本報告書は、戦国時代末期から江戸時代前期にかけて肥後国人吉藩の重臣として活躍した犬童頼兄(いんどう よりもり/よりえ)、後の相良清兵衛(さがら せいべえ)の生涯と事績を、現存する資料に基づき詳細に解明することを目的とする。頼兄は、主家である相良氏の存続に多大な貢献を果たした一方で、その強大な権勢は後に「専横」と断じられ、悲劇的な結末を迎えることとなる。本報告書では、彼の功績と負の側面双方を検証し、多角的な人物像を提示する。
犬童頼兄が生きた永禄11年(1568年)から明暦元年(1655年)という時代は、織豊政権による天下統一事業から徳川幕府による全国支配体制の確立へと移行する、日本史上未曾有の激動期であった 1 。相良氏のような地方の小大名にとっては、島津氏や大友氏といった強大な戦国大名、そして中央政権の動向に絶えず翻弄され、まさに家名の存続を賭けた困難な舵取りが求められた時代である 3 。人吉藩の成立事情を鑑みても、相良氏は鎌倉初期以来の名家でありながら、戦国時代には周辺大名の勢力に挟まれ、肥後の国人一揆や竜造寺氏の台頭など、常に厳しい生存競争に晒されていた 3 。このような状況下では、外交交渉、軍略、そして藩内統制に卓越した能力を持つ家臣の存在が、藩の命運を左右するほど重要であった。犬童頼兄は、まさしくそうした時代が生んだ稀有な才覚の持ち主であり、彼の活躍と権力集中、そして最終的な失脚は、この時代の特性と深く結びついている。中央集権化が未熟な段階では、藩主の個人的資質や家臣団の結束力が藩の存亡に直結し、頼兄のような実力者が台頭し、大きな影響力を行使する余地が存在したのである。
犬童頼兄の父は、相良氏の重臣であった犬童頼安(いんどう よりやす、法名:休矣)である 1 。頼安は、相良義陽、忠房、頼房の三代に仕え、特に島津氏による水俣城攻撃の際には、敵将新納忠元と連歌の応酬を見せるなど、武勇だけでなく教養も兼ね備えた武将として知られる 4 。相良氏が島津氏に降った後も、幼主頼房を補佐し、深水宗芳(長智)と共に相良氏存続のために尽力し、家中からの信望も厚かった 4 。犬童氏は相良家譜代の重臣であり 5 、この家格と父頼安の功績は、頼兄が相良氏内部でそのキャリアを築いていく上で、大きな基盤となったことは想像に難くない。頼兄の幼名は熊徳丸と伝えられている 1 。
犬童頼兄は、永禄11年(1568年)に生誕した 1 。幼少期は延命院の稚児であったとされているが、天正9年(1581年)頃、父・頼安が島津氏の攻撃から水俣城を守った際、頼兄は寺を抜け出して父と共に籠城し、初陣を飾ったと伝えられる 1 。この稚児から武将への転身とも言える逸話は、若き頼兄の強い意志と、武門の子としての自覚の表れであろう。父・頼安の武功と主家への忠誠心は、主君からの信頼の礎となり、その息子である頼兄に対しても、将来を期待させるに十分な影響を与えたと考えられる。
当時、相良家の家老職は深水長智(ふかみ ながとも)が務めていた。長智は犬童頼兄の才能を高く評価しており、実子が早世したため、頼兄を自らの後継者として養子に迎えようとしたとされる 1 。しかし、この動きに対し、深水一族の竹下監物らは、代々深水家が務めてきた奉行職の慣例に反するとして強く反対した 1 。そのため長智は妥協案として、主君・相良頼房(さがら よりふさ、後の長毎)の許しを得て、自身の甥であり養子とした深水頼蔵(ふかみ よりくら)を奉行(執政)とし、頼兄をその補佐役とするよう進言した 1 。
