最終更新日 2025-07-09

波多野晴通

丹波の雄、波多野晴通(元秀)の生涯と時代 ―畿内動乱を生き抜いた執念の軌跡―

はじめに

戦国時代の日本列島は、群雄が割拠し、下剋上が常態化する動乱の時代であった。その中でも、京の都に隣接する丹波国は、畿内の政治情勢と密接に連動しながらも、独自の勢力が興亡を繰り返す複雑な歴史を辿った。この丹波国に勢力を誇ったのが波多野氏である。一族の歴史の中でも、畿内の覇者であった三好長慶、そしてその腹心である松永久秀という強大な勢力と激しく渡り合い、一度は城を追われながらも不屈の闘志で奪還を果たした当主、波多野晴通は、多くの謎に包まれた人物として知られる。本報告書は、この波多野晴通の生涯を、関連史料を徹底的に分析し、その実像に迫ることを目的とする。

本報告書で扱う「波多野晴通」という名は、室町幕府12代将軍・足利義晴から一字拝領(偏諱)したことに由来するとされるが、同時代の一次史料においてこの名乗りは確認されていない 1 。一方で、同時代の文書史料には「波多野元秀」という名が確かに見られる 1 。近年の研究では、これらが同一人物を指すという説が有力視されている。この名乗りの問題自体が、当時の地方武将と中央の室町幕府との関係性、そしてその権威の変遷を示す重要な手がかりとなる。本報告書では、この有力説に基づき、当該人物を「波多野晴通(元秀)」と併記し、その波乱に満ちた生涯を追う。

構成として、まず第一章で丹波波多野氏の出自と、戦国大名として台頭するまでの過程を概観する。続く第二章では、晴通(元秀)の家督相続から、畿内を席巻した三好氏との全面対決、そして本拠地・八上城の喪失という苦難の時代を詳述する。第三章では、好機を捉えて八上城を奪還する劇的な復活劇と、その後の最期までを描く。最後に第四章において、彼の人物像と歴史的評価を多角的に考察し、その存在が戦国史に刻んだ意味を明らかにする。

第一章:丹波波多野氏の出自と戦国大名への道

第一節:波多野氏の起源 ― 諸説の検討

丹波国に根を張った戦国大名・波多野氏の出自については、複数の説が存在し、いまだ定説を見ていない。古くから知られる説として、平安時代末期に相模国波多野荘(現在の神奈川県秦野市)を本領とした藤原秀郷流の波多野氏を祖とするものがある 3 。この相模波多野氏は、鎌倉幕府の御家人として活躍し、その一族が全国各地に所領を得たことから、丹波の一族もその流れを汲むとされてきた。また、因幡国八上郡(現在の鳥取県)の国人であった田公氏の一族が丹波に移り住んだことに始まるとする説も存在する 4

しかし、近年有力視されているのは、これらの説とは異なる出自を提示するものである。すなわち、石見国(現在の島根県西部)の国人・吉見氏の庶流であった吉見清秀という人物が、応仁の乱(1467年-1477年)に際して上洛し、当時管領として絶大な権勢を誇った細川勝元に仕え、主命により母方の姓である「波多野」を名乗ったとする説である 4 。この説は、波多野氏が丹波土着の勢力ではなく、中央の政争を機に丹波に入部した外来の勢力であったことを示唆している。この出自は、後の波多野氏が丹波の在地勢力と時に協調し、時に激しく対立しながら勢力を拡大していく過程を理解する上で、極めて重要な視点を提供する。

第二節:管領細川氏の被官としての台頭

いずれの説を取るにせよ、丹波波多野氏が歴史の表舞台に登場するのは、室町時代後期の応仁の乱以降である。初代とされる波多野清秀やその一族は、応仁の乱における戦功により、丹波守護であった主君・細川勝元から丹波国多紀郡に所領を与えられた 5 。これにより、彼らは丹波に確固たる拠点を築くことになった。

当初、彼らの地位は細川京兆家(管領家)の「小守護代」であったと記録されている 5 。守護代が守護の代理として一国を統治する役職であるのに対し、小守護代は郡単位など、より限定された地域の支配を委任された役職である。これは、波多野氏の権力が、当初は自立したものではなく、あくまで畿内の中央権力である細川氏の地方支配体制に組み込まれた一部であったことを明確に物語っている。彼らは細川氏の権威を背景に、多紀郡の支配に関与し始め、そこから徐々に自らの力を蓄えていくことになる。

