最終更新日 2025-07-07

温井景隆

能登の落日、最後の賭け ― 武将・温井景隆の生涯

序章:乱世に翻弄された能登の将、温井景隆

戦国時代という激動の時代、数多の武将が歴史の舞台に現れては消えていった。その中でも、能登国(現在の石川県北部)の武将・温井景隆(ぬくい かげたか)の生涯は、一地方大名であった能登畠山氏の栄光と衰退、そして滅亡の過程を、まさにその身をもって体現したかのような、劇的な物語に満ちている。

彼の人生は、祖父・温井総貞が築き上げた権勢の頂点から、その暗殺によって一族が奈落の底へ突き落とされる悲劇に始まる。父・続宗は復讐の戦いに斃れ、若き景隆は流浪の身となる。しかし、彼は不屈の執念で能登へ帰参し、権力闘争の渦中で再びその名を轟かせる。その道程は、主君殺害への関与、宿敵との提携、そして旧恩を仇で返す裏切りなど、清濁併せ呑む策略の連続であった。

本報告書は、温井景隆という一人の武将の生涯を、単なる年表の追跡に留めることなく、彼が生きた時代の複雑な権力構造、特に能登畠山氏を蝕んだ家臣団の内部対立を深く掘り下げる。そして、「権力闘争」「裏切りと忠誠」「復讐の連鎖」といったテーマを軸に、織田信長や上杉謙信といった中央の巨大勢力の動向に翻弄されながらも、一族の再興という宿願にその生涯を賭けた武将の実像に迫るものである。祖父の栄光、父の無念、そして自らの執念。三代にわたる宿命を背負った男の生き様は、戦国という時代の厳しさと、そこに生きた人間の複雑な内面を、我々に生々しく伝えてくれる。

第一章:名門・温井氏の出自と権勢 ― 栄光と悲劇の序章

温井景隆の人生を理解するためには、まず彼の一族、温井氏が能登国においていかにしてその地位を築き上げ、そしてその栄光がいかに脆く崩れ去ったのかを知る必要がある。景隆の行動原理の根源は、祖父・温井総貞が築いた絶頂期の権勢と、その衝撃的な終焉にある。

第一節:能登国人・温井氏のルーツ

温井氏は、能登国鳳至郡輪島(現在の輪島市)を本貫地とする武家であった 1 。その出自については諸説あり、一つは藤原北家利仁流を称する説 2 、もう一つは清和源氏の一族である桃井氏の後裔とする説である 1 。特に後者は、南北朝時代に活躍した猛将・桃井直常を祖とするもので、武門としての権威を高めようとする意図が窺える。確固たる系譜が不明確である点は、戦国時代に台頭した多くの国人領主と同様であり、自らの権威を正当化するために由緒ある家系を称した典型例と見ることができる。いずれにせよ、温井氏は奥能登に根を張る有力な国人領主として、能登畠山氏の家臣団の中で確固たる地位を占めていた 4

第二節:祖父・温井総貞の時代 ― 権勢の絶頂

温井氏の権勢を絶頂にまで高めたのが、景隆の祖父である温井総貞(ふささだ)であった。総貞は、能登畠山氏七代当主であり、能登に「小京都」と呼ばれるほどの繁栄をもたらした名君・畠山義総(よしふさ)に仕えた 5 。彼は武勇だけでなく文芸にも深く通じており、京都の公家や禅僧とも交流を持つ文化人であった 4 。その才覚を義総に深く愛され、その寵臣として政治の中枢へと進出した 5

義総の死後、八代当主・義続の時代になると、能登畠山氏の権力構造に大きな変化が生じる。当主の権威は次第に形骸化し、家中の実権は有力な重臣たちによって掌握されていった。その象徴が「畠山七人衆」と呼ばれる集団指導体制の成立である 4 。この体制は、事実上、当主・義続を傀儡化し、七人の重臣が合議で領国を統治するものであった 8

その七人衆の中でも、筆頭として絶大な権力を誇ったのが温井総貞であった 12 。彼は、代々守護代を務めた名門・遊佐氏の当主である遊佐続光(ゆさ つぐみつ)としのぎを削りながらも、巧みな政治手腕で彼を失脚させ、畠山家中の権力をほしいままにした 5 。入道して紹春(じょうしゅん)と号したこの時期、総貞の権勢は主君を凌ぐほどであり、温井一族の栄光は頂点に達したのである。

第三節:総貞暗殺 ― 一族の運命を暗転させた日

しかし、満月がやがて欠けるように、栄華は長くは続かなかった。弘治元年(1555年)、温井総貞の運命は、そして温井一族の運命は、突如として暗転する。総貞のあまりに強大な権力と専横を憎み、形骸化した大名権力の回復を目論んでいた若き九代当主・畠山義綱(よしつな、義続の子)によって、総貞は暗殺されたのである 5

