日本の戦国時代、数多の武将が覇を競い、その名を歴史に刻んだ。中でも、九州の南端、薩摩国から興り、一時は九州全土を席巻する勢いを見せた島津氏は、その特異な軍事組織と勇猛果敢な家臣団によって、戦国史に強烈な印象を残している。16世紀後半、島津貴久、そしてその子である義久の指導の下、島津氏は長年の内紛を収束させ、薩摩・大隅・日向のいわゆる「三州統一」を成し遂げた。この偉業は、島津四兄弟と称される義久、義弘、歳久、家久の結束と、彼らを支えた多くの優れた家臣たちの存在なくしては語れない。
本稿でその生涯を詳述する猿渡信光(さるわたり のぶみつ)は、まさしくこの島津氏の飛躍を支えた猛将の一人である。彼は、島津氏が肥後・肥前へと勢力を拡大していく過程で数々の武功を挙げ、特に「肥前の熊」と恐れられた龍造寺隆信を討ち取った「沖田畷の戦い」において、その武名を不動のものとした。しかし、その栄光は長くは続かなかった。天下統一を目前にした豊臣秀吉による九州征伐の前に、島津氏の夢は潰える。信光もまた、その最後の抵抗戦となった「根白坂の戦い」で壮絶な最期を遂げた。彼の生涯は、島津氏の栄光と、中央政権との圧倒的な力の差の前に屈した挫折を、一身に体現していると言えよう。
猿渡信光に関する記録は、他の著名な島津家臣と比較して断片的な部分も多い。しかし、それらの断片を丹念に繋ぎ合わせ、当時の歴史的文脈の中に位置づけることで、一人の武将の実像が浮かび上がってくる。彼は単なる勇猛な武人であっただけでなく、領地を治める行政官としての側面も持ち合わせていた。本稿は、現存する史料を徹底的に調査・分析し、猿渡信光という一人の武将の出自からその戦歴、統治者としての一面、そして彼の死と後裔の運命までを詳細に描き出すことを目的とする。彼の生涯を追うことは、島津氏の興隆と戦国時代の終焉という、九州史における一大転換点を理解する上で、極めて重要な鍵となるであろう。
表1:猿渡信光 関連年表
和暦(西暦) |
年齢 |
出来事 |
典拠 |
天文3年(1534) |
1歳 |
猿渡信資の子として誕生。 |
1 |
天正12年(1584) |
51歳 |
沖田畷の戦い 。島津家久軍の部隊長(兵1千)として龍造寺隆信軍を撃破。この戦いで 嫡子・彌次郎が戦死 する。 |
1 |
天正年間(1573-1592) |
不明 |
羽月地頭職 に任じられる。知行は羽月に集約され、城内に居住。 |
4 |
天正15年4月17日(1587年5月24日) |
54歳 |
根白坂の戦い 。豊臣秀吉の九州征伐軍との戦いにおいて、島津忠隣らと共に 討死 。 |
1 |
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- |
信光の死後、子の掃部兵衛尉(信豊)が羽月地頭職を継ぐ。 |
4 |
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- |
信豊に後継ぎがなく、日野氏から養子を迎え家系を存続。 |
6 |
猿渡信光の人物像に迫るにあたり、まず彼が属した猿渡氏の出自を明らかにすることは不可欠である。しかし、その系譜については、複数の史料が異なる起源を示しており、一筋縄ではいかない。
最も広く知られている説は、桓武平氏の流れを汲むというものである。信光の生涯を記した複数の文献は、猿渡氏を「平高望の後裔」と明記している 1 。平高望は平安時代中期の皇族で、臣籍降下して桓武平氏の祖となった人物であり、坂東八平氏など多くの武家を輩出した名門である。この系譜に連なることは、武士としての家格の高さを示すものであった。
一方で、これとは異なる系譜を伝える史料も存在する。『姓氏家系大辞典』などの系譜研究においては、薩摩の猿渡氏を利仁流藤原氏の一族として収録しているものがある 7 。藤原利仁は平安時代中期の武人で、鎮守府将軍として活躍し、斎藤氏や富樫氏など多くの武家の祖とされている。こちらもまた、武門として誇るべき由緒ある家系である。
このように、猿渡氏の出自について平氏説と藤原氏説という二つの異なる伝承が存在する事実は、単なる記録の混乱として片付けるべきではない。戦国時代の武家社会において、家系の由緒は家の格や社会的地位を左右する重要な「資産」であった。主家である島津氏自身が源頼朝の庶子を祖とすると称し、その権威を高めていたように、その家臣たちもまた、自らの家の正当性と名誉を確立するために、より名高い氏族の系譜に自らを繋げようとすることは珍しくなかった。
