆に肥前国内の反抗勢力に対する逆襲を開始した 1

その矛先は当然、大友方に与した江上武種にも向けられた。元亀2年(1571年)、龍造寺隆信は重臣の鍋島信生(のぶなり、後の鍋島直茂)らに2,000の兵を与え、江上武種の居城である勢福寺城を攻撃させた。武種は、重臣の執行種兼らの奮戦もあって一度はこの龍造寺軍の攻撃を退けたものの、衆寡敵せず、最終的には持ちこたえることができなかった 1 。この江上武種の離反と、それに続く龍造寺軍による征討は、一度は龍造寺氏に従属した国人衆を完全に支配下に置こうとする龍造寺隆信の強硬な姿勢と、それに抵抗しようとした江上武種の最後の試みであったと解釈できる。

龍造寺隆信の子・家種の養子縁組と隠居

度重なる抵抗も空しく、江上武種は最終的に龍造寺隆信の圧倒的な軍事力の前に屈服せざるを得なかった。和睦の条件として、武種は隆信の子である家種(いえたね)を自らの養子として迎え入れ、江上氏の家督を譲ることになった 1 。家種は、資料によって隆信の三男 1 とも、次男 7 ともされるが、いずれにしても龍造寺氏の血統が江上氏に入ることになった。

この養子縁組により、江上氏は家名こそ存続したものの、実質的には龍造寺氏に乗っ取られた形となった。龍造寺隆信にとっては、かつて敵対した有力国人である江上氏を完全に支配下に置き、その所領と軍事力を自らの勢力に組み込むための極めて効果的な手段であった。以後、江上氏は家種が当主となり、龍造寺氏の有力な一門として、隆信の指揮のもとで各地の戦いに参加していくことになる 1

一方、江上武種自身は、この和議が成立した後に隠居したと伝えられている。そして、天正17年(1589年)には、かつての勢福寺城から蓮池城(現在の佐賀市蓮池町)へと移り住んだとされ、これ以降、勢福寺城は次第に使われなくなり、廃城になったようである 2 。武種の隠居と蓮池城への移転は、彼が肥前国の政治・軍事の第一線から完全に退いたことを意味し、勢福寺城の廃城は、独立した勢力としての江上氏の終焉と、龍造寺氏による肥前支配の確立を象徴する出来事であったと言えるだろう。江上武種の正確な没年については、残念ながら史料からは明らかになっていない。

第五章:江上家種とその後の江上氏

養子・江上家種の事績

江上武種の養子となり江上氏16代当主を継いだ江上家種は、実父である龍造寺隆信の次男(または三男)であり、龍造寺一門の有力武将として、また江上氏の軍勢を率いて、龍造寺氏の主要な戦いに参加した 1

特に、龍造寺氏の運命を大きく左右した天正12年(1584年)の沖田畷(おきたなわて)の戦いにおいては、総大将である父・隆信と共に島津・有馬連合軍と激戦を繰り広げた。この戦いで龍造寺隆信は討死し、龍造寺軍は大敗を喫したが、家種は奮戦の末に九死に一生を得て戦場を離脱したと伝えられている。『肥陽軍記』などの軍記物によれば、家種は鬼神のような勇猛さで戦ったものの、戦況利あらず、わずかな供回りの者と共に辛うじて死地を脱したと描写されている。この沖田畷での奮戦は、家種の武将としての勇猛さを物語るものであるが、総大将隆信の死は龍造寺氏にとって決定的な打撃となり、その後の急速な衰退を招くことになった。

龍造寺隆信の死後も、家種は龍造寺氏の重臣として活動を続けた。豊臣秀吉による九州平定後、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)が始まると、家種も龍造寺軍の一翼を担って朝鮮半島へ渡海した。しかし、朝鮮の釜山において死去したと伝えられている。その死因については、病死説、狂死説、あるいは戦死説など諸説があり、正確なところは定かではないが、異郷の地での無念の死であったことが示唆されている。家種の朝鮮での死は、既に衰退しつつあった龍造寺氏、そしてその傘下にあった江上氏双方にとって大きな痛手であり、その死因に諸説あることは、当時の混乱した状況や記録の不確かさを反映しているものと考えられる。

