本報告書は、戦国時代の信濃国にその名を刻む武将、海野幸義(うんの ゆきよし)について、現存する史料や研究成果に基づき、その出自、生涯、そして歴史的背景を詳細に考究するものである。海野幸義は、信濃の伝統的豪族である滋野(しげの)一族の宗家・海野氏の嫡男として、東信濃地域に勢力を有した人物である。彼が生きた十六世紀前半は、甲斐国の武田氏が信濃への侵攻を本格化させる前夜であり、信濃国内の諸勢力間の緊張が極度に高まっていた動乱の時代であった。
ユーザー諸兄におかれては、海野幸義が「信濃の豪族。棟綱の嫡子。滋野一族の本家として勢力を保持していたが、海野平合戦で村上義清、諏訪頼重など、武田信虎と結んだ近隣豪族に敗れて戦死した」という概要を既に把握されていると拝察する。本報告書では、この基礎情報を踏まえつつ、幸義の出自である海野氏及び滋野一族の成り立ち、彼がその命を散らすこととなった海野平合戦の具体的な経緯と歴史的意義、そして海野氏と、後に戦国大名として名を馳せる真田氏との複雑な関係性について、より深く掘り下げて明らかにすることを目的とする。
海野幸義の家系を理解するためには、まずその祖先である滋野氏について触れる必要がある。滋野氏は、平安時代初期の史料にその名が見え始める古代からの氏族である。一説には、京に仕えた中下級官人であった滋野貞主(しげののさだぬし)の子孫が信濃国小県郡(ちいさがたぐん)に土着したことに始まるとされる。この中央からの移住と土着という経緯は、滋野氏が単なる地方の土豪ではなく、中央との繋がりを持つ由緒ある家柄としての側面を有していたことを示唆している。
時代が下るにつれて、滋野氏は信濃の在地領主としての性格を強め、武士団を形成していったと考えられる。やがて滋野氏は、海野氏、禰津(ねつ)氏、望月(もちづき)氏の三家に分かれ、これらは「滋野三家(しげのさんけ)」と総称された。これらの三家は、信濃国の小県郡や佐久郡を中心に広範な地域を領有し、それぞれが有力な武家として発展した。中でも海野氏は、滋野一族の惣領家、すなわち本家としての地位を占めていたとされ、東信濃における重要な勢力であった。中央貴族的な出自と、在地領主としての現実的な勢力基盤を併せ持っていたことが、滋野氏及び海野氏の特質であり、後の戦国時代の動乱における彼らの行動原理にも影響を与えた可能性が考えられる。
海野幸義の父は、海野棟綱(うんの むねつな)である。棟綱は、戦国時代初期の海野氏当主として、小県郡の砥石城(といしじょう)や上田原に城郭を築くなど、不安定な情勢に対応するための軍事力の強化に努めていた。また、大永七年(1527年)には高野山蓮華定院(こうやさんれんげじょういん)に宿坊に関する約定書を発給しており、これは当時の武士が中央の宗教的権威との結びつきを重視し、広域的な情報網や人脈を維持しようとしていたことを示すものである。
海野幸義は、この棟綱の嫡男として生を受け、海野氏の家督継承者と目されていた。官途名は左京太夫(さきょうだゆう)と伝えられている。ある史料には幸義を「ガマン強くない。けどなかなか死なない。戦闘民族」とやや砕けた表現で記述している箇所もあるが、これは彼の気性の一端を示唆するものかもしれない。棟綱の時代、海野氏は甲斐武田氏の圧力が強まる中で、軍事力の強化、宗教的権威との連携、そして関東管領上杉氏との外交を通じて、一族の存続を図ろうとしていた。幸義は、父・棟綱によるこれらの努力と、それが直面していた厳しい現実を間近で見ていたはずであり、それが彼の武将としての資質形成に影響を与えたことは想像に難くない。
海野幸義が歴史の表舞台でその名を知られるのは、天文十年(1541年)の海野平合戦(うんのだいらがっせん)においてである。この合戦に至る背景には、当時の信濃国を巡る複雑な政治・軍事状況があった。
