日本の戦国時代、数多の武将が己の武と智を頼りに、激動の世を駆け抜けた。その中にあって、安芸国(現在の広島県西部)の一国人領主から、中国地方の覇者・毛利氏の重臣へとその地位を昇らせ、一門衆として破格の待遇を受けた人物がいる。本報告書の主題である熊谷信直(くまがい のぶなお、1507年 - 1593年)その人である 1 。
信直の生涯は、劇的な変転に満ちている。父を毛利元就との戦で失いながらも、後にその仇である元就に仕え、さらには自らの娘を元就の次男・吉川元春に嫁がせるという大胆な決断を下した 4 。この決断は、単なる保身や寝返りといった言葉では片付けられない、戦国乱世を生き抜くための高度な生存戦略であった。彼の人生は、当時の国人領主が直面した主従関係の流動性、勢力均衡の変化、そして家の存続を賭けた婚姻政策の重要性を、まさしく体現している。
本報告書では、熊谷信直の87年間にわたる生涯を時系列に沿って詳細に追う。その出自と試練の始まりから、主家・安芸武田氏との決別、父の仇であった毛利氏への帰属、そして毛利両川の一翼を担う吉川軍の先鋒として戦功を重ね、国人領主として最高の知行を得るに至る過程を明らかにする。さらに、晩年に嫡孫へ宛てて記した遺言状を深く分析し、彼の行動原理と、彼が生涯をかけて築き上げたものの本質に迫る。これにより、信直が単なる勇猛な武将に留まらず、時代の潮流を読み、自家の未来を切り拓いた優れた戦略家であったことを論証するものである。
西暦(和暦) |
信直の年齢 |
主な出来事 |
関連人物 |
典拠 |
1507年(永正4年) |
1歳 |
安芸国の国人領主・熊谷元直の嫡男として誕生。 |
熊谷元直 |
1 |
1517年(永正14年) |
11歳 |
有田中井手の戦いで父・元直が毛利元就軍に討たれ戦死。家督を相続。 |
熊谷元直、武田元繁、毛利元就 |
3 |
1533年(天文2年) |
27歳 |
主家・安芸武田氏と対立。横川表の戦いで武田光和軍を撃退し、離反が決定的に。 |
武田光和、伴繁清 |
3 |
1541年(天文10年) |
35歳 |
毛利元就の指揮下で、旧主・安芸武田氏の本拠・佐東銀山城を攻略。武田氏滅亡。 |
毛利元就 |
9 |
1547年(天文16年) |
41歳 |
娘(新庄局)が毛利元就の次男・吉川元春に嫁ぐ。毛利一門衆となる。 |
吉川元春、毛利元就、新庄局 |
4 |
1555年(天文24年) |
49歳 |
厳島の戦い。宮尾城に籠城し、毛利本隊の奇襲に呼応して陶晴賢軍を撃破。 |
毛利元就、陶晴賢 |
9 |
1555年- |
49歳- |
防長経略、対尼子氏戦など、吉川軍の先鋒として各地を転戦。軍功により知行1万6千石を得る。 |
吉川元春 |
4 |
1579年(天正7年) |
73歳 |
嫡男・高直が病死。嫡孫・元直の後見役となる。 |
熊谷高直、熊谷元直 |
9 |
1586年(天正14年) |
80歳 |
娘婿・吉川元春が病死。 |
吉川元春 |
9 |
1593年(文禄2年) |
87歳 |
4月、出征中の嫡孫・元直に遺言状を記す。5月26日、病没。 |
熊谷元直 |
3 |
熊谷信直の生涯を理解する上で、その出自と、彼が家督を継いだ当時の安芸国が置かれた状況を把握することは不可欠である。彼は名門の血を引く一方で、幼くして父を失うという大きな試練に直面した。
熊谷氏の祖は、平安時代末期の武将として名高い熊谷次郎直実(1141年 - 1207年)に遡る 4 。直実は源平合戦における一ノ谷の戦いで平敦盛を討った逸話で知られ、武勇の象徴として後世に語り継がれた人物である。ただし、本報告書の主題である戦国期の信直(1507年 - 1593年)は、その子孫ではあるものの、同姓同名の別人であり、混同してはならない 2 。
安芸熊谷氏の直接の祖となったのは、直実の曾孫にあたる熊谷直時である。直時は鎌倉時代の承久3年(1221年)に勃発した承久の乱において、幕府方として戦功を挙げた。その恩賞として安芸国三入荘(みいりのしょう、現在の広島市安佐北区可部町周辺)の地頭職を与えられ、一族を率いて本拠地の武蔵国熊谷郷からこの地に移住した 14 。これが安芸国人・熊谷氏の始まりである。
