片桐貞隆(かたぎり さだたか、永禄3年(1560年) - 寛永4年(1627年))という武将の名は、歴史上、常に兄である片桐且元(かつもと)の存在と分かち難く結びつけられてきた 1 。賤ヶ岳の七本槍に数えられ、豊臣家の家老としてその最期まで深く関与した且元の陰で、貞隆は「且元の弟」という枕詞で語られることが少なくない。しかし、彼の生涯を丹念に追うとき、その評価は単なる兄の補佐役という枠を大きく超える。
貞隆は、戦国の動乱から徳川の治世へと移行する時代の巨大な転換点を、一人の武将として、そして大和国小泉藩の初代藩主として見事に生き抜いた重要人物である 3 。本報告書は、片桐貞隆の生涯を、その出自から豊臣政権下での活躍、そして徳川幕藩体制下での藩祖としての役割、さらには後世に遺した文化的遺産に至るまで、多角的な視点から徹底的に検証し、その歴史的実像に迫ることを目的とする。
彼の生涯は、単なる豊臣家臣から徳川大名への転身物語ではない。それは、武功による立身、主家との深刻な葛藤、新時代における大名の役割の模索、そして文化的な遺産の継承という、近世初期の大名が直面した普遍的な課題を凝縮した、極めて示唆に富む事例である。特に、彼が創始した大和小泉藩が、兄・且元の家系が早々に断絶したのとは対照的に、幕末維新まで命脈を保ったという事実は、彼が単なる武人ではなく、時代の変化を読み解き、永続する組織の礎を築いた優れた創業者であったことを雄弁に物語っている 6 。
本報告書を通じて、片桐貞隆という一人の武将の生涯を再評価し、彼が日本の歴史において果たした真の役割を明らかにしていく。
元号 |
西暦 |
貞隆の年齢 |
主要な出来事 |
関連人物 |
石高の変遷 |
永禄3年 |
1560年 |
0歳 |
近江国浅井郡須賀谷にて、片桐直貞の次男として誕生 3 。 |
片桐直貞、片桐且元 |
- |
天正元年 |
1573年 |
14歳 |
主家・浅井氏が織田信長により滅亡 11 。 |
浅井長政、織田信長 |
- |
天正9年頃 |
1581年頃 |
21歳 |
兄・且元と共に羽柴秀吉に仕官。播磨国にて150石を与えられる 4 。 |
豊臣秀吉 |
150石 |
天正13年 |
1585年 |
26歳 |
従五位下・主膳正に叙任される 13 。 |
- |
- |
天正18年 |
1590年 |
31歳 |
小田原征伐に従軍 14 。 |
北条氏直 |
- |
文禄元年 |
1592年 |
33歳 |
文禄の役(朝鮮出兵)に兄・且元と共に従軍 16 。 |
- |
- |
文禄4年頃 |
1595年頃 |
36歳 |
これまでの軍功により、播磨国内などで1万石余の大名となる 7 。 |
- |
1万石余 |
慶長5年 |
1600年 |
41歳 |
関ヶ原の戦い。兄と共に大坂城にて豊臣秀頼を護持 12 。 |
豊臣秀頼、徳川家康 |
1万石余 |
慶長6年 |
1601年 |
42歳 |
徳川家康の命により、大和国添下郡小泉に移封。大和小泉藩を立藩 5 。 |
徳川家康 |
1万石余 |
慶長19年 |
1614年 |
55歳 |
方広寺鐘銘事件が発生。内通を疑われ、10月1日に兄と共に大坂城を退去 17 。 |
淀殿、大野治長 |
1万5020石 |
元和元年 |
1615年 |
56歳 |
大坂の陣に徳川方として参陣。戦功により6000石余を加増され、1万6400石となる 7 。 |
徳川秀忠 |
1万6400石 |
元和7年 |
1621年 |
62歳 |
天王寺の普請奉行を務める 22 。 |
- |
1万6400石 |
元和9年 |
1623年 |
64歳 |
大和小泉に陣屋を構え、藩政の拠点を定める 10 。 |
- |
1万6400石 |
寛永4年 |
1627年 |
68歳 |
10月に死去。和泉国貝塚の青松寺に葬られる 3 。 |
片桐貞昌(石州) |
- |