甲斐国(現在の山梨県)の武田信虎(たけだ のぶとら)は、国外への勢力拡大を積極的に進めており、その主要な標的の一つが隣接する信濃国であった。信虎は、特に信濃東部の佐久郡や小県郡への侵攻を繰り返していた。史料によれば、信虎の度重なる出兵は領民を疲弊させていたとも伝えられており、新たな領地の獲得が経済的な動機を含んでいた可能性も指摘される。天文九年(1540年)には、信虎は佐久地方に大規模な軍事行動を起こし、多くの城を攻略したと記録されている(『妙法寺記』)。
一方、海野氏は伝統的に関東管領山内上杉氏(かんとうかんれいやまのうちうえすぎし)と深い結びつきを持っていた。過去には、海野氏の当主が鎌倉で元服し、上杉氏の当主を烏帽子親とするなど、関東管領家に従属する立場にあったことが確認できる。しかし、海野平合戦当時は、関東において相模国の北条氏が急速に台頭し、関東管領上杉氏の権威は大きく揺らいでいた。このため、海野氏が上杉氏から十分な軍事的支援を得ることは困難な状況にあった。頼るべき後援者の力が衰え、直接的な脅威である武田氏の圧力が強まるという、海野氏にとっては絶望的な戦略的ジレンマが生じていたのである。この外部環境の著しい悪化が、海野平合戦における海野氏の孤立と敗北の大きな要因となったと考えられる。
天文十年(1541年)五月、武田信虎は、信濃の有力な国人領主である諏訪頼重(すわ よりしげ)、そして北信濃に勢力を持つ村上義清(むらかみ よしきよ)と連合軍を結成し、海野氏の所領である小県郡へ侵攻を開始した。これに対し、海野棟綱・幸義親子は、同じ滋野一族の禰津元直(ねつ もとなお)や、後に武田信玄に仕えてその名を馳せることになる真田幸隆(さなだ ゆきたか、幸綱とも)らと共にこれを迎え撃つこととなった。
武田軍は佐久方面から、村上軍は千曲川沿いを南下、諏訪軍は北上して海野領へ多方面から攻勢をかけた。海野方の拠点の一つであった尾野山城(おのやまじょう)が落城するなど、戦況は海野方にとって不利に進んだ。そして、海野領内の神川(かんがわ)付近において、両軍の主力部隊による激戦が展開された。この神川は、後の時代にも真田氏と徳川氏が戦った古戦場であり(神川の戦い)、この地域における重要な防衛線、あるいは戦略的な境界としての役割を果たしていたことが窺える。海野幸義がこの地で戦ったことは、彼が海野氏の本拠地を防衛する最前線で指揮を執っていたことを示している。しかし、奮戦及ばず、この戦いで海野棟綱の嫡男である海野幸義は討死を遂げた。享年は三十二歳であったと伝えられている。幸義の法名は「赫□院殿瑞山幸善大居士(かくしゅういんでんずいさんこうぜんだいこじ)」(一字不明)とされる。
海野幸義の戦死と主力軍の壊滅により、海野平合戦は海野方の敗北に終わった。当主・海野棟綱と真田幸隆らは、辛うじて戦場を離脱し、上野国(こうずけのくに、現在の群馬県)へ逃れた。彼らは関東管領上杉憲政(うえすぎ のりまさ)や、その重臣で箕輪城主(みのわじょうしゅ)であった長野業政(ながの なりまさ)らを頼ったとされている。この敗北により、滋野氏の惣領家として約六百年間にわたり東信濃に君臨してきた海野氏による組織的な支配は、事実上終焉を迎えることとなった。
海野平合戦の結果、海野氏の旧領である小県郡は村上義清の勢力圏に、佐久郡は武田信虎の勢力圏になったと一般的には理解されている。しかし、合戦終結の直後である同年六月、武田家内部で信虎が嫡男・晴信(はるのぶ、後の信玄)によって甲斐国から追放されるという政変が発生した。この武田家の内紛により、武田氏は海野平合戦の戦後処理に十分な介入ができなかった可能性が指摘されている。その結果、連合軍の一翼を担った村上義清が、海野氏旧領に対して最も大きな影響力を行使しやすくなった、いわば「漁夫の利」を得た形になったとも考えられる。ただし、村上氏が海野氏旧領に家臣を配置したり、所領として宛行うなど、直接的な支配を確立した明確な史料は、天文十年以降には確認されていないとの指摘もあり、戦後の支配関係は流動的かつ複雑であった可能性も残る。
いずれにせよ、海野平合戦は、後の武田晴信(信玄)による本格的な信濃侵攻、そして村上義清との間で繰り広げられる上田原の戦いや砥石崩れといった激しい抗争へと繋がる、信濃の勢力図を大きく塗り替える重要な転換点となった。
