天文15年(1546年)に生を受け、寛永12年(1635年)に没するまで、津田秀政(つだ ひでまさ)は、戦国乱世の終焉と江戸幕府の確立という、日本史上最も激しい変革期を生き抜いた武将である 1 。幼名を愛増(あいます)、通称を小平次(こへいじ)と称したこの人物は、織田信長、織田信雄、豊臣秀吉、そして徳川家康という、時代を画した四人の支配者に仕え、その都度、自らの家を巧みに安泰へと導いた 1 。
彼の生涯は、華々しい武功や一人の主君への殉教的な忠節といった、従来の戦国武将像とは一線を画す。むしろ、激動の時代を生き抜くための知恵、時流を読む洞察力、そして何よりも「家」を存続させ、未来へと繋ぐという強い意志に貫かれている。本報告書は、この津田秀政という稀有な人物の九十年にわたる生涯を、出自、武功、主君遍歴、江戸幕府における地位、文化的側面、そして後世への影響という多角的な視点から詳細に解明し、彼が体現した「生存と繁栄の戦略」を明らかにすることを目的とする。
津田秀政の生涯を理解する上で、まず彼の出自に目を向ける必要がある。彼は、織田氏の庶流である津田氏の出身である 1 。津田姓は、織田氏の祖とされる平親真が近江国津田庄に住んだことに由来するという説もあるが 3 、戦国期においては、織田一門の者が本家と区別するために津田姓を名乗る例が散見される 4 。
秀政の家系が単なる「庶流」という言葉で片付けられないのは、その祖父が織田秀敏(おだ ひでとし)であったという事実である 5 。秀敏は、織田信長の祖父・信定の末弟にあたり、信長から見れば大叔父という極めて近い血縁者であった 6 。一門の長老として信長自身もその後見を任せた時期があったとされるほど、織田家中で重きをなした人物である 5 。この血縁は、秀政が織田家の中枢から見ても、信頼に足る近親者であったことを意味する。
この血統的背景が、彼のキャリアの初期段階で決定的な役割を果たした。天正2年(1574年)、秀政は信長の嫡男・織田信忠の命により、祖父・秀敏の跡を継ぐことが公式に認められた 1 。父・秀重を介し 1 、織田家の重要な血脈を受け継ぐ者として、彼の武将としての道は、極めて強固な基盤の上に始まったのである。
織田家中でその地位を確立した秀政は、次に織田四天王の一人に数えられる猛将・滝川一益(たきがわ かずます)の麾下に入る 1 。彼は一益の与力(よりき)、すなわち配下の独立した将として、その軍団の中核を担うことになった。この関係は、単なる主従関係にとどまらなかった。秀政は一益の養女を妻として迎えており、これにより両者は強固な姻戚関係で結ばれることとなった 1 。
この関係性は、秀政のキャリアを大きく飛躍させる。彼の岳父となった一益は、鉄砲戦術の大家として信長の信頼が厚く、伊勢平定や長篠の戦い、伊賀攻めなどで赫々たる武功を挙げていた 10 。天正10年(1582年)、織田・徳川連合軍による甲州征伐が行われると、秀政もこれに従軍 1 。武田氏滅亡後、一益がその功績により上野一国と信濃二郡を与えられ、「関東御取次」として関東方面軍の司令官に任命されると 10 、秀政の運命もまた、関東の地で大きく開花することになる。
一益は関東支配の拠点網を構築するにあたり、秀政を上野国・松井田城の城代に抜擢した 1 。これは、沼田城の滝川益重、小諸城の道家正栄らと共に、一益の支配体制を支える最前線の拠点を任されたことを意味する 12 。秀政はこの期待に応え、近隣の国衆である後閑氏が籠る後閑城を攻め落とすという具体的な武功も挙げている 1 。織田一門という血の保証と、軍団長との姻戚関係という二重の政治的資産を背景に、秀政は関東の地で武将としての栄光を掴みつつあった。
