最終更新日 2025-07-08

温井総貞

報告書:能登の梟雄、温井総貞 ―文化と権謀の生涯、その実像―

序章:能登畠山氏の黄昏と一人の寵臣

本稿は、戦国時代の能登国にその名を刻んだ武将、温井総貞(ぬくい ふささだ)の生涯を、能登畠山氏の権力構造の変遷という文脈の中に位置づけ、その実像に迫ることを目的とする。通説において、主家の権力を簒奪し、やがて主君に誅殺された「逆臣」として語られがちな総貞 1 。しかし、彼の台頭と没落は、単なる個人の資質や野心のみに帰せられるものではない。それは、守護大名・能登畠山氏が内包していた構造的脆弱性と、戦国という時代の激しい変化が生んだ、ある種の必然であった。本稿では、総貞をその時代の産物として多角的に分析し、彼の生涯を通じて、守護大名という中世的権力が戦国期にいかに変質し、衰退していったかの力学を解明する。

能登畠山氏は、室町幕府の管領家を輩出した足利一門の名門であり、初代・畠山満慶以来、約170年にわたって能登国を統治した大名家であった 2 。特に7代当主・畠山義総(よしふさ)の治世(1515年-1545年)は、領国支配が安定し、その本拠地である七尾は「小京都」と称されるほどの文化的な繁栄を謳歌した 3 。義総は京都から多くの公家や禅僧、歌人を招聘し、自らも歌会を催すなど、能登に華やかな「畠山文化」を開花させた 3

しかし、この栄華の裏で、畠山氏の権力基盤は決して盤石ではなかった。その統治構造は、守護代として譜代の重臣筆頭である遊佐氏、そして温井氏や長氏に代表される在地国人といった、有力家臣団の微妙な勢力均衡の上に成り立っていたのである 8 。義総の卓越した政治手腕は、この複雑なパワーバランスを巧みに操ることで「安定」を現出させていたに過ぎない。彼の個人的なカリスマと調整能力に依存した統治体制は、その死とともに崩壊の危機を迎える運命にあった。義総の死という「蓋」が外れた時、水面下で燻っていた構造的矛盾は一気に噴出し、能登は激しい内紛の時代へと突入する。その渦中から、時代の寵児として、また宿痾として現れたのが、温井総貞その人であった。

本報告書の理解を助けるため、まず温井総貞の生涯と能登畠山氏、そして周辺情勢の動向を年表形式で以下に示す。

表1:温井総貞と能登畠山氏関連年表

西暦(和暦)

温井総貞・温井氏の動向

能登畠山氏の動向

周辺・中央の情勢

1491年(延徳3年)頃

温井総貞、生まれる(推定) 11

畠山義統が能登統治の基礎を固める。

1513年(永正10年)

永正の内乱が勃発。当主・義元が帰国を余儀なくされる 12

1515年(永正12年)

畠山義総、家督を継承。能登畠山氏の最盛期が始まる 13

1534年(天文3年)

兵庫助を称す 1

1540年(天文9年)

禅僧・彭叔守仙を能登に招く 15

義総、七尾城中で歌会を催す 4

1545年(天文14年)

備中守を称す 1

畠山義総、死去。子の義続が家督を継承 5

1550年(天文19年)

遊佐続光と共に大将となり、主君・義続に反乱(七頭の乱) 12

七頭の乱。七尾城が包囲され、城下が焼失 12

1551年(天文20年)

畠山七人衆の筆頭となる 1

義続が降伏・出家し、子の義綱に家督を譲る。七人衆による合議制が開始 8

1553年(天文22年)

遊佐続光と対立し、大槻一宮の合戦で勝利。続光を越前へ追放 16

畠山七人衆の内部抗争が激化。

1555年(弘治元年)

主君・畠山義綱とその近臣・飯川義宗の謀略により暗殺される 1

義綱、親政回復を目指し温井総貞を暗殺。

第2次川中島の戦い。

(総貞死後) 子の続宗らが蜂起し、弘治の内乱が勃発 18

弘治の内乱(~1560年)。

1558年(永禄元年)

温井続宗、戦死(推定) 16

1560年(永禄3年)

温井一族の残党が能登から一掃され、弘治の内乱が終結 16

義綱、内乱を鎮圧し、一時的に大名専制支配を確立 19

1566年(永禄9年)

遊佐続光、長続連らにより、義綱が追放される 8

1577年(天正5年)

