浅野幸長
浅野幸長は豊臣秀吉の縁戚。関ヶ原で東軍につき岐阜城攻略で武功を挙げ、紀州藩初代藩主となる。武勇と学問を兼ね備え、紀州の発展に尽力した。

浅野幸長の実像 ―豊臣から徳川へ、激動の時代を生きた武将の生涯と事績―
序章:浅野幸長という武将
浅野幸長は、戦国時代の終焉から江戸時代初期という、日本史における一大転換期を生きた武将である。豊臣秀吉の縁戚にして恩顧の大名でありながら、父・浅野長政と共に徳川家康に与し、関ヶ原の戦いで武功を挙げ、紀州和歌山に三十七万石余の大封を得て初代藩主となった。彼の生涯は、豊臣政権の崩壊と徳川幕府の成立という激動の中で、多くの武将たちが直面した複雑な状況と苦渋の選択を象徴している。幸長の人生は、単なる武勇伝に留まらず、その政治的判断力、家を存続させるための知略、そして新時代の統治者としての側面も持ち合わせていたことを示唆している 1 。
本報告書では、浅野幸長の出自と成長、豊臣政権下での活動、関ヶ原の戦いにおける役割、紀州藩初代藩主としての治績、そして彼をめぐる人物評価や逸話、さらには死因の謎に至るまで、現存する史料に基づいて多角的に検証し、その実像に迫ることを目的とする。彼の生涯を丹念に追うことで、戦国末期から江戸初期にかけての武将の生き様と、時代の大きなうねりを浮き彫りにしたい。
第一章:浅野幸長の出自と家系
1.1. 生誕と幼名、改名
浅野幸長は、天正4年(1576年)、近江国浅井郡小谷(現在の滋賀県長浜市湖北町)において、浅野弾正少弼長政の長男として生を受けた 2 。幼名は長満(ちょうまん)といい、後に長継(ながつぐ)、長慶(ながよし)を経て、幸長(よしなが)と改名した 2 。通称としては、三左衛門、あるいは官位にちなんで岐阜侍従、吉田侍従、播磨宰相、姫路宰相などとも呼ばれた 4 。武家社会において、元服、主君からの偏諱(へんき:諱の一字を与えられること)、あるいは心機一転の意図など、様々な理由で改名が行われることは一般的であり、幸長の改名もまた、彼の生涯における節目々々を反映していると考えられる。
1.2. 父・浅野長政と浅野家の背景
幸長の父・浅野長政は、豊臣秀吉の天下統一事業において重きをなした人物である。長政は秀吉の正室・寧々(高台院、北政所)と義理の兄妹(長政の妻・長生院が寧々の実妹、あるいは長政と寧々が共に浅野長勝の養子であったとされる)という極めて近しい関係にあった 2 。この縁により、長政は秀吉に早くから仕え、五奉行の一人、しかもその筆頭格として豊臣政権の中枢を担った 4 。
長政は、太閤検地の推進役としてその成功に貢献し 8 、また関東・奥羽の諸大名との取次役を務めるなど 8 、卓越した実務能力を発揮して秀吉の信頼を得た。天正15年(1587年)には若狭一国を与えられて小浜城主となり、文禄2年(1593年)には甲斐国に二十二万五千石(幸長の分を含む)を与えられ、国持ち大名となっている 9 。
一方で、同じ五奉行の一人である石田三成らとは、朝鮮出兵の是非などを巡って意見を異にすることもあったと伝えられる 9 。秀吉の死後は、早くから親交のあった徳川家康に接近し、慶長4年(1599年)には家康暗殺計画への関与を疑われて甲斐に蟄居、家督を幸長に譲って隠居するという事態も経験している 10 。こうした父・長政の豊臣政権内での立場、そして秀吉没後の政治的判断は、幸長の人生、特に関ヶ原の戦いにおける東軍参加という重大な決断に大きな影響を与えたことは想像に難くない。父・長政が幸長に遺したとされる「領民の暮らしあっての大名。幸長、堅固な城よりも豊かな民を持つことを心がけよ」という言葉は、幸長の後の紀州藩統治の理念にも繋がった可能性が示唆されている 1 。
1.3. 家族構成
幸長には、同母弟として後に浅野家宗家を継ぎ、安芸広島藩の初代藩主となる浅野長晟(ながあきら)、そして常陸笠間藩主となる浅野長重(ながしげ)がいた 2 。また、姉妹には杉原長房室、堀親良室、松平定綱室などがいる 2 。
正室としては、池田恒興の娘を迎えている 2 。これ以前に、前田利家の五女である与免(ため)と婚約していたが、与免は文禄2年(1593年)に17歳で嫁ぐことなく早世した 2 。
幸長には男子がおらず、娘が二人いた。一人は春姫といい、尾張藩初代藩主徳川義直の正室となった 2 。もう一人は花姫といい、福井藩主松平忠昌の正室となった 2 。男子がいなかったため、幸長の死後、浅野家の家督は弟の長晟が継承することになる 2 。娘たちが徳川御三家筆頭の尾張徳川家や有力親藩である福井松平家に嫁いでいる点は、徳川政権下における浅野家の地位安定化を図るための政略結婚であったと解釈できる。
1.4. 官位の変遷
浅野幸長の生涯における官位の変遷は、彼の地位の上昇を物語っている。天正17年(1589年)、14歳の時に従五位下・左京大夫(さきょうのだいぶ)に叙任された 2 。これは豊臣政権下での浅野家の立場を反映したものであろう。
関ヶ原の戦いで戦功を挙げ、紀州藩主となった後の慶長6年(1601年)には、従四位下・紀伊守(きいのかみ)に昇進している 2 。
