浮田国定(うきた くにさだ)は、戦国時代の備前国を主な活動の舞台とした武将である。宇喜多氏の一族であり、主家である浦上氏の家臣として、その名を歴史に留めている 1 。彼が生きた戦国時代中期(16世紀中頃)の備前国は、守護であった赤松氏の権威が失墜し、その守護代であった浦上氏が実質的な支配者として台頭する過渡期にあった。しかし、その浦上氏の内部でも兄弟間の権力闘争が頻発するなど、国内の情勢は極めて流動的であった。このような混沌とした時代背景は、浮田国定の生涯にわたり、その選択と運命に大きな影響を及ぼすことになる。
戦国時代の武士にとって、「家」の存続は何よりも優先されるべき課題であった。浮田国定の行動を理解する上では、この「家」という概念が個人の意思決定にいかに深く関わっていたかを考慮する必要がある。主家や一族内部における力関係の変動は、個々の武将の運命を大きく左右した。国定が浦上政宗に与し、後に宇喜多直家と対立した背景には、単なる個人的な感情や忠誠心だけでなく、それぞれの「家」が置かれた立場や利害が複雑に絡み合っていたと考えられる。本稿では、浮田国定の出自から、浦上氏家臣としての動向、そして同族である宇喜多直家との対立とそれに伴う砥石城の攻防に至るまでを、現存する史料を基に詳細に検討する。
浮田国定 関連年表
年代(和暦) |
年代(西暦) |
出来事 |
関連史料例 |
生年不明 |
不明 |
宇喜多久家の三男として誕生 |
1 |
天文12年(1543年)頃 |
1543年頃 |
(参考)宇喜多直家、乙子城主となる |
2 |
天文20年(1551年) |
1551年 |
浦上政宗と浦上宗景の対立が顕在化。国定は政宗方に与し、宗景・直家と敵対関係に入る |
1 |
弘治元年~弘治2年 |
1555年~1556年 |
宇喜多直家により砥石城落城。浮田国定討死 |
1 |
永禄6~7年(1563~1564年)頃 |
1563年~1564年頃 |
国定の子・五郎左衛門、直家に反乱を企図するも失敗 |
1 |
浮田国定の正確な生年は不明であるが、宇喜多久家の三男として生まれたとされている 1 。兄弟には、後に宇喜多直家の祖父となる能家、宗因、そして角田八郎左衛門がいた。また、国定の子としては五郎左衛門(筑前守)と片岡次郎左衛門の名が記録に残っている 1 。国定は「宇喜多大和守」を称したとされ 1 、これは彼が宇喜多氏の分家である大和守家を継承したか、あるいは新たに興したことを示唆している。
宇喜多氏の姓の表記には「宇喜多」と「浮田」の二種類が見られるが、これには嫡流と庶流の区別が関係していた可能性が指摘されている。すなわち、宇喜多氏の嫡流は佳字(縁起の良い文字)を当てて「宇喜多」または「宇喜田」と称し、一方で庶流は地形に由来する本来の姓である「浮田」を名乗ったとされる 4 。浮田国定が「浮田」の姓で記録されていることは、彼が宇喜多宗家に対して分家、あるいは庶流としての立場にあったことを明確に示している。この事実は、後に宇喜多宗家の再興を目指す宇喜多直家との関係性を考察する上で、重要な背景情報となる。国定が「浮田」を名乗っていたことは、単なる表記の揺れではなく、一族内における家格や立場を示す指標であった可能性があり、彼が宇喜多氏の主流から外れた、あるいは傍流に位置づけられていたことを暗示している。
宇喜多氏(浮田氏含む)主要関連人物(簡易系図風)
浮田国定が活動した16世紀前半から中頃にかけての宇喜多氏は、決して安泰な状況ではなかった。浦上村宗の戦死や、国定の兄である宇喜多能家が島村氏との争いで横死するなど、相次ぐ当主の死によって宇喜多氏の嫡流は一時的に没落の危機に瀕していた 1 。このような一族の混乱期にあって、国定は宇喜多氏の一翼を担う存在として、また大和守家の当主として、その勢力の維持と拡大を図ったと考えられる。
宇喜多氏の出自については、備前国児島郡の豪族であったとする説が有力であるが、その祖先に関しては児島高徳の後裔とする説や、百済王族の子孫を称する説など諸説が存在する。さらに、宇喜多能家自身は平朝臣を意味する「平左衛門尉」と称した記録もあり 4 、宇喜多氏が称する本姓にはある程度の揺らぎが見られたようである。国定が自身の家系についてどのような意識を持っていたかは史料からは詳らかではないが、一族が困難な状況に置かれる中で、自らの「家」を存続させようと努めたことは想像に難くない。
