戦国時代の歴史を彩る数多の武将の中で、滝川益重(たきがわ ますしげ)という名は、決して広く知られているとは言えない。彼の名は多くの場合、織田四天王の一人に数えられる叔父(または従兄弟)であり、織田信長の関東方面軍司令官として絶大な権勢を誇った滝川一益の威光の影に隠れて語られる 1 。しかし、その生涯を丹念に追うとき、彼は単なる一族の付属物ではなく、戦国末期から安土桃山時代にかけての激動の時代、特に織田政権の絶頂期から崩壊、そして豊臣政権の確立に至る重要な局面において、確かな足跡を残した一人の独立した武将としての姿を現す。
益重の実像を追う試みは、いくつかの大きな困難に直面する。第一に、彼の諱(いみな)をめぐる史料上の混乱である。「益重」の他に「益氏(ますうじ)」や「詮益(のぶます)」といった名で記録されることがあり、これらが同一人物を指すのか、あるいは別人なのか、研究者の間でも見解が分かれている 1 。第二に、彼の通称である「儀太夫(ぎだゆう)」という名が、戦国一の「傾奇者(かぶきもの)」として名高い前田利益(前田慶次)の実父、あるいは伊勢楠木氏の末裔である楠木正盛の舅(しゅうと)として、複数の伝承に登場することである 1 。これらの関係性が事実であれば、益重の人物像は大きくその色彩を増すが、その多くは後世の軍記物語に依拠しており、史実としての確定は難しい。
本報告書は、これらの錯綜した情報を、『寛政重修諸家譜』のような系譜資料や、『勢州軍記』、『当代記』といった同時代の記録・軍記物を丹念に比較検討し、事実、説、伝承を峻別しながら、可能な限り詳細かつ立体的な滝川益重の人物像を再構築することを目的とする。
彼の生涯に見られる情報の断片化と混乱は、彼個人の特異な事例というよりも、歴史の主役とはなれなかった「中堅武将」が史料にどのように記録されるかを示す典型例と捉えることができる。益重は常に、滝川一益、織田家、そして豊臣家というより大きな権力に従属する存在であったため、彼の行動は主君の歴史の一部として断片的に記録される傾向にあった 1 。この「わかりにくさ」こそが、彼の置かれた立場、すなわち有力武将の一族という存在の典型的なありようを反映しているのである。したがって、本報告書は、この情報の錯綜自体を分析の対象とし、その背景にある歴史的構造を解明することで、一人の武将の生涯を通して、時代の深層に迫ることを目指すものである。
年代(西暦) |
出来事 |
関連人物 |
根拠史料・文献 |
生年不詳 |
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- |
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天正10年(1582年)3月 |
甲州征伐に従軍。武田勝頼を天目山麓田野にて包囲し、自害に追い込む。 |
滝川一益、織田信忠、武田勝頼 |
1 |
天正10年(1582年)3月 |
滝川一益の関東拝領に伴い、上野国沼田城代に就任。真田昌幸から人質として信繁(幸村)を預かる。 |
滝川一益、真田昌幸、真田信繁 |
1 |
天正10年(1582年)6月 |
本能寺の変後、旧城代・藤田信吉の反乱を撃退。 |
藤田信吉、上杉景勝 |
1 |
天正10年(1582年)6月 |
神流川の戦いに従軍。滝川軍の敗北後、一益と共に伊勢へ撤退。 |
北条氏直 |
1 |
天正11年(1583年)2月-4月 |
賤ヶ岳の戦いの前哨戦として、北伊勢の峯城に籠城。羽柴秀吉軍の猛攻に数ヶ月耐えた後、開城。 |
柴田勝家、羽柴秀吉、羽柴秀長、蒲生氏郷 |
1 |
天正11年(1583年)4月以降 |
秀吉にその武勇を賞賛され、所領を与えられて豊臣家臣となる。 |
豊臣秀吉 |
1 |
天正12年(1584年) |
小牧・長久手の戦いに兵100を率いて従軍。 |
徳川家康、織田信雄 |
1 |
天正14年(1586年) |
朝日姫の徳川家康への輿入れに供奉し、浜松へ赴く。 |
朝日姫 |
1 |
天正15年(1587年) |
九州征伐に兵350を率いて従軍。 |
島津義久 |
1 |
没年不詳 |
