戦国時代の駿河国に、その名を深く刻んだ一人の武将がいる。瀬名氏貞(せな うじさだ、明応6年(1497年) - 天文7年(1538年)) 1 。彼は、今川義元の家督相続を決定づけた「花倉の乱」において、勝利者側に立って戦功を挙げた今川家の重臣である。しかし、彼の歴史的重要性はそれだけに留まらない。彼は、後の天下人・徳川家康の最初の正室であり、嫡男・松平信康の母である築山殿(つきやまどの)の祖父にあたる人物なのである 2 。この一点だけでも、瀬名氏貞が今川家と徳川家という、戦国史の主役たちを結ぶ結節点に位置する、極めて重要な存在であったことが理解できよう。
彼の生涯は、戦国大名家臣団の中でも特権的な地位にあった「御一家衆」が、いかにして主家の動乱を乗り切り、自らの家を存続させ、そして発展させていったかを示す、格好の事例である 4 。その足跡は、単なる一武将の興亡史を超え、戦国時代の権力構造と社会の力学を解き明かす鍵を我々に提供してくれる。
本報告書では、瀬名氏貞個人の事績を丹念に追うことはもちろん、彼が属した「瀬名氏」の出自、彼が下した重大な政治的決断の背景、そして彼が残した血脈が後世に与えた深遠な影響について、史料批判に基づき徹底的に分析する。特に、江戸幕府が編纂した公式系譜である『寛政重修諸家譜』の記述を基軸としつつ 1 、近年の歴史学者・黒田基樹氏らによる実証的な研究成果を対比させることで、通説の再検討も行い、より多層的で深みのある瀬名氏貞像を提示することを目的とする 1 。
瀬名氏貞の生涯を理解するためには、まず彼がその二代目当主として継承した「瀬名氏」そのものの成り立ちを解き明かす必要がある。瀬名氏の権威と家格は、父である初代・瀬名一秀の時代に、今川家の歴史における極めて重大な局面で築かれたものであった。
瀬名氏の血統を遡ると、南北朝時代から室町時代初期にかけて、室町幕府の九州探題としてその武名と教養を天下に轟かせた名将・今川貞世(法名:了俊)に行き着く 8 。了俊は、今川氏の嫡流である駿河今川宗家の家督こそ継がなかったものの、分家として遠江国(現在の静岡県西部)に広大な所領を持つ一大勢力を築いた 4 。この了俊を祖とする家系は、本拠地である駿河国の今川宗家に対し、「遠江今川氏」と称される。
しかし、この遠江今川氏は、応永の乱における懲罰的な措置として、幕府から一時的に「今川」の姓を名乗ることを禁じられるという屈辱を味わう 11 。これにより、一族は所領のあった遠江国堀越郷(現在の静岡県袋井市)にちなんで「堀越氏」を名乗ることとなった 12 。この改姓は、駿河今川宗家との明確な区別を示すものであり、遠江今川氏が宗家とは異なる独自の道を歩み始めたことを物語っている。
瀬名氏貞の父である瀬名一秀(せな かずひで、初名は義秀、諱は「弌秀」とも記される)は、この遠江今川氏(堀越氏)の6代当主・今川貞延の長男として生を受けた 10 。彼は、一族の運命を、そして今川家全体の未来をも左右する歴史的な転換点において、決定的な役割を果たすことになる。
文明8年(1476年)、駿河今川氏の当主であった今川義忠が、遠江国での戦いの最中に不慮の死を遂げた 13 。義忠の嫡男・龍王丸(後の今川氏親)はまだ幼く、この機に乗じて一門の小鹿範満が家督を狙い、今川家中は二派に分裂して内乱状態に陥ったのである 5 。この今川宗家存亡の危機に際し、遠江から駆けつけて幼い龍王丸を後見役として支え、その家督相続を成功に導いた中心人物こそ、瀬名一秀であった 5 。
一秀のこの功績は絶大であった。家督を継いだ今川氏親は、後見役として尽力した一秀に対し、今川家の本拠地である駿府の目と鼻の先にある駿河国庵原郡瀬名村(現在の静岡市葵区瀬名)を恩賞として与えた 8 。一秀はこの地に移り住み、地名を自らの新たな姓として「瀬名一秀」と名乗った。ここに、瀬名氏の歴史が幕を開けるのである 5 。
この一連の出来事は、単に新たな名字が生まれたという以上の意味を持っていた。主家の最大の危機を救った一秀とその一族は、今川家の家臣団の中で別格の扱いを受けることになった。それが「御一家衆(ごいっかしゅう)」という地位である 4 。御一家衆とは、主君の親族に準じる最上位の家格を意味し、他の譜代重臣たちとは明確に一線を画す特権的な存在であった 17 。