したがって、猿渡氏の系譜に見られるこの「揺れ」は、一族がその時々の政治的状況に応じて、自らの家系をより有利な形で構築しようとした努力の痕跡である可能性が考えられる。信光の時代、あるいはその子孫の時代に、島津家中の序列における自らの立場をより強固なものにするため、権威ある平氏や藤原氏の系譜が意識的に選択され、語られるようになったのではないか。この事実は、猿渡氏が単なる一地方武士ではなく、自家の存続と発展のために戦略的な思考を持っていたことを示唆している。本稿では、特定の説に断定するのではなく、複数の系譜伝承が存在したという事実そのものを、戦国武士の家意識のあり方を示す一例として捉えたい。
猿渡信光は、天文3年(1534年)、猿渡信資(のぶすけ)の子として生を受けた 1 。この時期、島津家では第15代当主・島津貴久が薩摩国内の統一に向けて着々と地歩を固めていた頃であり、信光はまさに島津氏が戦国大名として飛躍していく激動の時代に生を受けたことになる。
彼がいつから島津家に仕え始めたかについての明確な記録はないが、貴久の代にキャリアを開始し、その子・義久の代に重用されるようになったと考えるのが自然であろう。彼の名が歴史の表舞台に現れるのは、島津氏が三州統一をほぼ成し遂げ、その勢力を肥後・肥前へと拡大していく時期である。
信光の島津家内における地位を示すものとして、彼の官途名が挙げられる。史料によれば、彼は当初「掃部兵衛(かもんのひょうえ)」を、後には「越中守(えっちゅうのかみ)」を称したとされている 1 。掃部兵衛は、律令制における掃部寮(かもんづかさ)の官人であり、越中守は越中国の国司の長官である。しかし、戦国時代において、これらの官途名は朝廷から正式に叙任された官職(官位)ではなく、主君である大名からその功績や家格に応じて与えられる私的な称号、いわゆる「百官名(ひゃっかんな)」であることがほとんどであった。
信光が掃部兵衛、そして越中守という官途名を名乗ることを許されたという事実は、彼が島津家中で高い評価を受け、相応の地位にあったことを物語っている。特に「守」を称することは、方面軍の指揮官や重要な城の城主など、一廉の武将にのみ許される場合が多く、彼の武将としての器量が早くから認められていたことを示唆している。
猿渡信光の武将としての本領が発揮されたのは、島津氏が九州統一という壮大な目標に向かって突き進んだ、天正年間の戦いにおいてであった。彼は数々の合戦に参加し、島津軍の中核を担う指揮官としてその武名を轟かせた。
島津氏が天正6年(1578年)の「耳川の戦い」で豊後の大友宗麟を破り、三州の支配を盤石なものにすると、次なる目標は北方に勢力を張る肥前の龍造寺氏との対決であった。この肥後国(現在の熊本県)への侵攻作戦において、猿渡信光は重要な役割を果たした。
彼の具体的な戦功を詳細に記した一次史料は限られているものの、複数の文献が、彼が「肥後国侵攻」や「肥後遠征」において活躍し、龍造寺方の勢力を駆逐することに貢献したと伝えている 2 。これらの戦いを通じて、信光は着実に軍功を重ね、島津義久や、肥後方面の軍事を任されていた弟の島津家久から絶大な信頼を勝ち得ていったと考えられる。
その証左として、後の「沖田畷の戦い」において、彼が島津軍の主力を構成する大部隊の指揮官に抜擢されている事実が挙げられる。戦国時代の軍団において、一軍の将を任されることは、それまでの戦働きにおける卓越した武勇と、部隊を統率する能力が認められたことを意味する。肥後・肥前方面での一連の戦いは、信光が島津軍にとって不可欠な猛将へと成長していくための、重要なステップであったと言えるだろう。
天正12年(1584年)3月24日、九州の戦国史における最も劇的な合戦の一つ、「沖田畷の戦い」が勃発する。この戦いは、猿渡信光の武将としてのキャリアの頂点であり、同時に彼の人生に深い悲しみを刻む出来事となった。
