戦国時代の日本には、華々しい成功譚の陰で、時代の大きなうねりに翻弄され、志半ばで散っていった無数の武将たちが存在する。上野国(現在の群馬県)の豪族、沼田景義(ぬまた かげよし)もまた、そうした悲劇の主人公の一人である。「摩利支天の再来」と謳われるほどの武勇を誇りながらも 1 、肉親の愛憎と大勢力の謀略の渦に巻き込まれ、わずか30年の生涯を閉じた。本報告書は、沼田景義の生涯を多角的に検証し、彼の生きた時代の過酷さと、そこに生きた一人の国人領主の栄光と悲哀を深く掘り下げるものである。
景義の運命を理解する上で、彼の本拠地であった上野国沼田の地政学的な重要性を看過することはできない。沼田は、越後の上杉氏、関東の北条氏、そして信濃から勢力を伸ばす武田氏という、当時の三大勢力が国境を接する戦略的要衝であった 3 。この地を制する者は、関東と信越を結ぶ交通の動脈を掌握し、敵対勢力への侵攻拠点、あるいは自領の防衛線を確保することができる。そのため、沼田城は常に激しい争奪戦の的となり、その地に根を張る沼田氏は、否応なく大国の狭間で生き残りを賭けた綱渡りを強いられた 4 。景義の悲劇は、単なる一個人の物語に留まらず、このような地政学的な宿命を背負った地方豪族が、必然的に直面する過酷な運命の縮図でもあった。彼の生涯は、この抗いがたい時代の奔流から切り離しては語れないのである。
沼田景義の悲劇の根源を探るには、まず彼が属した沼田一族の歴史を遡る必要がある。上野沼田氏は、その出自が複数の説によって語られており、明確ではない 6 。軍記物語である『加沢記』は、相模の三浦義澄の孫・景泰が、宝治合戦の際に難を逃れて上野国に入り、沼田氏の祖となったと記している 6 。一方で、『沼田町史』などは、鎌倉時代に豊後大友氏の一族が沼田を領したことに始まるとする説も紹介している 6 。その他にも緒方氏説や山科氏説が存在するが 6 、いずれも確証に乏しい。この出自の不確かさ自体が、中央の権力構造から独立しつつも、常に外部勢力との関係性の中でその地位を築いてきた国人領主の流動的な成り立ちを物語っている。
鎌倉時代の『吾妻鏡』には、源頼朝の随兵として「沼田太郎」の名が見え、古くからこの地で勢力を持っていたことが窺える 6 。時代が下り、戦国期に入ると、沼田氏は上野国利根郡一帯を支配する有力な国人領主としてその名を確立していく。
景義の父である沼田氏12代当主・沼田顕泰(あきやす)、法号・万鬼斎(ばんきさい)は、一族の権勢を大きく伸張させた人物であった。彼の最大の功績は、天文元年(1532年)に、それまでの幕岩城に代わる新たな拠点として沼田城(当初は蔵内城と呼ばれた)を築城したことである 8 。この堅城の完成は、沼田氏の軍事力と政治的地位を飛躍的に高め、周辺地域における権力基盤を盤石なものとした 11 。
顕泰は当初、関東管領である山内上杉氏との関係を重視していた。後北条氏の圧迫によって没落した主君・上杉憲政が落ち延びてきた際にはこれを保護し、越後の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼る手助けをするなど、親上杉の姿勢を鮮明にしていた 6 。
しかし、関東における後北条氏の勢力拡大という外部環境の変化は、沼田氏の内部に深刻な亀裂を生じさせた。永禄元年(1558年)頃、沼田家中は、旧主・上杉氏への義理を重んじる父・顕泰を中心とする「親上杉派」と、関東の新興勢力である北条氏に接近することで生き残りを図ろうとする嫡男・朝憲(とものり)らを中心とする「親北条派」に二分され、内紛が勃発した 6 。
この対立は、単なる家督を巡る争いではなかった。それは、上杉につくか、北条につくかという、一族の存亡を賭けた「外交路線」の対立が本質であった。この時点で既に、沼田氏は自らの意志のみで進路を決定することが困難な、大勢力の力学に従属せざるを得ない立場に追い込まれていたのである。この根深い対立こそが、後に景義の運命を大きく揺るがす、血腥いお家騒動の温床となっていく。
