はじめに
本報告書は、戦国時代の常陸国における武将、江戸通政(えど みちまさ)について、現存する史料に基づき、その生涯、事績、関連人物、および彼が生きた時代の背景を詳細かつ徹底的に調査し、その成果を報告することを目的とする。
通政は、常陸江戸氏の第8代当主として水戸城主の地位にあったが、生来病弱であったと伝えられ、その治世は短かった。本報告書では、限られた史料の中から通政の実像に迫ることを試みる。ユーザーが提供した情報(常陸の豪族、水戸城主、忠通の子、病弱のため家督を子・重通に譲り武熊城で病没、家臣への官途状写しが残る)を調査の出発点とし、提供された研究資料群を駆使して、より深く掘り下げた情報を提供する。
第一章 江戸通政の生涯と時代背景
第一節 常陸江戸氏の系譜と勢力基盤
常陸江戸氏は、藤原北家魚名流を称し、藤原秀郷の後裔とされる川野辺氏の支流である那珂氏の傍流とされている 1 。ただし、その出自に関しては不確実な点も多く、詳細が明らかでない部分も存在する 2 。南北朝時代の動乱期、那珂氏一族が滅亡の危機に瀕した際、那珂通辰の子である通泰が唯一生き残り、那珂川沿いの下江戸(現在の茨城県水戸市付近か)を本拠として江戸氏を名乗ったことが、江戸氏の発祥と見なされている 2 。
通泰の子、通高は佐竹氏の娘を娶ることで佐竹氏との関係を強化した。嘉慶2年(1388年)、南朝方が難台山に立てこもった戦いにおいて、通高は北朝方として戦死したが、その戦功が評価され、鎌倉公方足利氏満から通高の子である通景に河和田(現在の水戸市河和田町)などの地が与えられた。これにより、通景は本拠地を江戸城から河和田城へと移し、当時水戸地方を支配していた大掾氏を圧迫する勢力へと成長した。この時期、江戸氏は佐竹氏の重臣としての地位を確立し、ついには常陸国の守護代に任じられるに至った 2 。戦国時代に入ると、江戸氏は一時的に守護家である佐竹氏と肩を並べるほどの力を持つようになった 3 。
江戸氏による水戸城の獲得は、常陸国における同氏の勢力拡大の画期であった。水戸城は、元来、平安時代の武将平国香の子孫である馬場資幹が鎌倉時代に築城し、以後200年以上にわたり馬場氏が居城とし、「馬場城」とも称されていた 4 。しかし、室町時代の応永23年(1416年)、足利幕府方の江戸通房(みちふさ)が水戸城を攻略し、これにより水戸城は江戸氏の支配下に入った 4 。この出来事は、江戸氏による水戸地方支配の始まりを象徴するものであった 6 。江戸氏時代の水戸城は、内城(うちじょう)、宿城(しゅくじょう)、浄光寺の三つの区画で構成される縄張りであったと伝えられている 5 。
江戸氏が那珂氏の傍流から佐竹氏の重臣、そして守護代へと勢力を拡大できた背景には、佐竹氏との婚姻政策や軍事的な功績、さらには水戸という戦略的要衝を獲得した地理的条件が複合的に作用したと考えられる。水戸が河川交通の要衝であったことも、その後の発展に大きく寄与したであろう。また、初期の江戸氏が大掾氏を圧迫する存在であったのに対し 2 、後の時代に通政が大掾慶幹の娘を正室に迎えるなど 1 、両者の関係性には変化が見られる。これは、戦国時代の常陸における勢力バランスの変動や、江戸氏の外交戦略の転換を示唆しており、共通の敵の出現や江戸氏内部の事情(例えば通政の病弱さによる安定志向)などが影響した可能性が考えられる。
第二節 江戸通政の出自と家族
江戸通政は、天文7年(1538年)、常陸江戸氏第7代当主である江戸忠通(ただみち)の子として誕生した 1 。幼名は愛千代(あいちよ)、初名は忠房(ただふさ)と伝えられる 1 。父・忠通は永正5年(1508年)の生まれで、永禄7年(1564年)に57歳で没している 8 。母は清厳と記録されている 1 。
通政の正室は、常陸府中城主であった大掾慶幹(だいじょう よしもと)の娘である 1 。子には、後に家督を継ぐことになる嫡男の江戸重通(しげみち)と、鹿島義清に嫁いだ娘がいた 1 。