死後、時代は下って明治43年(1910年)4月2日には、父・長政が贈従三位に叙せられているが 15 、幸長自身も贈従三位に叙せられたと複数の資料に記載がある 2 。明治時代の贈位は、国家への貢献や歴史的評価に基づいて行われるものであり、幸長の関ヶ原での功績や紀州藩の藩祖としての業績が、後世において改めて評価されたことを示している。従三位は当時の叙位条例において子爵に準じる礼遇であり、軍人の階級では陸軍大将に相当する高い位であった 16 。幸長への贈位の正確な日付や理由は現時点では確認できないが、父・長政の例や当時の贈位の慣習から推察するに、豊臣から徳川への移行期における国家の安定への貢献が認められたものと考えられる。
提案表1:浅野幸長 官位・改名一覧
年代 |
出来事・改名・官位など |
典拠 |
天正4年(1576年) |
近江国浅井郡小谷にて誕生、幼名:長満(ちょうまん) |
2 |
時期不詳 |
初名:長継(ながつぐ) |
2 |
時期不詳 |
改名:長慶(ながよし) |
2 |
時期不詳 |
改名:幸長(よしなが) |
2 |
天正17年(1589年) |
従五位下・左京大夫に叙任 |
2 |
慶長6年(1601年) |
従四位下・紀伊守に叙任 |
2 |
死後 |
贈従三位 |
2 |
第二章:豊臣政権下での躍進と試練
2.1. 小田原征伐での初陣と武功 (天正18年・1590年)
浅野幸長の初陣は、天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原北条氏攻めであった 1 。当時15歳の幸長は、疱瘡(天然痘)を患っていたにもかかわらず、父・長政に同行を強く願い出て参陣したと伝えられる 1 。この逸話は、若き幸長の武門の子としての気概と、戦場への強い意志を示している。
『名将言行録』によれば、武蔵岩槻城攻めでは自ら敵兵の首級を上げる武功を立て、さらに武蔵忍城攻めにおいては、石田三成らが攻めあぐねていた中、浅野勢が一時崩れかけた際に、幸長は槍を横たえて退却する兵を押しとどめ、「わしはここにおるぞ、お前たち、わしを見捨てるか」と叫んで敵陣に突進し、味方を奮い立たせて千駄口の砦を奪取したという 7 。この幸長の勇猛な働きぶりを伝え聞いた秀吉は、「わしは長満(幸長の幼名)が生まれて七日目に、長政の屋敷を訪ねて、長満の泣き声を聞いた。その折、鳶が鷹を生んだものよと褒めたものだが、只今の働き、まさに逸物の鷹よ」と称賛したとされ、告げ口した者は口をつぐんだという 7 。
この初陣での目覚ましい活躍は、幸長の武将としての将来性を周囲に強く印象づけるものであった。特に総帥である秀吉からの高い評価は、その後の彼のキャリアにとって大きな後押しとなったことは間違いない。ただし、『名将言行録』のような後世に編纂された軍記物は、しばしば英雄譚として脚色される傾向があるため、その記述の全てを史実として鵜呑みにすることはできず、他の一次史料との比較検討を通じて慎重に評価する必要がある。
2.2. 文禄・慶長の役(朝鮮出兵)への従軍
小田原征伐に続く大きな戦役として、幸長は文禄・慶長の役、すなわち朝鮮出兵にも二度にわたり従軍している。
文禄元年(1592年)、17歳の幸長は父・長政と共に初めて朝鮮半島へ渡海した 1 。釜山に上陸後、各地を転戦し、晋州城攻めなどで戦功を挙げたとされる 1 。この間、加藤清正が築いた西生浦倭城(ソセンポウェソン)に進駐し、防衛の任にもあたった 2 。
慶長2年(1597年)からの慶長の役では、22歳で再び朝鮮へ渡海し、西生浦倭城に拠った 1 。この役で最も著名な幸長の活躍は、蔚山(ウルサン)城の戦いにおける奮戦である。加藤清正が蔚山に新城を築城中、明・朝鮮連合軍の急襲を受けた際、幸長は救援に駆けつけ、清正らと共に籠城し、激戦を繰り広げた 2 。『名将言行録』や『浅野家伝記』によれば、幸長は自ら鉄砲を手に取って応戦し、顔が黒煙で黒く染まるほどであったと伝えられる 7 。この時、ある者が幸長の奮戦ぶりを見て、「浅野殿は太閤殿下のご親類、急ぎ本丸に入られ候え」と勧めたが、幸長は「蔚山城は加藤清正殿の城であり、自分が本丸に入ってあたかも主人面をすることはできない」として二の丸から動かなかったという 7 。この23歳の若さで見せた気配りと武将間の礼節を重んじる姿勢は、多くの将兵を感嘆させ、特に加藤清正からの深い信頼を得る一因になったとされている 7 。
朝鮮での戦役中、幸長は細川忠興に戦況や謝意を伝える書簡を送った記録も残っており 18 、当時の武将間の情報伝達や連携の一端を垣間見ることができる。
朝鮮半島での過酷な実戦経験は、幸長を武将として大きく成長させた一方で、彼の健康に影響を与えた可能性も指摘されている。後述する死因の一つである梅毒は、この朝鮮出兵時の感染が疑われている 2 。蔚山城での逸話は、幸長が単なる勇猛さだけでなく、冷静な状況判断力や他者への配慮といった資質も兼ね備えていたことを示唆している。
2.3. 豊臣秀次事件への関与と能登配流 (文禄4年・1595年)
豊臣政権下での幸長のキャリアにおいて、大きな試練となったのが文禄4年(1595年)に起こった豊臣秀次事件である。秀次は秀吉の甥であり、一時は関白職を譲られ後継者と目されていた人物であった。幸長の正室は池田恒興の娘であり、秀次の正室の一人である若政所も池田恒興の娘であったため、幸長と秀次は相婿(互いの妻が姉妹である関係)という間柄にあった 2 。
