最終更新日 2025-07-05

浪岡顕範

奥州の動乱に生きた武将・浪岡顕範の実像――一族の相克と滅亡、そして歴史的再評価

序章:歴史の狭間に立つ武将、浪岡顕範

日本の戦国時代、数多の武将が歴史の表舞台で覇を競い、あるいは時代の奔流に呑まれ消えていった。その中で、北奥の津軽地方にその名を刻んだ浪岡顕範(なみおか あきのり)は、一族の悲劇を一身に背負った人物として、特異な存在感を放っている。一般的に彼は、謀叛を起こした叔父を討ち、殺害された兄の仇を討った忠臣として知られている 1 。しかし、この英雄的な逸話の裏には、より複雑で深刻な一族の内情と、近年の研究によってその様相を大きく変えつつある歴史の深層が隠されている。

本報告書は、浪岡顕範という一人の武将の生涯を丹念に追うことを通じて、彼が属した名門・浪岡北畠氏の栄光と悲劇、そして滅亡に至る軌跡を多角的に解き明かすことを目的とする。顕範の運命を決定づけたとされる永禄5年(1562年)の「川原御所の乱」は、通説を覆す可能性を秘めた学術的論争の的となっている 2 。この論争の核心に迫ることは、浪岡氏の歴史のみならず、顕範自身の人物像を根本から再評価する上で不可欠の作業となる。

本稿ではまず、浪岡北畠氏の出自と、彼らが北奥において有した特異な権威の構造を明らかにする。次いで、一族に亀裂を生じさせた「川原御所の乱」について、従来の通説と、史料の再検討から生まれた新説を対比させながら、その真相を探る。そして、内乱後の混乱の中で一族の存亡を担った後見人・顕範の苦闘と、新興勢力・津軽為信の台頭による浪岡氏の落日、その滅亡の過程を詳述する。最終的に、これらの分析を通じて、歴史の狭間に生きた浪岡顕範という武将の功罪を問い、その歴史的実像に迫りたい。

第一章:名門・浪岡北畠氏の系譜と津軽における権勢

浪岡顕範の生涯を理解するためには、まず彼が属した浪岡北畠氏が、戦国時代の津軽においていかに特異な存在であったかを知る必要がある。彼らは単なる地方豪族ではなく、南朝の正統を継ぐとされる高貴な血筋と、中央の公家社会にも通じる権威を背景に、北の地に独自の勢力圏を築き上げていた。

第一節:浪岡北畠氏の出自と権威

浪岡北畠氏の出自については、いくつかの説が存在する。最も有力とされるのは、南北朝時代に後醍醐天皇を支えた鎮守府将軍・北畠顕家の子、顕成(あきなり)が祖であるとする説である 4 。父・顕家の戦死後、顕成は母方の実家である浪岡氏を頼ってこの地に落ち延びたと伝えられる 4 。一方で、顕家の弟である北畠顕信の系統を引くとする説もあり 6 、彼らの系図は近世以降に作成されたものが多く、その内容は必ずしも一様ではない 6 。浪岡氏が残したはずの古文書や記録の多くは、後の落城の際の戦乱や、弘前城天守の落雷による火災などで失われており、その出自の正確な解明を困難にしている 7

出自の詳細は不明確な点を残すものの、浪岡北畠氏が「浪岡御所」と称され、周辺の国人領主とは一線を画す存在であったことは確かである 9 。彼らは京都の公家社会からも「堂上公家」の家格を持つ存在として認識されており 11 、伊勢国司の本家北畠氏や、公家の山科言継(やましな ときつぐ)とも交流があったことが記録されている 4 。この事実は、彼らが単なる武家領主ではなく、中央に連なる高い家格と文化性を備えた、公家大名としての側面を持っていたことを示している。実際に浪岡城跡からの出土品には、中国産の陶磁器や青磁、白磁、そして7世紀から15世紀にかけての大量の中国銭貨が含まれており、日本海を通じた広範な交易活動によってその権勢を支えていたことが窺える 13 。15世紀後半に浪岡城を築いて以降 9 、彼らは津軽地方において確固たる地位を築き、一大勢力へと成長した 15