この事件は、単なる家臣の粛清ではなかった。それは、傀儡の座に甘んじることを良しとしなかった主君による、権力奪還を目的とした一種のクーデターであった。この「名目上の権力者」と「実質的な権力者」の構造的矛盾が破綻した瞬間であり、能登畠山氏の内部崩壊を決定づける画期的な出来事となった。

一見すると安定していたかに見えた「畠山七人衆」体制は、その実、温井総貞という一個人の傑出した力量に依存した、極めて脆弱な権力構造であった。主君の権威が失墜し、家臣が実権を握る「下剋上」の状態は、常に主君側からの揺り戻し、すなわちカウンタークーデターを誘発する危険性を内包していた。総貞の暗殺は、この構造的矛盾が暴力という形で噴出した結果に他ならない。そして、この日に流れた祖父の血が、温井景隆のその後の人生を復讐と流転の道へと導く、すべての始まりとなったのである。

第二章:一族の没落と流転の青年期 ― 復讐と雌伏の歳月

祖父・総貞の暗殺は、温井一族を権力の頂点から奈落の底へと突き落とした。父・続宗は復讐の兵を挙げるも無念の死を遂げ、若き景隆は故郷を追われる身となる。この過酷な青年期は、彼の人間性を形成し、その後の苛烈な生涯を生き抜くための執念と覚悟を植え付けた。

第一節:「弘治の内乱」と父の死

祖父の非業の死に対し、温井一族は即座に反旗を翻した。景隆の父である温井続宗(つぐむね)は、温井一族のみならず、縁戚関係にあった三宅氏など反義綱派の勢力を結集 15 。さらに、畠山一族の中から畠山晴俊を新たな当主として擁立し、義綱に対して大規模な反乱を起こした 15 。世に言う「弘治の内乱」である。

この反乱の勢いは凄まじく、一時は能登の半分近くが温井方の手に落ち、当主の義綱は居城・七尾城での籠城を余儀なくされるほどであった 4 。しかし、義綱方の抵抗も激しく、内乱は泥沼化する。そして永禄元年(1558年)頃、温井方の勢力は次第に衰え、ついに反乱は鎮圧される。この戦いの過程で、首謀者であった父・続宗は討ち死を遂げた 4

父の死と反乱の失敗により、能登における温井氏の権力基盤は完全に崩壊した。一族の多くを失い、すべてを奪われた若き温井景隆は、弟の長盛(ながもり、後に三宅氏の養子となる)と共に、隣国の加賀へと亡命せざるを得なかった 2

第二節:加賀での亡命生活

加賀へ逃れた景隆は、永禄9年(1566年)に能登へ帰参するまでの約11年間、雌伏の時を過ごすことになる。この亡命期間中の詳細な動向を記した資料は乏しいが、彼はただ潜伏していただけではなかった。当時、加賀は強力な一向一揆の勢力下にあり、景隆は彼らと結びつきを深め、能登への帰還と一族再興の機会を虎視眈々と狙っていたと推測される 17

祖父を殺され、父も復讐戦の末に斃れるという壮絶な原体験は、温井景隆の心に「一族の再興」と「仇敵・畠山義綱への復讐」という、生涯を貫く強烈な動機を植え付けた。しかし、同時にこの11年という長い亡命生活は、彼に理想論だけでは生き残れない戦国の世の現実を骨身に染みて教えたはずである。客観的な立場から能登の情勢を分析し、誰と結び、誰を討つべきかを見極める時間。それは、彼が単なる悲劇の若君から、目的のためには手段を選ばない冷徹な政治的リアリストへと変貌を遂げるための、重要な「揺りかご」の期間であった。この雌伏の歳月が、彼の忍耐強さと、後に見せる驚くべき執念を育んだことは想像に難くない。

第三章:能登への帰参と権力闘争の渦中へ

長い亡命生活の末、温井景隆に転機が訪れる。能登本国で発生した政変が、彼に奇跡的な帰還の道を開いた。しかし、彼が戻った故郷は、新たな対立と陰謀が渦巻く、かつてにも増して危険な場所となっていた。景隆は、この権力闘争の渦中に再び身を投じていく。

第一節:「永禄九年の政変」と奇跡の帰参

永禄9年(1566年)、能登畠山家中に再び激震が走る。かつて温井総貞を暗殺し、景隆の父・続宗を討った仇敵・畠山義綱が、今度は自らの重臣である遊佐続光や長続連(ちょう つらつら)らによって、父・義続と共に能登から追放されたのである 2 。世に言う「永禄九年の政変」である。

主君を追放した重臣たちは、義綱の子である幼い義慶を新たな当主として擁立し、傀儡政権を樹立した。この権力の再編は、亡命中の景隆にとって千載一遇の好機であった。彼はこの政変に乗じて能登への帰参を果たし、新当主・義慶の下で「年寄衆」の一員として、再び畠山家の中枢に返り咲くという劇的な復活を遂げたのである 2

