肥前国(現在の佐賀県・長崎県)の戦国武将、波多親(はた ちかし)。彼の名は、豊臣秀吉による天下統一事業の最終段階において、文禄の役での「臆病の挙動」を咎められ、一族代々の所領を没収された悲劇の人物として、歴史に刻まれている。一般的に流布する彼の人物像は、九州平定軍に降伏して所領を安堵されながらも、朝鮮出兵の際に軍令に背き、秀吉の逆鱗に触れて改易された、時勢を読む能力に欠けた地方豪族というものだろう 1 。
しかし、この紋切り型の評価は、波多親という人物と、彼が背負った歴史的背景の複雑さを見過ごしている。本報告書は、この簡略化されたイメージの奥深くに分け入り、一次史料と二次史料、さらには地域に根付く伝承を多角的に分析することで、波多親の実像に迫ることを目的とする。
彼が率いた波多氏は、単なる一国人に留まらない。平安時代末期から約450年にわたり、東松浦半島を拠点とする武士団「上松浦党」の棟梁として君臨し、強力な水軍を擁して大陸との交易にも深く関与した、独自の力を持つ海洋領主であった 1 。その経済力と軍事力は、肥前北部の政治情勢を左右するほどのものだったのである。
したがって、彼の没落を単なる個人的資質や一時の失策に帰することは、歴史の本質を見誤る危険性を孕む。本報告書では、波多親個人の生涯を追うだけでなく、彼をとりまく以下の三つの構造的要因を解明の鍵とする。第一に、一族内部に恒常的に存在した深刻な対立。第二に、龍造寺氏、有馬氏、島津氏といった周辺大名の狭間で揺れ動いた地政学的力学。そして第三に、豊臣秀吉による天下統一という、地方の論理を根底から覆す巨大な権力構造の出現である。
波多親の生涯は、戦国乱世の終焉期において、独立性を保ってきた地方豪族(国人)が、中央集権化の巨大な波に飲み込まれていく過程を象E徴する、極めて重要な事例である。本報告書は、彼がなぜ、そしていかにして滅びなければならなかったのかを徹底的に考察し、歴史の狭間に消えた一族の肖像を、可能な限り鮮明に描き出すことを目指すものである。
波多親の行動原理と、彼が迎えた運命を理解するためには、まず彼が継承した波多一族の歴史的背景、経済基盤、そして彼らが属した「松浦党」という武士団の特異な統治構造を把握することが不可欠である。一族が育んできた独立自尊の気風と海洋領主としての誇りは、後の豊臣政権との関係において、決定的な意味を持つことになった。
波多氏の源流は、平安時代後期に肥前国松浦郡に勢力を築いた武士団「松浦党」に遡る。松浦党は、嵯峨源氏の流れを汲む渡辺綱の子孫を称しており、通説ではその曾孫にあたる源久(みなもとのひさし)が、康和年間(1099年-1104年)頃に朝廷から宇野御厨の検校に任じられ、この地に下向したことをもって始まりとされる 1 。
源久には多くの子がおり、彼らが松浦郡各地に分かれて土着し、「松浦四十八党」とも呼ばれる多数の庶家を形成した 7 。波多氏は、この源久の次男・持(たもつ)が東松浦郡の波多郷(現在の佐賀県唐津市北波多一帯)を分与され、その地名を姓としたことに始まるとされる 1 。
波多氏の本拠地となったのが、標高320メートルの峻険な山に築かれた岸岳城(きしだけじょう)である 6 。別名「鬼子嶽城(きしがたけじょう)」とも呼ばれたこの山城は、眼下に広がる唐津湾、そして遠く玄界灘を一望できる戦略的要衝に位置していた 5 。この地理的優位性は、波多氏が海上交通の支配者として発展する上で、極めて重要な役割を果たした。城郭は、本丸、二の丸、三の丸が連なり、堀切や石垣を備えた、当時の松浦地方では比類のない規模を誇るものであった 6 。