第三節:父・秀忠の時代 ― 丹波における勢力基盤の確立

波多野氏が単なる細川氏の被官から、丹波に覇を唱える戦国大名へと飛躍する礎を築いたのが、晴通(元秀)の父とされる波多野秀忠の時代であった。秀忠は、卓越した政治力と軍事力をもって、丹波国内で急速にその勢力を拡大させた。特筆すべきは、当時丹波の守護代として大きな力を持っていた内藤氏を破り、事実上、丹波一国をその支配下に収めたことである 9

秀忠の権勢は、現存する古文書の数からも窺い知ることができる。歴代当主の中で、彼が発給した文書の数が最も多く、その宛先は丹波国内の広範囲に及んでいる 2 。これは、彼の影響力が多紀郡という一地域に留まらず、丹波全域に及んでいたことの動かぬ証拠である。彼は、主君である細川晴元との関係を強化し、時には「丹波守護」あるいは「守護代」と称されるほどの地位を確立した 2

さらに秀忠は、婚姻政策を巧みに利用して、畿内の有力者との連携を深めた。その最も重要な例が、当時、細川晴元政権下で頭角を現していた武将・三好長慶に自らの娘を嫁がせたことである 2 。この婚姻は、晴元方としての結束を固めるための政略結婚であったが、皮肉にもこの同盟関係が、後に晴通(元秀)の代における三好氏との深刻な対立、そして血で血を洗う抗争の直接的な伏線となるのである。

第二章:波多野晴通(元秀)の時代 ― 抗争と雌伏

第一節:家督相続と錯綜する系譜

波多野晴通(元秀)は、父・秀忠が築いた強固な基盤を引き継ぎ、天文17年(1548年)頃に家督を相続したとみられている 1 。しかし、丹波波多野氏の系譜は非常に複雑であり、史料によって記述が異なるなど、諸説が入り乱れているのが実情である 6

晴通(元秀)が秀忠の嫡男であるとする説が一般的であるが、それ以外にも、秀忠自身が柳本氏からの養子であり、晴通(元秀)は先代とされる元清(稙通か)の実子であったとする説も存在する 6 。この説によれば、晴通(元秀)の子である秀治が、秀忠の養子となって家督を継いだことになり、一族内の血縁関係はさらに複雑な様相を呈する。さらに、波多野氏最後の当主となる秀治が、丹波の家系ではなく、因幡波多野氏から元秀のもとへ養子に入ったとする説まであり 6 、その全容を解明することは極めて困難である。

この系譜の混乱は、単なる記録の不備として片付けるべきではない。むしろ、家の存続を第一義とする戦国時代の国人領主たちが、いかにして養子縁組や一族内での権力移動を駆使し、激動の時代を乗り切ろうとしていたかの実態を反映している。晴通(元秀)の出自や家督相続の正統性が、一族内で必ずしも盤石ではなかった可能性は、彼のその後の行動原理を考察する上で重要な視点となる。

初代

2代目

3代目

4代目

5代目(最終当主)

典拠史料/研究

通説A

清秀

元清 (稙通)

秀忠

元秀 (晴通)

秀治

6

説B(養子説)

清秀

元清 (稙通)

秀忠 (柳本氏から養子)

晴通 (元清の実子)

秀治 (晴通の子、秀忠の養子)

6

説C(秀治養子説)

(略)

(略)

秀忠

元秀

秀治 (因幡波多野氏から養子)

6

第二節:三好長慶との全面対決 ― 八上城攻防戦

晴通(元秀)が家督を継いだ時期、畿内の情勢は大きく動いていた。かつての主君であった管領・細川晴元は、天文18年(1549年)の江口の戦いで、かつての被官であった三好長慶に決定的な敗北を喫し、京都から追放された 1 。この下剋上により、三好長慶が畿内の新たな覇者として君臨することになる。多くの勢力が長慶になびく中、晴通(元秀)は旧主・晴元への義理を貫き、長慶への徹底抗戦の道を選んだ。

