沼間興国は大内氏の奉行人。筑前千手氏出身で、大内義興・義隆に仕え、筑前郡代や岩屋城督を兼任。大寧寺の変後も陶晴賢に仕え、志波満種を討伐。大内氏滅亡後は史料から姿を消す。
日本の戦国時代、数多の武将が歴史の表舞台でその名を馳せる一方で、巨大な大名領国を実務で支えながらも、その生涯が深い謎に包まれた人物も少なくない。周防・長門の国人であり、西国随一の大大名であった大内氏に仕えた奉行人、沼間興国(ぬまま おきくに)もまた、そうした人物の一人である。
彼について伝わる情報は、極めて断片的である。大内義興・義隆の二代に仕え、奉行人として活躍したこと、そして隼人祐、能登少丞、能登守といった官途名を称したこと 1 。これらは彼の経歴の骨子をなす重要な情報ではあるが、その具体的な活動内容や人物像を鮮明に描き出すには、あまりにも情報が乏しい。戦国史の広大な海において、沼間興国は、その存在を示唆されながらも、実態の掴めない幻の船のような存在であった。
本報告書は、この謎多き人物、沼間興国の生涯を、現存する史料の断片を丹念に繋ぎ合わせることで、可能な限り立体的に再構築することを目的とする。単に既知の情報をなぞるのではなく、異なる地域、異なる名称で記された史料を比較検討し、その背後に隠された一つの実像を浮かび上がらせる試みである。
その過程で、本報告書は一つの核心的な仮説を提示する。それは、周防の奉行人「沼間興国」と、筑前国(現在の福岡県)の史料にその名が見える大内氏家臣「千手興国(せんじゅ おきくに)」とが、同一人物であるという説である 2 。この仮説に立つことで、彼の活動範囲は周防・長門という大内氏の本拠地にとどまらず、日明貿易の拠点として極めて重要であった北九州にまで及んでいたことが明らかになる。この視点こそが、沼間興国の全体像を理解するための鍵となる。
沼間興国の生涯を追跡する作業は、単に一人の武将の伝記を編むに留まるものではない。それは、西国に一大版図を築き上げた大内氏の広域統治システムの実態、その高度な行政を支えた「奉行人」という官僚武将のリアルな職務、そして栄華を極めた大内氏が内部崩壊から滅亡へと至る激動の時代を、組織の一員であった家臣の視点から浮き彫りにする試みである。
彼の人生は、戦国中期の巨大組織に生きたエリート官僚の成功と処世、そして主家の没落と共に歴史の闇へと消えていく非情な現実を映し出す鏡となる。本報告書は、沼間興国という一人の人物のミクロな生涯を通して、戦国という時代のマクロな構造を解き明かすことを目指すものである。
沼間興国の出自を解き明かす鍵は、彼のもう一つの名である「千手」にある。千手氏は、筑前国嘉穂郡千手(現在の福岡県嘉麻市千手付近)を本拠とした在地領主、すなわち国人であった 2 。この地名は、域内に存在した千手寺に由来するとされ、一族の伝承によれば、天智天皇が百済救援のために九州へ下向した際に随行し、この地に留まったことに始まるともいう 3 。伝承の真偽はともかく、千手氏が筑前の地に深く根差した古い家系であったことは確かである。現在の嘉麻市には、千手川や千手小学校といった地名が残り、かつてこの地を治めた一族の痕跡を今に伝えている 5 。
千手氏は、室町時代の中期には既に、北九州に勢力を伸張していた大内氏の支配体制に組み込まれていたことが史料から確認できる。永享11年(1439年)の記録には、「千手越前守」という人物が大内氏の被官(家臣)として筑前国鞍手郡の郡代(代官)を務めていたことが見え、これが彼らが単なる在地領主ではなく、大内氏の行政機構の一翼を担う存在であったことを示す強力な証拠となっている 2 。その後、全国規模の内乱であった応仁・文明の乱(1467年~1477年)が筑前に波及した際には、大内方として戦い、敵対した少弐氏によって一時的に所領を没収される憂き目に遭うも、乱の終結後に大内氏が筑前支配を確立すると共に、その地位を回復した 2 。この一連の動向は、千手氏が大内氏と運命を共にし、その筑前支配の進展に貢献した忠実な家臣であったことを物語っている。
