最終更新日 2025-06-20

河野通宣(河野教通の子)

伊予国守護 河野刑部大輔通宣 ― 内憂外患の時代を生きた戦国期当主の実像

序章:河野通宣という人物像の再構築

研究対象としての河野通宣(刑部大輔):なぜ彼の生涯は重要か

本報告書が対象とする河野通宣(こうの みちのぶ)は、室町時代中期から戦国時代前期にかけて伊予国(現在の愛媛県)を治めた守護大名である。伊予の名門、河野氏の惣領家に生まれ、父・河野教通(のりみち)の跡を継ぎ、永正16年(1519年)にその生涯を閉じた 1 。彼の治世は、約一世紀にわたり河野氏を分裂させ、伊予国を疲弊させた惣領家と分家(予州家)との内紛を最終的に収束させ、戦国大名としての河野氏の権力基盤を再構築する上で極めて重要な過渡期であった。

彼の生涯を詳細に分析することは、室町幕府の権威が失墜し、守護大名が自立した領国支配を志向する「戦国大名」へと変質していく時代のダイナミズムを、一地方権力の視点から具体的に解明する上で不可欠である。さらに、瀬戸内海という地政学的に重要な海域を舞台とした権力闘争の実態、そして中央政権の動向が地方に及ぼした影響を考察する上で、河野通宣の事績は格好の事例研究となる。

史料上の課題:同名異人との混同問題と、その明確な識別

河野氏の歴史を紐解く上で、特に注意を要するのが同名の人物の存在である。本稿で主題とする河野通宣は、幼名を代益丸、あるいは六郎といい、官途は刑部大輔(ぎょうぶだゆう)を称した 3 。彼の系譜は、父・教通(のちに改名し通直)、子・通直(弾正少弼)と続く 2

一方で、彼の孫の世代にも、同じく「通宣」を名乗る人物が存在する。この人物は、大永2年(1522年)に生まれ、天正9年(1581年)に没したとされ、官途は左京大夫(さきょうのだいぶ)を称した 5 。彼は兄・河野晴通(はるみち)の早世を受けて家督を継いだ人物であり、本稿の主題である刑部大輔通宣とは明確に別人である 5

この二人の「通宣」は、多くの系図や二次資料において混同されやすく、両者の事績を正確に切り分けることが、本報告書の出発点となる。本稿では、官途(刑部大輔/左京大夫)、活動した時代(明応・永正年間/天文・永禄年間)、そして親子関係(父が教通/父が弾正少弼通直)といった客観的な指標に基づき、両者を厳密に区別して論考を進める。

本報告書の目的と構成

本報告書は、現存する一次史料および二次史料を批判的に検討し、これまで断片的にしか語られてこなかった河野刑部大輔通宣の生涯を、多角的な視点から再構成することを目的とする。特に、後世に編纂された『予陽河野家譜』などの記述については、その内容を鵜呑みにすることなく、他の信頼性の高い史料との比較検証を徹底し、史料としての価値を慎重に吟味する 2

報告書の構成として、まず第一章で、通宣が家督を継ぐ背景となった惣領家と予州家の長年にわたる対立の歴史を概観する。続く第二章では、彼の治世における具体的な政治・軍事行動を分析し、当主としての実像に迫る。第三章では、家臣団の編成や水軍勢力との関係から、彼の領国統治の特質を明らかにする。第四章では、経済基盤や宗教政策といった内政面に光を当てる。そして第五章で、彼の死と、それが後世の河野氏に与えた影響を考察し、結論へと繋げる。

第一章:家督相続の背景 ― 惣領家と予州家の永き対立

河野氏内紛の源流:惣領家と分家(予州家)の成立と対立の激化

河野刑部大輔通宣の生涯を理解するためには、彼が家督を継承する以前から続いていた、一族内の深刻な対立の歴史を避けて通ることはできない。この内紛の源流は、応永元年(1394年)の伊予国守護・河野通義の急逝に遡る 1 。通義の死に際し、その妻が懐妊中であったため、生まれてくる子が男子であれば成長後に家督を譲るという条件で、弟の通之が後継者となった 1

やがて通義の遺児として男子(のちの河野通久)が誕生し、約束通り家督を継承したが、これに不満を抱いたのが通之の子・通元であった 1 。この家督問題を契機として、通久を祖とする