瀬名氏の権威と影響力の源泉は、単に名将・今川了俊の末裔という高貴な血統だけに由来するものではない。それ以上に、父・一秀が今川宗家の家督相続という最大の危機において、命を賭して正統な後継者である氏親を支え抜いたという、比類なき「政治的功績」にこそあった。この主家に対する絶大な「恩」が、一族に「御一家衆」という特権的地位をもたらし、その後の瀬名家の栄達と、息子・氏貞の行動原理を決定づける強固な基盤となったのである。この「宗家への忠誠」こそが、瀬名家の家風そのものとなったと言えよう。
父・一秀が築いた盤石な基盤の上に、瀬名氏貞は瀬名家の二代目当主として登場する。彼の生涯は、父が確立した「御一家衆」としての地位を確固たるものにし、今川家の政治の中枢で重要な役割を担うものであった。
瀬名氏貞は、明応6年(1497年)に瀬名一秀の長男として生まれた 1 。通称は源五郎を名乗り、官位は従五位下、陸奥守に叙せられている 1 。彼は父の跡を継ぎ、今川氏親、そしてその子である氏輝、義元の三代にわたって仕えた。
天文7年(1538年)3月16日、氏貞は42歳という若さでその生涯を閉じた 1 。彼の死後、「松寿院殿玉山椿公大禅定門(しょうじゅいんでんぎょくさんちんこうだいぜんじょうもん)」という戒名が贈られ、その亡骸は本拠地である静岡市葵区瀬名に建立された菩提寺・松寿院に葬られた 1 。
氏貞のキャリアは、遠江国の要衝である二俣城(現在の浜松市天竜区)の城主として始まったことが記録されている 1 。二俣城は、父・一秀も在城したことがある城であり 10 、遠江における瀬名氏の軍事的・経済的基盤を示す重要な拠点であった。遠江は、隣国の三河や尾張に対する最前線であり、また長年対立してきた斯波氏との係争地でもあった。氏貞がこの重要拠点を任されていたことは、彼が今川家の武将として高い評価を受けていたことを物語っている。
その後、氏貞は父と同様に本拠を駿河国の瀬名村へと移す 1 。この移転は、単なる居城の変更ではない。それは、彼の役割が遠江における前線の司令官から、今川家の本拠地・駿府における政治の中枢を担う側近へと移行したことを示唆している。彼のキャリアは、「遠江における在地領主」としての側面と、「駿河における今川宗家の側近」という二つの側面を併せ持っていた。この権力基盤の二重性こそが、彼の政治的立場を特徴づけるものであり、後の重大な局面で彼に複雑な立ち位置を強いることになる。
氏貞は、堀越貞基の娘を正室に迎えている 1 。前述の通り、堀越氏は瀬名氏と同じく今川了俊を祖とする同族であり、この婚姻は遠江今川一門内の結束を強化し、その勢力を安定させるための政略的な意味合いが強かったと考えられる 12 。しかし、この血縁による固い絆は、皮肉にも、後に今川家の命運を揺るがす内乱において、氏貞に極めて困難な選択を迫る伏線となるのであった。
天文5年(1536年)、瀬名氏貞の生涯において、そして今川家の歴史において、最大の転機が訪れる。世に言う「花倉の乱」である。この家督相続を巡る内乱において、氏貞が下した決断は、彼の家、そして今川家の未来を決定づけるものであった。
この年、今川家の当主であった今川氏輝と、その弟で家督継承権を持っていた彦五郎が、奇しくも同日に急死するという異常事態が発生した 4 。氏輝に子がいなかったため、家督の座は、すでに出家していた二人の弟に委ねられることになった。
一人は、玄広恵探(げんこうえたん)。彼は氏親の側室の子であり、今川家の重臣である福島氏一族に擁立され、家督継承に名乗りを上げた 21 。もう一人が、栴岳承芳(せんがくじょうほう)、後の今川義元である。彼は氏親の正室・寿桂尼の子であり、名軍師として名高い太原雪斎が補佐役として付いていた正統な後継者候補であった 22 。両者の対立は避けられず、今川領国は再び内乱の渦に巻き込まれた。
この存亡の危機において、瀬名氏貞の動向は衆目の集まるところとなった。彼は、一貫して栴岳承芳(義元)方に与し、その勝利のために戦ったことが明確に記録されている 1 。この決断は、ある意味で必然であった。瀬名氏は、父・一秀が今川宗家の正統な後継者である氏親を支持したことで、その地位と家格を築き上げた家である。氏貞にとって、正室の子である承芳を支持することは、父の成功体験をなぞるものであり、瀬名家の伝統と利益に完全に合致する、いわば「家訓」に則った行動であった。
