犬川荘助は『南総里見八犬伝』の八犬士で、「義」の玉を持つ。苦難を乗り越え、犬塚信乃らと義兄弟の契りを結び、里見家のために活躍。武士としての誇りを取り戻し、城主となり、最後は仙人となった。
江戸時代の文豪、曲亭馬琴が28年もの歳月を費やして完成させた長編伝奇小説『南総里見八犬伝』は、安房里見家の興亡を背景に、仁・義・礼・智・忠・信・孝・悌の八つの徳を宿す霊玉を持つ八犬士の活躍を描いた物語である 1 。その八犬士の中でも、儒教の徳目の一つである「義」の玉をその身に宿すのが、犬川荘助義任(いぬかわそうすけよしとう)である。
物語において、荘助はしばしば「八犬士随一の苦労人」と評される 3 。その生涯は、他の犬士たちと比較しても、特に多くの苦難と試練に満ちている。しかし、この「苦労」は単なる悲劇的な背景設定にとどまるものではない。むしろ、彼が体現すべき「義」という徳の本質と深く結びついている。
「義」とは、単なる正義感や正しさを指すだけではない。主君への忠義、朋友への信義、そして家門への責任といった、他者との関係性の中で実践されるべき徳目である。荘助の物語は、父の非業の死、母との死別、そして高貴な武士の身分から下男への転落という、彼が守るべき「義」の対象を一度すべて剥奪されるところから始まる 3 。その絶望的な状況下で、彼は犬塚信乃という新たな「義」の対象と出会い、その徳を試され、証明していくことになる。したがって、彼の経験する「苦労」は、彼が宿す「義」の徳をより一層輝かせるための、不可欠な触媒として機能しているのである。
本報告書は、犬川荘助義任の波乱に満ちた生涯を丹念に追跡し、その出自から晩年に至るまでの軌跡を詳細に分析する。それを通じて、作者である馬琴が「義」という徳目に込めた多層的な意味、そして過酷な運命に翻弄されながらも、自己の尊厳と社会的地位を回復していく人間の崇高な姿を明らかにすることを目的とする。
犬川荘助の物語は、輝かしい出自と、その唐突な崩壊から幕を開ける。彼の幼名は荘之助(そうのすけ)といい、長禄3年(1459年)12月1日に伊豆国で生を受けた 3 。父は犬川衛二則任(いぬかわもりじのりとう)といい、当時の伊豆を治めていた堀越公方・足利政知に仕える荘官、すなわち地方の代官という要職にあった 3 。荘助は、由緒ある武家の嫡男として、本来であれば何不自由ない生涯を送るはずであった。
しかし、その運命は寛正6年(1465年)、荘助がわずか6歳の時に暗転する 3 。父・衛二が、主君である足利政知の勘気に触れてしまったのである。その詳細は語られないものの、主君の過ちを諫めたことによるとされ、彼は理不尽にも切腹を命じられてしまう 3 。この主君の一存による悲劇的な死によって、犬川家は一夜にして没落。荘助の長く続く苦難の道が、ここに始まったのである。
主を失った犬川家には、もはや安住の地はなかった。残された母子は、母の従兄にあたる里見家家臣・蜑崎輝武(あまさきてるたけ)を頼り、再起を期して安房国を目指すこととなる 3 。しかし、幼子を連れた母の旅路は過酷を極めた。その道中、武蔵国大塚村にたどり着いたところで、母は心身の疲労と病から力尽き、厳しい冬の雪の中で息を引き取ってしまう 3 。
天涯孤独の身となった6歳の荘助は、大塚村の村長であった蟇六(ひきろく)の家に引き取られる。しかし、それは庇護ではなく、新たな苦役の始まりであった。彼は武士の子「荘之助」としての名を奪われ、「額蔵(がくぞう)」という名を与えられ、下男として酷使される日々を送ることになる 3 。この「額蔵」という名は、彼の社会的地位の喪失のみならず、本来の自己を見失った忍従の時代を象徴するものであった。
下男としての日々を送る荘助であったが、彼には伏姫の因縁によって定められた宿命が秘められていた。その証である「義」の霊玉との出会いは、他の犬士たちとは一線を画す、極めて象徴的な形で訪れる。