惣領家 と、通之・通元親子を祖とする分家・ 予州家 との間で、伊予国の支配権を巡る根深い対立が始まったのである 9 。この争いは両者の死後も続き、通宣の父である河野教通(惣領家)と、予州家の河野通春の代で対立は頂点に達し、伊予国を二分する大規模な内乱へと発展した 4

外部勢力の介入:細川氏と大内氏の代理戦争の舞台となった伊予国

河野氏の内紛は、単なる一族内の勢力争いに留まらなかった。その背景には、当時の西日本を代表する二大勢力、すなわち管領家として四国に強大な影響力を持つ細川氏と、瀬戸内海の制海権や日明貿易の利権を巡って細川氏と激しく対立していた周防の大内氏の存在があった。細川氏は予州家を、大内氏は惣領家(のちに支援対象は変遷するが、主に応仁の乱では予州家を支援)をそれぞれ支援し、伊予国は両大勢力の思惑が交錯する「代理戦争」の舞台となったのである 12

伊予国がこのような大国の介入を招いた根本的な原因は、その地政学的な重要性にある。瀬戸内海のほぼ中央に位置し、海上交通の要衝である伊予は、西国と畿内を結ぶ結節点であった 13 。この地を制することは、瀬戸内海全体の物流と軍事の主導権を握ることに直結した。そのため、細川氏と大内氏にとって、河野氏の内紛は、この戦略的要衝を自陣営に引き込むための絶好の機会と映ったのである。河野氏の内部対立は、この地政学的な位置づけゆえに、単なる地方の騒乱ではなく、中央の政治情勢と密接に連動する複雑な様相を呈することになった。

父・河野教通の時代:応仁の乱を経て、惣領家による伊予国支配権の掌握

応仁の乱(1467-1477年)が勃発すると、この対立構造はさらに鮮明になる。予州家の河野通春は、かねてより同盟関係にあった大内政弘と共に西軍に属し、大軍を率いて上洛した 4 。これに対し、惣領家の当主であった父・教通は、当初は静観の構えを見せていたが、西軍が通春を伊予守護に任じると、東軍の総帥である細川勝元の誘いに応じ、通春に対抗する姿勢を明確にした 4

乱の終結後、教通はその功績を幕府に認められ、正式に伊予守護に任じられた。そして文明14年(1482年)に宿敵・通春が没すると、その後を継いだ子・通篤との争いにおいても優位に立ち、長年にわたる内紛の末に予州家を圧倒、伊予国の主導権を完全に掌握した 1 。この父・教通の勝利によって、ようやく河野氏の分裂状態は終焉を迎え、通宣が家督を継承するための盤石な地盤が築かれたのであった。

【表1】河野氏主要人物関係図(惣領家・予州家対照)

家系

世代

人物名(官途・通称)

備考

惣領家

河野通義

応永元年(1394年)没 1

祖の弟

(河野通之)

予州家の祖

1

河野通久

通義の子。通之から家督を譲られる 1

2

河野教通(通直)

通久の子。予州家を圧倒 4

3

河野通宣(刑部大輔)

本報告書の主題 。教通の子 3

4

河野通直(弾正少弼)

通宣の子 2

予州家

河野通之

通義の弟 1

1

河野通元

通之の子。惣領家と対立 1

2

河野通春

通元の子。教通と激しく争う 4

3

河野通篤

通春の子。通宣に敗れ、予州家は衰退 20

第二章:通宣の治世 ― 父・教通の影と当主としての下知

明応九年(1500年)の家督継承:父・教通が掌握した実権と通宣の立場

明応9年(1500年)、父・教通が湯築城で没したことに伴い、通宣は正式に河野氏の家督を継承した 1 。彼は幼名を代益丸、通称を六郎といい、のちに刑部大輔に任じられている 3 。しかし、形式上は当主となったものの、その治世の初期において、実権は依然として父・教通の威光の下にあったと見られている。その根拠として、教通の名で発給された文書が多数現存すること、そして通宣自身が家督継承後も長く父と行動を共にしていたことが挙げられる 3

