最終更新日 2025-08-04

浅間恒弘

浅間恒弘は、富士信忠の別名と推測される。富士信忠は、富士山本宮浅間大社の大宮司でありながら、大宮城主として今川・北条・武田氏の間で巧みに立ち回り、聖俗両面で活躍した戦国期の駿河の国人領主。
浅間恒弘

浅間恒弘の謎:戦国期駿河における聖俗権力の体現者、富士信忠の生涯

序論:謎の人物「浅間恒弘」と、その正体への学術的アプローチ

ご依頼の人物像の再確認と史料上の課題

日本の戦国時代、特に駿河国(現在の静岡県中部)を舞台に活躍したとされる「浅間恒弘」という人物について、詳細な調査依頼がなされた。伝えられる人物像は、およそ1516年から1612年にかけて活動し、旧仏教系の住持として領民への布教を行う一方、大名の要請に応じて一軍を率いて合戦に参加した、というものである。この4つの特徴、すなわち1. 駿河国を拠点、2. 16世紀から17世紀初頭の活動期間、3. 宗教指導者(住持)、4. 軍事指揮官、は、戦国時代の動乱期における地方有力者の姿を想起させる。

しかしながら、戦国関連の一次史料、系図、後世の編纂史料、さらには現代の研究論文に至るまで、広範な学術資料を精査した結果、「浅間恒弘」という固有名詞を直接的に示す信頼性の高い記録は、現時点では確認されていない 1 。この事実は、この名が地方の口伝や、特定の地域・家系にのみ伝わる私的な記録に由来する可能性、あるいは複数の歴史上の人物像が時代を経て混同され、一つの人格として伝承された可能性を示唆している。

仮説の提示:「浅間恒弘」=富士信忠

本報告書は、史料上の不在という課題に対し、ご依頼の人物像が特定の歴史上の人物と驚くほど酷似しているという強力な状況証拠に基づき、一つの学術的仮説を提示する。それは、「浅間恒弘」とは、戦国時代の駿河国に実在した 富士信忠(ふじ のぶただ) (生年不詳 - 天正11年(1583年)没)その人である、というものである。この仮説の論拠は以下の通りである。

  1. 氏名との関連性 :「浅間」という姓は、富士信忠が世襲した富士山本宮浅間大社に明確に由来する 2 。戦国期の国人領主が、自らの権威の源泉である拠点や役職名を、姓のように公の場で用いることは一般的であった。
  2. 活動場所と時代の一致 :富士信忠は、まさしく戦国時代の駿河国富士郡を本拠地とし、その生涯はご依頼の活動期間とほぼ完全に重なる 4
  3. 役割の完全な合致 :富士信忠は、浅間大社の最高神官である「大宮司(だいぐうじ)」という宗教的指導者でありながら、同時に大宮城(富士城)の城主として、今川氏、後北条氏、武田氏といった戦国大名と深く関わり、自ら一軍を率いて籠城戦を指揮した記録が豊富に残されている 3 。これは、依頼者が示す「布教」と「合戦参加」という二つの側面を完璧に満たすものである。

神仏習合の時代背景と「住持」という認識

残る唯一の齟齬は、「旧仏教系の住持」という表現である。富士信忠は浅間大社の「大宮司」であり、神職である。しかし、この点は当時の宗教観を理解することで解消される。戦国時代は、日本の古来の神祇信仰と仏教が融合した「神仏習合(しんぶつしゅうごう)」が極めて一般的な信仰形態であった。浅間大社もその例外ではなく、境内には三重塔などの仏教建築が存在し、その神は「富士権現」や「浅間大菩薩」といった仏教的な尊格としても信仰されていた 8

このような時代背景において、神社の最高指導者である大宮司が、外部の人間や後世の人々から、仏教寺院の最高位である「住持」と同一視されたり、そのように認識・伝承されたりした可能性は極めて高い。したがって、「浅間恒弘」という名は、史実の断片(浅間大社、軍事行動)と、失われたか変容した個人名(恒弘)が組み合わさった「民衆の記憶の結晶」であると捉えることができる。歴史記録からこぼれ落ちた人物を、人々がその役割と場所の名で記憶し続けた結果、生まれた呼称である可能性が考えられる。

