最終更新日 2025-06-11

江馬時盛

「江馬時盛」の画像

戦国期飛騨の武将 江馬時盛の生涯と時代背景

1. 序章:江馬時盛と戦国期の飛騨

本報告書は、戦国時代の飛騨国にその名を刻んだ武将、江馬時盛(えま ときもり)について、現存する史料に基づき、その生涯、当時の政治的状況、周辺勢力との関係、そして一族の運命を詳細に検証するものである。江馬時盛は、飛騨の有力な国人領主であり、高原諏訪城を拠点とし、同じく飛騨国内の覇権を争った三木氏としのぎを削った。また、甲斐の武田氏との連携を模索する一方で、嫡男である輝盛とは越後の上杉氏との関係構築を巡って対立し、最終的にはその輝盛によって暗殺されるという悲劇的な最期を遂げた。

飛騨国は、地理的に越後、甲斐、信濃、美濃といった強大な戦国大名に囲まれた山国であり、常にこれらの周辺勢力からの影響を強く受ける宿命にあった 1 。特に、甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が信濃の支配権を巡って繰り広げた川中島の戦いは、飛騨の国衆たちの動向に決定的な影響を及ぼし、彼らを武田方と上杉方に二分させる要因となった 1 。江馬時盛の生涯は、このような複雑かつ厳しい国際環境の中で、自家の存続と勢力拡大を図った地方豪族の典型的な姿を映し出している。江馬氏は、飛騨国北部の高原郷(現在の岐阜県飛騨市神岡町周辺)を本拠とし 2 、長年にわたり姉小路(三木)氏と飛騨国の覇権を争い続けたことが記録されている 3

2. 江馬氏の出自と勢力基盤

2.1 江馬氏の出自に関する諸説

江馬氏の出自については、いくつかの説が伝えられているものの、決定的な史料に乏しく、その詳細は明らかではない 4 。一般的には桓武平氏の平経盛の流れを汲むと称し 2 、また、鎌倉幕府の執権であった北条氏の一族であるとも言われている 4 。後世に編纂された『江馬家後鑑録』などの史書には、平経盛の子である輝経が伊豆国で北条時政に養育され、後に飛騨へ流されたのが江馬氏の祖であるといった記述が見られるが、これらの記述の信憑性については、現代の研究では疑問視されている 5 。室町時代には、室町幕府の政所執事であった伊勢氏との間に繋がりがあったことも指摘されている 2

戦国時代の多くの大名や国人領主が、自らの権威を高め、領地支配の正当性を確立するために、平氏や源氏といった名門の出自や、幕府の要職にあった有力者との関係を強調したことは広く知られている。江馬氏が主張したとされるこれらの系譜も、歴史的証拠の多寡に関わらず、同様の意図のもとで形成された可能性が高い。特に、社会の流動性が高まり、実力主義が支配する戦国乱世においては、こうした伝統的権威に依拠することが、在地での影響力を維持・拡大する上で重要な意味を持っていたと考えられる。

2.2 飛騨における勢力基盤:高原郷と城館

江馬氏は、飛騨国吉城郡高原郷(現在の岐阜県飛騨市神岡町周辺)を本拠地とし、室町時代から戦国時代にかけて北飛騨一帯を支配したと伝えられている 2

その拠点となったのが、日常的な居館であり政務の中心でもあった江馬氏館(下館とも称される)である 4 。この館跡に現存する庭園は、国の名勝にも指定されており、15世紀末から16世紀初頭にかけて造営されたものと考えられている 6 。発掘調査の成果に基づいて会所や塀と共に復元整備されており、当時の武家屋敷の空間構成や庭園文化を現代に伝える貴重な遺構である 6 。この庭園は、園池を中心とした構成で、当時の人々が会所から眺めたであろう景観を追体験することができる 7 。様式としては、緩やかな築山と浅い池(当初は水のない枯池式であったと推定されている)を配し、その周囲には自然石を用いたやや無骨とも言える護岸石組が見られる。飛騨の山々が間近に迫る立地や、当時神岡鉱山で培われたであろう採掘・運搬技術を背景として、同時代の他の庭園と比較して大きな庭石が用いられている点も特徴的である 8

