池田長吉(いけだ ながよし)は、元亀元年(1570年)から慶長19年(1614年)にかけて、日本の歴史上、戦国時代の末期から江戸時代の初期という未曾有の変革期を生きた武将である 1 。この時代は、織田信長、豊臣秀吉、そして徳川家康という三人の天下人が相次いで覇権を握り、日本が統一へと向かう激動の過程にあった。このような背景の中、池田氏は信長との深い繋がりを基盤として台頭し、長吉もまた、その一族の一員として、そして豊臣秀吉の猶子という特異な立場から、歴史の表舞台で重要な役割を果たすこととなる。
池田氏の興隆は、長吉の父である池田恒興が織田信長の乳兄弟であったという事実に大きく起因している 3 。この密接な関係は、池田家が織田政権下で確固たる地位を築く上で有利に働いた。信長の死後、天下の覇権が豊臣秀吉に移ると、池田家は巧みに時流を読み、輝政や長吉を含む一族は秀吉の麾下に加わった。特に長吉は秀吉の猶子となることで、豊臣政権との結びつきを一層強固なものとした 2 。その後、関ヶ原の戦いを経て徳川家康が天下を掌握すると、池田家は再びその流れに乗り、家康方として参戦することで、江戸幕府成立後もその地位を保持することに成功する 2 。このように、池田長吉の生涯は、個人の武勇や才覚のみならず、池田家全体の戦略的な立ち位置と、時代の変遷に応じた巧みな政治的判断によって大きく左右されたと言える。
本報告は、池田長吉という歴史上の人物に焦点を当て、現存する史料や研究成果を基に、その生涯、軍事的な業績、行政手腕、そして人物像に至るまでを詳細かつ徹底的に調査し、日本語で体系的にまとめることを目的とする。具体的には、長吉の出自と初期の経歴から始まり、豊臣政権下での活躍、関ヶ原の戦いにおける動向、鳥取藩初代藩主としての藩政、そして晩年と彼の子孫に至るまでを網羅的に記述する。各章では、関連する史実を提示するとともに、その背景や意義についても考察を加えることで、池田長吉という武将の多面的な理解を目指す。
表1:池田長吉 略年表
年代(和暦) |
年齢 |
主要な出来事 |
典拠 |
元亀元年(1570年) |
1歳 |
尾張国犬山城にて池田恒興の三男として誕生 |
2 |
天正9年(1581年) |
12歳 |
羽柴秀吉の養子(猶子)となり、羽柴藤三郎を称する |
2 |
天正12年(1584年) |
15歳 |
小牧・長久手の戦いに従軍、負傷。父・恒興、長兄・元助戦死 |
2 |
天正13年(1585年) |
16歳 |
従五位下備中守に叙任、近江国内で1万石を知行 |
2 |
天正15年(1587年) |
18歳 |
九州平定に従軍 |
2 |
天正18年(1590年) |
21歳 |
小田原征伐に従軍 |
2 |
文禄元年(1592年) |
23歳 |
文禄の役に従軍、朝鮮渡海の舟奉行を務める |
2 |
慶長5年(1600年) |
31歳 |
関ヶ原の戦いに東軍として参加。岐阜城攻め、水口岡山城攻めで戦功。戦後、因幡国鳥取6万石の藩主となる。池田姓に復する。 |
1 |
慶長7年(1602年) |
33歳 |
鳥取城および城下町の再建に着手 |
2 |
慶長19年(1614年) |
45歳 |
死去 |
1
|
池田長吉は、元亀元年(1570年)、池田恒興の三男として尾張国犬山城で生を受けた 2 。母は恒興の正室である善応院殿であった 2 。父・池田恒興は、織田信長の乳母の子、すなわち信長とは乳兄弟という極めて近しい関係にあった 3 。この出自は、池田家が織田政権下で重用される大きな要因となり、後の池田家の政治的地位を形成する上で重要な意味を持った。恒興は信長の小姓として早くから仕え、その信頼を得て数々の戦功を挙げ、犬山城主などを歴任した 3 。このような父の背景は、長吉を含む子供たちの将来にも少なからず影響を与えたと考えられる。