この決断の背景には、単なる主君への忠誠心だけではない、より根深い要因が存在した。三好長慶は、晴元から離反するにあたり、晴通(元秀)の姉妹(あるいは妹)であった妻と離縁し、敵対陣営である遊佐長教の娘を新たに正室として迎えていた 1 。この離縁は、単なる個人的な問題ではなく、波多野氏との同盟関係を一方的に破棄し、敵対を宣言する極めて政治的な行為であった。父・秀忠が築いた婚姻同盟の破綻は、波多野一族にとって許しがたい裏切りであり、この戦いを単なる勢力争いから、一族の名誉をかけた宿命的な対決へと変質させた。この個人的な遺恨が、後の波多野氏の粘り強い抵抗の精神的な源泉となったことは想像に難くない。

天文21年(1551年)以降、三好軍による波多野氏の本拠・八上城への攻撃が繰り返された 1 。当初、晴通(元秀)は巧みな防衛戦を展開する。三好軍に従って出陣してきた丹波の国人衆を内応させるなど、地の利と人脈を活かしてこれを撃退することに成功している 1 。しかし、三好長慶は、弟であり腹心でもある猛将・松永長頼(後の内藤宗勝)を丹波方面の司令官として派遣する 1 。長頼は、丹波守護代であった内藤氏の名跡を継いで内藤宗勝と名乗り、八木城を拠点として丹波の平定を本格化させた 11 。これにより、波多野氏への圧力は飛躍的に増大し、晴通(元秀)は次第に追い詰められていく。

第三節:八上城の陥落と流浪の日々

三好・松永軍による波状攻撃は、堅城・八上城の守りを少しずつ削っていった。弘治3年(1557年)から永禄2年(1559年)頃にかけて、度重なる攻防の末、ついに八上城は陥落し、三好方の手に落ちた 1 。城には松永久秀の甥とされる松永孫六が城主として入り、丹波における三好氏の支配は盤石になったかのように見えた 1

城を失った晴通(元秀)は、流浪の身となった。一説には毛利氏を頼ったとも言われるが 6 、その足跡は定かではない。しかし、彼は完全に勢力を失ったわけではなかった。この点に、戦国期の地方領主の強靭な権力構造が見て取れる。城という軍事拠点を失っても、領主の権威が即座に消滅するわけではない。晴通(元秀)の権力は、城壁や兵力だけでなく、何代にもわたって築き上げてきた地域の豪族や地侍たちとの個人的な主従関係、土地の安堵を通じた恩顧関係といった、目に見えないネットワークに深く根差していた。

その証拠に、落城後の永禄5年(1562年)の段階で、晴通(元秀)は多紀郡味間郷の味間氏に対して夫役(労働奉仕)を免除する旨の文書を発給している 1 。これは、彼が潜伏中でありながらも、旧領に対して依然として領主としての権限を行使し、在地勢力から変わらぬ忠誠を得ていたことを示している。この強固な在地支配のネットワークこそが、彼が雌伏の時を耐え、後の劇的な復活を成し遂げるための生命線となったのである。

第三章:執念の奪還と最期

第一節:好機の到来 ― 内藤宗勝の戦死と三好政権の動揺

雌伏の時を過ごす晴通(元秀)にとって、反撃の最大の好機は、敵方である三好政権の内部崩壊によってもたらされた。永禄7年(1564年)、三好三人衆との確執の末に三好長慶が死去すると、畿内の覇者であった三好氏の権勢に陰りが見え始める 6 。後を継いだ三好義継には長慶ほどの統率力はなく、松永久秀と三好三人衆の対立が激化し、政権は深刻な動揺に見舞われた。

そして、丹波の情勢を決定的に変える事件が起こる。永禄8年(1565年)8月、丹波における三好方の支配の支柱であった内藤宗勝(松永長頼)が、氷上郡を拠点とする「丹波の赤鬼」の異名を持つ猛将・赤井(荻野)直正との戦いで討死したのである(香良口の戦い) 1 。丹波方面軍の司令官を失ったことで、この地域の三好勢力は事実上瓦解した。