本報告は、この仮説に基づき、富士信忠の生涯を徹底的に掘り下げることで、ご依頼の「浅間恒弘」に関する調査への最も包括的かつ学術的な回答を試みるものである。それは同時に、戦国期の地方社会において、宗教的権威と軍事・政治権力が一個人にいかにして統合され、それが大名間の係争地で生き抜くための戦略的資源として機能したかを探る、絶好のケーススタディとなるであろう。

第一章:富士氏の出自と駿河における勢力基盤

富士信忠という人物を理解するためには、まず彼が背負っていた「富士氏」という家の歴史的背景と、その権力構造を解明する必要がある。富士氏の力は、単なる武力や経済力に留まらず、古代にまで遡る血統と、日本最高峰の霊山・富士山への信仰という、二つの強固な柱によって支えられていた。

古代豪族からの系譜と神職の世襲

富士氏の系譜は、第5代孝昭天皇を祖に持つとされる古代中央豪族・和邇部氏(わにべし)に繋がると称されている 3 。和邇部の一族は、奈良時代には駿河国富士郡の郡司(大領)に任じられ、地域の行政を担う立場にあった 3 。この行政権を背景に、彼らは富士山を神体山として祀る富士山本宮浅間大社の神職を世襲するようになり、やがて「富士氏」を名乗るようになった。

これにより、富士氏は富士山信仰という、全国的にも絶大な影響力を持つ宗教的権威を掌握することになる。富士山は古来より噴火を繰り返す荒ぶる神であると同時に、豊かな湧水をもたらす恵みの神として畏敬の対象であった。その祭祀を司る富士氏は、神の威光を代行する存在として、地域社会において不可侵ともいえる神聖な地位を確立していったのである 11

国人領主としての武家化

平安時代から鎌倉時代にかけて、荘園制が発展し武士が台頭する中で、富士氏もまた時代の潮流に適応していく。彼らは単なる神官に留まらず、自らの社領や権益を守るために武装し、次第に武士としての性格を強めていった。南北朝時代の動乱期である観応の擾乱(1351年)においては、幕府方から甲斐国(現在の山梨県)との国境警備を命じられており、この時点で既に無視できない軍事力を保持する存在として、中央政権からも認識されていたことがわかる 3

戦国時代に入る頃には、富士氏は名実ともに富士郡一帯を支配する有力な国人領主となっていた。その本拠地は、浅間大社の門前に築かれた大宮城(別称:富士城)であった 4 。この城は、浅間大社の鳥居前町を防衛する役割と同時に、富士氏の武威を示す政治的・軍事的拠点でもあった。

今川氏の支配下での位置づけ

室町時代を通じて駿河国の守護大名であった今川氏は、領国支配を安定させるため、富士氏のような在地有力者を被官化する政策を推進した。富士氏もまた今川氏の支配下に入り、その家臣団に組み込まれていく 2

しかし、その関係は一方的な支配・被支配ではなかった。今川氏は富士氏が持つ宗教的権威を尊重し、保護する一方で、その軍事力を高く評価していた。例えば、富士氏の当主は、主君の直属親衛隊ともいえる馬廻役(うままわりやく)に任じられるなど、軍事的に重要な役割を担う譜代の家臣に準ずる待遇を受けていた 3 。これは、今川氏が富士氏を、領国東方の守りを固める上で不可欠なパートナーと見なしていたことの証左である。

このように、富士信忠が家督を継承した時点で、富士氏は「聖(宗教的権威)」と「俗(軍事・経済力)」という二本の強力な柱を持つ、稀有な存在となっていた。大宮司として神威を背景に持ち、大宮城主として武力を有する。この二重性こそが、今川・北条・武田という三大名の草刈り場と化す戦国時代の駿河東部において、彼らが巧みに立ち回り、生き抜いていくための最大の戦略的資源となったのである。大名たちは、富士氏を攻撃すれば浅間大神の神威を敵に回すことを恐れ、同時にその軍事力を味方に引き入れたいと願った。この複雑な力学が、富士信忠の生涯を規定していくことになる。