長吉には、池田元助(長兄)、池田輝政(次兄)などの兄弟がいた 2 。特に次兄の輝政は、後に池田家の宗家を継ぎ、姫路宰相と称されるほどの大名へと成長し、長吉の生涯においても重要な存在であった。
表2:池田長吉 関係系図(簡略版)
注:上記は主要な人物に絞った簡略系図であり、全ての家族・姻戚関係を網羅するものではない。
天正9年(1581年)、長吉は12歳という若さで、当時天下統一への道を突き進んでいた羽柴秀吉の養子(猶子)となった 1 。これにより、羽柴藤三郎長吉と名乗り、秀吉の家紋である澤潟紋を授けられた 2 。秀吉が有力な武将の子弟を猶子として迎えることは、自身の権力基盤を強化し、諸大名との間に擬制的な親子関係を構築することで、彼らを豊臣政権の支配体制に効果的に組み込むための常套手段であった 6 。池田家のような有力な武家の子弟である長吉を猶子とすることは、秀吉にとって池田家との連携をより強固にし、その勢力を自陣営に取り込む上で戦略的な意味合いが大きかったと考えられる。
『老人雑話』には、長吉が「比類無き美少年」であり、秀吉が人目を忍んで長吉に声をかけたという逸話が記されている 9 。この逸話は長吉の容姿や秀吉との個人的な関係の一端を垣間見せるものの、その史実性については慎重な検討が必要である。秀吉の養子縁組は、多分に政治的な動機に基づくものであり、長吉の事例もその文脈で理解するのが適切であろう。羽柴姓を与えられたことは、長吉が豊臣一門に準ずる特別な地位を与えられたことを示している。
天正12年(1584年)、羽柴秀吉と織田信雄・徳川家康連合軍との間で小牧・長久手の戦いが勃発すると、長吉は池田勢の一員としてこれに出陣した 1 。この戦いは池田家にとって悲劇的な結果をもたらす。4月9日の長久手における戦闘で、父・池田恒興、長兄・池田元助、そして義兄(姉・安養院の夫)である森長可が相次いで戦死するという壊滅的な打撃を受けたのである 2 。この時、長吉自身も負傷を負ったと記録されている 2 。具体的な負傷の程度や状況に関する詳細な史料は乏しいものの 11 、戦闘の激しさと、彼が最前線に近い場所で戦っていた可能性を示唆している。
この戦いでの池田家の甚大な損失は、一族の運命を大きく左右した。家督は次兄の池田輝政が継承することとなり 2 、長吉にとっては、父や兄という直接的な庇護者を失ったことで、養父である秀吉への依存度を高め、その後のキャリア形成において秀吉の意向がより強く働く要因となった可能性がある。小牧・長久手の戦いは、長吉の武将としてのキャリアの初期における試練であり、池田家全体の方向性を変える転換点であったと言える。
小牧・長久手の戦いにおける池田家の痛手にもかかわらず、長吉は豊臣政権下で着実にその地位を築いていく。天正13年(1585年)、長吉は従五位下備中守に叙任され、近江国内において1万石の知行を与えられた 2 。これは、秀吉の猶子としての立場と、池田家の一員としての期待が込められた処遇であったと考えられる。
豊臣秀吉による天下統一事業が進行する中で、長吉も主要な戦役に従軍し、武将としての経験を積んでいった。
天正15年(1587年)の九州平定においては、後備として400人の兵を率いて参陣した 2 。九州平定は島津氏を中心とする九州の諸勢力を服属させるための大規模な軍事行動であり 13 、長吉の部隊が後備であったことは、全軍の中での位置付けや役割を示唆するが、具体的な戦闘への関与や戦功に関する詳細な記録は現存していない 14 。