しかし、藩主・頼房は、深水頼蔵の器量よりも犬童頼兄の鋭敏な才覚をむしろ信頼し、両者を同格の奉行とすることを決定した 1 。この頼房による異例の抜擢は、頼兄の能力を高く評価した結果であると同時に、結果として犬童氏と深水氏の間に深刻な不和を生む一因となった 8 。当時の相良氏が、島津氏への従属(天正9年/1581年以降)という厳しい状況下にあり 4 、旧来の慣習や家柄よりも実力を重視して難局を乗り切ろうとした頼房の意図が窺える。この抜擢は、頼兄にとっては大きな飛躍の機会であったが、深水氏にとっては自家の権益を脅かすものと映り、両者の対立構造を決定づけたと言える。天正20年(1592年)2月1日、頼房は頼兄の功績を認め、相良の姓を与え、「相良兵部少輔頼兄」と名乗ることを許した 1 。
表1:犬童頼兄 略年譜
年代(西暦) |
和暦 |
主な出来事 |
典拠 |
1568年 |
永禄11年 |
肥後国にて犬童頼安の子として生誕(幼名:熊徳丸) |
1 |
1581年頃 |
天正9年頃 |
水俣城の戦いにて初陣(父・頼安と共に籠城) |
1 |
1592年 |
天正20年/文禄元年 |
相良姓を賜り「相良兵部少輔頼兄」と称す。朝鮮出兵に副軍師として従軍 |
1 |
1593年 |
文禄2年 |
深水一族(竹下監物ら)による湯前城籠城事件 |
1 |
1596年頃 |
慶長元年頃 |
深水頼蔵が出奔。頼兄、一勝地にて深水一党73名を斬殺 |
1 |
1600年 |
慶長5年 |
関ヶ原の戦い。西軍から東軍へ寝返り、大垣城にて垣見家純らを謀殺。相良氏の本領安堵に貢献。戦後、8000石を与えられる。「清兵衛尉」と改名。 |
1 |
1637年 |
寛永14年 |
島原の乱。藩主名代として子・相良頼安らが出陣 |
1 |
1640年 |
寛永17年 |
藩主・相良頼寛により幕府へ「私曲」を訴えられる。江戸へ召喚。国許にて「お下の乱」勃発。津軽藩へ流罪となる。 |
1 |
1655年8月13日 |
明暦元年7月12日 |
配流先の津軽弘前にて客死(享年88) |
1 |
天正20年(1592年、文禄元年)3月1日より、豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄の役)が開始されると、犬童頼兄は副軍師として主君・相良頼房、そして同じく奉行であった深水頼蔵と共に朝鮮へ渡海した 1 。この朝鮮出兵という藩外での大規模な軍事行動は、皮肉にも相良藩内部の権力闘争の舞台ともなった。
文禄2年(1593年)、太閤検地によって所領を削減された深水一族の竹下監物とその嫡子・知行が、これを頼兄の策略であると疑い、一族約600人を率いて湯前城に籠城するという事件が発生した 1 。朝鮮に渡海中であった頼房は、深水頼蔵を呼び出し詰問したが、頼蔵は関与を否定した 8 。最終的に頼房の命により、監物ら数名が切腹することで事件は一応の沈静化を見たものの 8 、この一件は犬童頼兄と深水一族との対立をより一層根深いものとした。頼兄と深水頼蔵は朝鮮出兵の陣中でも不仲であったとされ 8 、外征という非常時が、頼兄にとって国内の政敵を排除、あるいはその勢力を削ぐ機会として作用した可能性は否定できない。この犬童氏と深水氏の対立は、人吉藩における長期にわたる藩内抗争の源流となり、その影響は幕末まで続いたとも言われている 1 。
朝鮮出兵から帰国した深水頼蔵は、犬童頼兄による暗殺を恐れ、肥後国人吉を離れて加藤清正のもとへ出奔した 1 。頼蔵の実父である深水織部をはじめとする深水一族もこれに続き、相次いで佐敷(現:熊本県葦北郡芦北町)などへ退去した 8 。これに対し頼兄は、これ以上の家臣の流出を防ぐという名目、あるいは対抗勢力の一掃を目的として、肥後国葦北郡一勝地において逃亡を図った深水一党73名を捕らえ、斬殺するという強硬手段に出た 1 。
