深堀又五郎は戦国期塩釜の商人。武家系譜の姓を持ち、港町・門前町の塩釜で製塩・海運・水産流通を経営。伊達氏の支配下で御用商人として活躍し、藩の経済を支えた。その生涯は激動の時代を生き抜いた商人の象徴。
本報告書は、日本の戦国時代から江戸時代初期にかけて、奥州塩釜(現在の宮城県塩竈市)で活動したとされる商人、「深堀又五郎」という人物の実像に迫ることを目的とします。ご依頼主様がご存知の「塩釜の商人」という基本情報から一歩踏み込み、現存する限られた史料を手掛かりに、その人物像、生きた時代背景、そして彼が営んだであろう事業について、多角的かつ徹底的な調査と分析を行いました。
深堀又五郎に関する直接的な記録は、極めて断片的です。本調査において確認できたのは、ある史料に「又五郎の家を訪ねる」と記された、わずか一行の記述のみです 1 。しかし、この一行こそが、深堀又五郎という人物が歴史上たしかに存在し、塩釜の地で一定の社会的地位を築いていたことを示す、何物にも代えがたい貴重な証左となります。
このような史料の制約を踏まえ、本報告書では「歴史的再構築」というアプローチを採用します。これは、人物そのものの情報が乏しい場合、その人物が活動した舞台(塩釜という町の特性)、その地を巡る権力の動向(留守氏から伊達氏への支配者交代)、そして彼が身を置いた経済環境(製塩業や廻船業の実態)を徹底的に解明することで、人物像を立体的に浮かび上がらせる手法です。
本報告書は、まず唯一の手掛かりである「深堀又五郎」という名そのものを分析することから始めます。次に、彼が生きた戦国時代の塩釜が持つ地政学的・経済的な価値を解き明かし、伊達政宗の治世下で商人が果たした役割を考察します。さらに、当時の塩釜における主要な産業を具体的に検証し、又五郎の事業内容を推論します。最後に、江戸時代への移行期における社会経済の変動が、彼、あるいは彼の一族に与えた影響を分析します。
この試みは、一人の商人の生涯を追うことを通じて、戦国から近世へと至る奥州の経済と社会のダイナミズムを深く洞察するものであり、歴史の霧中に消えたかに見える人物も、その生きた世界を丹念に再構築することで、現代に豊かな歴史的知見をもたらしうることを示すものです。
人物の探求は、その名から始まります。「深堀又五郎」という姓名には、彼の出自や社会的地位を推測する上で重要な手掛かりが隠されています。
「深堀」という姓は、そのルーツを辿ると相模国三浦荘を発祥とする三浦一族に行き着くとされています。この一族は、のちに和田姓を名乗り、上総国伊南荘深堀(現在の千葉県いすみ市深堀)に移り住んだことから「深堀」を称するようになりました 2 。その後、承久の乱の功績により新たな所領を得て、最終的には肥前国(現在の長崎県)に土着し、その地を治める地頭となった武家です 2 。
ここで一つの大きな問いが生じます。なぜ、遠く離れた肥前の国の武家の姓が、奥州塩釜の一商人の名として現れるのでしょうか。この謎を解く鍵は、戦国時代という時代の特性にあります。この時代は、旧来の身分制度が大きく揺らぎ、社会が極めて流動的でした。合戦によって主家を失った武士が、刀を捨てて農民や商人として新たな人生を歩むことは、決して珍しいことではありませんでした。
肥前の深堀氏が海との関わりが深い地頭であったことを考えれば、海運技術や交易の知識を持つ一族の一部が、商業活動のために各地へ移住し、その一派が奥州塩釜に流れ着いた可能性は十分に考えられます。あるいは、直接の血縁はなくとも、何らかの縁故によって由緒ある「深堀」という姓を名乗ることを許された、あるいは自称した可能性も否定できません。
いずれにせよ、「深堀」という姓の存在は、又五郎が単なる一介の町人ではなく、武家の系譜に連なる、あるいはそれに匹敵するだけの由緒や背景を持つ人物であった可能性を強く示唆しています。これは、彼の人物像を考察する上で極めて重要な出発点となります。
深堀又五郎の存在を直接示す唯一の史料には、「又五郎の家を訪ねる」という一文が記されています 1 。これは、ある人物が記した日記か旅の記録の一部と推測されますが、その前後の記述が彼の社会的地位を雄弁に物語っています。この筆者は、「又五郎」の家を訪ねた後、同じく塩釜の「浦部孫左衛門」という人物の家を訪れ、そこで入浴したと記録しています 1 。