しかし、この決断は氏貞に過酷な試練を課した。彼の妻の実家である堀越氏、すなわち舅の堀越貞基とその一族は、敵対する玄広恵探の側に加担したのである 12 。同族であり、かつ姻戚関係にあった堀越氏がなぜ恵探を支持したのか、その明確な理由は史料に残されていない。しかし、遠江における独自の勢力維持を画策したことや、恵探を擁立する福島氏との連携、あるいは義元の後見人である太原雪斎ら駿河中心の政治体制への反発などが背景にあったと推測される 25 。
結果として、氏貞は自らの妻の実家と戦場で相まみえるという、非情な状況に立たされた。彼の選択は、個人的な感情や血縁よりも、「家」の存続と発展を最優先する戦国武将の冷徹なリアリズムの表れであった。彼の忠誠の対象は、堀越氏という「姻戚」ではなく、瀬名家の地位を保証してくれる「今川宗家の正統性」そのものであったのだ。
乱は承芳(義元)方の圧勝に終わり、玄広恵探は自害、彼を支持した福島氏や堀越氏は没落した 12 。この勝利により、瀬名氏の今川家中における地位は、ライバルであった同族の堀越氏が脱落したことも相まって、より一層強固で揺るぎないものとなった 26 。この決断こそが、瀬名家を勝利者側に立たせ、結果的に徳川の世まで続く名門としての礎を完全に築き上げたのである。
花倉の乱を乗り越え、今川義元政権の樹立に貢献した氏貞であったが、その後の人生は決して長くはなかった。しかし、短い期間の中にも、彼は領主としての確かな足跡を残している。
氏貞は、武将としてだけでなく、本拠地である瀬名郷の領主としても地域社会の安定に心を砕いていたことがうかがえる。彼の領主としての活動は、単なる信仰心の発露に留まらない。それは、父・一秀から受け継いだ瀬名郷という新たな本拠地に、一族の権威を深く根付かせ、地域社会との結びつきを強化するための、巧みな「拠点形成事業」の一環であった。
その代表的な例が、大永8年(1528年)に瀬名郷の利倉神社を創建したという伝承である 5 。神社の建立は、地域の安寧と五穀豊穣を祈願する領主の重要な務めであり、民心掌握の要であった。また、それに先立つ大永5年(1525年)には、遠江国蒲東方(現在の浜松市)にある竜泉寺に土地を寄進した記録も残っており、彼の支配が広範囲に及び、寺社勢力との関係構築にも意を払っていたことがわかる 27 。
しかし、花倉の乱からわずか2年後の天文7年(1538年)、氏貞は42歳という若さで、志半ばにしてこの世を去った 1 。
彼の菩提寺は、瀬名にある曹洞宗の寺院、松寿院である 1 。この松寿院は、父・一秀の菩提寺である光鏡院、そして後に息子の氏俊の妻(今川義元の妹)の菩提寺となる龍泉院と共に、瀬名郷の一角に「瀬名一族菩提寺群」を形成している 5 。これらの寺院が近接して存在することは、瀬名氏が計画的にこの地を一族の「聖地」として整備し、その支配の永続性を内外に示そうとした強い意志の表れである。氏貞の墓所は、彼が築いた領地経営の成果と、一族の権威を象徴するモニュメントとして、今も静かにその地を見守っている。
瀬名氏貞は若くして世を去ったが、彼が残した血脈と、彼が築き上げた「家」の地位は、その後の戦国史に大きな影響を及ぼしていく。特に彼の子女たちの婚姻や養子縁組は、今川家の家臣団統制と権力構造の維持に深く関わり、やがては徳川家康の登場へと繋がる伏線となっていく。
瀬名氏貞の子女たちの動向は、戦国大名家において「婚姻」と「養子縁組」がいかに重要な政治的・戦略的ツールであったかを如実に示している。それは、瀬名家という一つの「家」だけでなく、今川氏という大名家全体の家臣団統制と権力構造の維持に貢献する、高度な家門維持戦略の一環であった。
氏貞の跡を継いだのは、嫡男の氏俊(うじとし、永正17年(1520年)生まれ)である 28 。彼は瀬名氏の3代当主として、父が築いた地位をさらに高めることに成功した。その最大の要因は、彼の婚姻にあった。氏俊は、今川氏の当主・今川氏親の娘、すなわち今川義元の姉または妹を正室として迎えたのである 28 。
この婚姻は、父・氏貞が花倉の乱で義元を勝利に導いた功績に対する、最大の恩賞であったと解釈できる。これにより、瀬名氏は今川宗家と極めて緊密な姻戚関係を結ぶことになり、「御一家衆」の中でも筆頭格の地位を確立した。嫡男が主家の姫を娶ることで、瀬名家は今川家との一体化を内外に示し、その求心力を飛躍的に高めたのである。
氏貞の次男であった義広(よしひろ、通称:助五郎)は、瀬名氏ではなく、同じく今川氏の御一家衆である「関口氏」の家名を継ぐことになった 28 。これは、関口家の家督を継ぐべき嫡男が早世し、家が断絶の危機に瀕したためであった 31 。
