浅井井頼は長政庶子。小谷城落城後も生き延び、大坂夏の陣で本多忠朝を討つ武功。その後京極家に仕え90歳で病死。根津甚八のモデルとされる。
日本の戦国時代を彩る物語の中で、真田幸村(信繁)に仕えたとされる「真田十勇士」は、今なお多くの人々を魅了する英雄たちである。その一員として、「根津甚八」の名は広く知られている。講談や立川文庫に端を発する物語において、彼は大坂夏の陣で主君・幸村の影武者となり、「われが幸村なるぞ」と名乗りを上げて徳川の大軍に突入し、壮絶な討死を遂げた悲劇の英雄として描かれる 1 。そして、この根津甚八のモデルの一人が、浅井長政の息子「浅井井頼」である、という説が広く流布している 3 。
しかし、この勇壮な英雄譚は、史実とは大きく異なる側面を持つ。現存する一次史料や藩の記録を丹念に追うと、浅井井頼は、大坂の陣を生き延び、その後、江戸時代前期の寛文元年(1661年)に90歳前後の長寿を全うしたという、全く別の人物像が浮かび上がってくるのである 6 。
本報告書は、この「伝説上の英雄」と「史実の武将」という、浅井井頼が持つ二つの顔を徹底的に検証するものである。なぜ一人の武将が、全く異なる二つの生涯を持つに至ったのか。その謎を解き明かし、浅井長政の忘れ形見が辿った数奇な運命の全貌を、信頼性の高い史料に基づいて再構築することを目的とする。伝説のベールを剥がし、歴史の狭間に埋もれた一人の武将の実像に迫りたい。
浅井井頼は、近江国の戦国大名・浅井長政の子として、元亀3年(1570年)から天正元年(1573年)の間に生まれたと推定される 7 。彼の母は、織田信長の妹であるお市の方ではなく、長政の側室であったと考えられている。このため、戦国の世で数奇な運命を辿った浅井三姉妹、すなわち淀殿(茶々)、常高院(初)、崇源院(江)は、井頼にとって異母姉にあたる 7 。
彼の存在と姉弟関係を裏付ける極めて重要な史料として、次姉・常高院が死の直前に記した遺言状の写しが、若狭小浜の常高寺に残されている。そこには「いまさらすてられ候ハぬ」(今となっては見捨てることはできない)と、弟である井頼の身を案じる一文がはっきりと記されており、彼らの間に確かな絆があったことを物語っている 7 。
井頼は、幼名を喜六、後に通称として喜八郎を名乗った 7 。諱(いみな、実名)は「井頼」のほか、「政信」「政賢」「長房」など複数伝わっており 6 、これは彼の生涯において仕官先が変わるたびに改名した可能性を示唆している。
天正元年(1573年)、父・長政が織田信長に反旗を翻した結果、浅井家の本拠地である小谷城は信長軍の総攻撃を受けて落城。長政と祖父・久政は自刃し、北近江に栄華を誇った浅井氏は滅亡した 8 。
信長による浅井家への追及は苛烈を極め、特に男子に対しては徹底していた。井頼の兄で浅井家嫡男であった万福丸は、落城後に捕らえられ、関ヶ原の地で串刺しの刑に処されるという、当時としても極めて悲惨な最期を遂げている 7 。
このような状況下で、まだ幼子であった井頼がいかにして生き延びたのかは、彼の生涯における最初の大きな謎である。『浅井三代記』には、落城時に生まれたばかりの次男が難を逃れたという記述があり、『浅井氏家譜大成』はこの人物を喜八郎、すなわち井頼であるとしている 7 。具体的な逃亡経緯については、家臣の手によって密かに福田寺(滋賀県米原市)に預けられたとする説や、母方の縁故を頼って匿われたという口伝が残されている 7 。