第二節:八上城奪還 ― 丹波における三好勢力の駆逐

内藤宗勝の戦死という千載一遇の好機を、晴通(元秀)は見逃さなかった。この出来事は、丹波の勢力図を一変させるものであった。丹波の国人領主たちは、波多野氏、赤井氏、そして三好方の内藤氏という「三強」が睨み合う、複雑なパワーバランスの中にあった 15 。彼らの運命は相互に固く結びついており、一者の敗北は、すなわち他者の好機を意味した。赤井氏が共通の敵である内藤氏を打ち破ったことは、結果として波多野氏にとって最大の追い風となったのである。

内藤宗勝の死の報を受けるや、晴通(元秀)は潜伏先から蜂起する。永禄9年(1566年)2月、彼は旧臣たちを率いて八上城を急襲し、城主であった松永孫六を追放、約7年ぶりに本拠地の奪還に成功した 1 。この電光石火の奪還劇は、晴通(元秀)の不屈の執念と、潜伏期間中も維持し続けた在地勢力との強固な繋がりが結実したものであった。同時に、赤井氏の勝利という外部要因を的確に利用し、自らの行動に繋げた彼の優れた戦略眼の現れでもあった。これにより、丹波における三好・松永勢力は一掃され、波多野氏は再び南丹波の覇者として返り咲いた。

第三節:その後の動向と死、そして息子・秀治への継承

劇的な復活を遂げた晴通(元秀)であったが、その後の治世は長くは続かなかった。彼が発給した文書で現存する最後のものは、永禄10年(1567年)4月付のものである 1 。史料によれば、元亀元年(1570年)までには彼が死去し、子の波多野秀治が家督を継いでいたことが確認されている 1 。苦難の末に奪還した城で、彼がどのような治世を行ったのか、その詳細は記録に残されていない。

しかし、晴通(元秀)の生涯は、次代の当主である秀治に計り知れない影響を与えたことは間違いない。一度は畿内の覇者に城を奪われながらも、長年の雌伏を経て、執念でこれを奪い返した父の姿は、波多野一族の誇りを再燃させ、中央の強大な権力にも決して屈しないという気風を植え付けた。

この「成功体験」は、後に秀治が、三好氏を遥かに凌ぐ天下人である織田信長に対して反旗を翻すという、重大な決断を下す際の精神的な背景になったと推察される。父が成し遂げた勝利の記憶が、秀治に「織田信長といえども、丹波の地の利と国人の結束があれば対抗できる」という過信を抱かせた可能性は否定できない。父の執念の勝利が、結果として子の代における一族の悲劇的な滅亡の遠因となったとすれば、それは戦国という時代の非情さを示す、一つの皮肉な物語と言えるだろう。

第四章:人物像の考察と歴史的評価

第一節:武将としての能力 ― 粘り強い抵抗と戦略性

波多野晴通(元秀)を武将として評価する際、第一に挙げられるのはその粘り強さと不屈の闘志である。彼は、当時畿内で向かうところ敵なしの勢いを誇った三好長慶とその精鋭軍団を相手に、10年近くにわたって抵抗を続けた。これは、八上城という天然の要害を巧みに活用した優れた防衛戦術の賜物であると同時に 13 、彼の類稀なる精神力の証左と言える。

さらに、彼の能力は単なる防衛戦に留まらない。落城後、流浪の身となりながらも勢力を完全に失うことなく、虎視眈々と再起の機会を窺い続けた。そして、内藤宗勝の戦死という好機が訪れるや、間髪入れずに蜂起し、電光石火の如く旧領を回復した手腕は、彼が単なる猪武者ではなく、大局を見据え、好機を的確に捉えることのできる戦略的な思考能力を持っていたことを示している。

第二節:領主としての側面 ― 領国経営と周辺勢力との関係

晴通(元秀)の治世は、その大半が三好氏との戦乱に明け暮れたため、領国経営における具体的な実績を詳述する史料は乏しい。しかし、断片的な記録からその領主としての一面を垣間見ることができる。特に注目すべきは、八上城を失い潜伏中であった時期にも、多紀郡内の在地領主に対して文書を発給し、領内の統制を試みていた点である 1 。これは、彼が逆境にあっても領主としての責任感を失わず、在地社会に深く根差した支配構造を維持しようと努めていたことを物語っている。

