本報告書は、戦国時代から安土桃山時代にかけて伊予国(現在の愛媛県)を治めた名門、河野氏の最後の当主である河野伊予守通直(こうの いよのかみ みちなお)の生涯と事績、そして伊予河野氏の終焉について、現存する史料に基づき詳細に記述及び考察を行うことを目的とする。伊予守通直は、永禄7年(1564年)または永禄9年(1566年)に生まれ、天正15年7月14日(西暦1587年8月17日)にその短い生涯を閉じた 1 。
特に留意すべきは、同姓同名である「河野弾正少弼通直(こうの だんじょうしょうひつ みちなお、明応9年/1500年生~元亀3年8月26日/1572年10月3日没)」との混同である。本報告書で対象とする伊予守通直は、この弾正少弼通直の孫にあたる人物であり、両者の生きた時代や事績は明確に区別されねばならない 2 。
伊予守通直が生きた時代は、織田信長や豊臣秀吉による天下統一事業が急速に進展し、日本各地の戦国大名がその激流に飲み込まれていく、まさに激動の時代であった。四国においては、土佐の長宗我部元親が急速に勢力を拡大し、伊予の河野氏もその影響を免れることはできなかった 2 。やがて、豊臣秀吉による四国平定の軍勢が伊予にも及び、河野氏の運命は大きく揺れ動くこととなる。伊予守通直の生涯は、中央集権化の波に翻弄される地方勢力の典型とも言え、毛利氏、長宗我部氏、そして豊臣氏という巨大な勢力の狭間で、いかにして家名を保とうとしたのか、その苦渋に満ちた選択と避けられない限界が浮き彫りになる。
河野伊予守通直の生年については、永禄7年(1564年)とする説 1 と、永禄9年(1566年)とする説 2 が存在する。幼名は牛福丸(うしふくまる)と伝えられている 1 。この生年の違いは、後の家督相続時の年齢や、若くして世を去るまでの活動期間の解釈に影響を与える可能性がある。
実父に関しては諸説あり、その出自は必ずしも明確ではない。一つは河野通吉(こうの みちよし)とする説である 1 。通吉が河野氏一族の中でどのような位置にあったかの詳細は不明な点が多いが、宗家の一員であったと考えられている。もう一つ有力な説として、伊予の有力な水軍領主であった来島(くるしま)村上氏の当主、村上通康(むらかみ みちやす)を実父とするものがある 1 。この説が事実であれば、伊予守通直は伊予の陸の支配者たる河野氏と、瀬戸内海に覇を唱えた村上水軍の血を引くことになり、その出自は一層複雑な様相を呈する。一説によれば、通直の母である天遊永寿(宍戸隆家の娘)は、元々村上通康の後室または側室であり、通康の死後に河野通宣(左京大夫)と再婚する際に、通直を伴ったとされる 7 。
母は安芸国の有力国人である宍戸隆家(ししど たかいえ)の娘である 1 。宍戸隆家は毛利元就の娘を娶っており、したがって通直の母は毛利元就の外孫にあたる 7 。この毛利氏との血縁関係は、後に河野氏が毛利氏や小早川氏の支援を受ける上で、重要な意味を持つことになったと考えられる 10 。
伊予守通直は、河野宗家の当主であった河野通宣(左京大夫)に嗣子がいなかったため、その養子となった 1 。そして永禄11年(1568年)、養父の跡を継いで河野宗家を相続した 2 。この時、伊予守通直は数え年で4歳または2歳という幼少であったため、成人するまでは実父とされる河野通吉、あるいは他の後見役が政務を執り行ったと推測される 8 。なお、河野氏には複数の「通宣」が存在する点に注意が必要である。伊予守通直の養父は「左京大夫」を称した通宣であり 1 、本報告書で区別されるべき弾正少弼通直の父である「刑部大輔」を称した通宣 2 とは別人である。
伊予守通直には実子がおらず、毛利氏の重臣であり、通直の母方の縁戚にあたる宍戸元秀(ししど もとひで)の子である通軌(みちのり)を養子として迎えている 1 。これは、伊予河野氏の家名存続を図るための策であったと考えられるが、伊予守通直の早世と、その後の河野氏の改易により、通軌が伊予の領主として家名を再興することは叶わなかった。