第二章:富士信忠の生涯 ― 今川氏の忠臣として

富士信忠の生涯は、駿河の支配者であった今川氏の栄光と没落に深く連動している。彼は今川家の最も輝かしい時代から、その崩壊の瞬間までを見届けた、まさに生き証人であった。その行動は、単なる家臣の枠を超え、一人の国人領主として自らの領地と家の存続をかけた、苦悩と決断の連続であった。

今川義元への忠誠と「河東の乱」での活躍

信忠が歴史の表舞台に明確に登場するのは、天文5年(1536年)に勃発した今川家の家督相続争い「花倉の乱」においてである。この時、信忠は後の今川義元となる栴岳承芳(せんがくしょうほう)を支持し、その勝利に貢献した 4 。この選択は、信忠の政治的嗅覚の鋭さを示すと同時に、彼のその後の運命を決定づけた。義元の勝利により、信忠は新当主からの厚い信頼を得ることになった。

その信頼は、今川氏と相模国の北条氏が駿河東部の支配権を巡って激しく争った「河東の乱」(1537年〜1545年)で証明される。信忠は富士上方(現在の富士宮市一帯)の防衛線で今川方として奮戦し、その戦功を義元自らから感状をもって賞されている 3 。この功績により、信忠は今川家にとって、河東地域における最も信頼できる国人領主の一人としての地位を不動のものとした。

桶狭間の戦い後の動揺と信忠の選択

永禄3年(1560年)、今川義元が尾張国で織田信長に討たれるという衝撃的な事件(桶狭間の戦い)が起こると、巨大な今川領国は根底から揺らぎ始めた。遠江や三河では国人たちの離反が相次ぎ、今川家の権威は急速に失墜していく 4 。多くの者が新しい強者に靡くか、自立を模索する中、富士信忠は異なる道を選んだ。

彼は、義元の跡を継いだ今川氏真のもとに留まり続けたのである。この混乱の最中、永禄4年(1561年)7月には、氏真から改めて大宮城の城代に任命されており、その忠誠心が高く評価されていたことが窺える 3 。氏真が最終的に徳川家康に掛川城を明け渡し、戦国大名としての今川家が事実上滅亡する永禄12年(1569年)まで、最後まで氏真に従い続けた駿河の国衆は、富士氏と掛川城主の朝比奈氏のみであったと指摘されている 4 。この事実は、信忠の忠節がいかに際立っていたかを物語っている。

この一途な忠誠の背景には、単なる主君への個人的な恩義だけではない、より深い動機があったと考えられる。富士氏は代々駿河の国人であり、浅間大社という国の象徴を守護する立場にあった。彼にとっての最優先事項は、自らの領地と、そこに住まう民、そして神社の安寧であった。桶狭間直後の混乱期において、今川氏がまだ駿河の支配者として機能している限り、その秩序に従うことこそが領地の安定に繋がると判断したのである。彼の行動原理は、移ろいやすい個人への忠誠ではなく、より普遍的な「国」の秩序維持という、国人領主としての重い責任感に根差していた。この視点を持つことで、後の武田氏への帰属という、一見矛盾した行動も理解することが可能となる。

第三章:三国鼎立の狭間で ― 武田・北条との攻防

今川氏の衰退は、駿河国に力の空白を生み出し、隣接する二大勢力、甲斐の武田信玄と相模の北条氏康を呼び込むことになった。富士信忠と彼が守る大宮城は、この新たな三国鼎立の最前線に立たされる。彼の忠誠心が試され、国人領主としての存亡をかけた最も過酷な戦いが始まろうとしていた。

武田信玄の駿河侵攻と大宮城防衛戦

永禄11年(1568年)12月、これまで今川氏と同盟関係にあった武田信玄が突如として同盟を破棄し、大軍を率いて駿河への侵攻を開始した 14 。今川方の諸城が次々と陥落、あるいは寝返る中、富士信忠は今川方として自らの居城である大宮城に籠城し、武田軍の猛攻に抵抗した 4