秀吉が実子・秀頼を儲けると、秀次はその立場が微妙になり、やがて秀吉から謀反の疑いをかけられる。この時、幸長は秀次との縁故からか、あるいは秀次への同情からか、秀次を弁護する言動をとったとされる 2 。これが秀吉の逆鱗に触れ、幸長は秀次派の一味と見なされて連座し、能登国津向(現在の石川県七尾市津向町)へと配流されることとなった 2 。
配流に際しては、五大老の一人である前田利家が幸長の身柄を引き受け、利家の家臣である三輪吉宗(藤兵衛)が配所の準備を命じられたと記録されている 14 。前田利家が幸長に宛てた書状の控えには「武蔵守(幸長)の家は狭く、不自由な所であろう」といった内容が記されており 22 、配流先での生活が必ずしも快適ではなかった可能性がうかがえる。
秀次が高野山で自刃した後、幸長は約1年間の配流生活を送ったが、慶長元年(1596年)閏7月、前田利家と、当時秀吉に次ぐ実力者であった徳川家康の取り成しによって赦免され、政治の表舞台への復帰を果たした 2 。
この秀次事件への連座と配流は、幸長にとって大きな危機であったが、結果として前田利家や徳川家康との関係を深める一因となった可能性は否定できない。特に家康の助力が、後の関ヶ原の戦いにおける東軍参加への伏線となったと見ることもできるだろう。秀吉の絶対的な権力のもとで、縁故や個人的な情義を優先することの危うさを身をもって体験した事件であったと言える。また、秀吉の怒りを買うリスクを冒してまで秀次を弁護しようとした行動は、幸長の義理堅さや人間関係を重視する性格の一端を示しているのかもしれない。
第三章:関ヶ原の戦いと浅野幸長
3.1. 石田三成ら文治派との対立
慶長3年(1598年)の豊臣秀吉の死は、豊臣政権内に大きな権力闘争の火種を蒔いた。生前から存在した武断派と文治派の対立は、秀吉という絶対的な調停者を失ったことで一気に顕在化する。浅野幸長は、加藤清正、福島正則、黒田長政らと共に、武断派の中心人物の一人と目されていた 2 。彼らは朝鮮出兵などで実戦経験を積んだ武将たちであり、豊臣政権の運営において吏僚的な手腕を発揮する石田三成ら文治派とはしばしば意見を異にした。
特に、慶長4年(1599年)に前田利家が死去すると、両派の対立は決定的なものとなる。同年、幸長は加藤清正、福島正則ら七将(あるいは十将とも)と共に、石田三成の屋敷を襲撃する事件に参加した 2 。この事件は、三成ら文治派への積年の不満が爆発したものであり、幸長の反三成立場を明確に示すものであった。襲撃事件は徳川家康の仲介によって一旦は収束し、三成は佐和山城へ隠居することになるが、この一件は豊臣政権の分裂を決定づけ、関ヶ原の戦いへと繋がる大きな布石となった。幸長にとって、朝鮮出兵における軍監であった三成との確執は、他の多くの武断派武将と共通するものであり、この根深い対立が後の彼の行動を方向づける重要な要因となったのである。
3.2. 徳川家康への接近と東軍参加
石田三成らとの対立が深まる中、浅野幸長は父・長政と共に、豊臣家恩顧の大名でありながら、徳川家康率いる東軍に参加するという重大な決断を下す 1 。これは単に時流に乗ったというだけでなく、浅野家の将来の存続をかけた、熟慮の末の政治的判断であったと考えられる 1 。
この決断の背景には、いくつかの要因が複雑に絡み合っていた。まず、前述の豊臣秀次事件において、家康が幸長の赦免に尽力したという経緯がある 2 。この時の恩義は、幸長が家康に対して一定の信頼感を抱くきっかけとなったであろう。また、父・長政が早くから家康と親交があったことも無視できない 10 。さらに、最大の要因はやはり石田三成との深刻な対立であり、豊臣政権の将来に対する見切りも含まれていたと考えられる。幸長自身が「石田殿も立派な武将だが、これからの天下は徳川にあろう」という父の言葉に背中を押されたと述懐しているように 1 、浅野家は豊臣家への恩義を感じつつも、徳川政権下での家の安泰を確保するという現実的な選択をしたのである。
3.3. 岐阜城攻略戦 (慶長5年8月)
関ヶ原の戦いの前哨戦として極めて重要な意味を持ったのが、慶長5年(1600年)8月に行われた岐阜城攻略戦である。浅野幸長は、東軍の先鋒として、池田輝政らと共にこの攻略戦を担当した 1 。
幸長らは木曽川を渡河し、織田秀信(信長の嫡孫)が籠る岐阜城へと進軍した。幸長は一柳直盛と共に瑞龍寺山砦を攻撃し、少数の兵力ながらこれを迅速に陥落させ、城方の将・柏原彦右衛門らを討ち取るという大きな戦功を挙げた 17 。この戦功に対し、徳川家康やその子・秀忠から賞賛の書状が送られていることからも 17 、その働きがいかに重要視されていたかがわかる。岐阜城の陥落は、石田三成が構想していた大垣城から岐阜城に至る防衛ラインを崩壊させるものであり 26 、東軍の士気を大いに高めると同時に、西軍の戦略に大きな打撃を与えた。
3.4. 関ヶ原の本戦 (慶長5年9月15日)