片桐貞隆の人物像と生涯を理解するためには、まず彼が属した片桐一族の歴史的背景を紐解く必要がある。そのルーツは遠く信濃国に遡り、戦国の世を経て近江国で新たな主君を得るという、一族の存亡をかけた変遷の中に、後の貞隆の行動原理を解き明かす鍵が隠されている。
片桐氏の源流は、清和源氏満快流を称する信濃国伊那郡片切郷(現在の長野県上伊那郡中川村、下伊那郡松川町一帯)の豪族「片切氏」であるとされている 24 。『寛政重修諸家譜』やその他の記録によれば、平安時代後期に源為基がこの地に館を構え、片切氏の祖となった 24 。鎌倉時代には幕府の御家人としてその名が見え、『吾妻鏡』には、源頼朝から旧領を安堵された片切為康の記述が残されていることからも、東国における由緒ある武家であったことが窺える 25 。
この片切氏の一族が、承久の乱(1221年)の恩賞として美濃国、次いで近江国伊香郡高月村(現在の滋賀県長浜市)に所領を得て移住し、その際に姓を「片切」から「片桐」へと改めたとされる 17 。この信濃から近江への移遷が、一族の新たな歴史の幕開けとなり、後の貞隆たちの活動の直接的な基盤を形成することになる。この一族の来歴は、単なる地方豪族ではなく、源氏の名門としての矜持を内包していたことを示唆している。この意識は、後の時代に彼らが直面する様々な局面での判断に、少なからず影響を与えたと考えられる。
戦国時代に入り、片桐貞隆の父である片桐直貞の代になると、一族は北近江に勢力を張る戦国大名・浅井氏の家臣となる 1 。その居館は、浅井氏の本拠地である小谷城の東麓に広がる須賀谷(現在の滋賀県長浜市須賀谷町)に構えられた 17 。この地は、小谷城の支城としての軍事的な役割を担うと同時に、温泉が湧出する湯治場でもあった 17 。この須賀谷の館で、兄である且元が弘治2年(1556年)に 11 、そして4年後の永禄3年(1560年)に貞隆が誕生した 3 。
彼らの幼少期は、主君・浅井長政が織田信長と同盟を結び、勢力を伸張させていた時期と重なる。しかし、その栄華は長くは続かなかった。天正元年(1573年)、信長との同盟が破綻し、小谷城は織田軍の猛攻に晒される。この絶体絶命の状況下で、片桐家は主家への忠義を貫いた。落城前日である8月29日付で、浅井長政から父・直貞に宛てられた感状が現存していることは、その何よりの証左である 17 。この主家の滅亡という悲劇的な体験は、当時18歳であった且元と14歳であった貞隆の心に深く刻み込まれ、彼らのその後の人生における運命共同体としての強い結束の原点となったであろう。
主家である浅井氏の滅亡後、北近江三郡の新たな領主として長浜城に入ったのが、織田信長の部将、羽柴秀吉であった 1 。秀吉は旧浅井家臣団から積極的に有能な人材を登用しており、片桐兄弟もこの流れの中で新たな主君を見出すこととなる。貞隆が21歳であった天正9年(1581年)頃、兄・且元と共に秀吉に仕官した 4 。これは、同じく近江出身である石田三成兄弟らと同様のキャリアの始まりであり、秀吉の巧みな人材登用策が、後の豊臣政権を支える多くの官僚や武将を生み出す土壌となっていたことを示している。
片桐氏の歴史を俯瞰すると、信濃源氏という名門の出自を持ちながらも、戦国の荒波の中で現実的な選択を迫られてきたことがわかる。浅井氏滅亡という危機に際し、過去の栄光に固執することなく、新たな実力者である秀吉に速やかに仕えるという現実主義的な判断は、一族が生き残るための必然であった。この「名門としての矜持」と「生き残りのための現実主義」という二つの側面を併せ持つバランス感覚こそ、後の貞隆の生涯、特に豊臣家から徳川家へと主従が移行する激動の時代における彼の行動原理を理解する上で、極めて重要な鍵となる。
羽柴秀吉に仕官した片桐貞隆は、兄・且元と共に、秀吉が天下統一へと突き進む中で着実にその地位を築いていく。兄が「賤ヶ岳の七本槍」の一人として早くから武名を馳せ、行政官僚としても頭角を現したのに対し、貞隆は派手な武勇伝こそ少ないものの、豊臣政権が遂行する主要な軍事行動において堅実に功を重ね、実務能力の高い武将として評価を高めていった。