この大量誅殺に対し、深水頼蔵を庇護していた加藤家は、豊臣秀吉が発令した惣無事令(私闘の禁止)に違反するとして、奉行の石田三成に訴え出た 1 。絶体絶命の窮地に立たされた頼兄であったが、三成に対して巧みな弁舌で釈明し、結果として一切のお咎め無しとなった 1 。この深水一党の誅殺と、その後の石田三成への弁明成功は、頼兄の政治的手腕、大胆さ、そして中央政界の要人をも説き伏せるほどの対応能力の高さを示すものである。この成功体験は、彼の自信を一層深め、後の「専横」とも評される強権的な行動様式へと繋がった可能性も考えられる。また、この一件は、大大名である加藤清正との間に、少なからぬ緊張関係を生じさせたであろうことも想像に難くない 8 。これにより、頼兄は藩内における主要な反対勢力を物理的に排除し、その後の独裁的な地位を築く上で大きな画期となった 5 。
慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原の戦いが勃発すると、相良氏は当初、石田三成方の西軍に属し、伏見城攻めなどに兵を送るなど、積極的に戦闘に参加した 1 。これは、当時の相良氏の地理的条件や周辺勢力との関係から、西軍への参加が自然な流れであったと考えられる。
しかし、関ヶ原の本戦を前に、西軍の主力部隊が布陣する美濃大垣城において、西軍本隊が9月15日の本戦で壊滅的な敗北を喫したとの情報がもたらされると、事態は一変する。犬童頼兄は、以前から徳川家康の家臣である井伊直政と密かに内通しており、この敗報を知るや否や、主君・相良頼房(長毎)に対して、西軍を見限り東軍へ寝返るよう強く進言した 1 。この土壇場での寝返り工作は、相良氏の存亡を賭けた頼兄の冷徹な戦略的判断であり、高度な情報収集能力と危険を顧みない交渉力を要するものであった。
犬童頼兄の策は、単なる寝返りに留まらなかった。東軍への忠誠を明確に示すため、同じく大垣城内で東軍への内通を図っていた秋月種長・高橋元種兄弟と連携し、城内にいた西軍の諸将、垣見家純、熊谷内蔵允、木村由信らを謀殺するという大胆な行動に出た 1 。現存する「相良頼兄覚書状」によれば、慶長5年9月17日に垣見らを討ち取り、同20日にその首を大津の家康本陣に送り、同23日に大垣城を東軍に引き渡したと記されている 15 。
この衝撃的な「手柄」は、徳川家康に高く評価された。その結果、西軍に与したにもかかわらず相良氏は改易を免れ、頼房は人吉2万2千石の所領を安堵され、近世人吉藩の初代藩主となることができた 1 。この一連の働きは、まさに犬童頼兄の知略と実行力の賜物であり、彼なくして相良氏の近世大名としての存続はあり得なかったと言っても過言ではない。この絶大な功績が、頼兄に藩主をも凌ぐかのような権力を与える正当性を与え、後の権力集中と、一部からは「専横」と見なされる行動の素地を形成した 3 。
関ヶ原の戦いにおける比類なき功績により、犬童頼兄は筆頭家老として国政のほとんどを委ねられることとなり、人吉藩2万2千石のうち、実にその3分の1を超える8000石という破格の知行を与えられた 1 。これは家臣としては異例の高禄であり、頼兄の功績の大きさを物語ると同時に、藩主権力を相対的に弱め、有力家臣が藩政を左右しかねない危険性を内包するものであった。
徳川の世が確立すると、頼兄は関ヶ原後の交渉で恩義のあった井伊直政の官位が自身と同じ兵部少輔であったことを憚り、名を「清兵衛尉」と改めた 1 。地元の人吉では、相良姓を許されたこともあり、「相良清兵衛(清ビア)」の名で広く知られるようになる 1 。この改名のエピソードは、彼が中央の有力者との関係にも細やかな配慮を怠らない、抜け目のない一面を持っていたことを示している。