沼間(千手)興国の系譜を直接示す史料はないものの、その位置づけを推測させる手がかりは存在する。文明10年(1478年)、大内氏が筑前支配の立て直しを図っていた時期の記録に、「千手右京進有国」という人物の名が見える 2 。この「有国」と、本稿の主題である「興国」が、共に「国」の字を通字(一族で代々受け継がれる特定の漢字)として用いている点は極めて重要である。これにより、興国は千手氏の嫡流、あるいはそれに近い家系の出身であり、おそらく有国を祖父、あるいは近しい先祖に持つ人物であったと強く推測される。
この一族の歴史的背景は、後に興国が大内氏の奉行人として、さらには筑前統治の要職に抜擢される上で、決して無視できない要因であった。彼のキャリアは個人の才覚のみならず、千手氏という一族が長年にわたり大内氏の被官として忠勤に励み、筑前における統治実績を積み重ねてきたという歴史的基盤の上に築かれたものだったのである。これは、戦国大名が在地勢力をいかにして自らの統治機構に統合し、活用していったかを示す典型的な事例と言えよう。
沼間興国の名である「興国」のうち、「興」の字は、彼が仕えた大内氏第15代当主・大内義興(在職:1494年~1528年)から与えられた一字(偏諱)であることは、ほぼ間違いない 10 。戦国時代、主君が家臣に自らの名の一字を与えることは、その忠誠を認め、家臣団の一員として正式に受け入れたことを示す重要な儀礼であった。この事実から、興国が大内義興の治世下で元服し、大内家臣としてのキャリアを本格的にスタートさせたことが年代的に特定できる。
一方で、彼が周防・長門の史料において名乗る「沼間」という姓の由来は、依然として謎に包まれている。周防国都濃郡須々万(現在の山口県周南市)に、その名の通り三方を沼に囲まれた「沼城(ぬまじょう)」、別名「沼間城」という城が存在したことは、複数の記録から確認できる 12 。この城は、後に毛利元就が防長経略を進める中で、激しい抵抗に遭ったことで知られる。
しかし、注意すべきは、この沼城の攻防戦で城主として中心的な役割を果たしたのは、山崎興盛(やまざき おきもり)という別の武将である点だ 13 。山崎興盛も大内氏の家臣ではあったが、その系譜は陶氏の配下であり、沼間興国との直接的な関係を示す一次史料は現在のところ見つかっていない。したがって、「沼間」という姓と「沼城」を安易に結びつけることはできず、両者は明確に区別して考察する必要がある。
この二つの姓、「千手」と「沼間」が示すものは何か。最も合理的な推測は、「千手」が出自の地である筑前に由来する本来の姓(本姓)であり、「沼間」は彼が大内氏の本拠地である周防で活動する際に用いた通称や屋号のようなものであったという可能性である。戦国期の武士の呼称は、活動拠点や役職に応じて複数の名を使い分けることが珍しくなく、流動的かつ多様であった。一人の人物が「千手興国」と「沼間興国」という二つの名で史料に登場する事実そのものが、この時代の慣習を示す好例であり、歴史研究における人物特定の難しさと面白さを示唆していると言えよう。
西国に一大勢力圏を築いた大内氏は、その広大な領国を統治するために、単なる武力支配に留まらない、高度に発達した官僚機構を構築していた。その統治システムの根幹をなしたのが「文書主義」であり、主君の命令を文書化し、それに基づいて行政を執行するという手法であった 18 。この文書行政の中核を担ったのが、「奉行人(ぶぎょうにん)」と呼ばれる実務能力に長けた官僚たちである 18 。
