本報告書は、戦国時代末期から江戸時代初期にかけて活動した武将であり大名である池田長幸(いけだ ながよし、天正15年〈1587年〉 – 寛永9年〈1632年〉)の生涯と事績について、現存する史料に基づき詳細に検討することを目的とする 1 。長幸は、因幡鳥取藩主を経て備中松山藩(現在の岡山県高梁市)の初代藩主となり、その藩政の基礎を築いた人物として知られる。利用者諸賢が既に有しておられる基礎的な知識を補完し、より多角的な視点から長幸の実像に迫ることを目指す。
池田長幸に関する情報は、藩史、家譜、個別の事件記録などに散在しており、これらを統合的に分析することによって初めてその全体像が明らかになる。特に、父・池田長吉や伯父・池田輝政といった池田宗家との関係性の中で、長幸自身の役割と藩経営の実際を捉えることが肝要である。また、彼が生きた江戸時代初期という、徳川幕府による幕藩体制が確立していく過渡期の時代背景を考慮に入れることで、その行動や決定の意義が一層明確になる。例えば、長幸の移封は単なる一藩主の配置換えに留まらず、幕府の全国支配戦略の一環として理解する必要がある。
なお、史料によっては池田長幸の生没年や一部の事績に関して若干の異同が見られる場合がある。本報告書では、複数の史料を比較検討し、最も信憑性が高いと考えられる情報を採用する。必要に応じて異説にも言及する方針である。例えば、一部の二次資料に見られる生没年の混乱については、より信頼性の高いとされる史料に基づき、天正15年(1587年)生、寛永9年(1632年)没として論を進める 1 。
以下に、池田長幸の生涯における主要な出来事をまとめた略年譜を掲げる。
表1:池田長幸 略年譜
年号 (西暦) |
出来事 |
典拠 |
天正15年 (1587) |
生誕 |
1 |
慶長19年 (1614) |
父・長吉の死去に伴い家督を相続、因幡鳥取藩(6万石)第2代藩主となる |
1 |
慶長19年~元和元年 (1614-1615) |
大坂冬の陣・夏の陣に参陣。夏の陣では従兄・池田利隆軍に属し天満で戦功を挙げる |
1 |
元和3年 (1617) |
2月、池田光政の鳥取移封に伴い、5千石加増の上、備中松山藩(6万5千石)へ移封、初代藩主となる |
1 |
元和5年 (1619) |
広島藩主・福島正則改易に伴い、幕命により三原城の在番を務める |
2 |
寛永元年 (1624)頃~ |
備中松山藩において新田開発に着手。玉島長尾内外新田の開発を開始 |
4 |
寛永4年 (1627) |
藩士の知行割を実施 |
1 |
時期不詳 (備中松山藩主時代) |
松山城の修築、城下町(武家屋敷、商人町、職人町)の整備を行う |
1 |
寛永9年4月7日 (1632年5月24日) |
江戸にて死去、享年46 |
1 |
池田長幸の生涯を理解する上で、その出自と彼が属した池田氏の家系、そして当時の武家社会における家族構成の意義を把握することは不可欠である。
池田長幸は、天正15年(1587年)に、後に因幡鳥取藩の初代藩主となる池田長吉の長男として誕生した 1 。幼名は次兵衛と伝えられている 2 。母は、池田家の重臣であった伊木忠次の娘である 2 。この婚姻は、父・長吉の家臣団形成における重要な結びつきを示すものであり、伊木氏はその後も池田家において重要な役割を担うことになる。
長幸は幼少の頃より、家臣であり傅役(もりやく)でもあった水野善右衛門の薫陶を受けたとされる 2 。戦国時代末期から江戸時代初期にかけての大名の子弟教育は、単に学問を授けるだけでなく、家臣団を統率するための指導力、領国を経営するための実務能力、武芸、そして主君(この場合は将来の藩主)への忠誠といった、多岐にわたる内容を含んでいた。水野善右衛門のような経験豊かな老臣が傅役となることは、これらの実学を効果的に次代の当主へ伝授するための一般的な手法であり、長幸の人間形成、ひいては後の藩主としての資質形成に大きな影響を与えたと考えられる。この実践的な教育が、後の新田開発や城下町整備といった具体的な藩政運営にどのように活かされたのかは、興味深い点である。
