猪去詮義は斯波詮高の三男で猪去館主。斯波氏の「三御所」の一角を担う。南部氏との抗争で斯波氏滅亡、猪去館も落城。子孫は南部藩士となる。
本報告書は、戦国時代の武将である猪去詮義(いさり あきよし)について、現存する史料の断片情報を基に、その出自、生涯、猪去館主としての役割、本家である高水寺斯波氏の滅亡との関連、そして子孫の動向を多角的に検証し、詳細に記述することを目的とする。利用者各位が既に把握されている「奥州斯波家臣。詮高の三男。父が雫石地方を攻略した際に、猪去館主となり、猪去御所を称した。猪去館は、斯波家滅亡の際に南部信直によって攻略された」という情報を出発点とし、これを補完・深化させる内容を目指すものである。
猪去詮義に関する史料は極めて限定的であり、特に一次史料の不足から、その生涯や事績の全貌を解明するには多くの困難が伴うのが現状である 1 。高水寺斯波氏関連の史料自体が、天正16年(1588年)の同氏滅亡に伴い散逸した可能性が高く、詳細な歴史を辿ることは容易ではない 2 。本報告書では、Wikipediaの情報、個人研究サイトの記述、地方自治体が発行する歴史関連資料、学術論文の断片など、提供された多様な情報源を横断的に分析し、可能な限り客観的な猪去詮義像を再構築する試みである。しかし、情報源の中には脚注による典拠が不十分なものも含まれており 1 、その取り扱いには慎重を期す必要がある。
本報告書は、まず猪去詮義の出自と、彼が館主となった猪去氏の成立背景を明らかにする。次に、詮義の生涯と推定される活動、特に「猪去御所」としての役割について考察する。続いて、彼が拠点とした猪去館の地理的環境や構造、歴史的変遷を概観する。さらに、本家である斯波氏の衰退と滅亡の過程で、猪去氏および猪去館がどのような運命を辿ったのかを検証する。そして、詮義の子孫たちの動向を追い、最後に猪去詮義という人物の歴史的評価と今後の研究課題について述べることとする。
猪去詮義の家系は、清和源氏の一流である河内源氏の流れを汲む足利氏の一門、高水寺斯波氏の庶流にあたる 1 。高水寺斯波氏は、室町幕府の管領家であった斯波氏の一族であり、奥州においても「斯波御所」あるいは「奥の斯波殿」と尊称されるほどの高い家格を誇っていた 3 。
猪去詮義は、この高水寺斯波氏の当主であった斯波詮高(しば あきたか)の三男として記録されている 3 。父・詮高は文明8年(1476年)に生まれ、天文18年(1549年)に74歳で没したとされる人物である 3 。詮義の兄弟には、父の跡を継いで高水寺斯波氏の当主となった嫡男の斯波経詮(しば つねあき)、そして次男で雫石城(しずくいしじょう)主となった雫石詮貞(しずくいし あきさだ)がいた 3 。
ただし、斯波氏の系譜に関しては史料によって若干の異同が見られる点に留意が必要である。『続群書類従』に収められている「奥州斯波系図」には、斯波経詮の名が見当たらず、代わりに斯波詮房(しば あきふさ)および斯波詮元(しば あきもと)が当時の当主として記載されているという指摘もある 5 。これは、高水寺斯波氏の系譜研究における史料の複雑性を示す一例であり、詮義の位置づけを考察する上でも慎重な史料批判が求められる。
猪去氏の成立は、父・斯波詮高の積極的な領土拡大戦略と深く結びついている。詮高は謀略に長けた武将であったとされ、当時雫石地方(現在の岩手県雫石町周辺)を勢力下に置いていた戸沢氏を放逐し、同地を攻略した 3 。具体的には、天文14年(1544年)、詮高は南部氏の勢力下にあった岩手郡太田の滴石城(のちの雫石城)を攻略し、南部晴政(なんぶ はるまさ)を三戸(さんのへ、南部氏の本拠地)へ敗走させたと伝えられている 4 。
この雫石地方の確保を受けて、詮高は翌天文15年(1545年)に家督を嫡男の経詮に譲るとともに、自身の息子たちを戦略的に配置する。次男の詮貞を雫石城主とし、そして三男である詮義を雫石領内の猪去(いさり、現在の盛岡市猪去地区)に新たに館を構えさせてその主とした 1 。この詮義が配された猪去の館が猪去館であり、これが猪去氏の始まりとなる。
