最終更新日 2025-07-12

法華津前延

伊予の海将、法華津前延 ― 激動の戦国を駆け抜けた水軍領主の実像

序章:宇和の海に生きた武将、法華津前延

伊予国(現在の愛媛県)宇和郡を拠点とした戦国武将、法華津前延(ほけつ さきのぶ)。彼は、伊予の戦国大名・西園寺氏に仕える「西園寺十五将」の一人に数えられながら、豊後水道を挟んで九州の大友氏と激闘を繰り広げ、四国統一を目指す土佐の長宗我部氏の猛攻を退けるなど、目覚ましい武功を挙げた人物として知られている。しかし、その生涯は断片的な伝承や記録の中に埋もれており、その実像は必ずしも明確ではない。

本報告書は、法華津前延という一地方領主の生涯を、彼を取り巻く伊予・南海道の地政学的な情勢、主家や敵対勢力との関係、そして天下統一という時代の奔流といった多角的な視点から深く掘り下げ、その実像を再構築することを目的とする。特に、彼の生没年、名前の表記(秋延、範延との関係)、そして最期の様子に至るまで、史料や伝承によって錯綜する情報を比較検討し、その背景にある歴史的文脈を解き明かしていく。彼の生涯は、戦国末期における一地方領主(国人)が、いかにして激動の時代を生き抜き、そして中央集権化の波に呑まれていったかを象徴する、極めて示唆に富んだ事例である。

報告の冒頭として、まず法華津前延に関する基本情報の錯綜ぶりを以下の表に整理し、本報告書が取り組むべき論点を明確にしたい。

表1:法華津前延の基本情報に関する諸説比較

項目

典拠1

典拠2

典拠3

典拠4

典拠

1

3

4

5

生没年

1519年~1588年

1521年~1593年

生没年不詳

~1587年10月下旬

別名・通称

弥八郎、清家三郎秋延

彌八郎、右衛門佐

秋延

父とされる人物

播磨守範延

最期

不明

不明

不明

筑紫へ向かう途中で遭難死

この情報の錯綜は、法華津氏が中央の歴史記録に頻繁に登場する大名ではなかったため、記録が地方の伝承や家譜に大きく依存していることに起因する。特に、父とされる「範延」の活躍と、子である「前延(秋延)」の時代の出来事が、後世の記録において混同され、一人の人物の物語として集約されてしまった可能性が極めて高い。この情報の食い違いそのものが、中央政権の視点から離れた「地方の歴史」の特性を示しており、本報告書では、これらの情報を単純に正誤判断するのではなく、なぜそのような差異が生まれたのかという記録の成立過程まで踏み込んで考察を進めていく。

第一章:法華津氏の出自と勢力基盤

法華津前延の人物像を理解するためには、まず彼が率いた法華津一族の出自と、その勢力の源泉となった地政学的な背景を把握する必要がある。

一族のルーツとアイデンティティ

法華津氏の本姓は清原氏であり、清家(せいけ)氏を称した一族であった 4 。彼らが伊予国宇和郡法華津浦(現在の愛媛県宇和島市吉田町法花津)に本城を置いたことから、地名に由来して「法華津殿」と呼ばれるようになった 4 。前延自身が「清家三郎秋延」という通称でも呼ばれていることは 1 、彼らが「清家」という姓を本来のアイデンティティとしつつ、「法華津」という家名を公称としていた二重構造を示唆している。

本拠地・法華津浦の地政学的重要性

法華津氏の本拠地である法華津浦は、その地理的条件から、一族に独自の力を与える源泉となっていた。この地は、宇和海から豊後水道へと抜ける要衝に位置する天然の良港であり、天気の良い日には対岸の九州を望むことができた 7

この立地は、二つの重要な意味を持っていた。第一に、陸路では北の法花津峠を越えれば、主家である西園寺氏の本拠・黒瀬に通じており、法華津は西園寺氏にとって外界への玄関口、すなわち「外港」としての機能を果たしていた 7 。しかし第二に、より重要なのは、海を通じて外部世界と直接繋がっていたことである。豊後水道を介して九州の豊後国や土佐国の幡多郡と直接的な交易ルートを維持しており、これが法華津氏に独自の経済力と情報網をもたらした 7

この地理的条件が、法華津氏の特異な立場を形成した。彼らは陸の領主である西園寺氏に従属する家臣でありながら、海を通じて独自の収益源と外交チャンネルを持つ、半独立的な海洋領主でもあった。この独立性と従属性の二重構造こそが、後に大友氏や長宗我部氏といった外部の強大な勢力と渡り合う際の、彼らの力の源泉となったのである。