江上氏の後継と分家(佐野氏、勝山氏)、佐賀藩・会津藩への仕官

江上家種の死後、その子たちは江上姓を名乗らず、新たな姓を称してそれぞれの道を歩むことになった。家種の長子である茂美(しげよし)は佐野右京亮と名乗り、その子孫は佐賀藩士佐野氏の祖となった 8 。一方、次子の勝種(かつたね)は当初、勝山大蔵と名乗った 8

この家種の子たちが江上姓を捨てた背景には、龍造寺本家の勢力が沖田畷の戦い以降急速に衰え、代わって龍造寺氏の執政であった鍋島氏が肥前国の実権を掌握していくという、大きな権力構造の変化があった。新たな支配体制下で生き残るための処世術であった可能性が考えられる。

勝山勝種は、後に龍造寺氏の血を引く龍造寺伯庵(りゅうぞうじ はくあん)を擁して、江戸幕府に対して龍造寺家の再興を訴える運動に関わったが、この訴えは認められず敗訴した 8 。この龍造寺家再興運動は、単に家名の存続を求めるだけでなく、鍋島氏による支配体制への不満や、旧主家への複雑な思いを抱える旧龍造寺家臣団の一部による、新体制への抵抗の意思表示であった可能性も考えられる。

その後、勝種は会津藩主であった保科正之(ほしな まさゆき、後の松平正之)に預けられる身となった。しかし、会津において彼は江上姓に復し、江上隼人と称して会津藩に召し抱えられ、その子孫は会津藩士として幕末まで続いた 8 。会津藩で江上姓を復活させたことは、困難な状況下にあっても、自らの家名に対する誇りを持ち続けた証左と言えるだろう。この会津藩士江上氏の系統からは、幕末の戊辰戦争において旧幕府軍の精鋭部隊「伝習第一大隊」で活躍した秋月登之助(本名:江上種明)が出ている。

このように、江上武種の血筋は、佐賀藩に佐野氏として残った系統と、会津藩に江上氏として仕えた系統とに分かれ、それぞれ異なる道を歩んだ。これは、戦国時代から江戸時代初期への大きな社会変動期において、多くの武家が経験した多様な運命を象徴している。

結論:江上武種の歴史的評価

江上武種の生涯の総括と、戦国武将としての評価

江上武種は、16世紀の肥前国における激動の時代を生きた武将である。彼は、名門少弐氏の忠実な家臣としてキャリアを開始し、勢福寺城主として一定の勢力を保持した。しかし、新興勢力である龍造寺隆信の台頭は、彼の運命を大きく左右することになる。隆信に抵抗する「東肥前十九将」の一人として反旗を翻し、時には龍造寺方の小田政光を討ち取るなどの武功を挙げたものの、最終的には龍造寺氏の強大な力の前に屈し、その支配体制に組み込まれていった。その後も大友氏に通じるなど、自らの立場を維持しようと画策したが、結果として龍造寺隆信の子・家種を養子に迎えることで、江上氏の家名を存続させる道を選んだ。

彼の生涯に見られる一連の行動は、主家への義理、自領と一族の保全という現実的な要求、そして刻々と変化する時代の流れを見極めようとする現実主義の間で、常に揺れ動いていたように見受けられる。絶対的な強者の前には抗しきれず、時には変節と見なされかねない行動を取らざるを得なかったが、その根底には、何よりもまず一族の存続という、戦国武将にとって最も重要な目標があったと考えられる。江上武種は、戦国時代における地方国人領主が抱えた典型的な悲哀と、同時に困難な状況を生き抜こうとする強かさを併せ持った人物であったと言えるだろう。彼の生涯は、個人の武勇や才覚だけでは抗うことのできない時代の大きなうねりの中で、必死に自らの存在意義を模索し続けた一人の武士の姿を映し出している。彼の評価は、単に「裏切り者」や「忠臣」といった単純なレッテルで捉えきれるものではなく、その複雑な背景と動機を理解する必要がある。

肥前地域の歴史における江上武種の意義

江上武種の動向は、肥前国における支配権が、伝統的権威であった少弐氏から新興の龍造寺氏へと移行していく戦国時代の大きな転換過程を、象徴的に示している。彼が長年にわたり守り、そして龍造寺氏との間で激しい攻防の舞台となった勢福寺城は、まさにその歴史的変遷の証人であった。