この短い記述から、いくつかの重要な点を読み取ることができます。
第一に、日記の筆者は、地域の有力者と面会し、その家で歓待を受けることができるだけの身分を持つ人物であったと考えられます。
第二に、その筆者がわざわざ家を「訪ねる」という行為の対象となっていることから、「又五郎」は塩釜の町に自身の家屋敷を構える、相応の資産と社会的基盤を持つ「家持商人」であったと推測できます。単なる小商人であれば、このような記録に残ることは考えにくいでしょう。
第三に、同じく地域の有力者と思われる「浦部孫左衛門」と並べて記述されている事実は、「又五郎」が塩釜の町において、名士の一人として広く認識されていたことを示唆します。
これらの状況証拠を総合すると、深堀又五郎の人物像がより鮮明になります。彼は、単に商品を売買する商人というだけでなく、塩釜の地域社会において他者から訪問を受けるほどの存在感を持ち、相応の富と影響力を有する人物であった可能性が極めて高いと言えます。この推論は、以降の章で彼の具体的な活動内容を考察していく上での確固たる基盤となるものです。
一人の商人の生涯を理解するためには、彼が生きた「舞台」そのものを知る必要があります。戦国時代の塩釜は、単なる港町ではなく、奥州の政治・経済・信仰の中心地として、支配者たちにとって極めて重要な戦略的価値を持つ場所でした。
塩釜の歴史は古く、奈良時代に陸奥国府・多賀城が創建された際、その建設資材を海路で運び込むための荷揚げ港として開かれたことに始まります 4 。国府の外港という役割は、この地が古くから東北地方の玄関口として機能していたことを意味します。
同時に、塩釜は陸奥国一之宮である鹽竈神社の門前町としても発展しました 5 。鹽竈神社は、製塩の神・航海の神として古くから朝廷や民衆の篤い信仰を集めており、その門前には多くの参拝者が集い、町は賑わいを見せていました。
さらに、この地には古代、塩を中心に生活用品など様々な品物が取引される、奈良・京都以東では最古とも言われる「鳥居原古代市場」が存在したとされ、奥州最大の市場として機能していた可能性も指摘されています 4 。金売り吉次がこの周辺に拠点を構えていたという伝説も、この地の商業的な重要性を物語っています 4 。
このような地理的・宗教的・商業的な重要性の蓄積は、戦国時代の武将たちにとって塩釜が無視できない要衝であったことを示しています。港を支配することは、兵糧や武具といった物資の搬入・搬出、すなわち兵站線を確保する上で死活問題でした。また、地域の信仰の中心である鹽竈神社と、その門前町を掌握することは、経済的な利益を得るだけでなく、地域の民心を掴む上でも大きな意味を持ちました。深堀又五郎のような商人は、この地の持つ地政学的な価値を背景に、単なる経済活動の担い手としてだけでなく、支配者にとって戦略的に重要な存在となり得る環境に身を置いていたのです。
深堀又五郎が生きたであろう戦国時代後期、塩釜を含む宮城郡一帯は、岩切城を拠点とする留守氏の支配下にありました 7 。留守氏は、鎌倉時代に源頼朝によって陸奥国留守職に任じられた伊沢家景を祖とする名門であり、長きにわたりこの地の領主として君臨していました 7 。留守氏は鹽竈神社の実権も掌握しており、塩釜の町は彼らの支配の下で運営されていたと考えられます 8 。
しかし、16世紀後半になると、米沢を拠点とする伊達政宗が急速に勢力を拡大し、奥州の勢力図は大きく塗り替えられていきます。政宗の叔父にあたる留守政景が伊達氏の家臣団に組み込まれるなど、留守氏の力は次第に伊達氏の強い影響下に置かれることになりました 8 。そして天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐を経て奥州仕置が行われると、留守氏は独立大名としての地位を失い、この地は名実ともに伊達氏の所領となります 9 。