浮田国定は、当時の備前・播磨地域に大きな影響力を持っていた戦国大名、浦上氏に仕えていた。具体的には、播磨国を主な勢力基盤としていた浦上政宗の配下にあったとされている 1 。浦上氏は元々赤松氏の守護代であったが、主家の衰退に乗じて勢力を拡大し、戦国大名化しつつあった。
浦上政宗は、父である浦上村宗が享禄4年(1531年)の大物崩れで戦死した後、家督を相続した。しかし、弟である浦上宗景との間で、尼子氏への対応などを巡って意見が対立し、次第に関係が悪化していくことになる 3 。この兄弟間の対立は、やがて備前国を二分する内乱へと発展し、国定もその渦中に巻き込まれていく。国定が浦上兄弟の対立において政宗方に与し続けた理由は史料に明記されていないが 3 、いくつかの可能性が考えられる。一つは、国定の所領や活動基盤が、播磨を本拠とする政宗の勢力圏に近かった、あるいはその影響下にあったという地理的要因である。もう一つは、政宗との間に旧来からの主従関係、あるいは個人的な結びつきが存在した可能性である。宗景は備前国東部で独立勢力化を図ったため 1 、国定の立場からすれば、従来の主君である政宗に引き続き仕えることが自然な選択であったのかもしれない。この主家選択が、後の宇喜多直家(宗景の家臣として台頭)との対立に繋がる重要な分岐点となった。
天文20年(1551年)、山陰の雄である尼子晴久が備前国へ侵攻を開始すると、これを契機として浦上政宗と宗景の対立は決定的となった。政宗は尼子晴久や備前西部の松田氏と同盟を結んでこれに対抗しようとしたのに対し、宗景は反尼子方の立場を鮮明にし、安芸国の毛利元就の援助を得て兄・政宗と対峙した 1 。
この浦上氏の内訌において、浮田国定は一貫して浦上政宗方に属し、その主力武将の一人として活動した 1 。備前国の国人衆もこの対立に際して二派に分裂し、例えば中山勝政などが宗景に味方する一方で、国定は政宗方の中核を担ったと見られる。しかし、戦況は次第に政宗方に不利となっていった。政宗は天神山城や新庄山城(いずれも備前国内の城)などを巡る戦いで宗景・直家連合軍に相次いで敗北を喫し、備前国内における勢力を大きく後退させることになった 3 。国定もまた、主君政宗の劣勢の中で、困難な戦いを強いられたものと推察される。
浮田国定の主要な居城は、備前国邑久郡豊原(現在の岡山県瀬戸内市邑久町豊原)にあった砥石城(といしじょう)であったとされている 1 。この城は、標高約100メートルの丘陵上に築かれた連郭式の山城であり、山頂に本丸を置き、南北約300メートルにわたって複数の曲輪が配置された縄張りを持っていた 5 。備前福岡や千町平野を見下ろす戦略的な位置にあり、備前国東部を掌握するための重要な拠点の一つであったと考えられる。
『備前軍記』などの後世の軍記物によれば、砥石城は戦国時代を通じて宇喜多氏の重要な居城の一つであり、後に備前・美作を統一する戦国大名となる宇喜多直家もこの城で生まれたと伝えられている 5 。この伝承が事実であれば、砥石城は宇喜多一族にとって所縁の深い、象徴的な意味合いを持つ城であったと言える。
なお、戦国時代には信濃国小県郡(現在の長野県上田市)にも同名の「砥石城(戸石城)」が存在し、こちらは甲斐国の武田信玄(晴信)と北信濃の村上義清との間で激戦が繰り広げられたことで名高い 10 。浮田国定に関連する砥石城は、あくまで備前国の城であり、信濃国の砥石城とは全く別の城である点に注意が必要である。
浮田国定が具体的にいつから砥石城の城主であったのか、その正確な時期を特定することは難しい。しかし、彼が浦上政宗に仕え、その勢力下でこの城を領有していたことは確かと見られる。宇喜多能家(直家の祖父)が島村氏の奇襲によって自害した後 9 、嫡流が一時混乱する中で、能家の弟にあたる国定が 1 、一族の重要拠点である砥石城の支配権を継承、あるいは浦上氏から与えられた可能性が考えられる。史料 7 には「島村盛実に協力した浮田国定(能家の弟)に与えられる」との記述も見られるが、国定が宇喜多久家の三男で能家の弟であるという点 1 を踏まえると、宗家の当主であった能家の死後、その弟である国定が城を任された流れは自然である。
