最終更新日 2025-06-09

犬甘政徳

「犬甘政徳」の画像

日本の戦国時代の武将「犬甘政徳」に関する詳細調査報告

序章:犬甘政徳という武将

  • 導入:戦国期信濃における犬甘政徳の位置づけ
    犬甘政徳(いぬかい まさのり)は、戦国時代の信濃国にその名を刻んだ武将である 1 。信濃守護であった小笠原氏の家臣として、また安曇郡犬甘城主として、甲斐の武田氏による信濃侵攻という未曾有の激動期を生き抜いた 1 。彼の生涯は、主家への忠誠、自領の防衛、そして時代の荒波の中での一族の存続という、戦国武将が直面した普遍的な課題を映し出している。本報告では、犬甘政徳の生涯、彼が属した犬甘氏の淵源、さらにはその後の犬甘一族の歴史について、現存する史料を博捜し、可能な限り多角的な視点からその実像に迫ることを目的とする。利用者からの「詳細かつ徹底的に調査し」という要望に応えるべく、関連する情報を網羅的に検討する。
  • 本報告の構成と目的
    本報告は、まず犬甘氏の出自と信濃における基盤を明らかにし(第一章)、次に犬甘政徳の具体的な事績、特に小笠原氏への忠節と犬甘城を巡る攻防を詳述する(第二章)。続いて、政徳像を伝える主要史料である『犬甘代々古老夜話集』を中心に、史料的検討を加える(第三章)。さらに、政徳以降の犬甘氏の動向、特にその子孫が小笠原家中で果たした役割や豊前小倉藩での活躍を追う(第四章)。最後に、これらの調査結果を総括し、犬甘政徳及び犬甘一族の歴史的意義を考察する(第五章)。
    このような構成を通じて、一地方武将とその一族の歴史を丹念に追うことで、戦国時代から近世初頭にかけての信濃国、ひいては日本全体の社会変動や武士の生き様の一端を浮き彫りにすることを目指す。犬甘政徳個人の事績に留まらず、一族の長期的な歴史的展開を視野に入れることで、より深みのある歴史像を提示し、専門家としての深い洞察を求める期待に応えたい。単一の出来事や人物の表面的な記述に終始するのではなく、その背景、関連性、そして後世への影響までを包括的に理解しようとする試みである。

第一章:犬甘氏の出自と系譜

  • 1.1. 犬甘氏の起源に関する諸説
    犬甘氏の出自については、古来より複数の説が伝えられており、今日においても完全に解明されたとは言い難い状況にある 3 。これらの諸説は、犬甘氏が信濃の地で勢力を築き上げる過程で、自らの権威や正当性を示すために、様々な伝承が形成され、あるいは取捨選択されてきた可能性を示唆している。
  • 大伴氏後裔説: 犬甘氏は、古代ヤマト王権において軍事・刑罰を司った有力氏族である大伴氏の子孫を称したとする説がある 1 。これは、中世の武士が自らの家格を高めるために、中央の著名な古代氏族に系譜を繋げるという、当時一般的に見られた傾向の一つと理解できる。この説が事実であれば、犬甘氏は中央との何らかの繋がりを意識していたことになる。
  • 辛犬甘氏(からいぬかいし)後裔説: 『信濃史源考慮』などの文献には、犬甘氏が安曇郡の古代豪族である辛犬甘氏の後裔であるとの記述が見られる。この「辛犬甘」は「韓犬甘」とも表記され、朝鮮半島からの渡来系の氏族であった可能性が濃厚に指摘されている 4 。姓に冠された「辛(韓)」の字が渡来系であることを示す場合があること、そして犬甘氏の本拠地であった安曇郡が、古代より同じく渡来系とされる有力氏族・安曇氏(阿曇氏)の活動拠点であったという地理的・歴史的背景が、この説の信憑性を高めている 7 。実際に、犬甘氏の拠点周辺には古墳や遺跡が残り、辛犬甘氏の居住地域が限定されていたことが、この説の根拠の一つとして挙げられている 5 。この説が正しければ、古代における信濃、特に安曇郡への渡来文化の波及と、それが在地勢力と融合していく様相の一端を示す事例となり得る。
  • 平賀氏後裔説: 一方で、鎌倉時代に編纂された系図集である『尊卑分脈』には、信濃国佐久郡に勢力を有した源姓平賀氏の一族、平賀盛義の子である敦義が犬甘氏と改称し、その祖となったという記述も存在する 4 。平賀氏は信濃における有力な武士団の一つであり、この説は犬甘氏が他の信濃武士団と姻戚関係や同盟関係を結ぶ上で有利に働いた可能性も考えられる。しかし、『尊卑分脈』の成立時期が平賀盛義の活動時期から数百年後であることや、他の史料との整合性の問題から、この記述の信憑性については慎重な検討が求められる 4
  • 安曇犬養氏との関連: さらに、辛犬甘氏とは別に、安曇部(古代の職業部民の一つで、漁業や航海に従事したとされる)の一党とされる安曇犬養氏という氏族の存在も確認されており、犬甘氏がこれらのうちどの系統に直接連なるのか、あるいは複数の系統と複雑に関係していたのかについては、未だ明確な結論は出ていない 4