長幸の父・池田長吉は、織田信長の重臣であった池田恒興の三男として生を受けた 8 。長吉は豊臣秀吉の養子(猶子)となり羽柴姓を名乗ることを許され、近江国内で1万石を知行した 8 。関ヶ原の戦いでは東軍に与し、その戦功によって因幡国4郡6万石と鳥取城を与えられ、因幡鳥取藩の初代藩主となった人物である 8 。長幸は、この長吉を祖とする池田家の二代目の当主にあたる。
長幸の伯父には、池田宗家を継承し、「姫路宰相」と称されて播磨国姫路に52万石という広大な所領を有した池田輝政がいる 11 。長幸の家系(長吉流池田家)は、この強大な池田宗家の分家筋にあたるが、独立した大名家としての地位を確立していた。
しかしながら、長吉流池田家が治めた備中松山藩は、池田宗家(後の岡山藩主家や鳥取藩主家〈池田光仲以降〉)とは血縁関係にあるものの、厳密な意味での「支藩」とは見なされていなかったとする見解がある 12 。その理由として、長幸の子・長常の代に跡継ぎがなく、末期養子が幕府に許されなかったために2代で断絶してしまったという経緯が挙げられている 12 。これは、江戸時代初期における「家」の存続がいかに厳しいものであったかを示す一例と言える。池田輝政のような大藩の藩主の弟である長吉が興した家であっても、跡継ぎの確保という幕府の基本的な論理を満たせなければ、改易の危険性と常に隣り合わせだったのである。この点は、長幸が生きた時代の武家社会の現実を色濃く反映している。
池田長幸の家族構成は以下の通りである。
以下に、池田長幸を中心とした主要な家族関係を視覚的に示すために略系図を掲げる。
表2:池田長幸 関係略系図
Mermaidによる関係図
この系図は、長幸の血縁関係、特に池田宗家や婚姻関係にある森家との繋がりを明確にすることで、彼が置かれた政治的・社会的環境を理解する一助となる。
池田長幸は、父・長吉の跡を継ぎ、若くして因幡鳥取藩の藩主となった。その期間は比較的短かったものの、大坂の陣への参陣など、藩主としての重要な経験を積む時期であった。
慶長19年(1614年)、父である因幡鳥取藩初代藩主・池田長吉が死去した 1 。これに伴い、長男であった長幸は家督を相続し、因幡鳥取藩6万石の第2代藩主となった 1 。時に長幸は28歳であった。
長幸が家督を相続した慶長19年(1614年)は、徳川家康が豊臣家を滅亡へと追い込む大坂冬の陣が勃発した年でもある。翌慶長20年(元和元年、1615年)には大坂夏の陣が起こり、長幸もこれらの戦いに参陣している 1 。
特に大坂夏の陣においては、従兄にあたる備前岡山藩主・池田利隆(池田輝政の長男)の軍勢に属し、天満橋方面での戦闘において武功を挙げたと記録されている 1 。この時期、徳川家康は豊臣宗家を完全に滅ぼすための総仕上げとして大坂の陣を遂行しており、全国の諸大名、とりわけ外様大名にとっては、この戦いで徳川方に味方し、どれだけの働きを示すかが、その後の家の浮沈を左右する極めて重要な岐路であった。長幸が池田宗家当主である利隆と共に徳川方として戦功を挙げたことは、池田家全体の幕府内における立場を強化する上で少なからず貢献したと言える。また、この参陣は、長幸自身にとっても藩主としての最初の大きな試練であり、徳川幕府への忠誠を具体的に示す行動であったと同時に、実戦を通じて武将としての経験を積む貴重な機会となった。
池田長幸が因幡鳥取藩主であった期間は、慶長19年(1614年)から元和3年(1617年)までの約3年間と比較的短い 1 。この短い期間、しかもその間に大坂の陣という大きな軍役があったことを考慮すると、内政において大規模な新規事業に着手し、顕著な足跡を残すことは時間的に困難であったと推察される。
現存する資料からは、この期間における長幸固有の具体的な藩政に関する記録は限定的である 2 。父・長吉は鳥取城の改修や城下町の整備に着手しており 9 、長幸もこれらの事業を継承した可能性が高いが、その詳細を伝える記録は乏しい。
鳥取藩政に関連する逸話として、鳥取城の三階櫓の石垣普請が難航した際、長幸の夫人(あるいは父・長吉の夫人)の侍女であった「お左近(おさご)」という女性が願って自ら人柱となり、あるいは彼女が愛用していた手水鉢を石垣に埋め込んだところ、工事が無事完成したという伝承が残っている 17 。この逸話は、長吉による改修時のこととも、長幸の時代のこととも解釈の余地があるが、池田氏による鳥取城整備の一端と、当時の築城における困難さ、そしてそれを乗り越えるために人身御供のような悲劇的な伝承が生まれる背景を物語っている。この種の伝承は、具体的な治績とは異なるものの、当時の人々の精神性や記憶を垣間見せるものとして興味深い。