この留守氏から伊達氏への支配者の交代は、塩釜の商人たちにとって、まさに激動の時代の到来を意味しました。長年、留守氏の庇護の下で既得権益を享受してきた商人たちは、その地位を失うリスクに直面しました。一方で、この変化は新たな機会ももたらしました。新支配者である伊達政宗にとって、現地の事情に精通し、情報収集能力、物資調達力、そして資金力を持つ有力商人は、領国経営を円滑に進める上で魅力的な協力者であったはずです。
この権力移行期を生き抜き、有力商人としてその名をとどめた深堀又五郎は、おそらくこの政治的な激動を巧みに乗り切った人物であったと推論されます。彼は、旧来の支配者との関係に固執することなく、新たな時代の潮流を読み、伊達氏という新権力との間にいち早く関係を築くことで、自らの地位を維持、あるいはさらに発展させた、極めてしたたかで先見の明のある商人であったのではないでしょうか。
西暦 |
和暦 |
日本の主な出来事 |
塩釜・仙台藩の主な出来事 |
商人への影響(推察) |
c. 1550- |
天文-永禄 |
戦国時代の動乱激化 |
留守氏が塩釜周辺を支配 7 |
留守氏の庇護下で特定の商人が権益を保持。 |
1591 |
天正19 |
豊臣秀吉、天下統一 |
伊達政宗、岩出山城へ移封。宮城郡が伊達領となる 9 。 |
支配者の交代。留守氏系の商人には危機、新興商人には機会となる。政治的判断が重要に。 |
1601 |
慶長6 |
徳川幕府開府(1603) |
伊達政宗、仙台城を築城し開府 9 。 |
仙台城下という巨大消費地の出現。物資需要が爆発的に増大。 |
1607 |
慶長12 |
- |
政宗により鹽竈神社社殿が造営される 10 。 |
藩の重要事業への資材調達などで商人にビジネスチャンスが生まれる。 |
1613 |
慶長18 |
- |
慶長遣欧使節が月ノ浦を出帆 11 。 |
藩の対外交易への意欲が高まり、港湾商人への期待も増す。 |
1673 |
寛文13 |
- |
舟入堀(貞山運河)が竣工。塩釜港を物資が素通りするように 9 。 |
塩釜商人に深刻な経済的打撃。町の存亡に関わる危機。 |
1671 |
寛文11 |
- |
伊達騒動(寛文事件)発生 13 。 |
藩政の混乱は経済活動にも影響。政争に巻き込まれるリスク。 |
1685 |
貞享2 |
- |
4代藩主伊達綱村が「貞享の特令」を発布 9 。 |
年貢減免、荷揚げ義務化などで塩釜経済が劇的に回復・発展。商人にとって最大の追い風。 |
1716 |
享保元 |
享保の改革始まる |
阿部勘酒造が藩命により創業 15 。 |
藩の産業振興策により、特定の商人が御用商人として抜擢される。 |
1720 |
享保5 |
- |
丹野家(丹六園)が廻船問屋として創業 17 。 |
「貞享の特令」後の繁栄を背景に、新興商人が次々と台頭。 |
伊達氏の支配は、塩釜の町と商人の運命を大きく左右しました。特に藩祖・伊達政宗の経済政策は、塩釜を藩の重要拠点へと押し上げ、深堀又五郎のような商人たちに新たな活動の舞台を提供しました。
仙台に居城を定めた伊達政宗は、藩の経済基盤を確立するため、積極的な開発政策を推し進めました。その中核の一つが、塩釜港の整備と活用です。政宗は塩釜を仙台の外港と明確に位置づけ、水運の振興に力を注ぎました 19 。これにより、塩釜港は単なる一地方港から、62万石を誇る仙台藩の公式な玄関口へとその性格を変え、藩の産物である米や特産品を江戸へ運び出し、また江戸や他国からの物資を受け入れる一大物流拠点としての機能を担うことになります 21 。
さらに政宗は、藩の基幹産業として米の増産(新田開発)に注力するだけでなく、製塩業の振興にも関心を示していました 22 。塩は、食料保存に不可欠であると同時に、それ自体が重要な商品であり、藩の財源となりうるものでした。朝鮮出兵の際には、持参した仙台味噌だけが変質しなかった逸話が残っており、その品質を支えたのが良質な塩であったことは想像に難くありません 23 。
政宗による一連の政策は、塩釜の商人たちにとって、かつてないほどの事業機会の到来を意味しました。藩の公式な外港となったことで、取り扱う貨物量は飛躍的に増大します。仙台城下の建設や藩士の生活を支えるための建築資材、生活物資、武具、兵糧などの需要も急増しました。深堀又五郎は、この藩の成長と連動する経済のダイナミズムの真っ只中に身を置き、自らの事業を大きく拡大させる絶好の機会を掴んでいたと考えられます。