以後、熊谷氏は三入荘に伊勢ヶ坪城、後に三入高松城を築いて本拠とし、代々この地を治めた 7 。室町時代を通じて、安芸国の分郡守護であった武田氏の旗下に入り、その有力な被官として勢力を保持していた 4 。信直に至るまでの系譜は、直時から直高、直満、直経、宗直、在直、信直(在直の子)、堅直、宗直(堅直の子)、膳直、そして信直の父・元直へと続いている 14 。
Mermaidによる関係図
信直の運命を大きく左右する最初の出来事は、永正14年(1517年)10月に起こった。当時、安芸国では守護の武田氏と、新興勢力である毛利氏との間で緊張が高まっていた。熊谷氏の当主であり信直の父であった熊谷元直は、主君・武田元繁に従い、毛利領の有田城を攻撃した(有田中井手の戦い) 6 。
この戦いで、猛将として知られた元直は武田軍の先鋒を務め、毛利元就の軍勢と激しく衝突した 6 。しかし、元就の巧みな用兵の前に武田軍は苦戦し、元直は奮戦の末に討ち死を遂げた 3 。この時、総大将の武田元繁も戦死し、武田氏にとっては壊滅的な敗北となった。信直はこの時わずか11歳であった 3 。
父の死は、幼い信直にとって計り知れない衝撃であったに違いない。後世の伝承によれば、元直の妻(信直の母)は、夫の亡骸から片腕を持ち帰り、居館のそばにある池でその血を洗い清めたとされ、この池は「血洗いの池」として今に伝わっている 13 。このような悲劇的な逸話は、父の死が熊谷家にとってどれほど痛切な出来事であったかを物語っている。
父の死により、11歳にして家督を相続した信直は、極めて困難な状況に立たされた。一方には主家でありながらこの戦で大敗し権威に陰りが見え始めた武田氏、もう一方には父を討った仇でありながら勢いを増す毛利氏。この二大勢力に挟まれ、幼い当主は一族の存亡をその双肩に担うことになったのである。
この父・元直の戦死は、単なる個人的な悲劇に留まらなかった。それは、熊谷氏と武田氏の間に、目には見えない亀裂を生じさせる遠因となった。武田氏への忠誠心に厚い元直という重石がなくなったことで、次代の信直は、より現実的な利害に基づいた外交政策をとる余地を得た。武田氏がこの戦いで弱体化したことは、相対的に熊谷氏のような有力国人の自立性を高める結果にも繋がった。したがって、父の死という悲劇は、皮肉にも、後の信直による「武田離反」という大胆な決断を可能にする、長期的な土壌を形成したと分析できる。
家督を継いだ信直は、当初は父の跡を継ぎ、安芸武田氏の当主となった武田光和に仕えた。しかし、両者の関係は次第に悪化し、ついに決定的な決裂へと至る。この決別は、信直の生涯における最初の大きな転換点であった。
信直と主君・武田光和の間に生じた不和は、単一の事件によるものではなく、複数の要因が複雑に絡み合った結果であった。
第一に、信直の妹をめぐる問題がある。信直の妹は武田光和の側室として嫁いでいたが、後に離縁されて実家に戻された。信直はこれに憤慨するどころか、復縁を求める光和の意向を無視し、妹を別の国人領主である三須房清に嫁がせた 4 。これは主君の顔に泥を塗る行為であり、両者の信頼関係が既に崩壊していたことを如実に示している。
第二に、所領をめぐる対立である。信直は、同じ武田家臣であった可部城主・山中成祐を圧迫し、ついにはこれを討ち取ってその所領を横領した 4 。さらに、それに乗じて武田氏の所領の一部も密かに自らのものにしていたとされる 6 。これは、武田氏の統制力が低下していることを見越した、信直の野心的な勢力拡大行動であった。
そして第三に、背後で糸を引く毛利元就の存在である。当時、安芸国内での影響力拡大を狙う元就は、大内氏の威光を背景に、武田氏の有力家臣である信直に接近していた。山中氏の所領奪取も、元就が信直に「討ち取って所領としても構わない」とそそのかした結果であったという 6 。信直の行動は、単独の暴走ではなく、安芸国をめぐる大内・毛利対武田という、より大きな政治的対立の構図の中で行われていたのである。