大掾慶幹の娘を正室に迎えたことは、当時の常陸国内における有力豪族間の連携を意図した政略結婚であった可能性が極めて高い。江戸氏と大掾氏は、歴史的に水戸城を巡る対立関係にあったが 2 、この時期には共通の利害(例えば対佐竹氏など)に基づき、協調関係を模索していたことがうかがえる。父である忠通は、晩年、嫡男である通政の健康問題に深く悩まされたと伝えられている。鹿島神宮に鎧兜一式を奉納し、通政の健康回復を祈願したが、その願いも虚しく病状は好転しなかった 7 。この事実は、通政の病弱さが単に個人的な問題に留まらず、江戸家の家督継承に関わる深刻な問題として捉えられていたことを示している。武家にとって後継者の健康は家の存続に直結するため、忠通の苦悩は察するに余りある。
第三節 病弱な当主とその治世
江戸通政は、生まれつき病弱であったと記録されている。父・忠通は息子のためにあらゆる手を尽くしたものの、回復の見込みはなかったという 1 。この生来の病弱さが、通政の政治的・軍事的な活動に大きな制約を与えたことは想像に難くない。
家督相続の経緯については、父・忠通が通政の病弱さを憂慮し、回復の見込みがないと判断したため、嫡孫にあたる重通を後継者として指名したとされる 7 。しかしながら、一部の史料では通政が家督を継いだとも記されており 1 、父・忠通が永禄7年(1564年)に死去した後、通政が江戸氏の当主となったと見られる。その治世は僅か3年間であったとされている 1 。永禄10年7月16日(西暦1567年8月20日)、通政は30歳という若さでその生涯を閉じた 1 。
父・忠通が孫・重通を後継者としたという記述と、通政が当主として3年間治世したという記述の間には、若干の解釈の余地が存在する。可能性としては、忠通が重通を後継者として指名しつつも、形式的には通政が一度家督を継承した、あるいは通政が名目上の当主であり、実権は既に重通(またはその後見人)へ移行する準備が進められていた、などが考えられる。戦国時代においては、病弱な当主を名目的に立て、有力な一門や家臣が実権を掌握する例や、早々に隠居して幼少の子に家督を譲る例も見られる。通政の場合、父の死後、実際に家督を継いだものの、その権力基盤は極めて脆弱であったと推測される。
史料は通政が「病弱」であったと繰り返し記述しているが、具体的な病名や症状に関する記録は見当たらない。これは当時の医療水準や記録の様式に起因するものであろうが、彼の行動や江戸氏の政策決定に具体的にどのような影響を与えたのかを詳細に把握する上での制約となっている。
表1:江戸通政 略年譜
年代(和暦) |
年代(西暦) |
出来事 |
典拠 |
天文7年 |
1538年 |
江戸忠通の子として誕生。幼名愛千代、初名忠房。 |
1 |
弘治2年 (または3年) |
1556年 (または1557年) |
父・忠通と共に宇都宮広綱救援のため出陣。 |
1 |
永禄7年 |
1564年 |
父・忠通死去。家督を相続したと推定される。 |
1 |
永禄9年 |
1566年 |
上杉謙信と佐竹義重の和議を仲介。 |
1 |
永禄10年7月16日 |
1567年8月20日 |
死去。享年30。 |
1 |
この年譜は、通政の短い生涯と、その中で確認できる数少ない事績を明確にすることで、彼の人生の輪郭を捉える一助となる。特に、父の死、自身の死、そしてその間に行われたとされる外交活動の時期的な関係性が重要である。
第二章 江戸通政の事績と関連人物
第一節 主要な政治・軍事活動
江戸通政の具体的な政治・軍事活動に関する記録は限られているが、数少ない史料から以下の活動が確認できる。
