最終更新日 2025-08-03

波々伯部光政

丹波の国人領主・波々伯部光政は、波多野氏の重臣として淀山城を築き、八上城の東方防衛を担った。光政の死後、後継者光吉は明智光秀の丹波攻めで武士の身分を失うが、豪農として一族を存続させた。
波々伯部光政

戦国期丹波の国人領主・波々伯部光政に関する総合的考察

序論:戦国期丹波の動乱と国人領主・波々伯部光政

本報告書は、戦国時代に丹波国多紀郡(現在の兵庫県丹波篠山市)を拠点とした国人領主、波々伯部光政(ははかべ・みつまさ、ほうかべ・みつまさ)の生涯と、彼が率いた波々伯部一族の興亡について、現存する史料に基づき多角的かつ徹底的に解明することを目的とする。波々伯部光政は、生没年が1504年から1556年前後と推定される人物であり、一軍を率いるほどの強い影響力を持った国人衆の頭領として知られている。しかし、その具体的な活動を直接的に伝える一次史料は極めて乏しい。

この史料的制約を乗り越えるため、本報告書では、光政個人の動向のみを追うのではなく、より広範な視座からアプローチする。具体的には、第一に波々伯部一族の出自と丹波国における基盤形成の歴史的過程を遡り、第二に光政が臣従した戦国大名・波多野氏の興隆と戦略、第三に光政が築いたとされる淀山城をはじめとする城郭群の地政学的・軍事的意義を分析する。これらの周辺情報を丹念に組み合わせることによって、断片的な記録の背後にある光政の人物像と、彼が果たした歴史的役割を立体的に再構築する。

さらに、本報告書では一つの重要な論点を提示する。それは、ご依頼者様がご存知の波々伯部光政と、天正年間(1573年〜1592年)の明智光秀による丹波平定戦の際に史料に登場する「波々伯部光吉(みつよし)」とは、その活動年代に約20年の隔たりがあることから、別人である可能性が極めて高いという点である。両者を親子、あるいは近しい血縁関係にある別々の当主と捉えることで、一族の歴史をより正確に理解することが可能となる。すなわち、光政の時代を「波多野氏の重臣として一族の勢力を最大化した隆盛期」と位置づけ、光吉の時代を「織田信長の全国統一の波に呑まれ、武士としての地位を失う没落期」として明確に区分し、論を進める。この視座に立つことで、波々伯部氏の栄枯盛衰の物語は、戦国時代という巨大な社会変動の中で、在地領主がいかに生き、そしてそのあり方を変化させていったかを示す一つの典型例として、より深い歴史的意義を帯びることになるであろう。

以下の略年表は、本報告書で詳述する波々伯部氏の動向を、中央政局および丹波国全体の情勢と対比させながら概観するためのものである。

西暦(和暦)

中央政局の動向

丹波国の動向

波々伯部氏の動向

1491年(延徳3年)

細川政元が管領として権勢を振るう。

細川氏の支配下で比較的安定。

波々伯部元教が細川政元に近習として仕える 1

1507年(永正4年)

永正の錯乱 。細川政元が暗殺され、細川京兆家が内紛状態に陥る 2

守護の権威が失墜し、国人衆が自立化。波多野元清が高国方として台頭を開始 3

細川高国方に属し、波多野氏と共闘関係を築く 4

1526年(大永6年)

細川高国政権が内紛により動揺。

波多野元清の兄弟が謀殺され、高国と対立 3

波多野氏との連携を強化。

1536年頃(天文5年)

細川晴元が幕府の実権を掌握。

晴元が波多野秀忠を重用し、八上城を拠点とする波多野氏の勢力が確立 5

波多野氏の有力家臣としての地位を固める。

1550年代

三好長慶が畿内の覇権を握る。

波多野氏が三好氏と対抗 2

波々伯部光政 が波多野氏の重臣として活躍。八上城の東方防衛網として淀山城などを築く 2

1573年(天正元年)

織田信長が将軍・足利義昭を追放。

丹波国人衆の一部が信長から離反 7

光政の没後、後継者(光吉か)が家督を継承。

1575年(天正3年)