この戦略的配置の背景には、強大な勢力を持つ南部氏の再度の侵攻に備えるという明確な軍事目的があった。高水寺城に拠る斯波氏本家、雫石城の雫石氏、そして猪去館の猪去氏は、斯波一族が持つ高い家格からそれぞれ「御所」と尊称され、これらを合わせて「三御所(さんごしょ)」体制と称された 4 。猪去詮義が「猪去御所」と称されたのも、この体制と斯波氏の権威に由来するものである 1 。そもそも「御所」という尊称は、斯波氏が足利将軍家と祖を同じくする名門足利氏の一門であるという、その出自の高貴さに基づいていた 1 。
斯波詮高によるこの「三御所」体制の構築は、単に南部氏への対抗という軍事的な側面に留まらず、斯波氏の威光を周辺地域に誇示するという政治的な意図も含まれていたと考えられる。足利将軍家という中央の権威との繋がりを「御所」という呼称によって想起させ、奥州における斯波氏の支配の正統性を強化する狙いがあったのではないだろうか。また、息子たちに「御所」を名乗らせることで、彼ら自身の権威を高め、それぞれの所領における統治を円滑に進めようとした可能性も考えられる。猪去詮義の猪去館への配置は、父・詮高が描いたこの広域戦略の重要な一翼を担うものであったと言えよう。
表1: 斯波氏三御所一覧
御所名 |
主な城主(推定含む) |
所在地 |
成立背景・役割 |
典拠資料ID |
高水寺御所 |
斯波詮高、斯波経詮 |
紫波郡高水寺城 |
斯波氏本拠、対南部氏の総指揮、斯波郡・岩手郡の統括 |
3 |
雫石御所 |
雫石詮貞 |
岩手郡雫石城 |
対南部氏の最前線拠点、雫石地方の支配 |
3 |
猪去御所 |
猪去詮義 |
岩手郡猪去館 |
対南部氏の重要拠点、雫石方面の支援、太田地区の支配 |
1 |
この表からも明らかなように、猪去詮義が配された猪去御所は、斯波氏の勢力圏において、南部氏との最前線に位置する雫石御所を補完し、連携して防衛にあたる戦略的要衝であったと理解できる。
猪去詮義の正確な生没年については、史料が乏しく確たることは不明な点が多い。生年に関しては、永正3年(1506年)とする説が一部で見られるものの、疑問符が付記されており、あくまで推定の域を出ない 1 。
没年については、永禄9年(1566年)とする説が比較的多く参照される 1 。しかし、この没年情報にも疑問符が付されており、断定するには根拠が薄弱である。提供されている資料群の中には、この没年を裏付ける直接的な一次史料や明確な論拠は示されていない 9 。特に、主要な情報源の一つであるWikipediaの記事自体が、参考文献や外部リンクの一覧はあるものの、脚注による参照が不十分で情報源が依然不明確であると指摘されている点は看過できない 1 。
この没年(永禄9年/1566年)が史実であると仮定した場合、利用者各位が把握されている「猪去館は、斯波家滅亡の際に南部信直によって攻略された」という情報との間に時間的な齟齬が生じる。高水寺斯波氏の本家が滅亡し、それに伴い猪去館も落城したとされるのは天正16年(1588年)の出来事である 2 。もし詮義が永禄9年に没していたのであれば、斯波氏滅亡および猪去館落城の際には既に故人であったことになり、利用者各位の認識とは異なる結論に至る。
この矛盾点については、史料の限界を認識した上で、いくつかの可能性を考慮する必要がある。
第一に、永禄9年没が正しく、天正16年の斯波氏滅亡時に猪去館を守っていたのは詮義の子である猪去義方(いさり よしかた)、あるいはその他の人物であった可能性。
第二に、永禄9年没という情報自体が誤りであり、詮義は天正16年頃まで生存し、猪去館の落城に直接関わっていた可能性。
第三に、「猪去館の落城」という出来事と「猪去詮義」という人物名が後世の伝承や記録の中で結び付けられる際に、時期的な混同が生じた可能性である。
