本報告書は、戦国時代に飛騨国を拠点とした江馬氏の一族であり、後に甲斐武田氏の家臣としてその生涯を閉じた武将、江馬信盛(えま のぶもり)について、現存する史料に基づき詳細かつ徹底的に調査し、その実像に迫ることを目的とします。
江馬信盛は、飛騨の豪族・江馬時盛の子として生まれ、右馬丞(うまのじょう)と称しました。当初は僧侶でしたが、武田信玄による飛騨侵攻後、人質として甲斐国へ送られた際に還俗し、以後は武田家に仕えました。そして、遠江国高天神城をめぐる織田・徳川連合軍との激しい攻防戦において、武田方の一将として奮戦し、天正9年(1581年)にその生涯を閉じました。これらの事実は、戦国時代の地方武将の生き様を象徴するものであり、本報告書ではこれらの情報を基盤としつつ、江馬信盛の出自、家族関係、武田氏への臣従の経緯、高天神城の戦いにおける具体的な役割と最期、さらには彼を取り巻く江馬氏の動向と歴史的背景について、より深く掘り下げて考察します。
江馬信盛個人の生涯は、飛騨という一地方の国人領主の動向と、甲斐武田氏という戦国大名の興亡という、ミクロとマクロの歴史が交錯する点に位置づけられます。本報告書を通じて、信盛の人生が単なる一武将の戦死に留まらず、より広範な歴史的文脈の中でどのように理解されるべきかを探求します。
江馬信盛の生涯の初期段階は、後の彼の運命を方向づける重要な要素を内包しています。
江馬信盛は、天文4年(1535年)に生まれたとされています 1 。父は飛騨の国人領主である江馬時盛(えま ときもり)であり、信盛はその三男であったと伝えられています 1 。兄弟には輝盛(てるもり)、貞盛(さだもり)がいたことが確認されています 1 。通称としては右馬允(うまのじょう)、あるいは右馬丞(うまのじょう)を称しました 1 。
信盛は当初、僧籍にあったとされています 2 。戦国時代の武家において、家督相続の可能性が低い次男や三男が出家することは一般的な慣習であり、信盛もこの例に倣ったものと考えられます。しかし、彼の人生は、江馬氏が武田信玄の勢力下に置かれることで大きな転換点を迎えます。江馬氏が武田氏に降伏した際、父・時盛は信盛を人質として甲斐国に差し出しました。この時、武田信玄は出家していた信盛を還俗させ、「右馬允」と名乗らせて自身の旗本に加えたとされています 2 。僧侶から武士へというこの劇的な変化は、信盛にとって新たな人生の始まりであり、その後の武田家臣としての忠勤、そして最終的には高天神城での壮絶な最期へと繋がる道の第一歩となりました。この還俗と武名拝領は、単に身分が変わっただけでなく、彼自身の意識や生き方にも大きな影響を与えたと推察されます。
以下に、江馬信盛の主要な出来事をまとめた略年表を示します。
和暦 |
西暦 |
主要な出来事 |
関連人物 |
典拠 |
天文4年 |
1535年 |
生誕 |
江馬時盛(父) |
1 |
不明 |
不明 |
僧籍に入る |
|
2 |
永禄2年 |
1559年 |
江馬氏、武田信玄に降伏。信盛、人質として甲斐へ送られ還俗、武田氏旗本となる(異説あり) |
武田信玄、江馬時盛 |
1 |
元亀年間 |
1570年-1573年 |
父・時盛と兄・輝盛が対立。時盛、信盛に家督継承を打診するも、信盛は固辞 |
江馬時盛、江馬輝盛 |
1 |
天正9年3月25日 |
1581年4月28日 |
第二次高天神城の戦いにて戦死 |
岡部元信、武田勝頼、徳川家康 |
1 |
(注) 武田氏への人質となった時期については、永禄2年(1559年)説 1 と、永禄7年(1564年)の武田勢による飛騨侵攻後とする見方 3 があり、本表では一説として永禄2年を記載しました。
江馬信盛の背景を理解するためには、彼が属した江馬氏そのものについて知る必要があります。