海の領主としての権勢 ― 法華津水軍と法華津七城

法華津氏は、その本拠地から宇和海一帯に浮かぶ戸島や日振島などの島嶼部までを知行し、強力な水軍、いわゆる海賊衆を組織していた 6 。その権勢を具体的に示すのが、天正4年(1576年)11月に法華津範延(前延の父か、あるいは前延自身の別名か)が、宇和海の海上勢力「日振衆中」に宛てて発した掟書である。この文書には、法華津の勢力圏を出入りする船の積荷の扱いについて相談することや、漂着物・漂流船を発見した際には速やかに法華津まで報告することが定められており、法華津氏が宇和海の海上交通と交易を統制する権限を有していたことを明確に示している 7

彼らの軍事的な拠点もまた、海を意識して構築されていた。法花津湾に突き出した標高約43.5メートルの独立丘陵に築かれた法華津本城は、三方を絶壁に囲まれた天然の要害であった 11 。さらに、この本城を核として、周辺の要所に新城、鍋蔵城、今城、高森城、福之森城、吉岡山城という6つの支城(砦)を配置し、「法華津七城」と呼ばれる一大防衛ネットワークを形成していた 11 。この堅固な城塞群に守られた彼らの所領は、四千四十余石に及んだと記録されている 11

西園寺十五将として

法華津前延は、伊予の戦国大名・西園寺公広に仕える代表的な武将を指す「西園寺十五将」の一人として名を連ねている 1 。西園寺氏は鎌倉時代以来、南予に勢力を張った名門であり、その支配体制は地域の土豪層を「十五将」という形で家臣団に組み込むことで成り立っていた 15

その中でも法華津氏は、本格的な水軍を運用できる唯一無二の存在であった可能性が高い 17 。他の将が内陸部の領主である中、海を支配する法華津氏の軍事力は、西園寺氏にとって対外的、特に海からの脅威に対する防波堤として不可欠であった。この特異性が、西園寺家中における法華津氏の価値と発言力を高めていたことは想像に難くない。

第二章:豊後の巨星・大友氏との死闘

16世紀中頃、九州北部に覇を唱えた豊後の大友宗麟がその勢力を伊予に伸ばし始めると、豊後水道を挟んで対岸に位置する法華津の地は、否応なく戦いの最前線となった。

大友氏による伊予侵攻と法華津氏の抵抗

大友氏にとって、西園寺氏が支配する宇和郡の併呑は長年の悲願であり、その攻略の鍵を握る第一の要害が法華津であった 5 。逆に西園寺氏から見れば、法華津は豊後の脅威から領国を守るための第一の防塞であり、その防衛は宇和郡全体の命運を左右するものであった。

大友氏による伊予侵攻は、天文年間から永禄年間(1532年~1570年)にかけて約40年間にわたり、80数回にも及んだと伝えられる 5 。特に大規模な侵攻として記録されているのが、永禄3年(1560年)と元亀元年(1570年)の戦いである。この時、法華津前延は大友氏の大軍を相手に水軍を率いて奮戦し、その侵攻を幾度も撃退したとされる 13 。また、父とされる清家播磨守範延は、同じく西園寺氏の重臣である土居氏と協力し、大友軍との数十回に及ぶ歴戦において常勝を誇ったとされ、その海戦における卓越した指揮能力は、伊予水軍史上に輝かしい名を残している 5

永禄九年(1566年)人質奪還劇の真相

永禄3年(1560年)の激しい攻防の後、法華津本城は陥落こそ免れたものの、主家である西園寺氏が大友氏の圧力に屈したため、法華津氏もまた一時的に大友氏の支配下に入り、人質を豊後に送ることを余儀なくされた 18 。これは、一国人領主の苦しい立場を示す出来事であった。

しかし、このまま屈辱に甘んじる法華津氏ではなかった。永禄9年(1566年)、当主の法華津範延は、大友宗麟が北九州へ出兵し、本国豊後が手薄になっているという千載一遇の好機を捉える。彼は自ら手勢を率いて豊後水道を渡り、敵の本拠地である豊後に乗り込むと、見事に人質を奪還して帰還するという、大胆不敵な作戦を成功させたのである 18