海野幸義の死と海野氏本宗家の没落は、信濃の歴史に大きな影響を与えたが、特に注目されるのが、後に戦国大名として飛躍を遂げる真田氏との関係である。海野幸義と、真田氏興隆の祖とされる真田幸隆(幸綱)との関係については、複数の説が存在し、未だ定説を見ていない。これは真田氏の出自研究における長年の課題でもある。
真田幸隆の出自、特に海野幸義との血縁関係については、江戸時代に編纂された各種系図類を中心に、様々な記述が見られる。主要な説を以下に整理する。
No. |
説の内容 |
典拠史料(成立年代など) |
備考 |
1 |
幸隆は棟綱の嫡男、幸義は棟綱の弟(幸隆の叔父) |
『真田家系図』 |
江戸幕府提出用系図の可能性が指摘される。 |
2 |
幸義は棟綱の長男で戦死、幸隆は幸義の弟 |
『真武内伝』(竹内軌定所蔵、享保十六年成立)、『滋野世紀』(桃井友直編、享保十八年成立)、『加沢記』 |
複数の史料に見られる説。 |
3 |
幸隆は棟綱の孫(幸義の嫡男) |
『寛政重修諸家譜』(幕府編纂、寛政十一年成立) |
幕府の公式系図集の記述。 |
4 |
幸隆は棟綱の娘(幸義の妹)と真田右馬佐頼昌の子 |
『矢沢氏系図』(矢沢氏菩提寺・良泉寺所蔵) |
現在、比較的有力な説の一つとされるが、頼昌を幸隆の実父とする直接的な史料はこの系図のみとされる。 |
5 |
幸隆の母は幸義の妹(棟綱の娘)、幸隆は棟綱の孫(甥) |
『海野系図』(東御市海野・白鳥神社所蔵)、『滋野正統家系図』(真田家臣飯島家所蔵) |
海野家が事実上断絶したため、幸隆がその名跡を継いだとされる。 |
6 |
幸隆は棟綱の長男 |
『滋野通記』(馬場政常所蔵) |
説1と類似するが、幸義の位置づけが異なる。 |
これらの諸説は、それぞれ異なる史料的根拠を持つが、いずれも決定的な確証に欠ける部分があり、真田氏の初期系譜の解明を困難にしている要因である。
海野平合戦で海野幸義が戦死し、海野氏の嫡流が事実上途絶えた(あるいは著しく弱体化した)後、真田幸隆が海野氏の名跡を継承したという説が有力視されている。ある伝承によれば、幸隆は伯父にあたる幸義の遺骸を丁重に葬り、その冥福を祈ったという。
この名跡継承の背景には、単なる血縁関係だけではなく、戦国武将としての現実的な戦略があったと考えられる。海野氏は滋野一族の惣領家であり、東信濃に広範な影響力と伝統的な権威を有していた。幸隆がこの「名跡」を継承することは、旧海野氏の家臣団や地域の人々を自身の傘下に組み入れるための強力な大義名分となり得た。また、後に武田氏に仕える際にも、信濃の旧名族の代表者としての立場を有利に活用できた可能性も否定できない。
さらに、真田幸隆の母が海野氏の血族であった可能性は極めて高い。天文九年(1540年)四月二十六日に、高野山蓮華定院において真田幸隆の母の供養が行われた記録が残っており、その戒名は「玉窓貞音大禅定尼(ぎょくそうていおんだいぜんじょうに)」と記されている。この事実は、真田氏が海野氏と深い血縁関係にあったことを強く示唆しており、幸隆による名跡継承の妥当性を補強するものである。これは、血縁という「実」と、家格や名跡という「名」を巧みに利用した、真田幸隆の卓越した生存戦略・勢力拡大戦略の一端を示すものと言えるだろう。
武田信玄(晴信)は、信濃侵攻を進める中で、征服した地域の旧領主の名跡を自身の子や一族に継がせることで、その地の支配を円滑に進め、在地勢力の反抗を抑えるという巧みな統治策を用いた。海野氏の名跡もまた、この武田氏の戦略に利用されることとなる。
海野氏の名跡は、信玄の第二子である武田信親(たけだ のぶちか、後の竜宝あるいは龍宝(りゅうほう))に継承された。信親は盲目であったと伝えられている。史料によれば、信親は海野幸義の娘を娶ることで海野氏の名跡を継承したとされており、これにより武田氏は旧海野氏家臣団の掌握や、海野氏旧領の領民の慰撫を図ったと考えられる。これは、単なる懐柔策に留まらず、一種の「記憶の書き換え」とも言える行為であった。敵対して滅ぼした旧支配者の名跡を自らの一族が継承し、さらに血縁関係を結ぶことで、征服という暴力的な事実を覆い隠し、あたかも正当な後継者であるかのように見せかける効果を狙ったものであろう。これは、戦国大名が支配領域を安定させるための常套手段であり、海野氏の悲劇的な滅亡が、勝者である武田氏の支配戦略に巧みに利用された事例と言える。