この事実は、単なる幸運では説明がつかない。信長の権勢を恐れず、命がけで幼い主君を庇護した家臣団や縁者による強固な支援ネットワークが存在したことを強く示唆している。戦国時代の主従関係や縁戚関係が、単なる政治的・軍事的な結びつきだけでなく、極めて人間的な情愛や忠誠心に支えられていたことを示す好例と言えよう。この過酷な潜伏期間は、彼のその後の人生における慎重さや、人との縁を頼りに生き抜く処世術を育んだ重要な原体験となったに違いない。
【表1:浅井井頼 生涯年表】
年代(西暦) |
浅井井頼の動向・所属 |
主な出来事 |
関連史料・出典 |
1570-1573年頃 |
浅井長政の庶子として誕生 |
天正元年(1573年)小谷城落城、浅井家滅亡 |
7 |
1573-1583年頃 |
潜伏期間 |
兄・万福丸が処刑される |
7 |
1583-1585年頃 |
羽柴(豊臣)秀勝に仕える |
賤ケ岳の戦い(1583年) |
7 |
1585-1595年頃 |
豊臣秀長・秀保に仕える(600石) |
豊臣秀吉による天下統一が進む |
6 |
1595-1600年 |
増田長盛に仕える(3,000石) |
豊臣秀吉死去(1598年) |
6 |
1600年 |
関ヶ原の戦いで西軍に属し、戦後浪人となる |
関ヶ原の戦い |
7 |
1600-1613年頃 |
生駒一正に仕える |
徳川幕府開府(1603年) |
6 |
1613-1614年 |
山内忠義に仕えるも、奉公構により退去 |
- |
7 |
1614年(冬の陣) |
豊臣方として大坂城に入城。二の丸東方を守備 |
大坂冬の陣 |
6 |
1615年(夏の陣) |
天王寺・岡山合戦で本多忠朝を討つ。落城後、脱出 |
大坂夏の陣、豊臣家滅亡 |
7 |
1615-1661年 |
京極家に客分として仕える(作庵と号す、500石) |
京極家の移封に従い、若狭小浜から讃岐丸亀へ |
6 |
1661年5月16日 |
讃岐国丸亀にて死去 |
- |
6 |
潜伏期間を経て成長した井頼は、天正11年(1583年)頃、歴史の表舞台に再び姿を現す。彼が最初に仕えたのは、豊臣秀吉の養子であった羽柴秀勝であった 7 。かつて自らが滅ぼした浅井家の遺児を、秀吉が自身の縁者に仕えさせたという事実は、天下人としての度量を示すパフォーマンスであると同時に、浅井家の高貴な血統を自らの権威に取り込もうとする、秀吉の巧みな政治的計算が窺える。
秀勝の死後、井頼は秀吉の実弟である豊臣秀長、そしてその養子・秀保に仕え、大和郡山城を拠点に600石の知行を与えられた 6 。さらに文禄4年(1595年)に秀保が亡くなると、大和郡山城主となった豊臣政権五奉行の一人、増田長盛の家臣となる。この時、彼の知行は3,000石へと大幅に加増されており、一人の武将としての能力が非常に高く評価されていたことを示す客観的な証拠と言える 6 。
順調に武士としてのキャリアを再建していた井頼であったが、慶長5年(1600年)に勃発した関ヶ原の戦いが、彼の運命を再び暗転させる。主君である増田長盛が西軍に与したため、井頼もそれに従うことになった。しかし、長盛は徳川家康への内通疑惑もあって積極的に戦うことなく、西軍は敗北。戦後、長盛は所領を没収され改易となった 7 。
主家を失った井頼は、再び禄を失い、浪人の身へと転落する。彼の人生は、時代の大きなうねりによって否応なく翻弄され続けた。
この逆境の中、井頼は新たな仕官先を求めて奔走する。彼が次に頼ったのは、関ヶ原の戦いで東軍に属して戦功を挙げた讃岐高松藩主・生駒一正であった 6 。敵味方に分かれて戦った後であるにもかかわらず、こうした縁故が機能したことは、戦国末期の武士社会における個人的な繋がりや、個人の武勇への評価が重要であったことを示している。しかし、彼の流転はまだ終わらない。その後、土佐藩主・山内忠義にも短期間仕官するが、旧主である生駒家から「奉公構」が出されたため、退去を余儀なくされたという記録が残っている 7 。「奉公構」とは、ある武士が他家へ仕官することを妨害する措置であり、武士社会の厳しい掟と、一度失墜した者が再起することの困難さを生々しく物語っている。
