日本の戦国時代、数多の武将が覇を競い、そして歴史の波間に消えていった。その中でも、織田信長の天下布武事業において、黎明期からその終焉に至るまで中核を担いながら、その功績に比して実像があまり知られていない人物がいる。それが、本報告書で論じる河尻与兵衛秀隆である。
信長の父・信秀の代から織田家に仕え、信長の親衛隊たる黒母衣衆の筆頭として武功を重ね、ついには信長の嫡男・信忠の後見役という重責を担い、武田家滅亡後は甲斐一国を与えられるという、一介の家臣としては最高位にまで上り詰めた。しかし、その栄光は本能寺の変という歴史の激震によって、わずか三ヶ月余りで潰えることとなる。
一般に河尻秀隆は、「甲斐で圧政を敷き、武田遺臣の一揆によって殺害された猛将」という評価で語られることが多い 1 。しかし、この評価は果たして妥当なものだろうか。彼の生涯を詳細に追うと、そこには勇猛さだけでなく、主君の意を汲んだ冷静な統率力、そして何よりも織田家に対する揺るぎない忠誠心が見えてくる。本報告書は、『信長公記』のような信頼性の高い同時代史料を軸に、後世に編纂された『三河物語』や『甲斐国志』といった記録を批判的に比較検討することで、通説の裏に隠された政治的力学や、秀隆という人物の多面的な実像を再構築することを目的とする。彼の悲劇的な最期は、単なる一個人の運命に留まらず、信長亡き後の織田政権の脆弱性と、戦国末期の権力移行のダイナミズムを鮮烈に映し出しているのである。
西暦/和暦 |
年齢 |
出来事 |
主な典拠 |
1527年(大永7年) |
1歳 |
誕生 3 。 |
『朝日日本歴史人物事典』 |
1542年(天文11年) |
16歳 |
第一次小豆坂の戦いに初陣。今川方の足軽大将を討ち取る 4 。 |
『信長公記』 |
1558年(永禄元年) |
32歳 |
織田信長の命により、弟・信行(信勝)を清洲城にて暗殺 6 。 |
『信長公記』 |
1560年(永禄3年) |
34歳 |
桶狭間の戦いに従軍 5 。 |
『信長公記』 |
1565年(永禄8年) |
39歳 |
美濃・猿啄城攻めで功を挙げ、城主となる。信長より「勝山城」と改称される 4 。 |
『信長公記』 |
1567年(永禄10年)頃 |
41歳 |
黒母衣衆の筆頭に任じられる 8 。 |
諸説あり |
1574年(天正2年) |
48歳 |
織田信忠の補佐役(後見人)に就任 5 。 |
『信長公記』 |
1575年(天正3年) |
49歳 |
長篠の戦いに信忠軍の副将として参陣。岩村城の戦いの功により、美濃岩村城5万石の城主となる 3 。 |
『信長公記』 |
1582年(天正10年)2月 |
56歳 |
甲州征伐に信忠軍の先鋒として出陣。調略を用いて武田軍を切り崩す 5 。 |
『信長公記』 |
1582年(天正10年)3月 |
56歳 |
武田氏滅亡。戦功により甲斐一国(約22万石)と信濃諏訪郡を与えられる 3 。 |
『信長公記』 |
1582年(天正10年)6月2日 |
56歳 |
本能寺の変。信長・信忠父子が横死。 |
『信長公記』 |
1582年(天正10年)6月18日 |
56歳 |
甲斐国にて、徳川家康との対立の末、武田遺臣の一揆に襲われ討死(または自害) 3 。 |
『三河物語』、『当代記』 |
河尻秀隆の生涯を辿る上で、まず直面するのがその出自の曖昧さである。彼の出身地については、尾張国岩崎村(現在の愛知県日進市岩崎町周辺)とする説 4 と、美濃国(現在の岐阜県南部)の土豪であったとする説 9 が並立しており、確たる定説を見ていない。父の名は親重と伝わるが 3 、これもまた確定的ではない。
