伊達政宗の腹心としてその名を馳せた片倉家。初代・景綱が「智の小十郎」と称賛されたのに対し、その嫡男である二代・片倉重長は「鬼小十郎」という、武勇の誉れに満ちた鮮烈な異名で歴史に刻まれている 1 。本報告書は、この異名の由来となった大坂の陣における比類なき武功を基軸としつつも、為政者、そして一人の人間としての片倉重長の多岐にわたる側面を、現存する史料に基づき徹底的に掘り下げ、その実像に迫ることを目的とする。
「鬼」と恐れられた凄まじい勇猛さと、敵将・真田幸村の娘を慈しみ、妻として生涯を共にした情の深さ。この二つの側面は、一人の人物の中でいかにして両立し得たのであろうか。彼の生涯を貫く主家への忠義の在り方と、戦国の終焉から泰平の世へと移り変わる時代の大きなうねりの中で彼が果たした役割を解き明かすことは、単なる一個人の伝記に留まらない。それは、初代景綱の「智」から二代重長の「武(鬼)」へと、世襲名「小十郎」の持つ意味合いが変容していく過程そのものであり、豊臣政権下で外交と謀略が重視された時代から、徳川幕府の確立期に絶対的な武威と忠誠の証明が求められた時代への、伊達家と片倉家自身の戦略的適応を象徴している。本報告は、この「鬼」と呼ばれた男の生涯を多角的に検証するものである。
西暦 |
和暦 |
重長の年齢 |
片倉重長の動向 |
伊達家・仙台藩の動向 |
国内の主要な出来事 |
1584 |
天正12 |
1歳 |
出羽国にて誕生。父・景綱による圧殺計画を政宗が阻止 2 。 |
伊達政宗、家督相続 2 。 |
小牧・長久手の戦い。 |
1599 |
慶長4 |
16歳 |
元服し、「片倉小十郎重綱」を名乗る 7 。 |
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1600 |
慶長5 |
17歳 |
白石城攻めに父・景綱と共に参陣し、初陣を飾る 2 。 |
伊達政宗、上杉領に侵攻。 |
関ヶ原の戦い。 |
1602 |
慶長7 |
19歳 |
父・景綱が白石城主となる 2 。 |
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1603 |
慶長8 |
20歳 |
白石城へ移り、城下町の整備に着手 10 。 |
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徳川家康、征夷大将軍となり江戸幕府を開く。 |
1615 |
元和元 |
32歳 |
大坂夏の陣で伊達軍先鋒を務め、後藤基次らを討ち取る。「鬼小十郎」と称される。真田幸村の娘・阿梅らを保護 2 。父・景綱死去に伴い家督を相続 2 。 |
伊達政宗、大坂の陣に参陣。 |
豊臣家滅亡。武家諸法度、一国一城令発布。 |
1620 |
元和6 |
37歳 |
真田阿梅を継室として迎える 12 。 |
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1636 |
寛永13 |
53歳 |
二代藩主・忠宗を重臣として補佐し、藩政に重きをなす。 |
伊達政宗死去。伊達忠宗が二代藩主となる 2 。 |
徳川家光、参勤交代を制度化。 |
1651 |
慶安4 |
68歳 |
藩主・忠宗より仙台藩最高家格である「一家」の座を賜る 6 。 |
藩政安定期。 |
慶安の変(由井正雪の乱)。 |
1659 |
万治2 |
76歳 |
3月25日、白石にて死去 6 。 |
伊達綱宗が三代藩主となる(前年)。 |
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片倉重長は天正12年(1584年)、伊達家の重臣・片倉小十郎景綱の嫡男として、出羽国置賜郡(現在の山形県)にて生を受けた 2 。彼の誕生は、尋常ならざる逸話と共に語り継がれている。父・景綱は、主君である伊達政宗にまだ世継ぎが誕生していないことを深く憂慮し、主君に先んじて自らに嫡男が生まれることは不忠の極みであると考えた。そして、その過剰ともいえる忠誠心から、生まれたばかりの我が子を圧殺するという、驚くべき決意を固めていたのである 2 。
