最終更新日 2025-06-29

津田重久

戦国の強者・津田重久 ― 激動の時代を駆け抜けた渡り奉公人の実像

序章:乱世を渡り歩いた「強者」― 津田重久という存在

天文18年(1549年)に生を受け、寛永11年(1634年)に86歳の長寿を全うした津田重久(つだ しげひさ)は、戦国時代から江戸時代初期という日本の歴史上、最も激しい変革の時代を駆け抜けた武将である 1 。彼の生涯は、特定の主君に生涯を捧げるという後世の武士道徳とは一線を画し、自らの武勇と才覚を頼りに、より良い待遇と活躍の場を求めて主君を渡り歩く、いわゆる「渡り奉公人」の典型として語られる 3

「渡り奉公人」とは、能力主義と下剋上が常態であった戦国時代特有の生き方である。絶え間ない戦乱の中で、大名たちは一人でも優秀な人材を確保すべく鎬を削っており、戦場で武名を轟かせた者は、引く手あまたの存在となった 3 。彼らにとって主君との関係は、絶対的な忠誠というよりは、自らの能力を提供する代わりに知行や地位という報酬を得るという、双務的な契約に近い側面を持っていた 5 。津田重久は、まさにこの時代を象徴する人物であった。彼はその生涯において、三好氏、細川氏、足利将軍家、明智光秀、豊臣秀吉・秀次、そして加賀前田家と、当代一流の権力者の下を渡り歩き、そのいずれにおいても重用された 2

彼の経歴は、一見すると節操のない流転のようにも映るかもしれない。しかし、その足跡を丹念に追うとき、そこには単なる日和見主義では片付けられない、確固たる生存戦略と、自らの価値を最大限に高めようとする武士の矜持が見え隠れする。本報告書では、現存する史料を基に、彼の出自から各時代の具体的な戦歴、歴史の転換点における役割、そして「一騎当千の剛の者」と称されたその人物像を多角的に分析し、津田重久という一人の武将の実像に迫るものである 8

【表1:津田重久 略年譜】

津田重久の複雑な経歴を俯瞰するため、以下にその生涯の節目となる出来事を時系列で示す。

年代(西暦)

年齢

主君(所属勢力)

主な出来事・役職・戦功

天文18年(1549)

1歳

-

山城国伏見にて、細川家臣・津田高重の次男として誕生 2

永禄10年(1567)

19歳

三好氏

反足利義栄派との戦いで敵将・二階堂駿河守を討ち取る武功を挙げる 7

永禄12年(1569)

21歳

三好氏

六条合戦(本圀寺の変)に参加 7

元亀2年(1571)

23歳

細川昭元

管領細川家の後継である細川昭元に属す 2

元亀3年(1572)

24歳

足利義昭(三淵藤英)

三淵藤英を寄親として室町幕府将軍・足利義昭に仕える 2

天正元年(1573)

25歳

明智光秀

義昭追放後、明智光秀の麾下となる。貝堀城攻めに参加 2

天正3-6年(1575-78)

27-30歳

明智光秀

越前一向一揆討伐、天王寺の戦い、丹波攻めなどに従軍し各地を転戦 2

天正10年(1582)

34歳

明智光秀

6月、本能寺の変で先鋒を務める。変後、太刀長光と黄金を拝領。山崎の合戦で左備え大将として奮戦するも敗走、高野山へ 1

天正11年(1583)

35歳

豊臣秀吉

秀吉に赦免され、尾藤知宣の与力となる。賤ヶ岳の合戦で武功を挙げ、1,200石を与えられる 7

天正15年(1587)

39歳

豊臣秀吉

九州征伐に従軍 2

文禄3年(1594)

46歳

豊臣秀次

秀次の家臣となり、その奏請により従五位下・遠江守に叙任される 2

慶長5年(1600)

52歳

前田利長

秀次事件後、前田利長に仕える。関ヶ原前哨戦の大聖寺城の戦いで奮戦 1

慶長8年(1603)

55歳

前田利長

大聖寺城代に任ぜられる 2

慶長19-20年(1614-15)

66-67歳

前田利常

大坂冬の陣で利常の参謀を務め、夏の陣では大聖寺城の留守を守る 2

寛永11年(1634)

86歳

前田光高

藩主らの御咄衆を務めた後、金沢にて死去 1

第一章:京の騒乱と武将としての萌芽(天文18年~元亀3年)