戦国時代から江戸時代にかけ、各地の大名は「御用商人」と呼ばれる特定の商人を登用しました 24 。彼らは、藩の財政運営に関与し、藩主や藩士が必要とする様々な物資の調達、藩の産物の販売、さらには他国の情報収集といった多岐にわたる役割を担う、いわば藩の経済部門を支えるパートナーでした。武田氏の酒田氏、上杉氏の蔵田氏などがその代表例です 24 。
深堀又五郎が、伊達氏の公式な「御用商人」であったことを直接示す史料は現存しません。しかし、状況証拠を積み重ねることで、彼がそれに準ずる、あるいは事実上の御用商人として機能していた可能性は極めて高いと推論できます。
第一に、前章で論じたように、又五郎は塩釜の地域社会で名を知られた有力商人でした。第二に、その塩釜は、政宗の政策によって藩の最重要港湾と位置づけられていました。藩がこの重要な港の機能を円滑に、そして安定的に活用するためには、現地の事情に精通し、物流ネットワークを掌握している有力商人の協力が不可欠です。藩の役人が直接すべての差配を行うよりも、地元の有力者に業務を委託する方が遥かに効率的であったことは論を俟ちません。
したがって、伊達藩が塩釜の有力商人である深堀又五郎を、藩の御用を達する存在として活用したと考えるのは、歴史的文脈において極めて合理的です。彼が担った役割は、藩が江戸へ送る廻米の輸送手配であったかもしれませんし、城下で必要とされる海産物や塩の安定供給であったかもしれません。あるいは、藩の土木事業に必要な資材の調達であった可能性も考えられます。
具体的な活動内容は不明ながらも、深堀又五郎は伊達藩の経済運営、特に塩釜港を拠点とする物流と物資調達において、重要な役割を担う「御用商人」的な存在であったと想定することができます。彼の商才と影響力は、塩釜という一都市に留まらず、仙台藩全体の経済を支える上で欠かせないものであったのではないでしょうか。
深堀又五郎が築いた富と影響力の源泉は、具体的にどのような事業にあったのでしょうか。当時の塩釜の主要産業を検証することで、彼の商人の顔をより具体的に描き出すことができます。
「塩竈」という地名は、古来、海水を煮て塩を作るための「竈(かまど)」に由来しており、この地と製塩の深い関わりを物語っています 25 。江戸時代に入ると、仙台藩は領内に先進的な入浜式塩田を導入し、各地で塩田開発を進めました。特に渡波塩田や野蒜塩田が有名で、藩の重要産業として位置づけられていました 26 。
藩は、この重要な塩の生産と流通を厳格な管理下に置きました。すなわち「専売制度」です 26 。これは、藩が塩の生産者から塩をすべて買い上げ、藩が指定した商人にのみ販売を許可するという仕組みです。この制度は、商人にとって二つの側面を持っていました。一つは、自由な競争が制限されるという制約です。しかしもう一方で、藩から販売を許可された「塩問屋」にとっては、競争相手がいない中で安定した独占的な利益を確保できるという大きな特権を意味しました。
深堀又五郎が塩の取引に関わっていたとすれば、彼はこの藩の専売制度という枠組みの中で活動する、藩から認可を受けた商人であった可能性が高いと考えられます。藩の政策と密接に結びつき、その信頼を得ることで、塩という生活必需品の流通に関与し、安定した収益基盤を築いていたのでしょう。ただし、このような専売制度は、時に非合法な「抜け荷」(密売)を誘発する土壌ともなり得ます 28 。藩の統制と市場原理の間で、商人たちのしたたかな経済活動が繰り広げられていたのかもしれません。
江戸時代の塩釜には、藩の経済を支える複数の有力な廻船問屋が存在しました。その代表格が、享保5年(1720年)に創業した丹野家(のちの丹六園)です 18 。丹野家に残された古文書によれば、彼らは自前の船を持ち、江戸や三陸の諸港との交易によって栄えていました 18 。また、丹野家は廻船問屋(海運業者)であると同時に、五十集問屋(いさばどんや、海産物卸売業者)も兼ねていました 18 。これは、物資の輸送と商品の流通が一体となった、総合商社的な事業形態であったことを示しています。