まず、宇都宮広綱救援への参加である。弘治2年(1556年)、下野国の戦国大名である宇都宮氏の家臣芳賀高定からの要請を受け、通政は父・忠通や古河公方・足利義氏、そして常陸の有力大名である佐竹義昭らと共に、壬生綱雄によって宇都宮城を追放された宇都宮広綱の宇都宮城復帰を支援するための援軍に参加した 1 。『水戸市史』に拠れば、この宇都宮出兵は弘治3年(1557年)秋の出来事であり、父・忠通は芳賀氏の要請に応じて佐竹氏の援兵を送り、その際に通政に兵を与えて戦功を立てさせたとされている 6 。この戦功を賞して、通政は家臣に対して感状を発給しており、その日付は天文年間(『水戸市史』では弘治3年10月13日)と記録されている 6 。宇都宮出兵の時期については史料間で1年のずれが見られるが、いずれにしても通政が父の指揮下で軍事行動に参加し、若年期に実戦経験を積んでいた(あるいは積まされた)ことを示している。病弱と伝えられる人物が軍事行動に参加した背景には、父の意向や当時の武家の慣習などが影響していたものと考えられる。
次に、上杉謙信と佐竹義重の和議仲介である。永禄9年(1566年)、越後の上杉謙信と常陸の佐竹義重の間で意見の対立が生じた際、通政がその仲裁を行ったと記録されている 1 。この時期、佐竹義重は上杉謙信との連携を強化し、小田氏治を攻めるなど勢力を拡大していた 9 。病弱とされる通政が、当時関東に大きな影響力を持っていた上杉謙信と、急速に台頭していた佐竹義重という二大勢力の間の仲介役を果たしたという記録は注目に値する。これが事実であれば、江戸氏(あるいは通政個人)が両者から一定の信頼を得ていたか、あるいは地理的・政治的に仲介に適した立場にあった可能性が示唆される。ただし、この仲介の具体的な内容や経緯、結果に関する詳細な史料は見当たらず 12 、その実態については不明な点が多い。しかし、病弱な当主がこのような大役を担った(あるいは名目的に担がされた)とすれば、それは江戸氏が置かれていた複雑な外交関係を反映している可能性があり、特に佐竹氏との関係性を考慮すると、佐竹氏側の意向が強く働いた可能性も否定できない。
第二節 家臣団と後見体制
江戸通政の父・忠通は、通政の生来の病弱さと回復の見込みのなさから、江戸氏の将来を憂慮し、嫡孫である重通(当時9歳)を後継者として指名したとされている 7 。これは、通政の当主としての能力への懸念と、家の安泰を願う親心、そして現実的な判断であったと言えよう。
通政の早逝と重通の幼少により、江戸氏の家政運営には強力な後見体制が不可欠であった。その中心となったのが、以下の主要家臣たちである。
**谷田部通胤(やたべ みちたね)**は、江戸家の宿老であり、「江戸ノ四殿」の一人に数えられる重臣であった。江戸重通が幼少で家督を継いだ際には、筆頭宿老として後見人を務め、家中を実質的に取り仕切ったとされる 14 。谷田部氏は、江戸氏第5代当主・江戸通雅の子である雅胤(通胤の父または祖父か)が谷田部氏の養子となったことで、江戸氏家臣団における地位を飛躍的に高めた。その勢力基盤は、江戸氏の領国において南方進攻の重要な戦略拠点であり、かつ最も肥沃な土地の一つであった涸沼(ひぬま)周辺地域であった 6 。通胤は内政手腕に長けていただけでなく、外交にも才覚を発揮し、相模国の北条氏政とも誼を通じるなど、江戸氏の安定に貢献した 14 。
**江戸通澄(えど みちずみ)**は、通政の叔父(忠通の弟)にあたる人物である。通政の死後、幼い重通の後見人の立場となり、江戸氏の家中で大きな影響力を持つに至った 6 。文武両道に優れ、水戸城内の宿城(二の丸に相当)に居館を構えて権勢を振るったと伝えられる 6 。しかし、その強大な権力は後に家中に対立を生む要因となり、天正16年(1588年)に発生する「神生の乱」の中心人物の一人となる。
**室伏氏(むろふしし)**は、吉田地区(現在の水戸市吉田町周辺)を本拠とした土豪であり、江戸氏の勢力拡大の過程で家臣に組み込まれたと見られる。