本報告書は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、泉山古康(いずみやま ふるやす)について、現存する史料に基づき、その出自、南部家臣としての事績、家族関係、そして彼が生きた時代背景を包括的に明らかにすることを目的とする。泉山古康は、南部氏の有力家臣であり、特に主君である南部信直(なんぶ のぶなお)の義父として、また後の盛岡藩初代藩主となる南部利直(なんぶ としなお)の外祖父として、南部氏の歴史において特筆すべき役割を果たした人物である。利用者より提供された情報によれば、泉山古康は南部家臣であり、石亀信房の子である政昭の子、叔父・泉山康朝の養子として泉山姓を名乗り、娘・慈照院は主君・南部信直の後室となったとされている 1 。
本報告書の調査範囲は、提供された資料群を主要な情報源とする。史料の性質上、詳細が不明な点や解釈の余地が残る部分については、その旨を明記する。泉山古康という人物の全体像を把握するため、まず関連する人物の生没年と主要な出来事を時系列で整理する。
表1: 泉山古康 関連略年譜
年代 (西暦) |
出来事 |
関連人物・情報源 |
不明 |
石亀信房 誕生 |
|
天文15年 (1546年) |
南部信直 誕生 |
3 |
弘治2年 (1556年)頃 |
泉山古康 誕生 1 |
1 |
天正4年 (1576年) |
南部利直 誕生 (泉山古康の孫) |
5 |
天正10年 (1582年) |
南部晴政 死去、南部信直が家督継承 |
3 |
天正11年 (1583年) |
石亀信房 死去 (泉山古康の祖父) |
8 |
天正18年 (1590年) |
泉山古康 死去 1 |
1 |
天正19年 (1591年) |
九戸政実の乱 |
9 |
慶長3年 (1598年) |
盛岡城 築城開始 |
5 |
慶長4年 (1599年) |
南部信直 死去 |
3 |
寛永9年 (1632年) |
南部利直 死去 |
5 |
寛永17年 (1640年) |
慈照院 死去 (泉山古康の娘、南部信直の後室) |
11 |
不明 |
泉山康朝 生没年不詳 (泉山古康の養父) |
13 |
この略年譜は、泉山古康の生涯を理解する上で、彼が生きた時代背景と関連人物との時間的な前後関係を把握する一助となる。古康の活動期間は、南部氏にとって内部抗争と外部勢力との折衝が続く激動の時代であり、彼の没年が九戸政実の乱の直前であること、そして彼の娘である慈照院や孫の利直が江戸時代初期に至るまで活動していたことなどが確認できる。これにより、古康が南部信直の家督継承後の混乱期に信直を支え、その後の南部氏の発展の礎に関わった可能性が浮かび上がる。
泉山古康の出自を理解するためには、彼の実家である石亀氏、そして養子先である泉山氏の成り立ちを明らかにする必要がある。
泉山古康の実父は石亀政昭(いしがめ まさあき)であると伝えられている 1 。石亀氏は南部氏の一族であり、古康の祖父にあたる石亀紀伊守信房(いしがめ きいのかみ のぶふさ)は、南部氏二十三代当主・南部安信(なんぶ やすのぶ)の四男であった 2 。この事実は、古康が南部宗家の血を引く家系に連なることを示しており、彼の家格の高さを物語っている。戦国時代の婚姻が多分に政略的な意味合いを帯び、家格が重視されたことを考慮すると、古康の娘・慈照院が後に南部家当主である南部信直の後室となる上で、この血縁的背景は単なる一介の家臣の娘という以上の意味を持った可能性が高い。南部氏の有力な一門としての出自が、信直との姻戚関係を円滑に進める上で有利に働いた要因の一つと考えることができる。
石亀信房は三戸郡石亀村(現在の青森県田子町)及びその周辺の村々を領有し、その在地名から石亀氏を称した 8 。彼は天正十一年(1583年)に死去している 8 。
泉山古康は、実父・政昭の弟であり、古康から見て叔父にあたる泉山康朝(いずみやま やすとも)の養子となった 1 。武家社会において養子縁組は、家名や所領の継承、さらには一族内の勢力維持や拡大を目的とした一般的な慣行であった。古康が叔父の養子となることで、泉山村の地盤と泉山姓を円滑に継承したと考えられる。