沼田氏の内紛が頂点に達し、景義の人生を決定的に変えたのが、永禄12年(1569年)に起きた異母兄・朝憲の謀殺事件である。この悲劇を理解するために、まず主要な登場人物の関係性を整理する。
表:沼田景義 お家騒動 主要登場人物
人物名 |
役割・立場 |
沼田景義との関係 |
主要な行動 |
沼田景義 |
本報告書の主人公、沼田氏庶子 |
- |
沼田城奪回を目指すが、謀殺される |
沼田顕泰(万鬼斎) |
沼田氏12代当主、沼田城築城主 |
父 |
景義を寵愛し、嫡男・朝憲を謀殺。景義と共に追放される |
沼田朝憲(弥七郎) |
沼田氏13代当主、景義の異母兄 |
異母兄 |
父・顕泰と金子泰清に謀殺される |
金子泰清(美濃守) |
沼田氏家老・執権 |
母方の伯父(または祖父) |
朝憲謀殺を主導。後に景義を謀殺する |
真田昌幸 |
武田家臣、後の大名 |
敵対者、謀殺の黒幕 |
景義の武勇を恐れ、金子泰清を操り景義を謀殺する |
由良国繁 |
上野金山城主 |
一時的な庇護者 |
沼田を追われた景義を庇護し、沼田城奪回を支援する |
天文21年(1552年)、沼田景義は、当主・顕泰と側室・湯乃見(ゆのみ)の間に生まれた 2 。母の湯乃見は、沼田氏の重臣である金子新左衛門泰清の娘(または妹)であったと伝わる 2 。景義は庶子でありながら、父・顕泰から並々ならぬ寵愛を受け、顕泰が隠居した際には、その後継者である異母兄たちではなく、景義を伴って隠居城である天神城に移り住んだほどであった 1 。この過度な寵愛が、やがて一族に悲劇をもたらすことになる。
永禄12年(1569年)正月、沼田氏の運命を根底から覆す事件が起こる。『加沢記』によれば、当主の座にあった嫡男・朝憲が、年始の挨拶のために父・顕泰のいる天神城を訪れた際、顕泰はこれを謀殺した 14 。この暴挙の背後には、寵愛する景義に家督を継がせようとする顕泰の野心と、景義の外戚として権勢を振るおうとした金子泰清の画策があった 12 。彼らは正当な後継者を排除し、強引に景義を新たな当主として擁立しようとしたのである。
しかし、このあまりに卑劣な手段は、沼田の家臣団から猛烈な反発を招いた。沼田の兵たちは顕泰・景義父子に与せず、殺害された朝憲の未亡人の下に結集し、逆に天神城に攻め寄せた 14 。計画が完全に裏目に出たことを悟った顕泰と景義は、もはや上野国に留まることはできず、天神城に火を放つと、険しい尾瀬の山々を越えて会津の蘆名氏を頼って落ち延びた 17 。この過酷な逃避行の最中、景義の母・湯乃見は凍死したと伝えられている 15 。
この一連の事件は、当時17歳であった景義の生涯における最初の、そして最大の悲劇であった。彼自身の主体的な意思があったという記録はなく、むしろ父と外戚の野望を実現するための「駒」として担ぎ上げられた側面が強い。その結果、彼は故郷、家臣、そして安定した未来のすべてを失った。この時に失ったものを取り戻したいという渇望が、その後の彼の人生を突き動かす執念の根源となったことは想像に難くない。
会津への亡命は、景義にとって屈辱と雌伏の時代の始まりであった。しかし、彼は故郷奪回の夢を捨てることはなかった。流転の日々を経て、彼は再起の機会を窺い続ける。
会津の蘆名氏の下で数年を過ごした後、景義は上野国へと戻る。そして、上野東部の有力国人であり、当時は後北条氏に与していた金山城主・由良国繁の庇護下に入った 1 。由良氏の支援を受けた景義は、勢多郡の女淵城主となり、亡命の身から再び一城の主として、ささやかながらも勢力を回復することに成功する 1 。これは、彼にとって故郷奪還に向けた重要な足がかりとなった。