この状況は、通宣の父・教通が単なる一地方領主ではなかったことに起因する。教通は、永享の乱や嘉吉の乱といった室町幕府中枢の動乱に関与し、応仁の乱という未曾有の内乱を乗り越え、一世紀にわたる一族の内紛に終止符を打った傑物であった 4 。その強大なカリスマと実績は、後継者である通宣にとって、自らの権威の源泉であると同時に、自身の主体性を発揮する上での大きな制約ともなった。通宣の治世初期は、父の敷いた路線を忠実に継承し、その絶大な権威を背景に領国を統治する、いわば「後見政治」に近い状態であったと推察される。通宣の真価が問われるのは、この偉大な父の死後、自らの力のみで領国を統治する必要に迫られてからであった。

予州家との最終決戦:河野通篤との抗争と湯築城の攻防

父・教通の死後も、予州家の勢力は完全には根絶されておらず、対立の火種は燻り続けていた。予州家を継いだ河野通篤(通春の子)との抗争は継続し、一時、通宣は本拠地である湯築城を追われるという危機に直面した。しかし、彼は間もなく城を奪回し、この戦いにおける勝利をもって予州家の勢力を決定的に衰退させることに成功した 2 。この勝利は、通宣の治世における最大の軍事的功績であり、これにより河野氏は惣領家の許で名実ともに再統一される道筋がつけられたのである。なお、通篤が伊台の里(現在の松山市)で、端午の節句の鯉のぼりに驚いた馬から落馬して討ち取られたという伝説が残るが 24 、これは後世に作られた逸話であり、史実と見なすことは困難である。

伊予国内の平定:永正八年(1511年)の宇和地方出兵とその意義

『予陽河野家譜』によれば、永正8年(1511年)、通宣は平岡氏、八倉氏、出淵氏、得能氏といった主要な家臣団を宇和地方(現在の愛媛県南予地方)に派遣し、反対勢力を平定したと記されている 2 。この軍事行動は、単なる反乱鎮圧以上の意味を持っていた。宇和地方は、地理的に土佐国や豊後国に近く、外部勢力の影響を受けやすい地域であった。この出兵は、予州家の残存勢力、あるいはそれに与する在地国人衆を一掃し、伊予国内における河野惣領家の支配権を隅々まで浸透させるための総仕上げともいえる軍事行動であった。父の死から10年以上の歳月を経て、通宣が自らの名において家臣団を動員し、領国統一を完成させた象徴的な出来事として評価できる。

『予陽河野家譜』に見る中央での活動:大内義興に随行したとされる上洛の虚実

江戸時代に編纂された『予陽河野家譜』には、通宣の華々しい活躍が記されている。具体的には、周防の大内義興が前将軍・足利義稙を奉じて上洛した際、通宣もこれに随行し、難波浦や丹波で細川氏や三好氏の軍勢と戦い、武功を挙げたというものである 2

しかし、これらの記述は、同時代の他の一次史料では一切傍証が取れず、その信憑性は極めて低いと言わざるを得ない 2 。これは、後世に河野氏の権威を高める目的で編纂された『予陽河野家譜』が、大内氏のような当代一流の大名との密接な関係や、中央政界での武功を意図的に創作、あるいは潤色した可能性が高いことを示唆している。通宣という人物の実像を評価するにあたっては、こうした顕彰的な記述と、客観的な史実とを厳密に峻別する史料批判の視点が不可欠である。

第三章:伊予国の統治と家臣団

守護大名としての権力構造の変質

河野通宣が伊予国を治めた16世紀初頭は、日本の地方統治体制が大きく変質する過渡期であった。室町幕府によって任命され、その権威を背景に国を治めていた「守護」は、応仁の乱を経て幕府の権威が失墜する中で、自らの軍事力と経済力を基盤として領国を一元的に支配する「戦国大名」へと脱皮しつつあった 25 。守護は伝統的に、守護代や奉行人といった家臣を通じて領国を統治していたが、在地の武士である国人領主の力が相対的に増大し、守護の支配は常に彼らの動向に左右される不安定なものであった 28 。通宣の統治もまた、こうした権力構造の変化の中で、いかにして個性豊かな家臣団を統制し、領国支配を維持するかという課題に直面していた。

