最終更新日 2025-06-27

滝川辰政

「滝川辰政」の画像

滝川辰政 ― 乱世を渡り、泰平の世に武名を遺した知将の生涯

序章:織田四天王・滝川一益の血脈

滝川辰政の出自と時代背景

滝川辰政(たきがわ たつまさ)は、天正3年(1575年)、織田信長の重臣としてその名を天下に轟かせた滝川左近将監一益(たきがわ さこんのしょうげん かずます)の子として生を受けた 1 。父・一益は、鉄砲の卓越した技術をもって信長に重用され、伊勢平定や甲州征伐において赫々たる武功を挙げた人物である 2 。その功績により、一益は上野一国と信濃二郡を領する関東管領にまで任じられ、滝川家の栄華は頂点に達した 2

しかし、辰政がわずか8歳の天正10年(1582年)、本能寺の変が勃発し、父と一族の運命は暗転する。後ろ盾であった信長を失った一益は、関東の領地を巡る神流川の戦いで北条氏に大敗を喫し、命からがら本拠の伊勢へと帰還した 2 。その後の織田家の後継者を決める清洲会議にも参加できず、政治的な影響力を完全に喪失。続く賤ヶ岳の戦いでは柴田勝家方に与して羽柴秀吉と対立し、敗北の末に所領の全てを没収され、不遇のうちに生涯を終えることとなる 6

辰政の少年期は、父が築いた栄光の絶頂と、その後の急転直下の没落という、まさに天国と地獄を目の当たりにする激動の時代であった。この経験は、彼が後の人生において、特定の主君や勢力に依存するのではなく、自らの武と知を頼りに、常に時勢を冷静に見極めながら生き抜くという現実的な処世術を身につける上で、決定的な影響を与えたと考えられる。名門の再興という重責を、彼は父の旧領や人脈に頼ることなく、己の力のみで成し遂げなければならなかったのである。

辰政の兄弟たち ― それぞれの道

滝川一益には複数の子がおり、辰政は三男、あるいは『岡山市史』によれば五男とされている 6 。彼の兄弟たちもまた、父の没落後、それぞれ異なる道を歩んだ。

長男の一忠(かずただ)は、父と共に小牧・長久手の戦いにおける蟹江城合戦で敗れた後、秀吉からその責任を問われ追放処分となった 9 。その後、彼はどの大名にも仕えることなく、浪人として生涯を終えたと伝わる 6 。これは、没落した武家の嫡男が背負うことの多かった過酷な運命の典型であった。

次男の一時(かずとき)は、徳川家康に仕えて下総国に二千石の所領を与えられたが、慶長8年(1603年)、36歳の若さで病没した 6 。その死は主君の徳川秀忠からも惜しまれたといい、将来を嘱望された武将であったことがうかがえる 11

兄や弟の生涯と比較すると、滝川辰政のキャリアがいかに成功したものであったかは際立っている。彼は、浪人となった兄のように過去に固執することなく、また早世した弟のように一つの可能性に賭けるのでもなく、複数の主君の下で経験を積み重ね、自らの価値を着実に高めていった。その結果、兄弟の中で最も高い知行を得て家名を再興し、泰平の世で大往生を遂げるという、武士として理想的な生涯を全うしたのである。彼の人生は、没落した名門の子息が、自らの才覚と戦略でいかにして乱世を渡り、新たな時代に確固たる地位を築き上げたかを示す、稀有な実例と言えよう。


表:滝川辰政の主君遍歴と主な出来事

時代

主君

辰政の通称・役職

主な出来事

最終的な知行

安土桃山時代

織田信包

七郎

小田原征伐に従軍。主君を銃弾から守り、武名を上げる。

-

浅野長政

七郎

文禄・慶長の役に従軍し、朝鮮へ渡海。多くの武功を立てる。

-

石田三成

七郎

豊臣政権の中枢に仕える。

-

小早川秀秋

内記

関ヶ原の戦いに従軍。松尾山から東軍に寝返り、大谷吉継隊と奮戦。

-

江戸時代前期

(浪人)

内記

主君・秀秋の乱行により出奔。女乗物で追跡をかわす。

-

池田輝政

丹波、出雲

姫路藩池田家に仕官。淡路岩屋城を預かる内命を受ける。

2,000石

池田利隆・光政

出雲

大坂の陣で神崎川一番越しなどの大功を立てる。岡山藩番頭を務める。

3,000石


第一章:武者修行の時代 ― 主君遍歴の始まり

最初の奉公と初陣の誉れ(対 織田信包)