現時点では、これらのいずれの可能性が最も高いかを断定することは困難である。
猪去詮義は、父・斯波詮高の戦略に基づき猪去館の主となり、「猪去御所」と尊称された 1 。これは、彼が斯波氏一門の中で相応に高い地位を占めていたことを示唆している。具体的な政治活動や軍事行動に関する詳細な記録は乏しいものの、その地理的配置から、北方で勢力を拡大する南部氏の侵攻に対する抑えとして、兄・雫石詮貞が守る雫石城と連携しつつ、斯波領の防衛の一翼を担ったと考えるのが自然であろう。
兄である斯波経詮(高水寺城主)および雫石詮貞(雫石城主)と共に、彼ら兄弟がそれぞれの拠点を統治していた時期が、高水寺斯波氏の勢力が最も盛んであった全盛期であったとする記述も存在する 5 。このことは、猪去詮義もまた、斯波氏の勢力維持と拡大に貢献した重要な人物の一人であったことを間接的に示している。
猪去詮義の名が比較的明確に記されている史料としては、『奥南落穂集(おうなんおちぼしゅう)』が挙げられる。この史料には、斯波詮高の子として詮義の名が記載されており 3 、高水寺斯波氏に関する情報を得る上での重要な文献史料の一つと位置づけられている。『奥南落穂集』は17世紀頃に成立したと推定され、もりおか歴史文化館などに写本が所蔵されていることが確認できる 13 。
また、『南部根元記(なんぶこんげんき)』には、斯波氏滅亡に至る経緯が詳述されており 15 、直接詮義の活動を記すものではないものの、彼が生きた時代の奥州北部の緊迫した政治・軍事状況や、斯波氏と南部氏の力関係を理解する上での間接的な手がかりとなる可能性がある。
表2: 猪去詮義関連略年表
和暦(西暦) |
出来事(猪去詮義関連、斯波氏関連、南部氏関連、その他国内の主要動向) |
関連人物・事項 |
典拠資料ID |
永正3年(1506年)? |
猪去詮義、生誕か |
猪去詮義 |
1 |
文明8年(1476年) |
斯波詮高(詮義の父)、生誕 |
斯波詮高 |
3 |
天文14年(1544年) |
父・詮高、南部氏より雫石城を攻略 |
斯波詮高、南部晴政 |
4 |
天文15年(1545年) |
詮高、詮義を猪去館主に配置。「三御所」体制成立 |
斯波詮高、猪去詮義、斯波経詮、雫石詮貞 |
4 |
天文18年(1549年) |
父・詮高、死去。嫡男・経詮が家督継承 |
斯波詮高、斯波経詮 |
3 |
永禄2年(1559年) |
斯波経詮、死去か(異説あり) |
斯波経詮 |
5 |
永禄9年(1566年)? |
猪去詮義、死去か |
猪去詮義 |
1 |
天正9年(1581年) |
南部信直、三戸南部氏の家督を継承 |
南部信直 |
2 |
天正14年(1586年) |
南部信直、豊臣秀吉に臣従。同年9月、雫石御所(雫石城)を攻略。斯波氏と南部氏が和睦したとの情報もあるが詳細不明。 |
南部信直、豊臣秀吉、雫石詮貞(またはその後継者) |
2 |
天正14年(1586年)12月 |
豊臣秀吉、関東・奥羽総無事令を発令 |
豊臣秀吉 |
2 |
天正16年(1588年)7月-8月 |
南部信直、高水寺城を攻略し、斯波氏本家滅亡。猪去館もこの頃に落城した可能性が高い。 |
南部信直、斯波詮直(詮元) |
2 |
この年表は、猪去詮義の生涯(推定を含む)と、彼を取り巻く高水寺斯波氏の興隆から滅亡、そして南部氏の台頭という大きな歴史の流れを関連付けて理解する一助となる。特に、詮義の没年とされる時期と、斯波氏が滅亡し猪去館が落城したとされる時期との間に約20年の隔たりがある点は、今後の考察において重要な論点となる。
猪去詮義が館主を務めた猪去館は、現在の岩手県盛岡市猪去(いさり)にその跡地が比定されている 1 。より具体的には、北緯39度40分40.6秒、東経141度04分16.7秒の地点であると記録されている 4 。この地域は、奥羽山脈の東麓に広がる丘陵地帯の低位に位置しており、古くから人々の活動が見られた場所である。実際に、猪去館の周辺では縄文時代早期から中期の遺物を出土する猪去館遺跡(上平遺跡群の一部)なども確認されており、長い歴史を持つ土地柄であったことが窺える 20 。猪去館の東側には猪去川が流れ、この流域では考古学的な調査も進められている 21 。
