最終更新日 2025-06-04

浅井久政

浅井久政は浅井氏二代当主。六角氏に従属し家臣に隠居させられるが、朝倉氏との同盟を主導。小谷城で自刃。近年再評価。
「浅井久政」の画像

浅井久政の実像 ―戦国期北近江の領主―

1. はじめに

1.1. 浅井久政という武将の時代背景と浅井氏の概略

戦国時代の近江国は、京都に隣接する地理的要衝であったため、常に諸勢力の複雑な利害が交錯し、政争や戦乱が絶えない地域であった。このような状況下で、北近江に勢力を拡大したのが浅井氏である。浅井氏は、当初、北近江の守護京極氏の被官であったが、浅井亮政の代に主家の内紛に乗じて実権を掌握し、小谷城を拠点として戦国大名へと成長を遂げた 1 。本報告では、この浅井氏の二代目当主である浅井久政(あざい ひさまさ)に焦点を当て、その生涯と事績、人物像について詳細に検討する。

浅井久政は、初代亮政の武威と三代目長政の英明さの間にあって、従来、やや影の薄い存在と見なされ、「暗愚」「弱腰」といった評価がなされることも少なくなかった 4 。しかしながら、近年の研究においては、久政が置かれた困難な政治状況や、彼が推進した内政における手腕、さらには外交における苦心について、再評価の動きが見られるようになってきている 4

1.2. 本報告の目的と構成

本報告は、浅井久政の出自、家督相続からその最期に至るまでの生涯、彼を支えた妻や子女、家臣団、そして久政に対する歴史的評価の変遷と、関連する史跡について、現存する史料と近年の研究成果に基づいて詳細かつ徹底的に調査・分析し、その実像に多角的に迫ることを目的とする。特に、軍記物語などに描かれる伝統的な久政像と、一次史料や専門研究によって見直されつつある新たな久政像を比較検討することで、その人物像の多面性を明らかにすることを目指す。

2. 浅井久政の生涯

2.1. 出自と家督相続

2.1.1. 生誕、家族構成(父:浅井亮政、母:尼子氏、妻:小野殿など)

浅井久政は、大永6年(1526年)に生まれたとされる 4 。幼名は猿夜叉(さるやしゃ)、通称は新九郎と称した 4

父は、浅井氏を北近江の戦国大名へと飛躍させた浅井亮政(すけまさ)である 4 。亮政は浅井氏の庶家の生まれであったが、宗家に婿養子として入り、その実力で浅井家の当主となった人物である 4 。母は尼子氏の娘で、後に出家して馨庵寿松(けいあんじゅしょう)と名乗ったと伝えられる 4 。『蓮華会頭役門帳』によれば、母の尼子氏は26歳の時に久政を産んだとされている 4 。久政の母が山陰地方の有力大名である尼子氏の出身であったことは、当時の浅井氏の外交戦略や勢力基盤に何らかの影響を与えた可能性が考えられる。戦国時代において婚姻は重要な政略であり、遠方の有力大名家との縁組は、周辺勢力への牽制や、有事の際の潜在的な支援を期待するものであったかもしれない。

久政の正室は小野殿(おのどの)、または阿古御料人(あこごりょうにん)と呼ばれ、近江国伊香郡井口(現在の滋賀県長浜市高月町井口)の土豪であった井口経元(いのくち つねもと)の娘である 4 。井口氏は、富永庄の荘官を務め、高時川右岸地域の用水管理を担う「井頼り」としての役割も持っていた有力な在地勢力であった 14 。『浅井三代記』には、井口弾正少弼義氏が地頭山の戦いで亮政の身代わりとなって討死した功により、その娘が久政の室となったという記述があるが、これは史実ではないとされている 4 。戦国大名にとって、領国内の有力な在地土豪を掌握し、家臣団との結束を強化することは領国安定の礎であり、久政が井口氏という、特に治水・用水管理において重要な役割を担う家の娘を正室に迎えたことは、単なる家臣取り込みに留まらず、領国経営の根幹に関わる水利権の安定化をも意図した戦略的な婚姻であった可能性が高い。

表1:浅井久政の家族構成(主な人物)

関係

氏名

備考

主な典拠

浅井亮政

浅井氏初代当主

4

尼子氏(馨庵寿松)

側室

4

正室

小野殿(阿古御料)

井口経元の娘

4

異母兄/弟

政弘(新四郎)

亮政と正室・蔵屋の子、早世

4

異母姉/妹

鶴千代(海津殿)

田屋明政室

4

嫡男

浅井長政

浅井氏三代当主

4

その他の子

政元、政之、岡崎安休、治政、阿久、大弐局、京極マリアなど

男子・女子ともに複数存在。詳細は本文3.2.参照

4

この表は、久政の血縁および姻戚関係を概観するものであり、当時の浅井氏を取り巻く人間関係や勢力図の一端を理解する助けとなる。特に母方や妻方の出自は、浅井氏の外交・内政戦略を考察する上で重要な手がかりとなり得る。

