最終更新日 2025-05-18

河野通直(弾正少弼)

戦国期伊予の武将 河野弾正少弼通直(1500-1572)に関する調査報告

1. はじめに

河野通直(弾正少弼)とその時代背景の概説

本報告書で対象とする河野通直(こうの みちなお)は、明応9年(1500年)に生まれ、元亀3年8月26日(1572年10月3日)に没した、戦国時代の伊予国(現在の愛媛県)の武将であり、伊予河野氏第36代当主である 1 。彼が生きた16世紀前半から中頃の伊予国は、国内では守護河野氏の権威が揺らぎ、家臣団の内紛や有力国人の離反が頻発していた。国外からは中国地方の毛利氏、土佐国の長宗我部氏、豊後国の大友氏といった有力戦国大名の圧力を受ける、まさに内憂外患の時代であった 3 。この時代背景を理解することは、通直(弾正少弼)の施策や苦悩、そして河野氏の衰退過程を把握する上で不可欠である。

河野通直(伊予守)との区別の重要性について言及

戦国時代末期に活動した同名の河野通直(伊予守、1564年生~1587年没、河野氏第39代当主)との混同を避けることは、歴史的事実を正確に理解する上で極めて重要である 2 。本報告書では、官名である「弾正少弼(だんじょうしょうひつ)」を付記することで、両者を明確に区別する。両者は活動時期、主要な事績、そして河野氏における立場が大きく異なるため、混同は歴史の誤認に繋がる。

本報告書の目的と構成

本報告書は、提供された資料に基づき、河野弾正少弼通直の生涯、業績、そして彼を取り巻く歴史的状況を多角的に明らかにすることを目的とする。

2. 河野弾正少弼通直の出自と家系

生没年と幼名、戒名

河野弾正少弼通直は、明応9年(1500年)に生まれた 1 。その生涯を閉じたのは元亀3年8月26日(西暦1572年10月3日)である 1 。幼名(通称)は太郎と伝えられている 1 。彼の死後、龍穏寺殿海岸希清大和尚という戒名が贈られた 1 。また、海岸和尚とも号したとされる 7 。これらの情報は、人物を特定する上で基本的なものであり、特に戒名は彼の晩年の信仰生活や菩提寺との関連を示唆している。

父・河野通宣(刑部大輔)について

弾正少弼通直の父は、伊予守護であった河野通宣(みちのぶ)である。この父・通宣は刑部大輔の官名を称していた 1 。父・通宣(刑部大輔)は永正16年(1519年)に病没し、これを受けて弾正少弼通直が家督を相続した 2 。父からの家督相続は、彼の権力の正統性を示すものであり、父の官名「刑部大輔」は、後の時代の同名人物(例えば左京大夫通宣など)との区別にも資する。

兄弟、妻子などの家族構成

弾正少弼通直には、弟として松末通氏(まつすえ みちうじ)がいたことが記録されている 1。正室については不詳である 1。

子としては、河野通政(みちまさ、一説に養子)、一柳宣高(いちりゅう のぶたか)、河野通宣(みちのぶ、一説に養子)が挙げられている 1。ここで注目すべきは、河野通政や河野通宣が実子か養子かについて諸説が存在する点である 1。この曖昧さは、後の家督相続問題の一因となった可能性が考えられる。特に、後述する予州家の河野晴通(通政と同一人物か)や、その弟とされる左京大夫通宣との関係は複雑であり、この時代の河野氏内部の血縁関係の錯綜ぶりを物語っている。

娘としては、村上通康(むらかみ みちやす)の室となった者と、忽那通恭(くつな みちやす)の室となった者がいた 1。特に、娘を当時の有力な水軍勢力であった来島村上氏の当主・村上通康に嫁がせたことは、その勢力との連携を強化し、不安定な自家の立場を補強しようとする政治的意図があったものと推察される 8。