秀吉に仕えた当初、貞隆は播磨国神東郡において150石の扶助米を与えられるところからそのキャリアをスタートさせた 4 。これは決して大きな知行ではないが、彼が武将として歩み始めた確かな一歩であった。
その後、豊臣政権の天下統一事業が本格化する中で、貞隆も重要な戦役に参加していく。天正18年(1590年)の小田原征伐では、彼も従軍したことが記録されている 14 。この戦いでは、北条氏直への降伏を勧告する諸将の一人としてその名が挙げられており、単なる一兵卒ではなく、一定の役割を担う武将として認識されていたことがわかる 14 。また、戦後の小田原城の接収には兄・且元が徳川家康の家臣らと共に立ち会っており、片桐兄弟が豊臣政権の中枢に近いところで活動していたことを示している 17 。
さらに、文禄元年(1592年)から始まった文禄の役(朝鮮出兵)においても、貞隆は兄・且元と共に海を渡り従軍した 15 。この朝鮮での戦役は、多くの武将にとって過酷なものであったが、貞隆はここでも武将としての務めを果たした。
これらの着実な軍功が評価され、貞隆は播磨国内などで知行を加増され、最終的に1万石余を領する大名へと成長を遂げた 7 。兄・且元が賤ヶ岳の戦功で一躍その名を高めたのとは対照的に、貞隆の出世は、一つ一つの戦役で着実に任務を遂行し、信頼を積み重ねていった結果であった。これは、彼が戦場で求められる役割を的確にこなし、政権に貢献した実務能力の高い武将であったことを何よりも物語っている。兄が中央で奉行として外交や行政に手腕を発揮する傍らで、貞隆は武官として片桐家の軍事的な基盤を支えるという、兄弟間での巧みな役割分担が、一族の地位向上に効果的に機能したと推察される。
武功を重ねる一方で、貞隆は官位も得てその社会的地位を確立していく。天正13年(1585年)、彼は従五位下・主膳正(しゅぜんのかみ、または主膳佑)に叙任された 13 。これは、天皇の食事を司る役所の官職であり、彼が豊臣政権内において正式な官位を持つ武将として認められたことを意味する。
知行地も、当初の播磨国に始まり、山城国、河内国、和泉国、さらには尾張国へと、豊臣政権の支配領域拡大と共に各地で加増を重ねていった 12 。史料によれば、文禄4年(1595年)の段階で、その合計石高は4,247石余に達している 12 。秀吉の厚い信頼を得て、着実にその経済的基盤と政治的影響力を固めていった貞隆の姿は、豊臣政権下で立身出世を果たした多くの武将の典型例と言うことができるだろう。
慶長3年(1598年)の豊臣秀吉の死は、日本の政治情勢を大きく揺るがした。豊臣政権内部での対立が先鋭化し、やがて徳川家康を総大将とする東軍と、石田三成らを中心とする西軍が激突する関ヶ原の戦いへと至る。この天下分け目の大戦において、豊臣家の譜代家臣である片桐貞隆と兄・且元は、極めて困難で複雑な立場に置かれることとなった。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いにおける片桐兄弟の動向は、一筋縄では解釈できない。兄・且元は、形式的には西軍に属し、大津城攻めに援軍を送ったとする記録が存在する 16 。しかしその一方で、自身の長男・孝利を家康のもとへ人質として送り、徳川方への敵意がないことを示すなど、中立を意図したかのような動きも見せている 1 。
貞隆自身の具体的な動向を直接的に示す史料は乏しいが、兄と運命を共にし、豊臣家の幼主・秀頼を大坂城で護持するという立場にあったことは確実視されている 12 。彼らの行動原理は、豊臣家の忠臣として、何よりもまず主君である秀頼の身の安全を確保することにあった。東西両軍のどちらかに全面的に加担して大坂を留守にすることは、秀頼を危険に晒すことに他ならない。そのため、彼らは大坂城に留まり、戦いの趨勢を見守るという、ある種の戦略的静観を選択したと解釈するのが最も合理的である。これは、彼らが豊臣家に対して抱いていた忠誠心と、現実的な政治状況を冷静に判断する能力の表れであった。