関ヶ原の本戦において、浅野幸長は現在の岐阜県不破郡垂井町垂井の一里塚付近に布陣したとされている 2 。彼の部隊は、東軍本隊のやや西側、南宮山に布陣する毛利秀元、吉川広家、長束正家ら西軍の有力部隊に備えるという、戦略的に極めて重要な役割を担った 2 。これは、南宮山の毛利勢が動いた場合に、徳川家康の本陣側面や背後を突かれることを防ぐための配置であった。
『浅野家伝記』によれば、幸長は石田三成への遺恨から先鋒として戦うことを強く望んだが、家康は南宮山方面の敵の動向を重視し、池田輝政と共に幸長にその抑えを託したという 17 。結果的に、吉川広家の内応などにより毛利勢は最後まで動かず、幸長の部隊が大規模な戦闘に直接参加することはなかった。しかし、南宮山という戦略的要地に強力な部隊を配置したこと自体が、西軍の動きを牽制し、東軍の勝利に間接的に貢献したと言える。一部史料には、幸長が宇喜多秀家隊と激戦を繰り広げ多くの首級を挙げたとあるが 24 、複数の史料が垂井布陣と南宮山方面への備えを支持しており、こちらが主たる任務であった可能性が高い。
提案表2:浅野幸長 主要合戦と役割
合戦名 |
年代 |
幸長の年齢 |
役割・兵力 |
主な戦功・逸話 |
典拠 |
小田原征伐 (岩槻城・忍城攻め) |
天正18年 (1590年) |
15歳 |
父・長政に従い初陣 |
岩槻城で敵首級を上げる。忍城攻めで崩れかけた味方を鼓舞し砦を奪取。秀吉に「鳶が鷹を生んだ」と評される。 |
7 |
文禄の役 (朝鮮出兵) |
文禄元年 (1592年)~ |
17歳~ |
父・長政と共に渡海。西生浦倭城駐留。 |
晋州城攻めなどで戦功。 |
1 |
慶長の役 (蔚山城の戦い) |
慶長2年 (1597年)~ |
22歳~ |
再び渡海。蔚山城で加藤清正救援。 |
明・朝鮮連合軍と激戦。自ら鉄砲で奮戦。清正の城である本丸に入らず二の丸に留まり気配りを示す。 |
2 |
岐阜城攻略戦 |
慶長5年 (1600年) |
25歳 |
東軍先鋒。池田輝政らと共に岐阜城攻撃。 |
木曽川渡河。瑞龍寺山砦を陥落させ、柏原彦右衛門らを討ち取る。家康・秀忠から賞賛される。 |
17 |
関ヶ原の戦い (本戦) |
慶長5年 (1600年) |
25歳 |
垂井一里塚付近に布陣。南宮山の毛利勢・長束勢など西軍の抑え。約1万3千の兵を率いたとされる(『浅野家伝記』)。 |
毛利勢が動かなかったため直接的な大規模戦闘はなし。しかし、戦略的要衝を抑え、家康本陣の安全を確保。戦後、敗走した長束正家を生け捕り。 |
2 |
第四章:紀州藩初代藩主としての治績
4.1. 紀州三十七万六千石の拝領と紀州藩の立藩
関ヶ原の戦いにおける戦功により、浅野幸長は徳川家康から紀伊国(現在の和歌山県全域と三重県南部)において三十七万六千石余という広大な領地を与えられ、紀州藩の初代藩主となった 1 。これは、それまでの甲斐国における所領から大幅な加増であり、幸長および浅野家の地位を大きく向上させるものであった。慶長5年(1600年)、幸長は和歌山城に入城し、ここに紀州浅野藩が立藩した 13 。この大封は、徳川政権における浅野家の重要性と、家康の幸長に対する信頼の厚さを示すものと言えるだろう。
4.2. 和歌山城の大規模改修と城下町の整備
紀州藩主となった幸長が最初に取り組んだ大きな事業の一つが、居城である和歌山城の大規模な改修と、それに伴う城下町の整備であった 1 。
和歌山城は、元は豊臣秀吉が弟・秀長に命じて天正13年(1585年)に築城させたものであったが 13 、幸長はこれを近世城郭としてさらに発展させた。具体的には、現在見られるような連立式天守閣を建設し、本丸、二の丸、西の丸にそれぞれ屋敷を造営した 13 。石垣についても、豊臣・桑山期に見られる自然石を積み上げた「野面積み」に加え、浅野・徳川期には石の表面を加工して接ぎ合わせて積む「打込接ぎ」という技法が用いられている 13 。
城下町の整備においては、城の正面玄関である大手門を、従来の岡口門(東側)から一の橋方面(北側)へと移設した 13 。そして、新たに移設した大手門から伸びる本町通りを「大手筋」として、計画的に町割りを進めた 13 。これにより、その後の和歌山の城と城下町の基本的な骨格が形成されたのである 29 。大阪歴史博物館の松尾信裕氏は、浅野幸長による和歌山城下町の整備は、秀吉が建設した大坂などの城下町の構造と比較検討する価値があると指摘しており 31 、幸長の都市計画思想が織豊系城郭の系譜の中でどのような特徴を持っていたのかは興味深い研究テーマである。また、幸長の時代に城下に時鐘屋敷が設けられ、岡山の時鐘堂(現存、県指定文化財)と呼応して時を知らせていたという記録もあり 32 、城下町のインフラ整備にも意を用いていたことがうかがえる。
こうした城と城下町の一体的な整備は、単に軍事拠点としての機能を強化するだけでなく、領国経済の中心地としての発展を視野に入れたものであった。大手門の変更や大手筋の設定は、城下町の構造と人の流れを大きく変え、商業活動の活性化にも繋がったと考えられる。
4.3. 領国経営
幸長は、城郭と城下町の物理的な整備と並行して、藩政の基礎固めにも注力した。