官位「弾正少弼」とその意味・役割

弾正少弼通直は、室町幕府より弾正少弼に任じられた 2。弾正少弼とは、律令制における監察機関である弾正台(だんじょうだい)の次官(三等官である少弼)であり、定員は一人であった 10。

戦国時代においては、弾正台の実質的な監察機能はほぼ失われていたものの、「弾正」を冠する官職は武士が自らの権威や格式を示すために称する名称の一つとして存続していた。例えば、織田信長が弾正忠(弾正台の三等官である忠)を自称し、上杉謙信が弾正少弼に叙任された例があるように、一定の権威性を伴うものと認識されていた 11。

通直が弾正少弼に任官されたことは、室町幕府との間に一定の関係性を有していたこと、そして伊予守護大名としての格式を示すものと考えられる。しかし、単なる名誉職以上の意味合いがあった可能性も否定できない。当時の河野氏は、家臣団の統制や周辺勢力との折衝に苦慮しており、弱体化しつつある権威を少しでも高めようとする意図があったかもしれない。弾正台は本来、非違を糾弾し綱紀を粛正する役職であることから、「弾正」という名は、内外に対して「秩序を正す」という意思表示や、権威の補強として機能することを期待した可能性がある。特に、家臣の反乱や家督問題で揺れる内部を引き締めるための一つの象徴として、この官職を利用しようとしたのではないかとも考えられる。

3. 家督相続と河野氏の動揺

家督相続の経緯

永正16年(1519年)、父である河野通宣(刑部大輔)が病により没したことを受け、弾正少弼通直は河野宗家の家督を継承した 2

後継者問題:村上通康への家督禅譲の試みと家臣団の反対

弾正少弼通直には、自身の後を継がせるべき実子がいなかったか、あるいは実子がいても後継者として不適格と見なされたか、幼少であった可能性が考えられる。いずれにせよ、彼は女婿であり、信頼を寄せていた来島城主・村上通康に家督を譲ろうと試みた 3。しかし、この大胆な試みは、河野家の伝統や家格を重んじる家臣団からの総反対に遭い、実現には至らなかった 3。

この結果、事態は逆転し、通直は本拠である湯築城を追われ、女婿である通康の来島城へ移らざるを得ない状況にまで追い込まれた 3。『予陽河野家譜』によれば、一族や老臣たちは予州家(河野氏の有力庶家)の惣領である河野通政(後の晴通か)を後継者として迎えることを進言した。しかし、通直はこれを聞き入れず、村上通康を湯築城に入れた。これに強く反発した老臣たちは、通政を擁立して兵を挙げ、湯築城を攻撃した。このため、通直と通康は来島城へと逃れたとされる 12。

この一連の後継者問題は、河野氏内部に深刻な対立が存在したことを白日の下に晒した。有力な姻戚である村上氏を後継者に据えることで、不安定な権力基盤を強化しようとした通直の意図と、伝統的な家格や血縁を重視する家臣団の思惑が正面から衝突した結果と言えるだろう。

予州家・河野晴通の擁立と、その後の通宣(左京大夫)への継承

家臣団の強い推挙により、予州家の河野晴通(はるみち、通政と同一人物か)が後継者として擁立され、最終的に弾正少弼通直もこれを承認した 3。天文11年(1542年)には晴通の名で発給された安堵状が見られるようになり、この頃に実質的な政権が通直から晴通へと交代したと考えられている 12。

この晴通と、その弟とされる通宣(左京大夫)の出自については諸説あり、弾正少弼通直の子とする説 6 や、予州家の河野通存(みちあり)の子とする説 6 が存在する。この系譜の混乱自体が、当時の河野氏の置かれた複雑な状況を反映している。

晴通は若くして亡くなり、嗣子がいなかったため、その弟が家督を継いで通宣(みちのぶ、左京大夫)と名乗った 3。弾正少弼通直は、この左京大夫通宣との間にも対立を抱えたまま、その生涯を終えたとされている 3。これは、弾正少弼通直が実権を失った後も、河野家中の主導権を巡る争いが継続していたことを示唆している。