滝川辰政が歴史の表舞台に最初に登場するのは、織田信長の弟である織田信包(のぶかね)に仕えていた時期である 1 。天正18年(1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐に、辰政は信包の配下として従軍した。この戦において、彼の武人としての資質を示す象徴的な逸話が、江戸時代中期の武将言行録『常山紀談』に記されている 1

その記述によれば、北条方からの鉄砲による攻撃で、敵の弾丸が主君・信包を目掛けて飛来した際、若き辰政は即座に信包の矢面に立ち、自らが背負う母衣(ほろ)でその銃弾を受け止めたという 1 。母衣は本来、背後からの流れ矢を防ぐための防具であるが、それを盾として瞬時に活用したこの行動は、彼の卓越した武技と機転、そして何よりも主君を守るという強い覚悟の現れであった。この働きは信包から大いに賞賛され、辰政は初陣に近いこの戦で早くもその名を上げたのである 1

この種の逸話集は、歴史的事実そのものを厳密に伝える一次史料とは性質が異なる。しかし、こうした物語が後世に語り継がれたという事実は、辰政が「主君を守る勇敢な若武者」というイメージで記憶されていたことを示唆しており、彼がキャリアの初期段階で武人としての確かな評価を確立していたことを物語っている 14

海を渡った武功(対 浅野長政)

織田信包のもとを離れた後、辰政は豊臣政権五奉行の一人、浅野長政に仕えた 1 。この時期、彼は主君に従い、文禄・慶長の役で朝鮮半島へと渡海している。史料には「武功が多かった」と簡潔に記されているのみで、具体的な戦闘内容は伝わっていないが、この大陸での実戦経験は、彼の武将としての成長に不可欠な要素であったことは間違いない 1

父・一益もまた、伊勢水軍を率いて海戦で活躍した武将であった 4 。辰政も異国の地での戦を通じて、多様な地形や戦術に対応する能力を磨き、その視野を大きく広げたであろう。この経験は、後の関ヶ原や大坂の陣といった大舞台で、彼の冷静な状況判断能力の礎となった可能性が高い。

豊臣政権の中枢へ(対 石田三成)

浅野長政に続いて、辰政は同じく五奉行の筆頭格であった石田三成に仕えるという、驚くべき経歴を辿る 1 。秀吉の死後、豊臣政権内では加藤清正や福島正則ら武断派と、三成ら文治派の対立が激化していた 17 。その渦中にあって、辰政が三成に仕官したという事実は、彼が豊臣政権の中枢、すなわち文治派の陣営に身を置いたことを意味する。

しかし、この奉公も長くは続かなかった。関ヶ原の戦いが目前に迫る中、辰政は三成のもとを去り、次なる主君として小早川秀秋を選ぶことになる。この決断の背景には、秀吉亡き後の政権の流動性、そして来るべき天下分け目の戦いを見据えた、辰政の冷徹なまでの政治的嗅覚と戦略的判断があったと考えられる。彼の主君遍歴は、単なる気まぐれな転職ではなく、自らの生存と一族の未来を賭けた、計算され尽くしたキャリア形成の過程だったのである。

第二章:天下分け目の関ヶ原

小早川秀秋の家臣として

石田三成のもとを離れた辰政が次なる主君として選んだのは、豊臣一門の大名であり、関ヶ原の戦いの趨勢を決定づけるキーマンとなる小早川秀秋であった 1 。この頃、辰政は通称を「内記(ないき)」と改めている 1

秀秋は、豊臣秀吉の正室・ねねの甥でありながら、その生涯は複雑な政治的力学に翻弄されていた。特に慶長の役において、総大将でありながら軽率に前線に出たことなどを理由に、監察役であった石田三成から秀吉へ讒言され、筑前から越前へ減転封されるという屈辱を味わっていた 18 。この処分を徳川家康が取り成したことで、秀秋は三成に深い恨みを抱くと同時に、家康に大きな恩義を感じるという、極めて微妙な立場に置かれていたのである 18 。辰政が秀秋に仕えたのは、まさにこのような一触即発の政治情勢の最中であった。彼が秀秋を選んだのは、来るべき動乱において秀秋が持つ戦略的な重要性を見抜いていたからに他ならない。

松尾山の決断 ― 大谷吉継隊との激闘

慶長5年(1600年)9月15日、天下分け目の関ヶ原の戦いが火蓋を切った。辰政は主君・秀秋率いる一万五千の大軍と共に、戦場全体を見渡せる戦略的要衝、松尾山に西軍として布陣した 1

戦いは当初、鶴翼の陣を敷いた西軍有利に進んだが、松尾山の小早川勢は動かなかった。西軍からの再三の催促にもかかわらず、秀秋は逡巡を続ける。業を煮やした家康が松尾山麓に向けて威嚇射撃を行った(という説が広く知られている)のを機に、ついに秀秋は東軍への寝返りを決断する 19

