最終更新日 2025-06-11

江戸忠通

「江戸忠通」の画像

戦国期常陸国における江戸忠通の動向 — 佐竹氏との関係を中心に

序章:江戸忠通とは

本報告は、戦国時代の常陸国にその名を刻んだ武将、江戸忠通(えど ただみち)の生涯と事績について、現存する史料に基づき詳細に検討するものである。江戸忠通は、常陸国水戸城(現在の茨城県水戸市)を拠点とした国人領主であり、その活動は同時代の関東地方、特に常陸国内の勢力図に少なからぬ影響を及ぼした。利用者より提示された「常陸の豪族。水戸城主。通泰の子。はじめ佐竹義篤に従うが、義篤の死後、義昭が家督を継ぐと敵対し抗争を繰り返す。のちに和睦し、再び佐竹家に従属した」という概要は、諸史料によって裏付けられるものであり 1 、本報告ではこの理解を基点としつつ、より多角的かつ深層的な分析を加えることを目的とする。

忠通の生涯は、常陸国における最大勢力であった佐竹氏との関係抜きには語れない。佐竹氏への従属と反抗、そして再従属という複雑な関係性の変遷は、戦国期における国人領主の生存戦略の典型とも言える。本報告を通じて、江戸忠通という一武将の動向を丹念に追うことで、戦国乱世における地方勢力の実像と、彼らが置かれた厳しい政治的・軍事的環境を明らかにしたい。

以下に、江戸忠通の生涯における主要な出来事を略年譜として示す。

江戸忠通 略年譜

年代 (西暦)

和暦

出来事

典拠

1508年

永正5年

江戸通泰の子として誕生

1

1535年

天文4年

父・通泰の死去に伴い家督を相続。佐竹義篤と和睦(伊達稙宗斡旋)

1

享禄2年~天文9年 (1529年~1540年)

-

部垂の乱に佐竹義篤方として出兵

1

天文11年~ (1542年~)

-

伊達氏の洞の乱に佐竹義篤方として出兵

1

1545年

天文14年

佐竹義篤死去。後継の佐竹義昭に反抗

1

1550年

天文19年

戸村合戦で佐竹義昭軍に勝利

1

1551年

天文20年

佐竹義昭に降伏、再従属

1

(弘治2年頃)

(1556年頃)

娘・葉月が小田氏治に嫁ぐ

4

1556年

弘治2年

宇都宮広綱の宇都宮城復帰を支援(佐竹義昭らと共に)

1

(晩年)

-

嫡男・通政の健康問題に悩み、鹿島神宮に祈願。嫡孫・重通を後継者とする

1

1564年7月13日

永禄7年6月5日

死去(享年57)。嫡孫・重通(9歳)が家督を継承

1

第一章:江戸忠通の出自と家督相続

常陸江戸氏の系譜と勢力基盤

常陸江戸氏は、その出自を平安時代の武将・藤原秀郷に求め、秀郷の子孫とされる川野辺氏の支流である那珂氏の傍流と称している 1 。那珂氏は那珂郡河辺郷(現在の茨城県那珂市周辺)を本拠とし、江戸氏の祖とされる通泰の代に、室町幕府初代将軍・足利尊氏に従って戦功を挙げ、那珂郡江戸郷(現在の茨城県那珂市下江戸)を領有した。その子・通高の代から「江戸」を名字としたと伝えられる 6 。このような由緒は、江戸氏が単なる新興勢力ではなく、古くからの名家の流れを汲む在地領主としての正統性を主張するものであったと考えられる。武家社会において、家系の権威は勢力維持の重要な基盤の一つであった。