(一族) 温井景隆、上杉謙信に内応し七尾城開城に関与 22

上杉謙信の侵攻により七尾城が落城。能登畠山氏が事実上滅亡 5

手取川の戦い。


第一章:温井氏の出自と台頭の土壌

温井総貞の権力掌握を理解するためには、まず彼とその一族が拠って立つ基盤を解明する必要がある。それは、奥能登における在地領主としての地位、そして日本海交易がもたらす強大な経済力であった。

一、奥能登の在地国人・温井氏:その起源と勢力基盤

温井氏は、能登国鳳至郡輪島(現在の石川県輪島市)を本貫地とする武家である 23 。その出自については、藤原北家利仁流、あるいは清和源氏の一流である桃井氏の後裔を称している 5 。特に、南北朝時代の猛将・桃井直常を祖とする説は、自らの家格を飾るための戦略的な称姓であった可能性が高い。重要なのは、彼らが畠山氏の能登入部に随行した譜代の家臣ではなく、古くからその地に根を張る在地領主、いわゆる「国人」であったという点である 8 。彼らは輪島に天堂城を築き、奥能登に一大勢力を形成していた 14

二、経済的基盤としての大屋湊(輪島湊):日本海交易がもたらす富と力

温井氏の勢力基盤を物理的に支えたのが、その本拠地にあった輪島湊の存在である。中世において「大屋湊」と呼ばれたこの港は、当時日本を代表する十の港湾「三津七湊」の一つに数えられるほど、日本海交易の要衝であった 25 。蝦夷地(北海道)や東北地方の海産物・木材と、畿内の産品とを結ぶ中継地として、また、輪島素麺や珠洲焼といった能登の特産品を各地へ送り出す拠点として、大屋湊は大きな賑わいを見せていた 27

この港湾都市から得られる莫大な経済的利益は、温井氏の懐を潤し、その政治的・軍事的な力の源泉となった 28 。戦国時代において、商業・流通の掌握は、伝統的な土地支配(石高)にも増して大名の権力を左右する重要な要素となりつつあった 30 。温井氏は、在地国人でありながら、この時代の潮流を的確に捉え、港湾支配を通じて蓄積した富を、後の政治闘争を勝ち抜くための強力な武器としたのである。

三、能登の統治構造:守護畠山氏、譜代家臣、そして在地国人衆

温井総貞が活躍した当時の能登畠山氏の家臣団は、大きく二つの系統に分類できる。一つは、守護代を世襲した遊佐氏に代表される「譜代家臣」である 32 。彼らは、畠山氏が能登の守護として入部した際に随行してきた家臣団であり、家格も高く、伝統的に領国統治の中枢を担ってきた。

もう一つが、温井氏や、後に台頭する長氏のような「在地国人衆」である 8 。彼らは、畠山氏の支配下に入る以前から能登に勢力を持っていた土着の領主であり、自らの領地と経済基盤を保持し、半独立的な性格を有していた。

守護・畠山氏の権力は、これら出自も利害も異なる家臣団の均衡の上に成り立っていた。特に、譜代家臣団の筆頭である遊佐氏と、在地国人衆の雄である温井氏との間には、潜在的な対立構造が存在した。この構造こそが、義総の死後、能登を揺るがす内紛の根本的な原因となる。温井総貞の台頭は、旧来の「家格」を重んじる譜代勢力に対し、港湾支配という「経済力」を背景に持つ新興の在地勢力が挑んだ、戦国期における権力構造変動の典型的な現れであったと分析できる。


第二章:文人としての飛躍 ―主君・畠山義総の寵愛―

温井総貞が数多の家臣の中から抜きん出た地位を築く上で、その武力や経済力以上に決定的な役割を果たしたのが、彼の卓越した文化的素養であった。文人肌の主君・畠山義総の治世という特殊な環境下で、総貞は「和歌」という文化資本を政治的資本へと巧みに転化させることに成功する。

一、「小京都」七尾の文化隆盛と義総の治世

7代当主・畠山義総の治世下で、能登畠山氏の国力は最盛期を迎えた 3 。義総は武勇だけでなく文芸を深く愛好し、京都から三条西実隆や冷泉為和といった一流の公家・歌人、あるいは禅僧の彭叔守仙などを積極的に七尾へ招いた 3 。彼らを通じて最新の京文化が能登へともたらされ、七尾城下は「小京都」と称されるほどの文化的中心地として繁栄した 6 。この「畠山文化」の黄金期は、家臣たちにも文化的教養を求める気風を醸成し、それが温井総貞にとって飛躍の好機となった。