松浦党は、その地理的条件から早くから海上での活動に活路を見出した。彼らは漁業や沿岸交易に従事する一方で、時には「倭寇」として大陸沿岸で活動し、その武名を轟かせた 5 。日宋貿易や日朝貿易が盛んになると、松浦地方はその中継地として、また独自の民間貿易の拠点として繁栄し、一族に莫大な富をもたらした 5 。
波多氏は、松浦党の中でも唐津湾周辺を支配する「上松浦党」の棟梁として、特に強大な勢力を築き上げた。その支配下には、相知(おうち)氏、呼子(よぶこ)氏、鶴田(つるた)氏、有浦(ありうら)氏といった多くの支族が組み込まれていた 5 。14代当主・波多泰(やすし)の時代(15世紀後半)には、対馬海峡の要衝である壱岐島に軍勢を送り込んで占領し、「壱岐守護」を自称するに至る 1 。この壱岐領有は、波多氏の権勢が頂点に達したことを示す象徴的な出来事であると同時に、海外貿易の利権を独占し、一族の経済基盤を盤石にするものであった。しかし、この栄華の象徴であった壱岐は、皮肉にも後の家督争いと勢力衰退の大きな火種となるのである。
波多氏を含む松浦党の統治構造は、戦国時代後期の他の大名とは異なる、顕著な特質を持っていた。その根幹をなすのは「惣領制」であるが、その運用は極めて分権的であった。一族の所領は分割相続が原則であり、分家した庶子家もまた独立した領主として幕府の御家人となることが多く、代を重ねるごとに勢力が細分化していく傾向にあった 16 。
このため、松浦党は強力な当主が全一族を中央集権的に支配する体制ではなく、むしろ独立した小領主たちが軍事行動などの際に「一揆」という形で契約を結び、連合して事に当たるという、一種の武士団連合体としての性格が強かった 18 。この盟約は、一族の団結を維持する上で重要な役割を果たしたが、裏を返せば、惣領の統制力には限界があり、各家の利害が対立すれば容易に分裂する危うさを常に内包していたのである 20 。
このように、波多氏が依拠する統治体制と、豊臣秀吉が目指す中央集権国家の原理は、本質的に相容れないものであった。諸大名の領地を検地によって確定し、軍役を厳格に定め、大名間の私闘を禁じる豊臣政権の支配システムは、松浦党のような緩やかな連合体としてのあり方を許容しなかった。特に、1588年(天正16年)に秀吉が発布した「海賊禁止令」は、海上での自由な活動を経済基盤としてきた海洋領主たちにとって、その存在意義を根底から揺るがすものであった 21 。波多氏の運命を考える上で、この政治システム間の構造的な対立は、個々の武将の思惑を超えた、時代の必然であったと言えよう。
波多親の生涯は、波乱に満ちた家督相続から始まった。この相続を巡る深刻な内紛は、一族の結束を著しく損ない、その弱体化を決定づけた。さらに、この内部対立は、肥前国の覇権を狙う周辺大名にとって、またとない介入の好機となった。親が当主として背負った権力基盤は、当初から極めて脆弱であり、彼のその後の苦難に満ちた治世を運命づけるものであった。
波多氏の勢力が頂点に達したのは、15代当主・波多興(おき)の時代であった 4 。しかし、その子である16代当主・波多盛(さこう)が、天文16年(1547年)頃に実子がないまま急死したことで、一族は未曾有の危機に直面する 1 。戦国の世において、当主の不在は一族の存亡に直結する。後継者を誰にするかを巡り、家中は二分され、深刻な対立が生じたのである。
この混乱の最中、強硬手段に打って出たのが、亡き盛の後室であった。彼女は島原の有力大名・有馬晴純の娘であり、自身の甥にあたる有馬義貞の三男・藤童丸(とうどうまる)を、独断で波多氏の後継者として岸岳城に迎え入れた 1 。これが、後の波多親である。弘治3年(1557年)のことと伝えられる 5 。