しかし、その栄光はあまりにも短期間で終わりを告げる。天正10年(1582年)6月2日、主君・織田信長が京都・本能寺で横死するという未曾有の事態が発生した。この報は関東にも届き、滝川一益を頂点とする織田家の支配体制は、その基盤から急速に揺らぎ始めた 1 。
信長の死を好機と見た関東の雄・北条氏直は、5万を超える大軍を率いて上野国へ侵攻。これに対し、一益が動員できた兵力は2万に満たなかった。同年6月18日から19日にかけて、両軍は神流川(かんながわ)で激突する 12 。秀政もまた、松井田城の兵を率いてこの決戦に臨んだ 1 。初戦こそ織田方が勝利したものの、圧倒的な兵力差に加え、味方であるはずの関東国衆の離反もあり、織田軍は大敗を喫した 12 。
敗戦後、一益はもはや関東の維持は不可能と判断。残った関東諸将を厩橋城に集めて別離の宴を開くと、上野・信濃の所領を放棄し、本拠地である伊勢への決死の撤退を開始する 1 。秀政も、滝川益重や道家正栄らと共にこの絶望的な撤退行に加わった 1 。敵中を突破し、辛うじて伊勢へと帰還したものの、松井田城主としての栄華はわずか数ヶ月で潰え去った。この岳父・一益と共に味わった栄光からの転落という壮絶な体験は、秀政に、一個人の武勇や一人の主君の威光だけでは家の安泰は保てないという、戦国乱世の厳しい現実を深く刻み込んだに違いない。
関東からの撤退後も、秀政の試練は続いた。岳父・滝川一益は、信長亡き後の織田家の主導権を巡る争いにおいて、天正11年(1583年)の賤ヶ岳の戦いで柴田勝家方に与した。しかし、柴田方が羽柴秀吉に敗北すると、一益もまた窮地に陥る。本拠の伊勢・長島城に籠城し、秀吉方の大軍を相手に粘り強い抵抗を見せたものの、ついに7月に降伏。所領を全て没収され、出家を余儀なくされた 1 。
主君であり岳父でもある一益の完全な失脚は、その娘婿であった秀政の運命にも直結した。彼は再び主と知行を失い、浪人の身となったのである 1 。これは、神流川の敗戦に続く、人生で二度目の大きな危機であった。
しかし、秀政はここで活路を見出す。彼は、一益の旧領であった北伊勢を併合した、信長の次男・織田信雄(おだ のぶかつ)に仕官したのである 1 。たとえ没落しようとも、まずは「織田家」の血筋に連なる人物に仕えるという選択は、彼の出自に対する意識の表れと見ることができる。この再仕官は成功し、秀政は信雄から伊勢国三重郡高角郷において800貫文の知行を与えられ、武将としての基盤を回復することに成功した 1 。
織田信雄の下で一時的な安定を得た秀政であったが、時代の奔流は彼に再び主君の乗り換えを強いる。天正18年(1590年)、小田原征伐後に信雄が領地問題で豊臣秀吉の怒りを買い、改易されるという事件が起こる。主君がまたしても権力闘争に敗れたのである。
この時、秀政は極めて現実的かつ的確な判断を下した。彼はもはや没落した織田家の一分家に固執することなく、天下人として日本の頂点に君臨していた豊臣秀吉に直接仕える道を選んだ 1 。この行動は、特定の主君への忠誠よりも、自らの「家」をいかに存続させるかという実利的な視点に基づいていた。感傷や旧恩に縛られることなく、常に最も確実な権力に接近することで家の存続を図るという、彼の処世術がここに確立されたと言える。
秀吉の直臣となった秀政は、馬廻(うままわり)という役職に就いた 1 。これは主君の身辺警護や伝令などを務める側近であり、秀吉から一定の信頼を得ていたことが窺える。その証左に、文禄元年(1592年)に朝鮮出兵に際して秀吉が本陣を置いた肥前名護屋城では、本丸の警備を担当する番衆の一員として秀政の名が記録されている 1 。彼は、時代の変化を的確に読み、流転の末に、ついに天下人の側近という地位を掴み取ったのである。