彼が「東肥前十九将」の一人として龍造寺隆信に抵抗した事実は、隆信の肥前統一事業が決して平坦な道ではなかったこと、そして肥前国内の国人衆がいかに強い独立志向を持っていたかを示している。江上武種の抵抗は、隆信にとって大きな障害の一つであったと言える。

最終的に江上武種が龍造寺氏の支配体制に組み込まれ、その養子である家種が江上氏を継承し、さらにその子孫が佐賀藩(鍋島氏)や遠く会津藩に仕えたという事実は、戦国時代の在地勢力が、近世における大名権力の中に再編・吸収されていく過程の一つの具体的な事例として捉えることができる。

江上武種の存在と彼の取った行動は、ミクロな視点で見れば一人の戦国武将の盛衰の物語であるが、マクロな視点で見れば、肥前国、ひいては九州地方全体における戦国時代の権力移行と社会変動を理解するための重要なケーススタディを提供するものである。彼の選択と運命は、より大きな歴史的文脈の中で捉え直すことによって、その意義が一層明らかになると言えよう。

補遺

江上武種関連 主要年表

和暦 (西暦)

江上武種及び関連人物・勢力の主要な出来事

関連資料ID例

大永5年 (1525年)

江上武種、生まれる。

天文20年 (1551年)

土橋栄益、龍造寺鑑兼を擁立し龍造寺隆信に反乱。江上武種ら「東肥前十九将」これに与す。

1

天文22年 (1553年)

龍造寺隆信、蒲池氏の支援を受け肥前へ復帰。土橋栄益らを破る。

天文24年 (1555年)

龍造寺隆信軍、勢福寺城を攻撃。江上武種は仁比山へ退く。

1

永禄元年 (1558年)

11月:龍造寺隆信、勢福寺城の少弐冬尚を攻撃。江上武種・神代勝利、龍造寺軍先鋒の小田政光を討ち取る(長者林の戦い)。

1

12月:龍造寺隆信と和議成立。

1

永禄2年 (1559年)

1月:龍造寺隆信、和議を破り勢福寺城を急襲。少弐冬尚自害し少弐氏滅亡。江上武種は筑後へ逃れる。

1

時期不明:江上武種、龍造寺隆信と和睦し勢福寺城へ帰還。龍造寺氏に属す。

1

永禄12年 (1569年)

大友宗麟、肥前へ侵攻。江上武種、龍造寺隆信が援軍を出さなかったため大友方に付き、村中城攻めに参加。

1

元亀元年 (1570年)

今山の戦い。大友軍、龍造寺軍に敗北。

1

元亀2年 (1571年)

龍造寺隆信、鍋島信生らに命じ江上武種を攻撃。武種は一度撃退するも、最終的に和睦。隆信の子・家種を養子に迎える。武種は隠居か。

1

天正12年 (1584年)

3月24日:沖田畷の戦い。龍造寺隆信討死。養子の江上家種は奮戦し生き延びる。

天正17年 (1589年)

江上武種、蓮池城へ移る。勢福寺城は使われなくなる。

2

文禄・慶長の役 (1592-1598年)

江上家種、朝鮮へ出陣。釜山にて死去(時期・死因諸説あり)。

時期不明

江上武種、没する(没年不明)。

引用文献

  1. 江上氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E4%B8%8A%E6%B0%8F
  2. 佐賀最大級の山城跡「勢福寺城」は見どころ多すぎ! [佐賀ポータル ... https://kojodan.jp/info/story/3267.html
  3. 江上武種 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E4%B8%8A%E6%AD%A6%E7%A8%AE
  4. 蓮池城 http://kojousi.sakura.ne.jp/kojousi.hasuike.htm
  5. 小田覚派(資光)時代 - 佐賀市 https://www.city.saga.lg.jp/site_files/file/usefiles/downloads/s34628_20130514091654.pdf
  6. お城城下町観光 http://minagawa.sakura.ne.jp/newpage39castle.html
  7. 龍造寺隆信と久保田 - 佐賀市 https://www.city.saga.lg.jp/site_files/file/usefiles/downloads/s34633_20130321051355.pdf
  8. Untitled - 佐賀市 https://www.city.saga.lg.jp/site_files/file/usefiles/downloads/s34623_20130321113942.pdf