浅利定頼公に関する調査報告
はじめに
本報告は、戦国時代に出羽国比内郡(現在の秋田県北部)を拠点とした浅利一族の武将、浅利定頼(あさり さだより)について、現存する史料や伝承を基に、その生涯、事績、そして彼が生きた時代の背景を明らかにすることを目的とします。
浅利定頼に関しては、「浅利家臣。則頼の弟。花岡城主。則頼・則祐・勝頼に仕え北の守りを任された。勝頼が安東家から独立を図った際、安東愛季と山田合戦で戦い、敗死した」という概要が知られています。本報告では、これらの情報を基礎としつつ、定頼の出自や浅利一族内における立場、花岡城主としての具体的な役割、彼が命を落とすことになった山田合戦に至る詳細な経緯と合戦の内容、さらには定頼の人物像や後世に残る伝承について、より深く、多角的な視点から掘り下げてまいります。
第一章:浅利定頼の出自と浅利一族
第一節:浅利氏の概要
浅利氏は、その出自を清和源氏義光流に求め、甲斐国八代郡浅利郷(現在の山梨県中央市浅利周辺)を本貫とした甲斐浅利氏と、そこから分派し、出羽国比内郡を本拠地とした出羽浅利氏(比内浅利氏とも称される)の二つの流れが確認されています。本報告の主題である浅利定頼は、この出羽浅利氏の一員です。
出羽浅利氏の祖と一般に認識されているのは浅利与市義遠(よしとお、「義成」や「遠義」とも記される)ですが、彼が文治五年(1189年)の源頼朝による奥州合戦での功績により、比内郡の地頭職を得たとされる伝承については、その事実を直接的に裏付ける同時代の史料は現在のところ見出されていません。
戦国時代に入り、比内地方における浅利氏の勢力基盤を確立したのは、浅利則頼(のりより、または「さだのり」とも読まれる人物)でした。則頼は永正年間(1504年~1520年)に甲斐国から比内地方へ移住し、十狐城(とっこじょう、独鈷城とも。現在の大館市比内町独鈷に比定)を築城して本拠地と定め、比内地方一帯をその支配下に置いたとされています。則頼は、弟たちを領内の戦略的要衝に配置することで、一族による支配体制の強化を図りました。
浅利則頼が比内に入部し、十狐城を本拠として弟たち、すなわち頼重を笹館城代、定頼を花岡城代に据えたことは、外部勢力、特に東の南部氏や西の安東氏との間で常に緊張を強いられる地政学的状況下において、一族を中心とした領国支配を効率的かつ強固に推し進めるための戦略的な配置であったと考えられます。比内地方は、南に仙北の小野寺氏、東に鹿角の南部氏、西に檜山の安東氏という有力な戦国諸侯に囲まれており、特に北方を守る花岡城に定頼を配したことは 1 、安東氏の勢力圏に対する直接的な防衛線を構築する意図の表れと見ることができます。戦国時代の地方豪族が、本拠地を核として一門衆を戦略的要地に配することで領国経営と防衛体制を強化するのは一般的な手法であり、則頼のこの配置は、浅利氏全体の防衛戦略上、極めて重要な意味を持っていたと推察されます。このことは、後に定頼が山田合戦において安東氏と直接対峙することになる運命を暗示していたとも言えるでしょう。
第二節:浅利定頼の系譜と一族内での立場
浅利定頼は、比内浅利氏の初代当主とも評される浅利則頼の弟として、史料にその名が記録されています。このことから、定頼が一族の中でも枢要な地位を占めていたことが窺えます。
則頼の没後(天文十九年、1550年と伝わる)、浅利氏の家督は則頼の子である則祐(のりすけ)、そしてその弟である勝頼(かつより)へと継承されました。定頼は、これら甥たちの時代にわたり、浅利家を支える重臣としての役割を担ったと考えられています。
則頼の嫡男であった則祐と、その弟(一説には異母弟)とされる勝頼の間には、家督を巡る深刻な確執が存在しました。永禄五年(1562年)、勝頼は宿敵であった檜山安東氏と密かに通じ、兄である則祐を自害へと追い込みました。この結果、勝頼が浅利氏の新たな当主として立つことになります。