関ヶ原の戦いを経て、犬童頼兄(相良清兵衛)の藩内における地位は絶対的なものとなった。主君・相良頼房(長毎)は、頼兄に全幅の信頼を寄せ、藩政の執務全般を彼に委ね、事実上、清兵衛が全てを取り仕切る状態となった 1 。頼房のこの全面的な信任は、頼兄への著しい権力集中を招き、その結果、彼の行動は次第に藩主の意向すら無視した独善的なものへと変質していったと指摘されている 3 。
慶長18年(1613年)に頼房が死去し、その子である相良頼寛が若くして藩主の座を継ぐと(頼寛は慶長6年/1601年生、お下の乱は寛永17年/1640年なので当時39歳。一方、清兵衛は当時72歳の老臣 1 )、清兵衛との関係は急速に悪化する。頼寛にとって、父の代からの重臣であり、藩主をも凌ぐほどの強大な権力と実績を持つ清兵衛一派の存在は、自らが親政を行おうとする上で大きな障害と映ったのであろう 1 。両者の折り合いは悪く、藩主が市房山参詣の途上で清兵衛の屋敷に挨拶に立ち寄った際、清兵衛が藩主暗殺を企てたが失敗した、という真偽不明の民話も地元には伝えられているほど、両者の緊張関係は高まっていた 1 。
寛永14年(1637年)に島原の乱が勃発した際、藩主頼寛は参勤交代のため江戸に滞在中であり、清兵衛の子である相良頼安(内蔵助)とその子・頼章(喜兵次)が藩主名代として人吉藩の軍勢を率いて出陣している 1 。これは、清兵衛一派が藩の軍事指揮権をも掌握していたことを示す象徴的な出来事と言える。
寛永17年(1640年)、ついに藩主・相良頼寛は、清兵衛の「私曲」、すなわち専横行為の数々を幕府の老中らに訴え出るという強硬手段に打って出た 1 。この訴状には、清兵衛が犯したとされる具体的な罪状が列挙されており、これらは「私曲十三ヶ条」などとして伝えられている。吉永昭氏の論文「肥後国人吉藩「相良清兵衛騒動」覚書」によれば、複数の訴状やその下書きが残されており、その内容は多岐にわたる 3 。
主な罪状は以下の通りである。
表2:「私曲」とされる主な内容とその概要
分類 |
具体的な内容 |
典拠 |
藩財政の不正操作と私的流用 |
藩の財政収支を独占し、藩主に報告せず内密に処理する。 |
3 |
|
家中知行地に対する検地の際、竿を短くするなどの不正を行い、差分3000石余りを横領し、関係役人に口外しないよう誓詞を書かせる。 |
3 |
|
藩が集めた米を家臣に高利で貸し付ける。 |
3 |
家臣団への圧政と知行地の没収 |
一部の家臣から借財を理由に知行地を没収する。 |
3 |
|
家臣の借銀に対し法外な利息を取り立てる。 |
3 |
|
参勤交代や江戸詰の者に対し、十分な手当を与えない。 |
3 |
|
家臣の所持する馬を不当に取り上げる。 |
3 |
|
家臣に誓詞を提出させ、その言動を厳しく拘束する。 |
3 |
|
藩主に忠勤を励む者を排斥する。 |
3 |
|
参勤交代者の荷物を番所で不当に改める。 |
3 |
|
地子役(土地税)などを家中に不当に課税する。 |
3 |
|
家臣らを私的な用事に酷使する。 |
3 |
縁故登用と藩政の壟断 |
藩主身辺の役職ですらも、清兵衛の身内の者たちによって占められる。 |
3 |
|
藩主の許可なく、私的に家臣を召し抱える。 |
3 |
|
藩内の商人や町人に対しても専横な振る舞いをする(岡原村の件など)。 |
3 |