2.1.2. 父・浅井亮政の時代の浅井家と久政への家督相続の経緯

父・浅井亮政は、北近江の守護であった京極氏の家臣という立場から、主家の内紛や国人一揆といった混乱の中で巧みに立ち回り、下剋上によって実権を掌握した 1 。そして、小谷城を築城し、浅井氏を戦国大名としての地位へと押し上げたのであった。

天文11年(1542年)1月6日、亮政が死去すると、久政は17歳という若さで家督を継承した 4 。亮政の正室であった蔵屋(浅井直政の娘)との間には男子がおらず(男子・新四郎政弘は早世)、その娘である鶴千代の婿として一族の田屋明政(でんや あきまさ)を迎えて浅井新三郎明政と名乗らせ、亮政の跡を継がせる予定であったとされる 13 。しかし、結果として側室の子である久政が家督を相続することになった。この相続の経緯について、久政と明政の間で明確な家督争いが発生したか否かは史料上明らかではないが、歴史学者の高橋昌明氏は、両者を支持するそれぞれの派閥間での内紛や暗闘が続いたのではないかと推測している 4 。若年での家督相続、そして異母姉の婿である田屋明政との間に潜在的な家督争いの可能性があったという状況は、久政の初期の権力基盤が必ずしも盤石ではなかったことを示唆している。このような不安定さが、後の六角氏への従属や家臣団との関係において、久政が強硬な態度を取りにくかった一因となった可能性も否定できない。

家督相続を確実なものとした久政は、天文13年(1544年)4月6日に、父・亮政の三回忌法要を徳昌寺(後の徳勝寺)で営んでいる 4

2.2. 六角氏との関係 — 従属と苦悩

2.2.1. 天文22年(1553年)の六角義賢との戦い(地頭山の戦い)と敗北

父・亮政の死後、若年の久政が当主となった浅井氏は、かつての主家である京極高広の再挙や、南近江に強大な勢力を持つ六角氏からの圧迫という厳しい状況に直面した 3

特に六角氏との関係は深刻で、天文22年(1553年)11月、久政は六角義賢(ろっかく よしかた、後の承禎)の軍勢と北近江南部の地頭山(じとうやま、現在の滋賀県米原市)で戦い、大敗を喫した 4 。この地頭山の戦いでの大敗は、浅井久政の軍事的能力の限界を示すと同時に、当時の浅井氏の勢力基盤の脆弱さを露呈した事件であったと言える。戦国時代において当主の軍事的指導力は家臣団の求心力や対外的な交渉力に直結するため、この敗北は久政個人の評価だけでなく、浅井家全体の軍事力に対する内外の評価を著しく低下させ、その後の六角氏への従属的な立場を決定づける大きな要因となった。

2.2.2. 六角氏への従属とその具体的な内容(子・賢政(長政)の元服、平井氏娘との婚姻など)

地頭山の戦いでの敗北後、久政は六角氏と講和を結び、事実上、六角氏に従属する立場となった 1 。この従属の具体的な表れとして、久政の嫡男である猿夜叉(後の浅井長政)は永禄2年(1559年)に元服する際、六角義賢から偏諱(へんき、主君などが臣下などに自分の名前の一字を与えること)を受け「賢政(かたまさ)」と名乗ることを余儀なくされ、さらに六角氏の重臣であった平井定武(ひらい さだたけ)の娘を正室として迎えることを強いられた 1 。これらの事実は、浅井氏が六角氏の「保護国的な扱い」(小和田哲男氏の表現 4 )を受けていたことを如実に示している 24

六角氏への従属は、単に軍事的な劣勢の結果というだけでなく、浅井氏内部の権力構造や家臣団の意識に大きな影響を与えた。特に、当主の嫡男が敵将の一字を名乗らされたり、その家臣の娘を正室に迎えさせられたりすることは、戦国武家社会において家の独立性や格を著しく損なう屈辱的な措置と受け止められるのが通常であった。父・亮政が築き上げた浅井氏の独立性を誇りとしていた家臣団にとって、これらの従属的措置は受け入れがたいものであった可能性が高い。久政がこれを受け入れた(あるいは受け入れざるを得なかった)ことが、家臣団から「弱腰」と見なされ、当主としての資質を疑われる大きな原因となり、後の久政隠居事件の重要な伏線となったと考えられる 1

2.3. 内政と領国経営

六角氏への従属という困難な対外状況の一方で、浅井久政は内政において着実な実績を上げていたことが近年の研究で明らかになっている。

2.3.1. 治水事業(高時川の井堰築造など)と用水争いの調停

久政は内政に力を注ぎ、特に領内の農業生産の基盤となる治水事業や用水管理に積極的に取り組んだ 4 。具体的には、高時川の上流に井堰(いせき)を築造して領内の田畑を潤し、頻発する村々の用水争いにおいては、当事者の意見を丁寧に聞き取り、公正な裁定を下したと伝えられている。農業生産が経済の根幹であった戦国時代において、水利権の確保と安定的な水供給は領国経営の最重要課題の一つであった。久政がこの問題に体系的に取り組み、天文24年(1555年)には専門の「井奉行」という役職を家中に設置し、12ヶ村が関わるような大規模な水争論の裁定まで行ったことは 4 、彼が領国の安定と民政に深い関心を寄せていた証左であり、単なる武勇の評価だけでは測れない統治者としての一面を示している。これは、近年の久政再評価における重要な論点の一つである。