二、和歌の才:中央の文化人との交流と政治的資本への転化

温井総貞は、父・孝宗の代から、武将でありながら和歌に深く通じ、高い教養を身につけていた 16 。その才能は、当時の和歌の第一人者であった公家・三条西実隆から賞賛されるほどであり、また、七尾を訪れた冷泉為和に直接師事するなど、中央の一流文化人と個人的なネットワークを構築していた 23

この文化的素養は、文人領主であった義総の心をとらえ、絶対的な寵愛を受ける最大の要因となった 1 。義総は、政務の場においても「総貞をこれに」と、ことあるごとに彼を側近として重用したという 35 。これは、総貞が単に主君の趣味の相手であっただけでなく、その文化的な繋がりが畠山氏の権威を高める上で有用であったこと、そして、旧来の重臣、特に守護代の遊佐氏を牽制したいという義総の政治的思惑が働いていたことを示唆している 35

三、寵臣から重臣へ:文化サロンにおける影響力の確立

総貞は、和歌の会などを通じて主君との個人的な信頼関係を深化させ、それを政治的な地位向上へと直結させた。彼は、武功や家格といった伝統的な評価軸とは異なる、「文化」という新たなルートで権力の中枢へとアクセスしたのである。戦国時代、織田信長が茶の湯を政治利用した「御茶湯御政道」は有名であるが 30 、総貞はそれより早く、能登という地方において「和歌」を武器に同様の戦略を実践していたと言える。

彼の成功は、主君・義総の価値観に合致する「文化資本」を的確に見抜き、それに投資した結果であった。武骨な武将が多い中で、洗練された文化人として主君との排他的な関係を築き上げた総貞の戦略は、彼の非凡な政治感覚を物語っている。こうして彼は、単なる寵臣から、畠山家中において誰もが無視できない重臣へと、その地位を確固たるものにしていった。


第三章:権力掌握への道程 ―畠山七人衆の成立と暗闘―

畠山義総の死は、能登に権力の真空状態を生み出した。温井総貞は、この混乱を好機と捉え、ライバルを蹴落とし、主家を傀儡化することで、権力の頂点へと駆け上がっていく。その過程は、戦国期における守護大名体制の崩壊を象徴する激しい内紛の連続であった。

一、義総の死と権力の空白:「七頭の乱」の勃発と義続の傀儡化

天文14年(1545年)、偉大な当主・義総が死去し、その子・義続が家督を継ぐと、これまで抑えられていた家臣団の権力闘争が一気に表面化する 5 。天文19年(1550年)、ついに温井総貞と、守護代の遊佐続光を大将とする有力重臣たち(彼らは「七頭」と呼ばれた)が、主君・義続に対して公然と反旗を翻した 12 。これが「七頭の乱」である。

兵力に劣る義続はなすすべもなく七尾城に追い詰められ、翌天文20年(1551年)には降伏を余儀なくされた 12 。義続は出家して隠居させられ、幼い子の義綱に家督を譲ることで乱は終結した 8 。このクーデターにより、能登畠山氏の当主は完全に傀儡と化し、実権は乱を主導した重臣たちの手に渡った。この事件は、単なる家臣の反乱というよりも、守護権力を無力化し、有力国人たちの連合体が領国支配を掌握するという、戦国期に各地で見られた「国一揆」的な性格を持つものであった 36

二、二人の実力者:温井総貞と守護代・遊佐続光の確執

乱の後、能登の国政は「畠山七人衆」と呼ばれる重臣会議によって運営されることになった 8 。その構成員は、乱を主導した温井総貞と遊佐続光を双璧とし、長続連、平総知、三宅総広らが名を連ねていた 12 。しかし、共同で権力を握ったはずの総貞と続光の間で、たちまち熾烈な主導権争いが始まった 38 。これは、在地国人の筆頭である温井氏と、譜代家臣の筆頭である遊佐氏という、能登畠山氏の家臣団が内包する構造的な対立が、ついに顕在化したものであった 20

三、大槻一宮の合戦:遊佐氏の追放と権力基盤の確立

天文22年(1553年)12月、両者の対立はついに武力衝突へと至る 16 。鹿島郡大槻(現在の七尾市大槻町)から羽咋郡一宮(現在の羽咋市)にかけての地域で、温井総貞・長続連らの連合軍と、遊佐続光軍が激突した(大槻一宮の合戦) 17 。この戦いは温井方の圧勝に終わり、敗れた遊佐続光は国外(越前国)への逃亡を余儀なくされた 16 。これにより、総貞は最大の政敵を排除し、畠山家中で第一の実力者としての地位を確立したのである。