第一節:名門武家の次男として

津田重久は、天文18年(1549年)、山城国伏見(現在の京都市伏見区)に生まれた 2 。幼名は牧之助と伝わる 2 。彼の生家である津田氏は、平清盛の末裔を称する一族で、祖父・津田元重と父・高重は、室町幕府の管領職を世襲した名門・細川京兆家に仕えた武士であった 2 。この出自は、重久が単なる地方の土豪ではなく、畿内の中央政界の動向を肌で感じながら育った「京の武士」であったことを示唆している。彼の生涯を通じて見られる、権力の中枢への鋭い嗅覚と巧みな立ち回りは、こうした環境で培われたものと考えられる。

第二節:畿内の覇権争いの中で

重久が歴史の表舞台に登場するのは、畿内の覇権が目まぐるしく移り変わる動乱の最中であった。彼ははじめ、主家であった細川氏を凌駕して畿内に君臨した三好長慶の一族、三好氏に仕えた 7 。永禄10年(1567年)、19歳の重久は、三淵藤英らが率いる反足利義栄派の軍勢と戦い、敵将・二階堂駿河守を討ち取るという鮮烈な武功を挙げている 7 。さらに永禄12年(1569年)には、三好三人衆が将軍・足利義昭の宿所である本圀寺を襲撃した六条合戦(本圀寺の変)にも参加しており、若くして畿内の主要な合戦で実戦経験を積んでいたことがうかがえる 7

しかし、織田信長に擁立された足利義昭が京で権威を回復すると、重久のキャリアも新たな段階に入る。元亀2年(1571年)頃には、かつての主家筋である細川京兆家の後継者・細川昭元に属した 2 。そして翌元亀3年(1572年)には、将軍義昭の側近であった三淵藤英を寄親(よりおや、保証人・後見人のような存在)として、室町幕府に直接仕えることになった 2

この一連の動きは、単なる主君の乗り換えとは異なる意味を持つ。三好氏への仕官が、実力主義の世における現実的な選択であったとすれば、その後の細川氏、足利将軍家への帰参は、畿内の伝統的な権威構造の中での自己の再定義を試みたものと解釈できる。彼の行動は、無節操なものではなく、常に畿内の政治秩序の変動を冷静に見極め、自らの家格と武名を高めるための、計算された生存戦略であった。その根底には、中央の政治動向に敏感な「京の武士」としてのアイデンティティが強く作用していたと考えられる。

第二章:明智光秀の麾下として(天正元年~天正10年)

第一節:明智家臣団への参画と戦歴

天正元年(1573年)、将軍・足利義昭が織田信長と対立の末に京から追放され、室町幕府が事実上崩壊すると、津田重久の人生は大きな転機を迎える。彼は、旧幕臣の有力な受け皿となっていた明智光秀の麾下へと転じたのである 2 。光秀自身も元は足利義昭に仕えていた経緯があり、重久のような旧幕臣を積極的に登用することで、自らの軍団を強化していた。

光秀の部将となった重久は、その武勇を遺憾なく発揮する。同年11月には、信長に反旗を翻した三好義継方の貝堀城攻撃に参加 7 。天正3年(1575年)には越前一向一揆との戦いに、翌天正4年(1576年)には石山本願寺勢との天王寺の戦いに参陣し、天王寺城での籠城戦を戦い抜いた 2 。さらに、天正5年(1577年)から翌年にかけて、光秀の生涯をかけた大事業であった丹波攻略戦にも従軍し、各地を転戦した 2 。これらの戦歴は、彼が明智軍団の中で、実戦経験豊富な中核的な武将として確固たる地位を築いていったことを物語っている。

第二節:本能寺の変 ― 歴史の実行者として

天正10年(1582年)6月2日、日本の歴史を震撼させる本能寺の変が勃発する。この未曾有のクーデターにおいて、津田重久は極めて重要な役割を担った。複数の史料が、彼が明智軍の「先鋒」として本能寺襲撃の先頭に立ったと記録しているのである 1 。主君・織田信長を討つという、一世一代の大事業の先陣を任されたという事実は、光秀が重久の武勇と忠誠に絶大な信頼を寄せていたことの何よりの証左である。

