本報告は、戦国時代から安土桃山時代にかけて、上杉景勝政権の初期を支えた執政・狩野秀治(かのう ひではる)の生涯と功績を、現存する史料に基づき徹底的に解明することを目的とする。著名な宰相である直江兼続の影に隠れがちな秀治の実像に迫り、彼が上杉家の歴史において果たした不可欠な役割を再評価する。
狩野秀治は、上杉謙信の死後に勃発した「御館の乱」を経て、混乱と危機の中にあった上杉景勝政権の基盤を築いた最重要人物の一人である 1 。彼は、同じく景勝の側近である直江兼続と共に、内政・外交を取り仕切る「二頭執政体制」を構築した 2 。この体制は、謙信時代の大身国衆が主導する合議制から、当主の側近が権力を掌握する新たな統治形態への移行を象徴するものであり、秀治はその中心にいた。
しかし、秀治に関する史料は断片的であり、特に江戸時代に編纂された軍記物や逸話集にはほとんどその名が登場しない 8 。これは彼の活動期間が短かったこと、そしてその死後に兼続が単独で権力を掌握し、後世の関心が兼続に集中したことに起因すると考えられる。したがって、本報告では数少ない一次史料、特に彼が関与した書状(連署状や奉書)を丹念に分析し、その行間から彼の職務内容、権限、そして人物像を再構築するアプローチを取る。秀治の短いながらも激動の生涯を、当時の歴史的文脈の中に位置づけることで、報告全体の理解を深めるため、まず関連年表を以下に示す。
表1:狩野秀治 関連年表
西暦(和暦) |
狩野秀治の動向・関連事項 |
上杉家の主要動向 |
国内外の主要動向 |
生年不詳 |
越中国神保氏の旧臣・狩野秀基の子として誕生 1 。 |
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天正元年 (1573) |
父・狩野右京入道道州が上杉謙信の部将に連署状を送る 9 。 |
謙信、越中松倉城を攻略。 |
足利義昭、織田信長により京より追放(室町幕府の事実上の滅亡)。 |
天正初年頃 |
上杉氏に仕官したとされる 1 。 |
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天正6年 (1578) |
御館の乱で上杉景勝方に与し、頭角を現す 1 。 |
3月、上杉謙信が急死。御館の乱が勃発 10 。 |
織田信長、上月城の戦いで尼子勝久を滅ぼす。 |
天正9年 (1581) |
直江兼続との二頭執政体制を開始 2 。景勝の内政・外交の取次役となる 1 。 |
直江信綱・山崎秀仙が殺害される 3 。新発田重家の乱が勃発 11 。 |
織田信長、第二次天正伊賀の乱。 |
天正10年 (1582) |
12月、讃岐守に任官される 1 。 |
織田軍の侵攻により魚津城が落城 12 。天正壬午の乱で北信濃を確保 2 。 |
3月、織田・徳川連合軍により武田氏滅亡。6月、本能寺の変で織田信長が死去。 |
天正11年 (1583) |
直江兼続との連署状を発給 14 。 |
景勝、羽柴秀吉と交渉を開始 16 。 |
賤ヶ岳の戦いで羽柴秀吉が柴田勝家を破る。 |
天正12年 (1584) |
景勝より越後大面城を与えられる 17 。この年以降、史料から姿を消し、病死したと推定される 7 。 |
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小牧・長久手の戦い。 |
狩野秀治の出自を理解するためには、彼の出身地である越中国の在地領主、狩野氏の動向を把握することが不可欠である。
秀治の父は、越中の戦国大名であった神保氏の旧臣、狩野秀基(ひでき)とされている 1 。より詳細な史料によれば、父の名は狩野右京入道道州(どうしゅう)と記されており、これが秀基の入道号である可能性が高い 19 。この道州は、天正元年(1573年)の段階で、同じく神保旧臣の小嶋職鎮(こじま もとしげ)と共に、上杉謙信の越中方面の司令官であった部将・河田長親に連署状を送っている 9 。この書状は、謙信が神保氏の跡職を安堵したことへの謝意を示すものであり、この時点で道州が神保旧臣の立場から上杉氏に従属していたことがわかる。