四、畠山七人衆体制の再編と総貞の筆頭就任

遊佐続光とその与党が失脚したことに伴い、七人衆の構成メンバーは再編された(第二次七人衆) 8 。この再編において、総貞は自らの嫡子である温井続宗を新たに七人衆に加え、自身は七人衆を統べる上位者として君臨した 16 。もはや彼の権勢に異を唱える者は家中に存在せず、温井総貞は名実ともに能登畠山氏の最高権力者として、その権勢の頂点を迎えることになった。

この権力闘争の過程をより明確に理解するため、主要な登場人物の関係性を以下に整理する。

表2:能登畠山氏家臣団 主要人物一覧(七人衆体制期)

氏名

出自

本拠地/勢力圏

政治的立場/関係性

温井 総貞

在地国人 8

輪島(天堂城) 23

七人衆筆頭。経済力を背景に台頭。温井派の領袖。

遊佐 続光

譜代家臣(守護代) 20

府中(七尾市街地) 15

譜代家臣筆頭。家格を重んじる。総貞の最大のライバル。

長 続連

在地国人 8

穴水(穴水城) 40

七人衆の一角。当初は温井氏と協調するも、後に独立勢力化。

三宅 総広

譜代家臣? 12

不明

七人衆の一角。温井氏と縁が深く、一貫して温井派として行動 18

平 総知

譜代家臣 10

不明

七人衆の一角。長続連は総知の子であり、両氏は縁戚関係にあった 42

伊丹 続堅

譜代家臣? 12

不明

七人衆の一角。遊佐続光の与党であり、大槻一宮の合戦で戦死 16

遊佐 宗円

譜代家臣(遊佐一門) 12

不明

七人衆の一角。遊佐続光の一族。


第四章:権勢の頂点 ―能登国務の掌握者として―

政敵・遊佐続光を追放し、畠山家中の実権を完全に掌握した温井総貞は、その権勢をほしいままにした。主君を飾り物とし、自らが「国務之儀」を執り行うその姿は、まさに能登の真の支配者であった。しかし、その権力はあくまで「畠山家の家臣」という枠組みの中にあり、そのことが彼の限界と悲劇を決定づけることになる。

一、傀儡政権下における領国支配の実態

天文20年(1551年)の七頭の乱以降、能登畠山氏の当主である義続・義綱父子は、政治の実権を完全に失った 8 。国政は「七人衆」、そしてその頂点に立つ温井総貞によって運営された。彼は、主君から「国務之儀」を命じられたという大義名分のもと 16 、事実上の能登統治者として振る舞った 1 。七尾城内には遊佐氏や長氏と並んで温井氏の屋敷も構えられており 43 、そこが彼の権力の中枢の一つであったと考えられる。

二、在地領主層の被官化と知行安堵に見る支配戦略

総貞は、自らの権力を盤石なものにするため、守護の権限を代行、あるいは簒奪する形で領国支配を推し進めた。戦国期の権力者が支配体制を強化する常套手段として、領国内の検地(土地調査)を行い、それに基づいて家臣や在地領主の所領を再編・保証(知行安堵)することが挙げられる 44 。総貞が、守護の名を借りるか、あるいは自身の名で、他の国人たちに知行安堵状を発給するなどして、彼らを自らの被官(直接の家臣)として組み込んでいった可能性は高い 47 。これは、能登の支配構造を、畠山氏を頂点とするものから、実質的に温井氏を頂点とするものへと再編しようとする試みであった。

三、加賀一向一揆との関係:協調と利用の狭間で

総貞の権力基盤を支えるもう一つの重要な要素が、隣国・加賀を支配する強大な宗教・軍事勢力、加賀一向一揆との関係であった。温井氏は、総貞の代から本願寺と懇意な間柄を築いていたとされる 22 。この太いパイプは、政敵である遊佐氏との抗争において、一向一揆の軍事的な支援を取り付ける上で極めて有利に働いたと考えられる 16