荘助が「義」の玉を手にした経緯は、彼が自らの胞衣(えな、出生時に体を包んでいた胎盤やへその緒など)を埋めようと、家の閾(しきみ、敷居)の下を掘った時のことである。その際、犬川家の老僕が土中から偶然にも霊玉を発見し、それが荘助の手に渡ったとされている 7 。
この玉の発見場所には、深い象徴性が込められていると考えられる。閾(敷居)とは、家の内と外とを隔てる境界線である。荘助は、高貴な武士の家という「内」の世界に生まれながら、運命の奔流によって下男という「外」の世界へと追いやられた存在である。その境界線上から、彼の本質であり、武士としての魂の証でもある「義」の玉が出現したことは、彼がいつか本来いるべき世界へと回帰する運命にあることを強く暗示している。さらに、「胞衣を埋める」という行為自体が、自らの出自、すなわち犬川家との断ち切れない繋がりを確認する儀式とも解釈できる。その儀式を通じて霊玉を得るという筋書きは、彼の宿命が、没落した家門の再興という責務と不可分であることを示唆しているのである。
表1:犬川荘助義任の生涯と名前の変遷
年齢(数え年) |
西暦/和暦(目安) |
名前 |
主要な出来事 |
その意義 |
1歳 |
1459年(長禄3年) |
荘之助 |
伊豆国にて、犬川衛二則任の子として誕生。 |
武士としての出自。 |
6歳 |
1465年(寛正6年) |
荘之助 |
父・衛二が主君の勘気に触れ切腹。家門が没落する。 |
苦難の人生の始まり。 |
6歳 |
1465年 |
額蔵 |
母と共に流浪の末、大塚村で母と死別。下男となる。 |
社会的地位と自己の喪失。 |
12歳 |
1470年(文明2年) |
額蔵 |
大塚家に来た犬塚信乃と出会い、同じ痣と玉を持つことを知る。 |
運命の転機。犬士としての宿命の覚醒。 |
12歳 |
1470年 |
犬川荘助義任 |
信乃と義兄弟の契りを結び、武士としての名を名乗る。 |
精神的な自己回復の第一歩。 |
12歳以降 |
1470年以降 |
犬川荘助義任 |
庚申塚での救出後、完全に「額蔵」の名を捨て、犬士として生きる。 |
社会的・精神的な再生の完了。 |
「額蔵」として忍従の日々を送っていた荘助の運命が大きく動き出すのは、文明2年(1470年)、彼が12歳の時であった 8 。この年、同じく数奇な運命を背負う少年、犬塚信乃が、伯母夫婦である蟇六の家に引き取られてくる。荘助は、主人である蟇六から信乃の世話役、そして実質的な監視役を命じられた 4 。
当初、女装して育ったという過去を持つ信乃は、周囲に心を閉ざしていた 5 。しかし、ある時、荘助は信乃の腕に自分と同じ牡丹の痣があること、そして彼が「孝」の文字が浮かぶ霊玉を所持していることに気づく 4 。これこそが、伏姫の因縁によって結ばれた八犬士の証であった 9 。荘助は自らの出自と、背中に同じ痣、そして「義」の玉を持つことを信乃に明かす。互いが同じ宿命を背負う同志であることを悟った二人は、主人と下男という身分の違いや境遇を超え、固い義兄弟の契りを結んだ 7 。この運命的な出会いこそ、荘助が失われた自己を取り戻し、「額蔵」から「犬川荘助義任」へと回帰するための、決定的な第一歩となったのである。
義兄弟の契りは、すぐに試されることとなる。信乃が父から託された名刀「村雨丸」を我が物にしようと企む蟇六は、信乃を殺害し刀を奪う計画を立てる 4 。そして、古河公方への仕官を目指して旅立つ信乃に対し、蟇六は荘助に追っ手となるよう命じた 4 。
表向きは主人の命令に従う荘助であったが、その真意は義兄弟である信乃を守ることにあった。彼は追っ手を装いながら信乃に同行し、その道中の安全を確保すると、古河の城下町まで無事に送り届けた。そこで初めて、荘助は「俺がお前の追っ手だったんだ」と真相を明かし、自らは村に戻って「信乃を討ち取った」と偽りの報告をすることで、信乃の命を救ったのである 4 。