2.3.2. 法制度の整備(天文22年の二十三箇条の法制度など)

久政は、父・亮政が定めた徳政を発展させ、天文22年(1553年)には二十三箇条からなる法制度を導入した 4 。この法制度には、年貢を納めた後の貸借における貸し手の利益保護などが盛り込まれていたとされ(「菅浦文書」)、領国内の経済活動の安定化を図るものであったと考えられる 4 。法制度の整備は、戦国大名が領国を一元的に支配し、紛争解決の基準を明確化して社会秩序を維持する上で不可欠な要素である。久政が父の政策を継承・発展させ、独自の法制度を導入したことは、彼が単に六角氏に従属して現状維持に甘んじていたのではなく、主体的に領国経営を行い、浅井氏の支配体制を強化しようとしていたことを示している。歴史学者の宮島敬一氏は、久政の時代の天文年間末期に、先例を踏襲した裁定など、浅井氏独自の統治理念や支配のあり方を示す「浅井氏の論理」が確立していったと指摘している 4

2.3.3. 文化振興(能、鷹狩、連歌など)

久政は、能や連歌といった文化活動を積極的に推進し、自身も嗜んだと記録されている 4 。特に能楽については、森本鶴太夫というお抱えの舞楽師がいたことからも、その熱心さがうかがえる 4 。また、鷹狩も好んだとされる 4

これらの文化活動への傾倒は、後世の軍記物などにおいて、久政が「遊興にふけり政務を疎かにした」として否定的に描かれる一因となった。しかし、当時の武将にとって、和歌や連歌、能楽といった文化教養は、武勇と並ぶ重要なステータスであり、他家との外交交渉や家臣団とのコミュニケーション、さらには自身の権威付けにも利用される側面があった。久政の文化振興が、単なる個人的な趣味に留まらず、統治者としての権威の演出や、家臣・周辺勢力との関係構築の手段として機能していた可能性も考慮に入れるべきであろう。ただし、これらの活動も度を越せば、家臣や領民の不満を招く要因となり得たことは想像に難くない。

2.4. 強制された隠居 — 家臣団との対立

2.4.1. 家臣団(赤尾氏、遠藤氏など)の不満とクーデターの経緯(『江濃記』などの記述を基に)

浅井久政の六角氏に対する恭順的な外交姿勢や、軍事における消極的な態度は、浅井家家臣団、特に武断派の家臣たちの間に強い不満を鬱積させていった 1 。この不満は、やがて久政の運命を大きく左右する事件へと発展する。

永禄3年(1560年)、久政の嫡男である賢政(後の長政)が16歳の時、赤尾清綱、遠藤直経、丁野、百々、安養寺といった浅井家の主要な家臣たちが賢政と謀り、父・久政を強制的に隠居させ、賢政に家督を相続させるというクーデターを決行した 1 。この政変の際、賢政は六角氏の家臣・平井定武の娘と離縁しており、六角氏からの自立を目指す家臣団の強い意志がうかがえる 11

軍記物である『浅井三代記』によれば、家臣団は久政の遊興にふける姿や政務の怠慢、さらには賢政の出陣要請を度々拒否したことなどを理由に隠居を迫ったとされる 30 。久政は当初これに激怒し抵抗の姿勢を見せたものの、家臣団の固い決意と、賢政を擁立する動きの前に抗しきれず、最終的には琵琶湖に浮かぶ竹生島(ちくぶじま)に一時的に身を寄せ、その後小谷城内の小丸(こまる)と呼ばれる曲輪に隠居したと伝えられている 1

この久政の隠居事件は、単なる親子の権力闘争というよりも、浅井家家臣団の総意に近い形で行われたクーデターであった可能性が高い。戦国時代において、当主の器量や政策が家の存続を危うくすると判断された場合、家臣団が合議の上で当主を交代させる事例は散見される。この事件は、浅井氏が京極氏の被官から国人衆のリーダーとして台頭したという出自を持ち、家臣団の発言力が比較的強い体制であったことの現れとも考えられる。当主個人の権威よりも、浅井家という「家」の存続と勢力拡大を優先する家臣団の論理が働いた結果と言えよう。

2.4.2. 隠居後の久政と長政政権への関与

隠居後の久政は、小谷城の小丸に居住したとされ、このことから「小丸殿」とも称された 4 。『浅井三代記』によれば、家臣団は久政に対し、長政の後見人となり、政治の誤りがあれば諫言する役割を期待していたとされる 30