しかし、この関係は諸刃の剣でもあった。外部勢力との結びつきは、家中の他の重臣からの警戒を招き、また、後の「弘治の内乱」では、総貞を失った温井一族が、その存亡をかけて加賀一向一揆に全面的に依存せざるを得ない状況を生み出すことになる 18 。総貞にとって一向一揆は、権力闘争を有利に進めるためのカードであったが、彼の一族にとっては、もはやそれなくしては存続し得ない命綱となっていった。

四、権臣としての限界:なぜ下剋上に至らなかったのか

総貞は、主君を傀儡とし、能登の実権を完全に掌握した。しかし、彼はついに主家である畠山氏を滅ぼし、自らが新たな能登国主となる「下剋上」には至らなかった。彼はあくまで「畠山家の筆頭家臣」という立場に留まり、権力を最大化する「権臣」の道を選んだのである。

この選択の背景には、いくつかの理由が考えられる。第一に、足利一門という名門・畠山氏の権威は、たとえ形骸化していたとしても、領国を統治する上で依然として有用な「看板」であったこと。第二に、主家を滅ぼすという露骨な下剋上は、越後の上杉氏のような周辺の大国に「逆賊討伐」という介入の絶好の口実を与えかねないという、冷徹な政治的計算があったこと 48

その結果、能登は「守護は畠山氏、実権は温井氏」という、極めて歪で不安定な二重権力構造を抱え込むことになった。この構造こそが、総貞の致命的なアキレス腱であった。なぜなら、名目上の主君である若き義綱に、「奪われた権力を回復する」という、家臣や領民の支持を集めやすい大義名分を与え続けてしまったからである。傀儡であるはずの主君が、権臣である自分を排除するための正当性を持つという矛盾。この矛盾が、やがて総貞自身の破滅を招くことになる。


第五章:落日の謀略 ―主君・畠山義綱の逆襲―

権勢の絶頂を極めた温井総貞であったが、その支配は盤石ではなかった。彼が傀儡として擁立した若き主君・畠山義綱の胸中には、屈辱を晴らし、大名としての本来の権力を取り戻さんとする野心が静かに燃え上がっていた。やがてその野心は、周到な謀略となって総貞に襲いかかる。

一、大名親政への回帰:畠山義綱の権力奪還計画

父・義続の跡を継いで名目上の当主となった畠山義綱は、成長するにつれて、温井総貞ら重臣たちに実権を握られた傀儡状態からの脱却を強く望むようになった 1 。彼は、失われた大名の権威を取り戻し、自らの手で領国を直接統治する「親政」の実現を目指したのである 21 。そのために義綱は、飯川光誠をはじめとする自らの側近を登用し、旧来の七人衆体制に対抗するための独自の権力基盤を着々と築き始めていた 21

二、近臣・飯川光誠の暗躍と総貞排除の策謀

義綱の権力奪還計画において、その手足となって動いたのが近臣の飯川光誠であった 21 。義綱にとって、権勢をほしいままにする温井総貞の存在は、大名親政を実現する上での最大の障害であった。正規の軍事力で強大な総貞を打倒することが困難である以上、残された手段は限られていた。義綱と飯川らは、水面下で総貞を排除するための策謀を巡らせ、最終的に「暗殺」という非常手段に訴えることを決意する 1

この暗殺計画は、単なる義綱の個人的な憎悪から生まれたものではない。それは、形骸化した守護権力が、自己の権威を回復し、戦国大名として再生するために、旧来の権力構造を支える最大の権臣を排除しようとする、必然的な政治的帰結であった。

三、弘治元年の悲劇:権力者の唐突な最期

弘治元年(1555年)、ついに義綱らの謀略が実行に移された。温井総貞は、主君・畠山義綱の手によって、あるいはその命を受けた飯川光誠らによって、七尾城内かその近辺で暗殺された 1

天文20年(1551年)の七頭の乱の後に責任を取る形で入道し、「紹春」と号していた総貞 14 。能登の国政を牛耳り、その権勢が頂点に達していた中での、あまりにも唐突な最期であった。彼の死は、能登の政治情勢を再び激しい動乱の渦へと突き落とすことになる。


終章:死後の波紋 ―弘治の内乱と能登畠山氏の終焉―

温井総貞の暗殺は、畠山義綱に一時的な権力をもたらしたが、能登に平和が訪れることはなかった。それは、より深刻で長期にわたる内乱の序曲に過ぎなかった。総貞の死は、彼が築き上げた権力構造の脆さを露呈させるとともに、能登畠山氏そのものの命脈を確実に縮める結果を招いた。