これらの度重なる信直の挑発的行動に対し、武田光和の怒りは頂点に達した。天文2年(1533年)8月10日、光和は信直討伐のため、重臣の伴繁清を総大将とする1000余りの軍勢を派遣し、熊谷氏の本拠・三入高松城へと進軍させた 3 。
これに対し、信直はわずか300余りの兵で迎え撃つ。彼はあらかじめ城下の大手口にあたる横川表に三重の柵を巡らすなど周到な準備を整えていた 8 。そして、柵の外におびき寄せた武田軍を巧みな戦術で翻弄し、これを撃退した。この戦いで武田軍は総大将の伴繁清が負傷するほどの損害を被り、撤退を余儀なくされた 3 。
この「横川表の戦い」における勝利は、信直の武将としての名を大いに高めると同時に、主家・武田氏からの完全な離反を決定的なものにした 7 。もはや両者の関係修復は不可能となり、信直は公然と毛利氏との連携を深めていくことになる。
信直の武田離反は、単なる裏切り行為としてではなく、戦国国人領主の「自立」への志向の表れと捉えるべきである。主家の権威が衰え、自家の存続と利益が脅かされると判断した時、旧来の主従関係に固執せず、実力で自らの道を切り拓く。これは、下剋上が常であった戦国時代の国人領主の典型的な行動様式であった。武田氏の統制力が低下した機を捉え、信直は軍事力をもってその支配から脱し、事実上の独立を果たした。その上で、将来性のある毛利氏と結ぶことは、独立を維持し、さらなる発展を目指すための最も合理的な選択だったのである。父の仇という感情は、家の存続という、より大きな現実的利益の前では二次的な問題とされたのであった。
武田氏と袂を分かった信直は、毛利氏の有力な協力者として活動を開始する。天文3年(1534年)には、元就の指示により備後国へ出陣するなど、毛利軍の一翼を担うようになった 9 。
そして天文10年(1541年)、毛利元就が安芸武田氏の完全な排除に乗り出すと、信直もその軍に加わった。彼は元就の命令に従い、かつての主君の本拠であった佐東銀山城を攻撃し、その滅亡に直接手を貸したのである 9 。父・元直が忠義を尽くした主家を、その息子である信直が滅ぼす。この一事をもってしても、戦国という時代の非情さと、信直の現実主義的な生き様がうかがえる。
旧主・武田氏を滅ぼし、その支配から完全に脱した熊谷信直は、新たな主君として毛利元就を選んだ。この選択は、彼のその後の運命を決定づけるだけでなく、熊谷家を安芸国の一国人から、中国地方に覇を唱える毛利家の中枢を担う一族へと飛躍させる契機となった。その鍵となったのが、娘と吉川元春との戦略的婚姻であった。
武田氏滅亡後、信直は正式に毛利氏の家臣団に組み込まれた。毛利元就は、横川表の戦いなどで示された信直の卓越した武勇と、彼が率いる熊谷一族の軍事力を高く評価しており、積極的に味方に引き入れようと動いた 5 。
元就は、信直の帰順を確固たるものにするため、実利をもって応えた。天文10年(1541年)、吉田郡山城の戦いで信直が尼子氏の誘いを断って毛利方についた功績への恩賞として、元就は大内義隆に働きかけ、かつて熊谷氏が領有していた可部の地などを信直に与えた 9 。これにより、両者の主従関係は、単なる盟約から、具体的な御恩と奉公の関係へと深化していった。
信直と熊谷家の地位を決定的に高めたのが、天文16年(1547年)に成立した、信直の娘(後の新庄局)と毛利元就の次男・吉川元春との婚姻である 4 。
この縁談は、驚くべきことに、当時18歳の吉川元春自身が強く望んだものと伝えられている 10 。『陰徳太平記』などの軍記物によれば、元春は家臣に対し、「安芸国において、熊谷信直に勝る侍大将はいない。彼の娘を私が娶れば、信直は私の志を感じ、命を懸けて力を尽くしてくれるだろう。信直を先鋒とすれば、いかなる強敵も恐るるに足らない。これは父(元就)への孝行であり、我が身を立てる道でもある」と語ったという 25 。これは、この婚姻が極めて高度な政略的、軍事的意図に基づいていたことを示している。