この養子縁組は、波多氏の血を引かない外部からの当主就任であり、譜代の重臣たちの猛烈な反発を招いた。特に、一族の有力者であった日高氏や鶴田氏は、この決定を断じて認めなかった 23 。対立はエスカレートし、反養子派の重鎮であった日高大和守資(たすく)が城内で毒殺されるという陰惨な事件まで発生する 23 。
ついに永禄7年(1564年)頃、日高氏を中心とする反主流派は実力行使に出、岸岳城を一時的に占拠する事態にまで発展した 23 。波多親は数年にわたる抗争の末、永禄12年(1569年)に岸岳城を奪還することに成功するが、その代償はあまりにも大きかった。この内紛の過程で、かつて波多氏の栄華の象徴であった壱岐の支配権は完全に失われ、対立した日高氏は平戸松浦氏の家臣となってしまった 4 。450年続いた上松浦党の棟梁・波多氏の権威は地に落ち、その勢力は大きく後退せざるを得なかった 4 。
この一連のお家騒動は、単なる内部対立に留まらなかった。それは、波多氏の弱体化を好機と見た周辺大名が介入する絶好の口実を与えた。親の当主としての正統性は常に疑われ、彼の権力基盤は極めて不安定なものであり続けた。彼の治世は、外部勢力からの庇護を求め続けなければ維持できない、苦難の道のりだったのである。
脆弱な権力基盤しか持たない波多親にとって、有力な後見役を得ることは死活問題であった。元服した彼は、当初、実家である有馬氏と関係の深い豊後の大友義鎮(宗麟)に接近し、その偏諱(一字)を賜って「鎮(しげし)」と名乗った 5 。これは、不安定な自身の立場を、九州随一の大大名の権威によって補強しようとする狙いがあったと考えられる。
しかし、大友氏の勢力に陰りが見え始め、代わって肥前国内で龍造寺隆信が急速に台頭すると、親は巧みに鞍替えを行う。彼は隆信に臣従し、その証として隆信の養女(実の妹ともされる)、於安(おやす)―後に「秀の前」と呼ばれる―を継室として迎えた 1 。この政略結婚により、彼は一時的に龍造寺氏という強力な庇護者を得て、領国の安定を図った。
だが、彼の苦境は続く。天正12年(1584年)、彼の義父である龍造寺隆信と、実家である有馬氏が沖田畷で激突した際、親は板挟みとなり、どちらにも味方せず日和見的な態度に終始した 28 。この戦いで隆信がまさかの戦死を遂げ、龍造寺氏の勢力が一気に後退すると、親は再び新たな庇護者を求めて動き出す。今度は、九州統一を目前にした薩摩の島津氏に接近し、その傘下に入ることで生き残りを図ったのである 1 。
このように、大友、龍造寺、島津と、時々の強者に次々と乗り換えていく彼の外交姿勢は、一見すると巧みな処世術のようにも見える。しかし、その実態は、強固な自立基盤を持たない国人領主の悲哀そのものであった。一貫性のないその場しのぎの外交は、周辺勢力からの信頼を失わせ、来るべき豊臣政権下において、彼の立場を決定的に危うくする要因となったのである。
豊臣秀吉による天下統一事業は、日本の政治地図を根底から塗り替えるものであり、波多親のような地方国人領主もその巨大な渦に否応なく巻き込まれていった。九州平定から文禄の役に至る過程で、親は一時の栄光と、それに続く決定的な転落を経験する。彼の運命は、秀吉という絶対的な中央権力者の前で、地方の論理がいかに無力であったかを冷徹に物語っている。
天正15年(1587年)、秀吉が20万を超える大軍を率いて九州征伐を開始すると、それまで島津氏に従属していた波多親は窮地に立たされた。彼は秀吉の陣に使者を送って恭順の意を示したものの、島津方についていた経緯から、征伐軍への出兵命令には応じなかった 4 。この態度は秀吉の強い不興を買い、改易(領地没収)の危機に瀕した。