九州征伐以降の確実な史料上の足跡は不明。 |
- |
1 |
滝川益重の人物像を理解する上で、まず彼が属した滝川一族の出自を明らかにすることが不可欠である。しかし、その源流は複数の説が提示されており、確固たる定説を見るには至っていない。
最も有力とされるのは、近江国甲賀郡の国人出身とする説である 5 。甲賀は忍術の郷として知られ、この説は滝川一益が鉄砲の名手であり、諜報や調略を得意としたという人物像と符合する 13 。当時、鉄砲のような新兵器を扱うのは、伝統的な武士階級よりも身分の低い者や、特殊技能を持つ忍者集団であったという背景も、この説を補強する一因となっている 15 。
一方で、一益が織田信長に仕える以前から、滝川氏が尾張国に根を下ろしていた可能性も指摘されている。公家・山科言継の日記『言継卿記』には、天文2年(1533年)に織田信秀の居城・勝幡城を訪れた際、出迎えた家臣の中に「滝川彦九郎勝景」という人物がいたことが記録されている 7 。これは、一益の系統とは別に、信長の父の代から織田家に仕える滝川氏が存在したことを示唆する。
さらに、一益が伊勢国の国人・九鬼嘉隆の織田家仕官を仲介したことや、攻略後に北伊勢に広大な所領を与えられたことから、伊勢あるいは志摩の出身ではないかとする説も存在する 15 。
これらの説は、滝川氏が一つの明確な源流を持つ一族ではなく、甲賀、尾張、伊勢といった複数の地域にネットワークを持つ、複合的な背景を持った一族であった可能性を示している。本姓についても、紀氏を称したとする説(『寛永諸家系図伝』)と、甲賀の武士団である伴党に連なる伴氏とする説(新井白石『藩翰譜』)があり 16 、その出自の多様性が一族の複雑な成り立ちを物語っている。
このような出自の曖昧さは、一見すると弱点のように思えるが、むしろ実力主義を掲げる織田信長にとっては大きな価値の源泉であった。特定の守護大名に代々仕える譜代の家臣とは異なり、旧来の地域のしがらみに囚われない「よそ者」であったからこそ、信長の革新的な支配体制を遂行する尖兵として、各地でその能力を遺憾なく発揮できたのである。信長は、出自を問わず能力のある者を登用したことで知られるが 14 、滝川一族はその象徴的な存在であり、既存の権力構造を打破するための重要な「道具」として重用されたと言えよう。
滝川益重と一益との血縁関係については、「甥」とする説が一般的である 1 。一方で、「従兄弟」とする説も存在し 3 、正確な関係は定かではない。しかし、いずれにせよ、後に見るように甲州征伐後の関東統治において最重要拠点の一つである沼田城を任されるなど、一益から絶大な信頼を寄せられた一門の中核人物であったことは間違いない。
益重の人物像を特定する上で最大の障壁となっているのが、その呼称の混乱である。諱は「益重」のほか、「益氏」「詮益」とも伝わる 1 。特に「滝川益氏」は、賤ヶ岳の戦いの前哨戦において、益重が守った峯城と連携する亀山城の守将として名が見える人物であり 3 、益重と同一人物なのか、あるいは近親の別人なのか、判然としない。
この混乱を解く鍵となるのが、通称の「儀太夫」である。複数の史料で益重は「滝川儀太夫」として言及されており 1 、これが彼の最も一般的な呼称であったと考えられる。本報告書では、基本的には「益重」の名で統一しつつも、史料上の表記の違いに留意し、特に前田利益や楠木正盛との関係を論じる際には「儀太夫」の名を用いることとする。この呼称の錯綜は、彼が独立した大名ではなく、常に一益という大きな存在の一部として認識されていたことの証左とも言えるだろう。
項目 |
説の内容 |
根拠史料・文献 |
考察 |
諱(いみな) |
益重、益氏、詮益、儀太夫。これらが同一人物か別人かは諸説ある。 |
1 |
賤ヶ岳の戦いでは峯城の「益重」と亀山城の「益氏」が同時に記録されており、別人である可能性が高いが、混同も見られる。「儀太夫」は益重を指す通称として最も一般的である。 |
対 滝川一益 |
「甥」説が有力。「従兄弟」説もある。 |
1 |
いずれにせよ、一門の中核として枢要な役目を任されており、血縁的に極めて近い関係にあったことは確実である。 |