実際に、久政が隠居後も完全に政治の舞台から退場したわけではなかったことを示唆する記録もある。特に、浅井家が織田信長との同盟を破棄し、長年の盟友であった越前の朝倉義景(あさくら よしかげ)と同盟を維持する決断を下す際には、久政が朝倉家支持を強く主張し、息子・長政の判断に大きな影響を与えたとされている 1 。これは、久政が隠居後も浅井家の中で一定の発言力を保持し、特に外交の重要局面においては、旧主としての、また親朝倉派の重鎮としての影響力を行使し得たことを物語っている。浅井家にとって朝倉氏は父祖以来の同盟相手であり、久政の世代にとっては新興勢力の織田信長よりも信頼できる存在と映った可能性が高い。長政が若年で家督を継いだ経緯や、家臣団の中にも親朝倉派と親織田派が存在したことを考慮すると、久政の意見が浅井家の運命を左右するこの重大な決定に深く関与したと考えられる。この判断が、結果として浅井家滅亡の遠因の一つとなったことは否定できないであろう。

2.5. 小谷城の戦いと最期

2.5.1. 織田信長との対立と浅井・朝倉連合

永禄11年(1568年)、浅井長政は織田信長の妹・お市の方を妻に迎え、織田氏と同盟を結んだ 1 。しかし、元亀元年(1570年)4月、信長が長年の盟約に反して朝倉義景を攻撃すると(金ヶ崎の戦い)、長政は信長との同盟を破棄し、朝倉方につくことを決断する 1 。この決断には、前述の通り、隠居していた父・久政の強い意向が影響したとされる。

これにより、浅井・朝倉連合軍と織田・徳川連合軍との間で激しい戦いが繰り広げられることとなる。同年6月28日の姉川の戦いでは、浅井・朝倉連合軍は織田・徳川連合軍に敗北を喫した 11 。その後も両者の対立は続き、戦局は浅井・朝倉方にとって次第に不利となっていった。

2.5.2. 小谷城小丸での籠城と自刃(『浅井三代記』などの記述を基に)

天正元年(1573年)8月、織田信長は朝倉義景を滅ぼした後、その矛先を浅井氏に向け、本拠地である小谷城に総攻撃を開始した(小谷城の戦い) 4 。織田軍の猛攻の前に、小谷城は次第に追い詰められていく。

羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)らの活躍により、小谷城の重要拠点である京極丸が陥落すると、久政が籠る小丸と長政が籠る本丸は分断されてしまった 36 。これにより、父子の連携は絶たれ、小丸は孤立無援の状態に陥った。

同年8月27日(『信長公記』による日付。『浅井三代記』では29日とする 39 )、織田軍の激しい攻撃を受け、支えきれなくなった久政は小丸にて自刃した 4 。享年は48、あるいは49と伝えられる 4

『浅井三代記』には、久政の最期の様子が詳細に描かれている。それによれば、久政は井口越前守らに最後の防戦を命じ、側近であった福寿庵や舞を舞う者であった鶴松太夫らと最後の盃を交わした後、切腹した。福寿庵が介錯を務め、その後、福寿庵自身も殉死。鶴松太夫、そして久政の供をしていた脇坂久左衛門もまた、久政に殉じて自害したと記されている 41 。久政の辞世の句は、現在のところ伝わっていない 29

久政と、その数日後に自刃した長政の首は京都に送られ、後に金箔を施されて織田信長の酒宴の肴にされたという衝撃的な逸話が『信長公記』などに伝えられている 26 。小谷城落城時の久政の最期が軍記物によって詳細に描かれているのは、久政個人の勇壮さを示すというよりも、浅井家滅亡という歴史的事件の悲劇性を強調し、読者に強い印象を与える意図があったのかもしれない。また、側近たちの殉死は、久政個人への忠誠心と、浅井家そのものへの殉じる覚悟の双方を示すものと考えられる。

表2:浅井久政 略年表

年代(西暦)

和暦

年齢

主な出来事

典拠

1526年

大永6年

1歳

誕生(幼名:猿夜叉)

4

1542年

天文11年

17歳

父・浅井亮政死去に伴い家督相続

4

1544年

天文13年

19歳

父・浅井亮政の三回忌法要を徳昌寺で営む

4

1550年頃

天文19年頃

25歳頃

京極高広と和議成立か。「左兵衛尉」に任官。

4

1553年

天文22年

28歳

11月、六角義賢と地頭山で戦い大敗。講和し、事実上従属。二十三箇条の法制度を導入。

4

1555年

天文24年

30歳

「井奉行」を設置。

4

1559年

永禄2年

34歳

嫡男・猿夜叉(賢政、後の長政)元服。六角氏重臣・平井定武の娘を娶る。

4

1560年

永禄3年

35歳

家臣団により隠居させられ、長政に家督を譲る。小丸城へ移る。

11

1569年

永禄12年

44歳

孫・淀殿(茶々)誕生。

11

1570年

元亀元年

45歳

姉川の戦い。浅井・朝倉連合軍が織田・徳川連合軍に敗北。久政・長政父子は大嶽山に布陣。

11

1573年

天正元年

48歳

8月27日(または29日)、小谷城の戦いで小丸が落城し自刃。

11

この年表は、久政の生涯における主要な出来事を時系列で整理したものであり、彼の人生の大きな流れと、各出来事が彼の人生および浅井家の歴史に与えた影響を理解する一助となる。