猪去館は、別名を「猪去御所」とも称された 4 。その城郭構造は、一般的な戦国期の地方領主の居館である「城館」に分類され、大規模な天守閣のような建造物は有していなかったと考えられている 4 。現地には、往時を偲ばせる遺構として、曲輪(くるわ、城の区画)や堀の跡が確認されている 4 。
猪去館跡については、盛岡市教育委員会による発掘調査が複数回実施されており、その成果は『猪去館・上平2遺跡』(平成4・5年度調査報告)などの報告書としてまとめられている 23 。これらの報告書の抄録は、盛岡市教育委員会のウェブサイトなどで一部閲覧できる場合がある 23 。猪去館跡は、より広範囲な遺跡群である上平遺跡群(うわだいらいせきぐん)の一部として調査・研究が進められている 24 。現時点では、国や県、市による史跡指定は受けていない 4 。
猪去館の具体的な縄張り(設計プラン)や詳細な構造については、これらの発掘調査報告書を精査する必要があるが、提供された資料の範囲内では、その全体像を把握できるほどの具体的な記述は限定的である 29 。
史料における猪去館の初見は、天文15年(1545年)に斯波詮高が三男である詮義を配置したという記述である 4 。これが猪去館の成立と見なせる。その後の変遷については、高水寺斯波氏の衰退と滅亡の歴史と軌を一にする。利用者各位の情報にもある通り、斯波氏が滅亡した天正16年(1588年)頃に、南部信直の軍勢によって攻略されたと伝えられている。
『岩手県中世城館跡分布調査報告書』には、斯波氏が詮高の代に次男の詮貞を雫石に、三男の詮義を猪去にそれぞれ配置し、「三御所」と称したことが記されている 15 。また、同報告書は『南部根元記』を引用し、斯波氏没落の直接的な契機の一つとなった家臣・岩清水右京(いわしみず うきょう)の反乱についても触れている 15 。これらの記述は、猪去館が斯波氏の重要な拠点の一つとして機能していたことを裏付けているが、猪去館そのものの戦闘や落城に関する詳細な記録は、これらの資料からは見出し難い。
猪去館の立地や確認されている遺構から推察すると、北方の南部氏に対する防衛網の重要な一角を占める拠点としての役割を強く意識した構造であったと考えられる。発掘調査報告書をより詳細に検討することで、その具体的な防御施設や館の構成、当時の人々の生活様式などが明らかになる可能性がある。
「猪去」という地名は古く、縄文時代からの遺跡も存在する 20 。このことは、この地が古来より人間の居住に適し、かつ戦略的にもある程度の重要性を持つ場所であった可能性を示唆している。猪去館の存在は、斯波氏の勢力範囲が岩手郡にまで及んでいたことを示すと同時に、その北限に近い、まさに南部氏との勢力圏が接する境界線上に位置していたことを物語っている。この地域における支配権の確保と維持は、斯波氏と南部氏の長年にわたる緊張と抗争の歴史を象徴するものであり、猪去館はその最前線の一つであったと言えるだろう。この地域の領有権を巡る攻防は、そのまま奥州における二大勢力の力関係の変遷を反映しており、猪去館の歴史を追うことは、単一の城館の盛衰に留まらず、より広範な地域史を理解する上で重要な視点を提供する。
高水寺斯波氏は、戦国時代の末期に至ると、その勢力に陰りが見え始め、家中の統制にも緩みが生じていた。特に、北方に勢力を拡大する三戸南部氏との間では、長年にわたり領土を巡る抗争が繰り返されており、斯波氏は次第に劣勢に立たされるようになっていた 6 。斯波詮高の没後(天文18年/1549年)、南部氏からの軍事的な圧力は一層強まったと考えられる 31 。