対 前田利益(慶次) |
利益の実父は「滝川儀太夫」とされる。この儀太夫が益重(または益氏)を指すとする説がある。 |
1 |
利益の出自は諸説あり、確定的なものではない。後世の創作による影響も大きいが、滝川一族の出身であることは広く認められている。 |
対 楠木正盛 |
楠木正盛が「瀧川義太夫」の娘を妻に迎えたとされる。この義太夫が益重(または益氏)を指す可能性がある。 |
1 |
『勢州軍記』に見られる記述。事実であれば、滝川氏が名門楠木氏と姻戚関係にあったことを示すが、軍記物語の記述であり慎重な検討を要する。 |
滝川益重が歴史の表舞台に明確に姿を現すのは、織田信長による天下統一事業が最終段階に入った天正10年(1582年)のことである。叔父・一益の配下として、彼は織田政権の武将として重要な戦役に参加し、その能力を発揮した。
天正10年(1582年)2月、信長は嫡男・織田信忠を総大将とする大軍を、長年の宿敵であった武田氏の領国へ侵攻させた。この甲州征伐において、滝川一益は軍監として信忠軍の中核を担い、益重もその配下として従軍した 1 。
織田軍の圧倒的な兵力の前に武田軍は総崩れとなり、当主の武田勝頼は本拠地・新府城を捨てて逃亡する。益重が属する滝川勢は、逃げる勝頼を執拗に追撃した。そして3月11日、天目山(てんもくざん)の麓、田野(たの)の地でついに勝頼・信勝父子とその一行を包囲し、自害へと追い込んだ 1 。この武田氏滅亡という歴史的瞬間に、益重は追撃部隊の一翼を担うという形で直接的に関与し、武将としてのキャリアにおける最初の大きな功績を挙げたのである。
甲州征伐における戦功、特に勝頼父子を討ち取った功績は絶大であった。信長は一益を「関東御取次役」に任じ、上野一国と信濃二郡(佐久郡・小県郡)という広大な領地を与えた 5 。これは、北条氏や上杉氏といった関東の強豪を抑え、織田家の支配を東国に及ぼすための極めて重要な人事であった。
この新たな関東支配体制において、益重は枢要な拠点である上野国沼田城の城代に抜擢された 1 。沼田城は、越後の上杉景勝に対する最前線であると同時に、利根川上流域を抑え、関東平野を見下ろす戦略的要衝であった。この重要な城を任されたことは、益重が一益からいかに深く信頼されていたかを物語っている。
この城代就任に際し、益重は歴史に名を残す有名な逸話に関わることになる。沼田城を明け渡した真田昌幸から、人質としてその次男・信繁(後の真田幸村)を預かったのである 1 。これは、益重が単なる城の留守居役ではなく、滝川家の代理として、真田氏のような一筋縄ではいかない在地領主(国衆)との外交交渉や支配の実務を担う、高度な政治的役割を果たしていたことを示している。実際に、同年5月には上杉領の越後へ侵攻を試みて撃退されるなど、国境地帯では常に緊張状態にあり、益重はその最前線で指揮を執っていた 1 。
天正10年6月2日、京都で発生した本能寺の変は、発足したばかりの滝川氏の関東支配体制を根底から覆した。絶対的な権力者であった信長の死は、東国に力の真空を生み出した。
この報が上野に届くや否や、真っ先に動いたのが旧沼田城代であった藤田信吉である。彼は上杉景勝と通じ、5千の兵を率いて益重が守る沼田城に攻め寄せた 1 。不意を突かれた攻撃であったが、益重は冷静に城を守り、本拠の厩橋城にいた一益に急報。一益自らが率いる援軍を得て、同月13日に藤田勢を撃退することに成功した 1 。この一連の対応は、益重の指揮官としての沈着さと胆力を見事に示している。
しかし、安堵したのも束の間、今度は南から相模の北条氏直が5万を超える大軍を率いて侵攻してきた。一益は関東の与力をかき集めて迎撃に向かい、益重もこれに従軍した 1 。そして6月18日から19日にかけて、武蔵国で繰り広げられた神流川の戦いで、滝川軍は北条軍に大敗を喫する。この敗北により、滝川氏の関東支配はわずか3ヶ月で完全に崩壊した。益重は、叔父・一益と共に上野国を放棄し、本拠地である伊勢長島城へと、敵中を突破しての困難な撤退行に加わったのである 1 。