このような洗練された庭園の存在は、江馬氏が単に山間の武勇に長けた一豪族というだけでなく、当時の政治的・文化的な中心地であった京都の文化を受容し、それを自らの拠点に再現するだけの経済力と文化的関心、そしておそらくは中央との人脈をも有していたことを示唆している。これは、戦国期の地方領主が、在地における権威を高め、また他の勢力との交渉を有利に進める上で、文化的要素がいかに重要であったかを示す一例と言えるだろう。

一方、江馬氏館の背後に聳える山には、有事の際の拠点となる高原諏訪城が築かれていた。この城は大規模な山城であり、江馬氏の本城であったと考えられている 9 。築城年代や具体的な築城者は不明であるが、戦国時代の山城の様相を色濃く残しており、特に巨大な堀切や長大な竪堀といった防御施設が特徴的で、飛騨地方でも有数の山城と評価されている 9 。国の史跡「江馬氏城館跡」の構成要素の一つとしても指定されている 10

飛騨地方の山城は、石垣や天守閣といった建造物よりも、土を掘り、削り、盛り上げるといった土木工事(普請)によって築かれることが一般的であった。その基本的な構成要素は、兵が駐屯するための平坦地である曲輪(くるわ)、尾根からの敵の侵入を阻むための堀切(ほりきり)、曲輪の周囲に土を盛って築いた土塁(どるい)、そして人工的に急斜面を削り出して防御ラインとする切岸(きりぎし)などである。高原諏訪城は、これらの要素が良好な状態で残存しており、特に見上げるような高さの切岸や、深く垂直に掘られた堀切(一部には二重の堀切も確認できる)は圧巻である。主郭部分は周囲より一段高く、天守台のようにも見え、その周囲を帯状の曲輪が取り囲む構造となっている。興味深い点として、同じく飛騨の有力国人であった姉小路氏の城郭に見られる畝状竪堀群(斜面に多数の竪堀を並べて敵の移動を妨げる防御施設)が、高原諏訪城や傘松城といった江馬氏関連の城では用いられていないことが指摘されている 11

高原諏訪城に見られるような大規模かつ堅固な防御施設は、江馬氏が置かれていた飛騨国内の軍事的緊張の高さを物語っている。特に、長年にわたるライバルであった三木(姉小路)氏との抗争を考慮すれば、こうした城郭の整備は必然であったと言える。また、江馬氏と姉小路氏の城郭に見られる築城技術の違い(例えば畝状竪堀群の有無)は、両氏が依拠した築城技術の系統の違い、あるいは想定される戦術や脅威に対する対応策の違いを反映している可能性があり、飛騨国内における勢力間の対立が、築城技術の地域的な発展にも影響を与えていたことを示唆している。

3. 江馬時盛の時代:周辺勢力との関係

3.1 三木(姉小路)氏との抗争

江馬氏は、飛騨国の覇権を巡って、国司の家柄である姉小路氏や、後に姉小路氏を称することになる三木氏と、長年にわたり激しい抗争を繰り広げた 2

江馬時盛の父とされる江馬時経の時代から、姉小路家や三木氏とは度々衝突していた 2 。史料によれば、天文13年(1544年)には、理由は定かではないものの三木氏と江馬氏が敵対関係に入り、三木直頼が江馬時経に対して軍事行動を起こしたと見られている 12

時経が天文15年(1546年)に死去し、時盛が家督を継承した当初は、一時的に三木氏との間で和解が成立していたようである 12 。しかし、この和平は長くは続かなかった。弘治2年(1556年)、武田信玄と連携を深めていた江馬時盛は南進し、越後上杉氏と結びつきのあった南飛騨の三木氏(姉小路氏)を攻撃し、これを破っている 12 。この時期、飛騨の国人領主たちは、信濃を巡って激しく対立する武田信玄と上杉謙信のいずれに与するかで分裂しており、時盛は武田方、対する三木良頼は上杉方という構図であった 13

江馬氏と三木氏の間の紛争は、常に一定の敵対関係にあったわけではなく、外部勢力である武田氏や上杉氏の動向、さらには両氏の飛騨への影響力の変化に応じて、その様相を変えていった。敵対していたかと思えば一時的に和解し、しかし戦略的状況が変われば再び紛争が勃発するという、戦国時代の地方勢力間によく見られる流動的な関係であった。このことは、彼らが生き残りをかけて、複雑な外交関係と軍事的緊張の中で巧みに立ち回らざるを得なかった状況を反映している。