これらの諸説が並立している状況は、中世武士団の系譜意識の複雑さを反映していると言えよう。自己のルーツを語る際に、純粋な血縁関係だけでなく、地縁、政治的関係、さらには時代の要請に応じた由緒の選択といった要素が複雑に絡み合っていたことが推察される。 表1:犬甘氏出自に関する諸説比較

説の名称

主な根拠史料・内容

指摘される点・課題

大伴氏後裔説

犬甘氏自身が称したとされる伝承 1

中世武士が家格向上のために古代名族に系譜を繋げる一般的な傾向。具体的な証拠に乏しい。

辛犬甘氏(渡来人)後裔説

『信濃史源考慮』など。「韓犬甘」とも記され、渡来系とされる 4 。安曇郡の地理的特性、古墳・遺跡の存在 5

渡来系である蓋然性は高いが、具体的な渡来時期や経路、他氏族との関係など不明な点が多い。

平賀氏後裔説

『尊卑分脈』に平賀盛義の子・敦義が犬甘氏の祖となったと記載 9

『尊卑分脈』の成立時期が遅く、記述の信憑性に疑問が残る 4 。他の信濃武士団との関係性構築のための作為の可能性。

その他(安曇犬養氏との関連)

安曇部の一党とされる安曇犬養氏の存在 4

辛犬甘氏との関係性、あるいは犬甘氏がどちらの系統に属するのか、または双方と関連があるのか不明。

  • 1.2. 信濃国における犬甘氏の基盤
    犬甘氏は、信濃国の中でも特に安曇郡をその本拠地とし 1 、現在の松本市蟻ヶ崎台に位置した犬甘城 10 を中心として、一帯に勢力を扶植していた。この地域は松本盆地の西部に広がり、山々に囲まれつつも、他地域との交通路が交差する戦略的にも重要な地点であったと考えられる 13 。犬甘城は、小笠原氏の本城である林城の西方を守る支城としての役割も担っており 1 、小笠原氏の防衛戦略において欠くことのできない存在であった。
    犬甘氏の勢力は単独のものではなく、一族からは平瀬氏や村井氏といった庶流が分出したとも伝えられており 14 、安曇郡および隣接する筑摩郡にかけて、血縁と地縁を基盤とした広範なネットワークを形成し、地域社会に深く根差した豪族としての性格を強めていた 4 。このような庶家の分出は、一族全体の勢力拡大と地域支配の強化に繋がったと考えられる。
    その歴史を遡ると、南北朝時代には犬甘氏の一党によって犬甘城が築城されたとの伝承があり 4 、これは彼らがこの地に確固たる足場を築き始めた時期を示唆している。その後、室町時代を通じて、信濃国の守護職を世襲した小笠原氏の勢力下に組み込まれ、その家臣団の一翼を担うようになった 4 。しかし、単なる従属的な家臣というよりは、自立性の高い在地領主としての側面も併せ持っていたと推測される。戦国時代の複雑な勢力関係の中で、より大きな権力への帰属を選択しつつも、自らの領地と一族の維持を図るという、当時の多くの地方豪族と同様の道を歩んだのであろう。