泉山康朝は石亀兵庫(いしがめ ひょうご)とも記され、石亀喜兵衛政明(いしがめ きへえ まさあき、古康の実父・政昭と同一人物か)の弟とされる 13 。康朝は三戸郷泉山村(現在の青森県三戸郡三戸町泉山と比定される)を領有したことから泉山姓を名乗った 1 。この泉山村は、後の天正十九年(1591年)に勃発した九戸政実の乱において、九戸勢による焼き討ちに遭い、全村が焼失するという悲運に見舞われている 14 。
泉山康朝の出自に関しては、盛岡藩の『参考諸家系図』においても詳らかではないとされているが、古康の祖父である石亀信房の庶子であった可能性も否定できないと指摘されている 2 。また、康朝の墓銘には菅原姓との記述があることも注目される 13 。このような出自に関する複数の情報は、戦国期における武士の出自の多様性や、後世の系図編纂過程における情報の複雑化を示唆している。古康が泉山姓を名乗ることは、石亀氏という有力な出自を背景に持ちつつも、「泉山」という新たな家名を立て、その所領における支配を明確にするという意味合いがあったと推察される。
泉山古康は、史料によって複数の呼称で記されている。特に「出雲(いずも)」あるいは「出雲守(いずみのかみ)」という官途名や受領名を称していた可能性が高い。例えば、南部家の婦女に関する記録である『外戚傳』には、古康の娘・慈照院の父として「泉山出雲政弘(いずみやま いずも まさひろ)」という名が見える 12 。また、『南部直房公御家譜』などの史料では、古康の五男とされる泉山政之の父として「泉山出雲古康」という名が記されている 16 。
「出雲守」は、守護代クラスや有力な国人層にも見られる官途名であり、古康がこれを称していたとすれば、南部家内である程度の地位を認められていたことを示唆する。複数の呼称が存在する背景には、史料ごとの記録の差異に加え、当時の武士が状況や場面に応じて名を使い分ける慣習があった可能性も考えられる。「古康」が通称や諱(実名)の一つであり、「政弘」が別の諱であるのか、あるいはその逆であるのか、現存する史料のみから断定することは難しい。しかしながら、南部信直の義父という重要な立場にあったことを考慮すれば、彼に対して相応の敬意を込めた呼称が用いられたと推測される。これらの呼称の存在は、泉山古康という人物が一つの名前に固定されず、複数のアイデンティティを持っていたか、あるいは史料編纂の過程で異なる情報が記録されたことを示している。
これらの複雑な血縁関係と養子縁組を理解するために、以下に泉山古康を中心とした関連系図を示す。
表2: 泉山古康 関連系図
Mermaidによる関係図
図注: 点線は養子関係または婚姻関係を示す。
この系図は、泉山古康が南部氏本家の血を引く石亀氏の出身であること、叔父である泉山康朝の養子となったこと、そして彼の娘たちが南部信直や後の八戸藩祖・南部直房といった南部氏の枢要な人物と婚姻関係を結んだことを視覚的に示している。特に、娘の慈照院が南部信直に嫁ぎ、後の盛岡藩初代藩主となる利直を産んだことは、泉山家が南部家の中で果たした役割の重要性、とりわけ婚姻を通じた結びつきの強化という側面を明確にしている。この情報は、古康個人のみならず、戦国末期から江戸初期にかけての南部家中の権力構造や人間関係を理解する上でも有益である。
泉山古康は、南部氏の家臣として、その所領経営と主家への奉公に努めたと考えられる。
泉山古康は、養父である泉山康朝から三戸郷泉山村の領地を継承し、同地を治めた 1 。泉山村は、南部氏の本拠地であった三戸城の南東約1.5キロメートルに位置する農村であったと記録されている 14 。本拠地の近郊に所領を持つ家臣は、主君からの信頼が厚いか、あるいは重要な役割を担うことが多かった。したがって、泉山古康(および養父・康朝)は、南部氏にとって地理的にも関係性の面でも近い存在であったと考えられる。
泉山古康は、南部信直の家臣として活動したことが確認されている 1 。特に、彼の娘である慈照院が信直の後室となり、後の盛岡藩初代藩主となる南部利直の母となったという縁故から、信直・利直の体制下では家老に抜擢され、藩政に深く関与するようになったとされている 2 。この記述は、古康が単なる一地方領主ではなく、南部氏の中枢で政治に関与する重要な地位に就いたことを示唆している。