江戸氏の主要な拠点は水戸城であった 1 。この城は、元来、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて馬場資幹によって築かれた「馬場城」を起源とする 7 。室町時代に入り、江戸通房が馬場氏を攻略して城主となって以来、江戸氏による水戸支配は約170年間に及んだとされる 7 。水戸城は、北に那珂川、南に千波湖という天然の要害に挟まれた東西に長い台地上に位置し 7 、常陸国における軍事・交通の要衝であった。この戦略的価値の高い拠点を長期間にわたり維持し続けたことは、江戸氏が常陸国中部において安定した勢力を保持していたことを物語っている。江戸氏の勢力基盤は、このような血縁的権威、在地領主としての長年の実績、そして戦略的拠点の確保という複合的な要素によって支えられていたのである。

忠通の誕生と戦国初期の常陸国の情勢

江戸忠通は、永正5年(1508年)、江戸通泰の子として生を受けた 1 。母は下野国の有力氏族である芳賀高経の娘とされており 1 、この婚姻は、江戸氏が常陸国内だけでなく、隣接する下野国の勢力とも連携を図っていたことを示唆している。

忠通が誕生した16世紀初頭の常陸国は、戦国乱世の様相を呈していた。北部の佐竹氏は一族内の長期にわたる内紛「佐竹百年の乱」を16代当主・佐竹義舜の代にようやく終息させ 3 、常陸統一を目指して勢力拡大を開始しつつあった。しかし、国内には依然として江戸氏をはじめとする多くの国人領主が割拠し、互いに離合集散を繰り返しながら勢力を競い合っている状況であった。このような不安定な政治情勢は、江戸氏にとって常に周囲からの圧力に晒される脅威であると同時に、巧みな外交や軍事行動によって自家の勢力を伸張させる機会をもたらすものでもあった。忠通は、まさにそのような群雄割拠の時代、そして佐竹氏が地域覇権を確立しようとする過渡期に生を受け、その生涯を通じてこの大きな歴史の潮流と向き合うこととなる。

父・通泰からの家督相続とその背景

天文4年(1535年)、父・江戸通泰が死去したことに伴い、忠通は28歳で家督を相続した 1 。武将として活動を開始するに十分な年齢での家督継承であったが、彼が直面した状況は決して平穏なものではなかった。

家督相続直後の常陸国では、佐竹氏が依然として勢力拡大を続けており、周辺国人領主との間には緊張関係が続いていた。事実、忠通が家督を継いだ天文4年(1535年)には、岩城氏と江戸氏が共同で佐竹氏の領内へ侵攻するという事件が発生している。この紛争は、奥州の有力大名である伊達稙宗の斡旋によって和睦が成立したが 3 、江戸氏が佐竹氏に対して必ずしも従順ではなかったこと、そして伊達氏のような外部勢力が常陸国の情勢に影響力を行使し得たことを示している。

父・通泰の時代には、佐竹氏との間で「一家同位」(佐竹氏一門と同等の家格として遇される)の盟約が結ばれた時期(1510年)もあったとされるが 10 、忠通の家督相続時には佐竹領への侵攻も起こっており、両者の関係は単純な従属関係ではなかったことが窺える。父の死は江戸氏にとって一つの転換期であり、忠通は佐竹氏の強大な圧力と、周辺勢力との複雑な関係性の中で、巧みな舵取りによって自家の存続と発展を図るという困難な課題に直面することになったのである。

第二章:佐竹氏との関係変遷 — 協調と対立の狭間で

佐竹義篤との関係:伊達稙宗の斡旋による和睦と従属

江戸忠通が家督を相続した当初、佐竹氏との関係は必ずしも良好ではなかった。前述の通り、天文4年(1535年)には佐竹領への侵攻を行っているが、これは伊達稙宗の仲介によって佐竹義篤との和睦が成立している 1 。この和睦は、単に敵対関係の解消に留まらず、その後の両者の力関係の変化を予兆するものであった。

佐竹義篤が内紛を収拾し、常陸北部における支配を固めて勢力を拡大するにつれて、忠通は佐竹氏への従属を余儀なくされるようになった 1 。この従属は、単に軍門に降ったというよりも、佐竹氏を中心とする一種の軍事連合体への参加という側面を持っていた可能性がある。当時、佐竹氏は「洞(うつろ)」と呼ばれる、半独立的な国人領主たちを緩やかに束ねる結合形態を形成していたとされ 11 、忠通の従属もこの枠組みの中で捉えられるかもしれない。