小早川軍は雪崩をうって松尾山を下り、麓に布陣していた西軍の勇将・大谷吉継の隊に襲いかかった。辰政はこの寝返りの一翼を担い、小早川軍の一勢として大谷隊と激しく衝突した。史料によれば、彼は笹治兵庫(ささじひょうご)という武将と共に奮戦し、精強で知られた大谷軍を側面から切り崩し、壊滅させる上で大きな武功を挙げたとされる 1 。この活躍は『常山紀談』にも「滝川内記功名の事」として一項が設けられ、彼の武勇を後世に伝えている 21 。この土壇場での働きは、小早川家の戦後における立場を有利にし、ひいては辰政自身の評価をも高める結果となった。

主家からの脱出劇

関ヶ原での功績により、小早川秀秋は備前・美作を領する岡山55万石の大名へと加増移封された 1 。しかし、大大名となった秀秋は次第に増長し、諫言する家臣を上意討ちにするなどの乱行が目立つようになる。その結果、将来に見切りをつけた有能な家臣たちが次々と出奔するという、家臣団の崩壊が始まった 1

滝川辰政もまた、この乱行の主君のもとでは自らの将来はないと判断し、出奔を決意する。だが、秀秋は歴戦の将である辰政を手放すことを許さず、その屋敷を鉄砲足軽で包囲し、力ずくで引き留めようとした 25 。絶体絶命の状況下で、辰政の知略が冴えわたる。彼は警備の兵が屋敷を取り囲む直前に、密かに「女乗物(おんなのりもの)」、すなわち女性用の駕籠に身を隠して屋敷を脱出。追手の意表を突くこの奇策は見事に成功し、彼は追跡をかわして岡山を去ったと伝えられている 1

この一連の行動は、戦国末期における武将の主従観を象徴している。辰政にとって主君は絶対的な崇拝の対象ではなく、自らの能力を正当に評価し、家の安泰を保証してくれる「パートナー」であった。その主君が器量を失い、将来性がなくなったと判断すれば、見切りをつけて新たな道を模索するのは、自らの価値と家名を背負う武将として当然の権利でもあった。特にこの知略に富んだ脱出劇は、彼が不当な束縛に対して腕力ではなく智恵で対抗したことを示しており、家臣としての自律性と高い誇りを持ち合わせていた人物であることを雄弁に物語っている。

第三章:安住の地を求めて ― 池田家への仕官

姫路藩主・池田輝政との縁

小早川家から見事な計略で脱出した辰政であったが、浪々の身は長くは続かなかった。程なくして、播磨姫路藩52万石の藩主、池田輝政に仕える道が開かれる。この仕官は、池田家の重臣であった荒尾成久(あらおなりひさ)らの執り成しによるものであった 1

輝政は辰政の武名と経歴を高く評価し、二千石という、新規召し抱えの家臣としては破格の知行を与えて迎えた 1 。この厚遇の背景には、単に辰政個人の能力評価だけではない、より深い理由があったと考えられる。滝川家と池田家には、旧来からの血縁関係が存在した可能性が極めて高い。辰政の父・一益と、輝政の父・池田恒興は従兄弟同士であったとする系図が複数存在しており、この旧縁が、輝政にとって辰政を厚遇をもって迎える決定的な要因となったのであろう 10 。戦国の世が終わり、家柄や縁故がより重要視される時代へと移行する中で、この「従兄弟の息子」という関係は、浪人状態にあった辰政にとって何より強力な後ろ盾となったのである。

池田家に仕えた辰政は、通称を「丹波(たんば)」、後には「出雲(いずも)」と改めている 1 。その信頼は厚く、慶長17年(1612年)には、輝政から淡路国の要衝・岩屋城を預けるという内命が下されたほどであった 1 。これは、辰政が単なる客将ではなく、一国一城の守りを任せられるほどの、譜代同様の信頼を得ていたことを示すものである。しかし、この人事は翌年に輝政が急死したため、実現には至らなかった 1