第二節:顕範の父・具統の時代と一門の構造

浪岡顕範の父であり、浪岡氏第8代当主とされる浪岡具統(ともむね)の時代は、浪岡北畠氏の最盛期であったと評される 2 。具統は父・具永(ともなが)が築いた基盤の上に勢力をさらに拡大し、一時は大光寺氏や大浦氏と共に津軽を分割統治するほどの力を持っていた 16

しかし、この栄華には既に衰退の影が差し始めていた。具統は寺社の修復といった文化的な事業に力を注いだが、これが結果的に財政を圧迫し、一族の衰退を招く遠因になったと指摘されている 2 。この事象は、浪岡氏が抱える構造的な問題を浮き彫りにする。彼らの権力は、京都からもたらされる「公家としての名声」と、津軽の地における「武家としての実力」という二本の柱によって支えられていた。文化事業への投資は、前者の「中央志向の権威」を誇示し、維持するための重要な活動であったが、それは同時に、後者の「地域支配の足元」である財政基盤を蝕むという矛盾を内包していたのである。

この支配構造は、一門の配置にも見て取れる。浪岡城の宗家(浪岡御所)を頂点に、その周辺には分家が配置され、一族による支配体制を固めていた。その中には、後に悲劇の中心となる川原具信(かわはら とものぶ)が当主を務める川原御所 18 、滝井氏が拠る滝井館 4 、そして浪岡顕範自身が祖となったとされる袰綿(ほろわた)御所などが存在した 4 。さらにその下には、飯詰氏、奥寺氏、広田氏といった譜代の家臣団が控え、浪岡氏の武力を支えていた 4 。この一門・家臣団の統制こそが、浪岡氏の地域支配の根幹であったが、その結束に綻びが生じた時、彼らの権力基盤は根底から揺らぐことになる。

人物名 (読み)

続柄 (顕範との関係)

役職・立場

主な功績・事件

没年・末路

浪岡具統 (ともむね)

浪岡氏8代当主

最盛期を築く。文化事業に注力。

永禄5年(1562)殺害(新説) 2

浪岡具運 (ともかず)

浪岡氏9代当主

朝廷より叙任。

永禄5年(1562)殺害(通説) 4

浪岡顕範 (あきのり)

本人

具統の次男

具信を討伐。顕村の後見人。

天正6年(1578)討死 1

浪岡顕村 (あきむら)

甥(兄・具運の子)

浪岡氏10代当主

浪岡氏最後の当主。

天正6年(1578)自害または亡命後死去 20

川原具信 (とものぶ)

叔父(父・具統の弟)

分家・川原御所当主

「川原御所の乱」首謀者。

永禄5年(1562)討死 1

表1:浪岡北畠氏 主要人物関係図

第二章:「川原御所の乱」――一族相克の深層

永禄5年(1562年)、浪岡北畠氏の歴史を大きく揺るがす内部抗争、「川原御所の乱」が勃発する 5 。この事件は、一族の結束を破壊し、その後の急速な衰退と滅亡への道を決定づけた。しかし、誰が殺害され、誰が仇を討ったのかという事件の根幹部分において、従来の通説と、それを覆す新説が鋭く対立しており、歴史研究上の大きな論点となっている。

第一節:事件の導火線 ― 所領問題と一族の亀裂

事件の直接的な引き金となったのは、一門内部の所領を巡る争いであった。浪岡氏の分家である川原御所の当主・川原具信と、同じく分家の滝井北畠氏との間で、領地の境界線を巡る紛争が発生した 4

この争いに対して、宗家である浪岡御所の当主は、滝井氏に有利な裁定を下したとされる 4 。この一方的な裁定が、川原具信の激しい憎悪を掻き立て、宗家への反逆に踏み切らせる動機となった。川原具信は、もともと一度断絶していた川原氏の名跡を、宗家の命によって再興した人物であった 19 。この経緯は、彼に強い自負心と同時に、宗家に対する複雑な感情を抱かせていた可能性が考えられる。自らが再興した家の利益が軽んじられたと感じた時、その不満は宗家当主個人への殺意へと転化したのであろう。これは、浪岡氏の権威の源泉であった「中央との繋がり」が、足元の「地域支配」における利害調整に失敗した瞬間であり、一族が内包していた構造的脆弱性が露呈した事件であった。