3.2 武田信玄との連携

江馬時盛は、自家の勢力拡大と飛騨国内での優位性を確立するため、甲斐の武田信玄との同盟関係を重視した 1 。永禄7年(1564年)には、武田氏の軍事的な支援を得て、当時上杉方についていた三木氏や、自らの嫡男である江馬輝盛を圧倒し、輝盛をも武田氏に帰属させることに成功した 2

同年、武田信玄は時盛に対し、越中侵攻の戦略的拠点として東町城(後の神岡城)の築城を命じたと伝えられている 14 。この時期、武田信玄による飛騨侵攻が行われ、江馬氏内部では時盛が武田方、輝盛と三木良頼が上杉方として分裂するという事態が生じていた 13 。軍記物である『甲陽軍鑑』や『江馬家後鑑録』には、この武田勢の飛騨侵攻と、それに伴う時盛の武田氏への服属が記されており、この結果、時盛は一時的に飛騨国内で孤立した可能性も示唆されている 16

時盛が武田信玄との同盟を選択したことは、短期的には三木氏や上杉方であった輝盛に対して有利な状況をもたらした 2 。しかし、この戦略的判断は、江馬氏の運命を武田氏の盛衰と深く結びつけることにもなった。武田氏との連携は、必然的に上杉謙信との敵対関係を深めることになり、後の織田信長の台頭期における江馬氏の立場にも複雑な影響を及ぼすことになる。地方の覇権を目指したこの外交政策は、より広範な戦国時代の勢力図の中で、江馬氏を大きな渦に巻き込んでいく要因となったのである。

3.3 上杉謙信との関係

嫡男である輝盛が上杉氏との連携を強く志向したのに対し 3 、江馬時盛は基本的には武田信玄との関係を重視する立場であった。しかし、上杉謙信との関係は単純な敵対のみではなく、複雑な側面も持っていた。

史料によれば、永禄年間(1558年~1570年)のある時期に、時盛が上杉謙信に対して誓詞と血判状を提出し、降参したという記録が存在する 17 。これは、永禄7年(1564年)頃、武田信玄の飛騨侵攻に関連して、時盛が武田方に通じたことが原因で、輝盛や三木良頼らと対立(「時盛再乱」と称される)。輝盛が謙信に助けを求めた結果、謙信が越中の諸将に命じて軍事介入を行い、最終的に時盛が降参して和議が結ばれた、という文脈で理解されている 17

また、第五次川中島の戦い(永禄7年/1564年)の際には、江馬時盛が武田方、江馬輝盛と三木良頼が上杉方として参陣したとされている 13

武田信玄の死後(元亀4年/天正元年・1573年)、輝盛は上杉氏の重臣である河田長親を通じて上杉方に内通する動きを見せるが 1 、この時点では武田氏との関係も完全に断ち切ってはおらず、両属的な状態を保っていたようである 2 。その後、天正4年(1576年)には、上杉謙信による飛騨討伐を受け、三木氏と共に上杉方に降伏している 2

江馬時盛の上杉謙信との関係は、一見すると矛盾しているかのように見える。一般的には親武田派として認識されている時盛が、ある時期には謙信に服従したという記録は、戦国時代の外交関係が固定的なものではなく、当面の軍事的圧力や戦略的計算に基づいて柔軟に変化しうるものであったことを示している。特に、時盛のような地方の国人領主にとっては、自領と一族の存続を最優先とし、時には敵対する大勢力に対しても一時的に服従することで危機を回避したり、交渉を有利に進めようとしたりすることは、現実的な選択肢であったと考えられる。 17 に見られる「御一和(和解)」という言葉は、上杉氏による完全な征服ではなく、交渉による一定の妥協があったことを示唆しており、小規模領主が生き残るために行わなければならなかった複雑なバランス外交の一端を垣間見ることができる。

表1:江馬時盛・輝盛父子と周辺勢力関連年表

年代(和暦/西暦)

江馬時盛・輝盛の動向

関連勢力の動向

主要な出来事・戦い

典拠

天文13年 (1544)

父・時経の代。三木氏と敵対。

三木直頼が時経に出陣か。

12

天文15年 (1546)

時盛、家督継承。三木氏と一時和解か。

江馬時経死去。

12

弘治2年 (1556)

時盛、武田信玄と結び南進。姉小路氏(三木氏)を破る。

三木氏は上杉謙信と結ぶ。

12

永禄7年 (1564)