家臣団の内紛と反乱(正岡氏、重見氏、大野氏など)

弾正少弼通直の治世は、家臣団の統制にも著しい困難を伴った。恩顧の武将の中からも自立の志を抱き、公然と河野家に反意を示す者が現れた 12。

具体的には、大永3年(1523年)に府中鷹取山城主・正岡経貞(まさおか つねさだ)が一族とともに謀反を起こし、近隣を攻略した 12。また、享禄3年(1530年)には、同じく府中の石井山城主・重見通種(しげみ みちたね)が通直の命令に従わず、村上通康によって討伐され、周防国へ逃亡する事件も起きている 12。

さらに、久万山(現在の愛媛県上浮穴郡久万高原町一帯)の大除城主・大野利直(おおの としなお)は、度々兵を起こして小手滝城主・戒能通運(かいのう みちかず)や平岡房実(ひらおか ふさざね)らと抗争を繰り広げた 12。大野氏は、土佐国の長宗我部氏による侵攻の脅威に直接さらされる国境地帯を領有しており、その立場も反乱の一因となった可能性がある 15。

天文23年(1554年)には、岩伽良(いわがら)城主・和田通興(わだ みちおき)が武威を誇り、主家である河野氏を侮って勝手に兵権を振るうようになったため、当時の当主であった通宣(左京大夫)が平岡房実に命じてこれを討伐させている 12。

これらの内紛や反乱は、守護大名としての河野氏の統制力が著しく低下していたことを明確に示している。家臣が独自の軍事行動を起こし、時には主家に反旗を翻すという状況は、戦国時代特有の下克上の様相を伊予国においても呈していたことを物語っている。

一連の混乱が河野氏の衰退に与えた影響

家督を巡る争いや有力家臣の反乱は、河野氏の国人領主に対する求心力を著しく低下させ、伊予国内における支配体制を根底から揺るがした 3。このような内部の混乱は、大内氏や長宗我部氏といった外部勢力による侵攻を招きやすくする大きな要因となった 5。

弾正少弼通直の時代の河野氏の衰退は、単に後継者問題や家臣の反乱といった個別の事象に起因するものではない。むしろ、若くして家督を継いだ通直自身のリーダーシップの限界、変化する時代に対応しきれない旧体制の構造的脆弱性、そして村上氏のような有力家臣や姻戚関係にある外部勢力とのパワーバランスの変動が、複雑に絡み合った結果と捉えるべきである。特に、自身の後継者構想が家臣団に受け入れられず、逆に実権を奪われるに至った過程は、戦国期における守護大名という伝統的権威の基盤の脆さを示している。彼が直面した問題の多くは、他の多くの戦国大名も経験したものであり、その対応の巧拙が、それぞれの家の盛衰を分ける結果となったのである。

4. 湯築城主としての活動

伊予国の拠点・湯築城の概要

湯築城(ゆづきじょう、現在の愛媛県松山市道後公園内)は、南北朝時代から戦国時代の終わりまでのおよそ250年間にわたり、伊予国の守護であった河野氏の居城として機能した 4。この城は、伊予国における河野氏の政治、軍事、そして文化の中心地であったと言える 4。

湯築城は、14世紀前半に中央の丘陵部を利用した山城として築かれたのが始まりとされるが、時代が下り16世紀前半には、周囲に堀や土塁を巡らせた平山城へと大規模に拡張された 4。その縄張りは、二重の堀と土塁に囲まれた輪郭式と、丘陵上の複数の曲輪が連なる連郭式を併用した特徴的な構造を持っていた 4。

通直(弾正少弼)による湯築城の整備・拡張(外堀の築造など)

弾正少弼通直の治世において、湯築城は重要な画期を迎える。天文4年(1535年)頃、通直は湯築城の外堀を新たに築造し、城の周囲に二重の堀と土塁を巡らせることで、現在の湯築城跡に見られる基本的な構造を完成させたとされている 8。この大規模な改修により、湯築城の防御機能は大幅に向上し、城内には家臣団の屋敷なども含めた、いわゆる惣構えに近い形態へと発展したと考えられる 4。