この絶体絶命の窮地を救ったのが、龍造寺家の重臣・鍋島直茂であった。直茂は、九州の諸将を巧みにまとめ上げて秀吉に臣従させることで、自らの政治的地位を確立しようとしていた。彼は秀吉と親の間をとりなし、罪を許されるよう働きかけたのである 1 。秀吉も、目前に控えた朝鮮出兵において、水軍の運用に長けた波多氏の力を利用する価値を認めたためか、このとりなしを受け入れた。結果として、親は改易を免れ、上松浦郡8万石の所領を安堵された 4 。
この一件は、親が豊臣政権内で極めて不安定な立場に置かれていたこと、そして鍋島直茂に大きな政治的恩義を負ったことを示している。その後、天正16年(1588年)に上洛した親は、翌年、従五位下三河守に叙任され、豊臣の姓を下賜されるという破格の厚遇を受けた 4 。これにより、彼は名実ともに豊臣大名の一員となり、一時はその地位を確立したかに見えた。
束の間の栄光は、文禄元年(1592年)に始まった朝鮮出兵(文禄の役)によって、もろくも崩れ去る。親は2,000の兵を率いて渡海し、加藤清正が率いる二番隊に編入された 2 。しかし、ここでの彼の立場は、同じ二番隊に属する鍋島直茂の「与力」、すなわち格下の配下としての扱いであった 2 。
かつて龍造寺家臣として同格であった直茂の下に置かれたことは、上松浦党の棟梁としての誇りを持つ親にとって、耐え難い屈辱であったに違いない。このプライドが、彼の運命を決定づける行動へと駆り立てた。彼は渡海後、直茂の指揮に従おうとせず、軍議に反して勝手に布陣するなど、あたかも独立した大名であるかのように振る舞ったのである 1 。
このあからさまな反抗的態度は、軍の統制を著しく乱すものであった。業を煮やした鍋島直茂は、本国の秀吉に対し、「波多親に卑怯未練の振る舞いあり」と報告した 2 。これは、九州平定の際に親を救った恩人からの、いわば最後通牒であった。
さらに、親の不運は続く。「順天堂の戦い」では敵の重囲に陥り、多くの兵を失いながら奮戦したにもかかわらず、秀吉からは結果的に「卑怯であった」と非難された 4 。また、文禄2年(1593年)に日明間で講和交渉が始まり、一時停戦状態となった際、彼が前線から離れた釜山に近い熊川(ウンチョン)の港に留まり、戦闘に参加しなかったことが、決定的な軍令違反と見なされた 11 。熊川は日本軍の重要な兵站拠点の一つであり 34 、そこに留まること自体が即座に怠慢と断じられるわけではなかったが、秀吉の不興を買っていた親にとっては、全ての行動が否定的に解釈される状況にあった。
波多親の改易については、公式な理由である軍令違反以外にも、いくつかの説が伝えられている。その真相は、単一の理由に帰せられるものではなく、複数の要因が複合的に絡み合った結果と見るべきであろう。以下に主要な説を整理し、その信憑性を比較検討する。
説 |
主要な根拠史料・伝承 |
背景・反証・信憑性評価 |
結論的考察 |
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① 軍令違反説 |
鍋島家側の記録(『鍋島直茂譜』など)、朝鮮での陣中日記(例:是琢和尚『朝鮮日記』)、諸家の武功書 2 |
【背景】 鍋島直茂との確執や、熊川に留まったという行動は事実としてあった可能性が高い。これは改易の最も公的な、そして直接的な理由である。 【反証・評価】 しかし、他の大名にも命令違反や戦線離脱に近い行動は散見された中で、波多氏のみが所領全没収という極めて厳しい処分を受けた点には疑問が残る。この説だけでは、処分の苛烈さを十分に説明できない。信憑性は高いが、全容ではない。 |
親の行動が、秀吉にとって格好の「口実」を与えたことは間違いない。 |
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② 秀の前(妻)横恋慕説 |
『松浦拾風土記』などの近世の地誌、唐津地方の民間伝承 2 |