これらの訴状によれば、清兵衛のこうした専横な行為は、文禄の役(朝鮮出兵)の際に反対派であった深水一党を誅伐し、その勢力を藩内から一掃した頃から始まったとされている 3 。列挙された「私曲」の内容は、典型的な権力者の腐敗と藩政の私物化の様相を呈しており、特に検地における不正や高利貸しは藩財政の根幹を揺るがし、多くの家臣の生活を著しく圧迫したであろう。藩主側近まで自派の人間で固めるという行為は、藩主頼寛の権威を著しく侵害するものであり、彼が幕府に訴えるという最終手段に踏み切った背景には、これらの行為が長年の功績を考慮しても許容できないレベルに達していたという認識があったことを示唆している。
藩主・相良頼寛は、筆頭家老・相良清兵衛(犬童頼兄)の専横に対し、自力での解決は困難と判断し、ついに幕府へその非道を訴え出ることを決意する。頼寛は、幕臣である阿倍正之や渡辺図書助宗綱(渡辺守綱の子 1 )に相談の上、大老・土井利勝らを通じて清兵衛親子の横暴を詳細に記した書状を提出し、幕府による公儀の裁定を仰いだ 1 。頼寛が清兵衛一派の報復を恐れ、幕臣からの訓戒という内々の解決策を拒否したという事実は 1 、清兵衛派の勢力が藩内でいかに強大であったかを物語っている。
この幕府への直訴の背景には、先代藩主・頼房が死の直前に、清兵衛の将来的な増長を憂慮し、阿倍正之・渡辺宗綱に宛ててその処置を託す内容の遺言を残していたとする説も存在する(『人吉市史』による記述 1 )。もしこの遺言が事実であれば、清兵衛の権勢は頼房存命中から既に懸念材料であり、頼寛の行動は父の遺志を継いだものとも解釈でき、問題の根深さを示唆している。
幕府は頼寛の訴えを受理し、相良清兵衛とその嫡子・頼安(実際にはこの頃既に死去していたとされる 1 )に江戸への出府を命じた。当時73歳という高齢であった清兵衛は、このただならぬ事態を察しつつも江戸へ向けて出発する 1 。しかし、箱根の関所を越えると武器を取り上げられ、罪人同様の厳しい監視下に置かれるなど、その待遇は過酷なものであった 1 。人吉藩内では、この筆頭家老の召喚という一大事に、藩が改易されるのではないか、あるいは取り潰しになるのではないかという噂が飛び交い、騒然となったと伝えられる 1 。
清兵衛の江戸への出立は極秘に進められたが、その情報は国許にも伝わっていた。清兵衛の養子(正確には、母が清兵衛に再嫁したことによる義子)であり、500石取りの藩士であった田代半兵衛頼昌(たしろ はんべえ よりまさ、犬童半兵衛とも呼ばれる 1 )は、養父の身に迫る危機を察知し、反乱を起こす。これが後に「お下の乱」(御下の乱、相良清兵衛事件、田代半兵衛の反とも称される)と呼ばれる事件である 1 。
藩主・頼寛は、清兵衛召喚後の混乱を避けるためか、あるいは懐柔策としてか、田代半兵衛を引き続き藩士として取り立てる旨を伝えるため、神瀬外記(こうのせ げき)と深水惣左衛門を使者として、清兵衛の屋敷であった「お下屋敷(おしもやしき)」へ派遣した 1 。しかし、半兵衛らはこれを藩主側の謀略であると疑い、また養父の身を案じるあまり、使者一行を襲撃した。深水惣左衛門は辛くも難を逃れたが、神瀬外記は捕らえられ、全ての指を切り落とされた上で惨殺されるという悲惨な最期を遂げた 1 。この使者殺害という凶行は、半兵衛らの絶望と、もはや後戻りできないという徹底抗戦の意志の強さを示している。