まず、領国支配の基本となる検地を慶長6年(1601年)に実施した 29 。これにより領内の石高を正確に把握し、安定した年貢徴収体制の確立を目指した。父・長政から受けた「領民の暮らしあっての大名。堅固な城よりも豊かな民を持つことを心がけよ」という教えを胸に 1 、年貢の設定にも慎重な配慮を払ったとされる 1 。
産業振興においては、紀伊国が海と山に恵まれた地理的条件を持つことを活かし、その利を最大限に引き出す経済基盤の構築に努めた 1 。特に、海に面した和歌山の地の利を重視し、港湾の整備や流通網の改善にも力を注いだと伝えられている 1 。具体的な産業としては、まず林業、特に良質な熊野材の活用が挙げられる。豊臣秀吉の時代から方広寺大仏殿建設などのために熊野材が伐り出されていたが 35 、浅野氏の統治下でも江戸城修築などの幕府の要求に応えるため、熊野材の伐採と供給が積極的に行われた 37 。慶長9年(1604年)には、幸長が熊野地方の浦々に石船389艘の建造を命じ、用材が大量に伐り出された記録がある 37 。また、慶長10年(1605年)5月には、浅野右近忠吉(幸長の叔父か従兄弟)が新宮川筋の百姓に対し、用材伐採に関する申渡状を発しており 37 、慶長15年(1610年)には龍神新右衛門を「木之口奉行」に任じて新宮に派遣し、材木の管理・運搬体制を整備させている 37 。これらの記録から、幸長が熊野材の生産と供給体制を強化し、藩の重要な経済活動とするとともに、幕府との関係維持にも活用していたことがわかる。ただし、これほど大規模な伐採が地元経済や自然環境にどのような影響を与えたかについては、さらなる詳細な史料分析が求められる。
漁業に関しては、幸長自身による具体的な奨励策を示す直接的な史料は乏しい。しかし、紀州藩の支城であった田辺城下では、幸長の家臣である浅野左衛門佐(氏重)の統治下で「魚の座」が設けられたという記録があり 38 、間接的に漁業との関わりが示唆される。また、 49 では、幸長の慶長検地とみかん栽培の関連が示唆されており、農業振興にも意を用いていた可能性がある。鉱業についても、紀州には鉱脈が存在したが 14 、幸長による具体的な開発政策や記録は、現存するスニペットからは確認できない。
藩政機構の整備としては、家臣団の再編成や役職の設置を進めた 1 。幸長の紀州藩時代の直接的な分限帳(家臣の名簿と禄高を記したもの)は確認されていないが、甲斐国時代の分限帳 46 や、弟・長晟が広島藩に移封された元和5年(1619年)時点での浅野家分限帳 47 は、当時の浅野家家臣団の構成を推測する上で参考となる。また、紀南地域の支配を固めるため、田辺に浅野知近(一説に幸長の叔父・長吉の子、長重の兄)、新宮に浅野忠吉(幸長の叔父)といった一族を配置したことも記録されている 30 。
4.4. 徳川幕府との関係構築と天下普請への協力
浅野幸長は、徳川の世が到来したことを現実として受け止め、新政権である徳川幕府との協調路線を選択することで、浅野家の安泰と発展を図ろうとした。慶長10年(1605年)に徳川家康が将軍職を子の秀忠に譲った際には、幕府との関係強化に努めたとされている 1 。
大坂の豊臣秀頼との間には、かつての主筋としての恩義と警戒が入り混じる複雑な関係があったと推測されるが、幸長は新時代の流れを冷静に見極め、幕府との関係を優先する道を選んだ 1 。その具体的な行動として、江戸城修築をはじめとする徳川幕府の天下普請(全国の大名に命じられた大規模な土木工事)にも積極的に協力した 1 。これは、幕府への忠誠を示すと同時に、大名としての責務を果たすことで、浅野家の立場を確固たるものにするための重要な戦略であった。
提案表3:浅野幸長 紀州藩における主な施策
施策分野 |
具体的な内容 |
典拠 |
城郭・城下町整備 |
和歌山城の大規模改修(連立式天守閣建設、本丸・二の丸・西の丸屋敷造営)、大手門移設、本町通りを大手筋とする城下町整備、時鐘屋敷設置。 |
28 |
領国把握・税制 |
慶長6年(1601年)領内検地の実施、年貢設定への配慮。 |
1 |
産業振興 |
紀伊の海と山の利を活かした経済基盤構築。港湾整備、流通改善。熊野材の伐採・供給体制整備(木之口奉行設置など)。みかん栽培の奨励(示唆)。「魚の座」設置(家臣による)。 |
1 |
藩政機構整備 |
家臣団再編、役職整備。紀南支配のため田辺・新宮に一族を配置。 |
1 |
幕府との関係構築 |
将軍代替わりに際しての関係強化。天下普請への積極的協力(江戸城修築等への熊野材供給など)。 |
1 |
第五章:浅野幸長の人物像と評価
5.1. 武勇に優れた猛将としての側面
浅野幸長は、父・長政が行政手腕に長けた能吏であったのに対し、もっぱら戦場での武勇によって名を馳せた武将であった。その武勇は同時代の大名たちの間でも高く評価され、一目置かれる存在であったと伝えられている 2 。