第二節:新たな対立構造 ― 親織田派 vs 親上杉派

しかし、景隆が帰参した能登畠山家中は、決して一枚岩ではなかった。そこには新たな対立の火種が燻っていた。一つは、中央で急速に勢力を拡大する尾張の織田信長と誼を通じ、その威光を背景に家中で発言力を増す長続連を中心とした「親織田派」。もう一つは、越後の「軍神」上杉謙信を後ろ盾とし、伝統的な守護代家としての権威を保とうとする遊佐続光を中心とした「親上杉派」である 19

この二大派閥の対立が、能登畠山氏の末期の政治情勢を決定づけることになる。温井景隆は、弟で三宅氏の養子となっていた三宅長盛と共に、迷わず「親上杉派」に与した 19 。これは、極めて計算された政治的判断であった。景隆の行動原理が、過去の個人的な怨恨よりも、現在の政治的力学と「一族の再興」という戦略目標に基づいていたことを明確に示している。かつて祖父・総貞が覇を競い、権力闘争を繰り広げた宿敵・遊佐氏と手を結ぶ。この選択こそ、景隆が冷徹なリアリストであったことの証左に他ならない。彼らにとって、目下の最大の脅威は、織田信長という中央の巨大権力を背景に持つ長氏の台頭であった。この「反・長氏」という一点において、温井氏と遊佐氏の利害は完全に一致したのである。

第三節:傀儡当主の不審死と景隆の影

権力闘争が激化する中、名目上の当主であった畠山義慶、そしてその跡を継いだ弟の義隆が、相次いで若くして急死するという不審な出来事が起こる 10 。公式には病死とされることが多いが、いずれも遊佐続光や温井景隆らによる暗殺説が根強く囁かれている 21 。彼らが自らの意のままにならない当主を排除することも厭わなかった可能性を示唆する逸話である。

この時期、景隆は遊佐氏や平氏(たいら し)と共に「四人衆」と呼ばれる体制を形成し、再び能登畠山氏の国政を代表する立場にまで上り詰めていた 4 。祖父の暗殺から10年余り、彼はついに権力の中枢へと返り咲いた。しかし、その地位は、かつての栄光とは似ても似つかぬ、陰謀と裏切りが渦巻く、滅びゆく大名の末期的な権力構造の上になりたつ、極めて不安定なものであった。


能登畠山氏の権力構造の変遷と温井氏の立場

能登畠山氏末期の複雑な権力構造の変遷と、その中での温井一族の立場の浮沈を以下に整理する。この表は、一連の出来事の因果関係を視覚的に理解する一助となるだろう。

時期

畠山氏当主

実権者(政治体制)

温井一族の動向

主要な出来事

~1555年

義続・義綱

温井総貞 (畠山七人衆)

権勢の絶頂期

弘治元年(1555) 温井総貞、義綱に暗殺される

1555~1566年

義綱

畠山義綱(親政)

加賀へ亡命(景隆)

弘治の内乱(父・続宗の敗死)

1566~1577年

義慶・義隆

遊佐続光・長続連ら(四人衆体制)

帰参し権力中枢に復帰(景隆)

永禄九年の政変(義綱追放)

1577~1582年

(滅亡)

上杉氏 → 織田氏

上杉方へ内応、のち越後へ亡命

七尾城の戦い、本能寺の変

1582年6月

(滅亡)

前田利家

能登へ侵攻、敗死

荒山合戦


第四章:七尾城の悲劇と最後の賭け ― 滅亡への道

権力の中枢に返り咲いた温井景隆であったが、彼が身を置く能登畠山氏は、もはや滅亡寸前の巨船であった。親織田派と親上杉派の対立は、外部勢力の介入を招き、ついに悲劇的な結末を迎える。景隆はこの最終局面において、一族の再興を賭けた最後の、そして最も大胆な行動に出る。

第一節:七尾城の戦い ― 仇敵抹殺と上杉への内応

天正5年(1577年)、越後の上杉謙信が、織田信長と敵対する中で、能登へと大軍を率いて侵攻した。畠山氏の居城であり、天下の堅城と謳われた七尾城は、上杉軍によって完全に包囲される(七尾城の戦い) 10

長期間の籠城により、城内では疫病が蔓延して士気は著しく低下した 23 。このような絶望的な状況下で、城内の意見は二つに割れる。親織田派の重臣・長続連とその子・綱連らは、織田からの援軍の到来を信じ、徹底抗戦を主張した。対照的に、親上杉派の遊佐続光と温井景隆は、これ以上の籠城は無意味であるとし、上杉への降伏を決断する 23