伊予守通直の出自と家督相続の経緯は、戦国時代末期の地方領主が直面した、複雑な血縁戦略と後継者問題の様相を呈している。特に実父が村上通康であるという説が事実ならば、母方の宍戸氏を通じた毛利氏との縁に加え、村上氏を介した間接的な繋がりも持つことになり、これが彼の立場をある面では強化しつつも、同時に毛利氏の影響力をより強く受ける要因となった可能性が考えられる。幼少の通直を養子に迎えた河野通宣(左京大夫)の判断の背景には、この毛利氏との強力な血縁関係を利用して、不安定な河野氏の将来的な安泰を図ろうとする意図があったのかもしれない。しかし、このような強い外部勢力との結びつきは、河野氏自身の自立性を損ない、毛利氏の戦略的意向に左右されやすい状況を生み出したとも解釈できる。
以下に、河野伊予守通直の基本的なプロフィールと家族構成の概要をまとめる。
表1:河野伊予守通直の基本情報と家族構成概要
項目 |
内容 |
出典例 |
氏名 |
河野通直 (伊予守) |
|
幼名 |
牛福丸 |
1 |
生年 |
永禄7年(1564年)説 / 永禄9年(1566年)説 |
1 |
没年 |
天正15年7月14日(1587年8月17日) |
1 |
享年 |
24歳説 / 22歳説 |
2 |
官位 |
伊予守 |
1 |
実父(説) |
河野通吉 / 村上通康 |
1 |
母 |
宍戸隆家の娘(毛利元就の外孫) |
1 |
養父 |
河野通宣(左京大夫) |
1 |
養子 |
河野通軌(宍戸元秀の子) |
1 |
永禄11年(1568年)に家督を相続した伊予守通直であったが、当時の伊予国内は依然として不安定な情勢にあった。在地領主の中には、河野氏の支配に対して反抗的な動きを見せる者も少なくなく、外部勢力の侵攻の脅威にも常に晒されていた 13 。例えば、河野氏の家臣であった大野直之(大野直昌とも)は、時に土佐の長宗我部元親と通じるなど、自立的な傾向を示していた記録が残っている 13 。幼少の当主のもと、これらの在地勢力を効果的に統制し、領国経営を安定させることは、極めて困難な課題であったと考えられる。
このような状況の中、土佐の長宗我部元親は四国統一の野望を掲げ、伊予への侵攻を開始する 6 。伊予守通直が長宗我部氏に降伏した時期については、史料によって記述に差異が見られる。天正4年(1576年)に降伏したとする記述 2 、天正9年(1581年)に東予の有力者であった金子元宅が長宗我部氏に降り、それに続いて天正12年(1584年)に河野通直が長宗我部氏の軍門に降ったとする記述 6 、そして天正13年(1585年)春に長宗我部元親が湯築城の河野通直を降し伊予を平定したとする記述 5 などがある。この時期のずれは、史料解釈の違いによるものか、あるいは河野氏が段階的に長宗我部氏への従属を深めていった過程を反映している可能性も考えられる。いずれにしても、豊臣秀吉による四国征伐が開始される以前の段階で、河野氏は長宗我部氏の強い影響下に置かれ、事実上の支配下に入っていたことは確かと見られる 2 。この降伏により、河野氏の領国は実質的に長宗我部氏の管理下に置かれることとなった 2 。
天正13年(1585年)、長宗我部元親による四国統一の動きを認めない豊臣秀吉は、大規模な四国征伐軍を派遣する。毛利輝元を総大将とする軍勢の一部として、小早川隆景が伊予に侵攻した 5 。隆景軍は、まず東予の金子元宅らを攻略した後、河野氏の本城である湯築城(ゆづきじょう)を包囲した 6 。伊予守通直は湯築城に籠城して抵抗を試みたが、約1ヶ月間の攻防の末、降伏に至った 16 。
湯築城開城と降伏の経緯については、いくつかの記録が残されている。小早川隆景は、河野氏が古来よりの名家であること、そして伊予守通直の室が毛利元就の孫姫(実際には通直自身が母方を通じて毛利氏と血縁)であったことなどを考慮し、通直に対して降伏を勧告し、河野氏の本姓である越智姓の血脈を絶やさぬよう諭したとされる 12 。通直は家臣団の意見も聴取し、大勢を察して湯築城を開城し、降伏を申し入れた 12 。この際、通直は城内にいた45人の子供たちの助命を嘆願するため、自ら先頭に立って隆景に謁見したという逸話が『予陽河野家譜』に記されている 1 。この逸話は、滅亡に瀕した若き当主としての苦渋の決断と、その人柄の一端を伝えるものとして注目される。