元和3年(1617年)、池田長幸は因幡鳥取から備中松山へと移封され、新たな領地で藩政を布くことになった。これは長幸の経歴における大きな転機であり、彼の藩主としての手腕が本格的に問われる時代であった。
元和3年(1617年)2月、池田輝政の孫にあたり、後に備前岡山藩主として名君と称される池田光政が、播磨姫路藩から因幡鳥取藩へ32万石で国替えとなった 1 。この玉突き人事の結果、長幸は従来の6万石に5千石を加増され、合計6万5千石をもって備中国松山(現在の岡山県高梁市)へ移封されることとなった 1 。これにより、長幸は備中松山藩の初代藩主となったのである。
この大規模な大名の配置転換は、大坂の陣が終結し、世情が安定に向かい始めた「元和偃武」と呼ばれる時期に、徳川幕府が推し進めた全国支配体制強化策の一環であった 21 。幕府は、豊臣恩顧の疑いがある大名を畿内や戦略的要衝から遠ざける一方で、信頼の置ける親藩・譜代大名や、恭順の姿勢を示す外様大名をそれらの地に配置することで、支配体制の盤石化を図った。池田氏は外様大名に分類されるが、輝政・利隆・光政と続く宗家は徳川将軍家と姻戚関係を重ね、早くから恭順の意を示していた。長幸の家系もこれに準じていたと考えられ、備中松山という中国地方の要衝の一つを任されたこと、そして5千石の加増を伴う移封であったことは、長幸および池田長吉家に対する幕府からの一定の評価と信頼を得ていたことを示唆している。
備中松山藩の初代藩主となった長幸は、藩政の確立と財政基盤の強化を目指し、新田開発に積極的に取り組んだ 2 。江戸時代初期において、各藩が石高を増やすことは、藩の経済力を高め、家臣団を養い、さらには幕府からの軍役負担に応えるための喫緊の課題であった。新田開発は、その最も直接的かつ効果的な手段の一つであった。
長幸による新田開発の具体的な事例として、玉島地域(現在の岡山県倉敷市玉島)における長尾内外新田(ながおうちそとしんでん)の開発が挙げられる。この事業は寛永元年(1624年)頃に着手されたと記録されており 4 、高梁川下流域の沖積作用によって形成された干潟を農地に転換する試みであった。長幸が玉島という沿岸部に着目したのは、干拓によって広大な農地を生み出す潜在性を認識していたからであろう。この長幸による玉島での干拓事業への着手は、後に備中松山藩に入封する水谷勝隆(みずのや かつたか)による大規模な玉島新田開発の先駆けとなるものであり 4 、備中松山藩の経済的自立と発展の礎を築く上で先駆的な意義を持っていたと言える。
新田開発は、単に農地を拡大するだけでなく、それに伴う用水路の整備や治水事業も含む総合的な開発事業であったと考えられる。これらの事業は、米の増産に留まらず、人口増加や商業の活性化をもたらす可能性を秘めていた。
新たに藩主として入部した長幸にとって、拠点となる城郭の整備と、藩士や商工業者が居住する城下町の建設は、領国支配の実効性を高める上で不可欠な事業であった。
長幸は、備中松山城の修築や城下町の整備にも力を注いだとされる 1 。備中松山城は標高430メートルの臥牛山山頂に本丸を構える典型的な山城であり、日常の政務や居住のためには麓に御根小屋(おねごや)と呼ばれる藩庁兼居館を設ける必要があった 24 。長幸は、この御根小屋を中心に、家臣たちの屋敷地を割り当て、商人町や職人町を計画的に配置することで、城下町の基礎を築いたと考えられる。具体的には、江戸時代初期に池田長幸の時代に城下町が構築され、家臣の屋敷地として石火矢町(いしびやちょう)などが整備されたと伝えられている 6 。また、商人町としての下町(しもまち)、職人町としての鍛冶町(かじまち)もこの時期に建設されたと言われる 24 。