彼の生没年( 1 によれば1536年~1590年)を考慮すると、主に南部信直が家督を継承した天正十年(1582年)から、九戸政実の乱が勃発する天正十九年(1591年)以前の時期に、その活動の頂点があったと推測される。主君との姻戚関係は、戦国武家社会において家臣の地位を大きく左右する要素であった。信直の義父となったことで、古康の南部家中における発言力や影響力は著しく増大したと考えられる。
ただし、「家老」という役職名が当時の南部氏において具体的にどのような職務権限を意味したのかについては、盛岡藩が成立し制度が整備された江戸時代以降の家老職とは区別して考える必要があるかもしれない。信直の個人的な相談役や、重要な政策決定に関わる側近としての役割を担った可能性が高い。信直が家督を継承した時期は、南部氏内部の対立や外部勢力との緊張関係が続く困難な状況であった。そのような中で、信頼できる姻戚関係にある古康の存在は、信直にとって大きな精神的支柱となり、また実務面でも重要な支えとなったであろう。古康の活動時期は、信直が九戸氏などの反対勢力と対峙し、豊臣政権との関係を構築していく極めて重要な過渡期であり、古康もこれらの動きに何らかの形で関与したと推測される。
泉山古康の歴史における重要性は、彼自身の事績もさることながら、その子女を通じた南部氏本家や分家との広範な姻戚関係に深く根差している。
泉山古康の娘である慈照院は、南部信直の後室となり、天正四年(1576年)に後の盛岡藩初代藩主となる南部利直(幼名:彦九郎、官途名:信濃守)を産んだ 3 。慈照院が南部氏の世継ぎである利直を産んだことは、泉山古康とその一族にとって最大の栄誉であり、南部家の歴史における古康の重要性を決定づける出来事であった。これは、戦国時代から江戸初期にかけての武家の女性が、婚姻を通じて家と家を結びつけ、次代を産むという極めて重要な役割を担っていたことを示す好例と言える。
慈照院は寛永十七年(1640年)九月九日に死去したとされ、法号は慈照院殿鑑江紹明大姉(じしょういんでんかんこうしょうみょうだいし)と伝えられる。彼女は三戸の聖寿寺(しょうじゅじ)に葬られた 12 。なお、高野山にある石碑には寛永十九年三月十八日と記されているという異伝もある 12 。南部信直と慈照院の墓は、現在、青森県三戸郡南部町にある三光院(旧聖寿寺境内)に夫妻墓として並んで保存されており 3 、この事実は彼女が正室に準ずる、あるいはそれに近い重要な立場であったことを示唆している。
史料によれば、慈照院は利直の他に、檜山御前(ひやまごぜん)と呼ばれる娘も儲けたとされている 11 。この檜山御前は、秋田実季(あきた さねすえ)の弟である忠次郎季隆(ちゅうじろう すえたか)に嫁いだとされるが、一方で、檜山御前の出自については、南部信直の重臣であった北秀愛(きた ひでちか)の娘であるという説も存在し 18 、当時の記録の複雑さや有力家臣間の縁組に関する情報の錯綜を示している可能性がある。
泉山古康には、泉山右馬之助政之という息子がいたことが確認されている。彼は泉山出雲古康の五男であったとされる 16 。政之は、盛岡藩三代藩主である南部重直(なんぶ しげなお)の代に家督を相続し、半知(所領の一部)として二百五十石を与えられた。しかし、その後、何らかの理由で禄を収められ、泉山古康の男系子孫としての家名は断絶に至ったと記録されている 16 。
外孫である南部利直が藩主として大成し、その血統が後世に続く盛岡南部藩の基礎を築いたのとは対照的に、泉山古康の実の孫にあたる政之の家系が比較的早期に断絶したことは、武家の家系維持の難しさを示す事例と言える。藩主の外戚という有利な立場にあったとしても、直系の存続が必ずしも保証されるわけではなかった江戸時代の武家の厳しさの一端を垣間見ることができる。禄を収められ断絶した具体的な理由は史料からは明らかではないが、当時の藩政における何らかの失態、政争への関与、あるいは後継者不在などが考えられる。
泉山古康の姻戚関係は、南部本家のみならず、後に分立する支藩にも及んでいた。『南部直房公御家譜』によれば、泉山右馬之助政之の姉、すなわち泉山古康の娘の一人が、中里数馬(なかさと かずま)、後の南部(八戸)直房(なんぶ なおふさ)の最初の妻であったと記されている 16 。南部直房は南部利直の異母弟であり、後に八戸藩の初代藩主となる人物である 7 。