信長が明智光秀に丹波攻略を命じる(第一次丹波攻め) 2

波多野秀治は当初光秀に協力するが、後に離反し、赤井直正らと抗戦 8

主君・波多野氏に従い、織田氏と敵対。

1578年(天正6年)

光秀による第二次丹波攻めが本格化。八上城の包囲戦が始まる 11

波多野秀治が八上城に籠城し、徹底抗戦 11

波々伯部光吉 が一族を率いて八上城に籠城 2

1579年(天正7年)

6月、八上城が開城。波多野秀治・秀尚兄弟は安土で処刑され、波多野氏は滅亡 2

明智光秀による丹波平定が完了。

光吉は落城寸前に城を脱出 6 。武士の身分を捨て帰農する。

1664年(寛文4年)

篠山藩による支配体制が確立。

光吉の子孫が庄屋となる 2

1694年(元禄6年)

大庄屋となる 2

1731年(享保16年)

名字帯刀を許され、姓を「波部」と改める 2

第一章:波々伯部氏の淵源と丹波国における基盤形成

波々伯部光政が戦国時代に丹波国で確固たる地位を築くに至った背景には、数世紀にわたる一族の歴史的蓄積が存在した。本章では、その出自の伝承から、鎌倉・室町時代を通じて在地領主としての基盤をいかに形成していったかを詳述する。

第一節:一族の出自と在地領主化

波々伯部氏の出自については、清和源氏の棟梁・源義家の末裔を称する伝承が残されている。具体的には、義家の子である義房の子、義光が丹波国多紀郡に来住し、開発領主となったのが始まりとされる 13 。戦国期の武家が自らの家格と支配の正統性を高めるために、高貴な血筋を称することは一般的であり、この伝承もその一環であった可能性は否定できない。しかし、こうした自己認識は、一族が武士としての誇りを持ち、地域社会において特別な存在であると自負していたことを示している。

より確実な起源は、その名字が丹波国多紀郡波々伯部邑(現在の兵庫県丹波篠山市)という地名に由来することである 14 。元々この地は「ははかべ」と呼ばれ、後に「波々伯部」の漢字が当てられた。この地を支配した武士が、地名を名字としたのが波々伯部氏の起こりである。時代が下るにつれて地名の読みが「ほうかべ」へと変化し、それに伴い名字の読みも「ははかべ」と「ほうかべ」が併存するようになった 15

史料上で波々伯部氏の名が確実に確認できる初見は、鎌倉時代の承久3年(1221年)に発給された関東御教書(幕府の命令書)である。この文書には、地頭による不法な妨害を訴えた下司職(げししき)・波々伯部盛経(もりつね)の地位を幕府が安堵した旨が記されている 2 。この記録は、波々伯部氏が単なる武士ではなく、京都の祇園社(現在の八坂神社)の荘園であった「波々伯部保」の現地管理者(下司)という、公的な性格を帯びた領主であったことを明確に示している。波々伯部保は、承徳2年(1098年)に現地の有力農民(田堵)たちが所領を祇園社に寄進して成立した荘園であり 16 、波々伯部氏はその荘官として代々下司職を世襲し、在地における支配権を確立していったのである 2

この一族の成り立ちには、彼らの強さの源泉を解き明かす鍵が隠されている。それは、彼らの権威が「聖(宗教的権威)」と「俗(武家的権威)」の二重構造によって支えられていたという点である。一方では、京都祇園社という中央の有力寺社の荘官として、その神威を背景とした土地支配の正統性を持っていた。他方では、鎌倉幕府からその地位を公認される御家人として 2 、武家政権からの承認と軍事的な保護をも享受していた。この二つの権威は相互に補完し合う関係にあり、在地社会における彼らの支配を盤石なものにした。荘官としての地位は安定した経済基盤と支配の正当性を、武士としての働きは政治的・軍事的な実力を保証した。後年、波々伯部光政が国人衆の頭領として大きな影響力を行使できたのは、こうした数世紀にわたる複合的な権威の蓄積があったからに他ならない。

