玉木吉保は毛利家臣で、戦国末期から江戸初期を生きた文武両道の士。自叙伝『身自鏡』は当時の社会を克明に記す。医術にも専心し、その家系は幕末の教育者・玉木文之進へ繋がる。
戦国時代から江戸時代初期にかけての日本史は、天下統一を目指す英雄たちの壮大な物語として語られることが多い。しかし、その激動の時代を支え、新たな社会を形作ったのは、名もなき無数の武士たちの実直な営みであった。本報告書が主題とする玉木吉保(たまき よしやす)は、まさにそうした時代の実相を今に伝える、稀有な人物である。
天文21年(1552)に生を受け、寛永10年(1633)に82歳の長寿を全うした玉木吉保は、毛利元就、輝元、秀就という三代の当主に仕えた毛利家の家臣である 1 。彼の生涯は、戦国の終焉と泰平の世の到来という、日本の歴史における一大転換期と完全に重なる。吉保は、武士として戦場に立つ一方で、領国経営を支える有能な吏僚(実務官僚)、人々の命を救う医師、そして豊かな教養を持つ文化人という、驚くほど多彩な顔を持っていた 3 。
吉保が後世に遺した最大の功績は、元和3年(1617)、66歳の時に著した自叙伝『身自鏡(みのかがみ)』に他ならない 5 。この書は、一個人の功績を誇示するための単なる回顧録ではない。戦国時代を生きた一人の地方武士の視点から、当時の教育、文化、経済、そして日々の生活の現実が、克明かつ率直な筆致で描き出されている。その記述の具体性と網羅性から、『身自鏡』は戦国期の社会史・文化史を研究する上で欠かすことのできない第一級の史料として、今日、極めて高く評価されている 4 。
本報告書は、この『身自鏡』を主たる史料として、玉木吉保という人物の生涯を徹底的に掘り下げることを目的とする。単なる一武将としてではなく、戦国の世に不可欠とされた「吏僚的武士」として、また、その知識を実践に活かした「医師・文化人」としての側面を多角的に分析する。さらに、彼の家系が幕末・明治の重要人物へと繋がるという、これまで十分に光が当てられてこなかった歴史の伏流を探り、一人の戦国武士が後世に与えた意外な影響までを考察することで、玉木吉保という人物の歴史的意義を明らかにしていく。
一人の人間の生涯は、その生まれ育った環境によって大きく方向づけられる。玉木吉保が、後に多方面でその才能を発揮するに至った背景には、彼の家系が持つ特性と、少年期に受けた特異な教育があった。本章では、彼の武士としての土台が如何にして形成されたのかを検証する。
玉木吉保は、天文21年(1552)7月8日、毛利家臣・玉木忠吉の子として生を受けた 1 。幼名は初次丸、後に又三郎、太郎左衛門尉と称し、官位としては土佐守を名乗っている 1 。玉木氏は毛利家に仕える譜代の家臣であり、吉保の人生もまた、主家である毛利氏の盛衰と軌を一にすることとなる。
吉保の人物像を理解する上で、父・忠吉の存在は無視できない。『身自鏡』の記述によれば、父・忠吉は毛利氏による尼子氏攻略後、その旧領である出雲国能義郡の代官に任じられている 9 。さらに、尼子氏の残党との戦いにおいては、毛利方の拠点であった月山富田城に籠城した経験も持つなど、毛利家の領国支配の最前線で活動した武将であったことがわかる 9 。
ここに、玉木家の家風を読み解く鍵がある。忠吉が軍事拠点である城に籠城しつつも、その職務が「代官」であったという事実は重要である。代官とは、年貢の徴収や民政の安定化を担う行政官であり、軍事能力だけでなく、統治の実務能力が求められる役職である。このことは、玉木家が単なる武勇一辺倒の家柄ではなく、領国を経営するための吏僚的な能力をも重んじる家風であったことを強く示唆している。吉保が後に検地奉行という高度な専門性を要する行政職でその才能を遺憾なく発揮するのは、決して偶然ではない。父・忠吉の背中を見て育つ中で、統治の実務に携わることの重要性を肌で感じ、その素養が家庭環境において既に培われていた可能性は極めて高い。彼のキャリア形成の原点は、この吏僚的な家風にあったと見ることができる。
吉保の多才な能力の直接的な源泉は、少年期に受けた寺院での教育にある。永禄7年(1564)、数えで13歳になった吉保は、真言宗の勝楽寺に入山し、3年間にわたる修学生活を送った 1 。当時の寺院は、単なる宗教施設ではなく、地域における最高の学問機関としての役割を担っており、武士の子弟がここで体系的な教育を受けることは珍しくなかった。
『身自鏡』によれば、吉保はこの期間に仮名や漢字の読み書きといった基礎的な学問から、仏典である『般若心経』、武家社会の基本法典である『御成敗式目』、そして中国の古典である『論語』、兵法書の『三略』『六韜』に至るまで、幅広い分野の学問を学んだと記されている 1 。さらに特筆すべきは、この修学期間中に医術も学んでいたことである 1 。これが彼のもう一つの顔である医師としての道の出発点となり、後年には「偽真(ぎしん)」という医名を称するに至る 1 。