第二章:犬甘政徳の生涯と事績

  • 2.1. 小笠原長時への忠節 ― 塩尻峠の戦いとその影響
    犬甘政徳は、信濃の戦国大名であり、府中小笠原氏の当主であった小笠原長時の家老として、その治世を支えた重臣の一人であった 1 。彼の名は、特に主家が窮地に陥った際の忠節によって、後世に記憶されることになる。
    天文17年(1548年)、小笠原長時は甲斐の武田信玄(当時は晴信)と雌雄を決するべく塩尻峠で大規模な合戦に及んだが、結果は小笠原軍の惨敗に終わった。長時は辛うじて本拠である林城へと退却したが、この敗北は小笠原氏の信濃における支配体制を大きく揺るがすものであった。多くの家臣が武田氏の勢威を恐れて離反、あるいは降伏する中で、犬甘政徳は、同じく小笠原氏の重臣であった平瀬義兼や二木重高らと共に、なおも小笠原氏への忠節を貫き通した 1 。この行動は、戦国武士の理想的な姿の一つとして評価されるべきものであり、当時の武士の価値観や倫理観を体現していたと言える。
    この敗戦は、小笠原氏にとってまさに致命的な打撃であり、これを契機として信濃国内の勢力図は武田氏優位へと大きく塗り替えられていく。政徳の忠誠心は、このような主家存亡の危機的状況下においてこそ、際立って輝きを放った。多くの家臣が自らの保身や新たな主を求めて離散する中での彼らの踏み止まりは、小笠原家臣団内部の深刻な動揺と、それでもなお主家を支えようとする中核的な家臣層の存在を示している。
    ある史料 15 によれば、敗戦後の小笠原家の評定は常に重苦しい雰囲気に包まれており、政徳はそのピリピリとした空気を少しでも和ませようと試みたが、ことごとく失敗に終わったと伝えられている。この描写は、深刻な状況下における人間関係の機微や、政徳の人間性の一端を垣間見せるものであり、彼を単なる剛直な忠臣としてだけでなく、苦悩する人間味のある人物として捉えることを可能にする。忠誠心は厚くとも、必ずしも政治的な駆け引きや場の空気を読むことに長けていたわけではなかったのか、あるいは、それほどまでに当時の小笠原家が置かれた状況が絶望的であったのか、その両面が考えられる。
  • 2.2. 犬甘城主としての抵抗 ― 武田氏の侵攻と犬甘城の落城
    犬甘政徳は、信濃国安曇郡に位置する犬甘城の城主であり、小笠原氏の本城である林城の西方を守る支城の一つを領有していた 1 。犬甘城は、山麓に平時の居館である犬甘館を構え、有事の際には山上の城郭を詰城として使用するという、典型的な中世山城の形態をとっていた 11
    天文19年(1550年)頃になると、武田晴信(信玄)による信濃侵攻はますます本格化し、小笠原氏の諸城も次々とその攻撃目標となった。犬甘城も例外ではなく、城主である犬甘政徳(一部史料では「犬甘大炊助」の名で記される 1 )は、城兵を率いて武田軍の侵攻に対し頑強な抵抗を示したと伝えられる 16
    犬甘城の落城の経緯については、武田方の勇将として名高い馬場信春(信房)の巧みな計略によるものであったという逸話が、特に『二木家記』などの記録を通じて後世に伝えられている 1 。それによれば、当時、小笠原氏と連携していた村上義清からの援軍が犬甘城へ向かっているとの風説が流れた。これを信じた犬甘政徳は、城近くに現れた馬場信春率いる武田の物見隊を村上からの援軍と誤認(あるいは、援軍と勘違いして油断)し、城外へ出迎えたところを不意に包囲されてしまった。政徳は辛くもその場を脱出したが、城へ戻ることは叶わず、二木重高の館へと逃れたという。主を失った犬甘城は、こうして武田方の手に落ちたとされる 3 。この逸話が事実であれば、戦国時代における情報戦の重要性や、一つの誤報・誤認が戦局を大きく左右した事例として注目される。