この婚姻をめぐっては、信直の娘が大変な「醜女(しこめ)」であったという逸話が有名である 25 。しかし、この説にはいくつかの疑問点も指摘されている。一説には、彼女は天然痘(疱瘡)を患い、顔に痕が残っていたためとも言われる 25 。一方で、彼女の叔母にあたる信直の妹は絶世の美女と評判であったことから、血縁的にそれほどの器量の差があったのかという疑問もある 25 。この「醜女説」は、娘の容姿を度外視してでも信直との結びつきを求めた元春の器量の大きさや、戦略眼の鋭さを強調するために、後世に創作・誇張された可能性も否定できない。事実、元春は生涯にわたって側室を一人も持たず、新庄局との間に4男2女をもうけるなど、夫婦仲は円満であったと伝えられている 23 。
この婚姻がもたらした影響は絶大であった。信直は、毛利宗家の次男を婿に迎えたことで、単なる家臣から、毛利宗家と姻戚関係にある「一門衆」という特別な地位へと昇格した。これは、後の彼の破格の待遇、すなわち国人領主として最高額の知行を得ることに直結する、決定的な要因となったのである。
この婚姻は、熊谷氏と毛利氏の関係を、単なる「主君と家臣」という契約的な関係から、利害と血縁を共にする「運命共同体」へと昇華させた。元就・元春父子にとって、この婚姻は、毛利家の勢力拡大戦略の要であった「毛利両川体制」を盤石にするための深謀遠慮の一手であった。当時、吉川家の家督を継いだ元春は、山陰地方の攻略を担当する方面軍司令官としての役割が期待されていた。その軍団の中核として、勇猛であると同時に、絶対に裏切らない信頼できる武将が必要不可欠であった。元春は、安芸国で最も武勇に優れた信直に白羽の矢を立て、彼を単なる部下ではなく「義父」とすることで、その絶対的な忠誠心を引き出すことに成功した。この強固な絆こそが、後の吉川軍団の圧倒的な強さの源泉となったのである。
吉川元春の義父となり、毛利一門衆としての地位を確立した熊谷信直は、その武勇を存分に発揮する舞台を得た。以後、彼は娘婿である元春が率いる吉川軍の常に先鋒を務め、毛利氏の中国地方統一事業の最前線で戦い続けた。その軍功は、彼に破格の恩賞をもたらすことになる。
毛利氏の存亡と、その後の飛躍を決定づけた天文24年(1555年)の厳島の戦いにおいて、信直は極めて重要な役割を果たした。
この年、大内義隆を討って実権を握った陶晴賢は、2万ともいわれる大軍を率いて厳島に上陸し、毛利方が築いた宮尾城を包囲した。城兵はわずかであり、落城は時間の問題と見られていた。この絶体絶命の状況下で、信直は嫡男の高直をはじめとする4人の息子たちと共に兵を率い、包囲をかいくぐって宮尾城への入城に成功した 9 。彼の援軍は、籠城する将兵の士気を大いに高め、元就の本隊が到着するまでの貴重な時間を稼いだ。
そして同年10月1日未明、暴風雨に乗じて元就率いる本隊が陶軍の背後を奇襲すると、信直はこれに呼応して城内から打って出た。内外からの同時攻撃を受けた陶軍は大混乱に陥り、壊滅。総大将の陶晴賢は自刃に追い込まれた 9 。この歴史的な勝利において、宮尾城を守り抜き、反撃の口火を切った信直の功績は計り知れないものであった。
厳島の戦いの勝利後、毛利氏は勢いに乗って大内氏の領国である周防・長門への侵攻(防長経略)を開始する。この戦いにおいても、信直は吉川軍の先鋒として、岩国へ進出して杉隆泰の鞍掛山城を攻略するなど、各地で武功を重ねた 9 。
その後も、信直の戦いは続いた。毛利氏の次なる標的は、長年の宿敵であった出雲の尼子氏であった。永禄年間に行われた月山富田城の攻略戦をはじめとする山陰地方の平定事業において、信直は常に吉川軍の主力として最前線に立ち、尼子方の抵抗を打ち砕いていった 5 。
舅である信直が常に先鋒として勇猛果敢に戦うことで、大将である娘婿・元春の武名もまた、いや増して高まっていった。信直は元春という最高の指揮官の下でその武勇を存分に発揮し、元春は信直という最も信頼できる猛将を先鋒に置くことで常勝軍団を築き上げた。この「最高の先鋒」と「最高の司令官」という相互依存関係こそが、毛利氏の勢力拡大を支えた「毛利両川」の一翼、吉川軍団の強さの根幹をなしていたのである。
年号 |
合戦名 |
対戦相手 |
信直の役割・功績 |
典拠 |
天文2年 (1533) |
横川表の戦い |
安芸武田軍(伴繁清) |