この行動は、荘助が体現する「義」の徳が、いかに人間的な情愛と信頼に根差しているかを示す象徴的な逸話である。彼にとっての「義」とは、形式的な主従関係(下男として蟇六に仕える義務)よりも、義兄弟との間に交わされた魂の盟約を優先するものであった。それは、封建的な主従の義理を絶対視するのではなく、それが人の道に悖る(もとる)場合には、より高次の「義」(朋友への信義)を貫くべきだという、馬琴の人間味あふれる道徳観を色濃く反映している。荘助の「義」は、冷徹な正義ではなく、温かい血の通った忠義として描かれているのである。
信乃を逃がした荘助の義挙は、しかし、彼自身にさらなる試練をもたらす。信乃を取り逃がしたことがやがて露見し、荘助は主人であった蟇六を殺害したという身に覚えのない濡れ衣を着せられ、捕らえられて投獄されてしまう 4 。
牢内での日々は過酷を極めた。信乃の行方を吐かせようと、役人たちによる厳しい拷問が連日繰り返される。しかし、荘助は決して屈しなかった。彼は義兄弟との誓いを守り、一切口を割ることなく、すべての拷問に耐え抜いたのである 4 。この超人的なまでの忍耐力と強靭な精神力は、彼が宿す「義」の霊玉がもたらす加護の現れであると同時に、彼の忠義心がいかに固いものであるかを証明するものであった。
ついに荘助は、武蔵国巣鴨の庚申塚刑場へと引き出され、処刑の時を待つ身となる 4 。彼の命運も尽きたかと思われた、まさにその刹那であった。
刑場に、三人の若者が颯爽と現れる。芳流閣での一件を経て義兄弟となった、犬塚信乃、犬飼現八、そして犬田小文吾の三犬士であった 10 。彼らは荘助の窮地を知り、その救出のために駆けつけたのである。三人は役人たちを相手に見事な連携で立ち回り、処刑寸前の荘助を鮮やかに救い出すことに成功する 4 。この庚申塚での一件は、後に「義任奪還作戦」とも呼ばれ、八犬士の物語の中でも特に、彼らの間の固い絆と、互いを助け合う義の精神を象徴する名場面として知られている 4 。
この劇的な救出劇は、荘助の人生における最大の転換点となった。もはや彼を縛るものは何もない。彼はこの瞬間をもって、過去の屈辱と忍従の象徴であった下男「額蔵」の名を完全に捨て去ることを決意する 3 。そして、本来の姿である武士「犬川荘助義任」として、信乃ら義兄弟と共に、他の犬士を探し、里見家の下に集うという、新たな旅路へと踏み出すのであった。
庚申塚での一件は、単なる物理的な救出に留まらない。それは、荘助が失っていた武士としての誇りと自己を完全に取り戻し、社会的にも精神的にも再生を遂げた瞬間であった。ここに、八犬士の一人、犬川荘助義任が真に誕生したのである。
犬士としての旅路において、荘助は他の犬士たちと時に反目し、時に協力しながら、その絆を深めていく。
八犬士が里見家に集結した後、里見家と関東管領・扇谷定正らの連合軍との間で大規模な合戦が勃発する 10 。この関東大戦において、荘助は一介の武士としてではなく、軍を率いる将としての非凡な才能を開花させる。
彼は犬田小文吾と共に、戦局の鍵を握る重要な拠点の一つ、行徳口の防禦使(正使)に任命された 4 。下男としての長い忍従生活で培われた忍耐力と観察眼は、戦場においても彼の武器となった。荘助は、川べりの葦原に兵を巧みに伏せるという奇襲作戦を立案し、自ら先頭に立ってこれを実行。副使の小文吾との息の合った連携攻撃により、油断していた敵軍を壊滅させ、里見軍の勝利に大きく貢献した 4 。この活躍は、彼が苦難の末に、将としての器量をも備えるに至ったことを示すものであった。
荘助の物語を語る上で欠かせないのが、犬川家伝来の名刀「雪篠」の存在である 12 。この刀は、荘助の父・衛二の愛刀であり、犬川家の誇りの象徴であった。しかし、家の没落と同時に人手に渡り、数奇な運命を辿った末に、偶然にも犬塚信乃の手に渡っていた。そして、巡り巡って、ついに本来の持ち主である荘助の元へと返還されるのである 12 。