    ただし、この馬場信春の計略に関する逸話については、ある資料 17 が「犬甘政徳は室町時代の武将なので真偽は怪しい」と注記している。しかしながら、犬甘政徳が戦国時代の武将であることは、他の多数の信頼性の高い史料 1 から明らかであり、この 17 の記述自体に何らかの根本的な誤解が含まれている可能性が高い。逸話の細部における真偽はともかくとして、犬甘政徳の時代に起きた出来事として語り継がれてきた点は重要である。このような記述の存在は、史料を読む際には常に批判的な視点を持ち、複数の史料を比較検討することの必要性を改めて示している。
    犬甘城が落城した後、政徳は同じく小笠原氏の家臣であった平瀬城主・平瀬義兼を頼った 1 。その後、小笠原氏は武田氏の攻勢の前に信濃における拠点を完全に失い、越後国の長尾景虎(後の上杉謙信)を頼って落ち延びることになる。犬甘氏の一族が小笠原氏に付き従い越後へ向かった記録は残されているものの、犬甘政徳自身のその後の詳細な動向については、残念ながら史料上確認することが難しくなる 1 。これは、戦国時代の敗者側の武将に関する記録が散逸しやすく、主家の記録や後世の編纂物にその名が留められるかどうかに左右されるという、当時の記録保存状況の限界を反映しているのかもしれない。犬甘城は武田氏による攻略後、その戦略的価値を失ったのか、あるいは維持が困難であったのか、おそらくそのまま廃城となったと考えられている 11 。犬甘城のような支城の陥落は、小笠原氏の地域防衛ネットワークが一つずつ解体されていく過程を象徴する出来事であった。
  • 2.3. 武田氏滅亡後の動向と犬甘一族
    犬甘政徳自身の、天正10年(1582年)の武田氏滅亡以降における明確な活動記録は、提示された史料からは確認することが困難である。前述の通り、小笠原氏が越後に亡命した後、犬甘氏がこれに随行したという記録はあるものの、政徳個人の具体的な消息は途絶えている 1 。この時期、政徳が高齢であったか、あるいは既に世を去っていた可能性も否定できないが、史料からは断定できない。
    しかしながら、犬甘一族全体としては、この武田氏滅亡とそれに続く本能寺の変という激動の時代において、再び歴史の表舞台で活発な動きを見せている。これは、犬甘政徳個人ではなく、その子息や一族が小笠原氏の信濃回復戦において重要な役割を果たしていたことを示している。
    特筆すべきは、以下の人物たちの活動である。
  • 犬甘貞知(さだとも)の活動: 小笠原貞慶(長時の子)に仕えた犬甘貞知は、天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡、および同年6月の本能寺の変という二つの大きな政変後の混乱に乗じ、主君貞慶に従って信濃国に帰還。旧小笠原領の中心であった深志城(現在の松本城)の奪還作戦に加わり、その成功に貢献した。さらに同年11月、貞慶が越後の上杉景勝と内通したとの嫌疑をかけられた会田岩下氏を討伐した際には、貞知は組衆20騎を率いて参陣している 19 。貞知と政徳との具体的な系譜関係は史料からは明らかではないが、犬甘一族中の有力な武将であったことは間違いない。
  • 犬甘久知(ひさとも)の登場と家督相続: 犬甘政徳の子とされる犬甘久知(半左衛門)は、この時期に犬甘家の家督を継承し、その後の犬甘氏の歴史において中心的な役割を果たすことになる 1 。天正10年(1582年)7月20日、小笠原貞慶と木曽義昌との間で起こった筑摩郡本山における戦闘で、犬甘治右衛門(政徳の子である政信か、あるいはその近親者か 1 )が戦死した。この治右衛門の跡を継いだのが、その弟とされる久知であった 4 。同年8月3日には、小笠原貞慶から旧領である犬甘の地四百貫文をはじめ、青島百貫文、北方三百貫文、蟻ケ崎百貫文、合計九百貫文の所領を安堵されており 5 、小笠原家臣団における犬甘氏の重要な地位が再確認された。