この従属関係の下で、忠通は佐竹方の武将として、いくつかの重要な戦役に参加している。具体的には、佐竹氏の一族である宇留野義元が起こした部垂の乱(享禄2年/1529年 – 天文9年/1540年)や、伊達稙宗とその子・晴宗が争った伊達氏の洞の乱(天文11年/1542年~)への出兵が記録されている 1 。これらの大規模な軍事行動への参加は、佐竹氏への忠誠を示すと同時に、江戸氏自身の軍事力を維持し、戦功を通じて発言力を確保するという、現実的な戦略判断に基づいたものであったと考えられる。強大な勢力である佐竹氏の勢威を背景に、自家の安全を保障しつつ、可能な範囲で実利を追求しようとする忠通の姿が窺える。

佐竹義昭との対立:義篤死後の路線転換と軍事衝突

天文14年(1545年)、佐竹義篤が病死し、その子である佐竹義昭が若くして家督を継ぐと、江戸忠通と佐竹氏との関係は大きな転換点を迎える。忠通は佐竹氏への従属的立場から一転し、義昭に対して公然と反旗を翻し、両者は激しい抗争状態に入った 1

この対立の原因について、史料は詳細を伝えていない。しかし、戦国時代において主家の代替わりは、従属する勢力にとって自立や勢力拡大の好機と見なされることが常であった。義篤の死と若年の義昭への家督継承は、忠通にとって佐竹氏の支配から脱却し、江戸氏の勢力を回復・伸張させる絶好の機会と映った可能性が高い。あるいは、義昭が父・義篤とは異なる対江戸氏政策を打ち出し、それが忠通の反発を招いたという可能性も否定できない。

この対立は軍事衝突へと発展し、天文19年(1550年)には戸村(現在の茨城県東茨城郡城里町付近か)において両軍が激突した(戸村合戦)。この戦いでは江戸忠通方が勝利を収めたと記録されている 1 。この勝利は、一時的にせよ江戸氏の武威を示し、佐竹氏からの自立を目指す忠通の意気込みを示すものであった。しかし、この勝利は局地的なものに留まり、両者の根本的な力関係を覆すには至らなかった。忠通の佐竹義昭への反抗は、単なる個人的な感情や野心だけでなく、佐竹氏による常陸国内の支配力強化に対する有力国人領主の抵抗という、より大きな構造の中で理解する必要があるだろう。

佐竹氏への再従属:力関係の変化と和睦の受容

戸村合戦での勝利も束の間、江戸忠通は翌天文20年(1551年)には佐竹義昭の攻勢の前に屈し、降伏を余儀なくされた 1 。この降伏は、佐竹義昭が父・義篤の遺領を確実に掌握し、常陸国内における支配権を確立していく過程での重要な画期であった。一度は反抗した有力国人である江戸氏を再び屈服させたことは、他の国人領主に対する強い示威効果も伴ったと考えられる。

降伏後、忠通は義昭に許され、再び佐竹氏の勢力下に組み込まれた。しかし、単に勢力を削がれただけでなく、佐竹氏の指揮下において一定の役割を果たすことも期待されたようである。例えば、この時期に忠通は、常陸南部の小田氏治と常陸中南部の大掾慶幹との間の紛争の仲裁を行っている 1 。さらに、弘治2年(1556年)には、下野国の有力者である芳賀高定からの要請を受け、嫡男・通政や古河公方・足利義氏、そしてかつての敵対者であった佐竹義昭らと共に、壬生綱雄によって宇都宮城を追われた宇都宮広綱の宇都宮城復帰を支援するための援軍に参加している 1

これらの活動は、江戸氏が佐竹氏の支配体制下にあっても、依然として地域における一定の影響力と軍事力を保持していたことを示している。佐竹義昭としても、忠通のような実力者を完全に排除するのではなく、自らの勢力に取り込むことで、その力を利用しようとした現実的な戦略であったと言えよう。忠通の降伏と再従属は、戦国期における力関係の変動と、それに応じた国人領主の柔軟な対応、そして大名による国人統制の一つの様相を示す事例である。