彼の姓である「河尻」という氏が、肥後国(現在の熊本県)を本拠とした名族、醍醐源氏流の河尻氏と関係があるのかどうかも不明である 5 。しかし、より注目すべきは、尾張における河尻氏の存在である。『信長公記』には、織田信長が仕えた尾張守護代・織田大和守家(清洲織田氏)の家臣として、河尻与一という同姓の人物が登場する 5 。さらに『美濃国諸家系譜』には、秀隆が信長の命によって、この清洲織田家の家臣であった河尻与一郎重俊の跡を継いだとの記述が見られる 5 。これらの記録から、秀隆が全くの無名の出自ではなく、少なくとも信長の主家筋にあたる清洲織田家の老臣の一族と何らかの繋がりを持っていた可能性は高い。
秀隆ほどの重臣の出自が明確でないという事実は、一見すると奇妙に映るかもしれない。しかし、これは織田家という組織の特性を象徴しているとも考えられる。尾張の一地方勢力に過ぎなかった織田家が、信秀・信長の二代にわたって急速に勢力を拡大していく過程では、伝統的な門閥や家格よりも、個人の実力が重視された。出自が尾張であれ美濃であれ、秀隆が早い段階でその武勇と才覚を認められ、織田家の中枢へと取り立てられていったことは間違いない。彼の出自の曖昧さは、織田家臣団が旧来の秩序に縛られない、流動的かつ実力主義的な集団であったことの証左と見ることができるだろう。
秀隆の確かな記録は、織田信秀の家臣としてそのキャリアを開始した時点から始まる。大永7年(1527年)生まれとされる彼は、天文11年(1542年)、弱冠16歳にして信秀に従い、三河国で今川義元軍と激突した第一次小豆坂の戦いに参陣した 4 。
この初陣において、秀隆は今川方の先陣を務めた足軽大将・由原なる者と一騎打ちに及び、組討の末に見事これを討ち取るという華々しい武功を挙げた 4 。この功績により、彼の名は若くして織田家中に知れ渡った。実名である「秀隆」の「秀」の一字は、主君である信秀からの偏諱(へんき、名前の一字を与えること)である可能性も指摘されており 5 、この若き武者が信秀から早くも目をかけられていたことが窺える。
さらに重要なのは、信秀の死後、家督を継ぐ前の信長付きの家臣として、青山与三右衛門と共に選抜されている点である 5 。これは、秀隆が信長の家督相続以前からの、いわば「部屋住み時代」からの側近であり、織田家臣団の中でも最古参格に位置づけられることを意味する。父・信秀の代からの忠勤と、若き日の鮮烈な武功が、次代の主君・信長の側近くに仕えるという、後の栄達に繋がる重要な布石となったのである。
織田信長が家督を継いだ後、その地位は盤石ではなかった。最大の脅威は、母・土田御前の寵愛を受け、柴田勝家ら重臣に担がれた実弟・信行(信勝)の存在であった。稲生の戦いで一度は信行を破り赦免した信長であったが、永禄元年(1558年)、再び謀反の兆しを見せた弟に対し、非情な決断を下す。
信長は病と偽って信行を本拠・清洲城に呼び寄せ、その場で謀殺した。この織田家の将来を左右する重大な局面で、信行に直接手を下すという汚れ役を命じられたのが、河尻秀隆であった 7 。『信長公記』には、清洲城の北櫓天主の次の間にて、信長が「河尻、青貝に仰せ付けられ、御生害なされ候」と、秀隆に命じて信行を殺害させた様子が記されている 5 。
この任務は、単なる戦闘能力の高さを証明するものではない。主君の肉親を殺害するという、精神的にも極めて過酷な命令を、寸分の狂いもなく遂行する絶対的な忠誠心と覚悟が求められる。また、織田家の内紛という極秘事項を外部に漏らさない口の堅さも不可欠であった。この汚れ役を完遂したことで、秀隆は信長にとって、単なる有能な武将という存在を超え、自らの手足となって暗部にも関与できる、替えの効かない「腹心」「爪牙」としての地位を不動のものにした。この一件で示された信長からの絶大な信頼こそが、後の信忠補佐役への抜擢や甲斐一国拝領といった破格の待遇の原点であり、彼のキャリアを理解する上で最も重要な鍵となる出来事であったと言えよう。