井頼の経歴は、関ヶ原の戦いを境に多くの武士が経験した「生き残り」の典型的なパターンを示している。主家の選択が自らの運命を左右し、敗者となれば浪人せざるを得ない。再仕官の道は、過去の縁故や自身の能力を売り込む以外になく、極めて不安定であった。このような不遇と屈辱に満ちた日々が、慶長19年(1614年)に豊臣家から大坂城への誘いがあった際、それに乗じる大きな動機となったことは想像に難くない。彼にとって大坂の陣は、失われた地位と名誉を回復するための、文字通り最後の好機だったのである。
慶長19年(1614年)、徳川家と豊臣家の対立が頂点に達し、大坂冬の陣が勃発する。この時、浪人生活を送っていた浅井井頼のもとに、大坂城からの誘いが届いた。彼にとって、姉・淀殿が君臨する大坂城は、自らの血統と存在価値を最も高く評価してくれる場所であった 6 。豊臣家への旧恩、そして何よりも浅井家の血を引く者としての誇りと、一縷の望みをかけた再興への願いが、彼を西へ向かわせたのであろう。
大坂城に入った井頼は、城内の重要な防衛拠点の一つである二の丸の東方を守備する部隊に配属された 6 。これは、彼が寄せ集めの浪人衆の中でも、一定の信頼と評価を得ていたことを示している。
和議も束の間、翌慶長20年(1615年)5月、大坂夏の陣が始まる。豊臣方の命運を賭けた最終決戦の舞台は、大坂城南方の天王寺・岡山であった。この決戦において、井頼は豊臣軍の主力部隊を率いた猛将・毛利勝永の隊に属し、天王寺口の最前線に布陣した 6 。
5月7日、両軍は激突。この日の井頼の戦いぶりは、『大阪御陣覚書』などの軍記物に記録されている。毛利隊の右翼先鋒を務めた井頼の部隊は、徳川方の精鋭、本多忠朝の部隊と正面から激突した 9 。本多忠朝は、徳川四天王の一人である本多忠勝の次男であり、徳川軍の中でも屈指の勇将として知られていた。
この戦いで、浅井井頼の部隊は凄まじい猛攻を加え、本多忠朝の部隊を打ち破り、忠朝自身を討ち取るという大金星を挙げる 9 。これは、大坂夏の陣全体を通じても、豊臣方が挙げた数少ない、そして最も輝かしい戦果の一つであった。この一戦は、浅井井頼という武将の武勇を歴史に刻みつけた、紛れもない事実である。
この華々しい活躍こそが、後世に「浅井井頼は大坂の陣で討死した」という説が生まれる直接的な土壌となったと考えられる。あまりにも鮮烈な武功は、物語として「壮絶な戦死」という英雄的な結末と結びつきやすい。史実における彼の人生で最も輝いた瞬間が、皮肉にも、彼の実像を覆い隠す伝説の源泉となったのである。この戦功がなければ、彼が後に「根津甚八」のモデルとして注目されることもなかった可能性は極めて高い。
天王寺・岡山合戦で目覚ましい武功を挙げた井頼であったが、豊臣方の奮戦も虚しく、戦局は徳川方の圧倒的な物量の前に覆された。同日、大坂城は落城し、豊臣家は滅亡する。
多くの者が「井頼は討死した」と信じる中、彼は混乱の最中に城を脱出し、京都に潜伏していた 6 。彼の生存を裏付ける最も強力な証拠が、前述した次姉・常高院(初)の存在である。常高院の遺言状に残された「いまさらすてられ候ハぬ」の一文は、井頼が大坂の陣後も生きており、姉を頼っていたことを示す動かぬ証拠に他ならない 7 。