この一族内部の動揺期において、則頼の弟である定頼が具体的にどのような立場を取り、いかなる役割を果たしたのかを詳細に記す史料は乏しいのが現状です。しかしながら、花岡城主として北方の守りを固めるという軍事的な重責を引き続き担っていたことは重要です。ある小説作品においては、勝頼が兄・則祐との対立の中で苦境に立たされた際、叔父である定頼のもとに一時的に蟄居していたという描写が見られます。これが史実を反映したものかは慎重な判断を要しますが、定頼が一定の後見的な立場にあった可能性を示唆するものとして注目されます。
表1:浅利氏主要人物関係図
関係 |
氏名 |
備考 |
(本報告対象) |
浅利定頼 |
則頼の弟。花岡城主。山田合戦にて戦死。 |
兄 |
浅利則頼 |
比内浅利氏初代当主。十狐城主。 |
甥(則頼の子) |
浅利則祐 |
則頼の嫡男。第二代当主。勝頼により自害に追い込まれる。 |
甥(則頼の子) |
浅利勝頼 |
則頼の子、則祐の弟。第三代当主。安東愛季に謀殺される。 |
大甥(定頼の子) |
浅利定友 |
定頼の嫡男。父の死後、花岡城を継いだとされる。別名「実友」。 |
大甥の孫(定友の子) |
浅利定俊 |
定友の子。信正寺(大館市)の開基と伝わる(異説あり)。 |
この関係図は、浅利一族、特に則頼、則祐、勝頼、そして定頼の間の血縁関係を示しています。則祐と勝頼の家督争いは浅利氏にとって大きな転換点であり、定頼がその中でどのような立場にあったのかを理解することは、後の山田合戦への経緯を把握する上で不可欠です。
第二章:花岡城主としての浅利定頼
第一節:出羽国花岡城の概要
浅利定頼が城主を務めた花岡城は、現在の秋田県大館市花岡町字アセ石に存在した平城形式の城郭であったとされています 1 。別名として浅石城(あせいしじょう)とも呼ばれたという記録も残っています 1 。
花岡城の正確な創建時期については明らかではありませんが、比内浅利氏の初代当主である浅利則頼が比内地方の支配を確立する過程で、北方の防衛拠点として築いたものと考えられています。その後、『長崎氏旧記』によれば、永正十七年(1520年)に則頼の弟である浅利九兵衛定頼(本報告の浅利定頼と同一人物)が花岡城の城代に任じられたと記されています 1 。この時、定頼は770石の知行を与えられたと伝えられています 1 。
『長崎氏旧記』が伝える浅利定頼の永正十七年(1520年)花岡城代就任という記述は、定頼の具体的な活動開始時期を示す貴重な情報源です。この時期は、兄・則頼による比内支配が確立されつつあった頃であり、信頼の置ける弟を戦略的に重要な拠点に配置することは、当時の状況を鑑みても理に適った判断と言えます。実際に、他の記録によれば、則頼は永正年間(1504年~1520年)に比内へ入り十狐城を築き、弟の定頼を花岡城代としたとされており、時期的な整合性が見られます。『長崎氏旧記』の原典が長崎氏の家伝的記録であった可能性を考慮すると 2 、浅利氏内部の動向に関する情報は一定の信憑性を持つと考えられます。ただし、軍記物や後世の編纂物に見られる記述は、伝承や脚色が含まれる可能性も否定できないため、他の史料との比較検討が常に求められますが、この場合、則頼の活動時期と定頼の城代就任時期が合致することから、その蓋然性は比較的高いと判断できます。
花岡城は、大館城(浅利勝頼が後に築城)の北方約5キロメートルに位置する神山台地上に築かれ、二本の浸食谷を天然の堀として巧みに利用した構造であったと推測されています 1 。この立地から、浅利氏にとって、北に勢力を張る安東氏や東の南部氏に対する最前線基地の一つとして、極めて重要な戦略的意味合いを持っていたと考えられます。