廻船問屋の経営は、まさにハイリスク・ハイリターンな事業でした。一度の航海が無事に成功すれば莫大な利益をもたらしましたが、ひとたび嵐に見舞われ船を失えば、一瞬にして巨額の負債を背負うことにもなりました 29 。この事業で成功するためには、単に商品を売買する才覚だけでは不十分でした。航海術や気象に関する知識、江戸や各地の市場における相場の動向を把握する情報網、そして何よりも、大きなリスクを引き受けることのできる胆力と資金力が不可欠でした。
深堀又五郎が、このような廻船問屋を営んでいたとすれば、彼は単なる商人ではなく、広範な知識と情報ネットワークを駆使し、大きな事業リスクを管理する、現代でいうところの「企業家」と呼ぶにふさわしい人物であったと言えるでしょう。
塩釜の商人が担ったもう一つの重要な役割が、仙台城下への食料供給です。塩釜港で水揚げされた新鮮な魚介類は、馬の背に積まれ、「肴の道」と呼ばれる流通路を通って、城下の台所である肴町の魚市場へと運ばれていました 18 。
この「肴の道」は、単なる物流ルートではありません。藩主伊達氏をはじめとする62万石の城下町の食生活を支える、文字通りの生命線でした。この流通を安定的に維持することは、藩の民政上、極めて重要な課題であり、その担い手である塩釜の商人たちは、大きな権益を手にすることができました。彼らは、水揚げから陸上輸送を担う馬借、そして城下の小売商人に至るまでの広範な商業ネットワークの結節点として、サプライチェーン全体に影響力を行使していたと考えられます。
深堀又五郎は、これら「製塩業」「廻船業」「水産物流通」という、当時の塩釜を代表する三大産業のいずれか、あるいはその複数を手掛けることで、その富と影響力を築き上げていったと推測されます。彼の事業は、塩釜という一地方都市に閉じることなく、仙台藩全体の経済と人々の生活に深く結びついた、社会的に極めて重要なものであったと考えられます。
戦国の動乱を生き抜いた深堀又五郎、あるいは彼の一族は、泰平の世となった江戸時代において、新たな試練と繁栄の時代を迎えることになります。特に四代藩主・伊達綱村の治世は、塩釜の商人たちにとって大きな転換点となりました。
江戸時代中期、塩釜の町は存亡の危機に瀕します。寛文13年(1673年)、藩が仙台城下への物資の直接輸送を目的として、塩釜湾口から七北田川河口までを結ぶ「舟入堀」(後の貞山運河の一部)を開削したためです 9 。これにより、それまで必ず塩釜港に陸揚げされていた物資が、町を素通りして城下へ直送されるようになり、港の荷揚げ量は激減、塩釜の経済は急速に衰退しました。
この窮状を救ったのが、鹽竈神社を篤く信仰していた四代藩主・伊達綱村でした。綱村は、門前町の苦境を見かね、貞享2年(1685年)に「貞享の特令」として知られる画期的な保護政策を発令します 10 。その内容は、塩釜の町にかかる年貢を大幅に軽減あるいは免除し、藩が救済のための下賜金を与え、さらに米以外のすべての交易品や材木を塩釜港へ荷揚げすることを義務付けるというものでした。加えて、馬市の開設や見世物芝居の興行を許可するなど、町に賑わいを取り戻すための様々な施策が盛り込まれていました 14 。
この一連の出来事は、藩の政策一つで町の経済が根底から覆されるという商人の脆弱性を示すと同時に、塩釜の商人層が藩の政策転換を促すほどの影響力を持っていたことをも示唆しています。綱村の決断の背景には、商人たちによる藩への必死の嘆願があったのかもしれません。この特令は、藩が特定の都市の商業資本を積極的に保護・育成する、重商主義的な政策への転換点と見なすことができ、塩釜は仙台藩随一の港として、かつてないほどの繁栄の時代を迎えることになりました 9 。戦国時代から続く深堀又五郎の一族も、この危機を乗り越え、綱村の特令によってもたらされた新たな繁栄の波に乗ることで、その事業基盤をより強固なものにしたと考えられます。