3. 浅井久政の妻子と子孫

3.1. 正室・小野殿(阿古御料人、井口経元娘)について

浅井久政の正室は、小野殿(おのどの)、または阿古御料人(あこごりょうにん)と称された女性である 4 。彼女は、近江国伊香郡井口の土豪であった井口弾正少輔経元(いのくち だんじょうのしょう つねもと、後に越前守)の娘として生まれた 14 。井口氏は、伊香郡の富永庄総政所を主宰する荘官の家柄であり、同時に高時川右岸地域の用水を管理する「井頼り」としての重要な役割も担っていた在地勢力であった 14

小野殿は久政に嫁ぎ、嫡男である浅井長政らを儲けた 14 。彼女の出自である井口氏が、領国経営の根幹とも言える用水管理に関わる有力な在地豪族であったことは、浅井氏の領国支配において非常に重要な意味を持つ。久政と小野殿の婚姻は、単に家臣との個人的な結びつきを深めるという以上に、領国経営の安定化、特に水利権の掌握という実利的な側面も大きかったと考えられる。これは、久政が内政、特に治水や用水争いの調停に力を入れていたこととも符合し、彼の領国経営戦略の一環であった可能性が高い。

小野殿は、天正元年(1573年)9月19日に亡くなったと伝えられている 14 。これは、夫である久政が小谷城で自刃した直後のことであり、浅井氏滅亡という悲劇の中でその生涯を閉じたことになる。

3.2. 子女について(長政、政元、政之、岡崎安休、治政、阿久、大弐局、京極マリア、虎夜叉、延政、僧・雄山、松市、寿慶、近江殿、養福院、昌安見久尼、大弐尼など)

浅井久政には、正室・小野殿との間の子を含め、複数の子女がいたことが記録されている。

男子としては、嫡男で浅井氏三代当主となった浅井長政(幼名:猿夜叉、通称:新九郎)が最も著名である 4 。その他、浅井政元、浅井政之、岡崎安休(おかざき あんきゅう)、浅井治政といった名が史料に見える 11 。さらに、系図によっては、虎夜叉(とらやしゃ、山城守)、延政(のぶまさ、宮内少輔)、僧となった雄山(ゆうざん)といった男子の名も伝えられている 16

女子も多く、阿久(あく、昌安見久尼(しょうあんけんきゅうに)として出家、久政の庶長女とされる) 11 、大弐局(だいにのつぼね、六角義実の女房となった) 11 、京極マリア(きょうごく まりあ、養福院(ようふくいん)とも、京極高吉(きょうごく たかよし)室) 4 、浅井松市(あざい まついち、三田村定頼(みたむら さだより)妻) 16 、浅井寿慶(あざい じゅけい、浅井忠種(あざい ただたね)室) 4 、近江殿(おうみどの、斎藤龍興(さいとう たつおき)室) 16 などが記録されている。

表3:浅井久政の子女一覧と判明している動向

区分

名前

読み

別名・称号など

判明している動向・嫁ぎ先など

主な典拠

男子

長政

ながまさ

猿夜叉、新九郎、賢政

浅井氏三代当主、織田信長の妹・お市の方を室とする

4

政元

まさもと

11

政之

まさゆき

11

岡崎安休

おかざき あんきゅう

11

治政

はるまさ

11

虎夜叉

とらやしゃ

山城守

16

延政

のぶまさ

宮内少輔

16

雄山

ゆうざん

16

女子

阿久

あく

昌安見久尼

庶長女、出家

11

大弐局

だいにのつぼね

六角義実女房

11

京極マリア

きょうごく まりあ

養福院

京極高吉室

4

浅井松市

あざい まついち

三田村定頼妻

16

浅井寿慶

あざい じゅけい

浅井忠種室

4

近江殿

おうみどの

斎藤龍興室

16

この表は、久政の多くの子女とその縁組先を一覧化したものであり、浅井氏の婚姻政策や他家との関係性を具体的に示す。特に女子の嫁ぎ先は、戦国時代の同盟関係や勢力維持のための重要な戦略であったため、久政の外交努力の一端を垣間見ることができる。

3.3. 子孫の動向(判明している範囲で)

浅井久政の嫡男である長政の血筋は、その娘である茶々(淀殿)、初(常高院)、江(崇源院)の三姉妹を通じて、後の豊臣家や徳川将軍家、さらには現在の皇室にまで繋がっており、歴史に大きな影響を残したことは広く知られている 1

しかしながら、久政の他の多くの子女たちのその後の詳細な動向や子孫については、史料が乏しく、不明な点が多いのが現状である 1 。戦国時代の混乱期においては、特に傍系の家系の記録は散逸しやすく、その消息を追うことは困難を伴う。

それでも、浅井氏一族全体としては、天正元年の小谷城落城による浅井宗家の滅亡後も、一部の者は幕臣となったり、各藩の家臣として仕官したりするなどして、家名を繋いでいったことが確認されている 16 。例えば、尾張藩の藩医であった浅井国幹(あざい くにもと)は浅井氏の一族を称し、『浅井氏家譜大成』という系譜書を著している 16 。これは、戦国武家の「家」の存続に対する執念や、個々の武将の能力や縁故が評価されて他家に新たな道を切り開くケースがあったことを物語っている。