慶長3年(1598年)、天下人・豊臣秀吉が死去すると、日本の政治情勢は再び流動化する。この時、秀政は彼のキャリアにおける最も重要かつ的確な決断を下した。多くの豊臣恩顧の大名が去就に迷う中、彼は次なる天下の覇者として徳川家康を見定め、いち早くその麾下に加わったのである 1 。これは、豊臣政権が秀吉個人のカリスマに依存した脆弱なものであることを見抜き、組織と法度で天下を治めようとする家康こそが次代を担うと判断した、彼の卓越した政治的洞察力の表れであった。
慶長5年(1600年)、家康に従い会津の上杉景勝討伐に出陣 1 。その途上、下野国小山において石田三成挙兵の報に接した。この時の軍議(小山評定)で、秀政は家康の心を見抜き、一座の空気を変える重要な役割を果たしたと伝えられる(詳細は第四部で詳述)。
関ヶ原の戦い本戦において、秀政は東軍の一員として戦い、功を挙げたと記録されている 1 。具体的な部隊配置や戦闘内容は史料上明らかではないが、家康の本陣備などに属し、その防衛や連絡の任にあたった可能性が考えられる 15 。
この最後の賭けは、秀政に最大の成功をもたらした。戦後の論功行賞において、彼は新たに3,000石を加増され、それまでの知行と合わせて計4,010石余の大身旗本となったのである 1 。これにより、津田家は単なる武士の家から、江戸幕府の高級官僚層として確固たる地位を築き、泰平の世における安泰をその手中に収めた。
4,010石余の大身となった津田秀政の家は、江戸幕府の家格制度において「旗本寄合席(はたもとよりあいせき)」に列せられた 1 。これは、原則として3,000石以上で特定の役職に就いていない旗本が所属する最上位の家格であり、幕府内でも特に名誉ある地位であった 19 。
大身旗本としての地位を確立した後も、秀政の奉公は続いた。慶長19年(1614年)に勃発した大坂の陣にも、彼は徳川方として従軍している 1 。この時、秀政はすでに69歳という高齢であったが、徳川の天下を盤石にするための最後の戦いに臨んだ。家康旗本の一員として、本陣の防衛などに加わったと推測される 22 。
元和2年(1616年)、徳川家康の死を見届けたかのように、秀政は剃髪して出家し、興庵(こうあん)と号して京都に隠棲した 1 。以後は茶の湯などを楽しみながら穏やかな晩年を送り、寛永12年(1635年)、実に90歳という長寿を全うして大往生を遂げた 1 。彼の法名は長興院殿光岩道景大居士とされた 1 。この没年は、関ヶ原で西軍の総大将格でありながら八丈島で生き延びた宇喜多秀家(享年84)よりも後であり 26 、戦国乱世を駆け抜けた主要武将の中でも、際立って長命であった。
「旗本」というと、一般的には江戸城に勤務する官僚というイメージが強い。しかし、津田秀政のような数千石を知行する大身旗本は、それと同時に地方に広大な所領を持つ領主としての側面も有していた。
秀政の4,010石余の知行地は一箇所にまとまっていたわけではなく、美濃国(不破郡・大野郡・安八郡・羽栗郡・可児郡)と丹波国桑田郡に分散して存在した 27 。秀政自身は旗本として江戸に在住し、幕府への奉公を務めるため、これらの所領には代官を派遣して年貢の徴収や領民の統治を行う「遠隔地支配」という形態をとっていた 28 。
この地方領主としての津田家の実像は、現在に残る史跡から窺い知ることができる。
第一に、美濃国の所領を管轄するため、当初は安八郡白鳥村に、後には所領の多かった羽栗郡長池村(現・岐阜県羽島郡笠松町長池)に代官所が設けられた 28。この「津田代官屋敷跡」は、現在も長屋門と蔵が民家の敷地内に残されており、笠松町の文化財として大切に保存されている 29。
第二に、丹波国の所領を管理するため、亀山(現・京都府亀岡市)にも代官所が置かれていた。この代官を代々務めたのが日置(へき)家であり、その武家屋敷は近年まで料理旅館「へき亭」として利用され、多くの人々に親しまれていた(2023年末に閉店) 30。