使者殺害の報を受け、藩主・頼寛は直ちに討伐軍を編成し、「お下屋敷」を包囲させた。田代半兵衛を中心とする清兵衛の一族郎党は屋敷に立て籠もり、藩兵との間で激しい戦闘が繰り広げられた 1 。数に劣る籠城側は奮戦したものの、最終的には衆寡敵せず、田代半兵衛をはじめとする清兵衛の一族・家臣ら121名(資料によっては百数十人 1 、あるいは181人 20 とも)が討死、あるいは自害して果てた 6 。この「お下の乱」における一族の玉砕は、近世初期の武士の主従関係や家意識の在り方を考える上で示唆に富む。彼らは清兵衛の処分を自らの一族の終わりと捉え、降伏を潔しとせず、名誉ある死を選んだとも解釈できる。この事件は、人吉藩の歴史に大きな悲劇として刻まれた。
表3:「お下の乱」主要関係者と結末
人物名 |
立場・役割 |
主な行動 |
結末 |
典拠 |
犬童頼兄(相良清兵衛) |
人吉藩筆頭家老 |
藩政を専横。幕府に訴えられ江戸へ召喚。 |
津軽藩へ流罪、同地で客死。 |
1 |
相良頼寛 |
人吉藩主 |
清兵衛の専横を幕府に提訴。お下の乱を鎮圧。 |
藩主権力の強化、藩政の安定化を図る。 |
1 |
田代半兵衛頼昌(犬童半兵衛) |
清兵衛の養子・家臣 |
養父の処分を機に「お下屋敷」に籠城し反乱を主導。 |
戦闘の末、討死または自害。 |
1 |
神瀬外記 |
藩主側使者 |
半兵衛説得のため「お下屋敷」へ赴く。 |
半兵衛らに捕らえられ殺害される。 |
11 |
深水惣左衛門 |
藩主側使者 |
神瀬外記と共に「お下屋敷」へ赴く。 |
襲撃を逃れ生還。 |
1 |
清兵衛の一族・家臣 |
籠城側 |
田代半兵衛と共に「お下屋敷」に籠城し抵抗。 |
討死または自害(約120~180名)。 |
11 |
江戸で取り調べを受けた犬童頼兄(相良清兵衛)に対し、幕府は最終的に遠流の裁定を下した。配流先は陸奥国津軽藩(弘前藩)とされ、同藩お預かりの身となった 1 。これは形式上は重罪である遠流ではあったが、かつて徳川家康にも仕え、関ヶ原の戦いで東軍勝利に貢献した長年の功績が考慮されたためか、その待遇は罪人としては異例のものであった。具体的には、年間米300俵と30人扶持が給され、さらに6名(あるいは7名とも 1 )の従者を伴うことが許された 1 。これは実質的には強制的な隠居・蟄居に近いものであったと言える。
津軽に送られた清兵衛は、当初、弘前城の西方約一里に位置する高屋村に居を構えたが、後に火災に遭ったため、城下の横鍛冶町裏手にある鏡ヶ池の畔に移り住んだ 1 。現在の青森県弘前市には「相良町(さがらちょう)」という地名が残るが、これは清兵衛の屋敷がこの地にあったことに由来すると伝えられている 1 。
配流先での清兵衛は、単に罪人として蟄居するだけでなく、その学識や文化的素養を発揮したと記録されている。彼は学問に通じ、書道にも優れ、和歌や連歌といった文芸の嗜みも深かったため、弘前藩の藩士たちが彼の元を訪れ、詩歌の指南を受けるなど、一種の文化サロンのような交流があったという 22 。その人柄もあってか、津軽の人々には好意的に受け入れられていたと伝えられている 22 。この弘前での生活は、権力の座から追われた老将の晩年における、意外な一面を垣間見せるものである。
弘前での穏やかな(あるいは諦観した)日々も長くは続かず、明暦元年7月12日(グレゴリオ暦1655年8月13日)、犬童頼兄こと相良清兵衛は、配流先の津軽の地で88歳の生涯を閉じた 1 。その戒名は「天金本然大居士」とされている 1 。
清兵衛が流刑に処された頃、彼の嫡男であった相良頼安(内蔵助)は既にこの世を去っていた 1 。その子、すなわち清兵衛の孫にあたる相良頼章(喜兵次)については、幕府の命令では人吉藩主・頼寛の判断次第で召し抱えることも可能とされていたが、国許での「お下の乱」という悲劇的な事件や、清兵衛一派に対する頼寛の厳しい姿勢から、人吉藩への帰参は叶わなかった。頼章は、母が島津中務大輔家久(島津義弘の子)の娘であったという縁から、薩摩国の島津氏に預けられることとなり、その子孫は島津家家臣として仕えたとされている 1 。これは、武士の家としての存続が図られたことを意味し、当時の武家社会における縁故の重要性を示している。