砥石城の支配権の変遷は、そのまま宇喜多一族内部の権力バランスの変動を象徴していたと言えるだろう。宇喜多能家の時代には宗家の拠点であったこの城が、その死後に分家である大和守家の国定の手に渡ったことは、宇喜多宗家の勢力が一時的に弱体化し、相対的に分家の立場が浮上した可能性を示唆している。後に宇喜多直家がこの砥石城を国定から奪還する戦いは、単なる領土争いというだけでなく、宇喜多宗家の再興と一族内の主導権確立という象徴的な意味合いも帯びていたと考えられる。
宇喜多直家は、天文2年(1529年)に砥石城で生まれたとされるが、幼少期に祖父・宇喜多能家と父・興家を相次いで失い、不遇な時期を過ごしたと伝えられている 2 。しかし、成長すると母方の縁などを頼りに浦上宗景に仕官し、天文12年(1543年)頃には乙子城(おとごじょう、岡山市東区)の城主となり、300貫の知行と足軽30人を与えられるなど、次第にその頭角を現し始めた 2 。
この宇喜多直家にとって、砥石城主である浮田国定は、父・興家の叔父、すなわち大叔父にあたる人物であった 2 。この親族関係は、両者の対立を単なる敵対勢力間の争いではなく、より複雑で深刻なものにしたと考えられる。浦上宗景が備前国東部で兄・政宗からの独立と勢力拡大を進める中で、一貫して政宗方に与し続ける浮田国定は、宗景およびその配下である直家にとって、排除すべき障害となっていった。
宇喜多直家は、戦国時代を代表する梟雄の一人であり、下剋上を体現した人物として知られている。彼が備前国に覇を唱える過程で、最初に乗り越えるべき壁の一つが、同じ宇喜多一族でありながら旧主(浦上政宗)への忠誠を捨てない浮田国定であった。直家から見れば、国定は自らの勢力拡大と、没落した宇喜多本家の再興を阻む旧勢力の象徴と映った可能性が高い。新しい主君である浦上宗景の下で急速に力をつけた直家が、古い主君である浦上政宗に仕え続ける一族の古老とも言える国定を討つという構図は、戦国時代における下剋上の一つの典型的なパターンを示している。直家の野望の最初の大きな標的の一つが、皮肉にも血縁関係にある一族の者であったという点は、戦国の非情さを物語っている。
浦上宗景は、備前国東部における自身の支配権を確立するため、また兄・政宗の勢力を削ぐため、配下の宇喜多直家に、浮田国定が守る砥石城の攻略を命じた 1 。これを受けて、直家は砥石城への攻撃を開始する。
直家による砥石城攻めは一度で終わったわけではなく、複数回に及んだと見られている。当初、国定方はよく防戦し、特に若き日の馬場家職(ばば いえしょく、通称は二郎四郎、後に重介と改名)らの奮闘によって、直家軍を度々撃退したと伝えられている 1 。馬場家職は元々、浮田国定の家臣であったが、後に宇喜多直家に仕えることになる人物である 16 。
砥石城の攻防戦の具体的な時期や経緯については、史料によって記述に差異が見られる点に注意が必要である。特に、後世に編纂された軍記物である『備前軍記』やそれに基づく伝承では、天文14年(1545年)、当時16歳の直家が砥石城を攻めたものの撃退され、その後4年間の膠着状態が続いた後、天文18年(1549年)に直家が夜襲をかけて城内の旧宇喜多家臣の寝返りなどもあり、ついに砥石城を奪還した、という筋書きで語られることが多い 14 。
しかしながら、より一次史料に近いと考えられる記録や、それらをまとめた研究では、砥石城の最終的な落城と浮田国定の死は、弘治元年(1555年)から弘治2年(1556年)の間のできごとであるとされている 1 。この時期のずれは、軍記物が物語としての劇的効果や構成上の都合を優先する傾向があるため、出来事の順序を整理したり、年代を調整したりする過程で生じた可能性が考えられる。国定の最期を記す史料 1 が示す弘治年間説が、より事実に近いと考えられる。ただし、「若き日の馬場家職などの奮闘もあり度々撃退するも」という記述 1 は、複数回にわたる攻防戦があったことを示唆しており、天文年間に前哨戦とも言える戦いがあり、弘治年間に最終的な決着がついたという解釈も成り立つかもしれない。
度重なる宇喜多直家軍の攻撃の末、弘治元年(1555年)から弘治2年(1556年)の間に、ついに砥石城は落城した。そして、城主であった浮田国定もこの落城の際に討ち取られたとされている 1 。これにより、浦上政宗方の有力な武将であった浮田国定は歴史の舞台から姿を消し、宇喜多直家は備前国東部における自身の勢力基盤を一層強固なものとすることに成功した。