越中国氷見郡には、在地領主であった狩野氏が居城とした飯久保城(いくぼじょう)が存在した 19 。この狩野氏は、元々は加賀国(現在の石川県)の在地領主であったが、長享2年(1488年)に発生した加賀一向一揆との争いを逃れ、越中氷見へと移り住んだと伝えられる 19 。
飯久保城を拠点とした越中狩野氏は、越中守護代の神保氏に仕えた後、上杉謙信の越中侵攻、織田信長の勢力拡大、佐々成政の越中支配といった情勢の変化に応じて、主君を次々と変えている 19 。永禄年間(1558年-1570年)には狩野中務丞良政という人物が神保長職に人質を差し出して臣従していた記録が残る 19 。
秀治の父・道州(秀基)が天正元年に上杉方へ転じた後も、飯久保城を拠点とする狩野氏の一族は、天正6年の御館の乱以降に織田方へ寝返るなど、一族内で必ずしも統一された行動を取っていたわけではない 19 。これは、戦国期の国人領主が、一族の存続を図るために異なる勢力にそれぞれ属することでリスクを分散させるという、典型的な生存戦略の一例と見ることができる。
このような状況下で、秀治が父と共に早くから上杉氏に与したという事実は、彼の志向性を考える上で重要である。彼は越中の在地領主としての立場に固執するよりも、上杉家というより大きな権力機構の中での立身出世を目指した、より中央志向の強い人物であった可能性が高い。彼のその後のキャリアは、在地性の強い国人領主から、大名に直属し政務を担う官僚的家臣へと変貌していく、戦国時代後期の武士の一つの典型例として位置づけることができるだろう。
秀治が上杉家で頭角を現すまでには、諸国を渡り歩いた可能性が指摘されている。
秀治は「はじめ出雲の尼子勝久に仕えていたともいわれる」という伝承が存在する 1 。尼子勝久は、毛利元就に滅ぼされた出雲尼子氏の再興を目指した武将であり、織田信長の支援を受けて一時は勢力を盛り返したが、天正6年(1578年)の上月城の戦いで敗れ、自害している。もしこの伝承が事実であれば、秀治は主家を失った浪人として、新たな仕官先を求めて諸国を流浪した経験を持つことになる。
この浪人経験は、彼の能力を形成する上で重要な要素であった可能性がある。特定の土地や血縁に縛られない浪人は、自らの才覚のみを頼りに新たな主君に仕え、その信頼を勝ち取らなければならない。このような経験が、特定の派閥に与しない客観的な判断力や、複雑な外交交渉を粘り強くこなす能力を培ったと推測できる。越中出身でありながら、西国(出雲)の情勢にも通じていたとすれば、その広い視野が、後に上杉家の外交を担う上で大きな強みとなったであろうことは想像に難くない。
秀治が上杉家に仕え始めたのは「天正初年頃」とされており 1 、これは父・道州が上杉方としての活動を開始した時期と符合する。当初は上杉謙信に仕え、謙信の死後はその養子である上杉景勝の側近として活動することになる 10 。謙信存命中の具体的な活動を記した史料は乏しいが、父と共に越中方面の国衆との取次などを担い、実務経験を積んでいた可能性が考えられる。
天正6年(1578年)の上杉謙信の急死は、上杉家に未曾有の危機をもたらした。この内乱こそが、狩野秀治の運命を大きく変える転機となった。
天正6年(1578年)3月13日、上杉謙信が後継者を明確に指名しないまま急死すると、二人の養子、上杉景勝と上杉景虎の間で家督を巡る大規模な内乱「御館の乱」が勃発した 10 。この内乱において、秀治は一貫して景勝方として参陣したことが史料で確認されている 1 。景勝の支持基盤は、彼の出身母体である上田長尾氏や、越後北部・東部の国人領主である揚北衆(あがきたしゅう)が中心であった 21 。越中出身である秀治が景勝方についた背景には、父・道州以来の上杉家との関係性に加え、越中への影響力維持を志向する景勝の戦略と、秀治自身の利害が一致したことが考えられる。