景義が再起への道を模索している間、彼が去った後の沼田城を巡る情勢は、大国の思惑によって目まぐるしく変化していた。
ここで注目すべきは、かつて景義を当主とするために暗躍した金子泰清の動向である。彼は主家である沼田氏が追放された後も、新たな支配者である北条氏に仕えることでその地位を保ち、さらに真田昌幸の調略に応じて今度は武田方に寝返った 4 。彼の行動原理は、旧主への忠誠心ではなく、いかなる支配者の下であっても「沼田における自らの地位を維持する」という、極めて現実的な自己保身と権力志向にあったことが窺える。この泰清の性質こそが、後の景義の悲劇を決定づける最大の要因となる。昌幸は、この泰清の弱点を的確に見抜いていたのである。
景義の生涯と周辺情勢の変遷を、以下の年表にまとめる。
表:沼田景義 関連年表
年代 |
沼田景義・沼田氏の動向 |
関連勢力の動向 |
天文21年 (1552) |
沼田景義、誕生 |
- |
永禄12年 (1569) |
父・顕泰が兄・朝憲を謀殺。家臣に追われ、 父と共に会津へ亡命 |
- |
天正6年 (1578) |
由良国繁の庇護下で女淵城主となる。 |
上杉謙信が死去(御館の乱)。北条氏が沼田城を制圧。 |
天正8年 (1580) |
沼田城奪回に向け、挙兵の準備を進める。 |
真田昌幸が調略により沼田城を無血開城。武田氏の所領となる。 |
天正9年 (1581) |
3月、沼田城奪回のため挙兵。しかし、 真田昌幸の謀略により謀殺される 。沼田氏滅亡。 |
- |
流転の末に再起の機会を得た景義は、ついに失われた故郷を取り戻すべく、最後の戦いに挑む。しかし、彼の前に立ちはだかったのは、戦国屈指の智将・真田昌幸の、冷徹にして巧妙な謀略であった。
天正9年(1581年)3月、景義は12年越しの悲願を果たすべく、ついに動いた。庇護者である由良国繁と、その背後にいる北条氏の支援を受け、故郷・沼田城奪回のために決死の覚悟で兵を挙げたのである 4 。その武勇は「摩利支天の再来」とまで称されており 1 、沼田の旧臣たちの中にも景義の帰還を待望する声があった可能性は高く、真田方にとって大きな脅威であった。
沼田城を預かる真田昌幸は、景義の武勇を正面から受け止めることの危険性を熟知していた 20 。そこで彼が選んだのは、武力による迎撃ではなく、敵の内部に潜む脆弱性を突く「謀略」であった。昌幸が標的として狙いを定めたのは、景義の母方の伯父(または祖父)であり、かつては沼田氏の執権として権勢を振るい、そして今や武田(真田)方の城代として沼田城に留まっていた金子泰清であった 7 。
昌幸は泰清に対し、「景義を討てば、沼田領の支配を安堵しよう」という旨の甘言をもって誘いをかけた 20 。自己の地位と利益を何よりも優先する泰清にとって、この提案は抗いがたい魅力を持っていた。彼は、血を分けた甥(または孫)である景義を裏切り、昌幸の謀略に加担することを決意する。かつて景義を当主にするために主君を裏切った男が、今度は自らの保身のために、その景義自身を裏切るという、皮肉な構図がここに完成した。
金子泰清は景義に使者を送り、「我らは旧主であるあなた様をお迎えする。城を明け渡すので、速やかに入城されよ」と偽りの降伏を申し入れた 8 。長年の悲願達成を目前にし、伯父からの申し出を信じ込んだ景義は、疑うことなく武装を解き、わずかな供回りのみで沼田城内へと入っていった。しかし、彼が水の手曲輪と呼ばれる場所に差し掛かった瞬間、待ち伏せていた泰清の手勢が一斉に襲いかかった 15 。不意を突かれた景義は、その武勇を発揮する間もなく、無念の最期を遂げた 20 。時に天正9年(1581年)3月14日、享年30であった(生没年から計算。42歳説もある 15 )。