現在、花岡城跡は秋田県立大館工業高等学校の敷地となっており、校舎建設などによって城の遺構の多くは改変を受けています。しかし、かつての空堀の役割を果たしたとされる浸食谷の一部が今も残存しており、往時の姿を偲ばせます 1 。この城跡は「花岡城跡・神山遺跡」として、大館市教育委員会による詳細な分布調査の対象ともなっています。
第二節:城代としての浅利定頼の活動
浅利定頼は、兄である浅利則頼の時代から、甥の則祐、そして勝頼の代に至るまで、一貫して花岡城主として浅利領の北方の守りを任されていました 1 。このことは、花岡城が隣接する安東氏の勢力圏に対する最前線であり、常に軍事的な緊張下に置かれていたことを意味します。
城代としての定頼の具体的な内政や軍事行動に関する詳細な記録は、残念ながら乏しいのが現状です。しかし、長期間にわたりこの戦略的に重要な拠点を保持し続けたという事実は、定頼が武将として、また領主として一定の能力と統率力を有していたことを強く示唆しています。ある小説作品では、定頼が浅利氏の軍事を一手に掌握し、幾度も安東氏の侵攻を撃退した猛将として描かれていますが、これが史実に基づいているかについては、別途確たる史料による裏付けが必要です。
表2:浅利定頼 関連略年表
年代(西暦) |
元号 |
出来事 |
関連史料・備考 |
生年不詳 |
|
浅利定頼、浅利則頼の弟として誕生 |
|
1520年 |
永正十七年 |
浅利定頼、花岡城代となる(『長崎氏旧記』による) |
1 |
1550年 |
天文十九年 |
兄・浅利則頼、死去 |
|
1562年 |
永禄五年 |
甥・浅利則祐、安東氏と通じた弟・勝頼により自害。勝頼が浅利氏当主となる。 |
|
1574年 |
天正二年 |
山田合戦。浅利勝頼・定頼連合軍、安東愛季軍と戦い敗北。浅利定頼、この合戦にて戦死。 |
3 |
この年表は、浅利定頼の生涯と彼が生きた時代の主要な出来事を時系列で整理したものです。浅利氏内部の権力構造の変化や、宿敵である安東氏との関係性の変遷の中で、定頼がどのような時期にどのような立場に置かれていたのかを把握する一助となります。
第三章:山田合戦と浅利定頼の最期
第一節:山田合戦の背景
浅利氏の当主であった浅利勝頼は、それまで一定の従属関係にあった、あるいは同盟関係にあった檜山安東氏からの完全な独立を画策しました。この勝頼の野心的な動きが、当時の出羽国北部で強大な勢力を誇った安東愛季(あきすえ、諱は道季(みちすえ)とも伝わりますが、本報告では「愛季」で統一します)との間に深刻な対立を引き起こす直接的な原因となりました。
勝頼が安東氏からの独立を目指した背景には、複雑な要因が絡み合っていたと考えられます。まず、兄・則祐を安東氏の力を借りて排除し家督を継いだという経緯 から、当初は安東氏に対して従属的な立場を余儀なくされていた可能性が高いです。しかし、当主としての権力基盤を固める中で、次第に自立への志向を強めていったのでしょう。新たに大館城を築いたこと も、勢力基盤の強化と独立への強い意志の表れと解釈できます。戦国時代特有の下克上の風潮や、領土拡大・勢力伸長への野心も、勝頼の行動を後押しした要因として考えられます。しかしながら、安東氏は出羽北部において広大な影響力を有する大名であり、その軍事力は浅利氏を大きく凌駕していました。したがって、勝頼の独立企図は、浅利一族の存亡を賭けた極めてリスクの高い挑戦であり、叔父である浅利定頼も、この渦中に否応なく巻き込まれていくことになります。
当時の出羽国北部は、安東氏、南部氏といった有力大名の勢力圏が接し、さらに中央政権の動向も影響を及ぼすなど、複雑な情勢下にありました。浅利氏のような中小規模の在地領主にとっては、常に周囲の顔色を窺い、生き残りをかけた巧みな外交戦略と軍事力の保持が不可欠な時代でした。