奉行人制度の展開と家臣団編成

河野氏の領国支配において、当主の意思を奉じて具体的な行政命令(奉書)を発給する奉行人の役割は極めて重要であった 29 。通宣の時代を含む戦国期に入ると、この奉行人の顔ぶれに注目すべき変化が見られる。室町期には、久万氏や垣生氏のように河野氏の一門や古くからの譜代の家臣が奉行人の中心であった。しかし戦国期になると、南氏、町田氏といった譜代層に加え、大野氏、平岡氏、そして村上(来島)氏といった、本来は河野氏の一族ではない「外様」の有力国人が、新たに奉行人の一員として名を連ねるようになる 29

この変化は、単に河野氏の権力が衰退した結果と見るべきではない。むしろ、長年の内紛を終結させた通宣が、より実効性の高い支配体制を構築しようとした結果と捉えるべきである。旧来の血縁を中心とした閉鎖的な家臣団構造から、領内に勢力を持つ有力国人を、その実力に応じて政権中枢に積極的に取り込むことで、領国支配の安定化を図ったのである。これは、守護大名が戦国大名へと脱皮していく過程で共通して見られる、実力主義的で現実的な権力構造の再編であり、通宣の治世がその重要な転換点にあったことを示している。

伊予水軍との連携:来島村上氏と忽那氏

瀬戸内海に面する伊予国にとって、「海賊衆」とも呼ばれた水軍勢力の掌握は、領国の安全保障と経済の生命線を握る死活問題であった 31 。通宣は、これらの海上勢力に対して巧みな統制を行った。

来島村上氏との密接な関係

通宣の治世において、来島を拠点とする村上氏は、河野氏の最も強力な軍事力として機能し、両者の関係は極めて密接であった。長らく予州家方についていた村上三家(来島・能島・因島)は、永正9年(1512年)頃に惣領家である通宣方に帰順したとされる 32。この関係の深さを象徴するのが、通宣の最期に関する記録である。『高野山上蔵院過去帳』という信頼性の高い史料に、通宣が永正16年(1519年)に「於来島城御他界」(来島城にて逝去)と記されている 32。事実であれば、一国の当主が家臣の城で最期を迎えるというのは異例のことであり、両者の間に単なる主従関係を超えた強固な信頼関係が存在したことを物語っている。しかし、この過度な信頼関係は、皮肉にも後の息子・通直の代における深刻な家督問題(来島騒動)の遠因ともなった。

忽那氏への統制強化

一方で、かつては半ば独立した勢力であった忽那島(現在の松山市中島)の忽那氏に対しては、通宣の時代に統制が著しく強化された。この時期を境に、河野氏が忽那氏の所領を保障する安堵状の発給が見られなくなり、代わりに忽那島内の代官職を河野氏が直接任命するようになる 34。これは、忽那氏が河野氏の軍事動員に応じる中で、その活動拠点を伊予本土へと移し、陸上の大名権力である河野氏の支配体制に深く組み込まれていった結果と考えられる 34。さらに、忽那氏の支城であった鹿島(賀嶋)の部隊(鹿島衆)が、通宣から直接命令を受けるようになっていることも、守護権力が在地の海上勢力に対して支配を浸透させていったことを裏付けている 34。

第四章:領国経営の実態 ― 経済と宗教

伊予国の経済基盤:海上交通と港湾

戦国時代の伊予国、特に河野氏の本拠地であった道後平野は、政治・軍事の中心であると同時に、活気ある経済の中心地でもあった 35 。その繁栄を支えたのは、瀬戸内海の海上交通であった。

湯築城の外港として機能した三津(現在の松山市三津浜)は、瀬戸内海航路の要衝として、古くから物資の集散地として栄えた 37 。湯築城下には市が開かれ、多くの人々で賑わったと記録されている 37 。湯築城跡の発掘調査では、当時の輸入品である中国製の高級陶磁器なども多数出土しており、堺などの畿内の大都市や、さらには海外との交易も行われていたことが窺える 36

伊予国の経済は、この海上交通に大きく依存しており、航行の安全を保障し、その見返りとして通行料(関銭・警固料)を徴収することは、河野氏にとって重要な財源であった 39 。この経済的側面からも、来島村上氏に代表される強力な水軍を支配下に置くことは、軍事面のみならず領国経営上、不可欠の要素だったのである。また、古くから伊予国の特産品として知られるものに、弓削島荘に代表される塩の生産があり、これも重要な経済基盤の一つであった 43 。後代の記録ではあるが、製紙業なども行われていた可能性が示唆されている 46