今川家にとって、御一家衆という重要な家臣の家系が途絶えることは、家臣団の動揺を招き、権力基盤を揺るがしかねない重大事であった。そこで、同格の家柄である瀬名氏から次男の義広を婿養子として迎え入れ、関口家を存続させるという措置が取られたのである 31 。これは、今川家による高度な人事政策の一環であり、義広は関口家の家督を継ぎ、「関口氏純(うじずみ)」と名乗った。そして、この関口氏純こそが、後に徳川家康の正室となる築山殿の父である 30 。
江戸時代の系譜『寛政重修諸家譜』によれば、氏貞には三男・氏次(うじつぐ)と、一人の娘がいたとされる 1 。ただし、氏次の存在は、より同時代に近い史料である『土佐国蠧簡集残篇』所収の「今川系図」では確認できず、その実在性については慎重な検討が必要である 1 。
娘については、武田左衛門尉という人物に嫁いだことが記録されている 1 。また、別の研究では、かつて今川家の内紛で滅んだ小鹿氏の一族の妻となった可能性も指摘されている 1 。これらの婚姻は、今川家臣団内での勢力均衡を保ち、政治的な安定を図るための政略結婚であった可能性が高い。
このように、氏貞の子女たちは、今川家の婚姻・養子政策の重要な駒として機能した。これは、氏貞の代までに築かれた瀬名家の高い家格と、今川宗家からの厚い信頼を何よりも雄弁に物語っている。
表1:瀬名氏・関口氏関連主要系図
世代 |
遠江今川(堀越)氏 |
瀬名氏 |
関口氏 |
徳川氏 |
祖 |
今川貞世(了俊) |
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高祖父 |
今川貞延 |
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曽祖父 |
瀬名一秀(貞延の長男) |
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堀越貞基(貞延の次男) |
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祖父 |
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瀬名氏貞 |
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親 |
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妻:堀越貞基の娘 |
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嫡男:瀬名氏俊 + 妻:今川氏親の娘 |
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次男: 関口氏純 (義広) |
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妻:関口刑部少輔の娘(黒田説) |
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本人 |
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娘: 築山殿 (瀬名姫) |
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夫: 徳川家康 |
子 |
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嫡男:松平信康 |
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長女:亀姫 |
注:本表は主要な人物の関係性を示すために簡略化している。 |
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瀬名氏貞が歴史の表舞台で果たした最大の役割は、彼自身が意図したものではなく、彼の死後にその血脈を通じて実現された。それは、孫娘である築山殿が徳川家康の正室となったことである。この一点において、氏貞は今川と徳川、そして織田をも巻き込む、戦国史の大きな渦の中心にその系譜を刻み込むことになった。
