最終更新日 2025-06-09

猪苗代盛胤

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猪苗代盛胤の実像:忠義と流転の生涯

序論:猪苗代盛胤という武将

本報告書は、戦国時代から江戸時代前期にかけて会津地方にその名を刻んだ武将、猪苗代盛胤(いなわしろ もりたね)の生涯と、彼が生きた時代の特質を、現存する史料や伝承に基づき、多角的に検証し、その実像を明らかにすることを目的とする。戦国乱世の会津にあって、猪苗代氏という特異な立場に置かれた一族の嫡男として、盛胤がどのような選択をし、いかなる運命を辿ったのか。その軌跡は、当時の武士の生き様や倫理観、そして地方勢力の興亡を理解する上で、示唆に富むものと言えよう。

猪苗代盛胤は、会津の戦国大名蘆名氏の家臣であり、猪苗代盛国の嫡男として生を受けた 1 。猪苗代氏の当主としては、『伊達世臣家譜』によれば第13代、一方『耶麻郡誌』や猪苗代町の伝承では亀ヶ城最後の城主、第14代とされている [ 122 , 9 ]。天正17年(1589年)の摺上原の戦いにおいて、父・盛国が伊達政宗に内応し、主家蘆名氏が滅亡するという激動の中、盛胤は蘆名方として奮戦した。敗戦後は、主君・蘆名義広(後の盛重)に従って常陸国へ落ち延びたが、やがて故郷である猪苗代の地へ戻り、内野村にてその生涯を閉じたと伝えられている 2

以下に、猪苗代盛胤の生涯における主要な出来事を略年表として示す。

表1:猪苗代盛胤 略年表

年代(和暦)

年齢 (推定)

出来事

典拠

永禄7年(1564年)頃

1歳

生誕(寛永18年没、享年77歳からの逆算 2

天正13年(1585年)

22歳

父・盛国より家督を相続

4

天正16年(1588年)

25歳

父・盛国により猪苗代城を追われる

7

天正17年(1589年)

26歳

摺上原の戦いに蘆名方として参戦、負傷。蘆名氏滅亡後、主君・蘆名義広(盛重)に従い常陸へ退避

2

慶長7年(1602年)以降

39歳以降

(蘆名義広の角館移封後)猪苗代へ帰還か

3

寛永18年(1641年)

77歳

11月20日(または18日)、猪苗代内野村にて死去

2

1. 猪苗代氏の出自と蘆名家における立場

猪苗代盛胤の生涯を理解する上で、まず彼が属した猪苗代氏の成り立ちと、宗家である蘆名氏との関係性を把握しておく必要がある。

猪苗代氏は、桓武平氏三浦氏の流れを汲み、相模国を発祥とする蘆名氏の支流にあたる 4 。鎌倉時代初期、文治5年(1189年)の奥州合戦の功により会津地方を与えられた佐原義連の子、あるいは孫とされる経連が、耶麻郡猪苗代の地に拠点を構え、猪苗代氏を称したのがその始まりと伝えられている 10 。猪苗代氏は、猪苗代湖の北岸に位置する亀ヶ城(猪苗代城)を本拠とし、古くから耶麻郡の半郡を領有する有力な国人領主であった 10 。盛胤の当主としての代数については、史料によって異同が見られ、『伊達世臣家譜』では第13代、『耶麻郡誌』や地元の伝承では第14代城主として記録されている [ 122 , 9 ]。この差異は、猪苗代氏の系譜に関する記録が錯綜している可能性を示唆しており、今後の研究課題と言えよう。

猪苗代氏は、蘆名一門という立場にありながらも、その地理的条件や独自の勢力基盤から、宗家に対し複雑な関係性を有していたことがうかがえる 10 。その歴史を紐解けば、服属と反乱を繰り返してきた軌跡が浮かび上がり 1 、この一族が単なる従属的な立場に甘んじることなく、常に一定の自立性を保持しようとしていたことが窺える。蘆名氏が戦国大名として会津に君臨する中でも、猪苗代氏のこの強い独立志向は変わらず、宗家にとっては常に家臣団統制における悩みの種であった 13 。しかしながら、この「独立性」は、蘆名宗家にとっては支配体制を不安定にさせかねない要因であり、同時に、伊達政宗のような外部の強大な勢力にとっては、会津攻略の足がかりとして利用しうる隙ともなり得た。天正年間における猪苗代盛国の伊達氏への内通は、まさにこの猪苗代氏が内包する構造的な特質、すなわち独立性と、それに伴う宗家との緊張関係が、外部勢力の介入によって最大限に顕在化した事例と捉えられよう。かかる状況下で、盛胤が父とは異なる道を選択したことは、猪苗代氏が代々抱えてきた宗家との関係性、そして一族としてのあり方に対する、ある種の問いかけであったとも解釈でき、後の摺上原における一族内の悲劇的な分裂へと繋がる重要な背景を形成していたと言わざるを得ない。