第二節:永禄五年の悲劇 ― 通説に見る事件の顛末

『永禄日記』などの地方史料に依拠する通説では、事件の経緯は次のように描かれている 22

永禄5年(1562年)正月元旦、川原具信は子息の顕重(あきしげ)を伴い、年始の挨拶を装って浪岡御所(浪岡城)を訪れた。そして、油断していた当主・浪岡具運(ともかず)をその場で殺害したのである 4

この凶報に接したのが、殺された具運の弟・浪岡顕範であった。顕範は即座に兵を挙げ、父祖代々の地を血で汚した叔父・具信とその子・顕重を討つべく出陣する。彼は川原御所を攻撃して具信親子を討ち取り、兄の仇を見事に討った 1 。一部の記録では、具信の残党が水木館に立てこもって抵抗を続けたが、顕範はこれも攻め落とし、反乱を完全に鎮圧したとされる 1

こうして一族の危機を収拾した顕範は、殺害された兄・具運の遺児であり、当時わずか5歳であった顕村(あきむら)を新たな当主として擁立し、自らはその後見人として、浪岡氏の実質的な指導者となった 1 。この通説における顕範は、まさに「兄の仇を討った忠義の弟」という英雄的な姿で描かれている。

第三節:歴史を揺るがす新説 ― 被害者は具運ではなく具統か?

しかし近年、この通説に根本的な疑問を投げかける新説が登場した。歴史研究者の赤坂恒明氏らが、京都で作成された公家名簿『補略』という一次史料を分析したことから、新たな可能性が示されたのである 2

この『補略』には、朝廷から官位を授かった公家たちの名が記録されている。驚くべきことに、この史料には、川原御所の乱で殺害されたはずの浪岡具運が、事件後も生存していたことを示す記録が残されていた。具体的には、元亀2年(1571年)や天正4年(1576年)の時点でも、彼が「従五位下侍従」として朝廷に認識されていたことが確認されたのである 3 。これは、彼が永禄5年(1562年)に死んだとする通説と明確に矛盾する。

一方で、具運の父であり、浪岡氏の最盛期を築いたとされる先代当主・浪岡具統は、この『補略』にその名が見られない。この事実から、赤坂氏は「川原御所の乱で殺害された『御所様』とは、通説で言われる具運ではなく、その父の具統だったのではないか」という画期的な新説を提唱した 2 。この説は、赤坂氏の著作『ここまでわかった 戦国時代の天皇と公家衆たち』の中で詳細に論じられている 11

この新説が事実であれば、事件の構図は一変する。乱は「叔父による甥殺し」ではなく、「弟(川原具信)による兄(浪岡具統)殺し」という、より直接的な兄弟間の骨肉の争いとなる。そして、浪岡顕範は「兄の仇」ではなく「父の仇」を討ったことになる。この説に立てば、事件は偉大な当主・具統の死による権力の空白と、その跡を継いだ具運の求心力不足という、世代交代の失敗という側面をより強く帯びることになる。偉大な父を内紛で失ったというトラウマは、一族に癒しがたい傷を残し、その後の体制(具運・顕範体制)が機能不全に陥ったことが、滅亡への坂道を転がり落ちる直接的な引き金になったと解釈できるのである。

年月日

通説(『永禄日記』等に基づく解釈)

新説(『補略』等に基づく解釈)

関連人物

典拠・備考

永禄5年 (1562) 正月

川原具信が当主・ 浪岡具運 を殺害。

川原具信が当主・ 浪岡具統 を殺害。

具運、具統、具信

『永禄日記』 22 , 『津軽一統志』 22 / 『補略』 3

永禄5年 (1562) 同年

具運の弟・ 顕範 が具信親子を討伐。

具統の子である 顕範 具運 が協力し具信を討伐。

顕範、具信、具運

1

永禄5年 (1562) 以降

顕範 が、具運の子・顕村の後見人となる。

具運 が家督を継ぎ、弟の 顕範 が補佐役となる。

顕範、顕村、具運

1 / 赤坂恒明氏の研究 11

元亀2年(1571)~天正4年(1576)

(具運は既に死亡)