信長は、自身の側近中の側近であり、戦場では伝令や遊撃、本陣の護衛といった重要な役割を担うエリート武士団として「母衣衆(ほろしゅう)」を組織した。母衣とは、元来は矢を防ぐための武具であるが、これを背負うことを許された者は、戦場での武勇と主君への近さを誇示する、いわば織田軍団の象徴であった。母衣衆は赤母衣衆と黒母衣衆に分かれており、特に黒母衣衆は高い格式を持っていたとされる。
河尻秀隆は、この精鋭部隊である黒母衣衆に選抜され、多くの資料でその「筆頭」であったと記されている 3 。後年、同じく黒母衣衆に属した佐々成政も筆頭と称されることがあり、両者の関係性には議論の余地があるものの 18 、秀隆が織田軍団を代表する勇士の一人として、信長に最も信頼された武将の一人であったことは疑いようがない。
その地位に違わず、秀隆は信長の主要な戦役に常に付き従い、武功を重ねていく。永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いでは、今川義元本陣への奇襲攻撃に真っ先に従った一人であり 4 、その後も伊勢大河内城攻め(1569年) 11 、姉川の戦い後の佐和山城攻め(1570年) 21 、志賀の陣(1570年) 21 、そして比叡山焼き討ち(1571年) 11 と、信長の天下布武の歩みと共に、常に戦場の第一線にその姿があった。黒母衣衆筆頭として信長の馬廻に控え、最も危険かつ重要な局面を任され続けた彼の経歴は、織田軍団の精強さを体現するものであった。
河尻秀隆の功績は、単なる一武将としての働きに留まらず、城持ち大名としての地位を確立するに至る。その第一歩となったのが、美濃攻略戦での活躍であった。永禄8年(1565年)頃、秀隆は美濃の斎藤氏が守る猿啄城(さるばみじょう)および堂洞城の攻略戦に参加。堂洞城攻めでは本丸に一番乗りを果たすなど、勇猛果敢な戦いぶりで戦功を挙げた 4 。
信長はこの功を大いに賞賛し、秀隆に猿啄城とその周辺の所領を与えた。さらに信長は、秀隆の勇戦を称えて城の名を「勝山城」と改めさせるという、異例の栄誉を与えた 4 。これは、秀隆が外征の功によって城持ちとなった、織田家臣団の中でも初期の例であり 26 、彼の功績がいかに際立っていたかを示している。勝山城主となった秀隆は、城下にある長蔵寺を河尻家の菩提寺と定めるなど 5 、領主としての基盤を築き始めた。
彼のキャリアが新たな段階に入ったのは、天正3年(1575年)のことである。長篠の戦いで武田勝頼に大勝した織田軍は、勢いに乗って武田方に寝返っていた美濃岩村城を攻撃する。この岩村城の戦いで、信忠軍団の中核として戦功を挙げた秀隆は、落城後、新たに岩村城5万石の城主として任命された 3 。
岩村城は、美濃と信濃の国境に位置し、甲斐の武田氏と直接対峙する、織田家にとって最重要の戦略拠点であった。この地を任されたことは、秀隆が単なる遊撃部隊の長から、対武田氏という織田家の国家戦略の最前線を担う、方面軍司令官クラスの重責を負うに至ったことを意味する。岩村城の城下町では、後に「天正疎水」と呼ばれる用水路の整備を行ったという記録も残っており 31 、彼が軍事だけでなく、領国経営、すなわち民政においても確かな手腕を発揮したことを示唆している。
織田信長の勢力が拡大し、天下統一が現実的な視野に入ってくると、彼の最大の関心事は、築き上げた権力をいかにして嫡男・信忠に円滑に継承させるかという点にあった。天正2年(1574年)、元服を終えたばかりの信忠が織田家の家督を譲られ、新たな軍団を率いることになった際、信長がその後見人として白羽の矢を立てたのが、河尻秀隆であった 4 。