斯波詮高の子・経詮の跡を継いだ斯波詮真(しば あきざね)の代になると、斯波氏の苦境はさらに深刻化した。詮真は、南部氏の圧力を回避し、家名を存続させるため、南部一族である九戸政実(くのへ まさざね)の弟にあたる高田康実(たかだ やすざね、のちの中野康実)を女婿(娘婿養子)として迎え入れ、南部氏との関係修復を図った 7 。これは、形式的には婚姻による同盟関係の構築を目指したものであったが、実質的には斯波氏が南部氏の強い影響下に置かれたことを示す出来事であり、事実上の従属に近い状態であったとも解釈できる。
高水寺斯波氏の本家が最終的に滅亡したのは、天正16年(1588年)の7月下旬から8月初めにかけてのことであった 2 。この滅亡の直接的な引き金となったのは、三戸南部氏の当主・南部信直(なんぶ のぶなお)による高水寺城(現在の岩手県紫波町)への攻撃であった 2 。
この滅亡の背景には、いくつかの複合的な要因が存在する。
第一に、南部信直の台頭と巧みな中央工作である。天正9年(1581年)に三戸南部氏の家督を継承した信直は、当時天下統一を進めていた豊臣秀吉との連携を重視した。天正14年(1586年)夏には、鷹や馬、太刀などを秀吉に献上し、前田利家(まえだ としいえ)を通じて豊臣政権への服属を願い出て、これを了承されている 2。これにより、信直は中央政権の後ろ盾を得て、奥羽における自身の立場を強化した。
第二に、 豊臣政権による国内平定の進展 である。天正14年(1586年)12月、豊臣秀吉は「関東・奥羽総無事令」を発令し、諸大名間の私的な戦闘を禁じた 2 。これは、豊臣政権による全国支配体制の確立を目指すものであったが、信直はこの後も、巧みにこの情勢を利用しつつ、自身の勢力拡大を進めていく。
第三に、 南部信直による具体的な軍事行動と斯波氏勢力の切り崩し である。信直は、天正14年(1586年)9月には、岩手郡西部に位置した斯波氏の重要拠点である雫石御所(雫石城)を攻略し、斯波氏の「三御所」体制の一角を崩壊させた 2 。これにより、斯波氏の防衛網は大きく揺らいだ。
第四に、 斯波家臣団の内部崩壊 である。南部信直は、軍事的な圧力と並行して、斯波家臣団に対する調略を積極的に展開した。その結果、斯波氏の重臣であった岩清水右京義教(いわしみず うきょう よしのり)らが南部氏に内通し、高水寺城攻撃の際には南部方として参陣した 7 。先に南部氏との関係改善のために斯波氏の婿養子となっていた中野康実(高田康実)や、福士淡路(ふくし あわじ)といった有力家臣を含む、斯波家臣の半数ほどが南部氏へ寝返ったとされ、これが斯波氏滅亡を決定的なものとした 2 。特に、岩清水右京の反乱は、斯波氏にとって致命的な打撃となり、滅亡の直接的な引き金の一つとなったとされている 7 。
これらの結果、高水寺城主であった斯波詮直(しば あきなお、詮元・詮基とも称される)は、抗戦むなしく居城を支えきれず、城を脱出して家臣の山王海氏を頼り山王海(さんのうかい、現在の岩手県紫波町内)へと落ち延びた 6 。その後、詮直は一時的に南部信直に仕えたとも伝えられるが、最終的には下野(げや、官職を辞して民間に下ること)したとされている 6 。
高水寺斯波氏本家の滅亡と時を同じくして、その支城であった猪去館も南部信直の勢力によって攻略されたと伝えられている(利用者各位の情報)。しかし、前述の通り、猪去詮義の没年が永禄9年(1566年)であるとすれば、天正16年(1588年)の猪去館落城の際に、詮義自身が館主として采配を振るっていたとは考えにくい。
史料 7 には、斯波氏が南部氏の攻勢により劣勢に立たされる中で、猪去詮義が猪去城(猪去館)に配置されたことが記されている。これは、詮義が猪去館の初代館主として、対南部氏防衛の任に就いたことを示している。しかし、その後の猪去館における具体的な戦闘の経緯や、天正16年の落城時に誰が城主であったのか、そして猪去氏の一族がどのように行動したのかについての直接的かつ詳細な記述は、提供された断片的な資料からは見出すことが困難である。斯波氏滅亡後、猪去詮義の子である義方や孫の久道(ひさみち)がどのような状況に置かれ、どのような道を辿ったのかについては、後の子孫に関する項で詳述する。