第二節:南北朝・室町時代の動乱と波々伯部氏

鎌倉幕府が倒れ、南北朝の動乱が始まると、波々伯部氏は時代の変化に巧みに対応し、武士としての地位をさらに高めていく。元弘3年(1333年)、後に室町幕府を開くことになる足利尊氏が、後醍醐天皇の倒幕運動に呼応して丹波篠村(現在の京都府亀岡市)の篠八幡宮で挙兵した際、一族の波々伯部為光(ためみつ)はいち早くその檄に応じて尊氏の陣に馳せ参じている 2 。この行動は、新たな武家政権の樹立に貢献したという功績となり、室町幕府体制下における一族の地位を確保する上で極めて重要な布石となった。

室町時代を通じて、丹波国の守護職は仁木氏、山名氏、そして応仁の乱後は細川氏へと目まぐるしく変遷した 2 。このような中央政局の変動の中にあっても、波々伯部氏は在地領主としての自立性を保ち続けた。時には守護の被官としてその指揮下に入り、また時には中央の権威と直接結びつくことで、巧みに勢力を維持・拡大した。その具体的な証左として、室町時代中期に管領として絶大な権力を誇った細川政元に、一族の波々伯部元教(もとのり)が近習として仕えていた記録が残っている 1 。元教は、延徳3年(1491年)には政元の越後下向に随行するなど、その側近として活動しており、これは波々伯部氏が単なる丹波の一国人にとどまらず、中央政界と直接的なパイプを持つ有力な一族であったことを示唆する重要な事例である。

第二章:群雄割拠の時代と波々伯部光政の台頭(1504年頃~1556年頃)

室町幕府の権威が失墜し、日本全土が実力主義の戦国乱世へと突入すると、丹波国もまた激しい権力闘争の舞台となった。この時代に波々伯部氏の当主として登場するのが波々伯部光政である。本章では、彼が中央政局の混乱を背景に台頭した地域覇者・波多野氏の重臣として、いかにして一族の最盛期を築き上げたかを明らかにする。

第一節:戦国前期、丹波国の権力構造の変化

光政が活躍した時代の幕開けは、丹波国に深刻な権力真空をもたらした一大事件によって特徴づけられる。永正4年(1507年)、室町幕府の管領であった細川政元が、養子の一人である細川澄之を擁する家臣らによって暗殺されたのである(永正の錯乱) 2 。政元には実子がおらず、三人の養子(澄之、澄元、高国)が後継を争ったため、細川京兆家は深刻な内紛状態に陥った 18 。これにより、丹波守護であった細川氏の権威は地に落ち、国内の統制力は完全に失われた。

この中央の混乱は、丹波の在地領主(国人衆)にとっては、旧来の支配から脱し、自立化を果たす絶好の機会となった。その中で頭角を現したのが、多紀郡の国人であった波多野元清である。彼は細川高国派の武将として、澄元派の勢力との戦いに身を投じた 3 。この戦いにおいて、波々伯部氏もまた高国方として波多野氏と共闘したことが記録されており、戦後、波多野氏を通じて幕府から感状(感謝状)を受けている 4 。この共闘経験が、波多野氏が多紀郡の覇者として台頭していく過程で、波々伯部氏がその有力な与力、そして家臣となっていく契機となったと考えられる。波多野氏は、この内乱に乗じて八上城を拠点に勢力を拡大し、丹波における戦国大名へと駆け上っていった 2

第二節:波多野氏の重臣としての波々伯部光政

16世紀半ば、細川氏に代わって畿内の覇者となった三好長慶の勢力が丹波にも及ぶようになると、丹波国内の緊張は一層高まった 6 。この時期、新たに丹波の支配者となった波多野氏は、三好氏の勢力拡大に抗する道を選んだ 2 。この激動の時代において、波々伯部光政は一貫して地域覇者である波多野氏に属し、その中核的家臣として活躍したことが複数の資料で確認できる 2