ここで注目すべきは、彼が学んだ知識の性質である。それは、現代の学問分野のように細分化されたものではなく、極めて実践的な「生存と立身のための総合知」であったと言える。『論語』は主君や同僚との人間関係を円滑にするための倫理規範となり、『御成敗式目』は所領問題などを解決するための法的知識を与え、『三略』『六韜』は戦場での判断力を養う。そして医術は、自他ともにその生命を守るための直接的な技術である。これらは全て、個人として、また毛利家という組織の一員として、複雑で危険な乱世を生き抜き、自らの地位を確立するために不可欠なスキルセットであった。彼の学問は、観念的な教養ではなく、武士としての実践、すなわち「武」と不可分に結びついた、統合的な知の体系であった。戦国時代に求められた「文武両道」という言葉の、より本質的な意味がここにある。
武士社会における評価は、戦場での武功や行政手腕だけで決まるものではなかった。平時における社交や儀礼の場で求められる文化的素養もまた、重要な要素であった。吉保が若き日に身につけた「嗜み」は、彼の人物像に深みを与えている。
『身自鏡』には、少年期の学芸修業の一環として、次のような記述がある。「扱又、御はやしなどの有けるには、一とさし舞て一曲をうたひ、何となく戯たるは、若侍の嗜みと人々申給へるは、恭次第也」(また、お囃子などがある時には、一差し舞って一曲謡い、何とはなしに興じるのは、若侍の嗜みであると人々が申されるので、もっともなことである) 11 。ここで述べられているのは「手猿楽」と呼ばれる、座敷などで行われる簡易な能楽のことであろう。「若侍の嗜み」であり、「人々申給へる」とあることから、これが個人の趣味の領域を超え、武士階級の若者集団における必須の教養であり、他者からの評価を意識した社交儀礼であったことが理解できる。
吉保の文化的素養はそれだけに留まらない。彼は連歌や料理、茶の湯にも通じていたと記録されており、武芸一辺倒ではない、豊かな感性を持った文化人であったことがうかがえる 3 。これらの文化的素養は、単なる個人的な趣味や気晴らしではなかった。むしろ、武士社会における自身の地位を確立し、円滑な人間関係を築くための「文化資本」として、極めて戦略的に機能していたと考えられる。連歌や茶の湯の会席は、主君や同輩との重要なコミュニケーションの場であり、そこで適切な立ち居振る舞いができるか否かは、その人物の評価に直結した。また、料理に関する知識は、饗応の席や、あるいは陣中での実務においても直接役立つ技能であった。こうした非公式な場での評価が、公式な場での抜擢に繋がることは十分にあり得た。吉保が身につけた多様な「嗜み」は、彼が武士社会の複雑な人間関係網の中で自らを有利に位置づけるための、洗練された処世術でもあったのである。
少年期に培った知識と教養は、やがて毛利家臣としての実践の場で開花することになる。吉保のキャリアは、戦場での武功という武士本来の役割から始まり、やがて領国経営の根幹をなす検地事業において、その吏僚としての才能を大きく発揮することになる。本章では、彼が武士として、そして吏僚として、如何に主家へ貢献したかを明らかにする。
永禄10年(1567)に寺での修学を終え還俗した吉保は、その二年後の永禄12年(1569)、18歳の時に初陣を経験する 3 。この年、豊後の大友宗麟の支援を受けた大内氏の残党・大内輝弘が、毛利氏が九州に出兵している隙を突いて周防国山口に侵攻した。世に言う「大内輝弘の乱」である。この追討戦に、吉保も一人の武士として参加したのである。
『身自鏡』には、この時の戦闘の様子が、まるで絵巻物の一場面のように生き生きと描写されている。「二間渡りの鑓を持て、一番に突て懸る。誰と不知、黒頭の甲に黒き鎧を着て、九尺計の鑓持たる武者と懸合せ、互いに甲を片向(かたむけ)、打つ敲つ戦ける」 8 。この記述は、彼が槍を手に敵兵と直接刃を交え、命のやり取りが行われる戦場の現実を体験したことを明確に示している。
この初陣の経験は、吉保のその後の人生に大きな意味を持った。彼が後に記す『身自鏡』が持つ比類なきリアリティは、こうした戦場の実体験に裏打ちされているからに他ならない。そして、後年、彼が吏僚として検地などの行政実務に携わる際も、その判断の根底には、戦場の現実を知る者としての視点があったはずである。領国の安定が如何に尊いものであるか、それを脅かすものが何であるかを身をもって知っていたからこそ、彼の仕事はより実効性の高いものになったと考えられる。
玉木吉保のキャリアにおいて、戦場での武功以上に際立っているのが、検地奉行としての活躍である。天正年間、毛利氏は西の織田・豊臣政権、南の長宗我部氏といった強大な勢力と対峙し、また協調する中で、領国支配体制の抜本的な改革を迫られていた。その根幹をなすのが、土地の生産力を統一的な基準で把握し、安定的かつ効率的な徴税システムを確立することであった。従来の複雑な「貫文高制」から、全国統一基準である「石高制」へと移行するための大規模な検地(領地調査)は、毛利家にとって最重要政策の一つだったのである 12 。