第二節:山田合戦(天正二年)の勃発と経過
天正二年(1574年)、安東氏からの独立を目指す浅利勝頼と、その叔父である花岡城主・浅利定頼の連合軍は、これを阻止しようとする安東愛季の軍勢と、山田の地(現在の秋田県大館市山田地区周辺と推定されます)で激突しました 3 。これが「山田合戦」と呼ばれる戦いです。
この合戦の具体的な戦闘経過に関する詳細な一次史料は限られていますが、伝承や後世の記録によれば、浅利軍は奮戦したものの、兵力に勝る安東軍の前に大敗を喫したとされています 3 。
そして、この山田合戦において、花岡城主として浅利軍の一翼を担った浅利定頼は、奮戦の末、討死を遂げました 3 。
長年にわたり浅利領の北方の守りの要であった花岡城主・浅利定頼の戦死は、当主・浅利勝頼にとって、軍事的に計り知れない打撃であったことは想像に難くありません。一族の重鎮であり、経験豊富な武将であった叔父を失ったことは、勝頼自身の指導力や求心力にも影響を与え、心理的な動揺も大きかったと推察されます。ある創作物では定頼が「浅利の軍事を一手に握っている」とまで評される猛将として描かれていますが、仮にこれが実情に近い人物評であったとすれば、その戦死は浅利氏の戦力にとって致命的な損失であったと言えるでしょう。この敗北と定頼の死により、勝頼の独立計画は初期段階で大きな挫折を喫し、浅利氏の衰退への道筋がより鮮明になったと考えられます。
第三節:古戦場と伝承
山田合戦の具体的な戦場については、いくつかの伝承や記録が残されています。
江戸時代の紀行家である菅江真澄は、その著作『にえのしがらみ』(享和三年、1803年成立)の中で、「萱刈平(かやかりたいら)のほとりに勝山(かつやま)という山があり、今は寒山(かんざん)と人々は呼んでいる。そこで某年十二月一日、浅利の軍勢がやぶれて、浅利定頼が討死した」と記しています 3 。この記述は、山田合戦の具体的な場所と浅利定頼の最期を伝える重要な手がかりとされています。ただし、菅江真澄の記録では合戦の日付を「十二月一日」としていますが、他の多くの史料では山田合戦(定頼戦死)を天正二年(1574年)のこととしており、月日についてはさらなる検討が必要です。
また、地元に伝わる「やまだより」によれば、山田集落と茂屋集落の間に位置する茂屋方山(もやかたやま)から切り出された三十六本の石が、浅利定頼の弔いのためにこの地に建てられたという伝承があります。現在も「古戦場 石仏」と記された碑が残されており 3 、この石仏群の存在は、山田合戦の激戦地がこの周辺であったことを強く示唆しています。
さらに、山田の地には「勝山越後三郎(かつやま えちごさぶろう)」という地侍に関する伝承も残されています 4 。この伝承では、勝山越後三郎と浅利定頼の間に確執があり、萱刈岳がその舞台として登場します。菅江真澄が記録した浅利定頼戦死の地「勝山(寒山)」と、この「勝山越後三郎」の名の一致は単なる偶然ではなく、何らかの関連性を示唆している可能性があります。
しかしながら、勝山越後三郎の伝承 4 では、定頼と越後三郎の対立が物語の中心であり、定頼自身の死については明確に語られていません(むしろ越後三郎が定頼の弟を討ったとされています)。一方で、複数の史料 3 および菅江真澄の記録(「浅利の軍勢がやぶれて、浅利定頼が討死した」との記述 3 )は、定頼が山田合戦において安東軍と戦い敗死したことを示しています。