関ヶ原の戦いは、徳川家康率いる東軍の圧倒的な勝利に終わった。戦後、家康は西軍に与した大名の所領を容赦なく没収・削減する一方で、豊臣恩顧の大名を巧みに配置転換することで、自らの支配体制を盤石なものにしていった 34 。この戦後処理は、単なる論功行賞や懲罰ではなく、新たな時代である徳川の世を築くための、高度に計算された国家再編事業であった。
この大きな戦略的枠組みの中で、片桐氏の処遇も決定された。慶長6年(1601年)、貞隆はそれまでの播磨国の所領から、大和国添下郡小泉(現在の奈良県大和郡山市)を中心とする1万石の地に移封された 5 。これが、幕末まで続く
大和小泉藩の立藩 である。時を同じくして、兄・且元も摂津茨木城から大和竜田藩へと移されており、兄弟が隣接する藩の藩主として並び立つことになった 8 。
この家康による配置は、極めて巧みな政治的意図を内包していた。第一に、豊臣家の本拠地である大坂に隣接する軍事上の要衝・大和国に、旧豊臣家臣である片桐兄弟を置くことで、彼らを直接的な監視下に置く「封じ込め」の意図があった。第二に、彼らを大坂と西国の他の豊臣恩顧大名との間に配置することで、物理的・心理的な「緩衝地帯」とし、反徳川勢力の連携を分断する狙いがあった。そして第三に、1万石の大名としての地位を安堵し、豊臣秀頼からの加増という形を取らせることで 12 、彼らに恩を売り、徳川の体制下へと巧みに「懐柔」し、取り込む目的があった。
この転封は、貞隆にとって極めて重要な転機であった。彼は名目上は豊臣家の家臣であり続けながら、実質的には徳川家康の命令によってその領地を定められた、徳川幕藩体制下の一大名となったのである。この「豊臣家の家臣」と「徳川体制下の大名」という二重のアイデンティティとも言うべき曖昧で困難な立場こそが、後に彼らを襲う方広寺鐘銘事件と大坂の陣という悲劇の、大きな伏線となっていくのである。
関ヶ原の戦い後、豊臣家と徳川家の間には、表面的な平穏の裏で、抜き差しならない緊張関係が続いていた。この危うい均衡を最終的に打ち破り、大坂の陣という破局へと導いたのが、慶長19年(1614年)に発生した方広寺鐘銘事件である。この事件において、両家の間に立たされた片桐兄弟は、その生涯で最も過酷な選択を迫られることとなる。
事件の発端は、豊臣秀頼が亡き父・秀吉の追善のために再建した京都の方広寺大仏殿の梵鐘であった 17 。その鐘に刻まれた銘文の中にあった「国家安康」「君臣豊楽」という二つの句に対し、徳川家康が「家康の名を分断して呪い、豊臣の繁栄を君として楽しむものだ」という、常軌を逸した難癖をつけたのである 38 。
これは明らかに、豊臣家を滅亡させるための口実作りに他ならなかった。豊臣家の家老であり、徳川家との唯一の公式な折衝役であった兄・且元は、この絶望的な状況を打開すべく、駿府の家康のもとへ赴き、弁明と和平工作に奔走した 1 。貞隆もまた、兄と行動を一体にし、この未曾有の国難に対応した。彼らの目的は、あくまで戦争を回避し、豊臣家の存続を図ることにあった。
しかし、且元の必死の和平努力は、大坂城内において裏目に出た。淀殿や、その側近である大野治長ら強硬な主戦派は、且元が家康と頻繁に接触することを理由に、彼が徳川方と内通しているのではないかという疑念を深めていった 1 。豊臣家のために良かれと思っての行動が、逆に主君からの信頼を失わせるという皮肉な結果を招いたのである。
城内の空気は日に日に険悪となり、ついには薄田兼相らを実行役とした片桐兄弟の暗殺計画までが浮上するに至った 16 。身の危険を察知した兄弟は登城を控え、自邸に籠ることを余儀なくされる 19 。もはや、彼らが豊臣家臣として忠節を尽くす場は、大坂城内には残されていなかった。