大坂の陣での大功

輝政の死後、家督を継いだ二代藩主・池田利隆の下で、辰政は最後の戦働きを見せる。慶長19年(1614年)からの大坂の陣において、彼は池田軍の主力として従軍した 1

冬の陣、夏の陣を通じて、辰政は「神崎川一番越し」をはじめとする数々の軍功を挙げた 1 。中でも彼の武将としての真価が発揮されたのが、夏の陣における中津川(淀川の分流)での逸話である。主君・利隆の弟である池田忠継が軍令を破って深入りし、敵中に孤立する危険に陥った。兄である利隆はこれを救うべく渡河しようとしたが、幕府から派遣されていた軍監が、持ち場を離れることを厳しく制止した。その時、辰政が進み出て、軍監に対し理路整然とこう弁じた。「忠継公は、母君が徳川家康公の娘君である、すなわち家康公のお孫にあたるお方。万が一、忠継公が討死するようなことになれば、それを見殺しにした軍監殿の罪は計り知れない。速やかに渡河し、お救いするのが筋でござる」 1

この気迫と論理に押され、利隆は渡河を敢行。池田の大軍が川を渡るのを見た豊臣方の軍勢は、戦わずして退却し、忠継は無事救出された。後にこの話を聞いた家康は、辰政の機転を褒め称え、一方で状況判断のできない軍監を厳しく叱責したという 1 。この逸話は、辰政が単なる猪武者ではなく、戦場の機微を読み、大局的な政治状況(忠継と家康の関係)までをも考慮に入れた上で、最善の行動を主君に進言できる、優れた知将であったことを如実に示している。

「備前の瀧川」の確立

大坂の陣における多大な戦功により、辰政はさらに千石を加増され、その知行は合計三千石に達した 1 。その後、池田家が姫路から備前岡山へと転封されるのに伴い、辰政も岡山藩士となる。藩内での彼の地位は、藩の常備兵力を率いる司令官クラスの重職である「番頭(ばんがしら)」であった 8

もはや戦乱のない泰平の世において、数々の修羅場をくぐり抜けてきた辰政の存在は、際立っていたようである。『岡山市史』には、当時の彼を評して「世俗備前藩に不相応なるものの一として数へたる所謂『備前の瀧川』は即ち此人なり」との記述が見られる 8 。これは、彼の持つ歴戦の武将としての凄みや存在感が、平和な備前藩においては良い意味で「規格外」であり、異彩を放っていたことを示す言葉である。単なる悪口ではなく、周囲からの畏敬の念が込められた、彼への最高の賛辞であったと言えよう。父・一益の没落から三十余年、辰政は自らの力で滝川家の名を再び高め、安住の地と確固たる地位を築き上げたのである。

第四章:泰平の世を生きて

栄誉の晩年と隠居

池田家が岡山に根を下ろして以降、辰政は藩の重臣として、三代藩主・池田光政の治世を支え続けた。かつて戦場を駆け巡った武将は、泰平の世においては藩政を支える重鎮として、その経験と知見を振るった。

慶安元年(1648年)、辰政は70歳を超えていた。主君・光政は、長年にわたる彼の功績を称え、「多年の功を賞す。致仕して老を楽しむべし」との温かい言葉と共に、隠居を命じた 1 。これは、主君からの解雇ではなく、功労者に対する最大級の栄誉と配慮であった。辰政はこれを受け、家督を子の宗次(むねつぐ)に譲り、穏やかな隠居生活に入った 1 。父・一益の悲劇的な晩年とは対照的に、辰政は主君から労われ、武士として最も名誉ある形でそのキャリアを締めくくることができたのである。

死没と子孫たちの軌跡

慶安5年(1652年)7月18日、滝川辰政は病によりその78年の生涯に幕を閉じた 1 。戦国乱世の始まりから江戸幕府の体制が盤石となるまで、二つの時代を生き抜いた大往生であった。

辰政が再興した滝川家は、その後も代々岡山藩の番頭格の重臣として続いた 6 。岡山大学付属図書館が所蔵する『岡山藩家中諸士家譜五音寄』や『岡山藩番頭家系譜』といった史料には、初代・出雲(辰政)から始まり、縫殿(ぬいの)、兵庫、帯刀(たてわき)といった通称を名乗る子孫たちが、幕末・明治維新に至るまで藩の要職を歴任した記録が残されている 8

特筆すべきは、この血脈から近代日本を代表する法学者が輩出されたことである。刑法学者で京都帝国大学総長を務めた瀧川幸辰(たきかわ ゆきとき)は、辰政の直系の子孫である 6 。彼は、1933年にその自由主義的な学説が原因で文部省から弾圧を受けた「滝川事件」において、権力に屈することなく抵抗した硬骨の学者として知られている。戦国武将・辰政が自らの知勇で確立した家の安泰と家格が、数世紀の時を経て、学問の世界で権威に抗する精神として結実したと見るのは、歴史の興味深い綾と言えるかもしれない。