時盛、武田方。輝盛、三木良頼と共に上杉方。武田の支援で時盛優位、輝盛も武田に帰属。

武田信玄、飛騨侵攻。上杉謙信、川中島へ出陣(第五次川中島の戦い)。

時盛再乱。時盛、謙信に降参・和解。輝盛、武田の越中侵攻で戦功、中地山城を与えられる。

2

元亀2年 (1571)

椎名康胤が松倉城の戦いで上杉謙信に敗北。江馬氏と上杉氏が所領を接する。

2

元亀4年/天正元年 (1573)

輝盛、信玄の死を察知し上杉氏に内通。 【説1】この頃、輝盛が時盛を暗殺か (7月16日または8月15日)。

武田信玄死去 (4月)。

1

天正3年 (1575)

輝盛、再度上杉氏に詫びる。

2

天正4年 (1576)

輝盛、上杉謙信の飛騨討伐を受け三木氏と共に降伏。

塩屋秋貞が謙信に江馬父子征伐を進言。

2

天正5年 (1577)

輝盛、家臣・河上強内を通じ上杉謙信と連絡。継続して上杉方。

13

天正6年 (1578)

【説2】輝盛、時盛を暗殺 (7月16日)。 時盛が弟・信盛を当主にしようとしたためとされる。輝盛、織田信長に従属。

上杉謙信死去 (3月)。三木氏の支援を受けた織田勢が越中月岡野に侵攻。

月岡野の戦い。

2

天正10年 (1582)

輝盛、甲州征伐後、正式に信長に臣従 (3月)。信長横死後 (6月)、三木自綱と戦い討死 (10月27日)。江馬氏事実上滅亡。後継は時政。

武田氏滅亡 (3月)。本能寺の変 (6月)。

八日町の戦い。高原諏訪城陥落。

2

天正12-13年 (1584-85)

時政、佐々成政に攻められ「高原の城」を明け渡す。

13

天正13年 (1585)

時政、金森長近の飛騨侵攻後、金森氏に反乱し敗死。江馬氏滅亡。

金森長近、飛騨侵攻。三木氏滅亡。

2

4. 嫡男・輝盛との確執と対立

江馬時盛とその嫡男である輝盛との間の深刻な対立は、江馬家のその後の運命を決定づける極めて重要な要因であった。この確執の根源には、当時飛騨国を取り巻いていた二大勢力、すなわち甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信に対する外交方針の根本的な違いが存在した 1 。父である時盛が武田氏との連携を最重視したのに対し、息子である輝盛は上杉氏との関係構築こそが江馬氏の進むべき道であると強く主張したのである。

この親子間の路線対立が顕在化したのが、永禄7年(1564年)の武田軍による飛騨侵攻の際であった。この時、時盛は武田方につき、一方の輝盛は三木嗣頼(良頼)やその子である自綱と共に上杉方として行動した 13 。結果として、武田氏の軍事支援を受けた時盛が優位に立ち、輝盛も一時的にではあるが武田氏に帰属することを余儀なくされた 2 。しかし、この後も輝盛は上杉氏への傾斜を内心では持ち続けていたと考えられ、両者の間の溝が埋まることはなかった。

対立の原因は、単に外交方針の違いだけに留まらなかった可能性が高い。より直接的な対立の火種として、時盛が武田家に人質として送っていた輝盛の弟、江馬信盛を自らの後継者に据えようとしたことが挙げられる。この後継者問題が、輝盛による父・時盛暗殺という悲劇的な結末の直接的な動機となったとする説が有力である 2

この一連の動きは、単なる政策上の意見の相違から、江馬家の家督相続を巡る深刻な権力闘争へと発展したことを示している。時盛が、親武田派であり、かつ武田家への人質経験もある信盛を後継者とすることで、江馬家の親武田路線を確固たるものにしようとした試みは、輝盛にとっては自らの当主としての地位、そして彼が志向する上杉氏との連携という政治目標の双方を脅かすものであった。輝盛にとって、父の暗殺という強硬手段は、自らが廃嫡されることを防ぎ、江馬氏の将来の方向性を自らの手で掌握するための、追い詰められた状況下での最後の選択であったと解釈できる。この親子間の深刻な不和と対立は、江馬家の家臣団をも巻き込み、その内部結束を著しく弱体化させたことは想像に難くない。 24 に示された図解資料は、父子の間の相互不信が頂点に達し、最終的に破局的な事件へと至る過程を視覚的に示唆している。