2. 父・猪苗代盛国との関係

猪苗代盛胤の生涯に最も大きな影響を与えた人物は、実父である猪苗代盛国(もりくに)であろう。父子の確執は、単に家族内の問題に留まらず、猪苗代氏、ひいては蘆名氏の運命をも左右する重大な事態へと発展していく。

盛国は猪苗代氏の第12代当主とされ、当初は蘆名氏第16代当主・蘆名盛氏に仕えていた 4 。『会津旧事雑考』によれば、天文20年(1551年)に元服した際、盛氏から偏諱(「盛」の字)を与えられ、盛国と名乗ったとされる 4 。しかし、その出自や猪苗代氏の系譜には不明な点も多く、父については蘆名盛詮の次男・猪苗代盛清説と、天文10年(1541年)に蘆名氏に謀反を起こした猪苗代盛頼説が存在する 1 。盛国自身もまた、宗家蘆名氏に対しては自立的な姿勢を崩さず、時には反抗的な態度も見せるなど、一筋縄ではいかない人物であったことが史料から読み取れる 1

父子の間に決定的な亀裂が生じたのは、家督相続後のことであった。天正13年(1585年)、盛国は50歳で家督を嫡男である盛胤に譲り、隠居した 4 。しかし、盛国は後妻とその間に生まれた子・宗国を溺愛するあまり、後妻による「廃長立幼」、すなわち嫡男の盛胤を廃して幼い宗国を立てようとする讒言を信じるようになる 1 。この家庭内の不和は、単なる親子喧嘩に留まらず、猪苗代城の支配権、ひいては猪苗代氏の蘆名家に対する立ち位置を揺るがす事態に発展した。そして天正16年(1588年)、盛胤が主君の居城である黒川城に伺候している不在の隙を突き、盛国は手勢を率いて実力で猪苗代城を奪還し、盛胤を追放するという暴挙に出る 7 。『新編会津風土記』には、これより以前、伊達政宗が檜原に逗留した際に盛国を調略しようとしたが、盛胤がこれに同心しなかったために一旦は事なきを得たものの、盛国の盛胤に対する不信感は根深く、ついに実力行使に至ったと記されている 8 。この一連の出来事により、父子の対立は修復不可能なものとなった。盛国が伊達政宗に内通する背景には、この息子盛胤への反感と、自らの実権回復への強い欲望があったことは想像に難くない。結果として、この父子の確執が、猪苗代氏が摺上原の戦いで伊達方と蘆名方に分裂する直接的な原因となり、蘆名家滅亡の一因を形成した。盛胤の悲劇は、個人的な忠誠心の問題だけでなく、このような家族内の亀裂と、それが外部勢力に利用されるという戦国時代特有の力学の中にあったと言える。彼の人生は、父との個人的な関係の破綻が、主家の運命をも左右する大きな歴史的出来事へと繋がっていく過程を示すものであり、戦国武将の私的な問題が公的な領域に与える影響の大きさを物語っている。

3. 摺上原の戦いと盛胤の選択

天正17年(1589年)6月5日、磐梯山麓の摺上原(すりあげはら)で行われた伊達政宗軍と蘆名義広軍の合戦は、会津の覇権を決定づける戦いであった。この戦いにおいて、猪苗代盛胤は父・盛国と袂を分かち、蘆名方として参戦するという苦渋の選択をする。

奥州統一を目指す伊達政宗は、周到な準備の末、会津への本格的な侵攻を開始した 15 。この時、蘆名家内部では、当主・蘆名義広の若さや、佐竹氏からの養子であることに対する家臣団の不満がくすぶっており、政宗の調略が効果を発揮しやすい状況にあった 16 。そのような中、天正17年6月1日、それまで態度を曖昧にしていた猪苗代盛国が、子(亀丸、おそらく宗国か)を人質として差し出し、ついに伊達政宗に恭順の意を示した 15 。猪苗代城を抑える盛国の内応は、伊達軍にとって戦略的に極めて大きな意味を持った。これにより、伊達軍は蘆名氏の本拠地である黒川城へ直接迫ることが可能となり、戦況は一気に伊達方有利へと傾いたのである 15