これらの記録は、犬甘政徳の時代が終わりを告げ、その子や甥の世代が犬甘氏の新たな担い手として台頭してきたことを示している。父祖が築いた忠誠と基盤は、次世代の活動の確かな足がかりとなった。武田氏滅亡後の信濃は、上杉氏、北条氏、徳川氏といった外部勢力に加え、小笠原氏や木曽氏といった在地勢力が旧領回復や勢力拡大を目指して複雑に争う「天正壬午の乱」と呼ばれる混乱状態に陥った 21 。犬甘一族の活動も、この大きな歴史的動乱の一部として理解する必要がある。小笠原貞慶による深志城奪還は、まさにこの混乱に乗じたものであり、犬甘氏のような譜代の家臣の働きが不可欠であった。史料の断片性から政徳個人の晩年は不明な点が多いものの、その一族が依然として小笠原家中で一定の勢力を保持し、主家の再興に貢献していたことは明らかである。 表2:犬甘政徳関連年表

西暦(和暦)

出来事

犬甘政徳および犬甘氏の動向

主な関連人物

典拠史料例

1548年(天文17年)

塩尻峠の戦い、小笠原長時が武田晴信に敗北

犬甘政徳、多くの家臣が離反する中で小笠原長時に忠節を尽くす 1 。評定で場を和ませようとするが失敗 15

小笠原長時、武田晴信(信玄)、平瀬義兼、二木重高

1

1550年(天文19年)頃

武田晴信による信濃侵攻本格化、犬甘城攻防

犬甘政徳(大炊助)、犬甘城主として武田軍に抵抗。馬場信春の計略により落城したとの伝承 3 。落城後、平瀬義兼を頼る 1

武田晴信(信玄)、馬場信春

1

小笠原氏、越後の長尾氏を頼る

犬甘氏、小笠原氏に付き従い越後へ。政徳自身の記録は乏しくなる 1

小笠原長時、長尾景虎(上杉謙信)

1

1582年(天正10年)

武田氏滅亡(3月)、本能寺の変(6月)

犬甘貞知、小笠原貞慶に従い深志城奪還に貢献 19

小笠原貞慶、織田信長、明智光秀

19

1582年(天正10年)

筑摩郡本山の戦い(7月20日)

犬甘治右衛門(政信か)、小笠原貞慶に従い木曽義昌と戦い討死。弟の犬甘久知が家督を相続 4

小笠原貞慶、木曽義昌

4

1582年(天正10年)

小笠原貞慶、犬甘久知に旧領などを安堵(8月3日)

犬甘久知、犬甘四百貫文など九百貫文の地を安堵される 5

小笠原貞慶

5

1582年(天正10年)

小笠原貞慶、会田岩下氏を討伐(11月)