江馬氏は、桓武平氏の平経盛(たいらのつねもり)の流れを汲むと称する氏族です 1 。しかしながら、その正確な出自や、いつ頃、どのような経緯で飛騨国に土着したのかについては、信頼できる同時代の史料が乏しく、不明な点が多いのが現状です 4 。後世の編纂物などでは、鎌倉幕府の執権であった北条氏の末裔とする説や、伊豆国田方郡江馬庄(現在の静岡県伊豆の国市付近)との関連を指摘する説などが存在しますが、いずれも確証を得るには至っていません 6 。このように出自が不明瞭であることは、戦国期の地方豪族研究においてしばしば見られる課題であり、江馬氏もまた中央の記録に残りづらい地方勢力であったことを示唆しています。
江馬氏は、北飛騨の高原郷(現在の岐阜県飛騨市神岡町周辺)を本拠地とし、高原諏訪城(たかはらすわじょう)を拠点としていました 1 。高原諏訪城は、江馬氏下館の背後にある大規模な山城であり、江馬氏の本城であったと考えられています 8 。この城は巨大な堀切や長大な竪堀を特徴とし、飛騨有数の山城としてその威容を誇っていました 8 。
江馬氏の居館であったとされる江馬氏館跡(下館跡)は、高原諏訪城跡などと共に「江馬氏城館跡」として国の史跡に指定されています 9 。特に、下館跡で発掘された庭園は、室町時代の武家館の庭園様式をよく示しているとして、国の名勝「江馬氏館跡庭園」にも指定されており、当時の江馬氏の文化的側面を今に伝えています 7 。これらの物理的遺構は、江馬氏が飛騨北部において一定の勢力と文化を保持していたことの証左と言えるでしょう。文献史料によれば、江馬氏は本拠地である高原川流域に留まらず、一時は現在の荒城川流域にまでその勢力を拡大していたことも確認されています 4 。
飛騨国内において、江馬氏は常に安泰であったわけではありません。南飛騨を拠点とする三木氏(みつきし、後の姉小路氏)とは、飛騨国の覇権をめぐって長らく競合関係にありました 1 。また、飛騨国司であった姉小路氏(あねがこうじし)とも、たびたび衝突を繰り返したと伝えられています 4 。
戦国時代に入ると、飛騨国は越後国の上杉謙信と甲斐国の武田信玄という二大戦国大名の勢力圏の狭間に位置することになりました。このため、飛騨の国人領主たちは、両勢力の間で離合集散を繰り返すことを余儀なくされ、江馬氏もまたその影響を強く受けることになります 4 。飛騨国という山国で、周辺を強力な大名に囲まれた地政学的条件は、江馬氏のような国人領主にとって、時には敵対し、時には従属し、また時には中立を保つといった、複雑かつ柔軟な存続戦略を必要とさせました。彼らの歴史は、まさに戦国時代の国衆が置かれた典型的な状況を反映しており、生き残りをかけた外交戦略の重要性を示しています。
以下に、江馬氏に関連する主要な人物をまとめます。
氏名 |
信盛との関係 |
立場・役職 |
主要な事績・特徴 |
典拠 |
江馬時盛 |
父 |
江馬氏当主 |
武田氏に接近し家の安泰を図る。輝盛と対立し、信盛に家督を譲ろうとする。後に輝盛に殺害される。 |
1 |
江馬輝盛 |
兄 |
江馬氏当主(時盛死後) |
上杉氏と結び勢力拡大を図る。父・時盛と対立し殺害。武田氏滅亡後は織田信長に臣従。本能寺の変後、姉小路頼綱に敗れ戦死。 |
1 |
江馬貞盛 |
兄 |
|
信盛の兄弟として名が見える。詳細は不明。 |
1 |
姉小路頼綱 |
敵対勢力 |
飛騨の国人領主、三木氏当主(後に姉小路を称す) |
江馬氏と飛騨の覇権を争う。八日町の戦いで江馬輝盛を破り、江馬氏を滅亡に追いやる。 |
1 |
武田信玄 |
主君(初期) |
甲斐の戦国大名 |
飛騨に侵攻し江馬氏を従属させる。信盛を人質とし、還俗させて旗本とする。 |
1 |
武田勝頼 |
主君 |
甲斐の戦国大名、信玄の子 |
信盛は勝頼の将として高天神城を守る。 |
1 |
江馬氏、そして江馬信盛の運命は、甲斐武田氏との関わりの中で大きく揺れ動きます。