これらの情報を総合的に勘案すると、いくつかの可能性が考えられます。第一に、安東氏との山田合戦と、浅利氏と勝山越後三郎との間の別の紛争という、二つの異なる出来事が存在し、地名や人物名が類似しているために後世に混同された、あるいは関連付けられた可能性。第二に、勝山越後三郎が山田合戦の際に安東方に加担したか、あるいは浅利方の混乱に乗じて何らかの行動を起こし、それが定頼の死に間接的に関わったという記憶が伝承として残った可能性。第三に、伝承自体が複数の出来事や人物を複合的に反映している可能性です。
本報告においては、浅利定頼の直接の死因としては、史料的に裏付けの多い「山田合戦における対安東愛季戦での戦死」を主軸として捉えるのが妥当と考えられます。勝山越後三郎の伝承は、山田合戦の舞台となった地域のローカルな伝承、あるいは別の出来事に関するものとして、慎重に扱う必要があります。菅江真澄の記録が「浅利の軍勢がやぶれて」と明確に記している点は、組織的な軍勢同士の戦い、すなわち対安東戦であったことを支持するものです。
第四節:合戦の影響と浅利氏のその後
山田合戦における敗北と、一族の重鎮であった浅利定頼の戦死は、浅利勝頼の独立計画に致命的な打撃を与えました。これにより、浅利氏は安東氏に対する劣勢を挽回することが一層困難になったと考えられます。
その後も浅利勝頼は安東氏との抗争を継続しますが、天正十年(1582年)または天正十一年(1583年)三月、安東愛季の謀略にかかり、和睦交渉と偽って招かれた檜山城での酒宴の席で殺害されてしまいました。これにより、比内浅利氏は当主を失い、組織的な抵抗力を大きく削がれ、事実上瓦解に近い状態に陥ります。
勝頼の子である頼平(よりひら)は、津軽為信を頼って比内から逃れ、後に豊臣政権下で旧領回復を目指しますが、その試みも叶いませんでした。慶長三年(1598年)正月、頼平は大坂において急死します。この死については、秋田実季(安東愛季の子)による毒殺説も伝えられています。頼平の死をもって、比内浅利氏による比内地方の支配は終焉を迎え、その所領は安東(秋田)氏のものとなりました。
第四章:浅利定頼の人物像と後世への影響
第一節:史料から推察される人物像
浅利定頼の具体的な性格や人となりを直接的に伝える同時代の一次史料は、残念ながら極めて限定的です。そのため、彼の人物像については、残された行動記録や後世の伝承から推察するに留まります。
まず、花岡城という浅利領北方の戦略的要衝を長年にわたり守り抜き、最終的に山田合戦で奮戦し戦死を遂げたという事績から、武勇に優れた武将であったことは間違いありません。また、兄・則頼の代から甥・勝頼の代に至るまで浅利家に仕え、特に勝頼の独立計画という一族の命運を賭けた危険な企てにも与力し、自らの命を落としたことから、一族に対する忠義心も非常に厚かった人物であったと考えられます [User Query]。
ある現代の歴史創作小説では、浅利定頼について「豪放にして義を重んじ」、「政略にはまったく関心を示さず、ひたすら戦に出るような猛将」、「浅利の軍事を一手に握っているといってもよい」といった描写がなされています。これはあくまでフィクションにおける人物造形であり、史実としての性格を断定するものではありません。しかし、彼の戦歴や最期から想起されるイメージの一つとして、参考にはなり得ます。学術的な報告としては、こうした描写はあくまで参考情報として提示するに留め、断定的な表現は避けるべきです。定頼の人物像については、「武勇に優れ、主家への忠誠心が篤い武将であったと推測される」といった表現が、現時点では最も適切と言えるでしょう。
第二節:子孫と浅利氏のその後
浅利定頼が山田合戦で戦死した後、その跡は嫡男である治郎吉定友(じろきち さだとも、「実友」とも記される)が継いだと伝えられています 1 。