光政の最大の功績として特筆すべきは、彼が主君・波多野氏の本拠である八上城の防衛網を構築したことである。彼は、八上城の東方約4キロメートル、すなわち京方面からの侵攻ルートを直接扼する戦略的要衝に、一連の城郭群を築いた。その中心となったのが、自身の居城である淀山城(別名・波々伯部城)であり、さらにその周囲に東山城、南山城といった支城を配し、八上城の東口を守る一大防衛ラインを完成させたのである 2 。この事実は、光政が単なる一兵卒を率いる武将ではなく、波多野政権全体の軍事戦略の一翼を担うほどの深い信頼と、それを実行に移すだけの卓越した能力を兼ね備えていたことを雄弁に物語っている。

光政の生涯は、戦国時代の国人領主が自己変革を遂げる過渡期の典型例と言える。彼の祖先は、幕府や守護といった中央権力の「下司」や「被官」として、その権威に依存することで地位を保っていた 1 。しかし、光政が生きた時代は、応仁の乱と永正の錯乱を経て中央の権威が崩壊した時代であった 2 。この権力の空白期間に、光政は旧来の中央との繋がりではなく、地域で新たに台頭した波多野氏という「地域覇者」との軍事同盟を選択した。さらに、彼は単に臣従するだけではなく、城郭群を築いて波多野氏の防衛の要となることで、自らを同盟に不可欠な戦略的パートナーへと高めた。これは、国人領主が戦乱の世を生き抜くために、依存の対象を形骸化した「中央の権威」から実効性のある「地域の軍事力」へとシフトさせ、自らの軍事的・経済的価値を最大化することで自立性を確保しようとした、当時の生存戦略そのものであった。

第三節:国人領主・光政の経済的基盤

波々伯部光政が一軍を率い、複数の城を築城・維持できた背景には、それを支える安定した経済基盤の存在があったことは想像に難くない。戦国時代の丹波は、京や大坂といった大消費地に近接する立地を活かし、木材や酒、紙などの特産品を供給する重要な生産地であった 19 。光政は、自らの領内におけるこれらの生産活動や商業流通を掌握し、それを財源とすることで軍事力を維持・強化していたと考えられる。

ご依頼者様が指摘された「軍馬や鉄砲の売買」という点に関して、これを直接的に裏付ける史料は現時点では確認されていない。しかし、この推論には高い蓋然性がある。戦国時代後期において、新兵器である鉄砲や、伝統的な中核戦力である軍馬の調達と維持は、光政のような独立性の高い国人領主にとって、まさに死活問題であった。彼が支配した波々伯部地域は、丹波と京を結ぶ主要街道(京街道、現在の山陰道)の沿線に位置しており 4 、交通の要衝であった。この地理的優位性を活かし、堺や京都の武器商人と結びつき、自軍の兵站を維持するだけでなく、武器の売買に関与して利益を得ていた可能性は極めて高い。これは直接的な証拠がないための推論ではあるが、当時の有力国人領主の一般的な経済活動として位置づけることが可能であり、光政が軍事的才覚だけでなく、経済的・地政学的な感覚にも優れた領主であったことを示唆している。

第三章:織田権力の進出と波々伯部一族の没落(1575年~)

波々伯部光政が築いた一族の隆盛は、しかし、戦国時代の最終局面で登場した織田信長という巨大な統一権力の前で、大きな転換点を迎える。本章では、明智光秀による丹波侵攻から、光政の後継者とみられる光吉の時代を経て、一族が武士としての地位を失い、新たな生き残りの道を見出すまでの過程を追う。

第一節:明智光秀の丹波侵攻

天下統一を着々と進める織田信長にとって、京の背後に位置し、中国地方の毛利氏への通路ともなりうる丹波国の平定は、戦略的に避けては通れない喫緊の課題であった 9 。天正3年(1575年)、信長は最も信頼する家臣の一人である明智光秀を総大将に任命し、丹波攻略を命じた 2