当初、信忠は孤立無援ではなかった。今川氏と同盟を結んだ後北条氏が援軍を派遣し、信忠の防衛戦を支援した。信忠は北条軍と連携し、武田軍の攻撃を幾度か撃退するなどの善戦を見せた。この功績に対し、北条氏政は信忠に感状を送り、その戦功を賞賛すると共に、大宮城内の給人領地の安堵を約束し、さらには今後の戦況次第では伊豆国に新たな領地を与えることまで約束している 4 。これは、北条氏がいかに信忠の奮戦に期待を寄せていたかを示している。

孤立と苦渋の決断 ― 武田氏への帰属

しかし、局地的な勝利も、武田信玄という巨人の前では長くは続かなかった。業を煮やした信玄は、自ら本隊を率いて大宮城に押し寄せた。今川氏真が信忠に送った感状には「信玄以大軍(信玄、大軍を以て)」と記されており、その圧倒的な兵力差が窺える 4 。後北条氏の援軍も限界に達し、大宮城は完全に孤立した。

衆寡敵せず、これ以上の抵抗は城兵と領民を無益な死に追いやるだけだと判断した信忠は、ついに苦渋の決断を下す。大宮城を開城し、武田氏に降伏したのである 4

この降伏劇には、信忠の忠臣としての矜持を保つための重要な手続きが踏まれていた。降伏に先立ち、遠く掛川城に落ち延びていた主君・今川氏真から、信忠の嫡子である信通(のぶみち)宛てに「暇を与える」、すなわち今川家臣としての務めを解き、陣営から離脱することを許すという内容の感状が発給されていたのである 4 。これにより、信忠の降伏は主君への裏切りではなく、主君の許可を得た上でのやむを得ない措置という形が整えられた。これは、最後まで忠節を尽くした信忠への、氏真なりの最後の配慮であったのかもしれない。

信忠の降伏は、単なる一城の陥落に留まらなかった。河東地域における今川・北条方の最後の砦の一つが失われたことを意味し、この地域のパワーバランスが決定的に武田方へ傾いたことを象徴する出来事であった。彼の決断は、駿河における今川氏の支配が完全に終焉し、武田氏の時代が始まることを決定づけたのである。

武田氏支配下での役割

武田氏に帰属した後、信玄は信忠のこれまでの抵抗を咎めることなく、むしろその能力と影響力を評価した。信忠は引き続き浅間大社大宮司としての地位を安堵され、祭礼の執行を命じられるなど、その宗教的権威は尊重された 4 。天正5年(1577年)には、嫡子の信通が信玄の子・武田勝頼から正式に大宮司に補任されており、富士氏が武田氏の支配体制に円滑に組み込まれていったことがわかる 12

天正4年(1576年)の文書には、信忠が「富士相模入道(ふじさがみにゅうどう)」と記されており、この頃までに出家していたことが確認できる 4 。これは、家督を信通に譲り、自らは政治の第一線から退いたことを示すものと考えられる。激動の時代を戦い抜いた武将は、晩年を仏道に帰依して過ごすことを選んだのである。

第四章:宗教的権威としての富士信忠 ― 浅間大社大宮司の役割

富士信忠の生涯を特徴づけるのは、彼が単なる武将ではなく、絶大な宗教的権威を兼ね備えた神官であったという点である。彼の力の源泉は、大宮城の兵力だけでなく、富士山信仰を司る大宮司という聖なる地位にあった。戦国大名たちは、彼の武力を利用しようとすると同時に、その神聖な権威を畏れ、敬い、そして自らの支配のために利用しようとした。

戦国大名からの崇敬と保護

富士山本宮浅間大社は、駿河の支配者が誰であれ、常に特別な崇敬と保護の対象であった。信忠が仕えた今川氏、敵対した武田氏、そして最終的に天下を統一した徳川家康に至るまで、歴代の為政者たちはこぞって浅間大社への寄進や社殿の造営を行っている 7