益重の沼田城代時代は、織田信長が構想した「方面軍団による広域支配体制」の成功と失敗を象徴する出来事であった。信長は、柴田勝家や羽柴秀吉、そして滝川一益といった方面軍司令官に広範な裁量権を与え、現地の国衆を「与力」として組み込むことで支配を拡大した 12 。益重は、その司令官の代理として、真田氏のような有力国衆と直接対峙し、人質を徴収するなどして支配を実体化させる役割を担った。しかし、このシステムは信長個人の絶大な権威と軍事力に依存しており、本能寺の変という中央権力の喪失に直面した途端、与力であった藤田信吉は即座に離反し、周辺大国(北条氏)が領土回復に動くなど、その脆弱性を露呈した。益重の沼田城での奮戦と神流川での敗走は、このシステムの機能と崩壊の両面を一身に体験したことを意味し、信長の支配体制のメカニズムと限界を理解する上で、極めて貴重な事例と言える。
関東からの撤退を余儀なくされた滝川一族であったが、その苦難はまだ終わらなかった。織田信長亡き後の天下の主導権をめぐり、羽柴秀吉と柴田勝家の対立が激化。一益と益重は、この巨大な権力闘争の渦中に再び身を投じることになる。
天正11年(1583年)、織田家の後継者を決める清洲会議の結果に不満を抱いた一益は、柴田勝家と結び、反秀吉の兵を挙げた 1 。一益は本拠地の伊勢長島城を拠点に、周辺の秀吉方の城々を次々と攻略し、北伊勢一帯を制圧。この時、益重は伊勢国峯城(現在の三重県亀山市)の守将として配置された 1 。峯城は、秀吉の本拠地である近江や京へ圧力をかける上で、極めて重要な前線拠点であった。
秀吉は、この北伊勢の動きを看過しなかった。弟の羽柴秀長を総大将に、蒲生氏郷、筒井順慶といった麾下(きか)の主力部隊を峯城攻略に差し向けた 1 。益重は数千の兵で、数万の秀吉軍を相手に数ヶ月にわたる壮絶な籠城戦を展開した 1 。しかし、本戦である賤ヶ岳で柴田勝家が敗北し、滝川方は完全に孤立。兵糧も尽き果て、天正11年4月17日、ついに峯城は開城し、益重は降伏した 1 。
この峯城での徹底抗戦は、単なる武勇伝として片付けることはできない。当時の状況を鑑みれば、柴田方の敗色は濃厚であり、一益の北伊勢での挙兵は、本戦から秀吉の兵力を引き剥がすための陽動という側面が強かった。その劣勢な状況下で、益重が数ヶ月もの間、秀吉軍の主力を釘付けにした事実は、彼の指揮官としての卓越した能力、特に籠城戦における粘り強さと戦術眼を敵である秀吉に知らしめる絶好の機会となった。当時の武士社会では、主君への忠義を尽くした上での降伏は必ずしも恥ではなく、有能な武将は敵方からも登用の対象となった。益重の抵抗は、敗北をキャリアの終焉ではなく、新たな主君への仕官の機会へと転換させるための、計算された戦略的な「自己アピール」であったと解釈することも可能である。
益重のキャリアにおいて、峯城開城は決定的な転換点となった。投降後、彼は秀吉の前に召し出されたが、その罪を問われるどころか、籠城戦での奮戦ぶりを高く評価され、所領を与えられて豊臣家の家臣として迎え入れられたのである 1 。これは、敵方であっても能力のある人材は積極的に登用するという、秀吉の現実主義的な人物評価を象徴する逸話である。叔父・一益がこの敗戦で全ての所領を没収され、出家して失脚したのとは対照的に 5 、益重は一族の中で唯一、新たな生き残りの道を見出すことに成功した。
以降、益重は豊臣政権下の武将として活動する。天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いでは、秀吉方として兵100人を率いて従軍した記録が残る 1 。天正14年(1586年)には、政略結婚により徳川家康に嫁ぐことになった秀吉の妹・朝日姫の行列に供奉し、浜松まで赴いている 1 。これは、彼が単なる一兵卒ではなく、豊臣政権下で儀礼的な役割も担う一定の地位にあったことを示唆している。
そして、彼の武将としての最後の確実な記録となるのが、天正15年(1587年)の九州征伐である。『当代記』などの史料によれば、この戦役に益重は兵350人を率いて従軍しており 1 、豊臣政権の巨大な軍事機構に動員される全国の大名・武将の一人として、完全に組み込まれていたことが確認できる。柴田方として秀吉に敵対してからわずか4年で、彼はその能力を認めさせ、新たな支配者の下で確固たる地位を築き上げたのである。