父・盛国が伊達方に寝返ったという衝撃的な報は、盛胤にとっても計り知れない葛藤をもたらしたであろう。しかし、盛胤は父とは異なる道を選んだ。彼は一貫して蘆名方にとどまり、摺上原の戦いでは先鋒の一翼を担い、父・盛国の手勢を含む伊達軍と刃を交えることになった 2 。この行動は、父との個人的な確執を超え、主家蘆名氏への忠義を貫こうとした盛胤の武士としての矜持を示すものであった。

表2:摺上原の戦いにおける猪苗代一族の動向

人物名

所属勢力

主な行動

典拠

猪苗代盛胤

蘆名方

先鋒として伊達軍と交戦、負傷

2

猪苗代盛国

伊達方

伊達政宗に内応、伊達軍の先手を務める、日橋川の橋を落とし蘆名軍の退路を断つ

4

猪苗代宗国

伊達方

盛国の子(後妻の子)、伊達方への人質となる。後に伊達家準一門

4

合戦は熾烈を極めた。緒戦は風向きの影響もあり蘆名方が優勢に進める場面もあったが 17 、伊達軍の巧みな戦術と、何よりも猪苗代盛国の裏切りが蘆名軍に動揺を与えた。盛胤は奮戦したものの深手を負い 2 、戦いは伊達軍の圧倒的な勝利に終わった。敗走する蘆名軍の多くは、日橋川で溺死したが、これは猪苗代盛国が予め橋を落としていたためと伝えられている 15

敗戦後、深手を負った盛胤は、安積郡横沢(現在の郡山市湖南町横沢)へと落ち延びた 3 。『新編会津風土記』によれば、盛胤は父に猪苗代城を奪われた後、まず横沢へ向かったとされており 8 、摺上原の戦いの後に再び同地へ避難した可能性が高い。

盛胤の行動は、主家への「忠」を重んじる伝統的な武士の価値観を体現しているように見える。一方、父・盛国は、家中の内紛、蘆名家の衰退、そして伊達政宗の急速な勢力拡大という現実を冷静に判断し、伊達方につくことで猪苗代家の存続を図ろうとした現実主義者、あるいは機会主義者と評価できよう。事実、盛国はその功により伊達政宗から所領を安堵され、さらに加増を受けて準一門という破格の待遇を得ている 4 。これは、彼の選択がある意味では「成功」したことを示している。この父子の対照的な行動は、戦国乱世における武士の生き様や価値観の多様性を示す象徴的な事例と言えるだろう。盛胤の選択は、結果として主家の滅亡と自身の流浪に繋がったが、その一貫した姿勢は、後の世の人々からの評価に少なからず影響を与えた可能性が考えられる。彼の行動を単なる「愚直な忠義」と断じるのではなく、父・盛国の現実的な判断と比較検討することで、戦国武将が置かれた複雑な状況と、その中での個々の選択の重みをより深く理解することができる。

4. 蘆名家滅亡後の流浪と帰郷

摺上原の戦いにおける蘆名氏の惨敗は、会津の戦国大名としての蘆名氏の終焉を意味した。当主・蘆名義広(後の盛重)は黒川城を捨てて白河へ逃走し、その後、実家である常陸国の佐竹氏のもとへ身を寄せた 13 。猪苗代盛胤もまた、この主君の逃避行に従い、常陸へと赴いたとされている 3

蘆名義広は名を盛重と改め、佐竹氏の庇護下で常陸江戸崎城主となったが、それも束の間であった。関ヶ原の戦いにおいて、兄である佐竹義宣が徳川家康に対して曖昧な態度を取ったことが原因で、佐竹氏は出羽秋田へ大幅に減転封された 13 。これに伴い、蘆名盛重も江戸崎の所領を失い、佐竹家の一家臣として出羽国角館に1万6千石を与えられて移ることになる 13

盛胤がいつ、どのような経緯で主君・盛重のもとを去ったのか、その詳細を伝える直接的な史料は乏しい。しかし、猪苗代町の郷土史に関する記述には、「後に義広公が角館へ移封されると、故郷の猪苗代に戻る」とあり 3 、盛重の角館移封(慶長7年・1602年以降)が、盛胤の人生における一つの転機となった可能性が示唆される。主君・盛重の勢力が大幅に縮小し、佐竹家の一家臣という立場になったことへの将来への不安、あるいは故郷猪苗代への望郷の念が募ったことなどが、その理由として推測される。また、父・盛国は摺上原の戦いの後、伊達政宗に従って会津を去り、岩井郡東山(現在の岩手県一関市)に所領を与えられていたため 4 、猪苗代における猪苗代本家の直接的な影響力は薄れており、盛胤が帰郷しやすい状況にあったとも考えられる。