奉行人の主な職務は、主君の意思を奉(うけたまわ)り、それを「奉書(ほうしょ)」という公式文書の形式で発給することにあった。奉書は、所領の安堵や紛争の裁定、寺社への命令伝達など、領国統治のあらゆる場面で用いられ、大内氏の権威を末端まで浸透させるための重要なツールであった。特に重要な案件に関しては、複数の奉行人が連名で署名し、花押(かおう)と呼ばれる独自のサインを書き記す「連署奉書」の形式がとられた 19 。これは、決定の正当性を高めると同時に、合議による意思決定と責任の分担を図るための、洗練されたシステムであった。
沼間興国は、この大内氏の最高行政機関の一員として、重きをなしていたことが史料から明らかである。天文5年(1536年)に発給された奉書において、彼は大内義隆の絶対的な信任を得ていた文治派の筆頭格・相良武任と名を連ねて署名している 23 。相良武任は、その権勢の大きさから武断派の重臣たちと激しく対立したほどの人物であり 24 、その彼と連署奉書を発給できる立場にあったという事実は、興国が大内氏の政権中枢に深く食い込んでいたことを物語っている。
筑前の在地領主(国人)出身である興国が、大内氏の中枢で政務を担う奉行人にまで登り詰めたそのキャリアパスは、大内氏の人材登用システムの一端を示唆している。大内氏の支配体制は、譜代の重臣や一門だけでなく、興国のような外部出身者であっても、その実務能力が高く評価されれば要職に抜擢される、比較的開かれたものであった可能性がある。広大な領国を維持するために、出身地を問わず有能な人材を積極的に登用し、中央の行政機構に組み込んでいく。興国の存在は、大内氏の強さの源泉の一つであった、この柔軟な人材登用システムの生きた証左と言えるだろう。
沼間(千手)興国の活動は、大内氏の本拠地である周防に留まらなかった。むしろ彼の真骨頂は、大内氏にとって経済的・軍事的に最重要拠点の一つであった筑前国(現在の福岡県)の統治において発揮された。
史料は、彼が筑前国の要衝である御笠郡(現在の太宰府市、筑紫野市周辺)の郡代、および同郡の軍事拠点であった岩屋城の城督(城代)を兼任していたことを明確に示している 2 。郡代は地域の民政を、城督は軍事を司る役職であり、これを兼任するということは、彼が同地域における大内氏の民政・軍事の両面における最高責任者であったことを意味する。この事実は、彼が大内氏から絶大な信頼を寄せられていたことの証である。
彼の筑前における職務の中でも、特に重要だったのが、大内氏が篤く崇敬した太宰府天満宮に関するものであった 2 。太宰府天満宮は、九州における精神的支柱であり、その掌握は人心を安定させ、統治の正当性を担保する上で不可欠であった。
興国の活動を示す具体的な事例が、史料に記録されている。
一つは、天満宮の有力な社僧である満盛院が、大内氏から命じられた社殿の造営を遅滞させた際の対応である。この時、興国は単なる督促役としてではなく、仲介者として積極的に介入した。彼は「罰として廻廊一間分の上葺き工事をさせる」という具体的な解決策を立案し、それを山口にいる大内氏本庁に注進(報告・提案)して許可を得ている 2。これは、彼に現地の状況に応じた判断を下す大きな裁量権が与えられていたことを示している。
また、天満宮の神輿や廻廊の造営が完了した際には、その旨を正式に山口へ報告する文書も残っており、彼が寺社造営の監督責任者であったことがわかる 2。