続く天正18年(1590年)の小田原征伐では、本陣に列し400騎を率いて従軍した 2 。この戦いは関東の雄、北条氏を屈服させ、豊臣政権による全国統一を決定づけるものであった 16 。長吉が本陣に列したことは、秀吉の信任の厚さを示すものかもしれないが、ここでも個別の戦功に関する記録は乏しい 18 。
文禄元年(1592年)に始まった文禄の役(朝鮮出兵)では、長吉は肥前国名護屋城に秀吉の旗本衆の一つとして400人を率いて在陣した 2 。そして、戦役の途中からは朝鮮へ渡海する部隊のための舟奉行という重要な役職を務めた 1 。この舟奉行としての功績により、秀吉から名馬「大般若」を賜ったとされている 2 。
舟奉行の職務は、単に船を管理するだけでなく、兵員や兵糧、武器弾薬といった膨大な物資を海上輸送し、前線への補給線を維持するという、戦争の遂行に不可欠な後方支援の責任者であった 20 。特に大規模な海外派兵である文禄の役においては、その兵站の維持は極めて困難かつ重要な任務であり、この役目を任されたことは、長吉が単なる武勇だけでなく、管理能力や実務能力においても秀吉から一定の評価を得ていたことを示している 20 。名馬を下賜されたという事実は、その任務遂行が高く評価された証左と言えるだろう。
軍事面での活動と並行して、長吉は豊臣政権が推進する大規模な土木事業にも奉仕した。天正14年(1586年)に始まった京都の方広寺大仏殿(京の大仏)の造営においては工事を分担し、さらに文禄3年(1594年)にはその造営奉行も務めている 2 。また、伏見城の普請も分担した記録がある 2 。これらの巨大プロジェクトへの参加は、豊臣政権に対する忠誠を示すとともに、各大名にとっては相当な財政的・人的負担を強いるものであった。慶長5年(1600年)時点での長吉の知行は2万2,000石であったと分限帳に記されている 2 。
慶長3年(1598年)の豊臣秀吉の死後、豊臣政権内では五大老筆頭の徳川家康と、五奉行の石田三成らとの対立が先鋭化し、天下分け目の戦いへと突き進んでいく。慶長5年(1600年)7月、家康が会津の上杉景勝討伐の軍を起こすと、池田長吉は兄・輝政と共にこれに参陣した 2 。この時点での池田家の立場は、家康との関係性を考慮すると自然な流れであった。兄の池田輝政は徳川家康の娘である督姫を正室に迎えており、池田家と徳川家は姻戚関係にあった 22 。この強固な縁組は、池田家が家康方に与する上で極めて重要な要素となった。
石田三成らが家康に対して挙兵し、関ヶ原の役が始まると、下野国小山における軍議(小山評定)において、輝政・長吉兄弟は明確に東軍(徳川方)に加わることを決定した 2 。豊臣恩顧の大名でありながらも、秀吉の猶子であった長吉が東軍に与した背景には、兄・輝政の決断と、池田家全体の将来を見据えた戦略的な判断があったと考えられる。当時の豊臣政権は内部対立により弱体化しており、家康の台頭は明らかであった。この状況下で家康に味方することは、池田家の存続とさらなる発展を目指す上で、計算された選択であったと言えるだろう。
東軍に加わった池田長吉は、関ヶ原の本戦に先立つ前哨戦において早速武功を挙げる。8月22日から23日にかけて行われた美濃国岐阜城攻めに、兄・輝政の部隊の一部として参加した 2 。岐阜城は織田信長のかつての居城であり、当時は西軍に属した織田秀信(信長の孫)が守っていた。長吉は新加納川を渡河して城兵と交戦し、自ら敵将・飯沼長資を討ち取るという目覚ましい戦功を立てた 2 。この勝利は東軍の士気を高め、関ヶ原の本戦へ向けて有利な状況を作り出す上で貢献した。