盛胤が故郷の猪苗代内野村へ帰還した具体的な時期は不明であるが、蘆名盛重の角館移封(1602年)以降、盛胤が死去する寛永18年(1641年)までの間であったことは間違いない 2 。当時の会津は、豊臣秀吉による奥州仕置後、蒲生氏郷が入封し、その後、上杉景勝、そして関ヶ原の戦いを経て再び蒲生氏(秀行、忠郷)、さらに加藤嘉明・明成と、支配者が目まぐるしく変わる激動の時代であった 11 。蒲生氏郷は、旧蘆名家臣の採用にも比較的積極的であったとされ、浪人となっていた武士たちを召し抱えたという記録もあるが 19 、盛胤が新たな主君に仕官したという記録は見当たらない。このことは、彼が武士としてのキャリアを終え、帰農の道を選んだことを示唆している。

盛胤の帰郷と帰農という決断は、敗軍の将としての現実的な処世術であったと同時に、彼の武士としての価値観や人間性を色濃く反映した行動と解釈できる。父・盛国が伊達氏に寝返り、伊達家の家臣として家名を存続させる道を選んだのに対し、盛胤は最後まで旧主蘆名氏への忠誠を貫いた。その主家が事実上滅亡し、父とも袂を分かった彼にとって、新たな主君に仕えるという選択肢もあったはずだが、彼はそれを選ばず、故郷の土に還ることを望んだ。それは、かつての主家への忠義を貫いた武士としての矜持の表れであったのか、あるいは戦国乱世のめまぐるしい変転に心身ともに疲弊し、静かな余生を求めた結果であったのかもしれない。いずれにせよ、その選択は、父・盛国の生き方とは対照的であり、猪苗代盛胤という人物像をより深く理解する上での鍵となるであろう。

5. 晩年と猪苗代での終焉

故郷の猪苗代へ戻った盛胤は、現在の猪苗代町内野にあたる内野村で、仕官することなく静かに終生を送ったと伝えられている 2 。彼が新たな支配者に仕官しなかった理由については、前述の通り、旧主蘆名氏への忠節を重んじたこと、度重なる戦乱に嫌気が差したこと、あるいは会津の新支配者との間に何らかの確執があったことなど、複合的な要因が考えられる。戦国時代において、敗れた武士が帰農し、土豪として村落で一定の影響力を持ち続ける例は少なくないが 20 、盛胤の帰農後の具体的な生活ぶりを伝える詳細な記録は、残念ながら乏しい。

盛胤の最期は、寛永18年(1641年)に訪れた。没日については、11月20日とする史料 2 と、11月18日とする伝承 3 があり、若干の異同が見られる。享年は77歳であったとされ、波乱に満ちた生涯を閉じた 2

盛胤の墓は、現在も猪苗代町内野にあり、町指定史跡として大切に保存されている 9 。特筆すべきは、盛胤の死後、その遺徳を慕った旧領民の臼井平右衛門らが、明暦4年(1658年)に五輪塔を建立したという伝承である 3 。この五輪塔は大小6基からなり、最も大きなものが盛胤のもの、残りの小さなものは家族のものと伝えられている 3 。墓とは別にこのような顕彰碑が建てられたという事実は、盛胤が単に「亀ヶ城最後の城主」であったというだけでなく、その人柄や生き様が地元の人々に深く記憶され、敬慕の対象となっていた可能性を強く示唆している。

盛胤は、父の裏切り、主家の滅亡、そして流浪という、まさに戦国武将の過酷な運命を体現したような人生を送った。最終的に故郷の土に還り、静かに生涯を終えた彼の選択は、武士としてのキャリアを終え、一人の人間として生きることを選んだと解釈できる。父・盛国が伊達家臣として家名を繋いだのとは対照的に、盛胤は個人としての生き様を貫き、その結果として、異なる形で後世に名を残したと言えるだろう。盛胤の晩年と死後の伝承は、戦国時代の歴史が勝者によってのみ語られるものではなく、敗者や時代の波に翻弄された人々の多様な生き様、そして地域社会における記憶の継承がいかに行われたかを考える上で、非常に示唆に富んでいる。彼の貫いた「忠義」は、政治的な成功には結びつかなかったかもしれないが、人々の心に深く刻まれ、語り継がれるものであったのかもしれない。

6. 猪苗代盛胤の子孫

猪苗代盛胤自身は、故郷の猪苗代内野村で帰農し、その生涯を終えたが、彼の血脈がそこで途絶えたわけではなかった。史料によれば、盛胤には作右衛門盛親(もりちか)という子がいたことが確認されている [ 122 , 21 ]。