江馬氏が武田信玄の勢力下に組み込まれる直接的な契機となったのは、信玄による飛騨侵攻でした。永禄2年(1559年)、武田信玄が飛騨に侵攻したことにより、江馬氏は武田家に降ったとされています 1 。一方で、永禄7年(1564年)にも武田勢による飛騨侵攻が行われ、この際に江馬輝盛が武田氏に帰属したとする史料も存在します 3 。これらの出来事の関係性については、1559年の初期の従属関係が、1564年の軍事行動を経てより確固たるものになったのか、あるいは江馬氏内部の親武田派と反武田派の動揺があったのか、さらなる検討が必要です。いずれにせよ、この時期に江馬氏が武田氏の強い影響下に置かれたことは間違いありません。
江馬氏が武田氏に降った際、あるいはその後の従属関係を強化する過程で、江馬信盛は人質として甲斐国に送られました 1 。前述の通り、父・時盛が、当時僧籍にあった三男の信盛を、武田氏への忠誠の証として差し出したとされています 2 。武田信玄は、この出家していた信盛を還俗させ、「右馬允」と名乗らせて自身の旗本(直属の親衛隊)に加えたと伝えられています 2 。人質という立場は、屈辱的な側面を持つ一方で、相手勢力の中枢に触れ、その軍事や政治を間近で学ぶ機会ともなり得ました。信盛が信玄の旗本に取り立てられたことは、彼が単なる人質以上の価値を認められた可能性を示唆しており、この経験が後の武将としての資質形成に大きな影響を与えたと考えられます。
武田信玄の旗本となった信盛は、その後、武田家の家臣として数々の戦場で武功を挙げたとされています 2 。具体的な戦功に関する詳細な記述は、提供された史料からは限定的ですが、旗本としての地位は信玄からの一定の信頼を得ていたことの証左と言えるでしょう。この時期の経験は、彼の武士としてのアイデンティティを確立し、武田家への忠誠心を育む上で重要な期間であったと推察されます。
武田氏への従属は、江馬氏にとって大きな戦略転換であり、それは必然的に江馬家内部にも複雑な影響を及ぼしました。
江馬信盛の父である江馬時盛と、その嫡男であり信盛の兄にあたる江馬輝盛は、深刻な不仲にあったとされています 1 。この対立の背景には、外部勢力との外交方針をめぐる意見の相違があったと考えられています。具体的には、父・時盛が甲斐武田氏との連携を重視し、それによって家の安泰を保とうとしたのに対し、兄・輝盛は越後上杉氏との連携を模索し、勢力拡大を図ろうとしていたとされます 2 。この路線対立は、元亀年間(1570年~1573年)頃に顕在化したと見られています 1 。
このような家中対立の最中、父・時盛は嫡男である輝盛を廃嫡し、甲斐国に人質として送られていた三男の信盛に家督を継がせようと打診しました 1 。しかし、信盛はこれを固辞し、武田氏の家臣として仕え続けたと伝えられています 1 。史料には「兄輝盛をはばかって家督を受けずにそのまま武田氏に仕えています」との記述が見られます 2 。この信盛の決断は、単に兄への配慮という謙譲の精神だけでなく、自身が武田家臣としての立場を確立しつつあったこと、そして飛騨本国の複雑な情勢への直接的な介入を避けた、現実的かつ高度な政治判断であった可能性も考えられます。
事態はさらに緊迫化します。天正元年(1573年)4月に武田信玄が病死すると、この情報を察知した江馬輝盛は、これを好機と捉え、上杉氏に内通した上で、同年7月(あるいは8月との説もあり)、実の父である時盛を殺害し、江馬氏の家督を強引に掌握したとされています 2 。この衝撃的な事件は、戦国時代の非情さを示すと同時に、江馬家の内部対立がいかに深刻であったかを物語っています。輝盛はさらに、武田方にあった弟の信盛を追放したとも記されており 2 、これは信盛が輝盛の親上杉・反武田路線とは相容れない存在と見なされたことを示唆しています。