この人事は、秀隆に対する信長の信頼が最高潮に達していたことを示すものである。秀隆の役割は、単に若き総大将である信忠を軍事的に補佐するに留まらなかった。彼は信忠軍団の実質的な筆頭家老、あるいは軍監として、軍団全体を統率する役割を担った。天正3年(1575年)の長篠の戦いでは、信忠に代わって軍の指揮を執ったとも伝えられており 11 、合戦を描いた屏風図には、信忠本陣の前方に布陣する秀隆の姿が確認できる 5 。
この人事の背景には、信長の深謀遠慮があった。当時、信忠の軍団には、「鬼武蔵」の異名を持つ森長可のような、勇猛ではあるが血気にはやる若い武将も多く含まれていた。彼らをまとめ上げ、信長の意図通りに軍団を機能させるためには、単なる武勇だけでなく、戦場全体を俯瞰できる冷静な判断力、そして信長からの絶対的な信任という威光を背景に持つ重鎮の存在が不可欠であった。信秀の代からの古参であり、信行暗殺という汚れ役さえも成し遂げた絶対的な忠臣である秀隆は、この「目付役」としてうってつけの人物だったのである 5 。
したがって、秀隆の信忠補佐役就任は、単なる一武将の配置転換ではない。それは、信長が描く「信忠への円滑な権力移譲」という、織田政権の最重要課題を現場で担保するための「重石」であり、次世代の政権を安定させるための重要な装置としての役割を担っていた。
天正10年(1582年)、織田信長は宿敵・武田氏を滅ぼすべく、総力を挙げた甲州征伐を開始する。この戦いにおいて、河尻秀隆は信忠率いる本隊の先鋒として、その能力を遺憾なく発揮した 3 。
彼の功績は、単なる武勇伝に終わらない。開戦劈頭、秀隆は美濃・岩村口から信濃へと侵攻するにあたり、武力のみに頼ることはなかった。事前に武田方の国境を守る滝沢城の城番・下条信氏の家老衆に調略を仕掛け、これを寝返らせることに成功する 5 。この働きにより、織田軍は難所であった信濃への進入口を、ほとんど血を流すことなく突破し、電撃的な侵攻作戦の緒戦を華々しく飾った。
武田領深くに侵攻した後も、秀隆の活躍は続く。武田方が唯一、激しい抵抗を見せた高遠城の攻略戦では、信忠軍の主力として奮戦。城に籠る仁科盛信らを攻め立てる一方で、城下町を焼き払うなどの戦術を用いて城兵の士気をくじき、わずか一日での落城に大きく貢献した。この働きは信長からも高く称賛されている 5 。
最終的に、本拠の新府城を捨てて逃亡する武田勝頼を追撃し、天目山にて自刃に追い込む過程においても、秀隆と彼が率いる部隊は中心的な役割を果たした 22 。甲州征伐における秀隆の功績は、事前の周到な調略によって敵の戦力を内側から切り崩し、無用な損害を避けつつ迅速な勝利を手繰り寄せた点にある。これは、彼が武辺一辺倒の猛将ではなく、戦略的な思考と交渉能力を兼ね備えた、老練な指揮官であったことを明確に示している。
河尻秀隆と織田信長の関係が、単なる主君と家臣という枠を超えた、深い個人的な信頼に基づいていたことは、残された書状から鮮明に読み取ることができる。
特筆すべきは、天正2年(1574年)7月、信長が伊勢長島の一向一揆と激戦を繰り広げている最中に、対武田の最前線である美濃で守備についていた秀隆に宛てた書状である。その中で信長は、「身体は伊勢長島にあっても、心はそなたのことだけを心配している」(原文:身体者雖為在長島、心許者其許計之儀候)と記している 5 。天下人目前の主君が、一人の家臣に対してこれほどまでに親愛の情のこもった言葉を送るのは極めて異例であり、二人の間に特別な絆があったことを物語っている。