この盛親は、父・盛胤とは異なり、武士としての道を歩んだ。彼は磐城平藩(現在の福島県いわき市)の藩主であった鳥居忠政に仕え、中野村を領有し、これにちなんで中野氏を称したと伝えられている [ 122 ]。猪苗代の名跡を継がなかった(あるいは継げなかった)事情は不明だが、父とは異なる形で新たな道を切り開いたことがわかる。

さらに、この中野氏の家系は続き、盛親の曽孫にあたる盛信の子・理八郎義都(よしさと)は、後に会津藩に仕官したという記録が残されている [ 122 , 21 ]。これは、一度は会津の地を離れた猪苗代盛胤の直系の子孫が、数代を経て再び会津藩と関わりを持つようになったことを意味しており、興味深い歴史の巡り合わせと言えるだろう。

猪苗代氏という一族の運命は、戦国時代の動乱の中で大きく揺れ動いた。盛胤の父・盛国とその子・宗国の子孫は伊達家の家臣として仙台藩で家名を保ち 4 、一方、盛胤の子孫は中野氏と名を変え、磐城平藩、そして一部は会津藩に仕えるという形で、それぞれ異なる道を辿りながらも血脈を繋いでいった。これは、猪苗代氏という一族が、本家の分裂という悲劇を乗り越え、戦国時代から江戸時代へと続く激動の時代の中で、それぞれが置かれた状況に応じて多様な存続戦略を模索した結果と言えるだろう。盛胤個人の物語は猪苗代での死をもって一旦の区切りを見るが、その子孫たちの動向を追うことで、武家の存続のあり方や、一族が辿る運命の多様性を垣間見ることができる。

7. 結論:猪苗代盛胤の歴史的評価

猪苗代盛胤は、戦国時代の歴史の表舞台において、伊達政宗や蒲生氏郷のような華々しい活躍を見せた武将ではない。しかし、彼の生涯は、戦国乱世という未曾有の変革期を生きた一地方武将の実像と、その時代が個人に強いた過酷な選択の重みを、我々に生々しく伝えてくれる。

盛胤の人物像を語る上で、父・猪苗代盛国の存在は欠かせない。盛国が主家蘆名氏を裏切り、伊達政宗に内応するという衝撃的な行動に出たのに対し、盛胤は一貫して蘆名氏への忠義を貫き通した。この父子の対照的な生き様は、盛胤の個性を際立たせると同時に、戦国武将の倫理観や価値観の多様性を示している。

猪苗代氏は、会津の戦国大名蘆名氏の重臣でありながら、常に一定の独立性を保持してきた特異な家柄であった。その嫡男として生まれた盛胤は、家督を巡る父との確執、主家の存亡をかけた摺上原の戦いにおける苦渋の選択、そして敗戦後の流浪と故郷への帰還、帰農という、まさに戦国乱世の縮図とも言える波乱に満ちた生涯を送った。彼の選択は、必ずしも同時代の基準で「成功」と呼べる結果には繋がらなかったかもしれない。しかし、その一貫した姿勢、特に父と袂を分かってまでも旧主への忠節を尽くそうとした姿は、戦国武将の多様な生き方の一つとして、また、個人の信念を貫くことの意義を問いかけるものとして、評価されるべきであろう。

史料が断片的であるため、盛胤の生涯の全てを詳細に解明することは困難である。しかし、猪苗代町内野に残る墓や、その遺徳を偲んで旧領民が建立したと伝えられる五輪塔の存在は 3 、彼が死後も地元の人々によって記憶され、ある種の敬愛を受けていたことを示唆している。父・盛国が伊達家臣として家名を保ったのに対し、盛胤は蘆名方に殉じ、結果として猪苗代における猪苗代氏本宗家の直接支配は終焉を迎える。しかし、個人としては、その忠義な生き様が後世に語り継がれることとなった。この対比は、武士としての「成功」とは何か、家名の存続と個人の矜持のどちらに重きを置くべきかという、普遍的な問いを我々に投げかける。

猪苗代盛胤の研究は、単なる一武将の伝記に留まるものではない。彼の生涯を丹念に追うことは、戦国時代の武士の倫理観、家族関係、主従関係の複雑さ、そして地域社会と武士との関わりといった、より広範な歴史的テーマへの洞察を深めることに繋がる。彼の存在は、猪苗代という地域の歴史において、また蘆名氏と伊達氏の抗争史において、決して大きくはないかもしれないが、特異な光彩を放っている。歴史の細部にこそ、その時代の本質が宿ることを、猪苗代盛胤の生涯は静かに教えてくれるのである。

引用文献

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