江馬家の家督問題から距離を置いた(あるいは置かざるを得なかった)信盛は、引き続き武田家臣としての道を歩みます。武田信玄の死後、その後を継いだ武田勝頼の将として、変わらず武田家に仕えたと考えられます 1 。高天神城の戦いに至るまでの具体的な戦歴や役職については、史料から詳細を特定することは難しいものの、信玄時代からの旗本としての経験を積み重ね、武田家中で一定の評価を得ていたと推測されます。信玄から勝頼へと代替わりする中で、信盛が引き続き用いられた背景には、彼自身の能力や忠誠心に加え、武田家が飛騨方面との繋がりを維持する必要性を感じていた可能性も考慮されるべきでしょう。そして、その忠勤の集大成の場が、遠江高天神城となるのです。
江馬信盛の生涯の終焉の地となったのは、遠江国高天神城でした。この戦いは、武田氏の衰退を象徴する激戦として知られています。
高天神城は、遠江国(現在の静岡県掛川市)に位置する山城で、その堅固さから「高天神を制する者は遠江を制す」とも言われた戦略上の要衝でした。徳川家康にとっては遠江支配の維持に不可欠な拠点であり、一方の武田氏にとっては、駿河からさらに西へ、遠江・三河方面へ進出するための重要な足掛かりとなる城でした 16 。
第二次高天神城の戦いに先立つ天正2年(1574年)、武田勝頼は徳川家康方の高天神城を攻撃しました。この第一次高天神城の戦いにおいて、城主の小笠原氏興(信興とも)は籠城の末に降伏し、高天神城は武田方の手に落ちました 16 。勝頼は、旧今川家臣で武田氏に降っていた岡部元信(おかべ もとのぶ)を新たな城将(城主)に任命し、高天神城を対徳川戦線の重要拠点としました 16 。
天正9年(1581年)、織田信長と徳川家康の連合軍は、武田方の高天神城に対して総攻撃を開始しました。これが第二次高天神城の戦いです。江馬信盛は、この時、武田勝頼の将の一人として、岡部元信らと共に高天神城の守将を務めていました 1 。
徳川軍は、高天神城を完全に孤立させるため、城の周囲に「高天神六砦」と呼ばれる複数の砦(小笠山砦、能ヶ坂砦、火ヶ峰砦、獅子ヶ鼻砦、中村砦、三井山砦)を築き上げ、兵糧や物資の補給路を完全に遮断しました 16 。さらに、城下の田畑にも繰り返し焼き討ちを行い、城内の食料備蓄は日増しに乏しくなっていったと推測されます 16 。この徹底した兵糧攻めにより、城兵の多くが餓死するという悲惨な状況に陥ったと伝えられています 16 。
絶望的な籠城戦を続ける高天神城の将兵にとって、唯一の希望は主君・武田勝頼からの援軍でした。しかし、勝頼はついに援軍を送ることができませんでした。その理由については、複数の要因が複雑に絡み合っていたと考えられています。
これらの要因が複合的に作用し、結果として武田勝頼は高天神城を見捨てる(あるいは見捨てざるを得ない)という苦渋の決断を下すことになりました。この判断は、武田家の総合的な国力の低下と、織田・徳川連合に対する戦略的劣勢を象徴する出来事と言えるでしょう。織田信長が、高天神城からの降伏勧告を拒否させ、武田勝頼の救援を待つよう仕向けたことは、勝頼の威信を失墜させ、武田方への心理的圧迫を強める高度な戦略であったと考えられます 16 。
以下に、第二次高天神城の戦いにおける主要な関係者をまとめます。
氏名 |
所属勢力 |
城内外での役割・役職 |
主な動向・結果 |
典拠 |
武田方 |
|
|
|
|
岡部元信 |
武田軍 |
高天神城 城主 |
籠城戦を指揮。最後の突撃で戦死。 |
16 |
江馬信盛 |
武田軍 |
高天神城 守将の一人 |
籠城戦に参加。最後の突撃で戦死。 |
1 |
横田尹松 |
武田軍 |
高天神城 軍監 |
籠城戦に参加。「城を捨てるべき」と進言。落城後、甲斐へ帰還し報告。 |
16 |
孕石元泰 |
武田軍 |
城兵 |
籠城戦に参加。落城後捕縛され、徳川家康の命により切腹。 |
16 |
栗田寛久 |
武田軍(客将) |
信濃善光寺別当、城兵 |
籠城戦に参加。落城後捕縛され処刑。 |
16 |
織田・徳川方 |
|
|
|
|
徳川家康 |
徳川軍 |
総大将 |
高天神城を包囲、兵糧攻めを実行。 |
1 |
織田信長 |