墓所の謎

これほどの名声を残した辰政であるが、意外にもその墓所の所在を明確に伝える史料は現存していない 1 。主君である池田家の墓所は、備前市吉永町にある和意谷(わいだに)池田家墓所と、岡山市中区にある曹源寺(そうげんじ)の二箇所に大規模なものが存在する 32

岡山藩では、家老などの上級家臣は、自らの知行地内の寺院や、藩が定めた特定の墓域に葬られるのが通例であった 34 。三千石の番頭という高位にあった辰政も、岡山市内かその近郊の由緒ある寺院に手厚く葬られたと考えるのが自然であるが、現在のところ、その場所は特定されていない。この「墓所の不明」という事実は、滝川辰政という人物を巡る最後の謎として、今後の郷土史研究に一つの課題を投げかけている。

終章:滝川辰政という武将の評価

滝川辰政の生涯は、父・一益という偉大な存在の影に隠れがちであったが、その実像は、父とは異なる形で乱世を生き抜き、泰平の世に確固たる礎を築いた、知勇兼備の武将であった。彼は父の威光に頼るのではなく、むしろその没落という逆境をバネにして、自らの武勇(小田原、朝鮮、関ヶ原、大坂)と知略(秀秋からの脱出、軍監への弁舌)を武器に、自らの道を切り開いた。

彼の頻繁な主君遍歴は、現代的な価値観で見れば節操のない行動と映るかもしれない。しかし、それは能力主義が支配し、昨日の主君が明日の敵となる戦国の価値観の中では、自らの価値を最大化し、一族の存続を図るための極めて現実的な処世術であった。彼は織田家縁者から豊臣政権の中枢へ、そして天下分け目のキーマンを経て、最終的に徳川家に最も近い大大名である池田家にたどり着くという、明確な上昇志向のキャリアを歩んだ。そして、一度安住の地を得てからは、池田家に終生の忠誠を誓い、藩の重鎮として大往生を遂げたことで、その生涯は輝かしい成功譚として完結したと言える。

彼の人物像は、参照する史料によって異なる側面を見せる。『常山紀談』や『備前軍記』といった後世の軍記物語は、彼の華々しい武勇伝や機知に富んだ逸話を生き生きと描き出し、後世における英雄的なイメージを形成した 13 。一方で、『岡山藩家中諸士家譜』などの藩の公式記録は、三千石の番頭という、泰平の世の藩政機構を支える有能な官僚としての彼の「公的な顔」を淡々と伝えている 8

これら性質の異なる史料を突き合わせることで、戦場での華々しい活躍と、藩の重臣としての堅実な務めという、二つの顔を併せ持った立体的な滝川辰政像が浮かび上がってくる。彼は、戦国と江戸という二つの時代を繋ぐ過渡期を、自らの才覚一つで渡りきった、稀有な武将として評価されるべきであろう。

引用文献

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  2. 滝川一益(タキガワカズマス)とは? 意味や使い方 - コトバンク https://kotobank.jp/word/%E6%BB%9D%E5%B7%9D%E4%B8%80%E7%9B%8A-92857
  3. 滝川一益-歴史上の実力者/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/44324/
  4. 滝川一益の歴史 - 戦国武将一覧/ホームメイト - 刀剣ワールド https://www.touken-world.jp/tips/46490/
  5. 滝川一益(たきがわかずます) - 前橋市 https://www.city.maebashi.gunma.jp/soshiki/bunkasupotsukanko/bunkakokusai/gyomu/8/19885.html
  6. 滝川氏 - Wikipedia https://wikipedia.cfbx.jp/wiki/index.php/%E6%BB%9D%E5%B7%9D%E6%B0%8F
  7. 巧みな戦闘で伊勢の城主に君臨、滝川一益「戦国武将名鑑」 | Discover Japan https://discoverjapan-web.com/article/57701
  8. 戦国武将・滝川一益の子供が岡山藩にいたらしいが、それは誰か。また、その子孫は岡山に住み続けたのか。 | レファレンス協同データベース https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000247163&page=ref_view
  9. 滝川一忠 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%9D%E5%B7%9D%E4%B8%80%E5%BF%A0
  10. 滝川氏 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BB%9D%E5%B7%9D%E6%B0%8F
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  13. 続 戦国武将逸話集(オンデマンド版) [978-4-585-95442-2] - 勉誠社 https://bensei.jp/index.php?main_page=product_book_info&products_id=100898
  14. 「史料批判」を学ぶと、歴史の「真実」が見えてくる! 石濱ゼミ - Discover Waseda https://discover.w.waseda.jp/seminar/ishihama/
  15. 歴史史料とは何か|史料にみる日本の近代 - 国立国会図書館 https://www.ndl.go.jp/modern/guidance/whats01.html
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