この逸話は、単なる武勇伝として片付けることはできない。この作戦の成功は、法華津氏が高度な能力を持つ組織であったことを物語っている。第一に、大友宗麟の出兵という、敵国の最高軍事機密とも言える情報を正確かつ迅速に入手する情報収集能力。第二に、敵地である豊後国内に、手引きをする協力者や内通者のネットワークを築いていた可能性。そして第三に、人質奪還後の困難な海上逃走を成功させる、卓越した航海術と水軍力。これら諜報、外交、軍事が一体となった高度な作戦遂行能力なくして、この奪還劇は成り立たなかったであろう。これは、法華津氏が単なる地方の武士団ではなく、豊後水道という海を舞台に暗躍する、洗練された海洋領主であったことの何よりの証明である。

錯綜する武功の帰属(範延か、前延か)

前述の通り、大友氏との一連の戦いにおける武功は、史料によって父・範延のものとされたり 5 、子・前延(秋延)のものとされたりしている 13 。この混同は、親子二代にわたる活躍が、後世に一つの英雄譚として集約された結果と考えられる。年代的に考察すると、大友氏との攻防が最も激しかった永禄年間(1558年~1570年)の活躍、特に人質奪還劇の主役は父・範延であった可能性が高い。そして、その後の天正年間(1573年~1592年)に台頭する長宗我部氏との戦いや、豊臣政権との交渉といった、時代の新たな局面に対応したのは、家督を継いだ息子の前延であったと考えるのが、最も合理的かつ自然な解釈であろう。

第三章:土佐の覇者・長宗我部氏の脅威

大友氏の脅威が一段落したのも束の間、伊予の国人たち、そして法華津氏の前に新たな強敵が現れる。土佐国を統一し、四国全土にその版図を広げようとする長宗我部元親である。

四国情勢の激変と法華津氏の立場

天正2年(1574年)、長宗我部元親は土佐の国司であった一条兼定を豊後に追放し、土佐を完全に平定した。この出来事は、法華津氏にとって対岸の火事ではなかった。法華津氏は、かつて土佐一条氏から、その領地である幡多郡内に「法華津分」と呼ばれる給地を与えられており、重要な経済的権益を有していたからである 7 。元親の土佐統一は、この権益を根底から覆すものであった。

そのため、法華津氏は当初、反長宗我部勢力として行動する。翌年、追放されていた一条兼定が、舅である大友宗麟の支援を受けて伊予に帰国し、旧領回復の兵を挙げると、法華津氏は津島氏や御荘氏といった南予の国人たちと共にこれを支援し、長宗我部氏と対峙した 10

天正八年(1580年)の戦功 ― 長宗我部軍司令官の討伐

長宗我部氏の伊予侵攻が本格化する中、法華津前延の武将としての真価が発揮される決定的な戦いが起こる。天正8年(1580年)、長宗我部軍が三間(みま)方面から宇和郡に侵攻してきた際、前延はこれを迎撃した。

同年3月18日付で前延が発したとされる書状には、この戦いの驚くべき戦果が記されている。法華津軍は、伊予侵攻作戦の総司令官であった久武親信(ひさたけ ちかのぶ)をはじめ、主だった者数百人を討ち取るという大勝利を収めたのである 10 。久武親信は元親が最も信頼を寄せる重臣の一人であり、その戦死は長宗我部軍にとって計り知れない打撃であった。この敗北により、長宗我部軍の指揮系統は混乱し、伊予侵攻計画は一時的な頓挫を余儀なくされた。

この勝利は、単なる一戦闘の勝利以上の戦略的価値を持っていた。当時、破竹の勢いで四国を席巻していた長宗我部軍の中核部隊を打ち破り、その総司令官を討ち取ったことは、法華津前延個人の武勇と、彼が率いる法華津水軍の戦闘力が極めて高かったことを証明している。一介の地方領主が、天下統一を視野に入れる大勢力の戦略に痛烈な一撃を加え、その進軍を食い止めた、特筆すべき戦果であった。

抗戦から従属へ

しかし、一時の勝利も、四国全土を覆う長宗我部氏の圧倒的な勢いを覆すには至らなかった。長宗我部元親は体勢を立て直し、伊予への圧力を強め続ける。ついに天正12年(1584年)、法華津氏の主家である西園寺公広が元親の猛攻の前に降伏する 19 。主家の降伏を受け、前延もまた長宗我部氏の支配下に入ることとなった 13 。西園寺氏から長宗我部氏へと主君を変えるというこの決断は、大勢力の前で生き残りを図る、戦国武将としての現実的な判断であった。