変の後、重久は光秀に従って安土城に入城した。そこで彼は、破格の恩賞を与えられる。信長が生涯をかけて蒐集した天下の至宝の中から、鎌倉時代の名工・長船長光作の太刀と、黄金16枚を下賜されたのである 2 。この太刀は、後に重久の官途名から「津田遠江長光」として国宝に指定される名物であり、信長の権威の象徴ともいえる品であった 9 。それを与えられたことは、重久の功績が如何に大きかったかを示している。

さらに、一説には6月9日付で、光秀から近江一国を与えられ、国主(大名)に任じられたとも伝わる 2 。もしこれが事実であれば、光秀が構想した新政権において、重久は方面軍司令官クラスの最高幹部として遇される予定であったことになる。

これらの事実は、明智家臣団における重久の特異な地位を浮き彫りにする。明智家には斎藤利三や明智秀満といった譜代・一門の重臣がいたが、重久は彼らとは出自を異にする「外様」の将であった 15 。にもかかわらず、本能寺の変という最重要作戦の先鋒を任され、最大の恩賞を与えられた。徳川美術館の所蔵品解説では、彼を光秀の「家老」とまで記しており、その重要性が後世にまで伝わっていることがわかる 9 。これは、明智光秀の軍団が、旧来の門閥に捉われず、実力ある者を抜擢する先進的な組織であったこと、そして津田重久がその能力主義の中で、純粋な軍事能力によってトップクラスの評価を勝ち取っていたことを示している。

第三章:山崎の合戦と雌伏の時(天正10年6月)

第一節:天王山の決戦

本能寺の変からわずか11日後の天正10年(1582年)6月13日、備中高松城から驚異的な速さで引き返してきた羽柴秀吉の軍勢が、摂津と山城の国境、山崎の地に迫った 10 。明智光秀の天下は、あまりにも早く決戦の時を迎える。

この山崎の合戦において、津田重久は明智軍の主力を担う指揮官として布陣した。彼は、松田政近や並河易家といった山城・丹波の国衆を中心とする2,000の兵を率い、明智軍の「左備えの大将」を務めたのである 2 。軍の左翼を預かるこの役目は、戦全体の趨勢を左右する極めて重要なポジションであり、光秀が重久の軍事指揮官としての能力を高く評価し、全幅の信頼を置いていたことを示している。

第二節:敗走と潜伏

しかし、戦況は明智軍にとって絶望的であった。兵力において秀吉軍に劣り、天王山を先に押さえられたことで地理的にも不利な状況に置かれた明智軍は、秀吉軍の猛攻の前に次第に崩れていく 10 。奮戦も虚しく、明智軍は総崩れとなり、主君・光秀は敗走の途中で落武者狩りに遭い、その短い天下に幕を閉じた。

主を失った重久は、戦場からの離脱に成功する。彼は捕縛を逃れ、紀伊国の高野山へと潜行した 1 。この選択は、主君に殉じるという道を選ばず、生き延びて再起の機会をうかがうという、彼の現実的な判断力を示している。それは、戦国乱世を生き抜く「渡り奉公人」としての、冷静な処世術でもあった。無謀な死を遂げることなく、自らの価値を保ったまま次の道を模索する。この雌伏の期間が、彼の人生の次なる扉を開くことになる。

第四章:豊臣の臣として ― 再起と栄達(天正10年~慶長4年)

第一節:秀吉との劇的な邂逅

山崎の合戦後、天下統一への道を突き進む羽柴秀吉は、明智光秀の旧臣たちに対して赦免令を出した。これは、有能な人材を敵方から吸収し、自らの勢力基盤を強化するための、秀吉ならではの巧みな戦略であった。この報を聞き、高野山に潜んでいた津田重久は下山を決意する。

この時の逸話は、重久の胆力と秀吉の器量を鮮やかに描き出している。伝承によれば、重久は当初、降参を装って秀吉に近づき、隙あらば主君・光秀の仇を討とうと密かに懐に短刀を忍ばせていたという 7 。しかし、秀吉の本営で対面した際の光景は、彼の意図を根底から覆すものであった。重久が緊張の中で待っていると、突然現れた秀吉は「与三(与三郎の意)、たっしゃか」と気さくに声をかけ、杖で重久の首を押さえながらこう告げた。「その方は参ってよかった。参らねば、隠れていても必ず探し出して討つつもりであった。一軍の将を務めたほどの者が、野にいては必ず災いとなるからだ。自ら訪ねてきたその忠義に免じて許す」と 7