このように、大内氏の筑前支配は、岩屋城という「軍事力」による威圧と、太宰府天満宮という「宗教的権威」の掌握という二本の柱によって成り立っていた。千手興国は、その両方を現場で統括する、まさに筑前支配の「要」となる人物であった。彼は単なる城代でも、単なる寺社奉行でもなく、筑前における大内氏の権威を体現する総合的な代理人、すなわち総督に近い役割を果たしていたのである。この重要な役割を、譜代の重臣ではなく筑前出身の彼に任せたことは、大内氏の統治における「適材適所」の原則と、在地勢力を巧みに活用する統治戦略の現れであった。
沼間興国の実務官僚としての能力は、彼が関与した文書から具体的に読み取ることができる。それらは、彼が統治の様々な局面で重要な役割を果たしていたことを雄弁に物語っている。
この年に発給された書状は、彼の職務内容とコミュニケーション能力を如実に示している 28 。この文書は、豊後の大友氏との合戦で軍功を挙げた国人・佐田朝景に対して、主君・大内義隆からの恩賞(豊前国における所領の安堵)を伝達する内容である。文面には、主君の意向を正確に伝えるだけでなく、「今度の御忠節、一段と御感、他に異なり候(今回の忠節は格別であり、主君のお褒めもまた他とは違うものでした)」といった表現で相手の功績を最大限に賞賛し、「弥々(いよいよ)馳走肝要に候(今後も一層の奉公が肝要です)」と、さらなる忠誠を促す言葉が巧みに盛り込まれている。これは、彼が武士の主従関係の根幹である恩賞給付という実務に深く関与していたこと、そして、単なる事務的な伝達に終わらず、家臣の心を掴み、その忠誠心を高めるための高度な政治的配慮とコミュニケーション能力に長けていたことを示している。
この年に発給された大内氏奉行人連署奉書は、彼の家中における地位を明確に示す史料である 23 。前述の通り、この文書で彼は大内義隆政権の中枢を担う相良武任と連署している。これは、彼が単なる地方官吏ではなく、大内氏の最高レベルの意思決定に関与する立場にあったことを示す動かぬ証拠である。恩賞給付の伝達、寺社管理、軍功報告、そして中央での政策決定への参画と、彼の職務は多岐にわたっていた。これは、彼が特定の分野に特化した専門官僚(スペシャリスト)ではなく、民政、軍事、宗教といった統治のあらゆる側面に対応できる、総合的な能力を備えた官僚(ジェネラリスト)であったことを示唆している。
戦国時代の武士にとって、官途名(官職名)や受領名(国司名)は、その人物の社会的地位や家格を示す重要な指標であった。沼間興国が称したとされる複数の官途名は、大内家臣団の中での彼の地位の変遷を物語っている。
史料から確認できる彼の官途名・称号を整理すると、「隼人祐(はやとのすけ)」、「能登少丞(のとのしょうじょう)」、「治部少輔(じぶのしょうゆう)」、そして「能登守(のとのかみ)」などが挙げられる 1 。これらの官途名は、朝廷から正式に任命される場合(任官)と、主君である大内氏から恩賞として名乗ることを許される場合(受領名)があったが、戦国期においては後者のケースが一般的であった 30 。
これらの官途名を彼のキャリアの変遷として整理すると、以下の表のようになる。
表1:沼間(千手)興国の官途名・称号一覧
官途名/称号 |
確認される史料 |
推定される時期 |
備考 |
隼人祐 |
ユーザー提供情報 |
不明(キャリア初期か) |
隼人司の次官。朝廷の警備などを司る武官的な性格を持つ官職。 |
能登少丞 |
ユーザー提供情報 |
不明 |
能登国の国司における三等官(じょう)。能登守へのステップであった可能性が考えられる。 |
治部少輔 |
2 |
天文年間 |
治部省の次官。氏姓や継嗣、外交、儀礼などを司る省庁であり、彼の寺社管理の職務と関連性が窺える。 |
能登守 |
1 |
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天文年間(キャリア後期か) |