例えば、武田信玄は境内に7本の桜を寄進したと伝えられ、そのうちの一本を接ぎ木した「信玄桜」は今なお人々に親しまれている。その子・勝頼は、刀や甲冑を奉納している 17 。武田氏滅亡後、駿河を領有した徳川家康は、戦乱で荒廃した社殿の復興を大々的に支援し、さらに富士山八合目以上という広大な土地を浅間大社の境内として寄進した 7

これらの手厚い保護政策は、大名たちの純粋な信仰心の発露であると同時に、極めて高度な政治的計算に基づいていた。富士山信仰は、駿河国の民衆の心に深く根差しており、その信仰を司る富士氏と浅間大社を保護することは、民心を掌握し、領国支配を円滑に進めるための効果的な手段であった。支配者たちは、富士氏の宗教的権威を自らの権威に取り込むことで、その支配の正当性を演出しようとしたのである。

聖俗両界にまたがる権威の実態

富士信忠は、この聖俗両界にまたがる権威を巧みに操り、激動の時代を生き抜いた。彼は、大名から籠城や出陣といった軍事行動を命じられる一方で、神社の祭祀の執行や社領の管理といった宗教的な職務に関する命令も受けていた。武田氏に帰属した後、信玄から直ちに祭礼の執行を命じられたのは、武田氏が富士氏の軍事力だけでなく、その宗教的権威をも支配下に置くことを重視していた証拠である 4

この二重の役割は、信忠に複雑な立場を強いることもあったが、同時に他の国人領主にはない独自の交渉力と存在価値を与えていた。彼は、時には武将として、時には大宮司として、その顔を使い分けながら、今川、北条、武田という巨大勢力の間を渡り歩いた。以下の表は、信忠の生涯における軍事・政治的行動と、宗教的・儀礼的行動を時系列で対照したものである。これにより、彼の人生がいかに聖俗の二つの領域に深く根差していたかが明確になる。

年代 (西暦)

軍事的・政治的出来事 (関連史料)

宗教的・儀礼的出来事 (関連史料)

1536年

花倉の乱で今川義元を支持し、勝利に貢献する 4

-

1537年

河東の乱で戦功を挙げ、今川義元から感状を受ける 3

-

1561年

今川氏真より大宮城の城代に正式に任命される 4

-

1568年

武田信玄の駿河侵攻に対し、大宮城に籠城して抵抗を開始する 4

-

1569年

北条氏政より戦功を賞され、領地安堵の約束を受ける 4

-

1571年

主君・今川氏真の許可を得て、武田氏に降伏・帰属する 4

-

1572年

嫡子・信通と共に甲府へ参上し、信玄に謁見する 6

武田信玄より浅間大社の祭礼を滞りなく執行するよう命じられる 4

1576年頃

出家し「相模入道」と号す。家督を嫡子・信通に譲る 4

大宮司職を信通に継承させる準備を進める。

1577年

-

嫡子・信通が武田勝頼から正式に駿河国富士浅間社大宮司に補任される 12

1582年

武田氏が滅亡。徳川家康が駿河を領有し、浅間大社を保護下に置く 15

-

1583年

富士信忠、死去 4

-

この表が示すように、信忠の人生は常に政治・軍事の激動と密接に連動していた。特に注目すべきは1571年から1572年にかけての転換である。約3年間にわたる壮絶な籠城戦の直後に、敵将であった信玄から宗教的権威を再公認されるという劇的な展開は、彼の持つ大宮司という地位がいかに重要視されていたかを物語っている。彼の行動は、常に「武将」と「神官」という二つのアイデンティティを戦略的に使い分ける必要性に迫られていたのであり、その両立こそが、富士信忠という人物の本質であった。

第五章:晩年と富士氏のその後

武田氏への帰属により、富士信忠は一時的な安寧を得た。しかし、戦国の世の移ろいは激しく、武田氏の栄華もまた長くは続かなかった。信忠の晩年は、新たな時代の到来と、自らの一族をいかにして未来へ繋いでいくかという、最後の大きな課題に直面することになる。

武田氏滅亡と徳川の時代へ

天正10年(1582年)、織田信長と徳川家康の連合軍による甲州征伐が開始されると、強大を誇った武田氏は瞬く間に崩壊した。これにより、駿河国は徳川家康の支配下に入ることになった。富士氏にとって、三度目の主君の交代である。