第三章:水戸城主としての活動と外交戦略

水戸城の経営と領国支配の様相

江戸忠通は、その生涯の大部分を水戸城主として過ごし、城を中心とした領国支配を展開した 1 。江戸氏時代の水戸城は、「内城(うちじょう)」、「宿城(しゅくじょう)」、そして「浄光寺」の三つの主要な区画から構成される縄張りであったと伝えられている 8 。これは、戦国期の城郭として、居住空間、家臣団屋敷地、そして防御施設群を組み合わせた基本的な構造を有していたことを示唆している。那珂川と千波湖に挟まれた天然の要害という立地 7 を活かした城の維持・強化は、領国支配の根幹であった。

忠通時代の具体的な領国経営、例えば検地の実施、税制の詳細、あるいは家臣団の組織編成などに関する直接的な史料は乏しい。しかし、戦国期の国人領主として、城の維持管理、家臣団の統制、領民からの年貢徴収、そして有事の際の兵力動員などを日常的に行っていたことは想像に難くない。これらの活動を支える経済基盤の安定は、佐竹氏との対峙や外部の紛争への介入を可能にする上で不可欠であった。

また、江戸氏と寺社との関係も注目される。史料によれば、江戸氏が水戸城を支配するようになってから、薬王院(水戸市内に現存)を庇護し、忠通の父・通泰は焼失した同院の伽藍を再建したと記されている 13 。これは、江戸氏が寺社を通じて領民の信仰心を掌握し、地域社会との結びつきを強化することで、領国支配の安定化を図ろうとした可能性を示している。忠通もまた、このような父祖伝来の寺社政策を継承し、領国経営の一環としていたと考えられる。

部垂の乱・伊達氏の洞の乱への関与とその意図

江戸忠通は、佐竹義篤に従属していた時期に、常陸国内および周辺地域で発生した大規模な紛争に兵を派遣している。具体的には、佐竹氏の一族である宇留野義元が起こした部垂の乱(享禄2年/1529年 – 天文9年/1540年)や、奥州の伊達氏内部で起こった伊達稙宗・晴宗父子の抗争である洞の乱(天文11年/1542年~)への参加が確認されている 1

これらの戦役への参加は、第一義的には主家である佐竹氏への忠誠を示す行為であり、従属関係を維持する上で不可欠なものであった。しかし、それは単に受動的な軍役奉仕に留まらなかったであろう。戦国時代の武将にとって、このような大規模な紛争への関与は、自軍の戦闘経験を高め、戦功を挙げることで発言力を増し、場合によっては恩賞として所領の加増を得る機会ともなり得た。また、広域的な紛争に関わることは、他地域の情勢を把握し、他の武将との間に人脈を形成・維持するための貴重な機会でもあった。

忠通がこれらの派兵を通じて具体的にどのような成果を得たかは史料からは明らかではないが、佐竹氏との関係を維持しつつ、自家の軍事力と政治的立場を強化しようとする、戦国武将としての能動的な戦略の一環であったと解釈できる。それは、戦国乱世を生き抜くための現実的な選択であったと言えよう。

宇都宮氏の内紛介入と広綱支援の政治的背景

弘治2年(1556年)、江戸忠通は、下野国の名門・宇都宮氏の内紛に介入し、当主・宇都宮広綱の宇都宮城復帰を支援した 1 。この軍事行動は、宇都宮氏の重臣である芳賀高定からの要請に応じたものであり、忠通は嫡男・通政、古河公方・足利義氏、そして佐竹義昭らと共同で軍を派遣している。

この宇都宮氏支援は、いくつかの複合的な要因と政治的背景のもとで行われたと考えられる。まず、佐竹義昭の指揮下で行われたこの行動は、佐竹氏が常陸国内の支配を固めるとともに、北関東、特に下野国方面へ影響力を拡大しようとする戦略の一環であった。江戸氏としては、この佐竹氏の戦略に同調することで、下野方面における自家の発言権や権益の確保を期待した可能性がある。