武田信親(竜宝)の系統は、武田氏滅亡後、多くの困難を経ながらも、江戸時代には幕府の高家(こうけ)武田家として存続することになった。これは、海野幸義の血筋が(女系を通じてではあるが)武田氏の一分家として後世に繋がったことを意味する。
海野幸義自身の生涯は、海野平合戦における若くしての戦死によって短いものであった。しかし、彼の死と海野氏本宗家の敗北は、信濃国、特に東信濃における滋野一族の勢力図を大きく変え、武田氏による本格的な信濃支配への道を開く一因となった。
また、海野氏という東信濃の伝統的権威が大きく後退したことは、この地域に一時的な力の空白を生み出した。村上氏や武田氏がその空白を埋めようとしましたが、最終的にこの地域の再編と新たな秩序形成において主導的な役割を果たしたのは、皮肉にも海野氏と深い繋がりを持ちつつも、新たな主君(武田氏)のもとで実力を蓄えた真田氏であった。もし海野氏が強大な勢力を保ったまま存続していれば、真田氏がこれほど急速に台頭する余地は少なかったかもしれない。つまり、海野幸義の死と海野氏本宗家の没落は、真田氏が戦国史の表舞台で飛躍するための歴史的土壌を提供する結果となったとも考えられる。
なお、海野氏の影響力が完全に消滅したわけではなかったことを示唆する記録も存在する。天正九年(1581年)には、真田昌幸(さなだ まさゆき)によって海野長門守幸光(うんのながとのかみゆきみつ)や海野能登守輝幸(うんののとのかみてるゆき)といった海野姓を名乗る人物が誅伐されたという記述があり、海野氏の系統を引く人々がその後も一定の勢力を保持し、時には真田氏と対立する存在であった可能性も窺える。
海野幸義とその一族が活躍した信濃国東部、現在の長野県東御市(とうみし)周辺には、今もなお海野氏に関連する史跡が数多く残されている。これらの史跡は、海野氏がかつてこの地で大きな勢力を誇っていたこと、そして地域の人々によってその記憶が大切に伝えられてきたことを物語っている。
これらの史跡は、海野氏の歴史を今に伝える貴重な文化遺産である。
本報告書では、戦国時代の武将・海野幸義について、その出自、海野平合戦における役割と最期、そして海野氏と真田氏の関係性、海野氏の歴史的影響などを中心に考察してきた。海野幸義は、滋野氏惣領家の嫡男として将来を嘱望されながらも、戦国時代の激流の中で若くして命を落とした悲運の武将であったと言える。彼の死は、東信濃における勢力図の転換を促し、武田氏の信濃支配、さらには真田氏の台頭へと繋がる歴史の大きなうねりの一端を形成した。
海野氏、特に幸義の父・棟綱の代における外交努力や軍備強化は、押し寄せる戦国の荒波に対する必死の抵抗であったが、武田・諏訪・村上という強大な連合軍の前に屈する結果となった。その背景には、伝統的な後ろ盾であった関東管領上杉氏の衰退という、外部環境の不利も大きく影響していた。
海野幸義と真田幸隆の関係については、多くの説が存在するものの、未だ確定的な史料に乏しく、今後の研究による新たな発見が待たれる領域である。しかし、真田氏が海野氏の血縁と名跡を巧みに利用し、戦国乱世を生き抜く糧としたことは、ほぼ間違いないと言えよう。
今後の展望としては、『高白斎記(こうはくさいき)』、『神使御頭之日記(しんしおんとうしのにっき)』、『妙法寺記』、高野山蓮華定院に残る文書 といった一次史料の更なる精密な分析や、新たな史料の発見が期待される。また、日向畑遺跡(ひなたはたいせき)の事例 のように、考古学的調査との連携によって、文献史料だけでは見えてこない海野氏一族の実像に迫れる可能性もあろう。これらの多角的なアプローチを通じて、海野幸義とその時代に対する我々の理解は、より一層深まるものと確信する。