高水寺斯波氏の滅亡は、単一の原因によるものではなく、南部信直の周到な外交戦略と着実な軍事行動、豊臣秀吉による中央集権化という全国的な政治潮流、そして斯波氏自身の内部結束の弱体化(特に有力家臣の離反)といった複数の要因が複雑に絡み合った結果であると言える。
猪去館の落城も、この斯波氏全体の衰亡という大きな歴史の流れの中に位置づけられる。ただし、猪去詮義個人の没年とされる時期と、猪去館が落城したとされる時期との間に約22年の隔たりがある点を考慮すると、落城時の具体的な状況や、その際の猪去氏の当主の動向については、さらなる史料の発見と詳細な分析が待たれるところである。
斯波氏の滅亡とそれに続く猪去氏の動向は、戦国時代末期から近世初頭にかけての、地方における旧勢力の解体と新勢力による再編という、日本史上の大きな転換期を象徴する出来事の一つと捉えることができる。旧勢力である斯波氏が、新興勢力である南部氏に取って代わられる過程で、斯波氏の一族や家臣たちは、滅亡、帰農、あるいは新たな支配者への臣従といった、それぞれ異なる運命を辿ることになった。この中で、猪去氏が後に南部藩士として家名を存続させたという事実は、旧勢力の一部が新体制下で生き残るための一つの途を示しており、当時の武士たちの現実的な選択と処世術を垣間見ることができる。
猪去詮義の子として、猪去義方(いさり よしかた)の名が複数の資料で確認されている 1 。義方は、後に南部藩士となる猪去久道(いさり ひさみち)の父にあたる人物である 1 。
義方の生涯に関する具体的な記録は乏しいが、伝承によれば、彼は父・詮義と同様に、高水寺斯波氏の宗家に忠義を尽くしたとされる。しかし、天正16年(1588年)に主家である斯波氏が南部信直によって滅ぼされると、義方は本拠地であった猪去を離れ、花巻(現在の岩手県花巻市)方面へ逃れた。その後は、花巻周辺に隠棲し、逼塞しながら余生を終えたと伝えられている 34 。
猪去久道は、猪去義方の子であり、猪去詮義から見れば孫にあたる。通称は蔵人(くろうど)であった 34 。一部の資料では、久道が「猪去御所第3代」と記されている 34 。この「第3代」という記述は、初代・詮義、2代目・義方、そして3代目・久道という形で猪去館主、あるいは猪去氏の家督が継承されたことを示唆している。しかし、詮義の没年が永禄9年(1566年)であり、斯波氏滅亡と猪去館落城が天正16年(1588年)であることを考慮すると、義方が猪去館主であった期間が20年以上存在した可能性が高い。久道が実際に「猪去御所」の主として猪去館を支配したかどうかは、斯波氏滅亡時の年齢や状況を考えると断定は難しい。あるいは、斯波氏滅亡後に南部氏に仕える際に、猪去家の由緒と正統性を示すための名跡としての「第3代」であった可能性も考えられる。
主家である斯波氏の滅亡後、久道は父・義方と共に花巻に隠れ住んでいた 34 。しかし、慶長年間(1596年~1615年)に入ると転機が訪れる。南部氏の重臣で花巻城代などを務めた有力家老である北松斎信愛(きた しょうさい のぶちか、北信愛)によって召し出され、慶長17年(1612年)、南部利直(なんぶ としなお、盛岡藩初代藩主)の次男で当時花巻城主であった南部政直(なんぶ まさなお)の家臣となった 34 。
この南部氏への仕官により、猪去氏は高水寺斯波氏の庶流という立場から、盛岡藩南部氏の藩士として家名を存続させる道が開かれた 34 。『志和諸臣雫石和泉久詮 一族後仕松斎三十石 (中略) 猪去蔵人久道 一族仕松斎五十石』という記録が残っており 32 、猪去久道が北松斎(北信愛)に仕え、50石の知行を得ていたことがわかる。これは、同じく斯波氏の庶流で雫石御所を継いだ雫石氏の一族(雫石和泉久詮)が30石であったことと比較しても、一定の評価を受けていたことを示唆している。