この計画を知った若き主君・政宗は、驚き、そして急ぎ景綱のもとへ書状を送った。現存すると伝わるその書状には、「その方の言い分もあろうが思いとどまってもらえないだろうか。子を殺害するようなことがあればその方を恨むぞ。わしの顔に免じてどうか助けてやってほしい」という趣旨の言葉が綴られており、主君自らの懇願によって重長の命は救われた 6 。
この一連の出来事は、単なる忠臣の美談に留まらない、深い意味合いを持つ。重長にとって政宗は、主君であると同時に、文字通り「生命の恩人」となった。この原体験は、彼の生涯を貫く絶対的な忠誠心の源泉となり、主従という公的な関係を超えた、個人的で強固な絆を両者の間に築き上げた。彼の後の武功や治績のすべては、この「主君への恩返し」という文脈の中で、より強い意味を持つこととなる。
一方で、父・景綱のこの行動は、「智将」としての計算された政治的パフォーマンスであった可能性も否定できない。自らの血脈さえも主君への忠義の下に置くという究極の姿勢を示すことで、伊達家中における片倉家の地位を絶対的なものとして確立しようとしたのではないか。この劇的な逸話は、片倉家と伊達家の特別な関係性を象徴する「神話」として機能し、重長はその神話の生き証人として、その後の人生を歩むことになったのである。
このような特異な出自を持つ重長は、政宗の傅役であった父・景綱と、政宗の乳母であった叔母・喜多という、伊達家の中枢に極めて近い環境で育った 2 。父からは「武は単なる力にあらず、民を守るための術」という教えを受け、幼少期より兵法、弓馬の稽古といった武芸のみならず、仏典や儒教の教えにも触れ、文武両道の素養を身につけていった 7 。この教育が、後に彼が武勇だけでなく、為政者としても優れた手腕を発揮する礎となったことは想像に難くない。
慶長4年(1599年)頃、15歳で元服した重長は、「片倉小十郎重綱」を名乗った 7 。当初の諱は「重綱」であったが、後年、三代将軍・徳川家光の世子・家綱の諱を避けるため、「重長」へと改名している 2 。
彼の武人としてのキャリアは、天下分け目の戦いが迫る緊迫した情勢の中で始まった。慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いの直前、伊達政宗は徳川家康と石田三成の対立に乗じ、かつての上杉領であった白石城の奪還を狙った。この「白石城の戦い」に、重長は17歳で父・景綱と共に出陣し、これが彼の初陣となった 2 。若き重長は、この戦いで白石城の本丸を攻め立てるなど、父譲りの勇猛さを見せつけ、見事な武功を挙げたと記録されている 2 。
また、これに続く最上義光救援のための「長谷堂城の戦い」においても、父と共に従軍。一隊を率いて上杉軍の伏兵を看破し、味方の危機を未然に防ぐという功績を立て、主君・政宗から初めての褒詞を賜ったと伝わる 7 。
これらの初期の戦いは、重長にとって単なる戦闘参加以上の意味を持っていた。それは、偉大な父であり、当代随一の智将と謳われた景綱の直接の監督下で行われた、いわば「実戦教育」の場であった。景綱は、自らが指揮を執る戦場で息子に武功を立てさせることを通じて、片倉家の武威と「小十郎」の名跡が次代においても揺るぎないものであることを伊達家中に示し、円滑な権威の継承を図ったのである。父の周到な采配と後援のもとで得たこれらの成功体験は、若き重長の自信を育み、後の大坂の陣で天下にその名を轟かせるための、確かな礎となった。
片倉重長の名を不滅のものとしたのは、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣であった。この時、父・景綱は病床にあり、出陣が叶わなかった。重長は父に代わり、伊達勢の先鋒として約1,400の兵を率いる大役を担った 1 。これは伊達軍全体の約1割にも相当する兵力であり、伊達家の命運を左右する重要な部隊であった。