外堀の築造という大事業は、周辺勢力からの軍事的脅威が増大していた当時の緊迫した状況を色濃く反映している。これは、通直による領国支配体制の強化と、来るべき戦乱への備えを意図した試みの一つとして評価できるだろう。

当時の湯築城の構造と機能

改修後の湯築城は、中央に位置する高さ約30メートルの丘陵部に主郭が置かれ、その周囲を内堀と、さらにその外側に外堀が同心円状に囲む構造となっていた 4。内堀と外堀の間に広がる平地部には、河野氏の家臣団が居住する侍屋敷が存在したとみられており、近年の発掘調査によって、その居住区の具体的な様子が明らかになりつつある 4。調査によれば、西側は一般的な家臣団の居住区、東側は庭園を伴うような格式の高い上級武士の居住区であったと推定されている 8。また、城内では儀式や酒宴なども執り行われていたことが、出土遺物などから示唆されている 16。

弾正少弼通直による湯築城の大規模な改修、特に外堀の築造は、戦国大名として領国の拠点機能を強化し、内外の脅威に対抗しようとする明確な意志の表れであった。この時期は、家臣団の内部紛争が頻発し 12、また大内氏など外部からの圧力が強まっていた時期と重なる 5。外堀の築造は、城の防御力を高めると同時に、家臣団を城下に集住させることで統制を強化し、領国支配の中心としての湯築城の機能を高める狙いがあったと考えられる。しかし、城郭の物理的な強化にもかかわらず、前述の後継者問題で通直自身がその湯築城を追われるという事態が発生している 3。また、家臣の反乱も後を絶たず 12、城の物理的な強化だけでは領国支配の安定化には限界があったことがうかがえる。この事実は、戦国期において城郭の強化が重要であった一方で、それ以上に強固な主従関係や家臣団の結束、そして当主自身の求心力が領国安定の鍵であったことを示している。湯築城の整備は、通直が置かれた守勢の状況と、それに対する必死の防衛策の象徴とも言えるだろう。

5. 外交と合戦

毛利氏との関係:同盟と軍事支援

戦国時代の伊予国は、西の周防・長門を支配する大内義隆、後に中国地方の覇者となる安芸の毛利元就、そして土佐国から勢力を拡大する長宗我部氏など、強力な外部勢力に囲まれていた。このような状況下で、河野氏は特に大内氏や長宗我部氏の侵攻に対抗するため、安芸の毛利氏の支援を強く受けるようになった 5。

具体的な協力事例としては、永禄11年(1568年)、弾正少弼通直が伊予南部の有力国人である大洲城主・宇都宮豊綱と争った際、同じく伊予の有力者である西園寺公広と共に毛利氏の援軍を得て勝利を収めたことが記録されている 3。また、家臣である大野直之が反乱を起こした際にも、その鎮圧に毛利氏の援軍があったとされる 15。

毛利氏との同盟関係は、河野氏が戦国乱世を生き抜く上で不可欠な生命線であったと言える。しかし、この強大な勢力への依存は、同時に河野氏の自主性を損ない、毛利氏の広域戦略に組み込まれていくという側面も持っていた 18。「強力な戦国大名への脱皮はかなわなかった」という評価 18 は、この依存関係が自立的な勢力拡大を阻害したことを示唆している。毛利氏の支援は、宇都宮氏との戦いや家臣の反乱鎮圧には有効であったが、それは河野氏が毛利氏の勢力圏の一翼を担う存在となることを意味した。この従属的な地位は、河野氏自身の国力増強や独自の外交戦略展開を困難にし、結果として豊臣政権下での最終的な滅亡へと繋がる遠因の一つとなった可能性が考えられる。