5. 江馬時盛の最期:暗殺

江馬時盛の生涯は、実の息子である輝盛の手によって暗殺されるという、極めて悲劇的な形で幕を閉じた 1 。伝承によれば、輝盛が周到に計画した酒宴の夜、時盛とその妻であった明石は寝所を刺客に襲われ、命を落としたとされている 3

この暗殺に至る動機については、前述の通り、武田氏と上杉氏のいずれに与するかという外交方針を巡る父子の深刻な対立に加え、時盛が輝盛を廃して、その弟である江馬信盛を後継の当主として擁立しようとしたことが決定的な要因であったと考えられている 2

しかし、この時盛暗殺が実行された正確な時期については、史料によって記述が異なり、主に二つの説が存在する。

天正元年(1573年)説

この説は、元亀4年/天正元年(1573年)4月に武田信玄が死去したことを大きな転機と捉える。信玄の死によって武田氏の勢力に動揺が生じたことを見計らい、輝盛が上杉氏に内通するとともに父・時盛を殺害し、江馬氏の実権を掌握したとする見方である 1。

具体的な日付については、『江馬家譜考』が天正元年7月16日、『円城寺家譜略考』や『飛州志備考』といった史料が同年8月15日を暗殺の日付として記録している 1。この説の背景には、武田信玄という強力な後ろ盾を失った時盛の立場が弱体化し、親上杉派の輝盛にとって行動を起こす好機が到来したという解釈がある。

天正6年(1578年)説

一方、江馬時盛の没年を天正6年(1578年)とする史料も存在する 3。輝盛が時盛を殺害した日を天正6年7月16日とする具体的な記述も見られる 2。

また、高岡氏による1990年の研究も、この天正6年説を支持していることが示唆されている 13。この説が正しければ、時盛は信玄の死後も約5年間生存していたことになり、その間の江馬氏の動向や武田勝頼体制下の武田氏との関係、さらには天正6年3月に死去する上杉謙信との関係など、歴史的背景の解釈に影響を与える。

これら二つの説が存在することは、戦国時代の史料研究における重要な課題の一つである。暗殺時期の特定は、輝盛が江馬氏の主導権を握ったタイミングや、その後の江馬氏の外交政策、さらには1570年代半ばにおける飛騨国内の勢力図を理解する上で極めて重要となる。もし1573年説が正しければ、輝盛は武田信玄の死後比較的早い段階で権力を掌握し、その後の上杉氏との交渉(例えば天正4年(1576年)の上杉氏への降伏など 2 )は、彼が当主として行ったことになる。一方、1578年説が採用される場合、時盛は武田勝頼の時代、そして上杉謙信が存命であった期間の大部分において、依然として江馬氏の家政に影響力を行使していた可能性が考えられる。その場合、輝盛の行動は、上杉謙信の死(天正6年3月)という新たな政治的変動期に、権力掌握の好機を見出したか、あるいはその必要に迫られた結果と解釈することもできるだろう。

表2:江馬時盛暗殺時期に関する諸説比較

説(日付)

主な史料根拠

提唱される背景・理由

天正元年(1573年)
7月16日または8月15日

『江馬家譜考』 1
『円城寺家譜略考』
1
『飛州志備考』
1

武田信玄の死去(同年4月)により、親武田派の時盛の立場が弱体化し、親上杉派の輝盛が行動を起こす好機と捉えた。

天正6年(1578年)
7月16日

史料 2
高岡氏の研究(1990年)
13

上杉謙信の死去(同年3月)など、周辺情勢の変化が影響した可能性。時盛が輝盛の弟・信盛を後継者にしようとした動きが直接的な引き金となった。

いずれの説が正しいにせよ、時盛の暗殺は、江馬氏内部における深刻な路線対立が最も悲劇的な形で終結したことを意味する。そしてこの事件は、その後の江馬氏の運命のみならず、飛騨国全体の情勢にも少なからぬ影響を与えたことは間違いない。

6. 江馬氏のその後

江馬時盛の死後、嫡男であった輝盛が江馬氏の当主となった。輝盛の時代、江馬氏はさらなる激動の時代を迎えることになる。

越後の雄、上杉謙信が天正6年(1578年)3月に死去すると、中央では織田信長の勢力が急速に拡大し、その影響力は飛騨国にも及んだ。輝盛もこの大きな流れには抗えず、次第に織田氏に従属するようになっていく。同年10月には、三木氏の支援を受けた織田勢が越中の月岡野に侵攻するが、この月岡野の戦いにおいて江馬氏も織田方として参陣している 2 。そして天正10年(1582年)3月、織田信長による甲州征伐によって武田氏が滅亡すると、輝盛は正式に信長に臣従した 19