降伏後、湯築城は小早川隆景に与えられ、隆景の居城となった 6 。伊予守通直は隆景の庇護を受け、当初は道後の町に蟄居したとされている 5 。毛利輝元や小早川隆景は、通直が母方を通じて毛利氏と縁戚関係にあることから、その援助には一定の配慮を示したとされる 12 。しかしながら、この隆景の対応については、別の側面も伝えられている。『陰徳記』によれば、豊臣秀吉の意向は「河野の処遇は隆景の計らいに任せる」というものであったが、隆景は伊予一国を完全に領有するという年来の宿願のため、河野氏の伊予復帰を見殺しにした、という河野氏の旧臣・平岡広頼の憤懣が記されている 15 。隆景の行動は、血縁への配慮と自身の戦略的野心、そして秀吉の意向という複数の要素が複雑に絡み合った結果であり、単純な温情措置と断じることはできない。最終的に河野氏が所領を失ったという結果は、隆景が豊臣政権下における自身の立場と伊予支配の確立を優先した、政治的かつ戦略的な判断であった可能性を示唆している。
豊臣秀吉による四国平定後、伊予守通直の所領は全て没収され、伊予国の大名としての河野氏はここに滅亡した 1 。伊予国は、戦功により小早川隆景に与えられることとなった 6 。
所領を失った伊予守通直は、毛利輝元の勧めもあり、母方の実家である宍戸氏の所領に近い安芸国竹原(現在の広島県竹原市)に移り住んだ 2 。これは、毛利氏による庇護の一環であったと考えられる。しかし、伊予復帰の願いは絶望的となり、失意の日々を送ったと推察される。
天正15年7月14日(西暦1587年8月17日)、伊予守通直は移住先の竹原にて病没した 1 。その享年は、数え年で24歳 12 、あるいは22歳 2 と伝えられており、あまりにも短い生涯であった。その死因については、一般的には元来病弱であったための病死とされている 1 。
しかしながら、『予陽河野家譜』には、その死に関して異説が記されている。それによれば、通直は天正15年7月9日に伊予の湯築城を出て三津浜から船に乗り、多くの譜代の家臣が従ったが、病状は悪化の一途をたどり、有馬温泉や高野山を経由して竹原に入り、伊予を出発してからわずか6日後の7月15日(あるいは14日)に死去したとされている 1 。当時の交通事情を考慮すると、重病人がこの短期間にこれだけの長距離を移動することは極めて困難であり、この記述が事実であれば、その死には何らかの不審な事情があった可能性も示唆される。ただし、この『予陽河野家譜』の記述は河野氏側の視点から編纂されたものであり、その信憑性については慎重な検討が必要である 1 。他の史料による明確な裏付けは、現在のところ見当たらない。
伊予守通直の死により、鎌倉時代以来、伊予国の守護大名として長きにわたり君臨した名門河野氏の宗家は、事実上滅亡した 1 。養子として迎えられていた通軌 1 が家督を継いだとされるが、大名としての河野氏が再興することはなかった。
伊予守通直の墓は、広島県竹原市本町の長生寺にあると伝えられている 1 。この寺は、小早川隆景が通直の菩提を弔うために建立したとも言われている 12 。戒名は「長生寺殿月溪宗圓大禅定門」である 1 。また、かつての居城であった湯築城跡(現在の愛媛県松山市道後公園)にも、通直の供養塔が建てられている 1 。小早川隆景が菩提寺を建立したという事実は、表向きの旧主家筋への敬意の表れか、あるいは何らかの政治的配慮、さらにはもし不審な死であったならば、その負い目からくるものだったのか、様々な解釈が可能である。
本報告書の主題である河野伊予守通直(1564年または1566年生~1587年没)と、その祖父にあたる河野弾正少弼通直(1500年生~1572年没)は、活躍した時代も主要な事績も大きく異なるため、混同しないよう改めて注意を要する。