能登国の国司の長官。大内家臣団内での高い格式を象徴する。毛利家臣の桂元澄も能登守を称しており 33 、有力武将が名乗るにふさわしい官途名と認識されていた。 |
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この表から、彼の官途名が「祐」→「少丞」→「少輔」→「守」と、律令制の官位序列に沿って昇進しているように見える点は興味深い。これは、彼が大内家中で順調に地位を向上させていったキャリアパスを視覚的に示している。特に「能登守」という国守クラスの官途名を称したことは、彼が家臣団の中でも非常に高い地位と名誉を享受していたことの証左である。彼の生涯は、実務能力によって主君の信頼を勝ち取り、着実にその地位を高めていった、戦国時代の官僚武将の一つの理想像を示していると言えるだろう。
天文20年(1551年)8月、西国に栄華を誇った大内氏の運命を根底から覆す大事件が勃発する。大内氏の重臣筆頭であった陶隆房(すえ たかふさ、後の晴賢)が、主君・大内義隆に対して謀反の兵を挙げたのである。このクーデターは「大寧寺の変」として知られ、義隆は本拠地である山口を追われ、長門国の大寧寺で自害に追い込まれた 34 。
この事件の背景には、義隆が文治派の相良武任らを重用したことに対し、陶隆房をはじめとする譜代の武断派重臣たちが強い不満を抱き、両者の対立が修復不可能なレベルにまで深刻化していたことがあった 24 。この政変に際して、大内家臣団は二つに引き裂かれた。長門守護代の内藤興盛や豊前守護代の杉重矩といった重臣たちは、早々に義隆を見限り陶方に加担した 35 。一方で、義隆側近の冷泉隆豊らは最後まで義隆と運命を共にし、大寧寺で討死した 34 。また、筑前守護代であった杉興運も義隆に殉じている 34 。
この主家を揺るがす重大事件の最中、沼間(千手)興国が具体的にどのような行動をとったかを直接的に記した史料は、残念ながら存在しない。しかし、残された状況証拠から彼の立場を推察することは可能である。彼は、一方では文治派の筆頭である相良武任と奉書を連署するほどの関係にありながら 23 、もう一方では武断派に近い杉氏とも連署している 21 。この事実は、彼が特定の派閥に深く与するのではなく、その卓越した実務能力によって重用されるテクノクラート(技術官僚)的な立場にあったことを示唆している。事件当時は、任地である筑前にいた可能性が極めて高く、物理的に山口の政争の中心から離れていたことも幸いしたであろう。
家臣団を二分する粛清の嵐の中、相良武任と近しい立場にありながら興国が生き延び、さらに陶晴賢による新政権下でもその地位を維持できたのは、彼がイデオロギー的な派閥争いから距離を置き、大内氏の統治機構にとって代替の効かない「実務家」として、双方からその価値を認められていたからに他ならない。特に、日明貿易の拠点である博多港を含む筑前の安定統治は、クーデターを成功させた陶晴賢にとっても最優先課題であった。そのためには、興国のような現地の事情に精通した有能な実務官僚の協力が不可欠だったのである。興国の生存は、彼の個人的な立ち回りだけでなく、新政権側の統治上の必要性という構造的な要因によってもたらされたと分析できる。
大寧寺の変という激震は、大内氏の支配体制に一時的な権力の空白を生み出した。この混乱期に、沼間(千手)興国の人物像を理解する上で最も重要な事件が起こる。天文21年(1552年)頃、彼は筑前国下座郡の国人であった志波満種を武力で討ち果たしたのである 2 。
この行動の背景には、生前の大内義隆から、志波氏の旧領である土地を興国に与えるという内約があったとされる 2 。平時であれば、この約束は主君の正式な命令書(御判物)によって履行されるはずであった。しかし、大寧寺の変によってその「法」の源泉である主君が消滅し、義隆との口約束は何の保証もないものとなった。この状況下で、興国は約束が反故にされることを危惧し、新政権の支配が完全に確立される前の混乱に乗じて、自らの実力でその権利を確保するという、極めて大胆な行動に出たのである。