しかし、そのわずか3ヶ月後の天正10年(1582年)6月、本能寺の変によって織田信長が横死するという衝撃的な事件が発生する。これにより、織田氏の支配体制は大きく揺らぎ、飛騨国内の勢力バランスにも変化が生じた。この機を捉え、輝盛は同年10月、長年の宿敵であった三木自綱(姉小路頼綱)と飛騨国の覇権を賭けて、荒木郷八日町で雌雄を決することになる(八日町の戦い) 3 。しかし、この戦いで江馬軍は三木軍に敗北し、輝盛自身も討死を遂げた。享年は48歳と伝えられている 19 。この敗戦により、江馬氏の本城であった高原諏訪城も陥落し 19 、勢力としての江馬氏は事実上滅亡の道を辿ることになった 2 。この八日町の戦いでは、三木自綱が鉄砲を効果的に使用したとされ 12 、その激戦ぶりから「飛騨の関ヶ原」とも称されている 12 。輝盛の死後、残った家臣13人が主君の後を追い、大坂峠で自害したと伝えられ、その地は現在「十三墓峠」として知られている 12

輝盛の死は江馬氏にとって壊滅的な打撃であったが、一族が即座に歴史の舞台から完全に姿を消したわけではなかった。輝盛の後継者と目される江馬時政は、当初、飛騨国統一を進める金森氏を頼ったとされる 2 。史料によれば、時政は輝盛の死後も領主としての活動を続けており 13 、天正12年(1584年)から13年(1585年)にかけては、越中の佐々成政による攻撃を受け、「高原の城」を明け渡したという記録も残っている 13 。天正13年(1585年)、豊臣秀吉の命を受けた金森長近が飛騨に侵攻した際には、「高原江馬知行分」に対して禁制(軍勢による乱暴狼藉を禁じる文書)が出されており、この時点までは江馬氏がある程度の勢力を保持し、金森氏からも三木氏一派とは異なる存在として認識されていたことが窺える 13

しかし、最終的に時政は金森氏の支配に反旗を翻し、一揆を指導して抵抗を試みたが、これは失敗に終わる。追い詰められた時政は、八日町の戦いで父・輝盛が討死したその墓前で自刃したと伝えられており、これをもって戦国大名としての江馬氏は完全に滅亡した 2 。時政の行動は、新たな支配勢力である金森氏(ひいては豊臣政権)による吸収・統合の流れに抗おうとした、地方勢力の最後の抵抗であったと言える。その失敗と悲劇的な結末は、戦国時代の統一過程において、強大な中央権力に直面した多くの小規模氏族が辿った厳しい現実を象徴している。

江馬氏の家臣団としては、河上氏を筆頭とし、和仁氏・神代氏・吉村氏を加えた「江馬四天王」、さらに大平氏・大倉氏・大森氏・大坪氏の四氏を加えて「江馬の八大家」と称された家臣たちが知られている 2 。特に、河上富信や河上強内(定次)といった人物は、輝盛と上杉謙信やその重臣である河田長親との間の連絡役として、史料にその名を見ることができる 13

7. 結論:江馬時盛の生涯とその意義

江馬時盛の生涯は、戦国時代の日本列島を席巻した激動の渦の中で、地方の小規模な国人領主がいかにして生き残りを図ろうとしたか、そしてその過程でいかなる困難に直面したかを示す典型的な事例と言える。彼は、甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信という二大勢力が飛騨国に強い影響力を行使する中で、自家の存続と勢力拡大のために親武田路線を追求した。しかし、この選択は、親上杉派であった嫡男・輝盛との間に深刻かつ修復不可能な対立を生み出し、最終的にはその輝盛によって暗殺されるという悲劇的な結末を迎えることになった。

時盛の生き様は、戦国時代における地方勢力の苦闘そのものを象徴している。強大な外部勢力との同盟関係を巡っては、家中が二分するほどの内部対立を引き起こし、それはしばしば暴力的な手段による解決、あるいは破滅的な結果を招いた。時盛と輝盛の父子相克は、まさにその縮図であった。