秀吉の威風堂々たる態度と、全てを見透かしたような言葉に、重久は完全に気圧されてしまったという。彼は後に子孫へ、「秀吉という人は天から授かった英雄じゃ。わしは一生の間に、あの時ほど気のくじけたことはない」と語ったと伝えられている 7 。この劇的な出会いを経て、重久は心服し、豊臣の臣として再起を誓うこととなる。

第二節:豊臣政権下での武功と地位の確立

秀吉に帰順した重久は、まず秀吉の部将であった尾藤知宣の与力(付属武将)として配属された 7 。そして翌天正11年(1583年)、織田家の後継者を巡る賤ヶ岳の合戦において、早速武功を挙げる。この功績により、彼は1,200石の知行を与えられ、一人の武将として本格的な復帰を果たした 7

その後も彼の武勇は、豊臣政権下で高く評価され続ける。天正15年(1587年)の九州征伐では、再び尾藤知宣に従って出陣し、知宣を害そうとした者を討ち取る功を立てた 2 。しかし、この知宣が後に秀吉の勘気に触れて改易されると、重久は今度は秀吉の甥であり、関白の地位を継いだ豊臣秀次の家臣となった 2

秀次の下で、重久の地位はさらに向上する。文禄3年(1594年)8月、秀次の奏請(天皇への推薦)によって、彼は従五位下・遠江守(とおとうみのかみ)に叙任された 2 。これは、大名級の武士に与えられる名誉ある官位であり、彼が豊臣政権内で確固たる地位を築いたことを示している。この叙任に伴い、かつて光秀から拝領した長光の太刀は、彼の官途名にちなんで「津田遠江長光」という名物号で呼ばれるようになり、彼の武名と名刀の名が分かちがたく結びついたのである 9

しかし、彼のキャリアにおける最大の危機が訪れる。文禄4年(1595年)、主君である秀次が、秀吉から謀反の嫌疑をかけられて高野山で切腹させられる「秀次事件」が勃発した。秀次の家臣の多くは連座して粛清されるか、浪人となることを余儀なくされた。重久もまた、主を失い一時的に浪人の身となった 2 。だが、彼はこの絶体絶命の危機を乗り越える。彼の「一騎当千」と評される傑出した武勇は、新たな主君を求める上で最大の武器となった 8 。戦乱の気配が未だ残る時代、彼の豊富な実戦経験は、加賀百万石の大大名・前田利長にとって、即戦力として極めて魅力的であった。加えて、彼が秀次派の政治的な中枢人物とは見なされず、純粋な武人としての評価を保っていたことも、再仕官を可能にした要因であろう。自らの市場価値(武勇)を高く維持しつつ、政治的リスクを巧みに回避し、最適な仕官先を見出す。この高度なバランス感覚こそが、彼の処世術の真骨頂であった。

第五章:加賀前田家での安寧 ― 百万石の藩屏として(慶長5年~寛永11年)

第一節:最後の仕官と関ヶ原での武勇

豊臣秀次の死後、浪人となっていた津田重久に新たな道を開いたのは、加賀百万石の領主・前田利長であった。利長は彼の武勇を高く評価し、家臣として召し抱えた 1 。これが重久にとって、生涯最後の仕官となる。

慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、東軍に与した前田利長は、西軍の山口宗永が守る加賀国の大聖寺城を攻撃した。この戦いは、関ヶ原の本戦に至る北陸での重要な前哨戦であった。52歳になっていた重久は、この大聖寺城攻めで奮戦し、敵の首級を一つ挙げるという武功を立てる 2 。さらに、この戦いでは彼の武人としての凄みを示す逸話が残されている。利長の使いとして前線に向かう途中、敵の鉄砲玉が太股を撃ち抜くという重傷を負った。しかし彼は、激痛にもかかわらず落馬することなく、馬上で見事にその役目を果たしきったというのである 2 。この逸話は、長年の戦歴で培われた彼の強靭な精神力と、武士としての誇りを雄弁に物語っている。

第二節:藩政における重鎮として

関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わると、大聖寺城での功績が認められ、慶長8年(1603年)、重久は大聖寺城の城代に任じられた 2 。城代とは、城主不在の城を預かる最高責任者であり、軍事・行政の両面にわたる重要な役職である。これは、彼が単なる一介の武辺者ではなく、藩の重鎮として信頼されていたことを示している。