長宗我部氏との関係:土佐からの圧迫と伊予侵攻

弾正少弼通直の時代、土佐国では長宗我部国親・元親父子による領国統一が進み、その勢力は伊予国境へと迫っていた。特に宇摩郡や上浮穴郡など、土佐との国境に近い地域では、長宗我部氏による伊予侵攻の圧力が日増しに強まっていた 15。河野家の重臣で上浮穴郡を領有していた大野直之は、この長宗我部氏の脅威に直接さらされ、度々謀反を起こしたと伝えられているが、これは長宗我部氏への対応や自己の領地保全のための複雑な動きであった可能性も考慮する必要がある 15。

史料 2 においても、弾正少弼通直が長宗我部氏らの侵略に悩まされたと記述されており、その脅威が深刻であったことがうかがえる。ただし、長宗我部元親による本格的な伊予侵攻と、それに伴う河野氏の服属という事態は、弾正少弼通直の没後、孫にあたる河野通直(伊予守)の時代に起こる出来事である 2。弾正少弼通直の治世においては、長宗我部氏の勢力拡大は伊予東部・南部にとって大きな潜在的脅威であり、国境地帯の緊張は常に高まっていたと言える。

大友氏との関係:対立と幕府による和解命令

豊後国を本拠とする戦国大名・大友氏とも、河野氏は対立関係にあった 19。天文年間(1532年~1555年)には、河野氏が大友氏や尼子氏と結んで、当時敵対関係にあった大内氏に対して利敵行為を取ったため、大内氏の強い怒りを買ったという記述も見られる 19。

また、注目すべきは、天文11年(1542年)に室町幕府(足利将軍家)が豊後の大友義鑑に対し、「河野父子」(弾正少弼通直とその子、あるいは後継者と目された晴通か)を和解させるよう命じた記録が存在することである 12。これは、河野氏内部の対立が、大友氏のような外部勢力と結びつき、さらなる混乱を引き起こすことを警戒した幕府による介入であったと考えられる。大友氏との関係は一様ではなく、時には敵対し、時には大内氏を介して間接的に影響を受けるなど、流動的であった。幕府からの和解命令は、当時の河野氏の内訌が、周辺大名にも影響を及ぼすほど深刻なものであったことを物語っている。

宇都宮豊綱との合戦(永禄11年、1568年)

弾正少弼通直は、伊予南部の有力な国人領主である大洲城主・宇都宮豊綱(うつのみや とよつな)と武力衝突を起こした 3。この永禄11年(1568年)の戦いにおいて、河野方は西園寺公広や毛利氏からの援軍を得て、勝利を収めたとされている 3。

宇都宮氏は伊予喜多郡を中心に古くから勢力を有する有力な国人であり、伊予守護である河野氏の支配体制において、しばしば対立する存在であった。この合戦における勝利は、毛利氏の支援体制の有効性を示すとともに、一時的にではあるが河野氏の権威を伊予中・南部に示した戦いであったと言える。しかし、この勝利によって宇都宮氏の勢力を完全に伊予から排除するには至らなかった。関連史料 21 は宇都宮氏に関する断片的な情報を含むものの、弾正少弼通直との直接的な合戦の詳細を明らかにするものではない。

その他周辺勢力(大内氏、土佐一条氏、細川氏など)との関わり

  • 大内氏: 16世紀前半、周防・長門を支配した大内氏の伊予への攻撃は激化し、芸予諸島の島々の多くが大内氏の制圧するところとなった 5 。天文9年(1540年)には、大内氏の家臣である白井房胤・小原隆名らが忽那島や大三島に侵攻し、河野方は得居氏・来島氏・正岡氏らを派遣して防戦にあたっている 12
  • 土佐一条氏: 土佐国の国司であった一条氏は、戦国時代には土佐西部に勢力を持つ戦国大名化していた。河野氏は、この土佐一条氏による伊予侵攻にも直面しており、その脅威に対抗するため、国境に近い久万山に大除城を築いて防備を固めた記録がある 3
  • 細川氏: 讃岐の守護であった細川氏の当主・細川持隆(ほそかわ もちたか)が天文8年(1539年)に伊予へ攻め入ったが、宇摩郡・新居郡の国人たちが河野氏への旧恩に報いようとしたためか、細川軍は敗走したと伝えられている 12