慶長5年(1600年)9月15日の関ヶ原の本戦で東軍が勝利した後も、西軍に与した諸将の抵抗は各地で続いていた。長吉は9月27日、近江国水口岡山城の攻略を命じられる 2 。水口岡山城には、五奉行の一人であった長束正家とその弟・直吉が籠城していた。
長吉は、同じく東軍の将である亀井茲矩と共に水口岡山城を包囲した 23 。そして、長束兄弟に対し「助命する」と偽りの言葉で開城を促し、城外へ誘い出すことに成功する 2 。降伏勧告に応じた長束正家・直吉兄弟であったが、これは謀略であり、10月3日に切腹させられた 2 。この水口岡山城攻略における戦功は大きく評価され、論功行賞において、長束正家の財産は全て長吉に与えられた 2 。
この一連の行動は、戦国時代の武将の冷徹な現実主義を示すものである。敵将を謀略によって排除し、その戦功によって大きな褒賞を得ることは、当時の価値観においては必ずしも非難されることではなかった。しかし、現代的な倫理観から見れば、その手段の是非は問われるところであろう。いずれにせよ、この戦功は長吉のその後の処遇に大きく影響することになる。
関ヶ原の戦いにおける一連の戦功、特に水口岡山城攻略の功績が評価され、池田長吉は慶長5年(1600年)11月、因幡国邑美郡・法美郡・巨濃郡・八上郡の4郡、合わせて6万石の所領と鳥取城を与えられ、鳥取藩初代藩主となった 1 。この時、豊臣秀吉から許されていた羽柴姓を改め、池田姓に復している 2 。
鳥取への入封は、単なる恩賞に留まらず、徳川政権にとって西国の豊臣恩顧大名に対する抑えとしての戦略的な意味合いも含まれていたと考えられる 27 。兄・輝政が播磨姫路52万石の大領を得ていたことと合わせ、池田一族は西日本における徳川方の重要な拠点勢力となった。
長吉が鳥取に入封した当時、鳥取城とその城下町は、関ヶ原の戦いに関連する因幡国内での戦闘の際に赤松広通によって焼き払われるなど、荒廃した状態であった 2 。そのため、長吉は慶長7年(1602年)から、本城である鳥取城と城下町の大規模な再建事業に着手した 2 。
鳥取城の改修は、戦国時代の山城としての性格を残しつつ、近世城郭としての機能を持たせることを目指したものであった。久松山の山麓部分に二の丸、三の丸などを新たに整備し、城郭の大部分が長吉の時代に築かれたとされている 2 。大手口(正面玄関)も、従来の北ノ御門から新たに中ノ御門へと変更された 27 。また、『因幡民談記』によれば、山名豊国が布勢天神山城から移築したと伝えられる三層の天守は、長吉の時代に強風による歪みを避けるという実用的な理由から二層に改築されたという 30 。これらの改修は、鳥取城を単なる居城としてだけでなく、藩の政治・軍事の中心地として確立するためのものであった。
城下町の再建も並行して進められ、約4、5年の歳月をかけて完成したと伝えられる 2 。新たな城主による城郭と城下町の一体的な整備は、領国支配の基盤を固め、権威を示す上で不可欠な事業であった。
鳥取城の普請に関しては、「お左近の手水鉢」という逸話が伝えられている。三階櫓の石垣工事が難航した際、長吉の子である池田長幸夫人の侍女・お左近が使っていた手水鉢を人柱の代わりに石垣に埋め込んだところ、工事が無事完成したという伝説である 30 。この種の伝承は、大規模な土木工事の困難さや、当時の人々の信仰心などを反映しているものと考えられる。
池田長吉は、鳥取藩の経済的発展を見据えた領国経営にも手腕を発揮した。その代表的な施策が、千代川河口に位置する賀露港(現在の鳥取港賀露地区)の獲得である 2 。賀露港は、当時隣接する鹿野藩主・亀井茲矩の所領であったが、鳥取城下にとって日本海交通の玄関口となる重要な港であった。長吉はこの港の戦略的重要性を認識し、自領内の八上郡袋河原と交換する形で賀露港を手に入れた 1 。