秀治がこの乱において具体的にどのような戦闘で功績を挙げたかを記す記録は現存しない。しかし、乱の終結後に景勝から重用されている事実から、彼が単なる一兵卒以上の重要な役割を果たしたことは確実である 1 。
彼の役割は、直接的な戦闘行為よりも、むしろ調略や外交、後方支援といった政務・実務面にあったと推測される。御館の乱は、単なる越後国内の家督争いに留まらず、景虎の実家である北条氏や、景勝と同盟を結んだ武田氏といった外部勢力の動向が、戦局を大きく左右する複雑な様相を呈していた 10 。このような状況下で、秀治は外部勢力との交渉や、景勝方内部の国衆たちの利害調整といった、高度な政治的能力を要する場面でその才覚を発揮し、景勝の信頼を勝ち得たのではないか。彼がこの乱で「頭角を現し」たのは、戦場での武勇によってではなく、混乱した事態を収拾する卓越した行政手腕によるものであった可能性が極めて高い。
御館の乱の勝利は景勝に上杉家当主の座をもたらしたが、その後の政権運営は多難を極めた。そして、政権を揺るがすある事件が、秀治を権力の中枢へと押し上げることになる。
天正9年(1581年)、春日山城内において、景勝政権を根底から揺るがす衝撃的な事件が発生した。御館の乱後の論功行賞に不満を抱いた毛利秀広(もうり ひでひろ)が、景勝の側近であった直江信綱(なおえ のぶつな)と山崎秀仙(やまざき しゅうせん)を斬殺したのである 2 。
山崎秀仙は謙信時代から外交を担ってきた重鎮であり、直江信綱は景勝と諸将の間を取り次ぐ「取次役」として大きな権勢を振るっていた 27 。この二人の重臣の突然の死は、発足間もない景勝政権にとって計り知れない打撃であると同時に、権力構造を再編する決定的な契機となった。
この暗殺事件によって、上杉家の政権中枢には巨大な権力の空白が生じた。景勝はこの危機に対し、謙信以来の旧来の有力国衆を登用するのではなく、自らに近く、実務能力に長けた新たな人材を抜擢することで対応した。その結果、空席となった外交担当の取次役には狩野秀治が、そして殺害された信綱の跡目には、その未亡人となったお船の方と結婚した樋口兼続(後の直江兼続)が就任したのである 2 。
この一連の出来事は、秀治と兼続のキャリアにおける最大の転機であった。もしこの暗殺事件がなければ、両名がこれほど急速に権力の中枢を掌握することはなかったであろう。これは、偶発的な事件が政治構造の変革を促した歴史のダイナミズムを示す典型例であり、上杉家の権力が旧来の国衆合議体制から、当主直属の側近官僚が主導する近世的な統治体制へと移行する大きな一歩となった。
天正9年(1581年)以降、上杉景勝政権は狩野秀治と直江兼続という二人の執政によって運営される「二頭体制」へと移行した。この体制は、秀治が病没する天正12年(1584年)までの短い期間ではあったが、上杉家が内外の危機を乗り越える上で極めて重要な役割を果たした。
秀治は兼続と共に、景勝政権の内政・外交全般における「取次役」(とりつぎやく)を担当した 1 。戦国大名における取次役とは、単なる主君への連絡係ではない。諸将からの上申や主君からの命令伝達を独占的に担うことで、情報の流れを管理し、政策決定そのものに深く関与する権限を持つ、事実上の宰相職であった 32 。景勝の意思決定は、必ずこの二人を通して家中に伝えられることになり、彼らは絶大な権力を手中にしたのである。
二頭体制の実態は、現存する古文書からうかがい知ることができる。秀治と兼続は、連署状(れんしょじょう)という、二人の名を連ねて署名した形式で命令を発している。例えば、天正11年(1583年)4月20日付で島津義忠に宛てた連署状などが現存しており、二人が密接に連携しながら政務を遂行していたことを明確に示している 14 。