15歳での小田原征伐における初陣からその片鱗を見せ 7 、続く文禄・慶長の役(朝鮮出兵)では、蔚山城の戦いなどで死線をさまよう激戦を経験し、自ら鉄砲を取って奮戦したという逸話が残る 2 。『浅野家伝記』には、岩付城攻め、忍城攻め、蔚山城攻め、そして関ヶ原の戦いの前哨戦である岐阜城攻めにおける幸長の具体的な奮戦の様子や、彼が討ち取った敵将の名前、また彼の下で活躍した家臣たちの名前が詳細に記録されており、その武勇と卓越したリーダーシップを裏付けている 17 。これらの戦功は、浅野家の武名を大いに高め、後の徳川家康による評価にも繋がったと考えられる。
5.2. 学問への関心
幸長は、武勇一辺倒の人物ではなかった。彼は学問に対しても深い関心を示し、当代一流の知識人との交流を持った。特に、近世儒学の祖とされる藤原惺窩や、その門下である堀正意に師事したことは特筆に値する 2 。 50 の記録によれば、浅野家と藤原惺窩との交流は幸長の代から始まっており、これは幸長の知的好奇心の高さと、単なる武人としてだけでなく、為政者としての修養を積もうとする意識の表れであったと言えるだろう。こうした学問への傾倒が、彼の政治判断や領国経営にも影響を与えた可能性は十分に考えられる。
5.3. 茶の湯・能楽への造詣
武士の嗜みとして、また大名間の重要な社交術として当時隆盛していた茶の湯や能楽にも、幸長は通じていたようである。茶の湯においては、千利休亡き後の茶道界をリードした古田織部の弟子の一人であったとされている 51 。家臣の上田宗箇を介して古田織部に茶道に関する質問をした内容をまとめた『茶道長問織答抄』という聞書も存在しており 51 、彼の茶道への関心の深さがうかがえる。
また、能楽に関しても、徳川家康が豊臣秀吉主宰の能楽の会で自ら能を演じた際に、浅野幸長もその場に列席していたことが記録されている 55 。これらの文化的活動への参加は、幸長が武辺だけでなく、当時の大名としての幅広い教養と洗練された文化的センスを身につけていたことを示している。古田織部のような当代随一の文化人との交流は、彼の美的感覚や価値観形成にも少なからず影響を与えたであろう。
5.4. 豊臣家への忠誠と徳川家との協調
浅野幸長の生涯を語る上で最も複雑かつ興味深い側面の一つが、豊臣家と徳川家という二つの巨大な権力に対する彼の姿勢である。幸長は豊臣秀吉の縁戚であり、父・長政と共に秀吉恩顧の大名として取り立てられた 5 。しかし、関ヶ原の戦いでは、父と共に徳川家康率いる東軍に与するという大きな決断を下した。
にもかかわらず、幸長は豊臣家への旧恩を完全に捨て去ったわけではなかったとされる 2 。その象徴的な出来事が、慶長16年(1611年)の徳川家康と豊臣秀頼の二条城での会見である。この時、幸長は加藤清正と共に秀頼の警護役として二条城まで付き添い、会見を無事に終えることに尽力した 2 。多くの大名が家康に配慮して秀頼への対応をためらう中で、幸長は秀頼のもとへ赴き、挨拶を欠かさなかったと伝えられている 7 。
この幸長の態度は、単なる日和見主義と断じることはできない。それは、旧主への恩義と新時代の覇者である徳川家への現実的な対応という、当時の多くの豊臣恩顧大名が抱えたであろう深刻なジレンマを体現している。彼の行動は、豊臣家と徳川家の双方に対して一定の配慮を示しつつ、何よりも浅野家の存続と安泰を最優先に考えた結果であったと解釈できる。このような複雑な立場の中で、彼は巧みなバランス感覚を発揮し、激動の時代を乗り切ろうとしたのである。
5.5. 父・浅野長政との関係
浅野幸長の人物形成において、父・長政の存在は極めて大きかった。長政は豊臣政権下で五奉行筆頭として活躍した優れた行政官であり、その薫陶は幸長に多大な影響を与えたと考えられる 1 。特に、長政が幸長に語ったとされる「領民の暮らしあっての大名。堅固な城よりも豊かな民を持つことを心がけよ」という民政重視の教えは、幸長のその後の藩政運営における指針となった可能性が高い 1 。
また、長政は幸長を嫡男として高く評価し、後継者として期待をかけていた。関ヶ原の戦いに親子で共に出陣したことは 10 、長政が幸長に武将としての実戦経験を積ませ、帝王学を授けようとしたことの表れであろう。弟の長晟に宛てた手紙の中で、長政が幸長を「立派な武将に成長しており、親孝行な息子だ」と評しているのに対し、長晟には「無心をするし心配ばかりかける」と述べていることからも 12 、幸長への信頼の厚さがうかがえる。長政の政治的手腕、人脈、そして人生哲学は、幸長のキャリア形成と人格形成に決定的な影響を与えたと言えるだろう。
5.6. 死因と早すぎる死
浅野幸長は、慶長18年(1613年)8月25日、紀州和歌山城において、37歳(数え年では38歳)という若さでその生涯を閉じた 1 。その死はあまりにも早く、彼の持つ大きな可能性が十分に開花する前のことであった 1 。
幸長の死因については、いくつかの説が存在し、今日においても議論の対象となっている。
最も有力視されているのは、花柳病(梅毒)説である。同時代の史料である『当代記』には、「唐瘡(からがさ、梅毒の意)煩い、もってのほか(重症であった)」と明確に記されており 2、これが直接的な死因であったとする見方が強い。梅毒は当時、有効な治療法がなく、一度罹患すると死に至る病であった。感染経路としては、文禄・慶長の役(朝鮮出兵)の際に、朝鮮半島の妓女との接触によるものという説が有力視されている 2。奇しくも、同じく武断派の重鎮であった加藤清正も同様の病で亡くなったとされている 2。