また、天正10年(1582年)の甲州征伐の際にも、信長は総大将である信忠だけでなく、補佐役の秀隆に対しても直接、詳細な指令を送っている。その内容は、進軍路の整備や中継基地となる城の構築といった具体的な軍事作戦に留まらない。信長は、「大百姓(有力農民)以下は、どちらが有利か草が風になびくように形勢を見計らっている」(原文:大百姓以下は草のなびき時分を見計らう候条)と現地の情勢分析を伝え、人心掌握の重要性を示唆している 36 。これは、信長が秀隆を、自らの戦略的意図を正確に理解し、現地の状況に応じて柔軟に実行できる、自身の代理人と見なしていた証左である。
さらに、長篠の戦いの折、信長が自らの兜を秀隆に下賜し、「危急の時には秀隆を自分の名代として派遣するから、その指示に従うように」と信忠に厳命したという逸話も残されている 5 。これらの書状や逸話は、秀隆が信長の構想を実現するための、最も信頼できる実行者であったことを雄弁に物語っている。
天正10年(1582年)3月、甲州征伐は織田軍の圧倒的な勝利に終わり、名門・武田氏は滅亡した。戦後、信長は論功行賞を行い、この戦いで多大な功績を挙げた河尻秀隆に対して、破格の恩賞を与えた。
秀隆は、武田家の旧臣で織田方に寝返った穴山梅雪の所領(河内領)を除く、甲斐一国(石高にして約22万石)と、替地として信濃国諏訪郡を与えられた 3 。これは、北陸方面軍司令官の柴田勝家や関東管領に任じられた滝川一益らと並ぶ、織田家臣団の中でも最高級の待遇であった。
信秀に仕えた一介の武者が、その武功と忠勤によって、一代で一国を領する国持ち大名へと上り詰めた瞬間であった。武田氏の本拠地であった甲府の躑躅ヶ崎館に入った秀隆は、まさにその武将としてのキャリアの頂点を迎えたのである。
河尻秀隆の甲斐統治は、わずか三ヶ月弱という短期間で終わった。しかし、後世の記録、特に江戸時代に編纂された地誌『甲斐国志』や甲斐国内の伝承において、彼の統治は「圧政」であったと厳しく断じられている。信長の権威を笠に着て、領民に対して略奪や放火を行い、武田旧臣の恨みを買ったことが、彼の悲劇的な最期を招いた、というのである 1 。
しかし、この「圧政」説には慎重な検討が必要である。なぜなら、彼の圧政を具体的に裏付けるような、同時代の一次史料は現在のところ確認されていないからである 5 。むしろ、秀隆が甲斐国都留郡において、統治行為として黒印状(公的な文書)を発給していた記録が残っており 13 、彼が着実に領国経営に着手しようとしていたことが窺える。
では、なぜ「圧政」のイメージが定着したのか。その背景には、いくつかの要因が考えられる。第一に、信長・信忠父子自身が、武田氏縁の寺社に対して焼き討ちなどの厳しい措置を取り、また降伏した武田旧臣を処刑するなど、過酷な占領政策を行っていた事実がある。これらの行為が、新国主として甲斐に入った秀隆一人の責任として、後世に誤って伝えられた可能性がある 5 。
第二に、より重要なのは、彼の死後に甲斐の新たな支配者となった徳川家康の存在である。本能寺の変後、家康は事実上、同盟者である織田家の領土(秀隆の任国)に侵攻し、これを自らの領国とした。この行為の正当性を確保するためには、「悪政を敷く秀隆を、領民が蜂起して打倒し、混乱した甲斐の秩序を家康が回復した」という物語が極めて有効であった。つまり、秀隆の「圧政」説は、徳川氏による甲斐支配を正当化するためのプロパガンダとして、意図的に流布・定着させられた可能性が否定できないのである。秀隆の悲劇は、その死後もなお、政敵によって彼の評価が歪められ続けた点にもあると言えよう。
天正10年(1582年)6月2日、京都・本能寺にて主君・織田信長が、そして二条御所にて後継者・信忠が、明智光秀の謀反によって横死するという、日本史上未曾有の政変が勃発した。