一方で、秀治は単独でも黒印状(こくいんじょう)を発給していることが確認されている 37 。黒印状は、大名の公的な印判が押された文書であり、これを発給できるということは、彼が上杉家の公権力を単独で代行する権限を景勝から与えられていたことを意味する。これは、秀治が兼続と対等な立場で執政を担っていたことの強力な証拠である。
両者の明確な役割分担を記した史料は存在しない。しかし、それぞれの出自と経歴から、その内実をある程度推測することは可能である。直江兼続は景勝の幼少期からの側近であり、景勝の出身母体である上田衆とも深い繋がりを持っていた。そのため、彼は主に越後国内の統治、特に御館の乱後も抵抗を続ける新発田重家の乱への対応など、内政と軍事の安定化にその手腕を発揮したと考えられる。
一方、狩野秀治は越中出身で、尼子旧臣という説もあるなど、外部世界との接点を豊富に持っていた。彼は、暗殺された外交官・山崎秀仙の役割を引き継ぐ形で 31 、織田氏やその後の羽柴氏(豊臣氏)といった外部の強大勢力との複雑な外交交渉を主導した可能性が高い。この「内政の兼続、外交の秀治」とも言うべき役割分担は、内乱と外圧という二重の課題を抱える景勝政権にとって、極めて合理的かつ効果的な統治体制であったと言えるだろう。
二頭体制が発足した天正9年(1581年)以降、上杉家は立て続けに国家存亡の危機に直面する。まず、織田信長による越中侵攻が激化し、天正10年(1582年)には越中の要衝・魚津城が織田軍の猛攻の前に落城した 12 。しかしその直後、本能寺の変で信長が横死。この政変により旧武田領を巡る「天正壬午の乱」が勃発すると、上杉家は混乱に乗じて北信濃を確保し、徳川家康や北条氏政と対峙することになった 2 。
さらに、信長の後継者として天下人への道を歩み始めた羽柴秀吉との交渉が開始される 16 。天正11年(1583年)には、秀吉やその側近である石田三成からの書状が上杉家に届いており、秀治と兼続がその交渉の窓口であったことが確認できる 42 。これらの目まぐるしく変化する重要な外交局面において、秀治は兼続と共に交渉の最前線に立ち、上杉家の存続と国益の確保に奔走したのである。
外交と並行して、国内では新発田重家の反乱が長期化していた。天正12年(1584年)、秀治は景勝から越後国大面(おおも)の地(現在の大面城跡)を与えられている 17 。大面城は、反乱を続ける新発田氏や、その背後で連携する会津の蘆名氏に対する備えとなる、極めて重要な戦略的拠点であった 17 。景勝が秀治にこの要衝を与えたという事実は、彼が秀治の行政手腕だけでなく、軍事・戦略面においても全幅の信頼を寄せていたことの証左である。これは、秀治が単なる文官ではなく、文武両道を兼ね備えた武将であったことを強く示唆している。
秀治の活動期間は短かったが、彼の仕事は後の上杉家の統治システムの基礎となった。秀治の死後、文禄3年(1594年)に作成された『定納員数目録』は、上杉家の全家臣団の知行高とそれに応じた軍役を詳細に定めた画期的な台帳である 15 。秀治が生前に担当していたであろう蔵入地(大名直轄領)の管理や、豊臣政権下で進められた検地(文禄検地)の準備作業などは、この『定納員数目録』作成の基礎となったことは間違いない 31 。秀治は、中世的な国衆連合体から近世的な統治機構へと上杉家が脱皮していく、その初期段階において深く関与していたと考えられる。
狩野秀治は、わずか数年の間に上杉家の歴史に大きな足跡を残したが、その人物像や最期については、断片的な史料から推し量るほかない。
景勝と秀治の関係性を物語る、非常に興味深い史料が残されている。天正10年(1582年)から12年(1584年)の間に書かれたとされる上杉景勝の秀治宛の書状の中に、強風で家が破損した秀治を気遣う一節がある。景勝は「家の道具で必要なものがあれば何でも(上杉家の蔵を管理する)泉沢久秀に申し付けるように」と記しているのである 37 。