これらの遺構は、津田秀政の権力が江戸城内の中央政界だけでなく、美濃や丹波の土地と人民に根差したものであったことを具体的に示している。彼の生涯を追うことは、江戸初期の幕藩体制下における「大身旗本」という身分の、中央官僚であり地方領主でもあるという二重の性格を理解する上で、絶好の事例と言えるだろう。
津田秀政が単なる武骨な武士ではなく、高い教養と豪胆さを兼ね備えた人物であったことを示す逸話が、名物茶入「安国寺肩衝(あんこくじかたつき)」を巡って残されている。
この逸話の舞台は、慶長5年(1600年)の下野国小山での軍議(小山評定)である。『寛政重修諸家譜』によれば、石田三成らの挙兵の報を受け、徳川家康は激怒し、その機嫌は極度に悪かった。諸将は家康の怒りを恐れて押し黙り、評定の場は重苦しい空気に包まれていた 34 。その時、秀政が進み出て、家康にこう述べたという。
「これから三成を平定なされば、おのずと(西軍の首脳である)安国寺恵瓊の所持する調度も没収されましょう。その中にある肩衝の茶入を一つ私に賜りましたら、それで茶会を催し、楽しむことに致しましょう」 34。
戦勝を前提とし、戦利品の分配を願い出るという、このあまりにも大胆不敵な発言に、家康はかえって「それはたやすい望みだ」と答えて機嫌を直し、一座の空気も和らいだとされる 34 。この一幕は、秀政が茶の湯という当時の最高級の文化に深く通じ、それを政治的な駆け引きの場で巧みに利用できる、類稀な人物であったことを物語っている。
関ヶ原の戦後、秀政は約束通り、家康から名物「安国寺肩衝」を拝領した 1 。この茶入は、元は「有明肩衝」と呼ばれ、豊臣秀吉や細川幽斎・忠興父子も所持したことがある名品であった 14 。
しかし、この茶入は後に意外な形で秀政の手を離れる。ある時、秀政が催した茶会に、短気で激情家として知られる細川忠興が招かれた 36 。忠興は、かつて自身が手放したこの茶入に再会し、所有欲が再燃。茶会の席中、主人の隙を見て茶入を懐に入れると、西行法師の和歌「年たけてまたこゆべしと思ひきや 命なりけり佐夜の中山」を書き残し、黙って持ち帰ってしまったという 34 。翌日、忠興は黄金二百枚と酒肴を秀政のもとに送り、事実上の買い取りという形で強引に譲渡の承諾を得たとされる 34 。
この一連の逸話は、秀政の文化人としての一面と、当時の武家社会の力学を鮮やかに描き出している。彼は文化を武器に家康に取り入り、家の地位を高めた。しかし、その文化の象徴たる茶入の所有権さえも、大大名の圧倒的な家格と権威の前では絶対ではなかった。これは、江戸初期の武家社会における、大身旗本と大大名との間の厳然たる力関係を示す、興味深い事例である。
津田秀政の人物像を語る上で、彼の信仰心と家族への深い想いを示すのが、京都・妙心寺の塔頭(たっちゅう)である長興院(ちょうこういん)の建立である。
そのきっかけは、慶長11年(1606年)に嗣養子であった津田正重が早世したことであった 1 。跡継ぎを失った悲しみの中、秀政は菩提寺の建立を決意する。彼が選んだのは、岳父・滝川一益がその子である九天宗瑞(きゅうてんそうずい)を開祖として創建した「暘谷庵(ようこくあん)」であった 1 。秀政はこの庵を再興し、寺号を「暘谷院(ようこくいん)」と改めて、津田家の菩提寺と定めたのである 1 。
さらに、秀政自身が寛永12年(1635年)に90歳で亡くなると、その法号「長興院殿光岩道景大居士」にちなみ、暘谷院は寺号を「長興院」へと改めた 1 。こうして、彼の名跡は寺院の名として後世に永く残されることとなった。
長興院はその後、織田信長の嫡男・信忠の菩提所として開創された「大雲院」などを併合し、現在に至っている 1 。この寺院は、織田家、滝川家、そして津田家という、秀政の生涯に深く関わった三つの家の縁が交差する場所として、彼の人生そのものを象徴する存在となっている。