史料上の初見は天文7年(1538年)頃である。永禄7年(1564年)には、江戸通政から官途(官職名)の推挙を約束され、元亀元年(1570年)には、通政の子である重通の元服の祝儀として、正式に官途を与えられた記録が残っている 6 。これは、戦国大名が官途の授与を通じて家臣を統制し、忠誠心を確保するための重要な手段であったことを示している。ユーザー情報にある「官途状写し」も、この室伏氏へのもの、あるいは同様の事例を指している可能性が高い。
その他、「江戸ノ四殿」としては、 篠原和泉守通知(しのはら いずみのかみ みちとも) 、**神生遠江守通朝(かのう とおとうみのかみ みちとも)**の名が挙げられている 14 。
通政の早逝と重通の幼少という状況下で形成された後見体制は、谷田部通胤のような譜代の重臣と、江戸通澄のような一門の有力者が並び立つ形となった。これは一見すると安定した体制のようにも見えるが、両者の勢力基盤や立場には違いがあり 6 、将来的な家中対立の火種を孕んでいた可能性は否定できない。特に江戸通澄の権勢は、後の神生の乱へと繋がっていくことになる。谷田部氏が筆頭宿老として重きをなした背景には、彼らが押さえていた涸沼周辺という経済的・軍事的に重要な地域の存在が大きかったと推察される。
表2:江戸通政 関係人物一覧
氏名 |
続柄・役職 |
主な関連事項 |
典拠 |
江戸忠通 |
父、常陸江戸氏7代当主 |
通政の病弱を憂慮し、孫・重通を後継指名。永禄7年没。 |
1 |
(大掾慶幹娘) |
正室 |
常陸府中城主・大掾慶幹の娘。政略結婚の可能性。 |
1 |
江戸重通 |
子、常陸江戸氏9代当主 |
幼少で家督相続。佐竹義重より偏諱。 |
1 |
(鹿島義清室) |
娘 |
鹿島義清に嫁ぐ。 |
1 |
江戸通澄 |
叔父(忠通の弟)、重通の後見人 |
水戸城宿城に居住し権勢を振るう。神生の乱の中心人物。 |
6 |
谷田部通胤 |
家臣(宿老、「江戸ノ四殿」筆頭)、重通の後見人 |
涸沼周辺を拠点とし、江戸氏の家政・外交を支える。 |
6 |
室伏四郎右衛門 |
家臣 |
吉田の土豪。通政より官途推挙の約束、重通より官途授与。 |
6 |
篠原和泉守通知 |
家臣(「江戸ノ四殿」) |
江戸氏の重臣。 |
14 |
神生遠江守通朝 |
家臣(「江戸ノ四殿」) |
江戸氏の重臣。神生の乱で通澄と対立した神生氏とは別系統か、あるいは同族か。 |
14 |
上杉謙信 |
越後の戦国大名 |
永禄9年、佐竹義重との和議を江戸通政が仲介。 |
1 |
佐竹義重 |
常陸の戦国大名 |
上杉謙信との和議を江戸通政が仲介。重通に偏諱を与えるなど、江戸氏と関係が深い。 |
1 |
この表は、通政を中心とした主要な関係者の役割や関係性を整理したものである。特に、通政の死後に影響力を持った人物(重通、通澄、通胤)の関係性は、その後の江戸氏の動向を考察する上で重要な基礎情報となる。
第三節 武熊城での籠居と最期
江戸通政は、その短い治世の後、あるいは家督を実質的に譲った後、水戸城外に位置する武熊城(たけくまじょう)に籠居し、そこで病没したと伝えられている。ユーザー提供情報に加え、『水戸市史』においても、通政は病弱のため、父忠通の死後も水戸城の内城(本丸に相当する区域)には移らず、外郭(支城)にあたる武熊城に籠居したままであったと記されている 6 。
武熊城は、南北朝時代の延文年間(1356~1361年)に、常陸大掾氏の一族である石川望幹によって築かれたとされる城である 16 。室町時代以降は江戸氏の支配する城となり、水戸城の支城としての役割を担っていた 17 。江戸氏が水戸城を本拠とするようになると、武熊城はその防衛網の一翼を担う重要な拠点であったと考えられる。しかし、江戸時代初期に千波湖の埋め立てと城下町整備に伴い廃城となり、現在ではその遺構はほとんど残っておらず、水戸市柳町にある竹隈市民センターの一角に城跡碑が建てられているのみである 16 。地名の「武熊」と「竹隈」は読みが同じで字が異なるが、これは後世の変更である可能性が指摘されている 19 。