この書状は、二人の関係が単なる主従のそれを超えていたことを示す第一級の史料と言える。上杉景勝は寡黙で感情を滅多に表に出さない人物として知られているが、この書状からは秀治に対する個人的な配慮と温かい気遣いがはっきりと読み取れる。景勝にとって秀治は、信頼できる有能な執政であると同時に、心を許せる腹心であったことがうかがえる。
天正10年(1582年)12月晦日、秀治は朝廷から讃岐守の官位を与えられた 1 。戦国時代の武家社会において、官位、特に国名を冠した「守」の称号を受領することは、大名家臣にとってその地位を内外に公的に示す重要なステータスであった。この任官は、秀治が名実ともに上杉家の中枢を担う人物であることを、朝廷の権威をもって認められたことを意味する。
特にこの任官の時期が、本能寺の変の直後で、日本中が混乱の渦中にあったことを考えると、その政治的意味は大きい。景勝政権がこのタイミングで家臣の任官を実現させたのは、激動の中で内部の秩序を固め、対外的にも政権の安定性を示す狙いがあったと推測される。
しかし、秀治の活躍は長くは続かなかった。彼は病気がちであったとされ 7 、天正12年(1584年)以降、史料からその名が見えなくなることから、この頃に病死したものと推定されている 2 。彼の死により、直江兼続が単独で上杉家の執政を担うことになり、上杉家の二頭体制は終焉を迎えた 2 。
秀治の早世は、上杉家のその後の運命に大きな影響を与えた可能性がある。「外交の秀治」とも評すべき彼が存命であれば、その後の豊臣政権との関係や、関ヶ原の戦いに至る徳川家康との対立において、兼続とは異なる、より柔軟あるいは慎重なアプローチを取ったかもしれない。秀治という重石を失ったことで、兼続一人に権力と責任が集中し、その後の上杉家の政策決定に良くも悪くも強い影響を与えたと考えられる。秀治の死は、上杉家の歴史における一つの大きな分岐点であったと言えるだろう。
秀治の死後も、狩野家は断絶することなく続いた。長男の狩野秀利(ひでとし)は、関ヶ原の戦い後に上杉家が米沢30万石に減移封された際にもこれに従い、その子孫は米沢藩士として幕末まで続いた 50 。これは、秀治の功績が高く評価され、その家が代々遇されたことを示している。
秀治の功績は、上杉景勝政権の確立にとって絶大であったにもかかわらず、その名は直江兼続の輝かしい名声の影に完全に隠れ、一般にはほとんど知られていない。江戸時代に成立した『常山紀談』のような武将の逸話を集めた書物にも、彼の逸話は一切採録されておらず 8 、後世の関心が主に著名な人物や華々しい武勇伝に集中したことがわかる。
近年の研究によって、一次史料の分析が進むにつれ、秀治の重要性が再認識されつつある。本報告のような史料に基づいた再評価を通じて、秀治を、謙信死後の上杉家を崩壊の危機から救い、景勝と兼続が活躍する時代の礎を築いた「もう一人の執政」として、歴史の中に正当に位置づける必要がある。
狩野秀治の生涯を総括すると、彼は越中の国人から身を起こし、主君・上杉景勝の絶対的な信頼を得て、戦国時代末期の激動の天正年間に、上杉家の宰相として内政・外交に辣腕を振るった稀有な人物であったと言える。御館の乱という深刻な内乱と、織田信長という外部からの強大な脅威に同時に直面した上杉家を、直江兼続との巧みな連携によって支え、その存続と発展に決定的な貢献を果たした。
上杉景勝政権における秀治の歴史的意義は大きい。彼の存在は、上杉家の権力構造が、謙信時代の有力国衆の連合体から、景勝を頂点とするより中央集権的な近世大名へと変貌していく、まさにその過渡期を象徴している。彼の早すぎる死は上杉家にとって大きな損失であったが、わずか数年の活動期間において彼が残した足跡は、上杉家の歴史、ひいては戦国時代末期の政治史を理解する上で、決して看過することのできない重要な意味を持っている。狩野秀治は、まさしく上杉景勝政権の「影の宰相」と呼ぶにふさわしい、傑出した政治家であったと結論づける。