また、芳賀氏との関係も無視できない。忠通の母は芳賀高経の娘であり 1 、宇都宮氏の重臣である芳賀高定からの支援要請は、この縁戚関係が背景にあった可能性が高い。これは、江戸氏が婚姻政策を通じて多方面に外交チャンネルを保持し、それを有事に活用していたことを示唆している。

さらに広域的な視点で見れば、当時関東地方では相模国の後北条氏が急速に勢力を拡大しており、佐竹氏や宇都宮氏はこれに対抗する必要に迫られていた。宇都宮氏の安定化は、反後北条氏勢力の連携を維持する上で重要であり、江戸氏もこの大局的な利害関係の中で行動したと考えられる。宇都宮氏支援は、佐竹氏の戦略、芳賀氏との縁戚、そして関東全体の勢力バランスという複数の要素が絡み合って実現した、戦国期らしい複雑な外交・軍事行動であった。

小田氏との婚姻同盟の意義と影響

江戸忠通は、外交戦略の一環として婚姻政策も積極的に活用した。その代表的な例が、常陸南部に勢力を持つ有力国人・小田氏治との間に結ばれた婚姻同盟である。忠通の娘・葉月は、小田氏治の正室として嫁いだ 1 。この婚姻は、弘治2年(1556年)に起こった海老ヶ島の戦いの前後に、小田氏治が佐竹氏との協調関係を強化する目的で行われたとされている 4

この婚姻同盟は、一見すると複雑な背景を持つ。小田氏治は、佐竹義昭と生涯にわたり激しく抗争を繰り返した武将として知られている。その一方で、江戸忠通は佐竹義昭に従属する立場にあった。佐竹氏に従いつつ、その佐竹氏と敵対する小田氏と婚姻関係を結ぶという行動は、忠通の巧みな外交戦略を示唆している。史料 4 には「氏治は佐竹氏に属する江戸忠通の娘を娶り、両氏の協調関係を強めた」とあり、この同盟が佐竹氏の黙認、あるいは積極的な関与のもとで結ばれ、小田氏を佐竹氏の影響下に引き込むための一つの布石であった可能性が考えられる。

あるいは、江戸氏の立場から見れば、佐竹氏への完全な傾倒を避け、一定の自立性を保持するためのバランス外交の一環であったとも解釈できる。常陸国内の有力国人である江戸氏と小田氏が連携することで、佐竹氏に対して共同で発言力を高めたり、あるいは後北条氏のような外部勢力の侵攻に共同で対処したりする意図があったのかもしれない。

小田氏治の側から見れば、当時、彼は北条氏康からの支援を失いつつあり、単独で佐竹氏に対抗することが困難な状況にあった 4 。そのため、同じ常陸国内の有力者である江戸氏との連携は、自勢力の維持にとって不可欠であった。戦国時代の婚姻同盟は、単なる友好関係の構築に留まらず、複雑な勢力図の中での生き残りをかけた多目的かつ重層的な戦略的手段であった。江戸氏と小田氏の同盟もまた、佐竹氏との関係を主軸に置きつつ、両家の利害が一致した結果として成立したものと考えられる。

以下に、江戸忠通の活動を理解する上で重要な関連人物を一覧として示す。

江戸忠通 関係人物一覧

人物名

忠通との関係性

主要な関わり(史実)