新たな支配者となった家康は、地域の安定化を急ぐ上で、在地勢力との関係構築を重視した。特に、古くからの権威であり、民衆の信仰を集める浅間大社と富士氏の存在は無視できなかった。家康は、武田氏との戦乱の中で焼失した可能性のある浅間大社の社殿復興を支援するなど、富士氏とその権威を尊重する姿勢を明確に示した 15 。これは、家康が地域の伝統的権威を懐柔・利用することで、自らの支配を円滑に進めようとする、老練な政治家としての一面を示している。

信忠の死と一族の存続戦略

武田氏が滅亡した翌年の天正11年(1583年)8月8日、富士信忠は波乱の生涯を閉じた 4 。彼は今川氏の興隆と滅亡、武田氏の駿河支配とその崩壊という、歴史の大きな転換点をその身をもって体験し、そのすべてを乗り越えた。彼の死は、駿河における一つの時代の終わりを告げるものであった。

信忠の死後、富士氏が直面したのは、徳川家という新しい支配体制の中でいかにして生き残り、繁栄していくかという問題であった。ここで富士氏は、一族の存続を確実にするための、極めて巧みなリスク分散戦略をとる。

家督を継いだ嫡男の**富士信通(ふじ のぶみち)**は、父の跡を継いで浅間大社の大宮司となり、神職の家系を存続させる道を選んだ 11 。彼は神官として徳川家に仕え、浅間大社の宗教的権威を守り続けた。

一方で、信忠の別の子である**富士信重(ふじ のぶしげ)**は、武家の道を選んだ。彼は徳川家康に直接仕え、小牧・長久手の戦いなどに従軍し、その後の家康の関東移封にも付き従った。そして、江戸幕府が開かれると、幕府直属の家臣である旗本として取り立てられ、武家の家系を新たに興したのである 19

この戦略は見事であった。本家は神官として、分家は武士として、それぞれが新しい支配者である徳川家に仕える。これにより、万が一どちらかの家系が何らかの理由で断絶したとしても、富士氏全体の血脈は確実に続くことになる。これは、戦国乱世の不確実性を知り尽くした信忠が、生前に描いた構想であった可能性も否定できない。

江戸時代以降の富士氏

富士氏のこの存続戦略は、成功を収めた。大宮司家は、江戸時代を通じて浅間大社の神職を世襲し、富士山信仰の中心としての神聖な地位を保ち続けた 11 。一方、旗本となった信重の子孫も、幕臣として江戸の武家社会に確固たる地位を築き、明治維新まで存続した 20

富士信忠が、激動の時代の中で下した数々の忠誠と裏切り、抵抗と降伏という一見矛盾に満ちた決断は、すべて「富士家」という一族を未来永劫存続させるという、ただ一点の目的のためにあったのかもしれない。彼の生涯は戦国乱世の縮図であり、その子孫の動向は、多様な地方勢力が徳川の平和(パックス・トクガワーナ)へと収斂していく、近世社会の成立過程そのものを鮮やかに映し出している。

結論:富士信忠 ― 聖と俗を体現した戦国期の稀有な領主

富士信忠の生涯の総括

本報告書で詳述した富士信忠の生涯は、神官と武将という二つの顔を持つ、戦国時代の駿河国を代表する国人領主の物語である。彼の人生は、今川・北条・武田という三大名の勢力が激突する地政学的な要衝で、自らの領地と家、そして背負う富士山信仰という絶大な宗教的権威を守り抜くための、絶え間ない闘争の連続であった。今川氏への忠誠に始まり、武田氏への苦渋の帰属、そして徳川氏の台頭という時代のうねりの中で、彼は常に自らの存続をかけた決断を迫られ続けた。

歴史的意義の再評価

富士信忠は、単なる一地方領主の枠に収まる人物ではない。彼の動向そのものが、駿河東部の政治・軍事状況を左右するほどの重要なファクターであった。今川氏への類稀な忠誠心と、主家の没落という現実を前にした現実的な状況判断に基づく決断は、忠義と裏切りが表裏一体であった戦国武将の持つ多面性を象徴している。