「貞享の特令」以降の塩釜の繁栄を象徴するのが、現在まで続く老舗の存在です。享保5年(1720年)に廻船問屋として創業した丹野家(丹六園)は、まさにこの時代の申し子でした 17 。また、その数年前の享保元年(1716年)には、阿部家が藩の正式な命令により、鹽竈神社への御神酒を納める「御神酒御用酒屋」として酒造りを始めています(阿部勘酒造) 15 。
これらの老舗の成功モデルは、当時の商人がいかにして事業を確立し、発展させていったかを物語っています。丹野家は、廻船業という藩の物流の根幹を担うことで経済的な実力をつけ、阿部勘酒造は、鹽竈神社の御神酒屋という宗教的な「権威」を事業の基盤としました。両者に共通するのは、藩や神社といった地域の権力構造と密接に結びつき、その庇護の下で安定した経営基盤を築いている点です。これらの事例は、深堀又五郎のような戦国期から続く商人が、どのようなビジネスモデルを構築し、次世代へと事業を継承していったかを類推するための、貴重な道標となります。
塩釜の経済は、決して東北の一地方に閉じたものではありませんでした。江戸時代中期、度重なる冷害などで仙台藩が深刻な財政難に陥った際、その危機を救ったのは大坂の豪商・升屋の番頭であった山片蟠桃という人物でした 35 。
蟠桃は、仙台藩の蔵元(蔵屋敷で藩の産物を管理・販売する商人)として、その卓越した商才を発揮します。彼は藩の無駄な支出を徹底的に削減する一方、藩の主産物である米を、塩釜港から船出し、大坂をはじめとする全国市場で巧みに売りさばき、莫大な利益を藩にもたらしました 37 。また、藩内に新たな産業を興すことを助言するなど、コンサルタントのような役割も果たしています。
この事実は、塩釜の経済が、遠く離れた「天下の台所」大坂の経済と、いかに密接に結びついていたかを示しています。深堀又五郎のような塩釜の廻船問屋は、この全国規模のサプライチェーンのまさに起点に位置していました。彼らが塩釜港から送り出した米や海産物は、最終的に大坂の市場で値がつけられ、その相場が藩の財政、ひいては塩釜の商人たちの経営をも左右したのです。
このことから、深堀又五郎のような有力商人の視野は、塩釜や仙台に留まらず、江戸や大坂といった中央市場の動向にまで及んでいた可能性が浮かび上がります。彼は、地域経済の担い手であると同時に、より広範な日本の経済システムの一部として機能していた、スケールの大きな商人であったと想像することができるのです。
本報告書は、史料の海に浮かぶ「深堀又五郎」という名の小舟を頼りに、彼が生きた時代の潮流と、彼が航行したであろう経済の海図を再構築する試みでした。断片的な情報を丹念に紡ぎ合わせ、時代背景という縦糸と、経済活動という横糸で織りなすことで、一人の商人の実像が浮かび上がってきます。
本調査の分析と考察を統合し、深堀又五ROWの人物像を以下のように総括します。
彼は、**「相模三浦一族をルーツに持つ可能性のある武家の姓を名乗り、戦国の動乱期に留守氏から伊達氏への支配者交代という激動を乗り越え、藩祖・伊達政宗の経済政策の下で塩釜港を拠点に、製塩、廻船、水産物流通といった藩の基幹産業に関与することで富を築いた有力商人。その社会的地位は、他の有力者と並び称され、他者から訪問を受けるほど高く、伊達藩の物資調達などを担う事実上の『御用商人』であった可能性が高い。さらに、江戸時代に入り、伊達綱村の『貞享の特令』による塩釜復興の波に乗り、その事業基盤をより強固なものにした、政治的嗅覚と経営手腕、そして広い視野を兼ね備えた人物」**であったと結論付けられます。
深堀又五郎という、歴史の表舞台にはほとんど登場しない一人の商人の探求は、単なる個人史の復元に留まるものではありませんでした。彼の生涯を追う旅は、戦国から江戸初期へと至る時代の大きな転換点において、奥州塩釜という地域がいかにしてその経済的・戦略的重要性を確立していったか、そして、藩という強大な権力と商人が、時に緊張し、時に協調しながら、いかにして地域の繁栄を築き上げていったかという、複雑でダイナミックな関係性を浮き彫りにしました。
歴史の霧の彼方に消えたかに見える無数の人々の営みも、その生きた世界を丹念に再構築することで、現代の我々に豊かな歴史的洞察をもたらしてくれます。深堀又五郎の探求は、その一つの確かな証左となったと言えるでしょう。