一方で、根強く囁かれているのが 暗殺説 である 2 。幸長は豊臣家への忠誠心が厚かったとされ、徳川家康にとっては、豊臣家を完全に滅亡させる上で障害となる可能性のある人物であった。幸長の死の翌年、慶長19年(1614年)には大坂冬の陣が勃発しており、このタイミングも暗殺説を補強する一因となっている 2 。
どちらの説が真実であるかを断定することは困難であるが、梅毒説の方が具体的な史料的根拠は強いと言える。しかし、暗殺説が生まれる背景には、幸長の豊臣家への複雑な思いや、徳川政権が盤石化していく過程での政治的緊張が存在したことは間違いない。いずれにせよ、彼の早すぎる死は、浅野家の家督継承に影響を与えただけでなく、当時の政治情勢にも少なからず波紋を投げかけたことであろう。
5.7. 後世の評価と贈従三位
浅野幸長は、豊臣政権から徳川政権へと移行する日本史上の大転換期を生き抜いた、典型的な武将として評価されている。その生涯において特筆すべきは、父・浅野長政の薫陶を受け、若くして朝鮮出兵や関ヶ原の戦いといった国を揺るがす大事件を経験し、その中で培われた政治的判断力の確かさと、家を存続させるための巧みな手腕であろう 1 。
紀州和歌山藩の初代藩主としての在任期間は13年と決して長くはなかったものの、和歌山城の大規模な改修や城下町の整備、検地の実施など、藩政の基礎固めに尽力し、後世に残る業績を残した 1 。彼の築いた基盤があったからこそ、弟・長晟の代に安芸広島へと移封された後も、浅野家は江戸時代を通じて有力な大名家として存続し得たと言える。
同時代の武将たちとの関係においては、例えば加藤清正や黒田長政らと共に、織田信雄の能の拙さを「つくり馬鹿」と嘲笑したという逸話も残っており 57 、当時の武将たちの気質や人間関係の一端をうかがわせる。
明治時代に入ると、幸長の功績は再評価され、贈従三位の位が追贈された(正確な日付は不明だが、父・長政は明治43年4月2日に贈従三位 15 )。これは、国家の安定と発展に貢献した人物として、その歴史的意義が公に認められたことを意味する。
総じて浅野幸長は、困難な時代を武勇と知略をもって巧みに生き抜き、浅野家の礎を築いた有能な武将であり、優れた統治者であったと評価することができるだろう。
提案表4:浅野幸長 年表
年代(西暦) |
元号 |
年齢 |
主要な出来事 |
典拠 |
1576年 |
天正4年 |
1歳 |
近江国浅井郡小谷にて誕生。幼名:長満。 |
2 |
1589年 |
天正17年 |
14歳 |
従五位下・左京大夫に叙任。 |
2 |
1590年 |
天正18年 |
15歳 |
小田原征伐に初陣。岩槻城・忍城攻めで武功。 |
7 |
1592年 |
文禄元年 |
17歳 |
文禄の役に従軍(~1593年)。西生浦倭城などに駐留。 |
1 |
1593年 |
文禄2年 |
18歳 |
父・長政と共に甲斐国府中二十二万五千石を与えられる。 |
2 |
1595年 |
文禄4年 |
20歳 |
豊臣秀次事件に連座し、能登国津向へ配流。 |
2 |
1596年 |
慶長元年 |
21歳 |
前田利家・徳川家康の取り成しにより赦免される。 |
2 |
1597年 |
慶長2年 |
22歳 |
慶長の役に従軍(~1598年)。蔚山城の戦いで奮戦。 |
2 |
1598年 |
慶長3年 |
23歳 |
豊臣秀吉死去。朝鮮から撤兵。 |
1 |
1599年 |
慶長4年 |
24歳 |
石田三成襲撃事件に参加。父・長政、家督を幸長に譲り隠居。 |
2 |
1600年 |
慶長5年 |
25歳 |
関ヶ原の戦い。東軍先鋒として岐阜城攻略。本戦では垂井に布陣し南宮山に備える。戦後、紀伊国和歌山三十七万六千石余を与えられる。 |
2 |
1601年 |
慶長6年 |
26歳 |
従四位下・紀伊守に叙任。紀州藩初代藩主として和歌山城に入城。領内検地実施。 |
2 |
1600年代初頭 |
慶長年間 |
- |
和歌山城の大規模改修、城下町整備に着手。 |
28 |
1611年 |
慶長16年 |
36歳 |
徳川家康と豊臣秀頼の二条城会見に、加藤清正と共に秀頼に供奉。父・長政死去。 |
1 |
1613年8月25日 |
慶長18年 |
38歳 |
和歌山城にて死去。 |
1 |
時期不明(死後) |
- |
- |
贈従三位。 |
2 |
第六章:浅野幸長ゆかりの史跡と文化財
浅野幸長の生涯と業績を偲ぶことができる史跡や文化財は、彼が活動した各地、特に終焉の地となった和歌山を中心に現存している。
6.1. 墓所
浅野幸長の墓所として知られるのは、以下の二箇所である。
- 和歌山市吹上 曹源山 大泉寺(だいせんじ): 慶長5年(1600年)頃、紀伊国主となった浅野幸長が開基し、陽山宗廣和尚が開山したと伝えられる臨済宗の寺院である 58 。浅野家の菩提寺として建立され 2 、一説には父・長政の菩提を弔うため、あるいは幸長自身の武運長久や領内安泰を祈願するために創建されたとも言われる 58 。浅野家が後に安芸広島へ移封された後も、大泉寺は浅野家の菩提寺として法灯を守り続けている 58 。