この衝撃的な報せが各地に伝わると、織田家の支配がまだ確立していなかった旧武田領は、一気に動揺と混乱の渦に巻き込まれた 41 。信長の強大な権威という「箍(たが)」が外れたことで、武田旧臣や国人衆が各地で蜂起したのである。
この危機的状況に際し、織田家の方面軍司令官たちの対応は分かれた。信濃の川中島四郡を与えられていた森長可や、伊那郡を領していた毛利長秀は、早々に領地の維持を断念し、本拠地である美濃へと撤退していった 9 。また、上野国にいた関東管領・滝川一益も、同盟を破棄して侵攻してきた北条氏の大軍との戦い(神流川の戦い)に敗れ、領地を放棄して伊勢へと逃げ帰った 41 。
しかし、河尻秀隆は彼らとは異なる道を選んだ。周囲の織田家臣が次々と任地を放棄する中、彼は甲斐国に留まり、主君から与えられた領国を最後まで守り抜こうとしたのである 9 。なぜ秀隆だけが留まったのか。その理由として、彼が信長・信忠父子から直接甲斐統治を命じられた国主としての強い責任感、そして信忠の後見人として織田政権の中枢を担ってきたという自負が、安易な撤退を許さなかったと考えられる。彼は、主君亡き後もその命令を遵守しようとした、極めて忠誠心の篤い、ある意味では融通の利かない、古武士的な気質の持ち主であったのかもしれない。
本能寺の変の報を堺で受けた徳川家康は、有名な「神君伊賀越え」によって命からがら本国三河に帰還すると、直ちに空白地帯と化した甲信地方への介入を開始した 44 。
家康はまず、家臣の本多信俊(『三河物語』では本多忠政)を甲斐の秀隆のもとへ派遣し、「甲斐は危険なので、速やかに本国の美濃へ帰還すべきである」と勧告した 1 。これは表向き、同盟者である織田家家臣の身を案じた「善意」の申し出であった。
しかし、その裏で家康は武田旧臣たちに接触し、「所領を安堵する」という旨の朱印状を乱発するなど、明らかに甲斐の切り取りを画策していた 5 。秀隆がこの家康の二枚舌の動きを察知しないはずはなかった。彼は家康の申し出を、自身を甲斐から追い出し、その混乱に乗じて領国を横領しようとする策略であると看破した。
秀隆の決断は、断固たるものであった。彼は家康の使者である本多信俊を謀殺し、徳川家との完全な断交の意思を明確に示したのである 5 。秀隆にとって、家康の行動は、主君・信長父子の死という未曾有の国難に乗じて、同盟国の領土を掠め取ろうとする許しがたい裏切り行為に他ならなかった。撤退すれば自らの命は助かったかもしれない。だが、それは主君から与えられた任地を放棄し、家康の野心を容認することを意味した。
この使者殺害が直接の引き金となったか、あるいは家康に扇動された結果か、武田遺臣や国人衆は一斉に蜂起し、岩窪にあった秀隆の館を襲撃した。天正10年6月18日、孤立無援の秀隆は奮戦の末、武田旧臣の三井弥一郎らに討ち取られた(自害したとの説もある) 3 。享年56。彼の死は、単なる一揆による横死ではない。織田家の秩序と主君への忠義を守るために、家康という巨大な政治的圧力に屈することなく、最後まで戦うことを選んだ結果としての「殉死」と評価すべきであろう。
人物 |
変報覚知(推定) |
初期行動 |
最終的な行動と結果 |
行動原理の考察 |
河尻秀隆 |
6月上旬 |
甲斐国に留まり、領国維持を図る。 |
徳川家康の介入を拒絶し、使者を殺害。一揆勢に襲われ討死(6月18日) 5 。 |
忠義・責任感 :信長から与えられた国主としての任務を最後まで遂行しようとした。 |
森長可 |
6月上旬 |
信濃の領民や国人の反乱に直面。 |
領地を放棄し、多大な犠牲を払いながら美濃へ撤退 9 。 |