第四章:天下統一の奔流と法華津氏の没落

長宗我部氏への従属も長くは続かなかった。天正13年(1585年)、天下統一を目前にした羽柴秀吉が、10万を超える大軍を四国に送り込む「四国征伐」を開始したのである。この巨大な政治的・軍事的なうねりは、法華津氏の運命を決定的に変えることとなる。

豊臣秀吉の四国平定と法華津氏の去就

秀吉軍の圧倒的な力の前に、長宗我部元親は降伏。伊予国は、秀吉の重臣である小早川隆景の所領となった。この四国情勢の激変に対し、法華津前延は迅速かつ現実的な対応を見せる。彼は隆景の軍門に降り、その支配下に入った 13

小早川隆景は、法華津氏が持つ水軍力と、豊後水道の地理に通じている点を高く評価したと見られる。彼は前延に対し、本拠地である法華津本城への在城を安堵した 13 。さらに前延は、隆景の配下として九州平定にも従軍しており、豊臣政権下で新たな主君のもと、その武功を発揮する機会を得た 11 。この時点では、法華津氏は激動の時代を乗り越え、新たな秩序の中で生き残れるかに見えた。

新領主・戸田勝隆の恐怖政治

しかし、その希望は脆くも崩れ去る。天正15年(1587年)、九州平定の功により小早川隆景が筑前国(現在の福岡県)に転封となると、その後釜として伊予宇和郡7万石(一説に10万石)の領主として入部してきたのが、豊臣秀吉の直臣・戸田勝隆であった 20

勝隆は、秀吉の古参の家臣であり、勇猛で知られる一方、領国支配においては旧来の在地勢力を徹底的に排除し、中央集権的な支配を確立するという強硬な方針を採った 20 。彼の統治は、後に「戸田騒動」と呼ばれるほどの圧政であったと伝わっている 20

その苛烈さを象徴する事件が、法華津氏の旧主・西園寺公広の謀殺である。勝隆は、宇和郡における西園寺氏の旧臣たちの影響力を根絶するため、公広の存在を危険視した。彼は「秀吉公が本領を安堵される」という偽の朱印状を示して公広を居城から誘い出し、戸田邸においてだまし討ちにして殺害した 19 。これにより、鎌倉時代から続いた伊予の名門・西園寺氏は、大名として完全に滅亡したのである 19

法華津本城からの下城 ― 武力によらない終焉

西園寺公広の謀殺は、宇和郡の他の国人たちにとって、新領主・戸田勝隆の非情さと、豊臣政権の支配がもたらす現実を突きつけるものであった。勝隆は、旧勢力一掃政策の一環として、法華津前延に対しても、先祖代々の居城である法華津本城を明け渡すよう、厳命を下した 6

大友、長宗我部という強敵を相手に歴戦を重ねてきた勇将・前延であったが、この命令に武力で抵抗することはなかった。彼は静かに下城を受け入れ、これにより、約200年にわたって宇和の海に君臨した法華津氏の領主としての歴史は、一戦も交えることなく幕を閉じたのである 5

この前延の決断は、単なる諦めや臆病さによるものではない。それは、時代のルールが根本的に変わったことを彼が冷徹に認識した結果であった。彼の敵はもはや、同じ土俵で戦う戦国大名ではない。天下人・豊臣秀吉の絶対的な権威を背景に持つ、中央政権の代理人である。西園寺公広の悲劇は、武力による抵抗がいかに無意味で危険であるかを雄弁に物語っていた。かつては自らの武力と地域支配を基盤に存続できた「戦国の論理」は、もはや通用しない。朱印状一枚で領地が動く、新たな「近世の論理」の前に、歴戦の海将の力は無力化されたのである。前延の静かな下城は、一個人の没落であると同時に、戦国という時代の終焉を象徴する、悲劇的な一場面であった。

第五章:最後の法華津殿 ― その終焉と後世への遺産

城を明け渡した後の法華津前延の足取り、そしてその最期については、いくつかの説が伝えられており、彼の人生の終幕を巡る謎となっている。

前延の最期を巡る諸説の検討

彼の最期については、主に三つの説が存在する。

第一は「遭難死説」である。これは、天正15年(1587年)10月下旬、戸田勝隆による下城命令を受けた前延が、一族を率いて再起を図るべく、旧主である小早川隆景を頼って筑紫(九州)へ船で向かう途中、高山沖(場所の特定は困難)で嵐に遭い、船が難破して死亡したという説である 5 。この説は、戸田勝隆の入部と旧勢力一掃という具体的な歴史的背景と時期が一致しており、没落の経緯が最も具体的であることから、信憑性が高いと考えられる。