- 高野山奥之院 悉地院(しっちいん): 真言宗の聖地である高野山奥之院にも、浅野幸長の供養塔が存在する 2 。これは安芸浅野家供養塔群の一部であり、苔むした五輪塔が立ち並ぶ中に、「清光院殿前紀州太守春翁宗雲大居士」と刻まれた五輪塔が幸長のものである 60 。清光院は幸長の戒名である。
これら二箇所の墓所(あるいは菩提寺と供養塔)の存在は、当時の有力な武将や大名が、自身の領地内の菩提寺と、より広範な信仰の対象であり一族の永代供養の場としての高野山のような霊地に、それぞれ墓碑や供養塔を設けるという習慣があったことを示している。
6.2. 愛刀「無銘 大三原」
浅野幸長の代表的な愛刀として知られるのが、「太刀 金象嵌銘 大三原(たち きんぞうがんめい おおみはら)」である。この太刀は、元は豊臣秀吉の所持品であったが、慶長3年(1598年)の秀吉の死後、伏見の前田利家邸で行われた形見分けの際に、浅野幸長が拝領したと伝えられている 62 。
この太刀は無銘であるが、備後国三原派の刀工、古三原正広の作と鑑定されており、制作年代は南北朝時代とされている 63 。茎(なかご)には金象嵌で「大三原」という号と、「二ツ筒/浅野紀伊守拝領/本阿弥光徳(花押)/埋忠寿斎(花押)」という切付銘があり、本阿弥光徳が「大三原」と極め、埋忠寿斎が象嵌を施したことがわかる 63 。昭和30年(1955年)6月22日には、国の重要文化財に指定されている 63 。
このような由緒ある名刀を所有していたことは、幸長の武将としての格を示すものであり、特に秀吉からの拝領品であるという伝来は、豊臣家との深い繋がりを象徴している。
6.3. 関連書状・記録
浅野幸長の人となりや具体的な行動、当時の政治情勢などを知る上で貴重なのが、彼自身が記した書状や、彼に関する記録である。幸長筆の書状は複数現存しており、和歌山県立博物館などに収蔵されていることが確認できる 64 。これらの書状は、三宝院宛の消息などがあり 64 、幸長の交友関係や当時の情報伝達の一端をうかがい知ることができる。
学術的な研究も進められており、和歌山市立博物館発行の研究紀要には、伊津見孝明氏による論文「浅野幸長定書について」が掲載されている 65 。この論文は、幸長が紀州藩主時代に発した法令(定書)を分析したものであり、彼の領国統治の実態を明らかにする上で重要な研究である。
また、別府大学の白峰旬氏は、慶長5年(1600年)5月26日付で幸長が父・長政に宛てたとされる書状の写し(「浅野幸長書状写」)について詳細な分析を行っており 67 、関ヶ原の戦い前夜における幸長の情勢認識や情報収集能力を考察する上で貴重な成果を挙げている。
さらに、國學院大學図書館には『浅野家伝記』という史料が所蔵されており、これには浅野幸長の軍功や徳川家康・秀忠との関係を示す書状の写しなどが多数収録されている 17 。これらの一次史料及び二次史料は、浅野幸長の実像に迫るための不可欠な手がかりであり、本報告書の記述の多くもこれらの史料に基づいている。
6.4. その他(時鐘堂など)
和歌山市内本町には、浅野幸長の時代に造られた時鐘屋敷が存在し、その一部であった岡山の時鐘堂は、現在も県指定文化財としてその姿を留めている 32 。この時鐘堂は、城下の人々に時を知らせるための施設であり、幸長が城下町の生活インフラ整備にも意を用いていたことを示す具体的な証左の一つと言えるだろう。
終章:浅野幸長の歴史的意義
浅野幸長は、豊臣政権の有力な一翼を担う家柄に生まれながら、その政権の崩壊と徳川幕府の成立という、日本史上未曾有の大きな転換点を経験した武将である。彼は、その激動の時代を、類稀なる武勇と冷静な政治的判断力を駆使して巧みに乗り切り、浅野家の存続と、その後の安芸広島藩としての発展の礎を築いた。
紀州藩初代藩主としての在任期間は13年と決して長くはなかったが、その間に和歌山城の大規模な改修と城下町の整備を行い、検地を実施して領国経営の基礎を固めるなど、精力的に藩政に取り組んだ 1 。彼の施策は、弟・長晟に引き継がれ、浅野家が江戸時代を通じて有力大名としての地位を保つ上で、重要な基盤となったと言える。
浅野幸長の生涯は、変化の激しい時代において、伝統的な価値観(旧主への忠誠など)と新たな秩序への適応という、相反する要素にいかに向き合い、家名を保ち、さらには発展させていくかという、武士としての普遍的な課題に対する一つの解答を示している。彼の生き様は、現代に生きる我々に対しても、変化への対応と自己の信念を貫くことの重要性を示唆しているのかもしれない。
武勇に優れ、学問を好み、茶の湯にも通じた文武両道の武将でありながら、若くしてこの世を去った浅野幸長。その短いながらも濃密な生涯は、戦国乱世の終焉と泰平の世の到来という、時代の大きな節目を象徴する存在として、今後も歴史の中で語り継がれていくことであろう。彼の築いた基礎の上に、浅野家が広島の地で長く繁栄を続けたという事実は、彼の先見性と統治能力の高さを何よりも雄弁に物語っている。
引用文献
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