織田軍 |
徳川軍の後詰、総指揮 |
岡部元信の降伏を拒否するよう家康に指示。 |
1 |
石川康通 |
徳川軍 |
砦守将 |
武田軍最後の突撃を受ける。 |
16 |
大久保忠世 |
徳川軍 |
攻撃部隊指揮官 |
武田軍最後の突撃に応戦。 |
16 |
大須賀康高 |
徳川軍 |
攻撃部隊指揮官、横須賀城主 |
武田軍最後の突撃に応戦。補給路遮断にも貢献。 |
16 |
本多忠勝 |
徳川軍 |
攻撃部隊指揮官 |
城内への突入に参加。 |
16 |
大河内政局 |
徳川軍(元捕虜) |
第一次高天神城戦で捕虜となり、武田方の土牢に監禁 |
第二次高天神城戦の落城時に徳川軍によって救出される。 |
16 |
援軍の望みが完全に絶たれ、城内の兵糧も尽き果てようとする中、高天神城の将兵は最後の決断を迫られました。天正9年(1581年)3月25日の夜、城主・岡部元信に率いられた残存城兵は、城門を開いて織田・徳川連合軍の陣へ決死の突撃を敢行しました 1 。史料によれば、この最後の突撃の前夜には、江馬信盛ら生き残った城兵たちによる、ささやかな最後の宴席が設けられたとも伝えられています 16 。これは、死を覚悟した武士たちの、武運尽きた中でのせめてもの別れの儀式であったのかもしれません。
江馬信盛は、高天神城の守将の一人として、この最後の壮絶な戦いに身を投じ、奮戦の末に戦死しました 1 。彼の具体的な戦闘行動に関する詳細な記録は乏しいものの、城の守備の一翼を担う将として、部隊を指揮し、自らも刃を振るって敵軍に立ち向かったと推測されます。長年仕えた武田家への忠義を胸に、武士としての名誉を重んじ、最後まで戦い抜いたその最期は、高天神城の悲劇的な結末と分かちがたく結びついています。
この最後の突撃において、城主であった岡部元信もまた、先頭に立って敵陣に切り込み、壮絶な戦死を遂げました 16 。他にも多くの将兵がこの戦いで命を落としました。また、落城後に捕縛され、徳川家康の命によって処刑された武将もいました。例えば、孕石元泰(はらみいし もとやす)は、家康との個人的な因縁から切腹を命じられ、信濃国善光寺の別当であった栗田寛久(くりた かんきゅう)もまた処刑されています 16 。
高天神城の陥落と、江馬信盛を含む多くの将兵の死は、武田氏による遠江支配の完全な終焉を決定づけるものであり、武田家滅亡への流れをさらに加速させる一因となりました。援軍もなく、兵糧も尽きた城で彼らが選んだのは、降伏ではなく玉砕でした。これは、武田武士の意地を示すと同時に、戦国時代の過酷な現実を物語っています。
江馬信盛の戦死は、彼個人の生涯の終わりであると同時に、本家である飛騨江馬氏の運命にも暗い影を落とすことになります。
江馬信盛が天正9年(1581年)3月に高天神城で戦死した後、武田家は急速に衰退していきます。そして翌天正10年(1582年)3月、織田信長による甲州征伐によって、名門甲斐武田氏は滅亡しました 3 。これにより、江馬氏は長年にわたり頼ってきた最大の庇護者を失うことになりました。信盛という武田家との太いパイプ役であり、一定の軍事力を有していたであろう人物の喪失、そして武田家そのものの消滅は、江馬氏の存立基盤を大きく揺るがしました。
武田氏が滅亡すると、信盛の兄であり江馬氏の当主であった江馬輝盛は、時勢を読み、織田信長に臣従しました 3 。しかし、そのわずか数ヶ月後の天正10年(1582年)6月、京都で本能寺の変が勃発し、織田信長が横死するという衝撃的な事件が起こります 3 。この中央政局の激変は、瞬く間に地方へと波及し、飛騨国内も再び流動化し、権力の空白状態が生じました。
織田信長という新たな後ろ盾を失った江馬輝盛は、この機に乗じて飛騨国内での勢力拡大、あるいは宿願であった覇権確立を目指したと考えられます。そして、長年の宿敵であった姉小路頼綱(三木自綱)との間で、飛騨国の支配権をめぐる最終決戦に臨むことになります 1 。