そして、景隆は遊佐氏と共に、恐るべき策略を実行に移す。城内において、徹底抗戦を主張する長続連・綱連父子をはじめとする長一族を謀殺。これにより城内の抵抗勢力を一掃すると、城門を開き、上杉軍を城内へと引き入れたのである 2 。この裏切りによって、能登畠山氏は事実上滅亡した。この行動は、長年の政敵であった長氏を排除し、能登の新たな支配者となる上杉謙信の下で、自らが実権を握ろうとする、景隆の策略の集大成であった。

第二節:激動する情勢 ― 謙信の死と織田の逆襲

しかし、景隆の目論見は、予期せぬ形で大きく狂うことになる。七尾城を陥落させた翌年の天正6年(1578年)3月、新たな支配者となるはずだった上杉謙信が急死したのである 24 。絶対的な指導者を失った上杉家は後継者争い(御館の乱)に突入し、能登における上杉の支配力は急速に弱体化した。

この好機を逃さず、景隆らは一時的に七尾城から上杉方が置いた城代・鰺坂長実を追放し、畠山旧臣による能登支配を試みた 10 。だが、それも束の間、織田信長が派遣した柴田勝家率いる大軍の逆襲に遭い、七尾城は再び陥落。景隆の計画は水泡に帰した。

さらに、七尾城の悲劇で唯一生き残り、一族の復讐に燃える長続連の子・長連龍(つらたつ)が、織田方として執拗に景隆らの命を狙っていた。身の危険を感じた景隆と弟の三宅長盛は、能登を捨て、上杉謙信の後継者である上杉景勝を頼って越後へと亡命するしかなかった 2

第三節:本能寺の変と「荒山合戦」 ― 最後の賭け

天正10年(1582年)6月2日、京都・本能寺において織田信長が家臣・明智光秀に討たれるという、日本史を揺るがす大事件が勃発する(本能寺の変)。越後で再起の機会を窺っていた景隆にとって、これはまさに天が与えた最後の好機であった。彼は上杉景勝の支援を取り付け、能登奪還という一族の宿願を果たすべく、最後の賭けに出る 2

景隆・長盛兄弟は、能登・越中の国境に位置する石動山(いするぎやま)の衆徒らと連携し、能登へ侵攻。荒山城(現在の富山県氷見市)に立てこもった 27 。しかし、彼らの動きは、信長から能登一国を与えられていた前田利家と、その盟友である越中・佐久間盛政によって迅速に察知される。利家・盛政連合軍は、景隆らの蜂起を鎮圧すべく、即座に出陣した。これが、温井景隆の運命を決した「荒山合戦」である 18

本能寺の変という好機を捉えたものの、景隆は織田の方面軍団の結束力と反応の速さを見誤っていた。利家と盛政の連携は完璧であり、上杉からの大規模な援軍も期待できない中、景隆らの局地的な兵力では、もはや趨勢を覆すことはできなかった。激戦の末、温井・三宅軍は壊滅。温井景隆と弟の三宅長盛は共に討ち取られ、その首は無残にも大芝峠で晒されたという 27 。一族再興を賭けた最後の戦いは、かくして完全な敗北という悲劇的な結末を迎えたのである。

終章:温井景隆という武将の評価

温井景隆の生涯は、祖父・総貞が築いた権勢の回復と、父・続宗の無念を晴らすという、一族の再興という宿願に捧げられたものであった。その目的を達成するためならば、彼は主君殺害への関与を疑われることも、かつての宿敵と手を組むことも、そして長年の政敵を謀殺することも厭わない、冷徹な策略家として行動した。しかし、その非情とも言える行動の根底には、常に「温井家再興」という、彼なりの「義」があったと解釈することも可能である。彼は、ただ私利私欲のために動いたのではなく、滅びゆく一族を背負い、その存続のために戦い続けたのである。

歴史的に見れば、彼の行動は結果として主家である能登畠山氏の滅亡を早め、能登が織田、そしてその跡を継いだ前田の支配下に組み込まれる一因となった。彼は、戦国後期に進行した中央集権化という時代の大きな潮流に抗い、能登という一地方の独立性を保とうとした、最後の世代の国人領主の一人であったと言える。その意味で、彼の生涯は、時代の波に呑み込まれていった地方勢力の悲哀を象徴している。

温井景隆の死をもって、能登における温井氏の嫡流は事実上途絶えた。しかし、彼らがかつて本拠とした輪島市の天堂城跡には、温井氏が滅亡の際に軍資金を隠したとされる「埋蔵金伝説」が、今なお語り継がれている 29 。一族の栄華と、その再興を賭けた景隆の無念が、伝説という形で人々の記憶に残り続けている。彼の執念と行動力に満ちた波乱の生涯は、戦国という時代の厳しさ、そしてそこに生きた武将の複雑な人間像を、現代にまで色濃く伝えているのである。

引用文献

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