江戸通政は、永禄10年7月16日(西暦1567年8月20日)、この武熊城において30年の短い生涯を閉じた 1 。戒名については、一部史料に「東禅寺殿仁沢宗智大居士」とあるが、本調査で参照した主要史料群(例えば 1 のWikipedia記事)では確認できなかった。
通政が水戸城の本丸ではなく、支城である武熊城に籠居したという事実は、彼の病状が深刻で政務を執れる状態ではなかったこと、そして既に実権が次代の重通(およびその後見人)へ移行しつつあったことを強く示唆している。武熊城は水戸城の防衛拠点の一つであり、そこに当主がいることは象局的な意味合いも持ち得たであろうが、実質的には隠居に近い状態であったと考えるのが自然であろう。ユーザー情報にある「家督を間もなく子・重通に譲り」という記述と、史料に見られる「父・忠通が孫・重通を後継者とした」 7 という情報を総合的に勘案すると、忠通の意向があり、通政もそれを追認したか、あるいは病状の悪化に伴い実質的に重通とその周辺へ権限が移譲されていったという流れが推測される。
第三章 江戸通政に関する史料と考察
第一節 発給文書と官途
江戸通政自身が発給した、あるいは彼に深く関わる文書の存在は、その活動を具体的に知る上で極めて重要である。ユーザー情報として「家臣への官途状写しが残る」とあるが、これは具体的な史料によって裏付けられる。
永禄7年(1564年)霜月(11月)15日付で、江戸通政が家臣である室伏四郎右衛門に対して官途(武家社会における官職名)の推挙を約束した文書の写しが、『箕水漫録』や『水府地理温故録』といった編纂史料に伝えられている 6 。さらに、この約束は後に実現し、元亀元年(1570年)11月19日には、通政の子である江戸重通が自身の元服の祝儀として、この室伏氏に正式に官途を与えたことを示す文書も存在する 6 。この一連の文書は、戦国大名が官途の授与を通じて家臣の忠誠心を繋ぎとめ、自身の権威を示すという、当時の典型的な主従関係のあり方を示している。通政が約束し、その子である重通がこれを実現したという流れは、江戸氏の代替わり後も家臣への約束が反故にされなかったことを示し、家中の安定を意図した行動とも解釈できる。特に通政の病弱さを考慮すれば、こうした伝統的な手段によって家臣団の結束を維持しようとした可能性は高い。
また、宇都宮出兵に関連して、通政が家臣に対して感状を発給したことも確認されている。これは天文年間(『水戸市史』によれば弘治3年10月13日)のことであり、「今般於宇都宮動」(今般宇都宮における働き)と記されたこの感状は、宇都宮での戦闘における戦功を賞したものである 6 。この感状に関する情報は、『水府志料附録』や『箕水漫録』に記載が見られる 6 。通政が宇都宮出兵に参加した際、彼はまだ18歳か19歳であり、この感状の発給は父・忠通の指導のもとで行われた可能性が高い。しかし、形式的には通政の名で出されており、彼の武将としてのキャリアの初期を示す貴重な史料と言える。これはまた、後継者としての権威を徐々に確立していくプロセスの一環であったとも考えられる。
表3:江戸通政 発給・関連文書一覧
文書種類 |
発給年(和暦) |
宛所 |
内容要点 |
典拠 |
感状 |
天文年間 (弘治3年説あり) |
(家臣) |
宇都宮出兵における戦功を賞する。 |
6 |
官途推挙約束状 |
永禄7年霜月15日 |
室伏四郎右衛門 |
官途の推挙を約束する。 |
6 |
(参考)官途状 |
元亀元年11月19日 |
室伏四郎右衛門 |
(重通発給)通政の約束に基づき官途を授与。 |
6 |