沼田景義の死は、単に一人の武将の死を意味するものではなかった。それは、鎌倉時代から上野国に根を張り、戦国の世を生き抜いてきた名門・沼田氏の、完全な滅亡を意味していた 4 。景義の謀殺は、真田昌幸が沼田氏の内部に長年巣食っていた「裏切りの記憶」と「権力への執着」という病根を巧みに利用した、心理戦の極致であった。昌幸は、金子泰清がかつて景義を利するために正当な主君(朝憲)を裏切った事実を知悉しており、同じ手口で今度は景義自身を裏切らせることが可能だと見抜いていたのである。景義は、かつて自分を利したはずの裏切りの連鎖によって、今度は自らが滅ぼされるという、戦国史に残る極めて構造的な悲劇の結末を迎えたのであった。
非業の死を遂げた沼田景義であったが、彼の存在は死後も沼田の地に大きな影響を与え続けた。謀殺した側の真田昌幸でさえ、その怨霊を恐れ、手厚く祀らざるを得なかったのである。
景義の謀殺後、甲府から駆け付けた真田昌幸は、自らその首を実検したと伝えられる 15 。その際、討ち取られた景義の首が置かれたとされる石は「平八石(へいはちいし)」と呼ばれ、現在も沼田城址公園の一角に、彼の悲劇を今に伝える物証として静かに佇んでいる 11 。
昌幸は、景義の死によって沼田氏の旧臣たちが動揺し、離反することを何よりも恐れた 15 。また、当時は非業の死を遂げた者の怨霊が祟りをなすという信仰が根強く、武勇で知られた景義の怨霊は、昌幸にとっても無視できない存在であった。そこで昌幸は、旧臣の人心収攬と怨霊鎮魂のため、景義を手厚く慰霊するという策に出る。
景義の遺骸は、沼田氏先祖伝来の地である小沢城跡に手厚く葬られ、社を建てて「沼田大明神」として祀られた 8 。沼田城で晒された景義の首は、夜な夜なその体を求めて、胴体が葬られた小沢城跡の方角へ飛んでいったという凄絶な伝説も残っている 26 。この昌幸による慰霊は、単なる同情や迷信からではなく、「死者の権威」を利用して生きている人間(旧沼田家臣団)を統治するための、高度な政治的パフォーマンスであった。敵将を神として祀り上げることで、その死を正当化し、かつ旧臣たちの不満を宗教的な形で吸収・昇華させようとしたのである。これは、戦国武将のリアリズムと精神性が融合した、極めて巧妙な統治技術であったと言えよう。
景義を裏切り、その謀殺に直接加担した金子泰清の末路は、惨めなものであったと伝えられる。彼は昌幸から約束された恩賞を得ることもなく、酷使された末に追放された。そして、謀殺した甥・景義の亡霊に夜な夜な悩まされながら、寂しく病死したという 22 。この伝承は、景義の悲劇に因果応報という結末を与え、人々の無念を慰める役割を果たしたのかもしれない。
沼田景義のドラマティックで悲劇的な生涯は、後世の創作者たちの心を捉えた。特に、時代小説の大家である池波正太郎は、景義を主人公とした小説『まぼろしの城』を執筆し、その無念の生涯を描き出した 2 。彼の物語は、歴史の記録を超え、文学の世界でも生き続けているのである。
沼田景義の生涯を振り返ると、彼の悲劇が、単に個人の資質や判断ミスだけに起因するものではないことが明らかになる。それは、卓越した武勇をもってしても抗うことのできない、戦国という時代の巨大な構造的圧力によってもたらされたものであった。
第一に、越後・関東・信濃の三大勢力がぶつかり合う地政学的な宿命。第二に、その大国の思惑に翻弄され、家中が親上杉派と親北条派に引き裂かれた内紛の歴史。そして第三に、その内紛の記憶と個人の野心を利用した、真田昌幸という恐るべき智将の存在。これらの要因が複雑に絡み合った結果、景義は故郷奪回という悲願を目前にしながら、最も信頼すべき血縁者の手によって命を落とすという、最悪の結末を迎えた。
沼田景義の物語は、真田氏や北条氏といった歴史の勝者の陰で、無念のうちに消えていった数多の地方豪族たちの悲哀を象徴している。彼の短い生涯は、戦国乱世の非情さと、その中で必死に生きようとした人々の苦悩を、現代に静かに、しかし強く語りかけているのである。