典拠

江戸通泰

忠通の父。芳賀高経の娘を娶る。薬王院を再建。佐竹氏と「一家同位」の盟約を結んだ時期もあった。1535年没。

1

佐竹義篤

主君(一時)、対立後和睦・従属対象

当初対立するも伊達稙宗の斡旋で和睦。その後、忠通は義篤に従属し、部垂の乱や洞の乱に参陣。1545年病死。

1

佐竹義昭

主君(一時)、対立・抗争相手、再従属後の主君

義篤死後、忠通と対立し戸村合戦等で争う。忠通を降伏させ再従属させる。宇都宮広綱支援では共闘。

1

小田氏治

娘婿

忠通の娘・葉月を正室に迎える。佐竹氏との協調関係強化のためとされる。

4

江戸通政

嫡男

忠通の嫡男。健康問題に悩まされ、忠通は鹿島神宮に回復を祈願。宇都宮広綱支援に参加。

1

江戸重通

嫡孫、後継者

通政の子。忠通の死後、9歳で家督を継承。弘治元年(1555年)生まれ。後に佐竹義宣に水戸城を追われる。

1

伊達稙宗

仲介者

天文4年(1535年)、江戸忠通と佐竹義篤の間の和睦を斡旋。

1

芳賀高定

宇都宮氏家臣、支援要請者

弘治2年(1556年)、壬生綱雄に追われた宇都宮広綱の宇都宮城復帰支援を忠通らに要請。忠通の母は芳賀高経の娘。

1

宇都宮広綱

支援対象

壬生綱雄に宇都宮城を追われ、忠通・佐竹義昭らの支援により復帰。

1

第四章:晩年と後継者問題

嫡男・通政の健康問題と後継者指名の苦悩

江戸忠通の晩年は、外的な脅威だけでなく、家内部における深刻な問題にも直面していた。その最も大きなものが、嫡男である江戸通政の健康問題であった 1 。史料によれば、通政の健康状態は芳しくなく、忠通は常陸国一宮である鹿島神宮に鎧兜一式を奉納し、その回復を熱心に祈願したと伝えられている 1 。しかし、その願いも虚しく、通政の健康が好転することはなかったようである。

戦国時代において、家の存続は何よりも優先されるべき課題であり、そのためには家督のスムーズな継承が不可欠であった。特に、当主の強力な指導力と健康な後継者の存在は、家中の安定を保ち、対外的な発言力を維持する上で極めて重要であった。嫡男・通政の健康不安は、忠通にとって大きな心労であったに違いない。医学的な治療法が限られていた当時、神仏に頼ることは切実な願いの表れであった。この後継者問題は、家臣団の中に不安や動揺を引き起こし、場合によっては家督を巡る内紛の火種となる危険性すら秘めていた。

嫡孫・重通への期待と家督継承

嫡男・通政の健康が回復する見込みがないと判断した忠通は、やむなく嫡孫である江戸重通(通政の子)を後継者として指名した 1 。重通は弘治元年(1555年)の生まれであり 14 、忠通が永禄7年(1564年)に57歳で死去した際、重通はわずか9歳であった 1

嫡男を飛び越えて孫に家督を継がせるという決断は、当時の慣習からすれば異例であり、忠通にとって苦渋の選択であったことが想像される。それは、通政の健康状態がいかに深刻であったかを物語っている。しかし、9歳という幼少の当主を擁立することは、江戸氏にとって新たな困難をもたらすものであった。幼い重通が直接政務を執り行ったり、軍事を指揮したりすることは不可能であり、忠通の死後は、家中の有力な家臣による補佐体制が不可欠となったはずである。これは、家中の権力バランスに微妙な変化をもたらし、指導力の低下を招いた可能性がある。

さらに、江戸氏の当主が幼少であるという事実は、常陸統一を目指す佐竹氏にとって、江戸氏への影響力を一層強める好機と映ったかもしれない。実際に、重通の代になって、江戸氏は佐竹義宣(義昭の子)によって水戸城を追われる運命を辿ることになる 6 。通政の健康問題から重通への家督継承という一連の流れは、結果として江戸氏の弱体化を招く一因となり、その後の没落へと繋がる伏線となったと言えるかもしれない。