これらの文書は、数少ないながらも通政自身の活動を示す一次史料(あるいはその写し)であり、彼の具体的な行動や権限行使の一端を浮き彫りにする。特に官途関連文書は、彼の統治者としての一面を示す重要な手がかりとなる。
第二節 病と早逝が江戸氏に与えた影響
江戸通政の生来の病弱さと30歳という早逝は、彼個人の運命に留まらず、常陸江戸氏のその後の動向にも少なからぬ影響を与えたと考えられる。
まず、通政自身の行動や江戸氏の戦略に対する制約である。戦国時代の当主には、軍事指揮における強力なリーダーシップや、長期的な視野に立った政治構想の展開が求められた。しかし、病弱であった通政には、こうした役割を十分に果たすことが困難であったと推測される。彼が水戸城外の武熊城に籠居していたという事実は 6 、その制約の一つの現れと見ることができよう。
次に、若年の重通への家督相続と、それに伴う後見体制の必要性である。通政が永禄10年(1567年)に死去した際、嫡男の重通は弘治2年(1556年)生まれであるため、家督相続時はわずか11歳(あるいは12歳)であった 6 。このため、叔祖父(忠通の弟、通政の叔父)にあたる江戸通澄や、筆頭宿老であった谷田部通胤らによる強力な後見体制が不可欠となった 6 。
このような当主の病弱と早逝、そして幼君の登場は、江戸氏内部の権力構造を不安定化させる要因となった可能性が高い。有力な一門や家臣の発言力が増大し、権力の集中が難しくなることで、これが後の神生の乱 6 のような内紛に繋がる遠因となったとも考えられる。戦国時代において当主の個人的資質は勢力の安定に直結するため、通政の状況は江戸氏にとって大きな試練であった。また、当主が強力なリーダーシップを発揮できない場合、周辺勢力との外交や軍事において、守勢に立たされたり、あるいは佐竹氏のようなより強力な大名への依存度を高めたりする結果を招いた可能性も否定できない。実際に、重通の代には佐竹義重に半従属の形で北条氏に対抗していたとされ 15 、佐竹氏への依存は通政の時代から既に始まっていたか、あるいは通政の病弱さがそれを加速させた可能性が考えられる。
第三節 周辺勢力との関係
江戸通政が生きた永禄年間は、関東地方においても戦国大名間の勢力争いが激化していた時期であり、常陸江戸氏もその渦中にあった。
佐竹氏との関係 は、江戸氏の歴史を通じて極めて重要であった。江戸氏は古くは佐竹氏と婚姻関係を結び、その重臣として活動した経緯がある 2 。しかし、戦国時代が進むにつれて佐竹氏の勢力が拡大すると、江戸氏はその影響下に置かれる度合いを強めていった。通政の子である重通は、佐竹氏当主の佐竹義重から「重」の一字を与えられ、「重通」と名乗ったとされており 15 、これは佐竹氏への従属の度合いが強まっていたことを明確に示している。偏諱(へんき:主君などが臣下などに自分の名前の一字を与えること)は、当時の主従関係や同盟関係を示す重要な指標であり、佐竹義重という強大な戦国大名から一字を拝領するということは、江戸氏が佐竹氏の下風に立ったことを意味する。通政の時代に既にその傾向があったのか、あるいは通政の死がその流れを決定づけたのかは、さらなる検討を要する。永禄9年(1566年)に通政が上杉謙信と佐竹義重の和議を仲介したとされる出来事も 1 、このような佐竹氏との関係性の中で行われた可能性が高い。この時期、佐竹氏は義昭・義重の父子の代に常陸国内のみならず、下野国や陸奥国南部へと勢力を拡大していた 20 。
大掾氏との関係 も注目される。通政は、常陸府中城主であった大掾慶幹の娘を正室に迎えている 1 。江戸氏は過去に大掾氏を破って水戸城を奪取したという経緯があり 6 、両氏は必ずしも常に友好関係にあったわけではない。それゆえ、この婚姻は、当時の複雑な政治状況の中で、両氏間の和解や共通の敵対勢力(例えば佐竹氏のさらなる強大化)に対抗するための同盟を意図した政略結婚であった可能性が考えられる。