また、異説として、『人吉市史』には、清兵衛の津軽への流刑に同行した従者の一人である印藤(犬童)九郎右衛門長澄が、実は清兵衛の実子であり、その孫にあたる印藤四郎右衛門長矩が後に小姓として津軽藩に仕え、田浦の姓を与えられた、とする説も記述されている 1 。この説が事実であれば、清兵衛の血脈が別の形で津軽の地に残った可能性を示唆しており、興味深い。
犬童頼兄(相良清兵衛)の歴史的評価は、その功績と罪過が複雑に絡み合い、一面的に断じることは極めて難しい。
功績として最も特筆すべきは、関ヶ原の戦いにおける彼の機敏な判断と行動により、西軍に与した相良氏を滅亡の危機から救い、近世大名としての存続を確定させた点である 5。また、それ以前の朝鮮出兵や、藩内の反対勢力であった深水氏との抗争に見られるように、主家である相良氏のためにその知略と武勇を遺憾なく発揮したことは疑いようがない。
一方で、 負の側面 としては、特に藩主・相良頼房の晩年から頼寛の代にかけての藩政における「専横」が挙げられる。第四章で詳述した「私曲」の数々は、藩財政の私物化、家臣への圧政、縁故登用など、権力を濫用した姿を浮き彫りにしている 3 。この専横が藩主・頼寛との深刻な対立を招き、最終的には「お下の乱」という藩内を二分する大規模な武力衝突を引き起こし、百数十名に及ぶ死者を出すという悲劇的な結果を招いた 6 。
ある動画サイトのコメントでは「彼が悪を働いたようには見えません。そもそも内部でゴタゴタしているのが悪かったわけですがより森(頼兄)1人ができる男だったがゆえに目立ちすぎてなおかつ鼻持ちならない印象を周囲に与えてしまったのかもしれません」といった擁護的な見解も散見される 16 。しかしながら、史料として残る訴状に列挙された「私曲」の内容は具体的かつ深刻であり 3 、単に「できる男」であったが故の周囲の嫉妬というだけでは説明しきれない、実質的な権力濫用があった可能性は否定しがたい。
犬童頼兄の人物像は、まさに多面的である。一方では、国家的な危機(関ヶ原の戦い)において主家を救った類稀なる知将であり、危機管理能力に長けた策略家であった 1 。他方では、一度権力を掌握するとそれを際限なく拡大させ、藩政を私物化したとされる傲慢な権臣としての側面も持つ 3 。さらに、配流先の弘前での生活に見られるように、学問や文芸にも通じた文化人としての一面も持ち合わせていた 22 。
地元である人吉においては、今日でも「相良清兵衛(清ビア)」の名で知られ、その功績と罪過の両面を含めて、複雑な感情と共に記憶されている人物である 1 。彼の生涯は、有能な家臣が強大な権力を持ちすぎた場合に、いかなる軋轢や悲劇が生じうるかを示す一つの事例と言えるかもしれない。彼の行動は、初期の目覚ましい活躍が相良氏にとって不可欠であったことは事実であるが、その成功体験と集中した権力が、結果として彼を「専横」と評される境地へと導いた可能性が考えられる。
犬童頼兄の人物像に、さらに謎めいた光を当てるのが、彼の人吉における屋敷跡(現在は人吉城歴史館敷地内)から発見された特異な地下室遺構である 1 。この地下室は、石組みの壁と床、そして中央部には井戸を備えており、その構造は日本国内はもちろん、世界的にも類例が少ないとされる精巧なものである 1 。