【背景】 秀吉が名護屋城滞在中、絶世の美女と評判だった親の妻・秀の前を所望したが、親がこれを拒んだため逆鱗に触れたという、非常にドラマチックな逸話。 【反証・評価】 この説は民衆に受け入れられやすく、広く流布したが、一次史料による裏付けに乏しい。また、当時、秀の前は40代後半であったとされ、その年齢から秀吉が横恋慕したとするには不自然であるとの指摘もある 4。後世の創作や、悲劇を彩るための脚色である可能性が極めて高い。 |
歴史的事実としての信憑性は低い。波多氏への同情から生まれた伝説と見なすべきである。 |
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③ 所領狙いの口実説 |
ルイス・フロイス『日本史』、寺沢広高への旧領下賜の事実 11 |
【背景】 イエズス会宣教師ルイス・フロイスは、同時代の記録『日本史』の中で、秀吉が以前から波多氏の領地を没収するための口実を探していたと記している 11 。 |
【反証・評価】 第三者による同時代的な記述であり、客観性は比較的高い。事実、波多氏の改易後、その旧領は秀吉の寵臣である寺沢広高にそっくり与えられている 41。波多領は、朝鮮出兵の本拠地・名護屋城を擁する戦略的要衝であり、また唐津焼という経済的価値の高い産物も生み出していた 40。秀吉がこの地を直轄に近い形で掌握しようとした動機は十分考えられる。 |
極めて信憑性が高い。秀吉の天下統一戦略の一環として、波多氏の排除は既定路線であった可能性を示唆する。 |
これらの説を総合的に考察すると、次のような構図が浮かび上がる。鍋島直茂の役割は、一見すると矛盾している。九州平定時には親を救い 1 、朝鮮出兵時には彼を破滅に追いやる報告をしている 2 。これは単なる心変わりではなく、戦国武将の冷徹な現実主義の現れである。前者では、波多氏を豊臣体制に組み込むことが肥前の安定に繋がり、直茂自身の利益にもなった。後者では、親の不服従は直茂自身の軍令指揮権への挑戦であり、放置すれば秀吉から自らの監督不行き届きを問われかねない危険な行為であった。親という「負債」を切り捨てることで、自らの立場と鍋島家の将来を守るという、計算された自己保身の行動だったのである。
最終的に、波多親の改易は、①の軍令違反が、③の所領奪取という秀吉の政治的・経済的野心を実現するための「格好の口実」として利用された、と結論付けるのが最も妥当であろう。親のプライドと時代の流れを読めない行動が、秀吉の仕掛けた罠に嵌る結果を招いたのである。②の逸話は、この冷徹な政治劇の裏で、滅ぼされた一族への民衆の同情が生み出した、悲劇的な彩りであったと言える。
文禄2年(1593年)、波多氏の改易は、単に一つの大名家が歴史から姿を消したというだけでは終わらなかった。450年近く続いた上松浦の支配者の突然の失脚は、当主である親とその一族、家臣団、そして地域社会全体に深刻かつ長期的な影響を及ぼした。その記憶は、怨念と祟りの物語として「岸岳末孫(きしだけばっそん)」という特異な伝承を形成し、今日に至るまで唐津地方の民俗世界に深く根を下ろしている。
文禄2年(1593年)2月、朝鮮からの帰途にあった波多親のもとに、豊臣秀吉からの改易命令が届けられた。彼は故郷である岸岳の地を海上から遠望するのみで、上陸することさえ許されなかった 4 。身柄はまず福岡の黒田長政に預けられ、その後、徳川家康預かりとなり、最終的には常陸国(現在の茨城県)筑波へと配流された 10 。
流人となった親のその後の人生は、記録も乏しく、判然としない。通説では、配流先の筑波で失意のうちに病死したとされているが、その正確な没年は不明である 10 。一説には、配流の翌年である文禄3年(1594年)に亡くなったとも言われる 2 。また、江戸時代に編纂された『野史』には、汚名を雪ぐために慶長の役で再び出陣し、海戦で戦死したという勇壮な話も載せられているが、これは後世の創作である可能性が高く、史実としての信憑性は低い 28 。