宗教政策と寺社との関係:氏寺の再興と檀越関係の構築

通宣は、領国支配において宗教的な権威も巧みに利用した。延徳2年(1490年)、彼は多幸山天徳寺(松山市)を再建し、寺領として三百貫文という広大な土地を寄進して、河野家の氏寺とした 47 。これは、単なる個人的な信仰心の発露に留まるものではない。氏寺の建立や再興は、一族の結束と安寧を祈願すると同時に、当主の権威を領内に示し、統治の正当性を内外に誇示する政治的・社会的な行為であった。

また、大三島の大山祇神社のような古くからの有力寺社との関係維持も重要であった。河野氏は室町時代以降、大山祇神社の神官の最高位である大祝(おおほうり)職の任命権を掌握し、神官組織の内部紛争を裁定するなど、強い影響力を行使していた 48 。通宣の父・教通も大祝職を補任しており 48 、通宣もこの関係を継承し、伝統的な宗教的権威を領国支配に利用したと考えられる。

高野山信仰と檀越関係:上蔵院との結びつき

通宣の宗教政策の中でも特に注目されるのが、高野山との関係である。河野氏は、高野山内の上蔵院(じょうぞういん)を宿坊(菩提寺)と定め、極めて深い檀越(だんおつ)関係を築いていた 49

江戸時代後期の地誌『紀伊続風土記』には、通宣とその子・通直(弾正少弼)が上蔵院に登り、自らの肖像画や一族の系譜を奉納したうえで、「国中を当院の檀越となす」という寄附状を納めたと記されている 49 。この記述は、現存する上蔵院の古文書からも裏付けられ、信憑性が高い。

この「国中を当院の檀越となす」という行為は、極めて高度な政治的意図を含んでいる。これは、伊予国内の家臣たちが、それぞれ勝手に他の寺院と結びつき、独自のネットワークを形成することを禁じるものであった。そして、高野山へ参詣する際には、必ず河野氏の菩提寺である上蔵院を宿坊とすることを義務付けたのである(この方針は、息子の通直の代に「宿坊証文」という形で法制化される 49 )。これにより、河野氏は家臣団の動向を把握し、情報の流れをコントロールすると同時に、共通の信仰対象を持つことで家臣団の一体感を醸成し、宗教的な権威を通じて領国の一元的な支配を強化しようとした。通宣の代に始まったこの政策は、戦国大名による先進的な領国統制策の一例として高く評価できる。

第五章:終焉と後継 ― 永正十六年(1519年)の死

最期の地を巡る考察:湯築城か、あるいは来島城か

永正16年(1519年)、河野刑部大輔通宣はその生涯を閉じた 1 。その終焉の地については、本拠地である湯築城とするのが一般的な見方である。しかし、史料的価値の高い『高野山上蔵院過去帳』には、「於来島城御他界」(来島城においてご逝去)と明確に記されている 32

この一次史料に近い記録は軽視できない。もし通宣が家臣である村上氏の居城・来島城で亡くなったとすれば、それは単なる偶然ではなく、いくつかの重要な可能性を示唆する。第一に、瀬戸内海の防衛や統治の最前線に、当主自らが赴いていた可能性。第二に、病気療養のため、気候が温暖で風光明媚な島嶼部を選んだ可能性。そして第三に、最も注目すべきは、来島村上氏との間に、当主が最期の時を託すほどの極めて強固な信頼関係が存在した可能性である。この記録は、戦国期における河野氏と伊予水軍との関係性の深さを考察する上で、非常に興味深い論点を提示している。

嫡男・河野通直(弾正少弼)への家督継承と、その後の河野氏

通宣の死後、家督は嫡男の通直が継承した。彼は幕府から弾正少弼(だんじょうのしょうひつ)の官途を与えられ、父が築いた比較的安定した領国を受け継いだ 1

しかし、通宣の治世に確立されたかに見えた伊予国の安定は、長くは続かなかった。通直の代になると、府中(現在の今治市)の鷹取山城主・正岡経貞や石井山城主・重見通種が相次いで反乱を起こすなど、再び家臣団の統制に苦慮することになる 2 。さらに、讃岐の細川氏など、隣国からの軍事的な圧力も再び強まっていった 2