この行動は、後に成立した新当主・大内義長(陶晴賢の傀儡)が発給した文書において、「狼藉不穏便(ろうぜきふおんびん)」(乱暴で穏やかでない行為)と非難されつつも、結果的にその土地の領有は追認されている 2 。これは、興国が自らの行動の正当性を主張し、新政権にそれを認めさせたことを意味する。
この志波満種討伐事件は、興国の二面性を鮮やかに描き出している。それは、大内氏という安定した「法」の秩序が崩壊した瞬間、彼が即座に「力」が支配する戦国の論理に適応し、自らの生存と権益を確保するために冷徹な決断を下したことを示している。平時においては文書行政を的確にこなす有能な官僚が、乱世の到来と共に、旧主との約束を大義名分としながらも実力で既成事実を構築し、新政権に事後承諾を要求するという、極めて戦略的な武将へと変貌する姿。この行動力と現実的な判断力こそ、彼が激動の時代を生き抜くことができた要因であり、戦国という時代の本質を体現するエピソードと言えよう。
志波氏の旧領を安堵されたという事実は、沼間(千手)興国が陶晴賢と大内義長による新政権に協力し、その支配体制へ軟着陸したことを明確に示している。彼は、旧主・義隆への個人的な忠誠や義理立てよりも、自らの一族と権益を守るという、より現実的な選択をしたのである。
彼のこの選択が成功であったことは、その後の史料からも裏付けられる。天文22年(1553年)の記録において、千手氏は「筑前五人衆」の一人としてその名が挙げられている 4 。これは、大内氏の実権が陶晴賢に移った後も、千手氏、そしてその当主であった興国が、筑前における有力な支配者としてその地位を維持し続けていたことを証明している。
興国が新体制下でも生き残れたのは、彼が持つ「筑前統治」という機能が、支配者が誰であれ必要とされたからである。彼の価値は、特定の主君への個人的な忠誠心にのみ依拠するものではなく、統治機構における専門性と、在地における影響力という、より普遍的なものであった。陶晴賢は、義隆を討ったものの、大内氏の広大な家臣団や国人たちをまとめ上げ、領国を維持するという困難な課題に直面していた。そのためには、興国のような実務官僚の協力が不可欠だったのである。興国は、自らの持つ「機能」を交渉材料に、新たな支配者との間で自身の地位を確保した。これは、主従関係が固定化されておらず、能力と利害によって結びつきが変化する、戦国時代ならではのドライな主従関係の一例と言えるだろう。
陶晴賢が実権を握った大内氏は、しかし、その栄光を長く保つことはできなかった。弘治元年(1555年)、陶晴賢は安芸厳島の戦いで毛利元就の奇策の前に敗れ、自害する 41 。この歴史的な勝利を機に、元就は破竹の勢いで周防・長門へと侵攻(防長経略)を開始した。後ろ盾を失った傀儡当主・大内義長はなすすべもなく、弘治3年(1557年)に長門勝山城で毛利軍に追い詰められて自害。ここに、西国に長らく君臨した名門・大内氏は、歴史の舞台から完全に姿を消した 41 。
この主家の滅亡という画期を境に、沼間(千手)興国の名を記した確実な一次史料は、現在のところ確認されていない。大内氏の奉行人として、また筑前の支配者として、あれほど活発に活動した人物の記録が、主家の消滅と共にぷっつりと途絶えてしまうのである。彼の後半生と最期は、歴史の深い闇に包まれている。
史料が沈黙する以上、興国の後半生は推測の域を出ない。しかし、当時の状況からいくつかの可能性を考察することはできる。