小田氏との関係 については、直接的な記録は多くない。しかし、永禄9年(1566年)、佐竹義重は上杉謙信と連携して小田氏の本拠である小田城を攻め、小田領の大半を奪取している 9 。この戦いに江戸氏がどのように関与したかは明確ではないが、佐竹氏の同盟者として何らかの役割を果たした可能性は否定できない。常陸国内の有力な勢力として、江戸氏と小田氏は互いにその動向を注視し合う存在であったと考えられる。
総じて、江戸氏は、強大な佐竹氏、伝統的豪族である大掾氏、そして関東に進出する後北条氏や越後の上杉氏といった諸勢力に囲まれる中で、婚姻や限定的な軍事協力、外交仲介などを通じて、巧みな生き残り戦略を展開しようとしていた。通政の短い治世も、このような複雑な国際情勢の中に置かれていたのである。
第四章 江戸氏の領国経営と通政の時代
第一節 経済基盤と領内統治
常陸江戸氏は、水戸城を本拠地とし、常陸国の中部一帯に勢力を有していた。その経済基盤を支えたものの一つとして、家臣である谷田部氏が支配した涸沼(ひぬま)周辺地域が挙げられる。この地域は、江戸氏の領国の中でも特に肥沃な土地であり、農業生産の中心地であったと同時に、水運の利便性から経済的にも戦略的にも重要な拠点であった 6 。戦国大名としての江戸氏が、検地による領内の実態把握 21 や、寺社への寄進を通じた宗教的権威の利用 23 といった、一般的な領国経営を行っていたことは想像に難くないが、江戸氏自身による具体的な経済政策に関する詳細な記録は、本調査の範囲では見出しにくい。
しかし、通政の父である江戸忠通が永禄7年(1564年)に没した直後、江戸氏の領内に徳政令(とくせいれい)が発布されたという記録が、「船戸山和光院記録」に伝えられている 6 。徳政令とは、一般に債権債務関係の破棄や、売買・質入れされた土地の無償返還などを命じる法令であるが、この時の江戸氏の徳政令は、年貢の減免を含む農村救済を目的としたものであったと推測されている 6 。その背景には、相次ぐ外征や周辺勢力からの圧迫による農村の疲弊があったと見られ、領内の動揺を鎮め、安定を図るための措置であったと考えられる 6 。
忠通の死という当主交代の時期に徳政令が出されたことは、新当主(名目上は通政、実質的にはその後見体制)が領民の支持を得て、支配体制を早期に固めようとした意図の表れと解釈できる。特に、新当主である通政が生来病弱であったため、領民の求心力を高める必要性がより大きかった可能性も考えられる。徳政令は、単なる債務破棄ではなく、社会不安の解消や新体制への支持取り付けなど、多分に政治的な意図を伴うことが多い。忠通の死、そして通政の病弱という状況下では、領内の安定が最優先課題であり、そのための手段として徳政令が選択されたと考えるのが妥当であろう。また、徳政令の発布が必要であったという事実は、裏を返せば、江戸氏の領国経営が決して盤石ではなかった可能性を示唆する。度重なる軍事行動や、佐竹氏など周辺勢力への対応が財政を圧迫していたのかもしれない。
第二節 江戸氏内部の動向(通政没後の状況も含む)
江戸通政の早逝と、その子・重通の幼少期における家督相続は、江戸氏内部の権力構造に大きな影響を及ぼした。特に、通政の叔父にあたる江戸通澄は、重通の後見人として家中で急速に権勢を拡大した 6 。
この通澄の台頭と、それに伴う家中の勢力バランスの変化は、やがて深刻な内部抗争へと発展する。天正16年(1588年)12月、水戸城中において「神生の乱(かのうのらん)」と呼ばれる内紛が勃発した。この乱は、江戸氏の一族重臣間の勢力争いに端を発しており、通澄を中心とする勢力と、神生右衛門大夫某(かつて江戸氏が河和田城を本拠としていた時代に分家した古い江戸一族、鯉渕氏の一族に属するとされる)を中心とする勢力との、いわば新旧両勢力の抗争がその底流にあったと推測されている 6 。