現実的判断 :支配が困難と判断し、自軍の保全と本国への帰還を優先。 |
滝川一益 |
6月上旬 |
上野国にて領内を固めるが、北条氏が侵攻。 |
神流川の戦いで北条軍に大敗し、伊勢長島へ敗走 41 。 |
自己保身・状況判断 :当初は光秀討伐も視野に入れたが、北条氏の圧力により撤退を選択。 |
徳川家康 |
6月2日 |
伊賀越えで三河に帰還(6月4日)。 |
武田旧臣の調略を開始。秀隆死後、甲斐・信濃へ進出し、北条氏と争う(天正壬午の乱) 44 。 |
野心・機会主義 :信長死後の権力の空白を好機と捉え、迅速に領土拡大へと動いた。 |
河尻秀隆の最期を物語る上で、ひときわ異彩を放つのが「逆さ塚」の伝説である。甲斐の民衆や武田旧臣の深い恨みを買った秀隆の遺体は、死後、逆さまにして埋められたというもので、彼が葬られたとされる塚は、現在も「河尻塚」あるいは「さかさ塚」の名で呼ばれている 1 。
この塚は山梨県甲府市岩窪町に現存し、甲府市の史跡に指定されている 5 。この伝説は、前述した「圧政」説と密接に結びついており、新国主に対する領民の激しい憎悪を象徴する物語として、後世に語り継がれてきた。同じ岩窪の地には、武田信玄の墓が今も丁重に祀られているが、その扱いの差は、甲斐の地における武田氏と、その地をわずかな期間支配した織田氏(及びその代理人であった秀隆)への、人々の感情のコントラストを如実に物語っている 54 。この伝説もまた、秀隆の死後に甲斐を支配した徳川氏の統治を正当化する文脈の中で、より強調されていった可能性が考えられる。
河尻秀隆という武将を総合的に評価するならば、彼は戦国時代に求められた多様な能力を高いレベルで兼ね備えた、優れた宿将であったと言える。
まず、そのキャリアの初期から晩年に至るまで、彼の「勇猛」さは際立っている。16歳での初陣で敵将を討ち取った逸話に始まり 17 、美濃攻略戦での一番乗りの功名など、戦場の第一線で自ら槍を振るう武人としての側面は、彼の評価の根幹をなす。
しかし、彼の真価は単なる武勇に留まらない。甲州征伐で見せたように、彼は戦わずして勝つための「調略」に長けていた。また、信長の弟・信行の暗殺という極秘任務を遂行したことから、主君の非情な決断をも理解し実行できる、冷静さと覚悟を持ち合わせていたことがわかる。さらに、血気盛んな若手武将が多い信忠軍団を、その後見人としてまとめ上げた統率力は、彼が冷静な判断力を持つ指揮官であったことを証明している 26 。
信長からの個人的な信頼は、家臣団の中でも群を抜いていた。数々の書状や逸話が示すように、秀隆は信長の戦略構想を深く理解し、それを忠実に実行できる代理人として、絶対的な信頼を寄せられていた 5 。信長の側近として政治の中枢にも関わっており 17 、武功だけでなく、その忠誠心と実務能力が高く評価されていたのである。
彼の悲劇的な最期は、決して彼の能力の欠如によるものではない。それは、本能寺の変という歴史の激変と、徳川家康という巨大な政治権力との対峙という、一個人の力では到底抗いようのない巨大な奔流に飲み込まれた結果であった。
河尻秀隆の死後、彼の息子たちは父とは異なる道を歩み、戦国から江戸へと移行する時代の大きな変化を象徴するような足跡を残した。
嫡男の河尻秀長(与四郎、直次とも)は、父の横死により甲斐の所領を継ぐことはできず、石田三成の推挙を受けて豊臣秀吉に仕えた 55 。秀吉の家臣として、小牧・長久手の戦いや九州平定、小田原征伐、文禄・慶長の役などに従軍し、各地を転戦 55 。最終的には慶長4年(1599年)、美濃苗木城主として1万石を領する大名に返り咲いた 13 。父・秀隆が徳川家康との対立の末に死んだ経緯を考えれば、秀長が反徳川の旗頭である石田三成方に与し、豊臣家に忠誠を誓ったのは自然な選択であった。父の遺志を継ぐかのようなこの選択は、慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いで彼を西軍へと導いた。秀長は伏見城攻めなどに参加した後、本戦で討死(あるいは敗戦後に処刑)し、大名家としての河尻氏の血脈はここに断絶した 29 。