当時、九州は北の龍造寺氏と南の島津氏という二大勢力によって覇権が争われていた。肥前島原の国衆・有馬晴信が龍造寺氏に反旗を翻し、島津氏に救援を求めたことが、この決戦の直接的な引き金となった 9 。これに対し、龍造寺氏の当主・龍造寺隆信は、自ら2万5千とも5万ともいわれる大軍を率いて島原半島に侵攻した。対する島津・有馬連合軍の総兵力は、わずか6千から8千程度であり、兵力差は歴然としていた 2 。
この絶望的な状況下で、島津家は弟の島津家久を総大将として援軍を派遣した。そして、この精鋭部隊の中で、猿渡信光は1千の兵を率いる部隊長という重責を担っていた 1 。総兵力の七分の一から八分の一に相当する兵力を単独で指揮していたという事実は、彼が単なる一武将ではなく、方面軍司令官である家久の作戦を支える、極めて重要な軍権を有した指揮官であったことを明確に示している。
島津軍の総大将・家久は、兵力差を覆すため、島原半島の地形を最大限に利用した戦術を立案した。それは、幅の狭い湿地帯を貫く一本道「沖田畷」に龍造寺の大軍を誘い込み、その動きが制約されたところを叩くというものであった 9 。
この作戦を成功させるため、島津・有馬連合軍は、本陣を置いた森岳城(後の島原城)から海岸線にかけて、土手、堀、そして柵を幾重にも巡らせた強固な防衛ラインを構築した 3 。猿渡信光が率いる1千の部隊は、この防衛ラインの要の一つである「丸尾城」に布陣した 3 。彼の任務は、本陣と海岸線を結ぶ陣地の一角を死守し、敵の突破を許さないことであった。信光の部隊が持ち場を維持できるか否かは、龍造寺軍を沖田畷というキルゾーンに閉じ込めるという、島津軍の作戦全体の成否を左右するものであった。
3月24日の決戦当日、龍造寺軍は兵力に任せて沖田畷へと殺到した。しかし、狭い畷では大軍の利は活かせず、逆に密集したところを島津軍の鉄砲隊に狙い撃ちにされ、大混乱に陥った 10 。機を捉えた島津家久は全軍に突撃を命じ、死に物狂いの島津勢は龍造寺軍を突き崩し、ついに総大将・龍造寺隆信の首級を挙げるという歴史的な大勝利を収めた 9 。
この勝利における猿渡信光の功績は計り知れない。彼は与えられた持ち場を固守し、島津軍の戦術的勝利に大きく貢献した。この戦いは、彼の生涯における最大の武功として、島津家の戦史に燦然と輝くこととなった。
しかし、その栄光はあまりにも大きな代償を伴うものであった。この激戦のさなか、信光の嫡男である彌次郎が討死したのである 1 。主家の勝利のために自らの後継者を失うという悲劇は、信光にとって筆舌に尽くしがたい苦しみであったに違いない。だが、この出来事は、戦国時代の武士の価値観において、極めて重要な意味を持っていた。主君のために戦い、一族の血を捧げることは、家臣としての最高の忠誠の証と見なされたからである。彌次郎の死という個人的な悲劇は、結果として猿渡家の島津家に対する忠節を血で証明する形となり、信光の家臣団内における評価を、悲壮美と共に一層高めることになったであろう。沖田畷の戦いは、信光に武将としての栄誉と、父としての深い悲しみを同時に与えた、彼の人生を象徴する出来事であった。
沖田畷の戦いで龍造寺氏を破り、九州統一に王手をかけた島津氏であったが、その前途には巨大な壁が立ちはだかっていた。中央で天下統一を成し遂げた豊臣秀吉である。
天正15年(1587年)、秀吉は島津氏の九州における勢力拡大を「私戦」と断じ、自ら20万とも言われる大軍を率いて九州に上陸した(九州征伐) 12 。豊臣軍は、豊臣秀長を総大将とする日向路からの部隊と、秀吉自らが率いる肥後路からの部隊の二手に分かれ、薩摩を目指して破竹の勢いで進軍した。九州の諸大名や国人衆は次々と豊臣方に下り、島津氏は瞬く間に窮地に追い込まれた。
島津軍は、豊臣秀長軍が包囲する日向国の高城を救援するため、島津義弘・家久らが率いる約2万の兵力で出陣した 13 。豊臣軍は、高城の南に位置する「根白坂」に強固な砦を築き、島津軍の救援部隊を待ち構えていた 12 。兵力は豊臣軍が8万から10万、対する島津軍は2万から3万5千と、その差は圧倒的であった 5 。
天正15年4月17日(西暦1587年5月24日)、両軍は根白坂で激突した。島津軍は得意の突撃戦法で宮部継潤らが守る豊臣方の砦に何度も猛攻を仕掛けたが、堅固な守りと圧倒的な物量の前に、突破口を開くことができない 5 。