この領地交換は、亀井茲矩側にも用水路開発の利点があったとされ 33 、双方の利害が一致した結果であった。長吉にとって、賀露港の確保は、物資の流通を円滑にし、藩経済を活性化させる上で極めて重要な意味を持っていた。治水事業や積極的な産業振興に関する長吉自身の直接的な記録は多くないものの 2 、この港湾整備は、彼の先見性と領国経営に対する積極的な姿勢を示すものと言える。
初代鳥取藩主として領国経営に務める傍ら、池田長吉は徳川幕府が課す公役(天下普請)にも従事した。慶長8年(1603年)には伏見城の再建普請に参加し 2 、慶長11年(1606年)には江戸城の石垣普請を分担した。この江戸城普請の功績により、幕府から備前三郎國宗の脇差と馬を賜っている 2 。さらに慶長15年(1610年)には、丹波亀山城の公役普請に助役大名として動員された 2 。これらの公役は、諸大名にとって大きな経済的・人的負担を伴うものであったが、同時に徳川幕府への忠誠を示す機会でもあり、その後の藩の安泰に繋がる重要な勤めであった。
池田長吉の人物像を具体的に示す一次史料は限られているが、彼が関わった主要人物との関係性や、断片的に伝わる逸話から、その輪郭をある程度推測することができる。
長吉自身の人柄を直接的に示す逸話は多くないが、いくつかの出来事が彼の性格や行動様式の一端を伝えている。
池田輝政に関する逸話は比較的多く残されているが 22 、長吉自身の内面や個人的な嗜好を伝える記録は乏しいのが現状である。
長吉が茶の湯や和歌、能といった文化活動にどの程度関わっていたかを示す直接的な史料は、現在のところ確認されていない 45 。当時の武将の多くが茶の湯などの教養を嗜んでいたことから、長吉もある程度の関心は持っていたと推測されるが、具体的な活動や作品、交流関係などは不明である。
池田長吉が鳥取藩初代藩主として入封した際、どのような家臣団を編成したのか、その具体的な構成や主要な家臣の名簿に関する詳細な資料は少ない 2 。父・恒興以来の池田家譜代の家臣や、秀吉から与えられた家臣、そして鳥取入封に伴い新たに召し抱えた者など、様々な出自の者で構成されていたと考えられるが、その詳細は今後の研究が待たれる。
鳥取藩初代藩主として領国の基礎固めに尽力した池田長吉であったが、その治世は長くは続かなかった。慶長19年(1614年)9月24日(一説には14日)、長吉は45歳という若さでこの世を去った 1 。死因などの詳細は不明である。戒名は隣松院殿茂林宗綱大居士と伝えられている 2 。
長吉の死後、家督は長男の池田長幸(幼名:次兵衛、母は伊木忠次の娘)が相続した 2 。しかし、長幸の代になると池田家の配置に大きな変化が生じる。元和3年(1617年)、長幸は5,000石を加増され合計6万5,000石となった上で、因幡鳥取から備中松山(現在の岡山県高梁市)へと転封された 26 。これに伴い、鳥取藩は池田輝政の子である池田光政が32万石で入封することとなり、藩の規模も大幅に拡大した 26 。
この池田家の再編は、江戸幕府初期における大名の配置転換政策の一環であったと考えられる。幕府は、信頼できる有力大名(特に親藩や譜代、そして池田家のような外様でも徳川家と縁戚関係にある大名)を戦略的に重要な地点に配置し、また、特定の一族が一つの地域に強大な勢力を持つことを抑制する狙いがあった。長吉の系統が鳥取から備中松山へ移され、より石高の大きい輝政の系統(光政)が鳥取に入った背景には、鳥取という地が山陰地方における幕府の拠点としてより重要視され、より強力な藩主を置く必要性が認識されたことがあるのかもしれない。