さらに、定友の子、すなわち定頼の孫にあたる浅利定俊(さだとし)は、秋田県大館市花岡町にある信正寺(しんしょうじ)の開基となったという伝承があります 1 。しかしながら、別の記録 によれば、信正寺は元々「昌森寺」と号する真言宗の寺院でしたが、天正年間に現在の曹洞宗の寺院として七ツ館の地に移転した後、浅利定頼の戦死(天正二年、1574年)を受けて、その子息である実友(定友)が父・定頼を開基として寺を再建したとされています。戦死した父を弔うために寺院を建立または再興するという行為は、戦国時代から江戸時代にかけて武士の間で広く見られた慣習であり、この記述は定頼が地域で記憶され、供養されていたことを示す重要な手がかりとなります。定俊開基説との差異については、記録の過程での混同や、「開基」という言葉が創建者だけでなく寺院の再興に大きく貢献した人物を指す場合もあることから生じた可能性などが考えられます。どちらの説がより正確であるかを現時点で断定することは困難ですが、定頼を開基とし定友が再建したとする説 は具体的な経緯を含んでおり、検討に値します。
比内浅利氏の本家は、前述の通り浅利頼平の代で実質的に終焉を迎えますが、一族の分流や家臣の子孫たちは、他家に仕官するなどしてその血脈を後世に伝えたと考えられます。例えば、慶長七年(1602年)には、浅利牛欄(あさり ぎゅうらん、浅利氏の一門か有力家臣であったと推測される)が鷹匠として横手城主佐竹氏に仕官したという記録があり、浅利氏ゆかりの人物が佐竹藩政下で活動していたことが確認できます。浅利定頼の直系子孫の具体的な動向については、現在のところ詳細な史料に乏しく、追跡は困難です。
第三節:後世の記憶と評価
浅利定頼の生涯と最期は、後世の人々によって記憶され、語り継がれてきました。
『浅利軍記』などの軍記物において、山田合戦における定頼の討死が記されており、彼の勇猛な最期が地域の歴史物語の中で重要な一場面として認識されていたことが窺えます。
また、江戸時代後期の紀行家である菅江真澄が、定頼の戦死から二百年以上も後に、その戦死地とされる場所や関連する伝承を詳細に記録していることは 3 、定頼の記憶が地域社会に深く根付いていたことを示す有力な証拠と言えます。
さらに、「やまだより」に伝えられる、浅利定頼を弔うために三十六体の石仏が建立されたという伝承 3 も、彼の死が地域の人々にとって単なる一武将の戦死以上の、印象深い出来事として受け止められていたことを物語っています。
現代においても、秋田県大館市に関連する歴史資料やウェブサイトなどで、浅利氏や花岡城、山田合戦がしばしば取り上げられており 1 、また、インターネット上の小説投稿サイトで浅利定頼を題材とした創作物が見られること からも、彼を含む地域の歴史に対する関心が今日まで継続していることがわかります。
おわりに
本報告では、戦国時代の出羽国比内地方に生きた武将、浅利定頼について、現存する史料や伝承を基に、その出自、花岡城主としての役割、山田合戦における奮戦と最期、そして後世に遺るその記憶について詳述してまいりました。
浅利定頼は、兄・浅利則頼が築いた比内浅利氏の勢力基盤を守るため、北方の要衝である花岡城にあってその武勇を発揮し、甥である浅利勝頼の代には、その独立への野心的な動きに与し、結果として自らの命を捧げた武将であったと結論付けられます。
浅利定頼の生涯は、戦国時代という激動の時代を生きた地方豪族が直面した厳しい現実、すなわち一族内部の結束と対立、周辺の強大な勢力との間で自立を模索する困難さ、そして武士としての忠義と勇名を後世に伝えようとした生き様を、私たちに示しています。彼の存在は、出羽国比内地方の戦国史を理解する上で、決して看過することのできない重要な位置を占めていると言えるでしょう。
参考文献
本報告の作成にあたり参照した主要な情報源は以下の通りです。(史料名は確認できたもののみ記載)