常高院は、嫁ぎ先である京極家の当主、京極忠高(常高院の夫・高次の子であり、井頼にとっては甥にあたる)に弟の庇護を強く依頼した。これにより、井頼は徳川方の追及を逃れ、若狭小浜藩京極家に客分として正式に迎え入れられることになったのである 6 。
京極家に身を寄せた井頼は、武士としての過去と決別し、穏やかな余生を送る道を選ぶ。彼は出家して「作庵(さくあん)」と号した 6 。これは、徳川幕府の監視の目を逃れ、静かに生きるための賢明な選択であったと考えられる。京極家からは客分として500石という手厚い知行を与えられており、彼の後半生が安穏なものであったことが窺える 6 。
その後、井頼は主家である京極家の移封に伴い、若狭小浜から出雲松江、播磨竜野、そして最終的には讃岐丸亀へと、長い道のりを共に歩んだ 6 。
そして寛文元年(1661年)5月16日、井頼は讃岐国丸亀の地で、その波乱に満ちた生涯を閉じた 6 。享年は90歳前後と推定され、戦国の動乱を生き抜いた武将としては異例の大往生であった。彼の墓は、丸亀市南条町にある京極家の菩提寺・玄要寺に現存し、過去帳にも「京極作庵」としてその名が確かに記されている 6 。また、井頼の子である長章らは丸亀藩士として家名を存続させ、浅井家の血脈は、ひっそりとではあるが、江戸時代を通じて受け継がれていった 7 。
井頼の生涯は、血縁というものが持つ二面性を浮き彫りにする。浅井長政の子という血筋は、彼を信長の追及の対象とし、大坂の陣では徳川方にとっての「逆賊」たらしめた。しかし、最終的に彼の命を救い、安穏な後半生を保障したのもまた、姉・常高院との血の絆であった。戦国の動乱期には政治的立場を左右した血縁が、泰平の世においては純粋な家族の情愛として機能したのである。彼の人生は、血縁というセーフティネットがいかに重要であったかを静かに物語っている。
浅井井頼の史実の生涯を理解した上で、我々は当初の疑問に立ち返らなければならない。なぜ、大坂の陣を生き延びて大往生を遂げた彼が、真田幸村の影武者として討死した英雄「根津甚八」のモデルとされるようになったのか。その謎を解く鍵は、明治から大正にかけて大衆文化を席巻した一連の出版物にある。
真田十勇士は、歴史上に実在した集団ではない。彼らは主として、明治44年(1911年)に大阪で創刊された少年向け読み物シリーズ「立川文庫」によって創作され、そのキャラクターが定着した架空のヒーロー集団である 10 。その物語の原型は、江戸時代中期の軍記物『真田三代記』などに見出すことができるが、猿飛佐助や霧隠才蔵をはじめとする十人がチームとして縦横無尽に活躍するという、今日我々が知る形を完成させたのは、紛れもなく立川文庫であった 11 。
立川文庫の物語は、『西遊記』のような冒険活劇の要素を巧みに取り入れ 16 、勧善懲悪で明朗快活な英雄たちの姿を描いた。その痛快なストーリーは、当時の少年たちを熱狂させ、一大ブームを巻き起こしたのである 13 。
立川文庫の世界において、根津甚八は、元は海賊の頭領で槍の名手 1 、大坂夏の陣の最終局面で主君・幸村の影武者となり、徳川家康の本陣に突撃して壮絶な討死を遂げる、という極めてヒロイックなキャラクターとして描かれている 1 。
この架空の英雄のモデルについては、大きく分けて二つの説が存在する。
一つは、真田氏と同じく信濃の豪族・滋野一族の流れを汲む、禰津氏の人物「禰津小六(ねづ ころく)」をモデルとする説である 5。真田家譜代の臣という物語上の設定に、歴史的な信憑性を与えるための、最も自然な由来と言える。
そしてもう一つが、本報告書の主題である、浅井井頼をモデルとする説である 5。
【表2:「浅井井頼」と「根津甚八」の比較分析】
比較項目 |