慶長20年5月6日、戦いの火蓋は道明寺口で切られた。大和路を進軍する徳川方の一翼を担った伊達軍の先鋒・片倉隊は、豊臣方の後藤基次(又兵衛)率いる部隊と激突した 11 。後藤又兵衛は黒田家で名を馳せた歴戦の猛将であり、この戦いでも鬼気迫る奮戦を見せた。しかし、重長率いる片倉隊はこれを真正面から受け止め、激戦の末に後藤又兵衛を鉄砲で討ち取るという大金星を挙げる 2 。さらに、後藤隊に加勢した薄田兼相(隼人正)をも討ち取り、この日の戦果は兜首90、翌日と合わせて150にも上ったと記録されている 2 。
後藤隊を壊滅させた片倉隊の前に、次なる強敵が立ちはだかった。「日本一の兵(ひのもといちのつわもの)」と称えられた真田幸村(信繁)率いる部隊である。片倉隊の騎馬鉄砲隊が火を噴くと、真田隊も巧みな鉄砲運用でこれに応戦。一時は真田隊の戦術に押され後退を余儀なくされる場面もあったが、重長はすぐに部隊を立て直し、一進一退の攻防を繰り広げた 11 。この両軍の激闘は、大坂夏の陣における屈指の名場面として語り継がれている。
この獅子奮迅の働きは、敵味方の双方に強烈な印象を与えた。片倉重長は、この戦いぶりから「鬼小十郎」と畏怖され、その名は一躍天下に轟いた 1 。伊達勢の武功は日本一であると、総大将の徳川家康からも絶賛されたという 2 。この功績は、父・景綱が小田原参陣を進言して伊達家を救ったこと、三代目の景長が伊達騒動を収拾したことと並び、「片倉家が伊達家の大難を三度救った」と称される功績の一つに数えられている 2 。
この重長の活躍は、個人の武勇伝という側面以上に、徳川体制下における伊達家の立場を盤石にするための、極めて重要な政治的・軍事的デモンストレーションであった。かつて政宗の野心を警戒していた幕府に対し、伊達家が比類なき戦闘能力を持つ、徳川方にとって「有用な」忠臣であることを、最も分かりやすい「武功」という形で証明したのである。この戦果は、後に伊達家が宇和島に新たな所領を与えられるなど、具体的な恩賞にも繋がった 11 。重長の「鬼」としての奮戦は、仙台藩62万石の安泰を保証するための、計算された戦略的行動でもあったのだ。
しかし、この華々しい武功に対し、父・景綱は意外な反応を見せる。一軍の将でありながら、自ら先頭に立って敵と刃を交えたことを「将の分をわきまえない行為だ」と厳しく叱責したという逸話が残っている 15 。これは、戦国乱世の価値観(大将個人の武勇)と、泰平の世を目前にした統治者の価値観(組織の保全とマネジメント)の間の葛藤を象徴している。景綱は、息子が単なる「武将」としてではなく、家と領地を永続させる「将帥」として生き抜くことを、最後の教えとして伝えたかったのであろう。
大坂の陣が片倉重長にもたらしたものは、「鬼小十郎」の武名だけではなかった。彼の人生を大きく左右する、もう一つの重要な物語がこの戦場で紡がれた。それは、敵将・真田幸村の娘、阿梅(おうめ)との運命的な出会いである。
阿梅をいかにして保護するに至ったかについては、二つの異なる系統の伝承が存在する。
一つは、片倉家の公式記録である『片倉代々記』や『白川家留書』に見られる「乱取り説」である 6 。これによれば、阿梅は大坂城落城の混乱の中、片倉の兵によって捕らえられた(乱取りされた)。当初、彼女が誰の娘であるかは分からず、侍女として召し使われていたが、後に真田家の旧臣であった三井豊前が白石を訪れたことにより、初めて幸村の娘であることが判明した、というものである。これは、豊臣方との事前通謀を疑われかねない幕府に対して、最も政治的に安全な公式見解であったと考えられる。
もう一つは、『老翁聞書』などに由来する、より劇的な「託付説」である 11 。道明寺の戦いにおける重長の鬼神の如き戦いぶりに敵ながら感銘を受けた幸村が、自らの死を悟り、娘たちの将来をこの器量ある武将に託した、という美談だ。矢文を送って婚姻を申し入れたという話まで伝わっている 6 。『老翁聞書』の原文を詳細に見ると、阿梅が自ら重長の陣の前に現れたのを、片倉側が「幸村が託したのだろう」と好意的に解釈した可能性も示唆されており、武士社会内部で重長の名声を高めるための物語として広まった側面が強い 24 。