江馬時盛とその一族の歴史は、より大きな統一権力によって小規模な領国が次々と吸収・再編されていく戦国時代末期の大きな歴史的潮流を色濃く反映している。中央の政局の変動が、遠く離れた山国の地方勢力の運命をも左右し、その勢力図を根底から覆す力を持っていたことを、江馬氏の興亡は如実に示している。時盛の選択、そして彼が辿った運命は、戦国という時代の複雑さと過酷さを理解する上で、多くの示唆を与えてくれる。彼の存在は、飛騨という一地方の歴史に留まらず、戦国時代全体の力学を考察する上でも、記憶されるべき人物の一人と言えるだろう。

引用文献

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  11. 「 -飛騨の山城の魅力を語る- 」 - 飛騨市の文化財 https://hida-bunka.jp/wphidabunka/wp-content/uploads/2018/03/c1302e9c1a88b956fa25c01633704336.pdf
  12. 国史跡 江馬氏館跡 http://www.pcpulab.mydns.jp/main/emashiyakata.htm
  13. 飛騨の戦国時代と飛越の江馬氏関連の城館 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach_mobile/58/58615/139009_3_%E9%A3%9B%E8%B6%8A%E3%81%AE%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%A8%E6%B1%9F%E9%A6%AC%E6%B0%8F%E3%81%AE%E5%9F%8E.pdf
  14. 君は戦国飛騨を知っているだろうか。鎌倉・室町の名家から戦国、織豊政権を経て、江戸時代の天領まで目まぐるしく入れ替わる土地が、今も懐かしさを留めて進化を続ける飛騨市(岐阜県)で体感できるぞ - エリアLOVE WALKER https://lovewalker.jp/elem/000/004/205/4205684/
  15. 国史跡 武田氏館跡 http://www.pcpulab.mydns.jp/main/takedajinjya.htm
  16. 永禄江馬の乱(十) - 飛州三木家興亡録(@pip-erekiban) - カクヨム https://kakuyomu.jp/works/1177354054917156481/episodes/1177354054921837276
  17. 歴史講座 「飛越の戦国時代と江馬氏の城」 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach_mobile/58/58614/139009_2_%E9%A3%9B%E8%B6%8A%E3%81%AE%E6%88%A6%E5%9B%BD%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%A8%E6%B1%9F%E9%A6%AC%E6%B0%8F%E3%81%AE%E5%9F%8E.pdf
  18. 飛騨に攻め入った?上杉謙信 - 飛騨の歴史再発見! https://hidasaihakken.hida-ch.com/e41363.html
  19. 江馬輝盛 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E9%A6%AC%E8%BC%9D%E7%9B%9B
  20. 江馬輝盛(えま てるもり)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%B1%9F%E9%A6%AC%E8%BC%9D%E7%9B%9B-1059094
  21. 史跡江馬氏城館跡 名勝江馬氏館跡庭園 保存活用計画書 - 全国遺跡報告総覧 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach/33/33647/49564_1_%E5%8F%B2%E8%B7%A1%E6%B1%9F%E9%A6%AC%E6%B0%8F%E5%9F%8E%E9%A4%A8%E8%B7%A1%E3%83%BB%E5%90%8D%E5%8B%9D%E6%B1%9F%E9%A6%AC%E6%B0%8F%E9%A4%A8%E8%B7%A1%E5%BA%AD%E5%9C%92%E4%BF%9D%E5%AD%98%E6%B4%BB%E7%94%A8%E8%A8%88%E7%94%BB%E6%9B%B8.pdf
  22. 江馬氏館跡庭園・下館跡 - つとつとのブログ - Seesaa https://tsutotsuto.seesaa.net/article/202011article_2.html
  23. 二 江馬氏の出自の謎 https://sitereports.nabunken.go.jp/files/attach_mobile/45/45372/115714_4_%E5%A4%A9%E5%9C%B0%E3%82%92%E7%BF%94%E3%81%91%E3%82%8B%E3%83%BC%E6%B1%9F%E9%A6%AC%E6%B0%8F%E5%9F%8E%E9%A4%A8%E8%B7%A1%E3%81%AE%E3%81%99%E3%81%B9%E3%81%A6%E3%83%BC.pdf
  24. 江馬氏 上杉氏 https://hida-bunka.jp/wphidabunka/wp-content/uploads/2022/03/99fe117cd475bd33095748c5708de749.pdf
  25. 神岡城(東町城・飛騨市神岡町東町) http://yogokun.my.coocan.jp/gihu/hidasikamioka.htm