一方、妻の秀の前(於安、法名:妙安尼)は、夫の流罪に従い常陸へ赴いたとされる 2 。夫の死後、彼女は出家し、故郷である佐賀に戻った。そして寛永元年(1624年)に79歳でその生涯を閉じ、佐賀市の高傳寺に葬られた。彼女の墓は、龍造寺一門の墓とともに現在も同寺に残り、波乱の生涯を今に伝えている 2 。
波多氏の直系子孫については、確たる記録はほとんどない。『肥前町史』などには、親に薀(しげる)という男子がおり、後に大村氏の配下として島原の乱(1637年-1638年)に参陣し、抜群の功績を挙げたという伝承が記されている 4 。しかし、これはあくまで「真偽のほどは分からない」とされる余談であり、大村藩の公式な参戦記録 48 にその名を認めることはできず、伝説の域を出ない。
主君の突然の改易は、本拠地である岸岳城に残された家臣団と領民に計り知れない衝撃と混乱をもたらした。この時の悲劇を物語る伝説が、岸岳城址には数多く残されている。城の東端にある「姫落とし」と呼ばれる絶壁は、豊臣軍の攻撃を前に、城に籠もった婦女子たちがここから身を投げて殉じた場所だと伝えられている 10 。ただし、実際に岸岳城で攻城戦が行われたという史実はないため、これは波多氏滅亡の悲劇性を象徴する後世の創作であろう 10 。
より具体的な伝承として語り継がれているのが、波多氏代々の菩提寺であった瑞巌寺跡に残る「旗本百人腹切り場所」である 45 。主君の非業の最期と一族の行く末を嘆いた百名もの家臣たちが、新領主の寺沢氏への抵抗と秀吉への怨嗟の念を抱きながら、この地で集団自決を遂げたとされる。この地に散らばる無数の五輪塔群が、その壮絶な最期を物語るものとして、今なお畏怖の念をもって語られている。
波多氏という求心力を失った家臣団の多くは、武士としての道を絶たれ、帰農するか、あるいは主を失った牢人として各地へ四散していった 1 。一部の者はその武勇や才覚を惜しまれ、新領主の寺沢広高や他の大名家に仕官する道を選んだが、それはごく少数であった 45 。450年続いた共同体は、こうして完全に崩壊したのである。
波多氏の滅亡は、単なる歴史上の出来事として風化することはなかった。むしろ、非業の死を遂げた波多一族と家臣たちの怨霊が、この地に祟りをなすという「岸岳末孫」伝承として、唐津地方一帯の民俗世界に深く浸透していった 10 。
この伝承によれば、原因不明の急な病気や不慮の事故、あるいは説明のつかない災厄が起こると、人々はそれを「岸岳末孫様の祟り」と噂した 52 。特に、旧岸岳領内に点在する五輪塔や墓石を「キシダケバッソン」と呼び、これを動かしたり、土地を開発したりして粗末に扱うと、必ずや祟りがあると固く信じられ、畏怖の対象とされてきた 52 。
この現象は、日本の伝統的な信仰である「御霊(ごりょう)信仰」の典型的な一例として分析することができる 57 。御霊信仰とは、政治的闘争に敗れて非業の死を遂げた権力者や、冤罪によって死んだ人物の霊が、怨霊となって疫病や天災などの災いをもたらすと考え、その霊を神として祀り、鎮魂することで祟りを免れ、逆に守護神として崇敬する信仰である 58 。菅原道真や平将門の事例が有名であるが、「岸岳末孫」もまた、不当な権力によって滅ぼされた旧支配者の怨念が、地域社会に災いをもたらすという、御霊信仰の構造を色濃く反映している。
「岸岳末孫」伝承は、単なる超自然的な恐怖譚に留まらない。それは、被支配者層である民衆が、新たな支配者に対して用いた、一種の政治的・社会的抵抗の言説としての機能を持っていたと考えられる。