そして慶長19年(1614年)10月1日、運命の日が訪れる。片桐且元と貞隆は、一族郎党四千人ほどを率いて、長年仕えた大坂城を退去した 17 。彼らが向かった先は、貞隆の居城であった摂津茨木城であった 17 。この退去の様子を伝える史料は、極めて象徴的な情景を描写している。兄・且元が白の小袖姿で静かに輿に乗っていたのに対し、弟である貞隆以下の家臣たちは皆、完全武装し、鉄砲の火縄に火を点けていたというのである 7 。これは単なる退去や逃亡ではない。豊臣方の主戦派に対する強い抗議の意志と、不当な攻撃を受ければ一戦も辞さないという、武人としての断固たる決意を示す示威行動であった。史料に「兄より遥かに激しい気性」と評される貞隆の人物像が 15 、この行動に鮮明に現れている。それは、悲劇の主人公を演じる兄を背後で支え、一族の安全を実力で確保しようとする、弟の武将としてのプライドと行動力の顕現であった。
片桐兄弟の退去は、彼らが意図したか否かにかかわらず、家康に大坂を攻撃するための絶好の口実を与える結果となった 20 。豊臣家が、徳川家との唯一のパイプ役であった且元を事実上追放したことは、交渉決裂、すなわち手切れと見なされたのである。
こうして始まった大坂冬の陣において、もはや豊臣家に戻る道を断たれた片桐兄弟は、徳川方として参陣する以外に選択肢はなかった 39 。冬の陣では、且元が徳川方の砲術方を率い、備前島から大坂城本丸の淀殿の居室近くを狙って砲撃を行い、これが大坂方を和議の席に着かせる一因になったと伝えられている 17 。
翌年の大坂夏の陣では、貞隆は将軍・徳川秀忠の麾下に属し、兄・且元と共に岡山口に布陣して豊臣方と戦った 17 。長年忠誠を誓った主家に対し、弓を引かねばならなかった彼らの胸中はいかばかりであったか。しかし、彼らの視点に立てば、この行動は単なる裏切りではなく、豊臣家を自滅へと導く大野治長ら主戦派の暴走から一族の命と家名を護るための、戦国武将としての現実的かつ苦渋に満ちた決断であった。結果として、豊臣家は滅亡し、片桐兄弟と旧主家との関係は、最も悲劇的な形で完全に終焉を迎えたのである。
大坂の陣を経て豊臣家が滅亡し、徳川による天下泰平の世が訪れると、片桐貞隆の人生もまた新たな段階へと移行した。彼はもはや豊臣と徳川の狭間で揺れ動く家臣ではなく、徳川幕藩体制下における譜代の大名として、自らの領国経営に専念することになる。彼が初代藩主として築いた大和小泉藩の基礎は、その後の片桐家の安定と繁栄を支える強固なものとなった。
大坂の陣における徳川方としての戦功が認められ、貞隆は戦後、6,000石余の加増を受けた。これにより、大和小泉藩の石高は最終的に1万6,400石となった 7 。外様大名でありながら加増を受けられたことは、大坂城退去から徳川方への参陣に至る一連の行動が、家康および幕府から高く評価されていたことを示している。
元和9年(1623年)、貞隆はそれまで拠点としていた摂津茨木城から、正式に本拠を大和国小泉の地に移し、藩政の中心となる陣屋(小泉城とも呼ばれる)を構えた 10 。この陣屋は、かつて南北朝時代に地元の豪族であった小泉氏が築いた館跡を拡張したものであり、貞隆はこの地に本格的な統治拠点を築くことで、名実ともに小泉藩の藩政を始動させたのである。
初代藩主としての貞隆の治世は、決して名目上のものではなかった。彼は藩の統治体制を固めるため、具体的な施策を次々と実行していった。
藩の統治形態としては、地方知行制(じかたちぎょうせい)を採用していたことが史料から確認できる 45 。これは、藩主が家臣に対して直接土地(知行地)を与え、その土地からの年貢徴収権を認める制度である。寛永4年(1627年)の史料によれば、城忠兵衛に450石、谷村勘兵衛に350石といった具合に、18人の家臣に対して合計で2,800石以上の知行地が与えられていた 45 。これは、藩の草創期において、家臣団との主従関係を土地を介して強固に結びつけようとする、当時の一般的な統治手法であった。