河野弾正少弼通直は、明応9年(1500年)に生まれ、元亀3年8月26日(西暦1572年10月3日)に没した人物である 2 。父は河野通宣(刑部大輔)であり 2 、伊予守通直の養父である河野通宣(左京大夫)とは別人である 11 。官位は弾正少弼を称した 2 。
弾正少弼通直の主な事績としては、永正16年(1519年)に家督を相続し、室町幕府の御相伴衆にも任じられている 3 。しかし、家臣団の内紛や長宗我部氏をはじめとする外部勢力の侵攻に悩まされ、最終的には分家(予州家)の河野晴通に家督を譲った。その後は出家し、伊予竜穏寺の開基となったと伝えられる 2 。また、河野氏の居城であった湯築城の本格的な改修(二重の堀と土塁の完成)は、この弾正少弼通直の代である天文4年(1535年)に行われたとされている 17 。
この二人の「通直」の存在は、河野氏の歴史の長さを物語ると同時に、戦国時代における同名異人の識別の重要性を示している。弾正少弼通直の時代は、河野氏が依然として伊予の有力大名として一定の勢力を保持し、中央の室町幕府との関係も有していた時期であった。それに対し、孫である伊予守通直の時代は、その勢力が大きく衰退し、外部勢力によってその運命が左右される末期であった。この約半世紀にわたる対比は、戦国時代の激動の中で河野氏が辿った衰退のプロセスを象徴的に示していると言えるだろう。
以下に、河野伊予守通直と河野弾正少弼通直の主要な情報を比較し、その違いを明確にする。
表2:河野伊予守通直と河野弾正少弼通直の比較
項目 |
河野伊予守通直 |
河野弾正少弼通直 |
生年 |
永禄7年(1564)または永禄9年(1566) 1 |
明応9年(1500) 2 |
没年 |
天正15年(1587) 1 |
元亀3年(1572) 2 |
官位 |
伊予守 1 |
弾正少弼 2 |
父 |
河野通吉説/村上通康説 1 |
河野通宣(刑部大輔) 2 |
養父 |
河野通宣(左京大夫) 1 |
― |
主な活動時代 |
安土桃山時代 1 |
戦国時代中期 3 |
関係性 |
弾正少弼通直の孫 4 |
伊予守通直の祖父 4 |
主要事績概要 |
長宗我部氏・豊臣氏に降伏、伊予河野氏最後の当主 2 |
家督相続、幕府御相伴衆、湯築城改修、後に家督を譲る 2 |
河野伊予守通直は、伊予の名門河野氏の最後の当主として、戦国時代末期の激動の時代に翻弄された、悲劇的な色彩を帯びた生涯を送った人物である。幼くして家督を継承し、長宗我部元親の四国における台頭、そして豊臣秀吉による天下統一という、抗いがたい歴史の大きなうねりの中で、一地方領主として家名を保つために苦慮したが、最終的にはその願いは叶わなかった。
伊予守通直の死と、それに伴う伊予河野氏の守護大名としての滅亡は、中世以来伊予国に君臨してきた伝統ある武家が一つの時代の終わりを告げたことを象徴する出来事である。彼の生涯は、中央集権化を強力に推し進める巨大な権力の前にあっては、いかに由緒ある地方勢力であっても、その存続が困難であったかを示す一つの事例と言えるだろう。彼の物語は、単なる敗者の歴史としてのみならず、時代の転換点における個人の無力さと、それでもなお家名を存続させようとした人間の苦悩の姿を映し出している。
本報告書では、河野伊予守通直の出自、家系、主要な事績、そしてその最期に至るまでを、現存する史料に基づいて検証を試みた。特に、同名の河野弾正少弼通直との明確な区別を念頭に置き、伊予守通直の短い生涯を多角的に捉えることを目指した。彼の生涯は、戦国時代の終焉期における地方大名の苦悩と運命を色濃く反映しており、その悲劇性は、小早川隆景によって菩提寺が建立されたという後日談 12 にも、勝者と敗者の間に存在した複雑な人間関係や、当時の武士社会における一定の価値観(例えば、名家に対する敬意や無常観など)を垣間見せることで、一層深められているのかもしれない。