これら二つの物語は、幕府への公式説明としての「乱取り説」と、武士社会における名誉を高めるための「託付説」という、異なる目的を持つ言説として巧みに両立した。片倉家は、この二重の物語を使い分ける、あるいは黙認することで、政治的リスクを回避しつつ名誉を最大化するという、高度な情報戦略を展開した可能性がある。
経緯はどうあれ、阿梅は白石の片倉家で保護された。そして元和6年(1620年)、重長は阿梅を継室(後妻)として正式に迎えた 6 。この時、重長37歳、阿梅は17歳であったと伝わる 12 。
この婚姻は、阿梅一人の保護に留まらなかった。彼女の縁を頼り、弟の真田大八(後の片倉守信)や妹の阿菖蒲といった幸村の遺児たちも次々と白石に身を寄せ、重長の庇護下に入った 6 。特に男子である大八を生かしておくことは、徳川幕府の敗将への厳しい追及を考えれば、極めて危険な行為であった。しかし伊達家と片倉家は、大八を「幸村の息子ではなく、徳川方であった叔父・真田信尹の架空の孫」であると幕府に偽りの報告をするという大胆な手段を用いてまで、その命を守り抜いた 28 。
この一連の行動は、単なる人道的な行為に留まらない。それは、戦国最強と謳われた真田家の遺臣という、質の高い人材を仙台藩にリクルートする絶好の機会でもあった。阿梅の保護をきっかけに、三井覚左衛門をはじめとする多くの大坂牢人が白石に流入し、片倉家に召し抱えられた 25 。彼らの流入は、白石ひいては仙台藩の軍事力と文化に新たな血を導入し、その多様性と強靭さを増すことに繋がったのである。
阿梅は重長との間に子をもうけることはなかったが、重長と先妻の娘の子、つまり重長の外孫にあたる片倉景長を養子として育てた 6 。また、白石城下に父・幸村の菩提を弔うための寺院「月心院」を建立するなど、その信仰の篤さを示している 24 。彼女は天和元年(1681年)に78歳でその波乱の生涯を閉じ、白石の当信寺に葬られた 12 。
元和元年(1615年)10月、父・景綱が世を去ると、重長は正式に家督を相続し、白石1万3千石(後に加増)の城主となった 2 。同年に幕府から一国一城令が発布され、原則として大名の居城以外の城は破却されることになったが、白石城は仙台城の重要な支城として、例外的に存続が認められた 10 。これは、対上杉氏への備えという軍事的な要衝としての価値を政宗が家康に説き、認めさせた結果であり、白石が単なる知行地ではなく、仙台藩にとって極めて重要な拠点であったことを示している。
重長の後半生は、戦場での武功から一転し、領国を治める為政者としての歩みであった。彼は「鬼小十郎」という武勇の誉れを背景に持ちつつも、時代の変化を的確に読み、近世大名の家老、すなわち領地の経営者へとその役割を巧みに移行させた。
慶長8年(1603年)に白石へ移って以来、父と共に着手していた城下町の整備を本格化させ、領国経営に心血を注いだ 7 。その政策は多岐にわたる。領内の検地を実施して年貢負担の公平化を図り、飢饉に備えての備蓄や疫病対策を講じるなど、民生の安定を最優先した 7 。これらの政策の根底には、父・景綱から受け継いだ「民あっての武士」という思想と、「平時にこそ備えあり」という統治哲学があった 7 。
さらに、領内の産業振興にも積極的に取り組んだ。
寛永13年(1636年)、独眼竜・伊達政宗がその生涯を閉じると、重長は二代藩主・伊達忠宗の代においても重臣として藩政の中枢を支え続けた 2 。忠宗の治世下で進められた藩政改革や家臣団の統制、幕府との折衝など、多岐にわたる分野でその手腕を発揮し、藩の安定に大きく貢献した 7 。
その長年にわたる忠勤と実績が認められ、慶安4年(1651年)、重長は主君・忠宗から仙台藩における最高家格である「一家」の座を賜った 6 。これは、片倉家の功績と忠誠が、藩内で公式に最高位のものとして認められたことを意味し、彼の為政者としてのキャリアの頂点を示す出来事であった。武勇だけでなく、統治能力においても非凡な才能を持っていたからこそ、彼は戦乱の世から泰平の世へと移り変わる中で、常に主家にとって不可欠な存在であり続けたのである。