また、貞隆は自藩の経営に留まらず、幕府からの公務も忠実にこなしている。元和7年(1621年)には、大坂の四天王寺の普請奉行に任命されており、その行政手腕を発揮した 22 。さらに、自身の所領とは別に、摂津国内の幕府直轄地(天領)1万6,000石余の預かり、すなわち代官としての役割も担っていた 10 。これらの事実は、貞隆が幕府から厚い信頼を寄せられた有能な実務官僚としての一面も持っていたことを示している。
動乱の時代を生き抜き、新たな藩の礎を築いた貞隆であったが、寛永4年(1627年)10月、68歳でその生涯に幕を閉じた 3 。
彼の遺体は、和泉国貝塚(現在の大阪府貝塚市)にある青松寺に葬られたと記録されている 10 。なぜ領地である大和国小泉ではなく、和泉国の寺院が墓所となったのか、その明確な理由は史料からは断定できない。しかし、この青松寺は寛永18年(1641年)に江戸の愛宕下に移転したという記録もあり 46 、貞隆の死後、その墓所も複雑な経緯を辿った可能性が考えられる。
一方で、貞隆の死から36年後の寛文3年(1663年)、息子であり小泉藩2代藩主となった片桐貞昌(石州)は、父・貞隆の菩提を弔うため、自らの領地である大和国小泉の地に、臨済宗大徳寺派の寺院として慈光院を建立した 47 。これにより、貞隆は二つの場所にその魂を祀られることとなった。
この墓所と菩提寺の分離は、片桐家の歴史と父子の関係性を象徴的に物語っている。貞隆が亡くなった時点では、まだ藩の体制は盤石ではなく、大規模な菩提寺を建立する経済的・政治的な余裕がなかったのかもしれない。しかし、時を経て茶人として大成し、将軍家の指南役にまでなった息子・石州にとって、父の菩提寺を自らの美意識と哲学の集大成として、本拠地である小泉の地に建立することは、父への最大の追慕の表現であった。特に慈光院が、単なる寺院ではなく「境内全体が一つの茶席」として設計されていることは 47 、それが石州自身の文化的達成の記念碑でもあったことを示している。貝塚の青松寺が貞隆の武将としての人生の終着点を示すとすれば、大和の慈光院は、息子によって文化的に昇華された新たな時代の始まりを象徴していると言えよう。
片桐貞隆が後世に遺した最大の遺産は、彼が築いた藩そのものに加え、彼の血筋から、日本の茶道史に不滅の名を刻む偉大な文化人、片桐石州(貞昌)を輩出したことである 7 。貞隆が動乱の時代を生き抜き、藩という安定した基盤を築いたからこそ、息子・石州は平和な時代に文化の華を咲かせることができた。貞隆の家系は、武断の時代から文治の時代への移行を、見事に体現したのである。
片桐貞昌(慶長10年(1605年) - 延宝元年(1673年))は、貞隆の長男として摂津茨木で生まれた 53 。父・貞隆の死後、22歳で家督を継ぎ、大和小泉藩の2代藩主となった 22 。彼は藩主として治水事業などで功績をあげる一方、茶人としてその才能を遺憾なく発揮する 55 。
貞昌は、千利休の系譜を引く桑山宗仙に茶を学び、その奥義を究めた 55 。さらに、知恩院の再建奉行として京都に滞在した際には、千宗旦や小堀遠州といった当代一流の文化人たちと積極的に交流し、自らの茶の湯を磨き上げた 57 。彼の茶風は、千利休の「わび」の精神を基盤としながらも、大名としての品格と威儀を重んじる武家茶道として独自の境地を切り拓いたものであった。
その名声はついに江戸城まで届き、寛文5年(1665年)、4代将軍・徳川家綱の茶道指南役に任命される 7 。これにより、彼の流派は「石州流」として公的に認められ、武家社会を中心に広く普及していくことになった。