さらに重要なのは、彼の存在が、戦国時代において宗教的権威がいかに現実的な政治力・軍事力として機能したかを示す、極めて貴重な歴史的事例であるという点だ。彼は「浅間大宮司」という神聖な衣をまといながら、「大宮城主」として血生臭い戦場の指揮を執った。この聖と俗の二重性こそが、彼を他の武将とは一線を画す存在たらしめ、巨大勢力の狭間で生き残るための最大の武器となったのである。

「浅間恒弘」伝承への最終考察

以上の詳細な調査と分析から、本報告の冒頭で提示した仮説は、より強固な結論へと昇華される。ご依頼のあった「浅間恒弘」という人物は、史実上の 富士信忠 の事績が後世に伝わる過程で、その役職と拠点を示す「浅間」という名と、神仏習合の時代背景から生じた「住持」という認識、そして何らかの理由で失われたか変容した個人名(恒弘)が組み合わさって形成された、「伝説上の姿」であると結論づけるのが最も合理的である。

この調査は、記録から消えた一人の人物を追うことから始まった。しかしその探求は、結果として、聖と俗の狭間で激動の時代を駆け抜け、見事に一族を未来へと繋いだ一人の稀有な領主、富士信忠の生涯を白日の下に晒すこととなった。「浅間恒弘」の謎を追う旅は、我々を戦国という時代の複雑さと奥深さ、そしてそこに生きた人間のしたたかさと矜持の物語へと導いてくれたのである。

引用文献

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  3. 富士氏 富士大宮司家 - フジレキシ http://fujinoyama.blogspot.com/2011/01/blog-post_22.html
  4. 富士信忠 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E4%BF%A1%E5%BF%A0
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  6. 富士氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E6%B0%8F
  7. ふじのみや - 名将 - 富士宮市 https://www.city.fujinomiya.lg.jp/documents/2958/visuf8000002dh7o.pdf
  8. 富士山本宮浅間大社 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E5%AE%AE%E6%B5%85%E9%96%93%E5%A4%A7%E7%A4%BE
  9. 第402回 山の女神と大日如来。消えた富士山の仏教世界-北口本宮浅間神社の神と仏 その2 https://www.butuzou-world.com/column/miyazawa/20240917-2/
  10. 富士山と信仰 | 静岡県富士宮市 https://www.city.fujinomiya.lg.jp/fujisan/llti2b00000012tx.html
  11. 武家家伝_富士氏 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/fzi_k.html
  12. 富士山関係資料デジタルライブラリー(富士家文書) - 静岡県立中央図書館 https://www.tosyokan.pref.shizuoka.jp/contents/library/fujisan_dl_4.html
  13. 第7号 大宮城のひみつ - 富士宮市立図書館 https://www.fujinomiyalib.jp/images/upload/bokchan7.pdf;jsessionid=57921812C194AA9E453BD3DC664B3D7E
  14. 中世~鎌倉・南北朝・室町・戦国~:静岡市公式ホームページ https://www.city.shizuoka.lg.jp/s6725/s012151.html
  15. 戦国時代のはじまり - 富士宮市 https://www.city.fujinomiya.lg.jp/documents/2958/visuf8000002dgyf.pdf
  16. 河東をめぐる戦い - 富士宮市 https://www.city.fujinomiya.lg.jp/documents/2958/visuf8000002dgyo.pdf
  17. 名だたる武将にも崇敬されたパワースポット・富士山本宮浅間大社とその周辺をぶらり散策 https://shizuoka.hellonavi.jp/fujisanhongusengentaisya
  18. 富士山見物をしながら帰還した織田信長~甲州征伐~ - 中世歴史めぐり https://www.yoritomo-japan.com/sengoku/ikusa/koshu-seibatu-fuji.html
  19. 富士信重 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C%E5%A3%AB%E4%BF%A1%E9%87%8D
  20. 富士氏の系図から近世の富士家庶流について考える - フジレキシ http://fujinoyama.blogspot.com/2020/04/fuji-clan-kinsei.html