片倉重長の人物像は、戦場での武勇や領地での治績だけでは語り尽くせない。史料に残されたいくつかの逸話は、彼の人間的な側面、すなわち「鬼」の仮面の裏にある素顔を垣間見せてくれる。
重長は、当時としては際立った美貌の持ち主であったと伝わる。その容姿は、男色家として知られた大名・小早川秀秋の目にも留まった。片倉家の記録である『片倉代々記』には、秀秋が重長に執拗に言い寄り、彼を困惑させたという話が記されている 6 。
さらに、主君である伊達政宗との間にも衆道(男色)関係があったという説が存在する 6 。その根拠とされるのが、『老翁聞書』に記された大坂出陣前夜の逸話である。伊達軍の先鋒を願い出た重長に対し、政宗は彼を強く引き寄せ、その頬に接吻し、涙ながらに激励したという 41 。これらの逸話の史実性を確定することは困難であるが、重長と政宗の関係が、単なる公的な主従関係だけでなく、極めて個人的で情緒的な、強い結びつきによって支えられていたことを示唆している。誕生時の恩、戦場での功績、そして個人的な情愛という複数の層が、彼らの比類なき絆を形成していたと考えられる。
重長は、父・景綱から受けた文武両道の教育を血肉としていた。武芸に秀でるだけでなく、仏典や儒教にも通じ、深い教養を身につけていた 7 。その信仰心の篤さは、大坂夏の陣の戦勝を祈願して京都の愛宕神社に絵馬を奉納したという行動からも窺える。この絵馬は、後に復元され、現代の白石市に寄贈されている 42 。また、布袋竹で作られた茶杓に関する記述も残されており、茶道にも通じていた可能性が示唆される 44 。
重長の家庭生活は、武家の当主としての苦悩を映し出している。正室は針生盛直の娘・綾、そして継室が真田幸村の娘・阿梅であった 6 。正室との間には娘・喜佐が生まれたが、彼女は遠く松前藩へと嫁いだ 6 。
世継ぎとなる男子に恵まれなかった重長は、自らの直系の血筋にこだわり、娘の喜佐が産んだ子、すなわち自身の外孫にあたる景長を養子として迎える決断を下した 6 。これは、武士の「家」の存続にかける強い意志の表れである。初代・景綱が築き、自らが「鬼小十郎」としてその名を高めた片倉家の功績と家格を、他家の者ではなく、自らの血を引く者に継承させたいという、当主としての強い責任感がこの選択の背景にはあった。この決断により、片倉家の血脈は女系を通じて受け継がれ、明治維新まで続くことになったのである。
万治2年(1659年)3月25日、片倉重長は76年の生涯を閉じた。法名は一法元理真性院 6 。その亡骸は、当初菩提寺である傑山寺に葬られたが、後に三代当主となった養子・景長の手によって、白石城を見渡す愛宕山の片倉家御廟所へと改葬された 45 。
彼の死後も、その遺産は様々な形で後世に受け継がれた。重長の生涯は、父・景綱、子・景長と共に、伊達家の危機を救い、その安泰に尽くした忠臣の鑑として、長く語り継がれることとなる 2 。
また、彼の決断によって保護された真田幸村の血脈は、仙台藩士「仙台真田氏」として存続し、幕末までその家名を保った 6 。この歴史的な縁は、現代における宮城県白石市と長野県上田市との交流の礎となっている 48 。
重長の遺産は、文化的な形でも生き続けている。彼の武勇を讃え、大坂夏の陣での活躍を再現する「鬼小十郎まつり」は、かつての居城であった白石城で毎年盛大に開催され、多くの人々を魅了している 2 。また、彼が領主として奨励した白石温麺や白石和紙は、400年の時を超えて今なお白石市の伝統産業として人々に親しまれている 32 。
片倉重長の遺したものは、「鬼小十郎」という武勇の伝説と、「真田家との和解」という平和の象徴という、二つの側面から成り立っている。一見矛盾するこの二つの遺産が両立している点にこそ、彼の人物像の深みと、後世の人々が彼に寄せる尽きせぬ魅力の源泉がある。彼は「鬼」と恐れられた猛将であると同時に、泰平の世を治める優れた為政者であり、敵将の子女を保護する深い人間性を併せ持った、稀有な武将であった。その生涯は、戦国乱世の終焉と近世武家社会の確立という、日本の歴史における大きな転換点を体現するものであり、その確かな足跡は、今日の白石の地に色濃く生き続けているのである。