貞隆自身が茶の湯にどの程度深く関与していたかを示す直接的な史料、例えば彼が催した茶会の記録などは乏しい 57 。しかし、彼が残した書状からは 61 、武将としての嗜みとして、茶の湯に対する一定の素養と関心があったことは十分に推察される。何よりも、息子である貞昌がこれほど偉大な文化人として大成できた背景には、父・貞隆が築き上げた小泉藩という安定した経済的・政治的基盤の存在が不可欠であったことは論を俟たない。貞隆が戦国の荒波を乗り越え、藩の礎を築き、家を守り抜いたからこそ、息子・貞昌は争乱の心配なく文化の道に没頭し、その才能を開花させることができたのである。貞隆の武将としての功績は、石州という文化的な巨星を生み出す土壌を整えたという点において、二重の意味で評価されるべきである。
貞隆が創始した大和小泉藩片桐家は、その後、2代藩主・貞昌が弟や庶兄に領地を分与(分知)したため石高は1万1,000石まで減少したが 7 、改易されることなく、幕末・明治維新に至るまで11代(または12代)にわたって存続した 7 。途中、血筋が途絶えそうになり他家から養子を迎えることもあったが、家そのものは存続し続けたのである。
これは、兄・且元が創始した大和竜田藩が、4万石という大きな石高を有しながらも、後継者に恵まれずわずか数代で断絶してしまったのとは、極めて対照的な結果であった 8 。この兄弟の家系の明暗は、時代の価値観の変化を象徴している。且元の家は戦国的な「武」の功績によって大きな領地を得たが、平和な時代にはその価値を維持しきれなかった。一方で、貞隆の家は石高こそ少ないものの、2代目の石州が「文」の象徴である茶道において幕府の権威と深く結びつくことで、家の存続を盤石なものにした。
結果的に、貞隆の家系は、武力から文化へと、時代の求めるものが変化していく流れに見事に対応し、生き残ることに成功した。片桐貞隆の真の功績は、単に一藩の創業者であったことに留まらない。彼は、新たな時代に適応し、文化の力によって家を永続させる後継者を育て上げた、先見の明ある父でもあったのである。
代 |
氏名 |
読み |
続柄 |
在位期間 |
享年 |
主要な出来事 |
1 |
片桐 貞隆 |
かたぎり さだたか |
- |
1601年 - 1627年 |
68 |
大和小泉藩立藩。大坂の陣後に1万6400石となる。 |
2 |
片桐 貞昌 |
かたぎり さだまさ |
貞隆の長男 |
1627年 - 1673年 |
69 |
茶道石州流の祖。弟・貞晴に3000石を分知。 |
3 |
片桐 貞房 |
かたぎり さだふさ |
貞昌の三男 |
1673年 - 1703年 |
46 |
庶兄・信隆に1000石を分知。与力給地公収により1万1000石となる。 |
4 |
片桐 貞起 |
かたぎり さだおき |
貞房の長男 |
1703年 - 1710年 |
23 |
- |
5 |
片桐 貞音 |
かたぎり さだなり |
貞房の三男 |
1710年 - 1741年 |
41 |
- |
6 |
片桐 貞芳 |
かたぎり さだよし |
貞音の長男 |
1741年 - 1787年 |
67 |
- |
7 |
片桐 貞章 |
かたぎり さだあき |
貞芳の長男 |
1787年 - 1803年 |
36 |
- |
8 |
片桐 貞信 |
かたぎり さだのぶ |
貞章の長男 |
1803年 - 1841年 |
53 |
茶人・遜斎として知られる。石州流中興の祖。 |
9 |
片桐 貞中 |
かたぎり さだなか |
貞信の長男 |
1841年 - 1843年 |
20 |
- |
10 |
片桐 貞照 |
かたぎり さだてる |
貞信の三男 |
1843年 - 1862年 |
34 |
- |
11 |
片桐 貞利 |
かたぎり さだとし |
貞信の五男 |
1862年 - 1863年 |
18 |
他家からの養子を迎えるようになる。 |
12 |
片桐 貞篤 |
かたぎり さだあつ |
水戸徳川家出身の養子 |
1863年 - 1871年 |
53 |
戊辰戦争では新政府軍に協力。版籍奉還、廃藩置県を迎える。 |
注:歴代藩主の代数や続柄、石高の変動については諸説あり、本表は主要な史料に基づき作成した 7 。