犬甘貞知、組衆20騎を率いて参陣 19

小笠原貞慶、会田岩下氏

19

第三章:史料に見る犬甘政徳像 ―『犬甘代々古老夜話集』を中心に

  • 3.1. 『犬甘代々古老夜話集』の成立と性格
    『犬甘代々古老夜話集』は、江戸時代初期にあたる17世紀に成立したとされる、軍記物語風の体裁を持つ記録集である 10 。その編者については、犬甘政徳の曾孫にあたる犬甘政知(まさとも)という人物であったと伝えられており、一族の先祖の武功や家の由緒、あるいは見聞した興味深い話を後世に伝えることを目的として、聞き書きなどを基に編纂されたものと考えられている 10 。具体的には、巻一から巻三までの内容を一冊にまとめたもので、墨書で59丁(葉)からなる竪帳(縦長の帳面)形式の袋綴じ本であったという 10
    江戸時代に入り、世の中が泰平になると、戦国時代の動乱を振り返り、その頃の武勇伝や軍略を記した軍記物を編纂することが一種の流行となった。これは、武士階級が自らのアイデンティティの拠り所として、また子孫への教訓として、先祖の武功を顕彰し、家の歴史を記録しようとする意識の表れであった 10 。『犬甘代々古老夜話集』もまた、このような時代的背景のもとに生まれた記録の一つとして位置づけることができる。
    聞き書きを基礎としているという点は、この史料の性格を考える上で重要である。同時代に書かれた一次史料とは異なり、編纂までの間に人々の記憶や口承による伝承が介在するため、記述の細部における史実性の検証には慎重な吟味が必要となる。一方で、必ずしも客観的な事実のみを追求するのではなく、当時の人々が過去の出来事をどのように記憶し、語り継いできたか、その意識や価値観、あるいは一族が自らをどのように語りたかったかという「記憶された歴史」を知る上で、非常に貴重な手がかりを提供してくれる。江戸時代にこのような記録が編まれたこと自体が、武士の「家」意識の高まりと、自家の歴史を誇り、それを後世に伝えようとする強い動機が存在したことを物語っている。
  • 3.2. 『犬甘代々古老夜話集』に見る犬甘氏の逸話
    『犬甘代々古老夜話集』に収録されている具体的な逸話として、長野県立歴史館によって紹介されているものに、戦国時代の女性と鉄炮に関する興味深い話がある 10 。それは、小笠原長時の弟である信貞の子で、小笠原家の家臣であった小笠原長継の妻・安貞に関するものである。彼女は、武田氏の侵攻により信濃を追われ、没落する際に、まだ2歳であった幼い我が子・政直(法名正休)を懐に抱き、下女に鉄炮を持たせて馬に乗り落ち延びようとした。その途中、落ち武者狩りと思われる敵兵四、五人に追跡されたが、安貞は下女から鉄炮を受け取ると自ら二発放ち、追手を撃退して難を逃れたという 10
    この話は、犬甘半左衛門(これが犬甘久知を指すのか、あるいは犬甘一族の別の人物かは明確ではないが、犬甘氏の古老として)が、「昔は女性もこのように鉄炮を使っていたのだ」と往時を回顧する形で語られている 10 。この逸話は、戦国時代における女性の武勇の一端を示すものとして、また、鉄炮が戦闘だけでなく個人の護身用としても使用され、さらには女性や従者もその扱いに習熟していた可能性を示唆するものとして、非常に興味深い内容を含んでいる。ただし、これが犬甘氏の直接の先祖の話ではないものの、犬甘氏の周辺で起きた(あるいはそう語り継がれた)出来事として、一族の記憶の中に留められていたことは注目に値する。後世の編纂物であるため、ある種の理想化や教訓的な意味合いが含まれている可能性も考慮すべきであるが、語り継がれる中で形成された犬甘氏の「記憶」を反映していると言えよう。
    この『犬甘代々古老夜話集』は、国立国会図書館が所蔵する『新編信濃史料叢書 第12巻』にその一部または全部が翻刻されて収録されており、研究者がアクセス可能な状態となっている 25
  • 3.3. その他の史料における犬甘政徳
    犬甘政徳に関する記述は、『犬甘代々古老夜話集』以外にも、小笠原氏に関連する諸記録や、信濃の戦国時代を扱った後世の編纂史料、さらには犬甘城跡などの城郭に関する調査報告などにも散見される。これらの史料を多角的に検討することで、政徳の実像により近づくことができる。
    例えば、小笠原氏の同僚であった二木氏の家記とされる『二木家記』には、前述の通り、犬甘城落城の際の馬場信春の計略に関する記述が見られる 3 。このような軍記物や家記の類は、その内容の史実性について常に慎重な吟味と比較検討が必要であるが 27 、当時の出来事に関する具体的な伝承や、関係者の視点を知る上では貴重な情報源となる。特に『二木家記』の場合、二木氏側の視点からの記録であるため、犬甘氏とは同僚でありつつも、時には利害が対立する可能性もあったことを念頭に置く必要がある。
    また、犬甘政徳が城主であった犬甘城跡に関する近年の考古学的調査や城郭研究の成果 11 は、文献史料の記述を補完し、政徳の時代の城の具体的な構造、規模、そしてその戦略的な位置づけなどを物理的な証拠から推測する上で重要な手がかりを与えてくれる。これらの物的証拠は、文献史料の記述を裏付けることもあれば、新たな疑問を提示することもあり、歴史研究において不可欠な要素である。
    これらの性質の異なる複数の史料(一族の伝承、他家の記録、軍記物、考古資料など)を総合的に活用し、それぞれの史料の特性を理解した上で批判的に検討することによって、犬甘政徳に関する断片的な情報を繋ぎ合わせ、より立体的で信頼性の高い歴史像を構築することが可能となる。