備中松山藩主となった池田長幸であったが、その子である池田長常の代になると、長常に嗣子がなく、長吉の直系にあたる大名家としての池田氏(長吉流)は改易となり、残念ながら断絶してしまった 53 。ただし、長吉の三男である池田長政(森寺長政)は母方の森寺氏を継ぎ、その系統は後に建部池田家として岡山藩の家老などを務め存続した 2 。また、池田光仲(光政の子で、後に鳥取藩主となる)の子孫からは鹿奴池田家や若桜池田家といった分家が出ているが 56 、これらは長吉の直接の系統ではない。
池田長吉の墓所については、江戸高輪の東禅寺にあるとされている 2 。東禅寺は、岡山藩池田宗家や仙台藩伊達家など、複数の大名家の江戸における菩提寺であったことが知られている 57 。長吉の系統がどのような経緯で東禅寺を菩提寺としたのか、岡山藩池田家との具体的な関係性についての詳細は不明であるが 58 、江戸に藩邸を構える大名にとって、江戸府内に菩提寺を持つことは一般的であった。
鳥取市内には、国史跡として鳥取藩主池田家の広大な墓所が存在するが 61 、これは主に池田光仲以降の鳥取藩主池田家(宗家とは別系統)のものであり、初代藩主であった長吉の墓が鳥取にあるという直接的な記録は見当たらない。
なお、逸話として、鳥取城の石垣普請にまつわる「お左近」の墓が、長吉の子・長幸とその子・長常の墓と共に、備中(現在の岡山県高梁市)の威徳寺にあると伝えられている 31 。
池田長吉は、戦国時代の終焉から江戸幕府の確立へと向かう、日本史上屈指の転換期にその生涯を送った武将である。名門池田家に生まれ、若くして豊臣秀吉の猶子となるという特異な経歴を持ち、豊臣政権下では九州平定、小田原征伐、文禄の役といった主要な戦役に従軍し、舟奉行などの要職も務めた。
秀吉の死後、天下分け目の関ヶ原の戦いにおいては、兄・輝政と共に徳川家康率いる東軍に与し、岐阜城攻めや水口岡山城攻略で戦功を挙げた。その結果、因幡国鳥取6万石の初代藩主となり、荒廃した鳥取城の大改修と城下町の整備に着手し、近世鳥取藩の基礎を築いた。また、賀露港の獲得など、領国経営においても先見性のある施策を行った。
武将としての勇猛さを示す戦功と共に、城郭普請や領地経営といった統治者としての一面も併せ持っていたことがうかがえる。しかし、その生涯は45年と比較的短く、また彼の子孫による大名家も早期に断絶したため、兄・輝政ほどの知名度や後世への影響力を持つには至らなかった。
池田長吉の歴史における意義は、まず池田家という有力武家の一員として、時代の大きなうねりの中で一族の存続と発展に貢献した点にある。豊臣恩顧の大名でありながら、関ヶ原の戦いでは時流を的確に読み、徳川方につくことで、近世大名としての地位を確保した。これは、彼個人の判断だけでなく、池田家全体の戦略的な動きの一環であった。
鳥取藩の初代藩主として、その後の鳥取の発展の礎を築いた功績は大きい。城郭の整備、城下町の再建、そして経済の要となる港の確保など、短期間ながらも藩政の基盤作りに注力した。彼の直系は藩主として長くは続かなかったものの、彼が着手した事業は後の鳥取藩に引き継がれた。
池田長吉は、豊臣政権から徳川幕府へと移行する過渡期を生きた、多くの武将の一人である。兄・池田輝政のような華々しい存在ではなかったかもしれないが、着実に任務をこなし、戦功を挙げ、そして領民と向き合った統治者であった。彼の生涯は、戦国末期から江戸初期にかけて、武士がどのように生き、新たな時代に適応していったのかを示す一つの事例として、歴史の中に確かな足跡を残している。彼の存在は、天下人だけでなく、彼らを支え、あるいは彼らと共に時代を築いた多くの「二番手」とも言える武将たちの重要性を再認識させてくれる。