第二は「天正16年(1588年)没説」である。これは多くの二次資料で採用されている説であるが、具体的な死因や場所についての記述は見られない 1

第三は「九州への移住説」である。これは、戸田勝隆に下城を命じられた後、「九州に去った」とする記録に基づくもので 13 、必ずしも即死を意味するものではない。しかし、九州に渡った後の具体的な足取りは不明であり、歴史の表舞台から姿を消したことを示唆している。

これらの説を総合的に勘案すると、戸田勝隆による厳しい旧勢力弾圧という歴史的文脈と最も整合性が取れるのは、やはり「天正15年の筑紫行きにおける遭難死説」であろう。宇和の海に生き、海の覇者としてその名を轟かせた武将が、最後は海に呑まれてその生涯を終えるという結末は、皮肉であると同時に、彼の波乱に満ちた人生を象徴しているようにも思われる。

一族のその後と現代に繋がる血脈

当主・前延の悲劇的な最期の後も、法華津一族の血脈は途絶えなかった。一族の一部は、前延が目指した地である豊後国に無事にたどり着き、その地で家名を存続させたと伝えられている。現在でも大分県に法華津姓が多く見られるのは、この時の移住に由来すると考えられている 6

また、別の一族は伊予の地に残り、江戸時代には伊予吉田藩の馬術師範を務める家系も存在した 6

特筆すべきは、この戦国武将の血脈が、幾多の時代を経て現代にまで繋がっていることである。実業家であり、オリンピックの馬術競技に史上最高齢で出場した日本代表選手としても知られる法華津寛氏は、この伊予の海将・法華津氏の末裔である 6 。彼の父・孝太氏は外交官から実業家へ、祖父・孝治氏も実業界で名を馳せるなど、一族は近現代においても各界で活躍する人材を輩出している 4

史跡としての法華津本城

前延たちが拠点とした法華津本城の跡地は、宇和島市の指定史跡として現在にその名を留めている 11 。しかし、かつての城郭の多くはみかん畑へと姿を変えており、曲輪の跡などがわずかに確認できるのみで、往時の威容を偲ぶことは難しい状況にある 17

さらに、2018年の西日本豪雨災害によって登城路が失われ、その後の防災擁壁工事によって城跡の景観が大きく変貌してしまったとの報告もあり 11 、歴史的遺産を後世に保存していくことの難しさを示す一例ともなっている。

結論:法華津前延が現代に問いかけるもの

伊予の海将、法華津前延。その生涯を詳細に追うことで、戦国末期を生きた一地方領主の実像が浮かび上がってくる。

第一に、彼は主家への従属と海洋領主としての独立性の間で巧みに立ち回り、海を基盤とした独自の勢力を築いた、戦国時代の典型的な国人の姿を体現していた。その力は、単なる陸地の支配に留まらず、情報、交易、そして水軍力という、海がもたらす多様な要素によって支えられていた。

第二に、彼は単なる地方の土豪ではなかった。九州の巨星・大友氏の猛攻を数十年にわたり凌ぎきり、当時破竹の勢いであった長宗我部氏の戦略を一時的に頓挫させるほどの戦功を挙げた、有能な武将であり、優れた戦略家であった。人質奪還劇に見られるような、諜報と軍事を組み合わせた高度な作戦遂行能力は、彼の非凡さを示している。

しかし、第三に、彼の物語は歴史の非情さを我々に突きつける。彼が長年培ってきた能力も、経験も、そして武力も、豊臣秀吉による天下統一という巨大な政治的うねりの前には及ばなかった。彼の没落は、個人の力量を超えた時代の転換、すなわち、地域に根差した武力が支配の根拠であった「戦国」の論理が、中央の権威が全てを決定する「近世」の論理に取って代わられた瞬間を象徴している。

法華津前延の生き様と死に様は、華々しい天下人たちの物語の陰で、時代の変革に翻弄され、そして消えていった無数の地方領主たちの声なき声を代弁している。彼の生涯を辿ることは、地方の視点から戦国時代の終わりを見つめ直し、歴史の多層性と複雑さを理解するための、貴重な歴史の証言なのである。

引用文献

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  2. 法華津前延 (ほけづ さきのぶ) | げむおた街道をゆく https://ameblo.jp/tetu522/entry-12036793572.html
  3. 法華津前延 - 信長の野望新生 戦記 https://shinsei.eich516.com/?page_id=1629
  4. ほ - データベース『えひめの記憶』|生涯学習情報提供システム https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/57/view/7522
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