具運 が「侍従」として生存していることが確認される。

具運

『補略』 3

表2:「川原御所の乱」と浪岡氏の動向年表(通説と新説の比較)

第三章:後見人としての顕範と落日の浪岡氏

「川原御所の乱」という未曾有の内紛を力で収拾した浪岡顕範は、一族の存亡をその双肩に担うことになった。しかし、彼が引き継いだのは最盛期の浪岡氏ではなく、内部抗争によって人心が離れ、権威が地に墜ちた「負の遺産」そのものであった。彼の治世は、時代の大きなうねりの中で、滅びゆく一族の運命に必死に抗う苦闘の連続であった。

第一節:内乱後の権力構造と顕範の立場

事件後、顕範は殺害された当主の嫡男で、当時まだ幼少であった甥の浪岡顕村(具愛とも呼ばれる)の後見人として、浪岡氏の実権を掌握した 1 。史料には彼の官途名である「左衛門尉」の名が見える 1 。自らの手で反乱者を誅伐したという事実は、顕範に非常時における強い権威を与えたであろう。

しかし、その権力基盤は極めて脆弱なものであった。血縁者を手にかけたという事実は、一族内に新たな不信と恐怖を生んだ可能性が高い。彼の権力は、幼君を擁立するという大義名分と、彼自身の軍事力に依存したものであり、平時における安定した統治基盤を欠いていた。

さらに、後見を受けていた当主・顕村自身の資質も、浪岡氏の再建を困難にした。成長した顕村は当主としての器量に欠けていたと評され、内紛によって傾いた家運を立て直すことはできなかった 4 。顕範の後見体制は、一族の分裂を食い止めるには至らず、結果として浪岡氏の衰退に歯止めをかけることはできなかったのである。

第二節:衰退する国力と外部勢力の台頭

「川原御所の乱」が浪岡氏に与えた打撃は致命的であった。この内紛を境に、彼らの力は急速に衰え始めたと、多くの記録が一致して伝えている 5 。一族内の深刻な対立は家臣団にも動揺を与え、離反者が相次いだであろうことは想像に難くない 19

浪岡氏が内向きの争いで消耗している間、外部の情勢は彼らにとって決定的に不利な方向へと動いていた。西方の国人領主であった大浦為信(後の津軽為信)が、この機を逃さず急速に台頭したのである。為信は旧来の権威に縛られず、武力と謀略を駆使して津軽平野の統一事業に乗り出し、石川城や大光寺城といった周辺の拠点を次々と攻略していった 27 。彼はまさに、実力が全てを決定する戦国乱世の申し子であった。

窮地に立たされた浪岡氏は、北に勢力を持つ安東氏との同盟強化によって活路を見出そうとする。当主・顕村が安東愛季の娘を正室に迎えたのは、そのための外交政策であった 9 。しかし、この婚姻同盟も、破竹の勢いで津軽を席巻する為信の力を押しとどめるには至らなかった。顕範が守ろうとした旧来の名門としての権威と秩序は、為信が体現する実力主義という時代の新しい潮流の前に、なすすべもなく呑み込まれようとしていた。顕範の統治は、一個人の能力では覆すことのできない、時代の大きな転換点における必死の防衛戦だったのである。

第四章:津軽統一の奔流と浪岡城の落城

天正6年(1578年)、浪岡氏にとって運命の日が訪れる。津軽統一の総仕上げとして、大浦為信が浪岡城への総攻撃を開始したのである。これは単なる城の攻防戦ではなく、津軽における中世的権威の終焉と、戦国的新秩序の誕生を象徴する戦いであった。

第一節:大浦為信の浪岡侵攻

周到な準備の末、為信は満を持して浪岡城へと軍を進めた 1 。その軍勢は三手に分けられ、総勢2750騎にも及んだと伝えられる 30 。しかし、為信の真の恐ろしさは、その兵力だけではなかった。彼は戦う前から、既に勝利の布石を打っていたのである。

為信は事前に浪岡城下のならず者や、浪岡氏の家臣であった葦町弥右衛門といった人物を内通者として調略していた 4 。浪岡城は、内館、北館、西館など複数の郭が、最大で幅20メートル、深さ5メートルにも及ぶ空堀で仕切られ、中枢部への通路は迷路のように入り組んだ堅固な平城であった 22 。正攻法での攻略が容易でないことを見越した為信は、内部からの攪乱という謀略を用いたのである。