4. 浅井久政を巡る家臣団

4.1. 主要家臣(赤尾清綱、遠藤直経、磯野員昌、海北綱親、雨森清貞など)とその役割

浅井久政の時代、そしてその子・長政の時代を通じて浅井家を支えた主要な家臣としては、以下の者たちが挙げられる。

  • 赤尾清綱(あかお きよつな) : 浅井氏が京極氏に仕えていた頃からの譜代の家臣で、「浅井三将」の一人に数えられる 1 。小谷城内には彼の名を冠した「赤尾曲輪」があり、常に城の警護にあたったと伝えられる 1 。久政を隠居させ長政を当主とする計画では中心的な役割を担い、長政の代には軍目付(いくさめつけ、戦場での監察役)として従軍した 1 。小谷城の戦いで捕虜となることを潔しとせず、織田信長の前で切腹して果てたとされる 1
  • 遠藤直経(えんどう なおつね) : 赤尾清綱と同様に古くからの浅井家家臣で、近江坂田郡の国人出身 1 。長政が幼少の頃には傅役(もりやく、教育係)を務め、長政が当主となった後も相談役として重用された 1 。織田信長の才能を早くから見抜き、浅井家と織田家の同盟時には信長暗殺を進言したこともあったとされる 1 。姉川の戦いで討死した 1
  • 磯野員昌(いその かずまさ) : 元は京極氏の家臣であったが、浅井亮政の代に浅井氏配下となった 1 。六角氏との数々の戦いで武功を挙げ、「浅井の四翼」の一人と称された 1 。姉川の戦いでは織田軍本陣近くまで迫る勇猛果敢な戦いぶりを見せ、「姉川十一段崩し」として語り継がれている 1 。後に織田信長に降伏し、その武勇を評価されて家臣として召し抱えられた 1
  • 海北綱親(かいほう つなちか) : 「浅井三将」の一人で、浅井亮政・久政・長政の三代に仕えた重臣 1 。知勇に優れた武将で、羽柴秀吉にも恐れられたという 1 。小谷城落城の際に討死したと伝えられる 1 。画家の海北友松の父としても知られる 1
  • 雨森清貞(あめのもり きよさだ) : 「浅井三将」の一人に数えられる 1
  • その他、外交文書の発行などを担当した 脇坂秀勝(わきさか ひでかつ) 16 、久政の舅であり重臣であった 井口経親(いのくち つねちか) 16 、横山城を守備した 三田村国定(みたむら くにさだ) 16 などの名が知られている。

4.2. 久政との関係性と、久政隠居時の動向

浅井久政の統治期、特に六角氏への従属政策は、家臣団との間に深刻な亀裂を生じさせた。前述の通り、赤尾清綱や遠藤直経らを中心とする一部の家臣は、久政の指導力に強い不満を抱き、永禄3年(1560年)にクーデターを決行、久政を隠居に追い込み、その子・賢政(長政)を新たな当主として擁立した 1

歴史学者の太田浩司氏の研究によれば、浅井氏の家臣団は、他の多くの戦国大名家に見られるような明確な階層的な編成(例えば、寄親・寄子制のような)が確認できず、浅井当主と家臣それぞれとの「個々の繋がり」によって編成されていた可能性が指摘されている 5 。このような家臣団構造であったとすれば、当主の政策や資質に対する家臣個々の評価や不満が、他の家臣との連携を通じて大きな政治的変動を引き起こす要因となり得たと考えられる。久政の隠居事件は、まさにそのような浅井氏の権力構造の特質を反映した出来事であったと言えるかもしれない。特定の家臣(赤尾氏や遠藤氏など)がクーデターを主導できた背景には、他の多くの家臣たちの久政の指導力への失望や、若き長政への期待といった共通認識が存在したと推測される。これは、家臣団が単なる当主の命令に従うだけの存在ではなく、浅井家の運営に主体的に関与し、時には当主の進退をも左右し得る力を持っていたことを示している。

また、浅井氏の家臣団は、京極氏の被官であった時代からの古参の家臣と、浅井氏が戦国大名として台頭する過程で新たに加わった家臣など、多様な出自の者で構成されていた可能性がある。久政の統治や外交政策(特に六角氏への従属)に対する評価は、これらの家臣の立場や経験によって異なっていたことも十分に考えられる。例えば、六角氏との関係において、徹底抗戦を主張する強硬派と、従属や和睦もやむなしとする穏健派が存在した可能性もある。久政の「弱腰」とも評される外交姿勢は、特に武功を重んじる家臣や、浅井氏の独立性を重視する家臣からの反発を招きやすかったであろう。その意味で、隠居事件は、単に久政個人の資質の問題に帰せられるだけでなく、浅井家が進むべき方向性を巡る家臣団内部の路線対立が顕在化した結果と捉えることも可能である。

5. 浅井久政の人物評価

5.1. 伝統的評価(「暗愚説」「弱腰外交」など)とその史料的根拠(『江濃記』、『浅井三代記』など)