この一連の出来事は、単なる武具の返還以上の意味を持つ。武士にとって刀は魂であり、家伝の刀は、その家門の歴史と名誉そのものである。荘助が「額蔵」から「犬川荘助義任」へと名前を取り戻したことが精神的な自己回復であるとすれば、家伝の刀である「雪篠」を取り戻したことは、失われた社会的地位と武士としての誇り、すなわち彼のアイデンティティを完全に回復したことを象徴する、物語上の重要な儀式であったと言えるだろう。
関東大戦における目覚ましい功績により、荘助は戦後、その働きを高く評価され、小長狭(おながさ)城の城主に任命される 3 。長きにわたる流浪と忍従の末、彼はついに安住の地と、その忠義にふさわしい地位を得たのである。
さらに、里見家当主・里見義実の孫娘の一人である二女・城之戸姫(しろのとひめ)を妻として迎えることになった 3 。二人の間には一男二女が生まれ、その子供たちもまた、長男は犬塚信乃の娘を妻に迎え、娘は荘助の母方の縁戚である蜑崎家や、義兄弟・信乃の家系である大塚家と縁組を結ぶ 3 。これにより、八犬士たちの絆が次代へと確かに受け継がれていく様が描かれている。八犬士随一の苦労人であった彼が、一城の主となり、幸福な家庭を築くという結末は、彼の義理堅さと忍耐が正しく報われたことを示すものであり、『八犬伝』全体を貫く勧善懲悪のテーマを力強く体現している。
人間としての務めをすべて果たし、子供たちに家督を譲った後、荘助は他の七人の犬士たちと共に俗世を離れる。彼らは安房国の霊峰・富山(とみさん)に籠り、やがて仙人になったと物語は結ばれる 1 。これは、彼らが地上での役割を全うし、人間を超越した存在へと昇華したことを示唆する、伝奇物語にふさわしい荘厳な結末である。
犬川荘助義任の生涯を俯瞰するとき、彼が体現した「義」とは、決して単一的な徳目ではなかったことがわかる。それは、義兄弟である信乃への個人的な「信義」、亡き父祖と家門への「責任」、そして主家である里見家への公的な「忠義」という、複数の階層からなる複合的な徳目であった。彼の忍従、自己犠牲、そして揺るぎない忠誠心は、馬琴が生きた封建社会における理想的な武士像の一つを描き出している。同時に、その物語には、理不尽な運命に翻弄されながらも、自らの意志と行動で道を切り拓いていく、近代的な人間像の萌芽を見て取ることができる 16 。
『南総里見八犬伝』の物語は、その発表当時から現代に至るまで、歌舞伎、映画、アニメ、漫画など、様々なメディアで繰り返し翻案されてきた 18 。その中で、犬川荘助の人物像もまた、時代ごとの解釈を加えられ、変容を遂げている。
これらの現代的な翻案作品において、荘助の「苦労人」としての一面や、犬塚信乃との絆が、原作以上に強調される傾向が見られる。これは、時代が求める英雄像の変化を反映したものであり、犬川荘助というキャラクターが持つ普遍的な魅力が、今なお多くの創作者と享受者に影響を与え続けている証左と言えよう。
『南総里見八犬伝』の登場人物を考察する上で、一部で犬川荘助の父と混同されがちな人物に「糠助(ぬかすけ)」がいる。本報告書の正確性を期すため、両者の関係を明確にしておく。
糠助は、安房国洲崎の百姓(半農半漁)であり、八犬士の一人である犬飼現八(いぬかいげんぱち)の実の父親である 27 。彼の幼名は玄吉(げんきち)といった 3 。糠助は妻に先立たれ、生活に困窮した末に禁漁区で密漁を行い、死罪となるところを里見家の恩赦で追放処分となる 28 。その後、幼い玄吉を古河公方の家臣・犬飼見兵衛の養子に出し、自らは武蔵国大塚村に移り住んだ 3 。そして、偶然にも犬塚信乃の隣人となり、死の間際に、同じ痣と玉を持つ息子の存在を信乃に託して息を引き取った 27 。
犬川荘助(額蔵)も同時期に大塚村にいたため、物語の読者の間で混乱が生じやすいが、荘助の父はあくまで伊豆の荘官・犬川衛二則任である 3 。糠助と荘助の間に直接的な血縁関係はなく、両者は明確に別人であることをここに記す。