総大将として300の兵で武田軍1000を撃退。主家からの自立を果たす。 |
3 |
天文10年 (1541) |
佐東銀山城の戦い |
安芸武田軍(武田信実) |
毛利軍の一員として旧主・武田氏を攻撃し、滅亡させる。 |
9 |
天文24年 (1555) |
厳島の戦い |
大内・陶軍(陶晴賢) |
息子らと宮尾城に入り籠城。元就の奇襲に呼応し城から出撃、勝利に貢献。 |
9 |
弘治元年-3年 (1555-57) |
防長経略 |
大内氏残党 |
吉川軍の先鋒として周防・長門の各地を転戦し、大内氏領の平定に貢献。 |
9 |
永禄5年-9年 (1562-66) |
第二次月山富田城の戦い |
尼子軍 |
吉川軍の主力として出雲に長期出陣。尼子氏の滅亡に貢献。 |
5 |
天正6年 (1578) |
上月城の戦い |
織田軍(羽柴秀吉、尼子勝久) |
吉川軍の主力として参陣。織田軍と対峙し、上月城を陥落させる。 |
- |
天正年間 |
九州方面の戦い(立花城攻め等) |
大友氏など |
吉川元春に従い九州へも出陣。立花城攻めなどでの活躍を自ら遺言で述懐。 |
5 |
これら数々の、そして長年にわたる軍功に対し、毛利氏は破格の恩賞で報いた。信直の所領は最終的に1万6千石に達したと記録されている 4 。
この1万6千石という石高は、毛利氏に仕えた国人領主の中では最高額であった 4 。これは、彼の軍事的貢献がいかに絶大であったか、そして毛利一門衆としての待遇がいかに特別なものであったかを物語る、何より雄弁な証拠である。父の代には毛利氏に討たれる立場であった熊谷家が、わずか一代で、その毛利家中で最も厚遇される国人領主へと成り上がったのである。第三章で述べた戦略的婚姻が、軍事的な成功と経済的な繁栄として、見事に結実した瞬間であった。
数多の戦場を駆け抜け、家を大いに栄えさせた熊谷信直であったが、その晩年は長寿ゆえの悲哀に見舞われることとなる。しかし、彼はその最期の瞬間まで、武門の当主として、そして毛利家の大恩を受けた重臣として、家の未来を深く案じ続けた。その想いは、死の直前にしたためられた一通の遺言状に凝縮されている。
天正7年(1579年)、信直に最初の大きな悲しみが訪れる。嫡男であり、長年戦場を共にしてきた熊谷高直が、父に先立って病死してしまったのである 9 。この時、信直は73歳。老齢の身ながら、家督を継いだ嫡孫・熊谷元直の後見役として、再び家の舵取りの重責を担うことになった。
さらに、天正14年(1586年)には、娘婿であり、戦友であり、主君でもあった吉川元春が九州出陣中に病死 9 。その翌年の天正15年(1587年)には、その跡を継いだ外孫の吉川元長までもが相次いで病没した 9 。信直は、自らの息子、娘婿、そしてその跡継ぎである外孫という、次代を担うべき者たちを次々と見送るという、長命であるがゆえの深い悲しみを味わったのである。
文禄2年(1593年)春、信直は腹の病に倒れた。87歳という高齢であり、自らの死期を悟った彼は、当時、豊臣秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)に従軍し、朝鮮半島に渡っていた嫡孫・元直に会うことは叶わないと考え、4月28日付で一通の遺言状を書き残した 4 。この遺言状(『熊谷家文書』所収)は、信直の生涯の総決算であり、彼の人生哲学と、次代への切なる願いが込められた貴重な史料である。
その内容は、大きく三つの柱からなっている。
第一に、 毛利三代への絶対的な忠誠 である。信直は遺言状の中で、「元就様、隆元様別して御恩請い候儀浅からず(元就様、隆元様から受けた御恩は浅くない)」と述べ、輝元に至る毛利三代から受けた恩義を忘れてはならないと説く 5 。そして、その忠誠心がいかにあるべきかを、次のような極めて強い言葉で孫に求めている。「御当家被及御無力候共、其御届之事、不忠仕らざるように、無二の覚悟(毛利家がたとえ無力になろうとも、そのお供をして、決して不忠を働くことのないよう、二心ない覚悟を持つこと)」 5 。これは、主家と運命を共にせよという、家臣として最高の忠節を求める言葉であった。