藩政においては、この他にもいくつかの重要な施策が記録されている。元和5年(1619年)、安芸広島藩49万8千石の藩主であった福島正則が、幕府の許可なく居城である広島城を修築したことなどを理由に改易されるという事件が起こった。この際、長幸は幕府の命令により、福島氏の支城であった三原城(現在の広島県三原市)の在番(城の警備・管理)を務めている 2 。これは幕府が課す公役(くやく)の一つであり、担当大名にとっては忠実な任務遂行が求められるものであった。幕府は有力大名を改易する際に、周辺の大名にその処理や城の接収・管理を命じることがあり、これは幕府の権威を示すと同時に、担当大名の忠誠心と実務能力を試す意味合いも持っていた。
さらに、寛永4年(1627年)には、藩内の家臣たちに対する知行割(ちぎょうわり)を実施したと記録されている 1 。知行割とは、家臣の禄高に応じて領地や蔵米を分配することで、家臣団の経済基盤を定め、藩主への奉公体制を確立する上で基本的な作業であった。
一部資料には、寛永5年(1628年)に幕府から朱印状を受けて南蛮貿易を始めたとの記述も見られる 1 。しかし、この点については他の史料による裏付けが乏しく、慎重な検討を要する。当時の朱印船貿易は幕府の厳格な管理下にあり、長崎の特定商人に限られるなど、一介の外様大名が独自に大規模な貿易を行うことは困難であった。そのため、もし何らかの交易活動があったとしても、それは限定的なものであったか、あるいは国内の他の地域との交易を指す可能性も考慮すべきである。
池田長幸は、従五位下・備中守(びっちゅうのかみ)に叙任されている 1 。従五位下という位階は、江戸時代の大名に与えられる一般的なものであった。備中守という官名は、奇しくも彼が後に治めることになる備中国の国名を冠するものであり興味深い。武家官位は、奈良・平安時代の律令制における官職とは異なり、実質的な職務権限を伴わない名誉的な称号であることが多かったが、自身の知行国と同じ国名を冠した官名を名乗ることは、ある種の権威付けになった可能性も考えられる。また、父・長吉も同じ備中守に叙任されていたことから 8 、池田長吉家がこの官名を一種の家格を示すものとして継承した可能性も指摘できる。
備中松山藩の初代藩主として藩政の基礎固めに尽力した池田長幸であったが、その治世は長くは続かなかった。彼の死は、一族内に深刻な動揺をもたらし、結果として長吉流池田家の宗家は断絶の途を辿ることになる。
寛永9年(1632年)4月、池田長幸は江戸の藩邸において病に倒れ、危篤状態に陥った 2 。これを機に、長幸の跡継ぎ相続を巡って親族間で深刻な対立が生じた。
問題の中心となったのは、長幸の弟であり、3千石を知行する旗本で書院番を務めていた池田長頼(いけだ ながより)であった 13 。長頼は、長幸がその遺領の全てを長男である池田長常(当時24歳)に単独で相続させようとしていることに強く反発した。長頼は、長幸のもう一人の弟である池田長政の子・池田長純(ながずみ、後の池田長教)への分知、あるいは長頼自身への分知を求めたとされている 13 。江戸時代初期においては、長子単独相続の原則が確立していく過渡期であり、兄弟や近親者への所領の分与(分知)を求める声は少なくなかった。
しかし、一族間での話し合いはまとまらず、事態は悲劇的な結末を迎える。同年4月4日(『徳川実紀』による日付)、江戸屋敷において、激高した長頼が刃傷に及び、長幸の親族であり、仲裁に入ったともされる播磨龍野藩主・脇坂安信(わきさか やすのぶ)の子である脇坂安経(わきさか やすつね)を殺害し、安信自身にも傷を負わせるという事件が発生した 13 。事件後、長頼は長幸の屋敷に立て籠もったが、長幸と縁戚関係にあった越後村上藩主・堀直寄(ほり なおより)らの説得に応じて投降した 13 。
この刃傷事件は、大名家の内紛が幕府の介入を招き、最悪の場合には改易に繋がる危険性をはらんでいたため、幕府も迅速に対応した。幕府による裁定の結果、池田長頼には切腹が命じられ、寛永9年4月6日に刑が執行された 13 。一方で、興味深いことに、幕府は長頼の主張にも一定の道理があったと認めていた節がある 13 。これは、当時の相続慣行や分知に対する考え方が一様ではなく、法と情、あるいは慣習と幕府の方針との間で幕府自身も判断に苦慮した可能性を示唆している。
刃傷事件の混乱冷めやらぬ寛永9年4月7日(1632年5月24日)、池田長幸は江戸の藩邸にて息を引き取った 1 。享年46歳であった。父・長吉から受け継いだ家を、新たな領地である備中松山で確固たるものにしようと努めた長幸であったが、その志半ばでの早すぎる死であった。