この事実は、泉山古康が盛岡藩主家と八戸藩主家の両方と直接的な姻戚関係を持っていたことを意味し、泉山氏が南部一族内で広範なネットワークを築いていたことを示唆している。これらの婚姻は、泉山氏自身の地位安定に寄与しただけでなく、南部氏全体の結束を強めるための政略的な意味合いも持っていた可能性がある。南部氏側から見ても、信頼できる家臣筋と複数の婚姻関係を結ぶことで、一族内の結束を強化する意図があったと考えられる。
泉山古康が生きた戦国時代末期から安土桃山時代にかけての東北地方、特に南部氏の領内は、内部の権力闘争と外部勢力との折衝が絶えない激動の時代であった。
南部氏第二十六代当主・南部信直の家督継承は、天正十年(1582年)、先代当主・南部晴政(なんぶ はるまさ)の子である晴継(はるつぐ)が若くして急死したことを受けて行われた。しかし、この家督継承は平穏無事には進まず、一族内の有力者であった九戸政実(くのへ まさざね)らとの間に深刻な対立を生んだ 3 。
信直は、重臣である北信愛(きた のぶちか)や八戸政栄(はちのへ まさよし)らの支持を得て、辛うじて家督を掌握したが、九戸氏をはじめとする反対勢力との緊張関係はその後も継続した 3 。このような不安定な情勢の中で、泉山古康は信直を支持する立場にあったと考えられる。特に、彼の娘である慈照院が信直の世継ぎとなる利直を産んだのは天正四年(1576年)であり、これは信直が家督を継承する以前のことである。この事実は、信直がまだ後継者としての地位が不安定な時期から、古康の娘を側室(あるいはそれに準ずる立場)として迎え、世継ぎを得ていたことを意味する。これは、古康が早い段階から信直と緊密な関係にあり、信直の有力な支持者の一人であった可能性を強く示唆する。信直にとって、自らの血を引く子を産んだ女性の父である古康は、信頼に足る身内として重用されたであろうことは想像に難くない。信直の家督継承後、その信頼関係はより強固なものとなり、古康の政治的地位向上に繋がったと推測される。
天正十九年(1591年)、南部氏内部の長年にわたる対立はついに爆発し、九戸政実が南部信直及び中央の豊臣政権に対して大規模な反乱を起こした。これが「九戸政実の乱」である 9 。この乱は、豊臣秀吉による全国統一事業の最終段階における奥州仕置に対する地方勢力の反発という側面も持っていた。
この戦乱の際、泉山古康の旧領であった泉山村は、九戸勢によって焼き討ちに遭い、全村が焼失するという悲劇に見舞われた 14 。ただし、泉山古康自身は、史料によれば天正十八年(1590年)に没しているため 1 、この乱の勃発と泉山村の焼失を直接経験してはいない。しかし、彼の遺族や泉山村の住民にとっては、この出来事が壊滅的な被害をもたらしたことは想像に難くない。乱の後、豊臣政権の支配下で住民が帰村し、集落が再建されたという記録があることは 14 、同地が依然として重要視されていたことを示している。
九戸政実の乱は、豊臣秀吉が派遣した蒲生氏郷(がもう うじさと)や浅野長政(あさの ながまさ)らを主力とする奥州再仕置軍と、南部信直の連合軍によって鎮圧され、九戸氏は滅亡した 9 。この乱の鎮圧は、南部信直の領内支配を決定的なものとし、南部氏が戦国大名から近世大名へと移行する上での大きな画期となった。泉山古康の孫にあたる南部利直が、後に初代盛岡藩主として藩政の基礎を固めていくことになるが、その背景には、この九戸政実の乱という大きな試練を乗り越えた経験があったのである。
泉山古康に関する情報は、主に江戸時代に編纂された南部藩関連の系図集や家伝に散見される。これらの史料を比較検討することで、彼の人物像やおかれた状況について一定の考察が可能となる。
泉山古康に関する記述が見られる主要な史料としては、以下のようなものが挙げられる。
これらの史料は、主に江戸時代に編纂されたものであり、それぞれの編纂目的や依拠した原史料によって、記述の細部に異同が見られることがある。例えば、泉山古康の呼称(古康、出雲、政弘など)や、娘・慈照院の南部信直における位置づけ(後室、御妾など)に揺れが見られるのはそのためである。したがって、これらの情報を利用する際には、史料批判の視点を持ち、複数の史料を比較検討し、より確からしい情報を抽出する努力が求められる。また、泉山古康自身の具体的な政治活動や人物像に関する直接的な記述は乏しく、主に系譜や姻戚関係を通じてその存在が確認されるに留まる。これは、当時の記録が当主中心に記述される傾向があったことの反映とも言えるだろう。