6. 領国経営と文化

家臣団統制の試みとその困難性

前述の通り、弾正少弼通直の治世は、正岡氏、重見氏、大野氏といった有力家臣が反乱を起こしたり、独自の動きを見せたりするなど、家臣団の統制が極めて困難な状況にあった 12。

その中で興味深い逸話として、大野直之が度々謀反を起こしたにも関わらず、通直は最終的にこれを赦し、大野直之はその通直の人格と人柄に心服したと伝えられている 15。この逸話は、通直の寛容な一面を示すものと解釈できるかもしれないが、同時に、力による完全な鎮圧が困難であり、懐柔策を取らざるを得なかった河野氏の苦しい立場を反映している可能性も否定できない。史料 24 は河野氏による国人の被官化という一般的な傾向について述べているが、弾正少弼通直が発した具体的な法令や統制策を示すものではない。

寺社政策

弾正少弼通直の寺社政策については、いくつかの記録が残されている。

  • 竜穏寺(りょうおんじ)の開基: 最も特筆すべきは、弾正少弼通直が出家した後、伊予竜穏寺の開基となったことである 2 。竜穏寺は現在の松山市山越にあり、元は道後村にあったものを後に現在地に移転し復興したと伝えられている 25 。彼の戒名である「龍穏寺殿海岸希清大和尚」 1 も、この寺院との深い関わりを示している。
  • 仙遊寺(せんゆうじ)への関与: 永正15年(1518年)、弾正少弼通直は仙遊寺の所領を安堵し、壁書を定めている 26 。これは彼が家督を相続する直前の活動であり、父・通宣(刑部大輔)の名代としての行動であったか、あるいは若年のうちから実務に関与していたことを示すものかもしれない。
  • 三島神社(大山祇神社)への関与: 明応8年(1499年)に「河野通直(弾正少弼)」が大祝安用(おおほうり やすもち)に三島神社の社家や寺家を管掌させたと記す史料がある 26 。しかし、この年は弾正少弼通直が生まれる前であるため、同名の父祖の事績であるか、あるいは史料の年代比定に検討の余地がある。ただし、河野氏と大山祇神社は歴史的に極めて深い関係にあり、代々の当主が厚く保護してきたことはよく知られている 27 。 これらの寺社への所領安堵や寺院開基は、戦国時代の武将が領内の安定を図り、自身の権威を高め、また篤い信仰心を示すために行う一般的な政策の一環であったと言える。

文化的生活(高野山参詣など)

戦国時代末期、すなわち16世紀における河野氏の当主3代(弾正少弼通直、その後の左京大夫通宣、そして最後の当主となる牛福丸通直)の時代を中心として、伊予国の人々の間で高野山への参詣が活発であったことが、高野山内の上蔵院に残された文書からうかがえる 28。高野山信仰は武士層に広く浸透しており、河野氏の当主やその家臣たちも、参詣や寺領の寄進を通じて高野山との関係を維持していたと考えられる。これは単なる信仰心の発露に留まらず、情報収集の機会や、他の地域の勢力との交流の場としての意味合いも持っていた可能性がある。

また、史料 15 には、弾正少弼通直の肖像画が湯築城資料館に所蔵されていると言及されており、彼の姿を伝える貴重な資料が存在することを示している。

経済政策や検地に関する史料の限定性

弾正少弼通直の治世における具体的な経済政策や検地の実施記録については、提供された資料からは明確な情報を見出すことは困難であった 12。史料 29 は、ある時期に検地の必要性が説かれ、それが実行に移された形跡があるとしているが、これが弾正少弼通直の時代のことであったかについては断定できない。