通宣が巧みなバランス感覚で統制していた家臣団のパワーバランスは、彼の死によって崩れ始めた。特に、通宣が重用し、密接な関係を築いた来島村上氏の存在は、通直の晩年に深刻な家督争い、いわゆる「来島騒動」を引き起こす最大の火種となった 2 。通宣の築いた遺産は、同時に次代の課題をも内包していたのである。

河野刑部大輔通宣の歴史的評価:戦国初期の守護大名として残した遺産と課題

河野刑部大輔通宣の歴史的評価は、二つの側面から考えることができる。

遺産(功績)

第一に、彼は父・教通と共に、一世紀にもわたる河野氏の内紛を完全に終結させ、戦乱で疲弊した伊予国に一時の安定をもたらした。第二に、大野氏や平岡氏、村上氏といった有力な在地国人を奉行人として政権中枢に登用し、水軍勢力を再編成するなど、旧来の守護大名から戦国大名へと移行する過渡期において、現実的かつ実効性の高い領国統治モデルを構築した点は、高く評価されるべきである。

課題(限界)

一方で、彼が築いた権力基盤は、特定の有力家臣、とりわけ来島村上氏の軍事力に大きく依存するという脆弱性を内包していた。通宣自身のカリスマや政治手腕によって保たれていた家臣団の微妙な力関係は、彼の死後、容易に崩壊した。この権力構造の歪みは、次代の通直を大いに苦しめ、結果として河野氏が戦国乱世の荒波を乗り越えられず、衰退していく大きな要因となった側面も否定できない。

結論:過渡期の領主、河野通宣の再評価

通宣の生涯の総括:内紛の収束と領国安定への功績と限界

河野刑部大輔通宣は、父・教通の築いた基盤の上に、宿敵であった予州家を完全に屈服させ、伊予国の再統一を成し遂げた、戦国時代初期の伊予における重要な領主であった。彼の治世(1500年-1519年)は、長きにわたる戦乱の時代から、比較的安定した小康状態への転換期であったと総括できる。彼は内紛を収め、家臣団を再編し、宗教政策を通じて領国の一元化を図るなど、戦国期の領主として確かな足跡を残した。

歴史的位置づけ:守護大名から戦国大名へと変質する時代のなかでの役割

彼の統治手法には、守護代や奉行人を通じて領国を支配する旧来の守護大名的な側面と、実力主義に基づき有力国人を積極的に登用し、宗教的権威をも利用して中央集権的な支配を目指す戦国大名への志向が明確に混在している。彼はまさに、室町時代的な権力構造が崩壊し、新たな支配体制が模索される「過渡期」を象徴する人物であった。彼の存在なくして、その後の河野氏の歴史を語ることはできない。

後世への影響:彼の治世が、その後の河野氏の衰退に与えた影響についての考察

しかし、通宣がもたらした平和は、次代の家臣団の対立や周辺勢力の侵攻によって、脆くも破られることになる。彼が頼りとした有力家臣、特に来島村上氏との密接すぎる関係は、結果的に河野氏の家督問題に深刻な亀裂を生じさせ、その後の衰退を加速させる一因となった。彼の生涯は、戦国時代の地方領主が、内憂と外患の中でいかに脆弱な権力基盤の上に立っていたかを如実に物語っている。安定の功労者であると同時に、次なる混乱の種を蒔いた人物、それが河野刑部大輔通宣の多角的で複雑な実像であると言えよう。


【巻末付録】

河野通宣(刑部大輔)関連年表

年代(西暦)

出来事

典拠

文明14年(1482)

予州家の河野通春が没し、子・通篤が跡を継ぐ。

4

延徳2年(1490)

通宣 、多幸山天徳寺を再建する。

47

明応9年(1500)

1月20日、父・河野教通が湯築城で没。嫡男の 刑部大輔通宣 が家督を継承する。

1

(時期不詳)

通宣 、予州家の河野通篤との抗争に勝利し、一時追われた湯築城を奪回。予州家の勢力は決定的に衰退する。

22

永正5年(1508)

大内義興が前将軍・足利義稙を奉じて上洛。『予陽河野家譜』は 通宣 の随行を記すが、他の史料による裏付けはない。

2

永正8年(1511)