第一に、 毛利氏への仕官 である。大内氏滅亡後、その旧臣の多くは毛利氏に降伏し、その能力に応じて家臣団に吸収された。例えば、須々万沼城で毛利軍に頑強に抵抗した江良賢宣も、最終的には毛利氏に仕え、その防長経略に協力している 43 。興国も同様に、その卓越した行政手腕を買われて毛利氏に仕えた可能性は十分に考えられる。しかし、毛利氏の家臣団名簿である『萩藩閥閲録』などに彼の名が見当たらないことから、この可能性は低いか、あるいは名を変えるなどして仕えた可能性も否定はできない。
第二に、 大友氏への仕官 である。大内氏滅亡後の筑前は、豊後の大友宗麟と安芸の毛利元就による熾烈な草刈り場と化した。筑前を本拠の一つとする興国にとって、地政学的に近い大友氏に仕えるという選択肢は、極めて現実的であった。
第三に、 在地領主としての逼塞、あるいは死 である。大内氏という巨大な後ろ盾を失い、毛利・大友という二大勢力の狭間で、政治の表舞台から引退し、本拠地である嘉穂郡千手で一国人領主として逼塞した可能性も考えられる。あるいは、大内氏滅亡に至る一連の戦乱の中で、討死もしくは病死した可能性もまた、否定することはできない。
興国個人の消息は不明だが、「千手氏」という一族自体は存続したようである。時代は下り、江戸時代には肥前小城藩(鍋島氏)の家臣として千手氏の名が見える 46 。これらが興国の直系の子孫であるかは定かではないが、一族が戦国の動乱を乗り越えて生き残ったことは確かである。
大内氏の中枢で活躍した人物の記録が、主家の滅亡と共に途絶える。この事実自体が、戦国時代の武将の運命がいかに主家の盛衰と密接に結びついていたかを雄弁に物語っている。彼の後半生の謎は、大内氏という巨大な権力機構の消滅が、その構成員であった数多の有能な武士たちをも歴史の忘却の彼方へと追いやったという、歴史の非情さの証左と言えるのかもしれない。
本報告書を通じて再構築された沼間(千手)興国の生涯は、彼が単なる「周防の国人」という一面的な存在ではなかったことを明確に示している。彼は筑前の有力国人領主という出自を持ちながら、その卓越した実務能力によって西国最大の大名・大内氏の中央政庁に登用され、本拠地である周防と経済の要である筑前という二大拠点を股にかけて活躍した、稀有な「広域官僚武将」であった。
彼の人物像は、鮮やかな二面性によって特徴づけられる。平時においては、奉行人として文書行政や寺社管理を的確にこなし、主君の権威を代行する有能な「文官」であった。しかし、大寧寺の変によって主家が崩壊するという乱世の到来を目の当たりにするや、即座に自らの判断で武力を行使し、冷徹に生き残りを図る現実的な「武将」へと変貌した。この文武両道、あるいは平時と乱世の論理を使い分ける柔軟性と判断力こそ、戦国時代のエリート官僚が生き抜くために必須の資質であったと言えよう。
沼間興国の生涯を追跡する作業は、歴史の大きな物語の中に埋もれた、一個人の生きた軌跡を掘り起こすことであった。彼の人生は、戦国大名・大内氏の洗練された統治機構の実態、中央と地方を結ぶ奉行人の具体的な役割、そして巨大組織が内部から崩壊した際に、その構成員がどのような処世術で生き抜いたかを示す、極めて貴重なミクロヒストリー(微視的歴史)の好例である。
歴史に名を残した英雄や大名だけでなく、沼間興国のような、組織を実務で支えながらも歴史の波間に消えていった無名に近い人々の生涯を丹念に追うこと。それによって初めて、私たちは戦国という時代の複雑なダイナミズムを、より深く、そして人間的に理解することができる。彼の物語は、現代に生きる我々に対しても、巨大な組織と個人、確立された秩序と突然の混乱、そして守るべき理想と向き合うべき現実の間で、いかにして生きるべきかという、普遍的な問いを投げかけているのかもしれない。