浅井久政に対する伝統的な評価は、決して高いものとは言えなかった。特に、江戸時代に成立した軍記物である『江濃記』や『浅井三代記』などにおいては、父・亮政の武勇や、子・長政の英明さと比較される形で、久政は武勇に劣り、六角氏に屈服した「暗愚」「凡庸」な当主として描かれる傾向が強い 4 。これらの軍記物には、久政が鷹狩や酒宴といった遊興にふけり、政務を怠ったとする逸話も記されており 30 、こうした記述が久政の否定的なイメージを後世に定着させる一因となった。

しかし、軍記物は歴史的事実を伝えるだけでなく、物語としての面白さや教訓、あるいは特定の人物を英雄視するための対比として、事実を脚色したり、特定の人物像を強調したりする傾向があることに留意する必要がある。久政の場合、英雄的な初代・亮政と悲劇的な最期を遂げた三代・長政という、物語性の高い二人の当主に挟まれた存在であり、両者を引き立てるための「暗愚な中間者」として類型的に描かれた可能性も否定できない。特に、結果として浅井家が滅亡へと向かう過程において、その原因の一端を久政の「失政」に求めることで、物語の因果関係を分かりやすくする効果があったとも考えられる。したがって、これらの軍記物の記述を史実として鵜呑みにするのではなく、他の一次史料や考古学的成果と照らし合わせながら、史料批判的な視点から慎重に検討することが求められる。

5.2. 近年の研究動向と再評価(内政手腕、外交政策、文化的側面など。太田浩司氏、宮島敬一氏、小和田哲男氏らの研究を踏まえて)

近年の戦国時代史研究においては、軍記物語の記述に囚われず、同時代の一次史料の丹念な分析や考古学的調査の成果に基づいて、浅井久政の統治者としての側面を多角的に評価しようとする動きが活発になっている。

歴史学者の宮島敬一氏は、久政の内政・領国経営における手腕を高く評価している。特に、用水争論の調停や「井奉行」の設置、天文22年の二十三箇条の法制度の導入などに見られる内政努力は、領国支配の安定化に貢献したと指摘する。また、六角氏への従属についても、単純な臣従関係ではなく、一定の独立性を保ちながらの協調関係であった可能性を示唆し、久政の時代の天文年間末期に「浅井氏の論理」とも言うべき独自の統治理念が確立されていったと論じている 4

また、小和田哲男氏も、久政の統治における水利権の調停や在地民衆との結びつきの重要性を指摘し、「見直される二代目久政」として、その内政面での実績を再評価する視点を提示している 7

さらに、太田浩司氏の研究では、浅井氏の権力構造を、守護京極氏の権威に依存した「畿内近国型」の戦国大名と規定し、久政の統治もその枠組みの中にあったと分析している。その上で、久政期は六角氏への「家臣化」を通じて領国統治の安定を目指した時期であったと位置づけている 5

これらの研究は、従来の軍事・外交中心の評価軸だけでなく、領国経営という内政面での実績や、久政が置かれた困難な政治状況を考慮に入れることで、彼が決して「暗愚」の一言で片付けられるような人物ではなかったことを示している。むしろ、強大な隣国に囲まれ、不安定な家督継承という状況の中で、彼なりに浅井家の存続と領国の安定を図ろうと努力した統治者であったという側面が浮かび上がってくる。

5.3. 史料(『信長公記』など)に見る久政像の多面性

浅井久政に関する史料は、残念ながら断片的であり、特に軍記物と一次史料とでは、その描かれ方に大きな差異が見られる。

織田信長の動向を記した『信長公記』には、天正2年(1574年)正月の宴席で、前年に討ち取った朝倉義景、浅井久政、浅井長政の三人の首級を薄濃(はくだみ、漆で塗り固めて金箔などを施したもの)にして肴とし、酒宴を開いたという衝撃的な記述がある 26 。この逸話は、信長の常人離れした苛烈な性格を示すものとして有名であるが、久政自身の具体的な行動や人物像を詳細に伝えるものではない。

一方で、現存する一次史料からは、久政が領主として具体的な統治活動を行っていたことが確認できる。例えば、前述した用水争論の裁定に関する文書 4 や、天文22年の法制度に関する「菅浦文書」 4 、さらには家臣への知行宛行状 4 などは、久政が主体的に領国経営に関与していたことを示す客観的な証拠となる。

このように、久政に関する史料は、その種類によって描かれ方が大きく異なる。彼の人物像をより正確に理解するためには、それぞれの史料が持つ特性(軍記物であれば物語性や教訓性、一次史料であれば同時代性や客観性など)を十分に理解し、批判的に比較検討することが不可欠である。一面的な評価に陥ることなく、多角的な視点からその実像に迫る努力が、今後の研究においても求められる。

6. 浅井久政関連史跡

6.1. 小谷城跡(滋賀県長浜市)— 特に久政が自刃した小丸跡の現状

浅井久政ゆかりの最も重要な史跡は、浅井氏三代の居城であった小谷城(おだにじょう)である。滋賀県長浜市湖北町伊部にあるこの城は、標高約495メートルの小谷山に築かれた典型的な山城であり、日本中世三大山城の一つにも数えられている 1