浅井井頼(史実) |
根津甚八(創作上の人物) |
出自 |
浅井長政の庶子。近江国出身。 |
信濃の豪族・禰津氏出身(という設定)。元海賊。 |
大坂の陣での役割 |
豊臣方。毛利勝永隊の一員として参戦。 |
豊臣方。真田幸村の家臣(十勇士)。幸村の影武者。 |
実際の戦功/物語上の活躍 |
天王寺・岡山合戦で徳川方の勇将・本多忠朝を討ち取る。 |
幸村の身代わりとなり、徳川家康の本陣に突撃。 |
最期 |
1661年、讃岐国丸亀にて90歳前後で病死。 |
大坂夏の陣にて、影武者として奮戦し討死。 |
根拠となる史料/物語 |
『徳川実紀』『大阪御陣覚書』『常高院様御文』など |
『立川文庫』『真田三代記』など |
この比較分析から、史実の浅井井頼と創作上の根津甚八が、全く異なる人物であることが明確になる。では、なぜ両者が結びつけられたのか。その変容のプロセスは、以下のように推察できる。
第一に、講談師や立川文庫の作者たちは、大坂の陣の英雄譚をより面白く、劇的にするために、史実の中に魅力的なエピソード、すなわち「物語の素材」を探した。
第二に、その過程で、浅井井頼が徳川の重臣・本多忠朝を討ち取ったという輝かしい武功が発見された。これは、豊臣方の数少ない勝利の一つであり、物語を盛り上げる上で非常にドラマチックな「素材」であった 9 。
第三に、この「浅井井頼の華々しい武功」という史実の要素を、すでに設定されていた「根津甚八」というキャラクターの物語に融合させたのである。あるいは、井頼の武功を元に、彼を影武者として討死させるという、より英雄的で悲劇的な物語へと脚色していった。
第四に、浅井長政の息子という井頼の高貴な血筋は、一介の勇士に過ぎない根津甚八というキャラクターに、悲劇性と物語的な深みを与える上で、格好の「権威付け」となった。
結果として、史実の井頼が挙げた「武功」は、架空の根津甚八が遂げた「討死」という、より大衆に受け入れられやすく、感動的な物語の中に吸収され、上書きされてしまった。人々は覚えやすく、心を揺さぶる物語を選択し、史実の井頼が辿った長く静かな後半生は、次第に忘れ去られていったのである。これは、歴史的事実が、大衆文化の持つ強力な物語性によっていかに容易に塗り替えられてしまうかを示す、極めて顕著な一例と言えるだろう。
浅井井頼の生涯は、戦国の世に名を馳せた父・長政や、歴史の転換点に深く関わった三人の姉たちの華やかな名の陰に、そして自らの武功が生み出した「根津甚八」という勇壮な伝説の影に、長らく隠されてきた。
しかし、史料を丹念に紐解くことで現れるその実像は、決して単なる悲劇の脇役ではない。それは、戦国の動乱から徳川の泰平へと移行する時代の激流の中を、自らの血統と縁故、そして一人の武士としての矜持を頼りに、90年近い歳月を必死に生き抜いた、一人の人間の力強い姿である。
彼は、歴史を大きく動かした英雄ではないかもしれない。だが、主家を次々と変え、浪人の苦渋を味わい、最後の戦場で武士としての誉れを立て、そして姉の情けによって安らかな最期を迎えた彼の人生は、戦国という時代の厳しさ、その中で生きる人々のしたたかさ、そしていかなる時代においても変わらぬ家族の絆の尊さを、我々に静かに語りかけてくれる。
浅井井頼の物語は、我々が慣れ親しんでいる「歴史」が、しばしば後世に作られた物語によって形作られているという事実を改めて示す。伝説のベールを一枚一枚剥がし、その下に埋もれた史実の人物像と向き合う作業は、歴史を探求する上で最もスリリングな知的冒険の一つである。そして、そこにこそ、名もなき人々の生きた証と、歴史の奥深い真実を発見する、計り知れない喜びが存在するのである。