泉山古康の生没年については、 1 に「泉山古康(1536-1590)」という記載がある。この年代は、他の関連人物の生没年や歴史的出来事との整合性から見ても、大きな矛盾は少ないと考えられる。仮にこの生没年を採用すると、古康は40歳の時に孫にあたる南部利直が誕生し、54歳で没したことになる。
南部信直が家督を継承したのが天正十年(1582年)であり、この時、古康は46歳であった。ここから彼が没する天正十八年(1590年)までの約8年間が、信直政権下で彼が最も活発に活動し、影響力を行使した時期であったと推測される。信直が家督継承を巡る混乱や九戸氏との対立など、最も困難な状況に直面していた時期に、成熟した年齢の義父として古康が側近にいたことは、信直にとって精神的にも実務的にも大きな助けとなったであろう。
古康が没した1590年は、豊臣秀吉による小田原征伐とそれに続く奥州仕置が行われ、日本の政治体制が大きく転換する年であった。古康もこれらの天下の動きを注視し、南部氏の対応に関与していた可能性が高い。彼の死の直後、翌天正十九年(1591年)には九戸政実の乱が勃発し、南部領内は再び大きな変動に見舞われた。このことを考えると、泉山古康の死は、南部氏にとって一つの時代の区切りであったとも言えるかもしれない。その後の南部氏が近世大名として確固たる地位を築いていく道は、彼の孫である南部利直の世代に託されることになったのである。
泉山古康に関する現存史料は断片的であり、その人物像や具体的な活動については未だ不明な点が多い。今後の研究によって解明が期待される課題としては、以下のような点が挙げられる。
これらの点を解明するためには、南部藩(盛岡藩・八戸藩)関連の未調査史料、例えば日記、書状、分限帳、あるいは寺社に残る記録などのさらなる発掘と丹念な分析が不可欠である。また、九戸氏側の記録や、中央政権の史料における南部氏関連の記述など、周辺史料を広範に調査することで、泉山古康に関する新たな側面が明らかになる可能性も残されている。
さらに、泉山古康の旧領とされる三戸町や、実家である石亀氏の本拠地であった田子町といった地域の郷土史研究との連携も有効であろう。地元の伝承、地誌、あるいは考古学的な発見などが、文献史料を補完する貴重な情報を提供する可能性がある 14 。これらの史料は直接的に泉山古康本人について言及するものではない場合もあるが、彼が活動した地域の歴史的背景を理解する上で参考となる。
泉山古康は、戦国時代末期から安土桃山時代にかけて、陸奥国北部に勢力を有した南部氏の家臣として生きた武将である。彼の名は、南部信直の義父として、そして後の盛岡藩初代藩主・南部利直の外祖父として、南部氏の血統と政治に少なからぬ影響を与えたという点で、歴史に記憶されている。彼の存在なくして、その後の盛岡藩南部氏の隆盛を語ることは難しいであろう。
泉山古康の生涯は、出自である石亀氏という南部氏の一門としての背景を持ちつつ、叔父・泉山康朝の養子となって泉山姓を名乗り、自らの家を興した点に特徴がある。そして何よりも、娘・慈照院が主君・南部信直の後室となり、世継ぎである利直を産んだことにより、彼の家は南部宗家と極めて強固な姻戚関係を結ぶに至った。この関係は、信直が家督を巡る争いや九戸政実の乱といった困難を乗り越え、南部氏の領国支配を確立していく過程において、古康自身の政治的地位を高め、また信直にとっても信頼できる身内としての支えとなったと考えられる。
彼の具体的な政治的手腕や詳細な人物像については、現存する史料の制約から不明な点が多い。しかし、主家との姻戚関係を巧みに利用し、あるいはそれによって引き立てられ、激動の時代を生き抜こうとした姿は、当時の地方武士の生存戦略の一典型として捉えることができる。
本報告書は、提供された資料群に基づき、泉山古康という一人の武将の輪郭を可能な限り明らかにし、その歴史的意義を考察しようと試みたものである。今後、さらなる史料の発見や研究の進展により、泉山古康とその時代に関する理解が一層深まることが期待される。
参考文献
(本報告書の作成にあたり参照した主要な情報源は、本文中に角括弧で示した識別子によって示されている。)