城内には多くの曲輪(くるわ)が配置されているが、久政に特に関連が深いのは「小丸(こまる)」と呼ばれる曲輪である。ここは、久政が長政に家督を譲って隠居した後の住まいであり、天正元年(1573年)の小谷城の戦いにおいて、織田軍の攻撃を受け自刃を遂げた最期の地とされている 11 。現在、小谷城跡は国史跡として整備されており、小丸跡をはじめとする各曲輪の遺構を見学することができる 24 。また、麓には小谷城戦国歴史資料館があり、浅井氏や小谷城に関する展示が行われている 25

6.2. 徳勝寺(滋賀県長浜市)など墓所・供養塔

浅井久政の墓所として最も知られているのは、滋賀県長浜市平方町にある徳勝寺(とくしょうじ)である。この寺院には、浅井亮政、久政、長政の浅井氏三代の墓所が設けられており、それぞれ宝篋印塔(ほうきょういんとう)の形式で建てられている 13

また、和歌山県の高野山奥之院には、浅井長政の供養塔が存在することが近年の調査で確認されている 35 。この供養塔は、長政の娘である初(常高院)が京極家に嫁いだ後に建立したものと考えられている 35 。久政個人の供養塔が高野山にあるか否かは現在のところ不明であるが、浅井家全体の供養という意味合いで、何らかの形で祀られている可能性も考えられる。

浅井久政個人の名を冠した墓所や供養塔に関する情報は限定的であり、多くの場合、息子である長政や、浅井三代としてまとめられて顕彰されている。これは、後世において、久政個人の事績よりも、浅井家全体の歴史、特に悲劇的な最期を遂げた長政やお市の方、そしてその娘たちである浅井三姉妹の物語がより重視され、語り継がれてきた結果を反映している可能性がある。浅井氏滅亡後の供養は、生き残った娘たちやその嫁ぎ先(例えば京極家)によって行われたと考えられ、その場合、長政を中心とした供養となるのは自然な流れであったのかもしれない。

7. おわりに

7.1. 浅井久政の歴史的意義の再検討

浅井久政は、父・亮政が一代で築き上げた戦国大名としての浅井氏の基盤を継承し、その子・長政の時代へと繋ぐ、いわば過渡期の当主であったと言える。彼の治世は、南近江の六角氏からの強い圧迫や、かつての主家である京極氏の介入、そして家臣団との軋轢など、内外に多くの困難を抱えた時期であった。

伝統的には、六角氏への従属や軍事面での不振から「暗愚」「弱腰」といった評価がなされがちであった久政であるが、近年の研究では、そうした厳しい状況下にあっても、用水争論の調停や法制度の整備といった内政においては着実な成果を上げ、領国経営の安定に努めた点が再評価されつつある。彼の統治は、戦国時代の中小規模の大名が、いかにして強大な周辺勢力との間で自家の存続を図り、領国を維持しようと苦心したかを具体的に示す事例と言えるだろう。

しかしながら、一方で、家臣団の掌握や対外的な軍事・外交面においては限界も露呈し、結果として家臣団による隠居強要、そして最終的には織田信長との同盟破棄という浅井家の運命を左右する決断に関与し、浅井家滅亡の一因ともなった側面も否定できない。

浅井久政の生涯は、華々しい武勇伝や劇的な成功譚に彩られたものではなかったかもしれない。しかし、彼の統治と苦悩は、戦国という激動の時代を生きた一人の領主の実像を多角的に捉え、当時の社会状況や権力構造を理解する上で、貴重な示唆を与えてくれる。

7.2. 今後の研究課題

浅井久政に関する研究は、近年進展を見せているものの、未だ解明されていない点も多く残されている。今後の研究課題としては、以下のような点が挙げられる。

第一に、久政期に発給された古文書のさらなる収集と網羅的な分析である。これにより、彼の具体的な統治政策、特に税制や商業振興策、寺社政策などの実態をより詳細に明らかにすることが期待される。

第二に、『浅井三代記』や『江濃記』といった軍記物語の記述と、一次史料との比較検討を一層深めることである。これにより、それぞれの史料の特性を考慮した上で、より客観的で多面的な久政像を構築することが可能となる。

第三に、久政期の浅井氏家臣団の具体的な構成員や、それぞれの役割、そして久政との「個々の繋がり」がどのようなものであったのかを詳細に分析することである。これは、久政の隠居事件の背景や、浅井氏の権力構造を理解する上で不可欠である。

第四に、久政が関心を持ったとされる能や連歌、鷹狩といった文化活動が、彼の個人的な趣味の範囲に留まらず、領国経営や外交にどのような影響を与えたのかを具体的に考察することも興味深い課題と言えるだろう。

これらの研究を通じて、浅井久政という武将の歴史的意義がより明確になり、戦国時代の地域社会や大名権力のあり方についての理解が一層深まることが期待される。

引用文献

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