攻撃が開始されると、手引きされた内通者たちは城内に侵入し、各所で財宝を略奪しながら火を放った 30 。この内部からの放火と混乱によって、浪岡方は組織的な抵抗を行う間もなく、大混乱に陥った。

第二節:顕範の最期と浪岡氏の滅亡

城内が炎と煙に包まれる中、為信軍は一気呵成に城へと攻め寄せた。内部からの崩壊により、浪岡城は為信の前にあっけなく陥落したと伝えられている 22

この乱戦の最中、一族の後見人として最後まで抵抗を続けた浪岡顕範は、津軽軍の刃に倒れた 1 。彼は、自らが収拾したはずの内乱の傷跡から始まった一族の崩壊を、その身をもって見届けることになった。叔父(あるいは父)の仇を討ち、一時は一族の救世主と見なされた武将は、自らが守ろうとした城と運命を共にしたのである。

名目上の当主であった浪岡顕村の末路については、説が分かれている。城を捨てて逃亡したものの、やがて捕らえられ、寺で自害させられたという説 20 。そしてもう一つは、辛くも城を脱出し、舅である出羽の安東愛季のもとへ落ち延び、慶長9年(1604年)にその地で客死したという説である 20

いずれにせよ、この落城によって、津軽における浪岡北畠氏の支配は完全に終焉した。一族は離散し、顕範の子・顕忠の血筋は、縁のあった安東氏(後の秋田氏)を頼り、陸奥三春藩の家臣として家名を保った 4 。また、かつて乱の原因となった川原氏の生き残りである利顕の系統は、皮肉にも仇敵である津軽氏に仕えて江戸時代を生き延びた 9 。浪岡北畠氏の血脈は、津軽の地を追われながらも、各地で細々と受け継がれていくことになった。

結論:浪岡顕範の功罪と歴史的遺産

浪岡顕範の生涯を振り返るとき、我々は彼を単に「兄の仇を討った忠臣」あるいは「悲劇の復讐者」という一面的な評価で語ることの限界を知る。彼は、名門・浪岡北畠氏が迎えた最大の危機において、その存続というあまりにも重い責務を一身に背負った、悲劇的な指導者であった。

彼の行動、すなわち叔父・川原具信の討伐は、短期的には内乱を収拾し、一族の秩序を回復させるという「功」であった。しかし、血で血を洗う粛清は、一族内に癒しがたい亀裂を決定的にし、結果としてその結束力を奪い、滅亡を早めた「罪」の一因となった可能性も否定できない。彼の存在なくして浪岡氏は「川原御所の乱」の直後に崩壊していたかもしれないが、彼の存在があったからこそ、その後の衰退は避けられない運命となったとも言える。この功罪の両面から彼を捉えることこそ、その実像に迫る道であろう。

歴史的に見れば、顕範の生涯と浪岡氏の滅亡は、戦国時代という変革期における地方名門の苦悩と末路を凝縮した象徴的な出来事であった。内部抗争による自己崩壊と、新興勢力による下克上という、この時代を特徴づける二つの大きなテーマが、彼の人生にはっきりと刻み込まれている。彼は、血統と家格という中世的な価値観の最後の砦として、実力と謀略が支配する戦国的な価値観の奔流に抗い、そして散ったのである。

浪岡顕範の死とともに、浪岡北畠氏の津軽支配は幕を閉じた。しかし、その歴史的遺産が完全に失われたわけではない。彼の血脈は、秋田藩や弘前藩の家臣として、あるいは各地に離散しながらも後世に伝えられた 9 。そして何より、彼らが築き、顕範が最後まで守ろうとした浪岡城の跡地は、今日、国の史跡として保存され、発掘調査が進められている 13 。そこから出土する数多の遺物は、浪岡氏が単なる歴史の敗者ではなく、北奥の地に豊かな文化を花開かせた名族であったことを雄弁に物語っている。浪岡顕範は、その栄光と悲劇に満ちた歴史の最後の当主代理として、これからも長く記憶されるべき人物である。

引用文献

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