この絶望的な戦況の中、島津の武士たちは最後の意地を見せる。島津歳久の嫡養子であった島津忠隣は、自らの武名を立てんとして「拙者は未だ武名を得るに至っていない。家久公は優れた武名を誇っているが、今の拙者はさほど劣っているようには見えない」と言い放ち、僅かな手勢で無謀な突撃を敢行し、鉄砲に撃たれて19歳の若さで討死した 5 。
猿渡信光もまた、この地獄のような戦場で奮戦していた。彼は、これまでの戦で功のあった歴戦の勇士の一人として、崩れ行く戦線を支えようと戦い続けた 5 。しかし、夜襲を予期していた黒田官兵衛の策にはまり、小早川隆景・黒田勢の挟撃を受けると、島津軍は総崩れとなった 12 。この乱戦の中で、猿渡信光はついに力尽き、島津忠隣ら三百余名の将兵と共に討ち取られた 5 。享年54であった 1 。
信光の死は、一個人の戦死に留まらない。それは、沖田畷で九州最強を誇った島津の武勇が、豊臣政権という新しい時代の圧倒的な組織力と物量の前に屈したことを象徴する出来事であった。彼の死をもって、島津氏が戦国大名として九州に覇を唱えた時代は、事実上の終焉を迎えたのである。根白坂は、信光にとって、武士としての生涯を締めくくるにふさわしい、壮絶な死に場所となった。
猿渡信光の評価は、戦場での武功だけに留まるものではない。彼はまた、島津氏の領国経営を支える有能な行政官、すなわち「地頭(じとう)」としての一面も持っていた。彼のこの役割を理解することは、島津氏の強さの源泉を探る上で不可欠である。
史料によれば、猿渡信光は加世田(かせだ、現在の鹿児島県南さつま市)および羽月(はつき、現在の鹿児島県伊佐市)の地頭職を歴任したことが確認されている 1 。地頭とは、主君である島津氏から特定の地域の支配を委任され、その地の年貢徴収、治安維持、民政全般を司る役職である。
信光の死後、江戸時代の元禄期に彼の子孫である猿渡信安が藩の記録所に提出した文書に、信光の地頭職に関する具体的な記述が残されている 4 。その文書(『猿渡家文書』)によれば、信光(越中守)は天正年間(1573年~1592年)に羽月の地頭に任命されたという。加世田地頭の任期については「相知不申候(不明である)」としながらも、羽月地頭に任命された際に、彼の知行(給与地)はすべて羽月に集約され(御操替)、自身は城内に居住することを命じられたと記されている 4 。
この記録から、信光が単に名誉職として地頭の名を与えられたのではなく、実際に島津氏の直轄地を管理し、そこから得られる収益を自身の経済基盤とする、本格的な領地経営者であったことがわかる。
この事実は、島津氏の軍事力の根源を解き明かす上で極めて重要である。信光が沖田畷の戦いで1千もの兵を率いることができたのは、彼個人の武勇や名声だけによるものではない。それは、彼が地頭として支配する加世田や羽月といった領地から、兵員を動員し、その武具や兵糧を調達する経済的・行政的な権限と基盤を持っていたからに他ならない。
島津氏の強さは、このように信頼できる家臣を地頭として領内の要所に配置し、彼らに軍事と行政の両面で大きな権限を与えるという、独特の「地頭衆中制」と呼ばれる支配体制に支えられていた。地頭たちは、平時には領地の経営者として富を蓄え、戦時にはその領地から動員した兵を率いて出陣する。信光の武将としての活躍と、地頭としての行政手腕は、まさに表裏一体の関係にあった。彼の生涯は、この島津氏独自の強固な統治システムが、いかに効果的に機能していたかを示す、生きた証拠と言えるだろう。
根白坂の戦いにおける猿渡信光の壮絶な戦死は、彼個人の生涯の終わりであると同時に、猿渡家にとって存亡の危機を意味した。嫡男・彌次郎は既に沖田畷で命を落としており、家の血筋は断絶の瀬戸際に立たされた。しかし、猿渡家は巧みな方策によってこの危機を乗り越え、江戸時代を通じて薩摩藩士として存続していく。
信光には、沖田畷で戦死した彌次郎の他に、掃部兵衛尉信豊(かもんのひょうえのじょう のぶとよ)という子がいたことが記録されている 6 。信光の死後、この信豊が家督を継ぎ、父と同じく羽月の地頭職に就いたことが、前述の猿渡信安の提出文書から確認できる 4 。
しかし、その信豊には後継ぎとなる男子がいなかった 6 。父と兄を戦で失い、自らにも世継ぎがいないという状況は、猿渡家にとって絶望的であった。ここで、家の存続のために取られた手段が「養子縁組」であった。