第四章:犬甘氏のその後と子孫

  • 4.1. 犬甘久知の活躍と小笠原家筆頭家老へ
    犬甘政徳の子とされる犬甘久知(ひさとも、通称は半左衛門)は、父祖が築いた小笠原氏への忠勤の伝統を受け継ぎ、戦国時代末期から江戸時代初期にかけて、主家である小笠原氏に重用され、一族の地位を大きく向上させた人物である 1
    天正10年(1582年)、兄とされる犬甘治右衛門(政信)が木曽義昌との戦いで討死した後、久知は犬甘家の家督を相続した 4 。以降、彼は小笠原貞慶、その子の秀政、さらに秀政の子である忠真(資料によっては忠政とも)という小笠原氏三代の当主にわたり、忠実に仕え続けた 29 。この間、小笠原氏は豊臣秀吉の命により旧領信濃を離れて下総国古河へ、関ヶ原の戦いでの戦功により信濃国飯田へ、そして念願であった旧領松本城主として復帰を果たし、さらに大坂の陣での功績と当主の戦死という悲劇を経て播磨国明石へと、目まぐるしく所領を移された。久知は、このような主家の度重なる移封にも常に付き従い、その忠誠心と実務能力は高く評価された 4 。主家の浮沈と運命を共にし、新たな土地で家を維持していくことは、戦国時代から江戸時代初期にかけての多くの武家にとって大きな試練であったが、犬甘氏はこれを見事に乗り越えた。
    特に、小笠原氏が松本城主として信濃に復帰した後の慶長18年(1613年)、犬甘久知は小笠原秀政より1600石という高禄を与えられ、家臣団の中でも筆頭家老としての地位を確立するに至った 4 。これは、単に戦功のみならず、政徳の代からの譜代の家臣としての信頼と、久知自身の長年にわたる献身的な奉公が高く評価された結果であろう。犬甘氏が小笠原家中で確固たる地位を築いていく上で、久知の功績は非常に大きかったと言える。
  • 4.2. 豊前小倉藩における犬甘氏
    小笠原氏は、寛永9年(1632年)に播磨国明石から豊前国小倉へ15万石で移封された。これは、小笠原忠真の代のことであり、犬甘氏もまた、主家に従い、遠く九州の地へと移り住むことになった。信濃国安曇郡に発祥した犬甘氏にとって、これは大きな転換点であり、故郷との地理的・文化的な繋がりは薄れることになったが、一方で新たな土地での発展の機会ともなった。
    犬甘久知の子孫たちは、この豊前小倉藩においても小笠原氏の重臣としての地位を維持し、代々筆頭家老職を務めるなど、藩政の中枢において重要な役割を担い続けた 29 。小倉藩時代には、犬甘氏の知行高は2500石に達したとの記録もあり 4 、これは大藩における大身の家臣であることを示しており、藩政に対する彼らの影響力が相当なものであったことを推測させる。
    戦国時代の在地領主としての性格が強かった犬甘氏が、近世の藩体制下においては、藩の行政・財政・軍事を統括する家老職を世襲する家柄へと変貌を遂げたことは、武家の「家」が時代に適応し、存続していくための一つの典型的な姿を示している。犬甘氏の歴史は、戦国時代の混乱を乗り越え、江戸時代を通じて大藩の筆頭家老家として家名を維持し、発展させた成功例として評価できる。
  • 4.3. 近世以降の犬甘氏 ― 犬甘兵庫知寛の改革
    時代は下り、江戸時代も後期になると、豊前小倉藩の家老として犬甘兵庫知寛(いぬかい ひょうご ともひろ)という人物が歴史の記録に登場する 32 。彼は、犬甘政徳や久知から数世代を経た子孫にあたる。
    犬甘兵庫知寛は、長坂守興の次男として生まれたが、後に小倉藩の家老であった犬甘知徳の養子となり、1200石の家禄を相続した。安永6年(1777年)には家老職に就任し、その後、藩財政の責任者である勝手方本役などを歴任し、当時多くの藩が直面していた深刻な財政難の立て直しという困難な課題に取り組んだ 32
    彼の藩政改革の一環として特筆されるのが、「面扶持制(めんふちせい)」の導入である。これは、従来の家禄の石高に応じて米を支給するのではなく、武家の構成人数(家族や家来の数)に応じて一人一日五合の米を支給するという、当時としてはかなり大胆な制度であった 34 。この政策は、特に下級武士層にとっては生活の安定に繋がった可能性がある一方で、高禄の上級武士層からは大きな不満や反発を招いたであろうことは想像に難くない。この面扶持制の実施などにより、小倉藩の財政は一時的にいくらか改善の兆しを見せたと伝えられている 34
    しかしながら、犬甘兵庫の政治手法や政策の具体的な詳細については、残念ながら不明な点も多い。また、彼が主導した改革は、最終的には十分な成果を上げることができず、彼自身も失脚に至ったようである 32 。これは、江戸時代後期の藩政改革が、藩内の既得権益層との対立や、構造的な問題の根深さから、しばしば困難を極めたことを示す一例と言える。犬甘政徳の忠義に始まった犬甘氏の歴史が、数百年後には藩政の中枢でこのような大胆な改革を試みる人物を輩出したことは、一族の歴史の長久さと、時代ごとの役割の変化を感じさせる。