忠通の死とその後の江戸氏への影響

永禄7年6月5日(西暦1564年7月13日)、江戸忠通は57年の生涯を閉じた 1 。彼の死は、幼い孫・重通が家督を継いだ直後のことであり、江戸氏にとって大きな打撃であった。忠通は、その生涯を通じて佐竹氏という強大な勢力との間で、時には反抗し、時には従属し、また巧みな外交を展開することで、約30年間にわたり水戸城主として家を維持してきた。彼の死によって、その経験と指導力という重しが失われた影響は小さくなかった。

忠通が長年にわたり築き上げてきた他勢力との関係、例えば小田氏との婚姻同盟なども、彼の死によって変化が生じた可能性がある。指導者を失い、幼君を戴くことになった江戸氏の対外的な立場は、以前にも増して脆弱なものとなったであろう。

忠通の死と幼君・重通の擁立は、直接的な因果関係を証明することは難しいものの、天正18年(1590年)に佐竹義宣によって水戸城を奪取され、江戸氏が水戸の地を追われるという結果に繋がる遠因の一つとなったと考えられる。忠通の時代に、緊張関係を孕みつつもかろうじて保たれていた佐竹氏との勢力均衡が、彼の死後に徐々に崩れていった結果と言えるかもしれない。忠通の死は、単に一個人の生涯の終わりを意味するだけでなく、常陸江戸氏という一族の運命にとって、大きな転換点となったのである。

終章:江戸忠通の歴史的評価と常陸江戸氏の行く末

江戸忠通の武将としての能力と限界

江戸忠通は、戦国時代の常陸国において約30年間にわたり水戸城主として家を維持し、激動の時代を生き抜いた武将である。佐竹氏という強大な勢力に囲まれながらも、天文19年(1550年)の戸村合戦では一時的に勝利を収めるなど軍事的な抵抗を示し 1 、また、佐竹義篤に従って部垂の乱や伊達氏の洞の乱に出兵するなど 1 、状況に応じた従属関係も受け入れた。さらに、小田氏治との間に娘を嫁がせる婚姻同盟を結ぶなど 1 、外交手腕も発揮した。これらの事績は、忠通が戦国期の国人領主として、一定の政治力、軍事力、そして外交能力を兼ね備えていたことを示している。

しかしながら、彼の努力も時代の大きな流れには抗しきれなかった側面もある。佐竹氏による常陸統一の動きは強力であり、忠通は最終的にその支配体制に組み込まれる形となった。また、晩年には嫡男・通政の健康問題という家内的な不幸に見舞われ、幼い孫・重通に家督を継承させざるを得なかったことは、江戸氏の将来に影を落とした。盤石な形で次代に繋ぐことができなかった点は、彼の限界であったと言えるかもしれない。強者に抗し、あるいは従うことで自家の存続を図るという忠通の行動は、戦国時代の小勢力にとっては現実的な生存戦略であったが、彼が生きた時代は、佐竹氏が常陸統一に向けて大きく前進した時期であり、一個人の力量だけでこの大きな趨勢に抗うことは極めて困難であった。

戦国期における国人領主としての江戸忠通の位置づけ

江戸忠通は、戦国時代における典型的な国人領主の一人として位置づけることができる。すなわち、一定の領域と軍事力を保持し、自立性を志向しつつも、より強大な戦国大名(この場合は佐竹氏)の勢力圏の中で、同盟、従属、そして時には反抗を繰り返しながら、自家の存続と勢力維持を図った存在である。

彼の行動様式は、戦国期の国人層が置かれた複雑で流動的な政治・軍事環境を色濃く反映している。佐竹氏との関係に見られるように、戦国時代の主従関係は決して一様ではなく、従属の度合いや国人の自立性には大きな幅があった。忠通の事例は、その多様性の一端を示す好例と言える。忠通のような国人領主の動向を詳細に追うことは、戦国大名の勢力拡大戦略や、地域社会の変容をミクロな視点から理解する上で貴重な手がかりとなる。彼は、常陸国、特に水戸地方の戦国史において欠かすことのできない人物であり、その活動を抜きにしてこの地域の歴史を語ることはできない。