滝川益重の生涯は、戦場での武功だけに留まらない。断片的な記録からは、当時の武将として求められた文化的な素養や、複雑な人間関係のネットワークの中に生きた彼の姿が浮かび上がってくる。
戦国時代から安土桃山時代にかけて、茶の湯は単なる趣味や芸道ではなく、大名や重臣たちが交流し、情報交換を行い、時には政治的な交渉まで行う、極めて重要な社交の場であった 19 。益重がこの文化サークルの一員であったことを示す貴重な記録が存在する。
堺の豪商であり、千利休、今井宗久と並び「天下三宗匠」と称された当代一流の茶人・津田宗及が記した茶会記に、益重が客としてしばしば招かれていたことが記されているのである 1 。宗及の茶会に招かれるということは、彼が豊臣政権下で一定の地位と教養を持つ「名士」として認められていたことを意味する。また、同じく茶人であった津田盛月や、武将の松下之綱らとも親交があったとされ 1 、彼が武辺一辺倒の人物ではなく、洗練された文化人としての一面を併せ持っていたことが窺える。
滝川益重の名を語る上で、最も興味深く、また最も謎に満ちているのが、「天下御免の傾奇者」として後世に絶大な人気を誇る武将・前田利益(通称:慶次)との関係である。
複数の記録や系図において、前田利益の実父は「滝川儀太夫」であるとされている 1 。そして、前述の通り、益重の通称が「儀太夫」であったという記録もまた複数存在する 1 。この二つの情報が結びつくとき、「滝川益重こそが前田利益の父(あるいは叔父などの近親者)ではないか」という魅力的な仮説が立ち上がる。
しかし、この説は確定的なものではない。利益の父については、益重と同一人物とも別人ともされる滝川益氏の名も挙げられており、さらには一益の兄である高安範勝とする説まで存在する 4 。確かなことは、利益が滝川一族の血を引く人物であるということだけであり、その具体的な出自は依然として謎に包まれている 22 。特にこの関係性は、隆慶一郎の小説『一夢庵風流記』や、それを原作とした漫画『花の慶次』によって劇的に描かれたことで広く知られるようになったが 4 、そこには多くの創作が含まれており、史実と伝説を慎重に区別する必要がある。
もう一つ、益重の人間関係の広がりを示す興味深い伝承がある。軍記物語『勢州軍記』に、南北朝時代の忠臣・楠木正成の末裔とされ、伊勢国に勢力を保っていた楠木氏最後の当主・楠木正盛が、「瀧川義太夫」なる人物の娘を正室に迎えたという記述である 1 。
この「瀧川義太夫」が、益重あるいは益氏を指す可能性は十分に考えられる。もしこれが事実であれば、新興勢力である滝川氏が、南朝の忠臣として武士の鑑とされた名門・楠木氏と姻戚関係を結んだことになり、一族の権威を高める上で大きな意味を持ったであろう。
ただし、この逸話もまた、前田利益との関係と同様に『勢州軍記』という軍記物語に見られるものであり、確実な一次史料による裏付けはない。それゆえ、あくまで伝承として慎重に扱うべきであるが、滝川氏が伊勢に深く根を下ろす過程で、現地の旧来の名家と関係を築こうとしていたことを示唆する逸話として注目に値する。
これら三つの側面、すなわち茶の湯(文化的ステータス)、前田利益(「武」の美意識)、そして楠木正盛(「血」の権威)は、一見すると無関係に見えるが、「儀太夫」という名を結節点として、戦国後期から安土桃山時代にかけての武士の複合的な価値観を体現している。彼は、武勇という本業に加え、文化的素養による社交、そして由緒ある家柄との繋がりという、当時の武将が求めた複数の価値を体現する、あるいはそうしたイメージを投影される存在であった。彼の人物像を単に「一益の甥」という一面的なものとして捉えるのは不十分であり、彼は武人であると同時に、当時の文化的・社会的ネットワークの中に確固たる位置を占めていた、より複雑で深みのある人物として捉え直すべきであろう。
豊臣政権下で武将として、また文化人として確かな足跡を残した滝川益重であるが、その最期は謎に包まれている。歴史の表舞台から姿を消し、その後の消息はほとんど伝わっていない。