猪去久道の子として、猪去基久(いさり もとひさ)の名が史料に見える 32 。彼もまた蔵人を称し、父祖の跡を継いで盛岡藩士として続いたと考えられる。盛岡藩の家臣団を記したリストの中にも「猪去」の名が見受けられることから 35 、江戸時代を通じて猪去家が南部藩に仕えていたことが確認できる。
しかし、基久以降の猪去氏の具体的な役職、知行高の変遷、あるいは家格などに関する詳細な情報は、提供された資料からは乏しい。盛岡藩の分限帳(ぶげんちょう、藩士の名簿・禄高一覧)、諸士給人帳(しょしきゅうにんちょう)、あるいは『参考諸家系図(さんこうしょけけいず)』といった藩政史料を網羅的に調査することによって、江戸時代における猪去氏のより詳細な動向が明らかになる可能性がある 1 。例えば、花巻の御給人(ごきゅうにん、給地を与えられた武士)として「猪去弥平次(いさり やへいじ)」という名が見える史料も存在し 42 、これは猪去氏の系統が複数存在したのか、あるいは時代による当主の呼称の変遷を示しているのか、さらなる検討を要する。
猪去氏が、本家である高水寺斯波氏の滅亡という危機を乗り越え、かつての敵対勢力であった南部氏の家臣として存続できた背景には、いくつかの要因が考えられる。最も直接的な要因は、南部氏の重臣である北信愛の存在であろう。信愛が旧斯波家臣である猪去久道を召し抱えた背景には、単なる個人的な縁故だけでなく、旧斯波領の安定的な統治や、旧体制下で培われた地域知識や人脈を持つ有能な人材を確保するという、南部氏側の戦略的な判断があった可能性が高い。
猪去久道に与えられた50石という知行は、かつて「御所」と称された斯波氏一門の末裔としては、決して高いものとは言えないかもしれない。しかし、主家が滅亡し、多くの同族や旧臣が離散したり、歴史の表舞台から姿を消したりする中で、家名を保ち、新たな支配体制下で武士としての地位を維持できたことは、猪去氏にとって大きな意味を持っていたと言えるだろう。
この猪去氏の南部藩への仕官という出来事は、単に一個人の主従関係の変更というミクロな視点に留まらず、より大きなマクロな視点から見れば、旧体制(斯波氏支配)から新体制(南部氏支配)へと移行する奥州北部の地域社会の再編と、新たな秩序が形成されていく過程の一端を示すものとして捉えることができる。南部氏にとって、猪去氏のような旧斯波氏ゆかりの家臣を登用することは、彼らが持つ地域の情報や旧来の人間関係を活用し、新たな領国支配を円滑に進める上で有効な手段であったと考えられる。一方で、猪去氏側にとっては、激動の時代を生き抜き、家名を後世に伝えるための現実的かつ合理的な選択であったと言えよう。これは、戦国時代から近世へと移行する時期に見られる、武士階級の流動性と再編の様相を示す典型的な事例の一つとして評価できる。
表3: 猪去氏略系図
斯波詮高(高水寺斯波氏当主)
┣━━━━━━━━━━┳━━━━━━━━━━┓
斯波経詮 雫石詮貞 **猪去詮義**
(高水寺御所・嫡男) (雫石御所・次男) (猪去御所初代・三男)
│
猪去義方
(猪去御所2代? 花巻へ隠棲)
│
猪去久道(蔵人)
(猪去御所3代? 南部藩士、50石)
│
猪去基久(蔵人)
(南部藩士)
この略系図は、猪去詮義から数代にわたる猪去家の流れと、高水寺斯波氏の滅亡という大きな歴史的断絶を乗り越えて、南部藩士として家名が存続した経緯を視覚的に示している。特に、詮義が「猪去御所」の初代であり、その子孫が南部藩に仕えたという流れを明確にすることで、猪去氏の歴史的変遷を理解する一助となる。
猪去詮義は、奥州における名門・高水寺斯波氏の一翼を担い、父・斯波詮高の領土拡大戦略のもと、「猪去御所」として斯波領北方の防衛線を守った重要な人物であったと評価できる。詮義自身の具体的な武功や詳細な事績に関する記録は、現存する史料からは乏しいものの、その存在と猪去館の配置は、当時の斯波氏の勢力範囲と、宿敵であった南部氏との間の緊張関係を象徴するものであったと言えよう。