当初、波々伯部氏の主君である波多野秀治を含む丹波の国人衆の多くは、光秀に協力的な姿勢を見せていた 8 。しかし、信長の支配が一時的なものではなく、自分たちの領地と支配権を根本から覆す恒久的なものであることを悟ると、状況は一変する。天正4年(1576年)正月、波多野秀治は突如として光秀を裏切り、かねてより信長と敵対していた「丹波の赤鬼」の異名を持つ赤井直正らと結んで、織田軍に対し徹底抗戦の道を選んだ 8 。この秀治の決断は、丹波の独立を守るための苦渋の選択であったが、結果として彼の家臣団、すなわち波々伯部一族の運命をも決定づけることになった。

第二節:八上城籠城戦と一族の当主「光吉」

主君・波多野秀治の離反を受け、明智光秀は丹波攻略の主目標を八上城の攻略に定めた。光秀は力攻めを避け、城の周囲に複数の付城(包囲用の城砦)を築いて兵糧の補給路を完全に遮断し、じっくりと城内の兵を疲弊させるという、徹底した兵糧攻めの作戦を展開した 2 。この八上城の戦いは、天正6年(1578年)から翌7年にかけて、約1年半にも及ぶ長期戦となった 11

この絶望的な籠城戦の最中、史料にその名が登場するのが「波々伯部光吉」である 2 。彼は、本報告書で光政の後継者(子息あるいは近親者)と推定する人物であり、波々伯部一族を率いて主君と共に八上城に籠もっていた。しかし、落城が目前に迫った段階で、光吉は一つの大きな決断を下す。妻の兄であった荒木山城守の説得を受け入れ、一族の血を絶やさぬため、城を脱出したのである 2

光吉の脱出後、天正7年(1579年)6月、ついに八上城は開城した。降伏した波多野秀治・秀尚兄弟は、信長の待つ安土へ送られ、慈恩寺の門前で磔刑に処せられた 2 。これにより、丹波に一時代を築いた戦国大名・波多野氏は滅亡し、その重臣であった波々伯部氏もまた、先祖代々の土地と武士としての地位を完全に失うこととなった 2

第三節:武士から豪農へ ― 一族のその後

武士としての道を断たれた波々伯部光吉であったが、彼の物語はここで終わりではなかった。城を脱した光吉は、彼を説得した荒木氏と共に八上近郊の地に移り住み、農業と酒造業を営んだと伝えられている 2 。そして、この事業で成功を収め、地域社会に新たな根を下ろした。これは、戦国領主としての「武力による支配」から、近世の村落社会を支える「経済力による指導」への、見事な転身であった。

江戸時代に入ると、光吉の子孫たちはその経済力を背景に、地域の指導者としての地位を確立していく。寛文4年(1664年)には村の長である庄屋に、元禄6年(1694年)には複数の村を束ねる大庄屋に任命された 2 。そして、享保16年(1731年)には、徳川幕府から武士に準ずる身分として名字帯刀を許され、その際に姓を波々伯部から、より簡潔な「波部(はべ)」へと改めたという 2 。現在、かつての居城であった淀山城址の主郭跡に、明治時代に子孫の手によって建てられた一族の顕彰碑が静かに佇んでいる 2 。これは、滅亡の淵から再生し、近世を通じて地域の有力者として存続し続けた、一族の歴史の連続性を力強く象徴している。

波々伯部氏の没落と再生の物語は、戦国時代の終焉が、敗者にとって単なる「滅亡」を意味するのではなく、在地社会全体の「構造転換」であったことを示している。通俗的な歴史観では、明智光秀に抵抗した波々伯部氏は「滅んだ」と一括りにされがちである 14 。しかし、史料を丹念に追うことで見えてくるのは、当主・光吉が生き延び、一族が経済的に成功し、近世社会において再び地域の支配層へと復帰したという、したたかな歴史である。光吉の「籠城を抜けて帰農する」という決断は、単なる敗北や逃亡ではない。それは、旧来の武士としての価値観やプライドを捨て、新たに到来した近世という社会秩序の中で一族が生き残るための、極めて合理的で先見性に富んだ「戦略的転換」であったと評価できる。波々伯部氏の歴史は、戦国から近世への移行期における、在地エリートの力強い生存戦略の実例として、非常に貴重な示唆を与えてくれる。