弾正少弼通直の時代は、家督相続問題、家臣の反乱、外部勢力との合戦など、軍事的・政治的な危機への対応に追われていたことが明らかである 3。このような状況下では、内政、特に体系的な経済政策の立案や大規模な検地の実施よりも、目前の軍事・外交問題の解決が優先された可能性が高い。現存する史料も、合戦や家督問題、寺社関連のものが中心であり(『予陽河野家譜』30 のように軍記物語的な性格を持つものも含む)、日常的な領国経営の詳細を伝えるものは少ない傾向にある。仙遊寺への寺領安堵 26 や三島神社への関与(年代注意)26 は寺社政策の一端を示すが、これらは領国経済の基盤全体に関わる広範な政策とは言い難い。彼の関心は、まず家中の統一と外部からの防衛に向けられており、経済基盤の抜本的な改革に着手するだけの安定した状況にはなかったと推測される。

7. 晩年と死

家督を譲った後の動向と出家

弾正少弼通直は、家臣団の内部紛争や長宗我部氏をはじめとする外部勢力からの侵略に苦慮し、最終的には分家である予州家の河野晴通に家督を譲った後、出家したとされている 2。剃髪して海岸和尚と号した 7、あるいは希清(きせい)と称したとも伝えられる 25。そして、自ら伊予竜穏寺の開基となった 2。

実権を失った後に仏門に入ることは、戦国時代の武将にとって珍しいことではなく、これにより政治的な混乱から距離を置き、余生を静かに過ごすという意味合いがあったと考えられる。

逝去(年月日)と死因に関する考察(史料の範囲内で)

弾正少弼通直は、元亀3年8月26日(西暦1572年10月3日)に死去した 1。享年72歳(数え年)であり、当時の平均寿命を考えると長寿の部類に入ると言える。

しかし、その死因については、提供された資料からは明確な記述を見出すことができなかった 2。病死であったのか、あるいは他の何らかの要因があったのかは不明である。史料 31 も、彼の死因に関する直接的な情報を含んではいない。

墓所(竜穏寺との関連)

弾正少弼通直は自ら竜穏寺を開基したことから 25 、この寺院が彼の菩提寺である可能性が高いと考えられる。しかし、具体的な墓所の所在地に関する記述は、提供された資料からは確認できない。史料 33 は広島県竹原市にある長生寺の情報を示しているが、これは後の時代の河野氏(例えば、豊臣秀吉に降伏した伊予守通直の系統か)に関連する可能性があり、弾正少弼通直の直接の墓所とは考えにくい。史料 7 は竜穏寺との関連を示唆するものの、埋葬地を特定するまでには至っていない。

8. 【重要】河野伊予守通直との区別

歴史研究において、同名の人物を正確に区別することは極めて重要である。特に河野氏においては「通直」を名乗る当主が複数存在し、混同が生じやすい。本報告書の主題である弾正少弼通直と、戦国時代末期に活動した伊予守通直は、その生涯と歴史的役割において大きく異なるため、以下に両者の主要な情報を対比する形で整理する。これにより、両者の違いが一層明確になるであろう。

項目

河野通直(弾正少弼)

河野通直(伊予守)

生年

明応9年(1500年) 1

永禄7年(1564年)または永禄9年(1566年)説あり 2

没年

元亀3年8月26日(1572年10月3日) 1

天正15年7月(または8月17日) 2

主な活動時期

16世紀前半~中頃(永正年間~元亀年間)

16世紀後半(天正年間)

通称・幼名

太郎 1

牛福丸(うしふくまる) 2

主な官位

弾正少弼 1

伊予守、兵部少弼 6

河野通宣(刑部大輔) 1

河野通宣(左京大夫)の養子 2 。実父は諸説あり、一説に来島通康の子で、母が通宣(左京大夫)と再婚した際の連れ子 6

主要な関連事項

・家督相続問題(村上通康擁立の試みと失敗) 3 <br>・予州家晴通への家督移譲 2 <br>・湯築城の改修(外堀築造) 8 <br>・毛利氏の支援下で宇都宮豊綱と戦う 3 <br>・家臣団の内紛と長宗我部氏の侵攻に苦慮 2 <br>・出家し竜穏寺開基 2