詮義の没年とされる永禄9年(1566年)と、斯波氏が滅亡し猪去館が落城したとされる天正16年(1588年)との間には約20年の時間的隔たりがあり、この間の猪去館の状況や館主については史料の限界から不明な点が多い。しかし、詮義に始まる猪去氏という家系が、本家である高水寺斯波氏の滅亡という大きな歴史的転換点を乗り越え、かつての敵対勢力であった南部氏に仕えることで盛岡藩士として存続したという事実は、戦国時代末期から近世初頭にかけての武家の多様な生き残り戦略の一例として注目に値する。
猪去氏は、足利氏一門という高貴な血筋を引く斯波氏の庶流でありながら、時代の激しい変化の中で新たな主君に仕えるという現実的な選択を行い、その結果として家名を後世に伝えることに成功した。これは、単に一地方武士団の盛衰に留まらず、より大きな歴史のうねりの中で、武士たちが如何にして自らの家と血脈を維持しようとしたかを示す貴重な事例と言えるだろう。
猪去詮義および猪去氏に関する研究は、依然として多くの課題を残している。今後の調査によって、さらに詳細な実像が明らかになることが期待される。
第一に、『奥南落穂集』や『南部根元記』といった根本史料について、諸写本間の比較検討を含めたより詳細な読解を進める必要がある。これらの史料における猪去氏関連の記述を丹念に拾い上げ、分析することで、新たな知見が得られる可能性がある。
第二に、盛岡藩の藩政史料、特に分限帳、諸士給人帳、そして『参考諸家系図』などの家臣系図集における猪去氏関連の記述を網羅的に調査することが求められる。これにより、江戸時代を通じての猪去氏の具体的な役職、知行高の増減、家格の変遷などをより詳細に追跡できる可能性がある。
第三に、猪去館跡および関連する上平遺跡群の発掘調査報告書を精査することである。これにより、猪去館の具体的な縄張りや構造、出土遺物から推定される当時の生活様式など、考古学的な側面からのアプローチが可能となる。
そして最後に、最も重要な課題として、猪去詮義の正確な没年や、斯波氏滅亡時の猪去館における具体的な戦闘状況、その際の館主などを明らかにするための、新たな一次史料の発見が強く望まれる。古文書や古記録の中に、これまで見過ごされてきた猪去氏に関する記述が眠っている可能性も否定できない。これらの課題に取り組むことで、猪去詮義という一人の武将、そして猪去氏という一族の歴史が、より鮮明に浮かび上がってくるであろう。
本報告書作成にあたり参照した資料は多岐にわたるが、主要なものとして以下を挙げる。
上記以外にも、断片的な情報として 62 、 63 、 64 、 65 、 9 、 10 、 66 、 67 、 68 、 69 、 70 、 71 、 33 、 72 、 51 、 52 、 73 、 74 、 75 、 36 、 76 、 77 、 17 、 78 、 66 、 35 、 36 、 33 、 79 、 80 、 81 、 82 、 83 、 84 、 85 、 86 、 37 、 35 、 87 、 88 、 38 、 35 、 89 、 90 、 37 、 91 、 92 、 93 、 94 、 38 、 35 、 89 、 90 、 37 、 8 、 92 、 93 、 94 、 38 、 35 、 89 、 90 、 37 、 95 、 92 、 93 、 94 、 38 、 35 、 89 、 96 、 37 、 92 、 93 、 94 、 41 、 36 、 25 、 26 、 97 、 98 、 99 、 100 、 101 、 43 、 44 、 38 、 18 、 102 、 19 、 103 、 104 、 105 、 106 、 107 、 108 、 109 、 110 、 31 、 111 、 112 、 113 、 114 、 115 、 116 、 32 、 34 の各資料を参照した。