第五章:総括 ― 犬甘政徳の歴史的意義と犬甘氏の足跡

  • 5.1. 犬甘政徳の評価
    犬甘政徳は、戦国時代の信濃国において、主家である小笠原氏が甲斐武田氏の強大な軍事力の前に衰退していくという極めて困難な時期に、一貫して忠節を尽くした武将として記憶されるべき人物である。特に、天文17年(1548年)の塩尻峠における小笠原長時の惨敗後、多くの家臣が武田方に靡くなかで、平瀬義兼らと共に最後まで主家を見捨てなかった姿勢は、その義理堅い性格を明確に物語っている。また、犬甘城主として、武田氏の侵攻に対して果敢に抵抗したことも、地域の防衛に身を挺した武将としての責任感の表れと言えよう。
    しかしながら、時代の大きな趨勢には抗しきれず、犬甘城は落城し、小笠原氏もまた信濃を追われることとなった。その後の政徳自身の詳細な記録は乏しいものの、彼が築いた犬甘氏の基盤と、小笠原氏に対する揺るぎない忠誠の精神は、その子孫たちに確実に受け継がれた。政徳の評価は、単なる戦上手や智将といった側面よりも、「忠臣」としての側面に重きが置かれる傾向がある。これは、後世、特に儒教的道徳観が重視された江戸時代の価値観が影響している可能性も否定できないが、裏切りや離反が日常茶飯事であった戦国乱世の同時代においても、彼の行動は際立っていたと言えるだろう。彼の生き様は、武田の力には及ばず主家を完全に守り切ることはできなかったという限界を示しつつも、その不屈の精神が後の犬甘氏の発展に繋がる無形の遺産となったと考えられる。
  • 5.2. 犬甘一族の歴史的展開とその特質
    犬甘一族の歴史を概観すると、いくつかの顕著な特質が浮かび上がる。まず、その出自については諸説あり、古代にまで遡る可能性を秘め、渡来人との関連も指摘されるなど、信濃国安曇郡という土地に深く根を下ろした在地領主としての性格が強い。
    戦国時代に入ると、信濃守護小笠原氏の有力な家臣として活動し、犬甘政徳の代には、甲斐武田氏の侵攻という最大の試練に直面し、厳しい戦いを経験した。この時期に示された主家への忠誠心は、犬甘氏の家風として確立されたように見受けられる。
    政徳の子である犬甘久知の代になると、その才覚と忠勤によって小笠原家中で確固たる地位を築き上げた。主家の度重なる移封にも常に付き従い、最終的には近世大名小笠原家の筆頭家老家としての地位を確立し、豊前国小倉藩においてその家名を後世に輝かしく伝えた。
    犬甘一族の歴史を通じて一貫して見られるのは、第一に主家に対する強固な忠誠心であり、第二に激動の時代を生き抜くための優れた適応力、そして第三に家名を維持し、さらに発展させようとする強い意志である。一地方豪族が戦国時代の荒波を乗り越え、近世の安定した武家社会において大藩の重臣として確固たる地位を築くに至った犬甘氏の歩みは、数多の戦国武家が興亡を繰り返した中で、見事に存続し成功を収めた事例の一つとして捉えることができる。その背景には、個々の当主の能力や時運に恵まれた点もあろうが、何よりも家として継承された忠誠という価値観が、主家からの信頼を得て家運を開く上で大きな役割を果たしたと考えられる。
  • 5.3. 今後の課題と展望
    本報告では、現存する史料に基づいて犬甘政徳および犬甘一族の歴史について詳細な検討を試みたが、なお解明されていない点や、さらなる研究が期待される課題も残されている。
    特に、犬甘政徳個人の後半生、すなわち犬甘城落城後の具体的な動向や没年などについては、史料的制約から依然として不明な部分が多い。また、犬甘氏の初期の系譜、特に諸説ある出自に関するより確かな証拠の発見や、各説の関連性を明らかにする研究が望まれる。
    天正10年(1582年)前後に小笠原貞慶のもとで活躍した犬甘貞知と、犬甘政徳・久知父子との具体的な系譜上の関係についても、現時点では明確になっていない。この点を解明することは、武田氏滅亡後の混乱期における犬甘一族の動向をより正確に理解する上で重要な鍵となるであろう。
    史料面では、『犬甘代々古老夜話集』の全体像の把握と、その内容に関するより詳細な史料批判的研究が期待される。また、豊前小倉藩時代の犬甘氏に関する藩政史料や家分け文書などが新たに発掘・研究されることにより、近世における犬甘氏の具体的な活動や家中の様子がより詳細に明らかになる可能性がある。
    歴史研究は常に発展途上であり、新たな史料の発見や、既存史料に対する新たな解釈が加わることによって、過去の理解が更新されていくものである。本報告が、犬甘政徳および犬甘氏に関する今後の研究にとって、ささやかな一助となることを期待する。

引用文献

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