・長宗我部元親に降伏(天正4年、1576年) 2 <br>・豊臣秀吉の四国征伐(天正13年、1585年)で小早川隆景に降伏開城 4 <br>・伊予の領国を失い、大名としての河野氏滅亡 2 <br>・安芸国竹原に移され、嗣子なく死去 2

河野氏における位置づけ

河野氏衰退期に内憂外患に直面し、権力基盤が揺らいだ当主 6

戦国大名としての河野氏最後の当主 4

この比較表からも明らかなように、両者は生きた時代、直面した課題、そして河野氏の歴史における役割が全く異なる。弾正少弼通直は河野氏の衰退が顕著となる時期に内部の混乱と外部からの圧力に苦慮した人物であり、一方の伊予守通直は、その衰退の最終局面において豊臣秀吉という全国統一の奔流に飲み込まれ、大名としての河野氏の終焉を迎えた人物である。これらの明確な区別は、戦国時代の伊予国史を理解する上で不可欠である。

9. おわりに

河野通直(弾正少弼)の生涯の総括と歴史的評価

河野弾正少弼通直は、伊予の名門守護であった河野氏が、戦国乱世という未曾有の変革期の荒波に翻弄され、その勢力を大きく後退させていく過渡期に生きた人物であった。彼の治世は、深刻な後継者問題に端を発する家中の分裂、有力家臣の離反や反乱、そして周辺の有力大名による執拗な侵攻という、まさに内憂外患に終始したと言える。

湯築城の大規模な改修(外堀の築造など)に見られるように、領国を維持し、河野氏の権威を保とうとする努力の跡も見受けられる 8。しかし、一度生じた家中の混乱を完全に収拾し、他の戦国大名のように強力な集権体制を確立して領国支配を強化するという、いわゆる「戦国大名への脱皮」を果たすことは叶わなかった 18。

毛利氏のような外部勢力との連携によって、一時的な軍事的安定や敵対勢力の撃退に成功することもあったが 3、それは同時に河野氏の自立性を徐々に損ない、より強大な勢力への依存を深める結果にも繋がった。彼の苦闘の生涯は、戦国時代における守護という伝統的権威がその実効性を失っていく過程と、新たな秩序形成の困難さを象徴していると言えるだろう。

戦国時代の伊予における河野氏の動向と彼の役割

弾正少弼通直の時代は、河野氏が伊予国全体の支配者としての実権を徐々に失い、一地方勢力へとその地位を転落させていく過程における、重要な一局面であった。彼が直面した家督問題とそれに伴う権威の失墜は、河野氏の弱体化を加速させ、外部勢力の介入を容易にする素地を作った。

彼の失脚後、河野氏はさらに内部対立と外部からの圧迫に苦しみ、最終的には彼の孫にあたる河野伊予守通直の代で、豊臣秀吉による四国平定の前に降伏し、大名としての歴史に幕を閉じる運命を辿る 2。この意味において、弾正少弼通直の存在とその治世は、戦国大名としての河野氏の「終わりの始まり」を告げるものであったと評価できるかもしれない。

史料的制約と今後の研究課題

本報告書は、提供された資料群に基づいて構成したが、特に弾正少弼通直の具体的な経済政策や領民支配の実態、あるいは彼の個人的な思想や人物像の細部に至るまで、詳細が不明な点も依然として多い。

『予陽河野家譜』30 やその他の編纂史料に見られる記述については、その成立した時代背景や編纂者の意図、史料としての性格を十分に考慮した上で、慎重な解釈が求められる。

一方で、「臼杵稲葉河野文書」31 のような一次史料群には、未だ解明されていない情報が含まれている可能性があり、これらの史料のさらなる精密な分析が、今後の河野氏研究、ひいては戦国期の伊予国史研究の進展に寄与することが期待される。

引用文献

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