津田秀政の生涯をかけた最大の事業が、個人の栄達ではなく「津田家」の永続にあったことは、彼の子孫繁栄の戦略に最も明確に表れている。秀政には実子がおらず、家の存続のために実に4人もの養子を迎えている 1 。
その養子縁組と、その後の家系の分流は、彼の周到なリスク管理戦略を物語っている。
養子名 |
実父 |
秀政との関係 |
妻 |
その後の家系 |
典拠 |
津田正重 |
富田高定 |
嗣養子 |
不明 |
早世し、家督は継げず |
1 |
津田正吉 |
不明 |
養子 |
不明 |
子・七左衛門が肥後熊本藩細川家に仕官 |
1 |
津田正方 |
川北道甫 |
養子 |
津田正重の娘 |
旗本津田家の家督を継承 |
1 |
津田素信 |
津田正重 |
養子(養孫) |
(出家) |
妙心寺長興院の第4世住職となる |
1 |
この表が示すように、秀政は単に跡継ぎを一人求めたわけではなかった。彼は、複数の養子を迎えることで、家の未来を多角的に設計したのである。
第一に、津田正方を正重の娘と結婚させ、旗本として4,010石余の家禄を継承させる本流を確保した 1。
第二に、津田正吉の子を、有力大名である細川家に仕官させることで、幕府に万一のことがあっても家名を存続させるための支流(保険)を設けた 1。この家系は熊本藩士として代々続き、幕末の分限帳にも複数の津田家の名が確認できる 4。
第三に、早世した嗣養子・正重の子(秀政にとっては養孫)である素信を出家させ、自らが再興した菩提寺・長興院を継がせることで、一族の精神的な支柱を確立した 1。
このように、秀政は幕府旗本という「公」、有力大名家臣という「武」、そして菩提寺という「仏」の三方面に家系を分散させ、いずれか一つの道が絶たれても、他の道で「津田家」が生き残れるよう、巧みにリスクを分散させていた。これは、戦国乱世を生き抜いた彼ならではの、見事なまでの生存戦略であった。
歴史上、津田秀政は、滝川一益や真田幸村のような、華々しい武功や劇的な逸話で語られるタイプの武将ではない。彼の生涯には、合戦の雌雄を決するような一騎当千の活躍は見られない。
しかし、彼の真骨頂はそこにはない。それは、織田から豊臣へ、そして豊臣から徳川へと、目まぐるしく移り変わる権力の中心を常に見極め、自らの家にとって最も有利な立ち位置を確保し続けた、卓越した先見性と政治的嗅覚にある。彼は、時代の変化という巨大な波を恐れるのではなく、その波を巧みに乗りこなすことで、自らの家を泰平の世における安泰な大身旗本へと導いた。
したがって、津田秀政は単なる一武将としてではなく、むしろ戦国乱世の終焉期にあって、新たな時代(江戸時代)における武家のあり方を体現し、一つの「家」を盤石なものとして創り上げた「創業者」として高く評価されるべき人物である。
津田秀政の九十年にわたる生涯は、戦国武将の典型的な物語とは一線を画す。それは、激動の時代を生き抜くための知恵、時流を読む洞察力、そして何よりも「家」を存続させ、未来へと繋ぐという強い意志に貫かれた、一つの見事な成功譚である。
織田一門という血筋を足掛かりに、時の実力者である滝川一益の与力として頭角を現し、その没落後は、織田信雄、豊臣秀吉、そして徳川家康へと、常に権力の中枢に身を寄せ続けた。彼の行動は、一見すると節操がないようにも映るが、その根底には、家の存続という武士階級にとっての至上命題があった。
彼は、茶の湯などの文化を政治的な武器として用いる洗練された教養人でありながら、複数の養子縁組によって家のリスクを分散させるという、極めて現実的な戦略家でもあった。戦乱の世にあって、武力だけでなく、血縁、姻戚、文化、政治力の全てを駆使し、いかにして家を繁栄させるかという、武士階級の普遍的なテーマを、津田秀政は見事に体現してみせた。彼は、戦国乱世が生んだ、生存と繁栄の体現者として、歴史にその名を刻んでいる。