結論:波々伯部光政の歴史的評価と波々伯部氏の軌跡

本報告書で詳述してきた通り、波々伯部光政は、中央の権威が揺らぎ、地域勢力が乱立した戦国乱世の丹波国において、傑出した能力を発揮した国人領主であった。彼は、旧来の守護体制が崩壊する中で、地域で新たに台頭した戦国大名・波多野氏と緊密な連携関係を築き、その重臣として軍事的・戦略的に極めて重要な役割を担った。特に、主家の本拠・八上城を防衛するために築いた淀山城を中心とする支城網は、彼の戦略家としての非凡な才覚を示すものであった。光政が築き上げたこの軍事的・経済的基盤こそが、一族の隆盛を現出し、その後の織田氏による侵攻という激動の時代を、一族が完全に断絶することなく乗り越えるための礎となったのである。

波々伯部一族が辿った歴史の軌跡は、それ自体が日本の中世から近世への移行期における在地エリートの変遷を凝縮した、貴重なケーススタディである。彼らの物語は、鎌倉時代の荘官という宗教的権威を帯びた管理者として始まり、南北朝・室町時代の動乱を経て武士としての実力を蓄え、戦国時代には光政のもとで自立した国人領主として頂点を迎えた。そして、戦国時代の終焉と共に武士の身分を失いながらも、光吉の決断によって近世社会の豪農・地方役人として再生を遂げた。この数世紀にわたる歴史は、中央の巨大な権力構造の変化に翻弄されながらも、その時々の社会構造に巧みに適応し、したたかに命脈を保ち続けた在地勢力の、一つの力強い軌跡として高く評価されるべきである。

最後に、本研究の限界と今後の展望について触れておきたい。波々伯部光政個人の性格や思想といった、より内面的な人物像については、依然として史料的制約が大きい。今後の研究においては、これまで十分に参照されてこなかった『丹波篠山市史』などの地方史資料の再検討や、未発見の古文書の探索が待たれる。また、波々伯部氏と姻戚関係にあった荒木氏や、同じく波多野氏の重臣であった酒井氏など、周辺の国人衆の家々に伝わる古文書の中に、波々伯部氏との関係性を示す断片的な記述が残されている可能性もある。こうした地道な史料調査を通じて、波々伯部光政、そして彼が生きた時代の丹波国の姿が、より一層鮮明に解き明かされることが期待される。

引用文献

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  16. 波々伯部神社 <ひょうご歴史の道 ~江戸時代の旅と名所~> https://www.hyogo-c.ed.jp/~rekihaku-bo/historystation/trip/html/075/075.html
  17. 戦国の世と丹波 https://www.tanba-mori.or.jp/wp/wp-content/uploads/h25tnb.pdf
  18. 明智光秀以前の丹波の歴史「丹波衆」⑴ 〜管領細川家にとっては鬼門の地 - 保津川下り https://www.hozugawakudari.jp/blog/%E6%98%8E%E6%99%BA%E5%85%89%E7%A7%80%E4%BB%A5%E5%89%8D%E3%81%AE%E4%B8%B9%E6%B3%A2%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%80%8C%E4%B8%B9%E6%B3%A2%E8%A1%86%E3%80%8D%E3%80%80%E3%80%9C%E7%AE%A1%E9%A0%98%E7%B4%B0
  19. 第1章 丹波篠山市の概要 https://www.city.tambasasayama.lg.jp/material/files/group/36/03_1shou_.pdf
  20. 商工業の発達 - 世界の歴史まっぷ https://sekainorekisi.com/japanese_history/%E5%95%86%E5%B7%A5%E6%A5%AD%E3%81%AE%E7%99%BA%E9%81%94/
  21. 波多野秀治(はたの ひではる) 拙者の履歴書 Vol.116~丹波守りし孤高の城主 - note https://note.com/digitaljokers/n/nddb040d90011
  22. 黒井城の戦い - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BB%92%E4%BA%95%E5%9F%8E%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84