国定の死後、彼の所領であった豊原荘の半分は直家によって没収された。しかし、国定の家系である大和守家自体は、この時点では完全に断絶したわけではなく、規模を縮小されながらも存続したとされている 1 。これは、戦国時代において敵対した一族を必ずしも根絶やしにするのではなく、勢力を削いだ上で自らの支配体制に組み込むという、現実的な対応の一例と言えるかもしれない。
浮田国定の戦死と砥石城の失陥は、彼が当主であった大和守家にとって大きな打撃であったが、家そのものは辛うじて存続した 1 。しかし、その後の大和守家は、宇喜多直家の影響下で厳しい道を歩むことになる。
国定の子と見られる浮田五郎左衛門(筑前守)は、永禄6年(1563年)から永禄7年(1564年)頃、備中国の三村家親が備前国東部へ侵攻してきた機会を捉え、宇喜多直家に対して反旗を翻そうと画策した。五郎左衛門は、かつて父・国定に仕え、当時は直家の家臣となっていた馬場家職(重介)に対し、直家を暗殺し、その居城である沼城(ぬまのじょう)に火をかけるよう唆す密書を送った。しかし、馬場家職はこの誘いに乗らず、逆に直家にこの陰謀を通報した。この功績により、家職は直家から褒賞を受けたとされる 1 。
この反乱未遂事件の結果、大和守家はそれまで保持していたかもしれないわずかな独立性も完全に失い、宇喜多直家の家臣団に完全に組み込まれていったと考えられる 1 。国定は直家との戦いに敗れて討死したが、その家(大和守家)が直ちに滅亡させられたわけではなかった点は注目される。しかし、その後の当主による再度の反抗の企ては許されず、これによって大和守家の宇喜多家中における従属的な地位は決定的なものとなった。直家としても、元々同族である浮田姓の者を完全に排除するよりも、自らの勢力下に組み込む方が得策と考えたのかもしれないが、一度刃向かった以上、その監視と統制は厳しかったであろう。
その後、大和守家の動向を示す記録として、五郎左衛門の子である浮田源五兵衛(宇喜多信濃守)とその子・孫四郎が、忍山城(おしやまじょう)の守備戦で戦死したことが伝えられている 1 。これは、大和守家が宇喜多直家(あるいはその後継者である秀家)の家臣として、実際の戦闘に参加し、命を落とすこともあったことを示している。
浮田国定の直系の子孫がその後どのように続いたのか、詳細な記録は乏しい。しかし、宇喜多氏全体で見ると、「浮田」の姓は後世にも見られる。例えば、関ヶ原の戦いで西軍の主力として戦い敗れた宇喜多秀家は、八丈島へ流刑となったが、その秀家と共に流された長男と次男の子孫は八丈島で血脈を伝え、のちに「浮田」を称する分家が3家興ったとされている 15 。これらは浮田国定の直接の子孫ではないが、宇喜多一族の中で「浮田」という姓が、宗家が「宇喜多」を称するようになった後も、分家や庶流によって継承された事例として興味深い。国定の血筋が具体的にどのように繋がっていったかは不明であるが、大和守家が宇喜多家の家臣団に組み込まれた後、その一員として歴史の中に埋もれていった可能性が高いと考えられる。
浮田国定は、戦国時代中期の備前国において、宇喜多一族の分家である大和守家の当主として、また浦上氏の有力家臣として、一定の勢力と役割を持った武将であった。彼の生涯は、主家である浦上氏内部の分裂と抗争、そして同族である宇喜多直家の急速な台頭という、二つの大きな歴史の潮流に翻弄されたものであったと言える。
特に、宇喜多直家との間で行われた砥石城を巡る攻防戦は、国定自身の運命を決定づけると共に、直家が備前国に覇を唱える上での重要な画期の一つとなった。この戦いにおける国定の敗北と死は、直家にとって大きな障害が取り除かれたことを意味し、その後の勢力拡大を加速させる一因となった。
浮田国定は最終的に宇喜多直家に敗れたが、その存在は、戦国時代の過渡期における地方武士の生き様、そして「下剋上」という時代の大きな波に飲まれていった旧勢力の一つの姿を象徴していると言えるだろう。彼に関する史料は、彼に勝利した宇喜多直家の記録や、彼が関与した戦いの記述の中に断片的に見出されるものが中心である。これは、歴史記録が往々にして勝者を中心に編纂される傾向があるためであり、国定自身の視点や詳細な動機、人物像の細部までを深く知ることは困難である。しかし、これらの限られた断片的な情報をつなぎ合わせることで、彼が生きた時代の様相や、彼が置かれた複雑な立場の一端を垣間見ることは可能である。浮田国定は、備前戦国史を語る上で、決して忘れることのできない人物の一人である。