この地下室が何のために造られたのか、その目的は未だ解明されていない。しかし、郷土史家などからは、これが隠れキリシタンの秘密礼拝所、あるいは何らかの宗教的儀式を行うための施設だったのではないかという説が提唱されている 7 。その根拠として、地下室の貯水槽とされる部分から出土した十字が刻まれた宝篋印塔の残欠や、壁面に見られる円弧状の石組みがハート形(イエス・キリストの聖心や聖母マリアの無原罪の御心臓を象徴するとされる)に見え、その内部に十字が刻まれている点などが挙げられている 7 。また、頼兄の主君・相良頼房の父である相良義陽の時代(天正7年/1580年)に、イエズス会の巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノが相良領内への宣教許可を求める書簡を送ったという記録も存在し 7 、相良氏とキリスト教との接点が皆無ではなかったことを示唆している。
もし、犬童頼兄がキリシタンであった、あるいは何らかの形で深く関与していたとすれば、彼の行動原理や精神世界を理解する上で非常に重要な手がかりとなる。例えば、関ヶ原における大胆不敵な決断や、後の「専横」とまで言われた強硬な政治姿勢の背景に、何らかの宗教的信念が影響していた可能性も、完全には否定できないかもしれない。しかしながら、このキリシタン説については、人吉市教育委員会も「根拠に乏しい」として慎重な姿勢を見せており 24 、決定的な証拠に欠けるため、現時点ではあくまで一説として捉え、今後のさらなる学術的な調査・研究の進展が待たれる。
犬童頼兄(相良清兵衛)の生涯と、彼を巡る一連の出来事は、近世初期における藩の権力構造、特に藩主権力と有力家臣団との関係性について多くの示唆を与えてくれる。頼兄の事例は、藩主の権力が必ずしも絶対的なものではなく、特に藩主が若年であったり、藩自体が存亡の危機に瀕していたりする場合には、有能な家臣や譜代の重臣が藩政の実権を掌握し、大きな影響力を行使し得たことを明確に示している。
人吉藩自体、鎌倉時代以来の古い家柄である相良氏が治めていたが、その一方で「古くからの小領主ゆえに門葉(相良一族)が数家あり、また家臣も古くからの存在で、互いの権利主張が当主の権力を小さくしていった」と分析されているように 11 、藩主権力が家臣団や一門によって制約されやすいという構造的な土壌が存在した。お下の乱後、藩主・相良頼寛は、清兵衛一族を一掃することで、領主権力の一本化と藩政の安定化に努めたとされているが 15 、これは清兵衛の存在がいかに藩主権力にとって脅威であったかを裏付けている。
犬童頼兄は、相良氏を滅亡の淵から救った大功労者であるという側面と、藩政を私物化し、多くの犠牲者を出した「専横の士」であるという、二つの相反する評価を併せ持つ人物である。彼の生涯は、歴史上の人物評価がいかに多面的であり、また、記録を残す立場や時代背景によってその解釈が大きく変わりうることを如実に示している。
彼の行動は、単に個人の資質や野心の問題としてのみ捉えるべきではなく、戦国乱世の気風が色濃く残る江戸時代初期という過渡期における武家社会の構造的な問題、すなわち家臣の一定の自律性、未だ盤石とは言えない藩主権力の限界、そして頻発する「お家騒動」といった文脈の中で理解する必要がある。犬童頼兄の物語は、卓越した能力が時として組織の秩序を揺るがし、権力の獲得、維持、そしてその濫用が個人および周囲にもたらす結果について、後世の我々に多くの教訓を残していると言えよう。彼の功績と失脚の軌跡は、近世初期の藩体制が確立していく過程における、一つの典型的な権力闘争の事例として、今後も研究されるべき価値を持つであろう。