鹿児島県に残る史料『本藩人物誌』などによれば、信豊に後嗣がなかったため、日野氏出身の者が猿渡與三(よそう)の養子となり、信豊の跡を継いだとされる 6 。この養子となった猿渡信綱は、もともと「日野内膳」の子であり、島津義弘の小姓として仕え、後に島津家久(忠恒)に付けられた人物であった 6 。
この養子縁組は、戦国から近世にかけての武家社会における「家」の重要性を如実に示している。武家にとって最も重要なのは、血の繋がりそのものよりも、家名と家禄を維持し、主君への奉公を絶やさず続けることであった。功臣である猿渡家の断絶を惜しんだ島津家側の配慮もあったであろう。さらに、主君の側近である小姓を務めた人物を養子に迎えることは、猿渡家が再び島津家との強固な結びつきを確保し、家の安泰を図るという、極めて高度な政治的判断であったと推察される。これにより、猿渡家は血統こそ変わったものの、「家」として存続することに成功したのである。
この養子縁組によって家名を繋いだ猿渡氏は、江戸時代に入ってからも薩摩藩士として続いた。信光の死から100年以上が経過した元禄期(1688年~1704年)には、猿渡信安(のぶやす)という人物が、藩の記録を司る役人として活動していたことが史料から確認できる 6 。
信安は、藩の記録奉行であった田中国明らと共に、諸家の由緒や系図の調査に関わっていた 17 。彼自身も、天和2年(1682年)に藩の記録所からの求めに応じ、先祖である信光(越中守)や信豊(掃部兵衛尉)の地頭職に関する記録をまとめた文書を提出している 4 。この文書こそが、信光の地頭としての活動を今に伝える貴重な史料となっている。
信光が戦場で命を散らしてから一世紀以上もの時を経て、その子孫が藩の中枢で記録管理という文官の仕事に従事し、自らの祖先の功績を公式な記録として後世に残そうとしていたという事実は、非常に興味深い。それは、猿渡家が武門の家としての誇りを持ち続け、薩摩藩の組織内で確固たる地位を維持していたことの証左である。信光が命を懸けて築いた功績と、その後の子孫たちによる巧みな家系維持の努力が、猿渡家を近世の世にまで繋いだと言えるだろう。
猿渡信光の生涯を、断片的な史料を繋ぎ合わせて再構築する作業は、九州戦国史の一断面を鮮やかに浮かび上がらせる。彼は、島津氏が南九州の一勢力から、九州の覇者へと駆け上がった激動の時代を象徴する、傑出した武将であった。
第一に、信光は比類なき武勇と卓越した統率力を兼ね備えた「猛将」であった。肥後・肥前での数々の戦功を経て、島津軍の中核を担う指揮官へと成長し、その評価は沖田畷の戦いで頂点に達した。寡兵をもって龍造寺の大軍を打ち破ったこの戦いにおける彼の功績は、島津家の戦史において不滅の輝きを放っている。そして、豊臣秀吉という巨大な力の前に、根白坂で散ったその最期は、戦国武士としての本懐を遂げた壮絶なものであり、時代の転換点を象徴する出来事であった。
第二に、信光は単なる武人ではなく、領地経営に優れた手腕を発揮した有能な「行政官」でもあった。加世田・羽月の地頭として民政を担い、その領地から動員した兵力をもって戦場に赴くという彼の姿は、島津氏の強さの源泉であった「地頭衆中制」を体現するものであった。彼の存在なくして、島津氏の強固な軍事・経済基盤は語れない。
第三に、彼の人生は、戦国武将の栄光の裏にある、人間的な悲劇をも我々に示してくれる。生涯最大の武功を挙げた戦で、自らの後継者を失うという苦悩。そして、その悲劇すらも主君への忠誠の証として昇華される、当時の武士の厳格な価値観。彼の死後、家名存続のために養子を迎えた後裔の姿は、血縁を超えて「家」の永続を第一とする武家の論理を浮き彫りにする。
結論として、猿渡信光は、島津氏の興隆期における最も重要な家臣の一人であり、その武勇と統治能力によって主家の発展に大きく貢献した人物として、高く評価されるべきである。彼の生涯は、一人の武将の栄光と悲劇の物語であると同時に、戦国という時代のダイナミズム、そして九州という地域が中央の大きな権力に飲み込まれていく歴史の必然性を、我々に力強く示している。断片的な記録の向こう側に見える信光の人間味あふれる実像は、今後も九州戦国史を研究する上で、我々に多くの示唆を与え続けるであろう。