長幸の法号は、承国院殿蔭凉崇樹大居士(じょうこくいんでんいんりょうそうじゅだいこじ)と伝えられている 2 。墓所は、備中松山藩の領内であった岡山県高梁市上谷町(かみだにちょう)にある威徳寺(いとくじ)と、江戸における池田家の菩提寺の一つであった東京都港区高輪の東禅寺(とうぜんじ)の二箇所に設けられている 2 。高梁市の威徳寺には、後に詳しく述べる長男・長常の墓も父・長幸と並んで築かれている 17 。
父・長幸の死後、家督は長男である池田長常が相続し、備中松山藩6万5千石の第2代藩主となった 2 。長常は武勇に優れ、勇猛な士を愛する人物であったと伝えられており、藩主になる以前から江戸幕府3代将軍・徳川家光に兜を拝領するなど、将軍からの覚えもめでたかったという 28 。
しかし、その長常も父同様に長命ではなかった。寛永18年(1641年)9月6日、長常は嫡子となる男子がないまま、33歳という若さで早世してしまった 1 。当時、幕府は藩主の急死に際しての末期養子(死の間際に急遽養子を迎えて家督を継がせること)の許可に極めて慎重であり、特に寛永年間はこれを厳しく制限する傾向にあった。これは、藩政の混乱や家中における権力争い、さらには藩の乗っ取りなどを防ぐ目的があったとされるが、結果として多くの大名家が跡継ぎを得られずに断絶に追い込まれた。池田長幸の家系である備中松山藩池田家もその例外ではなく、末期養子が許されなかったため、わずか2代、24年余りで無嗣断絶となり、その所領6万5千石は幕府によって没収された 1 。これは、池田宗家のような有力な後援があっても、大名家が常に存続の危機と隣り合わせであった江戸初期の厳しい現実を示すものである。
一方で、池田長幸の血筋が完全に途絶えたわけではなかった。長幸の三男(一部資料では次男)であった池田長信(いけだ ながのぶ、通称は修理)は、兄・長常の死によって大名家としての池田家が断絶した翌年の寛永19年(1642年)、備中国後月郡(しつきぐん)井原村(現在の岡山県井原市)など4か村において1千石の所領を与えられ、旗本として取り立てられた 1 。長信は井原に陣屋を構え、これが旗本井原池田家の始まりである。この井原池田家は、その後代を重ねて幕末まで存続し、池田長幸の血脈を後世に伝えた 8 。大名としての家系は途絶えても、分家や庶流が旗本として家名を存続させるという形態は、江戸時代の武家社会における一つの存続戦略であった。
旗本井原池田家の成立に関しては、興味深い伝承が残されている。それは、長常の死によって備中松山藩池田家が断絶の危機に瀕した際、弟である長信の乳母であった尾砂子(おさご)という女性が江戸へ赴き、幕府の要路に熱心に嘆願した結果、家名の再興が許されて長信が旗本として取り立てられた、というものである 8 。さらに、この尾砂子は池田長幸の妾であり、長信の実母であったのではないかという説も存在する 8 。真偽のほどは定かではないが、この伝承を背景として、井原の地には後に「尾砂子大明神」として尾砂子を祀る祠が建てられたと伝えられている 17 。この種の伝承は、公式な記録には残らないものの、家名存続の背景にあった人々のドラマや、乳母や生母が子のために奔走するという武家の物語の一端を垣間見せるものであり、歴史の深みを伝えるものと言えよう。旗本としてでも家名を残すことは、先祖供養の観点からも、また旧家臣たちの生活を一部でも維持するという意味でも、当時の武家にとって極めて重要なことであった。
池田長幸がどのような人物であったか、その性格や能力を直接的に伝える詳細な一次史料は限られている。しかし、彼の行動や残された藩政の記録、そして関連する逸話から、その人物像の一端を推察することは可能である。
池田長幸は、備中松山藩主として新田開発や城下町の整備、さらには藩士の知行割りといった藩政の基礎固めに積極的に取り組んだことが記録されている 1 。これらの事績は、彼が領国経営に対して真摯であり、実務的な能力に長けた勤勉な人物であったことを示唆している。特に新領地において、農業基盤の強化や都市機能の整備に着手したことは、藩の将来を見据えた計画性を持っていたことの現れとも言える。