氏貞の次男・関口氏純の娘として、後の築山殿が誕生する 30 。彼女が「瀬名姫」の通称で呼ばれることがあるのは、父・氏純が養子先の関口家に入る前、一時的に実家である瀬名の館に住んでいた際に生まれたため、という説が有力である 30 。彼女は、今川家の人質として駿府にいた松平元康(後の徳川家康)に嫁ぎ、その最初の正室となった。そして、徳川家の後継者となる嫡男・松平信康と、長女・亀姫を産むのである 30 。これにより、瀬名氏貞は家康の義理の祖父、信康の曾祖父という立場になった。
家康と築山殿の結婚は、長らく今川家による松平家支配を盤石にするための政略結婚とされてきた。その根拠とされてきたのが、築山殿の母(関口氏純の妻)が今川義元の妹、あるいは伯母であるという通説である 2 。この説に従えば、築山殿は義元の姪にあたり、家康は今川宗家と極めて近い姻戚関係を結んだことになる。
しかし近年、歴史学者の黒田基樹氏はこの通説に対して、史料に基づいた有力な反論を提示している。
第一に、今川氏親の娘で、同時代の史料から実在が確認できる人物たちの嫁ぎ先を詳細に検討すると、関口氏純の妻に該当する人物が見当たらない 33。
第二に、氏純の実兄である瀬名氏俊が今川氏親の娘を娶っているという明確な記録があり 28、これが弟である氏純の妻の話と混同された可能性が非常に高い 28。
第三に、氏純は関口家の婿養子であった可能性が高く、その場合、彼の妻は養父である関口刑部少輔の娘、すなわち関口氏の出身と考えるのが最も合理的である、というものである 31。
黒田氏の新説が正しければ、築山殿は今川宗家の直接の血縁者ではないことになる。しかし、だからといって彼女の価値が下がるわけではない。むしろ、この説は瀬名氏貞が築き上げた「家格」の重要性をより一層際立たせる。
今川義元が、従属国衆である松平家の若き当主に与える妻として、自らの姪(血縁者)ではなくとも、家臣団のトップに君臨する「御一家衆」筆頭格の瀬名氏の血を引く父と、同じく「御一家衆」である関口氏の血を引く母の間に生まれた、極めて家格の高い女性を選んだという事実は、その政治的意味合いを十分に満たすものであった。
この高貴な家格の源流を辿れば、それは関口氏純の父、すなわち瀬名氏貞に行き着く。氏貞が花倉の乱で正しい側に賭けて勝利し、今川家における瀬名家の地位を不動のものとしたこと、そしてその父・一秀が今川宗家の危機を救った功績があったからこそ、この婚姻は成立し得た。瀬名氏貞の生涯の成功が、彼が築き上げた「家格」という無形の資産となり、彼の死後も子や孫の代にまで絶大な影響力を持ち続けたのである。彼は、意図せずして後の天下人・徳川家康の家族形成に深く関与し、歴史の大きな転換点にその血脈を刻み込む、重要な橋渡し役となったのだ。
瀬名氏貞という武将を歴史の中に位置づけるとき、我々は三つの重要な側面から彼を評価することができる。
第一に、今川家の家臣団における彼の役割である。彼は単なる一武将に留まらず、主家の家督相続という内乱の危機において、的確な政治判断を下し、自らの家を勝利に導いた優れた政治家であった。彼の花倉の乱における選択は、今川義元体制の安定に大きく貢献し、その後の今川家の黄金期を支える礎の一つとなった。
第二に、戦国時代を生き抜いた一族の戦略家としての側面である。瀬名氏の歴史は、武力のみならず、主家への揺るぎない忠誠、的確な情報収集と情勢判断、そして戦略的な婚姻政策といった、あらゆる手段を駆使して乱世を生き抜いた、戦国期における一つの典型的な成功モデルを示している。氏貞は、父・一秀が築いた基盤を継承し、それをさらに強固なものとして次代に引き継いだ、優れた当主であった。
そして第三に、徳川の世へと繋がる歴史の結節点としての役割である。氏貞自身は、徳川家康と直接的な関わりを持つことなく、その台頭を見ることなく世を去った。しかし、彼が築き上げた高い家格と、彼が残した血脈は、孫娘・築山殿を介して徳川家と深く結びつき、結果として日本の歴史に大きな影響を残すことになった。彼は、自覚することなく、今川の時代から徳川の時代へと歴史の橋を渡す、重要な役割を担った人物であったと言えるだろう。その名は、戦国史の主役たちの影に隠れがちであるが、その存在なくして後の歴史は語れない、まさに「狭間に立つ」重要な武将として、再評価されるべきである。