一方で、秀長の弟である河尻鎮行は、兄とは異なる運命を辿った。関ヶ原の戦いを生き延びた鎮行は、後に新たな天下人となった徳川家に召し出され、200俵取りの旗本となった 57 。彼の家系は江戸幕府の旗本として存続し、明治維新まで家名を後世に伝えた 60 。
父の遺恨を継いで豊臣家に殉じた兄・秀長と、新しい時代の覇者に仕えることで家の存続を図った弟・鎮行。この対照的な兄弟の生き様は、戦国の価値観が終焉を迎え、新たな秩序が形成されていく時代の転換期において、武家が直面した厳しい選択のリアルな姿を映し出している。
河尻秀隆という武将の生涯は、二つの対照的な史跡にその記憶を刻んでいる。
一つは、岐阜県加茂郡坂祝町にある臨済宗の寺院、長蔵寺である。この寺は、秀隆が美濃猿啄城(勝山城)の城主であった時代に、自らの菩提寺として創建したものである 26 。境内には、秀隆本人と、その子である秀長、鎮行、さらには旧家臣たちのものと伝わる墓が今も静かに並んでいる 26 。寺には秀隆の肖像画も所蔵されており 62 、ここでは彼は領主として、また一族の祖として敬われている。
もう一つは、山梨県甲府市岩窪町に残る河尻塚(さかさ塚)である 5 。ここは、彼の非業の死を伝える史跡であり、「圧政の恨みから逆さまに埋められた」という伝説と共に、彼の統治が地元の人々にいかに受け入れられなかったかを物語る場所として記憶されている。
岐阜における「城主・開基」としての栄光の記憶と、甲斐における「圧政者・非業の死」という悲劇の記憶。この二つの全く異なる貌(かお)を持つ史跡は、河尻秀隆の生涯が内包していた光と影、そして彼の死後に作られた評価の歪みを、今日にまで象徴的に示しているのである。
河尻秀隆の生涯を丹念に追うと、通説として流布する「圧政を敷いた猛将」という一面的な評価が、彼の本質を捉えきれていないことが明らかになる。彼は、信長の父・信秀の代から二代にわたって織田家に忠誠を尽くし、戦場での勇猛さと、主君の深謀遠慮を理解し実行する冷静な統率力、そして主家の暗部さえも支える覚悟を兼ね備えた、織田政権の屋台骨を支える紛れもない宿将であった。その功績は、甲斐一国という破格の恩賞に結実したが、その栄光は本能寺の変という歴史の激震によって、あまりにもあっけなく、わずか三ヶ月で幕を閉じた。
彼の最期は、織田政権の強固な中央集権体制が、信長という絶対的な求心点を失った際にいかに脆弱であったかを物語っている。そして同時に、戦国の世における同盟関係が、巨大な権力の空白を前にして、いかに政治的力学によって容易に覆されるかという、乱世の非情な現実を突きつける。
秀隆が甲斐に留まり、徳川家康の介入に断固として抵抗し、死を選んだ行動は、単なる状況判断の誤りや頑迷さとして片付けられるべきではない。それは、信長・信忠父子から託された国主としての責任を全うし、織田家の秩序と主君への忠義を守り抜こうとした、彼の武士としての矜持の表れであった。彼の死は、徳川家康による甲信平定、すなわち「天正壬午の乱」の本格的な序章を告げる、戦国史の重要な転換点であったと言える。
「圧政者」という後世に作られたレッテルを剥がし、織田家への忠誠に殉じた悲劇の国主として、河尻秀隆を再評価すること。それこそが、時代の奔流に消えた一人の優れた武将に対する、歴史研究の責務であろう。