益重に関する確実な一次史料の記録は、天正15年(1587年)の九州征伐への従軍が最後となる 1 。その後、豊臣政権下で彼がどのような役割を果たしたのか、詳細は不明である。慶長5年(1600年)に天下分け目の戦いとなった関ヶ原の戦いにおいても、彼が東西どちらかの軍に参加したという記録は見当たらない 10 。
その結果、彼の没年、死因、そして墓所のいずれもが不明という状況になっている 1 。彼の人生の終幕が歴史の闇に消えている事実は、豊臣政権から徳川政権へと移行する激動の時代に、多くの豊臣恩顧の武将たちが歴史の表舞台から静かに姿を消していった事例の一つとして位置づけることができる。
益重の晩年が謎に包まれる一方で、極めて興味深い伝承が残されている。「滝川益重の嫡流は信州在住」というものである 41 。この伝承は史料的価値こそ不明ながらも、彼の経歴と照らし合わせると一定の説得力を持つ。
その背景として考えられるのは、天正10年に関東統治の拠点として上野国沼田城代を務めていた時期の縁である。彼は信濃国にも所領を持ち、真田信繁を人質として預かるなど、信濃・上野の在地勢力と深い関わりを持っていた 1 。この時に築かれた人的な繋がりが、後の隠棲や子孫の定住に繋がった可能性は否定できない。
豊臣秀吉に直接仕えた武将である益重にとって、徳川家康が覇権を握る時代は、自らの立場を慎重に判断する必要があった。関ヶ原の戦いという巨大な政治闘争に積極的に関与した記録がないことは、彼が中央の政争から距離を置いたことを示唆している。「信州在住」の伝承が事実の断片を伝えているとすれば、彼は政治の中心地である京や大坂から離れ、かつて自身が統治に関わった縁故の地、信濃に活路を見出したのかもしれない。真田氏をはじめとする国衆の力が強く、中央の支配が及びにくい側面を持つ土地で、かつての縁を頼りに身を寄せ、一族の血脈を存続させるという選択は、乱世を生き抜いた武将の現実的な知恵であったとも考えられる。
この「不明な晩年」は、単なる記録の喪失ではなく、激動の政権交代期を乗り切るための、意図的な「歴史からの退場」であった可能性を秘めている。滝川氏の一族は、江戸時代には旗本や諸藩の藩士として存続しており 16 、その流れの中に益重の子孫が含まれている可能性も残されている。この伝承の真偽は、今後の郷土史研究などによって解明が待たれる魅力的な課題である。
本報告書で検証してきた通り、滝川益重の生涯は、戦国乱世の激動を凝縮したものであった。彼は、著名な叔父・滝川一益の有能な補佐役としてキャリアをスタートさせ、織田政権の拡大期には関東経営の最前線を担う指揮官としてその能力を示した。本能寺の変という未曾有の国難に際しては、主家への忠義を尽くして奮戦し、その武勇が敵将であった羽柴秀吉に認められることで、豊臣政権下で生き残るという稀有な道を歩んだ。さらに、戦場での活躍に留まらず、茶の湯を嗜む文化人としての一面も持ち、その人物像は一筋縄ではいかない多面性を有していた。
にもかかわらず、なぜ彼は叔父・一益ほどの歴史的名声を獲得するには至らなかったのか。その理由は、いくつかの要因から考察できる。第一に、彼は終ぞ独立した大名となることはなく、常により大きな権力に属する一武将の立場に留まったこと。第二に、彼のキャリアの頂点であった関東支配が、本能寺の変によってわずか三ヶ月で頓挫してしまったこと。そして第三に、その後の豊臣政権下では確固たる地位を得たものの、方面軍を率いる司令官クラスの重責を担うまでには至らなかったことである。
最終的に、滝川益重は、天下人になることはなかったが、戦国という時代のあらゆる局面―栄光と転落、裏切りと忠誠、そして熾烈な生存競争―をその身をもって体現した、極めて興味深い「等身大の武将」であったと結論づけられる。彼の生涯は、歴史の主役たちの華々しい物語だけでは決して見えてこない、乱世の狭間を生きた無数の武士たちのリアルな様相と、そのしたたかな生存戦略を我々に教えてくれる。彼の存在は、歴史の勝者だけでなく、その影で時代を動かした人々の生きた証を追うことの重要性を示しているのである。