この神生の乱の原因の一つとして、「徳政の施行を巡る意見対立」があったと伝えられている 6 。これは、先に述べた忠通没後の徳政令とは時期が異なるものの、領国経営のあり方や、それによって利益を得る層と不利益を被る層(例えば旧来の勢力と新興の勢力、あるいは武士と商人・農民など)の間の深刻な利害対立を反映していた可能性がある。戦国時代の徳政令はしばしば社会に大きな影響を与え、利害対立を生むことがあったため 25 、神生の乱における徳政を巡る対立も、江戸氏の支配基盤や経済構造に関わる根深い問題であったと推測できる。この内乱は、通澄が天正17年(1589年)5月に死去したことで、ようやく終結を迎えた 6 。
通政が長命であり、強力なリーダーシップを発揮することができていれば、神生の乱のような大規模な内紛は抑制できた可能性がある。彼の早逝と幼君・重通の登場、そしてそれに続く長期の後見体制が、江戸氏内部の権力闘争を顕在化させる一因となったと考えられる。この内紛は、結果として江戸氏の勢力を弱体化させ、後の佐竹氏による水戸城奪取へと繋がる遠因の一つとなった可能性も否定できない。
おわりに
江戸通政に関する調査結果の総括
本報告書では、戦国時代の常陸国における武将、江戸通政について、現存する史料に基づいてその実像に迫ることを試みた。調査の結果、江戸通政は、常陸江戸氏の当主として将来を期待されながらも、生来の病弱と30歳という早逝により、その治績を十分に発揮する機会に恵まれなかった悲運の武将であったと結論付けられる。
彼の短い生涯の中で、父・忠通の指揮下での宇都宮氏救援への参加や、上杉謙信と佐竹義重の間の和議仲介といった記録が残されている。しかし、これらの活動の多くは、父・忠通の強い影響下にあったか、あるいは病身を押してのものであったと推測される。彼自身の主体的な政治的・軍事的活動を示す史料は極めて限定的である。
通政の死後、幼い嫡男・重通が家督を継承したため、叔父にあたる江戸通澄や筆頭宿老の谷田部通胤らによる後見体制が敷かれた。この体制は一時的に江戸氏の安定を保ったものの、結果として特定の人物への権力集中を招き、後の神生の乱のような内部抗争の一因ともなった。
その歴史的意義と今後の研究課題
江戸通政個人の歴史的意義は、戦国時代の表舞台で華々しい活躍を見せた他の武将たちと比較すれば、決して大きくはないかもしれない。しかし、彼の存在は、戦国時代における地方豪族の当主が直面したであろう様々な困難、すなわち自身の健康問題、後継者問題、強大な周辺勢力との複雑な関係、そして家臣団の統制といった普遍的な課題を象徴的に示していると言える。
今後の研究課題としては、まず、通政の「病弱」が具体的にどのようなものであったのか、同時代の他の史料や医学史的知見から類推を試みることが挙げられる。次に、彼が関与したとされる上杉・佐竹間の和議仲介について、その具体的な経緯や歴史的意義を、関連する大名家の史料などからさらに明らかにすることが望まれる。また、通政が籠居したとされる武熊城の当時の役割や機能について、より詳細な考古学的調査および文献学的検討を行うことも重要である。
さらに、ユーザー情報として提供された「家臣への官途状写し」について、本報告書で言及した室伏氏へのもの以外に現存するのか、そして、もし存在するならば、その内容がどのようなものであったのかを特定することも、江戸通政および常陸江戸氏の研究を深化させる上で重要な課題となるであろう。これらの課題に取り組むことで、江戸通政という一人の武将を通じて、戦国時代の地方社会の様相をより多角的に理解することが可能になると期待される。
参考文献
本報告書作成にあたり参照した資料は以下の通りである。
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