当時の丹波国は、多紀郡の波多野氏、氷上郡の赤井氏、そして船井郡を拠点とした内藤氏の「三強」が鼎立し、互いに勢力を競い合う複雑な地域であった 15 。晴通(元秀)は、これらの勢力との競合と協調の関係を巧みに利用しながら、自家の存続を図った。彼の生涯は、丹波という一国の中で繰り広げられた、ミクロな国際関係を体現していると言えよう。

また、長期にわたる抗戦を可能にした経済的基盤として、多紀郡を中心とする農業生産力 19 に加え、京都へと至る山陰道などの交通の要衝を支配することによる商業的利益が考えられる 20 。これらの経済力が、彼の不屈の戦いを背後から支えていたのである。

第三節:歴史的意義 ― 畿内大勢力に抗った地方領主の典型として

波多野晴通(元秀)の生涯は、戦国時代における地方の国人領主が、中央で台頭する巨大な権力といかに向き合い、生き残りを図ったかを示す典型的な事例である。彼は、細川氏、三好氏といった畿内の覇権を握る勢力の動向に翻弄されながらも、最後まで丹波の自立性を守るために戦い抜いた。

彼の物語は、単なる勝敗の結果だけでは測ることのできない、地方の独立性とアイデンティティを賭けた戦いの記録として、歴史的な価値を持つ。そして、彼の執念の抵抗と劇的な復活があったからこそ、息子の秀治の代まで波多野氏は丹波に一大勢力として存続し得たのである。その結果、後の明智光秀による丹波平定戦において、波多野氏は光秀を最も苦しめる手強い敵として、戦国史にその名を刻むことになった。晴通(元秀)の存在なくして、戦国後期の丹波の歴史、ひいては明智光秀の丹波平定の困難さを真に理解することはできない。

おわりに

波多野晴通(元秀)は、戦国時代中期の畿内における激しい権力闘争の渦中にあって、丹波という一国の独立性を守るために生涯をかけて戦い抜いた武将であった。その生涯は、敗北と長きにわたる雌伏、そして執念によって成し遂げられた劇的な復活劇に彩られている。彼は、中央の巨大な権力に屈することなく、地方領主としての誇りを最後まで貫き通した。

彼の不屈の闘争精神は、一族に大きな遺産を残した。しかし、その遺産は皮肉な結果をもたらす。父が成し遂げた「勝利の記憶」は、次代の当主・秀治が、織田信長という新たな天下人に対して徹底抗戦を挑む際の精神的な支柱となった。父の成功体験が、結果として一族を完全な滅亡へと導いたという視点は、戦国武将の運命の複雑さと非情さを考える上で、極めて示唆に富んでいる。

波多野晴通(元秀)は、織田信長や豊臣秀吉といった天下人の影に隠れ、全国史の表舞台に立つことは少ない人物かもしれない。しかし、彼の存在は、戦国期丹波の政治・軍事状況を規定し、明智光秀の経歴にさえ大きな影響を与えた。彼は、時代の奔流に最後まで抗い続けた、一人の地方領主の執念と誇りを象徴する人物として、歴史の中で正当に再評価されるべき存在である。

引用文献

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  4. 波多野氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%A2%E5%A4%9A%E9%87%8E%E6%B0%8F
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  6. 武家家伝_波多野氏 - harimaya.com http://www2.harimaya.com/sengoku/html/hatano_k.html
  7. 天空の戦国夢ロマン丹波篠山国衆の山城を訪ねて https://www.city.tambasasayama.lg.jp/material/files/group/75/sengokuransenomichi.pdf
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  9. 篠山市: 八上城 - 兵庫県:歴史・観光・見所 https://www.hyoutabi.com/sinoyama/hatisiro.html
  10. 波多野晴通 (はたの はるみち) | げむおた街道をゆく https://ameblo.jp/tetu522/entry-12031729515.html
  11. 丹波戦国史 第三章 ~三好家の衰退と荻野直正の台頭~ https://nihon.matsu.net/nf_folder/nf_Fukuchiyama/nf_tanbasengoku3.html
  12. 古城の歴史 福知山城 http://takayama.tonosama.jp/html/fukuchiyama.html
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