通宣 、平岡氏・八倉氏・出淵氏・得能氏らを宇和地方に派遣し、反対勢力を平定する。

2

永正9年(1512)頃

村上三家(来島・能島・因島)が予州家を離れ、惣領家( 通宣 )に帰順したとされる。

32

永正16年(1519)

7月、 刑部大輔通宣 が没する。嫡男の 弾正少弼通直 が家督を継承。『高野山上蔵院過去帳』には「於来島城御他界」と記される。

1

大永3年(1523)

7月、弾正少弼通直の代、鷹取山城主・正岡経貞が謀反を起こすが、鎮圧される。

2

享禄3年(1530)

3月、弾正少弼通直の代、石井山城主・重見通種が反抗するが、村上通康によって討伐される。

2

天文11年(1542)

弾正少弼通直の家督継承を巡り、村上通康を推す通直と、通政(晴通)を推す家臣団が対立(来島騒動)。

2

引用文献

  1. OC06 河野通久 - 系図 https://his-trip.info/keizu/entry315.html
  2. 三 河野氏の衰退 - データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報 ... https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/62/view/7847
  3. 四 河野教通と同通春との抗争 - データベース『えひめの記憶 ... https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/62/view/7831
  4. 河野教通 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E9%87%8E%E6%95%99%E9%80%9A
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  6. 南北朝時代の伊予大野氏|ねこ先生の郷土史 - note https://note.com/kidszemi/n/n93529cf6f21e
  7. 越智氏の出自 -- 「オチ」元は「コチ」だった 合田洋一 https://www.furutasigaku.jp/jfuruta/masakisi/kotiyosi.html
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  13. 河野氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E9%87%8E%E6%B0%8F
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  15. 【応仁の乱と大内氏】 - ADEAC https://adeac.jp/kudamatsu-city/text-list/d100010/ht020260
  16. 【日本遺産ポータルサイト】“日本最大の海賊”の本拠地:芸予諸島 https://japan-heritage.bunka.go.jp/ja/stories/story036/
  17. 今治平野と芸予諸島 - (公財) 愛媛県埋蔵文化財センター http://ehime-maibun.or.jp/fukyukeihatsu/kyosaiten/kyodokikauten/R6/R6.pdf
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  21. 近所の探検記録(9):河野通春公のお堂 | よっこん日記 https://ameblo.jp/tj23002300/entry-12886074649.html
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  26. 【高校日本史B】「守護の成長」 | 映像授業のTry IT (トライイット) https://www.try-it.jp/chapters-12583/lessons-12694/point-2/
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  37. 三 道後温泉町旅館・ホテルの発達 - データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/36/view/4992
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  39. 警固衆(けいごしゅう)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E8%AD%A6%E5%9B%BA%E8%A1%86-1308692
  40. (3)伊予水軍の活躍 - データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム http://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:1/1/view/27
  41. 一 警固衆の時代 - データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/62/view/7852
  42. 三 村上氏の水軍組織 - データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/62/view/7854
  43. 第三節 製 塩 - データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/49/view/6502
  44. 上島の遺跡⑮ 揚浜式製塩の時代 - 上島町デジタルアーカイブ http://www.kamijima-archive.jp/kamijima-stories/%E4%B8%8A%E5%B3%B6%E3%81%AE%E9%81%BA%E8%B7%A1%E2%91%AE%E3%80%80%E6%8F%9A%E6%B5%9C%E5%BC%8F%E8%A3%BD%E5%A1%A9%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3
  45. 弓削島荘塩田調査見学会 資料 - 上島町 https://www.town.kamijima.lg.jp/uploaded/life/13408_40045_misc.pdf
  46. 愛媛県史 人 物(平成元年2月28日発行) - データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/57/view/7503
  47. home.e-catv.ne.jp http://home.e-catv.ne.jp/miyoshik/ippen/reikai2014/514%2020141220.html
  48. 中世の伊予河野氏と三嶋社(大山祇神社)について http://home.e-catv.ne.jp/miyoshik/ippen/reikai2007/200707.htm
  49. 河野氏とその被官の宗教活動について http://home.e-catv.ne.jp/miyoshik/ippen/reikai2008/200807.htm
  50. 【理文先生のお城がっこう】歴史編 第34回 四国の城3(河野氏と湯築(ゆづき)城) - 城びと https://shirobito.jp/article/1270