その後の常陸江戸氏の動向と水戸城の変遷

江戸忠通の死後、家督を継いだ孫の江戸重通の時代、常陸江戸氏の運命は大きく変わる。天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐が終わり、それに続く奥州仕置の過程で、佐竹義宣(義昭の子、忠通にとっては曾孫の代にあたる)によって水戸城を追放された 6 。これにより、約170年間にわたって水戸の地を支配してきた江戸氏の歴史は、その地において終焉を迎えた。この出来事は、豊臣政権による全国統一とそれに伴う大名の再配置という、戦国時代の終焉を象徴する大きな歴史的変革の中で起こったものである。

水戸城を追われた重通は、妻の父である下総国の結城晴朝のもとへ逃れたと伝えられる 14 。江戸氏の嫡流はこれにより水戸の地を失ったが、完全に断絶したわけではなく、重通の次男・水戸宣通は結城秀康(徳川家康の次男、後の福井藩祖)に仕え、その子孫は家名を保ったとされる 16

一方、江戸氏退去後の水戸城は、佐竹氏の新たな本拠地となり、大規模な改修が施された 7 。しかし、佐竹氏による水戸支配も長くは続かず、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおける佐竹義宣の曖昧な態度が徳川家康の不興を買い、慶長7年(1602年)に出羽国秋田へ転封となった。その後、水戸には徳川家康の十一男である徳川頼房が入り、水戸藩が成立。水戸城は以後、水戸徳川家の居城として幕末までその役割を果たすことになる 7

江戸忠通の生涯と彼が率いた常陸江戸氏の興亡は、戦国時代から近世へと移行する日本の大きな歴史的変革の中で、一つの地域勢力が経験した盛衰の物語である。忠通の時代の奮闘も、最終的にはより大きな力によって規定される運命にあったと言えよう。彼の生き様は、戦国乱世の厳しさと、その中で必死に生き残りを図った国人領主たちの姿を今に伝えている。

引用文献

  1. 江戸忠通 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%BF%A0%E9%80%9A
  2. 水戸城 歴史資料館 - FreeTag https://freetag.jp/mitojyou2.html
  3. 部 垂 の乱 https://www.tsukubabank.co.jp/corporate/info/monthlyreport/pdf/2024/10/202410_05.pdf
  4. 小田氏治 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E7%94%B0%E6%B0%8F%E6%B2%BB
  5. 江戸忠通とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%BF%A0%E9%80%9A
  6. 江戸氏(えどうじ)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%B0%8F-36893
  7. 水戸城の歴史観光と見どころ - お城めぐりFAN https://www.shirofan.com/shiro/kantou/mito/mito.html
  8. 水戸城の歴史と現在・特徴/ホームメイト - 刀剣ワールド 城 https://www.homemate-research-castle.com/useful/16952_tour_033/
  9. 佐竹百年の乱 https://www.tsukubabank.co.jp/corporate/info/monthlyreport/pdf/2024/09/202409_05.pdf
  10. 常陸、水戸城の歴史 http://shiro.travel.coocan.jp/02kanto/mito/mito-history.htm
  11. 戦国期領主佐竹氏と﹁東方之衆﹂ https://rikkyo.repo.nii.ac.jp/record/21108/files/AA12450203_02_07.pdf
  12. 佐竹義昭とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E4%BD%90%E7%AB%B9%E7%BE%A9%E6%98%AD
  13. 水戸城を治めていた江戸氏について,菩提寺や参詣していた寺社の名称・住所を知りたい。 | レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000323807&page=ref_view
  14. 江戸重通(えど・しげみち)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E9%87%8D%E9%80%9A-1058950
  15. 水戸城 https://ss-yawa.sakura.ne.jp/menew/zenkoku/shiseki/kantou/mito.j/mito.j.html
  16. 江戸氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E6%B0%8F
  17. 常陸きっての名族、大掾氏 - 紀行歴史遊学 - TypePad https://gyokuzan.typepad.jp/blog/2015/02/%E5%B8%B8%E9%99%B8%E5%A4%A7%E6%8E%BE%E6%B0%8F.html