この伝承が特に強調されるようになったのは、江戸時代中期以降のことである。その背景として、明和8年(1771年)に唐津藩で発生した「虹の松原一揆」との関連が指摘されている 10 。この一揆は、藩による増税に反対した農民たちが、幕府の直轄地である虹の松原に集結して抵抗した事件である。この際、農民たちが藩の役人による田畑への立ち入り調査などを拒否するための口実として、「この土地は岸岳末孫様の聖地であり、足を踏み入れれば祟りがある」という伝承を戦略的に利用したのではないか、という説である 10 。
この構造は、江戸時代に各地で見られた「義民(ぎみん)伝承」と酷似している。例えば、下総佐倉藩の佐倉惣五郎伝説では、重税に苦しむ農民のために将軍へ直訴し、磔にされた名主・惣五郎が、後に怨霊となって藩主家に祟りをなし、結果として領民を救った英雄として神格化されていく 60 。これと同様に、「岸岳末孫」伝承もまた、豊臣秀吉とその後継者である寺沢氏という「悪しき新権力」によって不当に滅ぼされた旧領主・波多氏を、悲劇の英雄として記憶し神格化することで、現支配者への潜在的な抵抗の精神的支柱とする役割を果たしたのである。
つまり、「岸岳末孫」は、直接的な武力抵抗が不可能な状況下で、民衆が自らの土地や生活を防衛するために用いた、極めて巧妙な文化的・政治的抵抗の手段であったと言える。歴史的悲劇は、こうして生きた伝承となり、支配の論理に対する民衆のしたたかな対抗言説として、その生命を保ち続けたのである。
肥前国人・波多親の生涯と、彼が率いた一族の滅亡の軌跡を多角的に考察してきた。その結論として、彼は単に「臆病者」でもなければ、単純な「悲劇の英雄」でもない、時代の巨大な転換点に翻弄された、一人の地方領主の等身大の姿が浮かび上がってくる。
波多親は、中世以来の分権的な海洋領主の伝統と、豊臣秀吉が推し進めた近世的な中央集権国家の論理が激突する、まさにその断層の上に立たされた人物であった。彼が示した優柔不断とも見える一連の行動――有馬氏と龍造寺氏の間での揺動、島津氏への接近、そして鍋島直茂への反発――は、単なる個人の資質の問題というよりも、脆弱な権力基盤しか持たない国人領主が、独立自尊の気風と巨大勢力への従属という、相克する二つの価値観の狭間で生き残りをかけて行った、必死の選択の連続であったと再評価できる。彼の行動は、彼が背負った家督相続の内紛という「内なる弱さ」と、周辺大国の圧力という「外なる脅威」によって、常に行き詰まりを強いられていたのである。
最終的に、波多氏の滅亡は、親個人の失策のみに帰せられるべきではない。それは、豊臣秀吉の天下統一事業という、より大きな歴史の必然性の中で起きた、地方勢力淘汰の一環であった。秀吉にとって、波多氏が支配する名護屋の戦略的価値と、唐津焼の経済的価値は、独立した国人領主の手に委ねておくにはあまりにも大きすぎた。親の軍令違反は、この所領を没収し、寵臣・寺沢広高を送り込むための、まさに「格好の口実」に過ぎなかったのである。
波多親の物語は、勝者によって記される公式の歴史からは零れ落ちがちな、敗者の視点から、戦国時代の終焉と近世社会の幕開けという巨大な歴史のうねりを理解するための、極めて貴重なケーススタディを提供する。そして、その悲劇的な滅亡が「岸岳末孫」という怨霊伝承として地域社会に深く根付き、後世の民衆による為政者への抵抗のシンボルとして機能し続けたという事実は、歴史が単なる過去の出来事ではなく、人々の記憶と信仰の中で生き続ける力強い物語であることを、我々に示している。波多親と彼の一族は、歴史の表舞台からは消え去ったが、その記憶は、今なお肥前の地に、深く、そして静かに息づいているのである。