天正10年(1582年)10月、両者は八日町(現在の岐阜県飛騨市古川町)において激突しました(八日町の戦い)。この戦いで江馬輝盛は姉小路頼綱の軍勢に敗れ、討死を遂げました。本拠地であった高原諏訪城も陥落し、ここに飛騨の国人領主としての江馬氏は事実上滅亡したとされています 1 。輝盛の敗死に際しては、残った江馬氏の家臣13名が主君の後を追い、大坂峠(十三墓峠)で自害したという悲壮な伝承も残っており、江馬氏の終焉を物語っています 2 。
江馬氏の嫡流は、輝盛の死によって途絶えたと見なされていますが、完全にその血筋が絶えたわけではありませんでした。輝盛の後継者とみられる江馬時政(えま ときまさ)という人物が、後に飛騨を支配した金森氏を頼ったものの、やがて反乱を起こし、殺害されたとの記録が残っています 3 。これは、江馬氏再興の試みが潰えたことを示しており、戦国時代における小規模国人領主が、一度失った勢力を回復することの困難さを物語っています。
信盛の死からわずか1年半ほどの間に、江馬本家が滅亡に至ったという事実は、歴史の大きなうねりの中で、地方の小勢力が如何に脆い存在であったかを浮き彫りにしています。
本報告書では、戦国時代の武将・江馬信盛の生涯と、彼が属した飛騨江馬氏の興亡について、現存する史料に基づいて詳細に検討してきました。
江馬信盛は、天文4年(1535年)に飛騨の国人領主・江馬時盛の三男として生まれ、当初は僧籍にありましたが、江馬氏が武田信玄に臣従する過程で人質として甲斐国へ送られ、還俗して武田氏の旗本となりました。父・時盛と兄・輝盛との間には家督をめぐる深刻な対立があり、信盛は父から家督継承を打診されながらもこれを固辞し、武田家への忠勤を貫きました。その後、武田勝頼の将として遠江国高天神城の守将の一人となり、天正9年(1581年)、織田・徳川連合軍との第二次高天神城の戦いにおいて、絶望的な籠城戦の末、決死の突撃を敢行し、壮絶な戦死を遂げました。享年47歳でした。
信盛の生き様は、戦国時代における地方武将の一つの典型を示しています。すなわち、強大な戦国大名の勢力下に組み込まれ、その中で自身の立場を確立しようと努め、時には家中の内紛に巻き込まれ、そして最終的には主家のために戦場で命を散らすという姿です。しかし同時に、家督を固辞し、人質として送られた先の武田家への忠義を貫いたとされる点には、彼の個性や武士としての矜持がうかがえます。彼の人質としての経験、そして武田家臣としての活動は、単なる服従ではなく、戦国武将としての資質を磨き、武田家という大組織の中で自身の役割を全うしようとした結果であったと言えるでしょう。
江馬信盛の死は、彼個人の物語の終焉であると同時に、飛騨江馬氏の歴史においても一つの転換点となりました。信盛という武田家との重要な繋ぎ役を失い、さらにその武田氏自体が滅亡したことで、江馬氏は急速にその存立基盤を弱体化させました。結果として、信盛の死から程なくして、兄・輝盛も宿敵・姉小路頼綱との戦いに敗れて戦死し、国人領主としての江馬氏は歴史の表舞台から姿を消すことになります。信盛の存在が、仮に武田氏滅亡後も続いていたならば、江馬氏の運命が多少なりとも異なっていた可能性を完全に否定することはできません。
江馬信盛という一人の武将を通じて見える戦国時代の様相は多岐にわたります。中央の巨大権力と地方の国人領主との関係、同盟と裏切りが常態化した厳しい国際環境、家中の内紛と個人の忠誠心の相克、そして武士としての名誉と家の存続という重い課題など、これらの要素が複雑に絡み合いながら歴史を形成していったことが理解されます。江馬信盛の生涯は、そのような激動の時代を精一杯生き抜いた一人の人間の軌跡として、我々に多くのことを示唆してくれます。彼の人生は、戦国という時代の複雑さと非情さを体現しており、そのミクロな視点から、より大きな歴史の流れを読み解くための一つの手がかりを与えてくれると言えるでしょう。