一、温井一族の蜂起:「弘治の内乱」の勃発と経過

総貞暗殺の報は、直ちに温井一族の激しい怒りを買った。その子・温井続宗を中心に、一族や縁戚の三宅氏らは、主君・義綱への復讐を誓い、公然と反旗を翻した 18 。これが、能登国を5年間にわたって戦火に包んだ「弘治の内乱」の始まりである。

温井方は、義綱に対抗するための大義名分として、畠山一族の生き残りである畠山晴俊を新たな当主に擁立 18 。そして、総貞が築いたパイプを頼り、加賀一向一揆に大規模な軍事支援を要請した 18 。内乱は能登全域を舞台に繰り広げられたが、緒戦から温井方は劣勢を強いられた。乱の主導者であった温井続宗や、彼らが擁立した畠山晴俊が相次いで戦死するなど、反乱軍は中核となる人物を次々と失っていく 18 。数年にわたる散発的な戦闘の末、永禄3年(1560年)頃には温井方の残党は能登から一掃され、内乱は義綱方の勝利に終わった 16

二、総貞の遺産と限界:一族の敗北と能登からの掃討

温井総貞が一代で築き上げた強大な権力と財力、そして加賀一向一揆との緊密な関係は、彼の一族が主君を相手に数年間も大規模な内乱を継続することを可能にした 22 。これは、総貞の政治的力量の大きさを示す遺産と言えるだろう。しかし、その一方で、カリスマ的な指導者であった総貞自身を失った温井方は、強力な求心力を欠き、次第に統制を失っていった。義綱側の巧みな反撃と、長続連ら他の重臣の離反もあり、温井一族は最終的に敗北を喫した。生き残った者たちは加賀や越後へ逃れるか、降伏するしかなかった 18

三、歴史的評価:温井総貞が能登畠山氏の滅亡に与えた影響

温井総貞という人物を歴史的に評価するならば、その功罪は表裏一体である。彼は、和歌に通じた文化人として主君・義総の治世に彩りを添え、能登の文化隆盛に貢献した 16 。また、港湾経済の重要性を見抜くなど、時代の変化に鋭敏な政治家でもあった。

しかし、その過度な権力志向と専横は、畠山家中に修復不可能な亀裂を生じさせた。彼が主導した七頭の乱、そして彼の死が引き金となった弘治の内乱は、能登畠山氏の国力を決定的に疲弊させた。義綱は内乱に勝利し、一時的に大名としての権力を回復したかのように見えたが、それは砂上の楼閣であった。家臣団の深刻な不信と対立は、わずか数年後の永禄9年(1566年)、今度は遊佐続光と長続連による義綱自身の追放劇へと繋がる 8

度重なる内紛で弱体化した能登畠山氏は、もはや外部からの脅威に対抗する力を持たなかった。やがて越後の上杉謙信が能登に侵攻した際、家臣団は再び分裂し、遊佐氏や温井氏の残党が謙信に内応したことで、難攻不落を誇った七尾城はあっけなく落城 22 。ここに、170年続いた名門・能登畠山氏は事実上滅亡するのである 5

結論として、温井総貞は能登畠山氏の最盛期を文化面で支え、その権力構造の変質を体現した時代の寵児であった。だが同時に、彼の行動は主家の内紛を激化させ、その滅亡を早める強力な触媒として機能した。彼は戦国という時代のダイナミズムが生んだ巨星であると同時に、自らが仕えた主家を内側から蝕む存在でもあった。その波乱に満ちた生涯は、戦国期における権力、文化、経済が複雑に絡み合った、守護大名家衰亡の一つの典型的な悲劇として、後世に記憶されるべきであろう。

引用文献

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  2. 能登畠山氏とゆかりの文化 - 石川県七尾美術館 https://nanao-art-museum.jp/nhandc
  3. 能登畠山氏と吉岡一文字の名刀/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/15207/
  4. 能登畠山家開統600年を迎えて - 七尾市 https://www.city.nanao.lg.jp/koho/shise/koho/kohonanao/h20/documents/2_11.pdf
  5. 武家家伝_温井氏 http://www2.harimaya.com/sengoku/html/nukui_k.html
  6. 戦国時代の能登半島 ~支配者が変わる動乱期 - note https://note.com/sengoku_irotuya/n/nb94c67293c4d
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  21. 畠山義綱とは? わかりやすく解説 - Weblio辞書 https://www.weblio.jp/content/%E7%95%A0%E5%B1%B1%E7%BE%A9%E7%B6%B1
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