その信頼は、慶長19年(1614年)からの大坂の陣でも示された。冬の陣では、時の藩主・前田利常の参謀として従軍し、その豊富な軍事経験を藩主の側で活かした 2 。翌年の夏の陣では、利常が主力軍を率いて大坂へ出陣する間、後方の最重要拠点である大聖寺城の留守居役という大任を全うした 2 。これらの役割は、彼が加賀藩の軍事戦略において、不可欠な存在と見なされていたことを裏付けている。

第三節:「語り部」としての晩年と子孫の繁栄

大坂の陣が終結し、世に太平が訪れると、重久は第一線から退き、隠居の身となった。しかし、彼の役割が終わったわけではなかった。晩年、彼は藩主の前田利常やその子・光高の「御咄衆(おはなししゅう)」を務めたという 2 。御咄衆とは、藩主の側近くに仕え、相談役や話し相手を務める役職である。重久は、自らが駆け抜けてきた戦国の世の記憶、数々の合戦での武勇伝を、新たな時代の為政者たちに語り聞かせたのである。

この「語り部」としての行為は、単なる昔話ではなかった。それは、戦国乱世における「個人の武功」を、泰平の世における「家の由緒」へと転換・定着させるための、極めて重要な営為であった。彼の武勇伝は、津田家が加賀百万石の藩屏たるにふさわしい、輝かしい歴史と武功を持つ家であることを証明する物語となり、子孫が藩内で高い地位を保つための無形の資産となったのである。

寛永11年(1634年)、津田重久は金沢の地で86年の波乱に満ちた生涯を閉じた。墓所は石川県金沢市の養雲山放生寺に現存する 2 。彼の死後、家督は次男の重次が継いだ。重次は大坂の陣での功により1万石の大身となるが、後にキリシタンであるとの嫌疑をかけられ、不遇のうちに没した 2 。しかし、三男の重以は別に一家を立てて3,000石を知行する人持組(上級家臣)に列し、四男は分家である大聖寺藩の藩士に、五男は富山藩の藩士となるなど、津田一族は加賀藩体制下で武門の名家として存続し、繁栄の礎を築いた 3 。重久は、自らの腕で戦国を生き抜いただけでなく、その生涯の最終章において、近世封建社会における「名家」の創始者としての役割も見事に果たしたのである。

終章:津田重久という武将像 ― 膂力と処世術の体現者

津田重久の86年の生涯は、戦国乱世を生きる武士の一つの理想像を提示している。彼は、伝承によれば「生涯に渡って敵将6人を斬り、兜首を挙げること22級、感状を3通得た」とされ、その傑出した武勇、すなわち「膂力(りょりょく)」は疑いようがない 7 。しかし、彼が数多の猛者が散った時代を生き抜き、大往生を遂げることができたのは、単に腕が立ったからだけではない。時代の潮流を冷静に読み解き、主家の滅亡や主君の失脚といった幾多の危機を乗り越えた、巧みな「処世術」を兼ね備えていたからに他ならない。

彼の生き方は、主君を次々と変えた「渡り奉公人」そのものであり、後世の儒教的な武士道徳観からすれば「不忠」と断じられる側面もあろう。しかし、能力が全てを決定した戦国時代において、それは自らの価値を最大限に高め、生き残るための合理的かつ正当な生存戦略であった 5 。彼は、同じく主君を幾度も変えて大名にまで上り詰めた藤堂高虎と並び称されるべき、「渡り奉公人」の成功例と言えるだろう 5

津田重久の生涯は、一個人の物語に留まるものではない。それは、室町幕府の権威が失墜し、織豊政権が天下を統一し、そして江戸幕府による泰平の世が確立されるという、日本の歴史上最もダイナミックな時代の変遷を、一人の武士の視点から体現した貴重な記録である。彼の人生を通じて、我々は戦国武士のリアルな生き様、価値観、そして時代の変化に柔軟に適応していく強靭さを学ぶことができる。

彼の名は、加賀藩や富山藩に仕えた子孫によって受け継がれ、そして彼が明智光秀から拝領し、その武名を冠することになった国宝「太刀 銘 長光(名物 津田遠江長光)」と共に、乱世を駆け抜けた「強者」の記憶として、今なお輝きを放っているのである 9

引用文献

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