第二に、 自己の功績の述懐 である。信直は、なぜそれほどまでに毛利家に尽くさねばならないのか、その根拠を自らの戦歴をもって示している。「先年大内殿陶御当家御引分之時(昔、大内氏・陶氏と毛利家が手切れとなった時)」に毛利方についたこと、厳島の戦いで渡海したこと、本庄常光を討ち果たしたこと、九州の立花城攻めに参陣したことなどを具体的に列挙し、自らが毛利家のためにいかに命を懸けて奉公してきたかを孫に伝えている 5 。これは、熊谷家の毛利家中における特別な地位が、先代の血と汗によって築かれたものであることを忘れさせないための、強いメッセージであった。
第三に、 家の伝統と存続への願い である。遺言状では、所領である三入・可部の地にある神社仏閣や林を大切に管理すること、そして熊谷家に伝わる重書や、始祖・熊谷直実ゆかりの宝物(ほろ、刀、判形など)を丁重に扱い、子々孫々まで伝えていくことなどを細かく指示している 5 。これは、彼が武門の当主として、家の伝統と信仰を重んじ、その永続を何よりも願っていたことを示している。
この遺言状は、単なる死に際の指示書ではない。それは、信直が生涯をかけて築き上げた「毛利家における熊谷家の地位」を、次世代に正しく継承させるための「政治的マニュアル」であり、自らの人生の正当性を孫に証明する「一代記」でもあった。父の仇に仕えるという一見矛盾した選択をした彼が、その選択を婚姻と軍功によって正当化し、家を大いに繁栄させた。その歴史と覚悟が風化することを恐れた信直は、自らの功績と毛利家からの恩義を具体的に記すことで、熊谷家のアイデンティティと毛利家への忠誠心を、論理的かつ感情的に孫に植え付けようとしたのである。「毛利家が弱っても裏切るな」という言葉は、かつて自らが主家(武田氏)を見限った過去を持つからこそ、孫には同じ道を歩ませたくないという、深い内省から発せられた、重い言葉であったとも解釈できよう。
この遺言状を記した約1ヶ月後の文禄2年(1593年)5月26日、熊谷信直はその波乱に満ちた生涯を閉じた。享年87 3 。その亡骸は、長年居城とした三入高松城の麓にあり、一族の菩提寺であった観音寺跡に葬られた 11 。戦国の世を駆け抜け、天寿を全うした大往生であった。
熊谷信直の87年の生涯は、戦国時代における国人領主の生き様を凝縮したものであった。彼の人物像と歴史的貢献を総括することで、本報告の結びとしたい。
信直は、複数の顔を持つ複雑で魅力的な人物であった。第一に、 父の死という逆境を乗り越えた強靭な精神力 。11歳で家督を継ぎ、困難な状況下で家を守り抜いた。第二に、 旧主に見切りをつけ新興勢力に賭ける先見性と決断力 。武田氏の衰退と毛利氏の将来性を見抜き、父の仇に仕えるという非情なまでの現実主義を貫いた。第三に、 吉川軍の先鋒として無類の強さを誇った武勇 。厳島をはじめ数々の合戦でその武勇を示し、毛利軍最強の将の一人と評価された。第四に、 婚姻政策によって家の安泰を図る戦略性 。娘と吉川元春の婚姻により、家を単なる家臣から一門衆へと引き上げ、その地位を盤石にした。そして第五に、 主家への忠義を貫き通した律儀さ 。一度仕えると決めた毛利家に対しては、生涯を通じて揺るぎない忠誠を尽くし、その精神を遺言で孫にまで求めた。
彼の歴史的貢献は、特に毛利氏の勢力拡大期において計り知れないものがある。信直という絶対的に信頼できる猛将の存在なくして、吉川元春の輝かしい武功と、毛利氏の屋台骨を支えた「毛利両川体制」の確立は、より困難であった可能性が高い。彼は、毛利氏が安芸の一国人から中国地方の覇者へと飛躍する過程において、一人の武将として最大級の貢献を果たしたと評価できる。
信直が生きた時代の息吹は、今なお彼ゆかりの地に残されている。彼が本拠とした広島市安佐北区の三入高松城跡は、県の史跡として整備され、主郭や堀切、石垣の跡が往時の姿を偲ばせる 7 。また、その麓にある菩提所の観音寺跡には、信直のものと伝わる墓があり、静かに時を刻んでいる 11 。これらの史跡は、戦国乱世を智と武で駆け抜け、家を守り抜いた一人の驍将の記憶を、現代に伝えている。