また、武将としての側面も見逃せない。大坂の陣においては、従兄・池田利隆の軍に属して戦功を挙げており 1 、福島正則改易の際には幕命を受けて三原城の在番を無難にこなしている 2 。これらの経験は、彼が武人としての一定の能力と、幕府の公務を忠実に遂行する責任感を持ち合わせていたことを示している。
外交面においては、舅である美作津山藩主・森忠政との関係が良好であったと推察される。後述する津山城の櫓に長幸の名が残る逸話などは、両家の親密さを示唆しており 14 、長幸が周辺大名との関係構築にも配慮できる人物であった可能性を示している。
一方で、晩年に発生した弟・池田長頼との相続を巡る深刻な対立と刃傷事件は、長幸の家族内における調整能力や求心力に何らかの課題があった可能性を窺わせる。しかし、この事件は長頼側の要求や性格に起因する部分も大きかったと考えられ、一概に長幸の責任と断じることはできない。
これらの点を総合的に勘案すると、池田長幸は、戦国時代的な勇猛さや派手な武功を誇るタイプというよりは、江戸時代初期の藩主として求められる内政手腕や幕府への恭順の姿勢を兼ね備えた、実務型の藩主であった可能性が高い。彼の事績は、一見地味に見えるかもしれないが、新たな領地において着実に統治基盤を築こうとした努力の跡が随所に見て取れる。
池田長幸に関連する逸話として、以下の二つが特に知られている。
これらの逸話は、歴史的な事実関係が完全に証明されているわけではないものも含まれるが、池田長幸本人やその周辺の人々が、後世の地域社会においてどのように記憶され、語り継がれてきたかを示す貴重な手がかりとなる。
池田長幸の生涯とその歴史的意義を総括すると、以下の点が挙げられる。
池田長幸は、伯父である池田輝政という近世初期における巨大な大名家の当主の陰に隠れがちではあるが、父・池田長吉が関ヶ原の戦いの功によって築いた家を継承し、因幡鳥取藩6万石の藩主から備中松山藩6万5千石の初代藩主へと移りながらも、それぞれの領地において藩政の基礎固めに実直に努めた堅実な藩主であったと言える。
特に備中松山藩においては、初代藩主として新田開発(玉島長尾内外新田など)や松山城の修築、城下町の整備に着手し、それらは後の藩の発展の緒を開いたものとして評価されるべきである。これらの内政への注力は、戦乱の時代が終わり、領国経営の重要性が増した江戸時代初期の藩主として当然の責務であり、長幸がその役割を真摯に果たそうとしたことを示している。
また、大坂の陣への参陣や、福島正則改易に伴う三原城在番といった幕府からの公役の遂行は、徳川幕府の支配体制下における外様大名としての務めを忠実に果たしたことを物語っている。これらは、幕府への恭順の姿勢を示すと同時に、池田家、特に長吉流池田家の幕藩体制内における地位を安定させる上で重要な意味を持った。
しかしながら、長幸自身の早世と、その後を継いだ長男・長常もまた若くして嫡子なく没したことにより、長幸の直系である備中松山藩池田家(長吉流)はわずか2代で無嗣断絶という悲運に見舞われた。この事実は、江戸時代初期の大名家が、いかに存続の危機と隣り合わせであったかを象徴している。池田宗家のような有力な後援があっても、家の存続は決して安泰ではなかったのである。
だが、長幸の血脈が完全に絶えたわけではない。三男(あるいは次男)の池田長信が旗本井原池田家を興し、その家系は幕末まで続いた。これは、大名としての地位は失っても、形を変えて家名を後世に伝えるという、江戸時代の武家社会における一つの存続形態を示している。
総じて、池田長幸は、戦国時代の気風がまだ色濃く残る中で、新たに確立されつつあった江戸幕藩体制という枠組みに適応し、領国経営という地道な課題に実直に取り組んだ、過渡期の武将であり大名であったと位置づけられる。その治績は、後の備中松山藩や玉島地域の発展に対して、直接的、間接的に少なからぬ影響を与えたと言えよう。彼の生涯は、華々しい英雄譚として語られることは少ないかもしれないが、江戸時代初期の地方支配を担った多くの藩主の一つの典型として、その堅実な歩みは歴史の中で正当に評価されるべきである。彼の存在は、大きな歴史の転換期における一地方領主の苦闘と適応の物語として、我々に多くの示唆を与えてくれる。