この国家的な事業において、玉木吉保は中心的な役割を担った。『身自鏡』には、彼が30歳から36歳という、まさに働き盛りの時期に、毛利氏の広大な領国を検地のために奔走した記録が残されている 12 。その活動範囲は、伊予、長門、周防、出雲、安芸、石見に及び、彼の吏僚としての専門性と、主君・毛利輝元からの厚い信頼を物語っている。
その具体的な活動内容は、以下の表に集約される。
年齢 |
年代(西暦) |
国 |
郡・地域 |
30歳 |
天正11年(1583) |
伊予国 |
(詳細不明) |
31歳 |
天正12年(1584) |
伊予国 |
(詳細不明) |
32歳 |
天正13年(1585) |
長門国 |
大津郡 |
33歳 |
天正14年(1586) |
周防国 |
大島郡 |
34歳 |
天正15年(1587) |
出雲国 |
仁田郡 |
35歳 |
天正16年(1588) |
安芸国 |
佐西郡・佐東郡・高田郡 |
36歳 |
天正17年(1589) |
石見国 |
(詳細不明) |
出典: 『身自鏡』の記述に基づく 12
この表から読み取れることは多い。まず、毎年異なる国や郡を担当していることから、彼が特定の地域に限定されない、汎用性の高い測量技術と行政手腕を持っていたことがわかる。検地とは、単に土地の面積を測るだけではない。土地の等級を定め、石盛(こくもり、石高を算出すること)を行い、その結果を「検地帳」という公式文書にまとめるという、高度な専門知識と公正さが求められる作業である 13 。これらは、彼が少年期に寺院で学んだ知識がなければ到底遂行不可能な任務であった。
特に注目すべきは、天正11年(1583)と12年の伊予国検地である。これは豊臣秀吉による本格的な四国平定(天正13年)以前のことであり、当時伊予では土佐の長宗我部氏が勢力を伸長し、現地の国人衆も毛利方と織田方(秀吉方)の間で揺れ動くという、極めて複雑で危険な情勢下にあった 12 。そのような政治的・軍事的に機微な地域へ派遣されたという事実は、吉保が単なる技術者ではなく、困難な交渉をもこなせる、信頼された専門官僚であったことを雄弁に物語っている。
玉木吉保の検地奉行としてのキャリアは、戦国後期から近世初期にかけて、大名家臣団のあり方が大きく変化したことを示す典型例である。すなわち、個人の武勇に依存した支配から、専門知識を持つ官僚組織による合理的・体系的な支配への移行である。吉保の価値は、槍働きという伝統的な「武」の能力に加え、算術、測量、文書作成、交渉といった「文」の能力にあった。この二つを兼ね備えた「吏僚的武士」こそが、近世大名権力を支える屋台骨であり、吉保はその先駆的な存在の一人であったと言えよう。
玉木吉保の名を不朽のものとしたのは、彼が遺した自叙伝『身自鏡』である。この書物は、一人の武士の生涯記録という枠を超え、戦国という時代の空気、人々の息遣い、そして価値観を現代に伝える貴重な窓となっている。本章では、『身自鏡』が持つ史料的価値と、そこに描かれた世界の具体像に迫る。
『身自鏡』は、元和3年(1617)、吉保が66歳の時に、当時の主君であった毛利秀就のために著されたと伝えられている 7 。関ヶ原の戦いを経て世は泰平となり、自らが経験した乱世の記憶を、新しい時代を生きる若い主君や子孫に伝え遺したいという思いが、執筆の動機であったと推測される。その形式は、自身の先祖や誕生から老年に至るまでの出来事を年代順に記した覚書風のものであり、後年、本人やその息子によって加筆・修正が加えられた可能性も研究者によって指摘されている 5 。
年月日の記述には若干の記憶違いが見られるものの 6 、『身自鏡』の史料的価値は極めて高い。なぜなら、そこには大名や公家といった支配者層の記録からは窺い知ることのできない、地方武士のリアルな生活が多岐にわたる分野で具体的に記されているからである。彼が受けた教育の内容、日常の食生活や衣服、嗜んだ文化活動、そして検地や医術といった専門的な職務に至るまで、その記述は詳細を極める 6 。これにより、『身自鏡』は個人の伝記であると同時に、戦国時代の生活史・文化史・教育史を研究する上で他に類を見ない好史料となっている。その価値の高さから、『国史資料』や『戦国史料叢書』といった主要な史料集にも収録され、多くの研究者に利用されてきた 12 。
『身自鏡』の魅力の一つは、歴史上の著名な人物が、吉保自身の目を通して生き生きと描かれている点にある。その最も有名な例が、天下人・豊臣秀吉の容貌に関する記述である。吉保は、毛利氏が織田信長と敵対していた時期、鳥取城攻めの際に初めて羽柴(豊臣)秀吉の姿を目撃した。その時の印象を、彼は次のように記している。
「その時はじめて羽柴をよく見たりけり。その姿軽やかに馬に乗り、赤ひげに猿眼にて空うそぶきてぞ出られける」 18
(その時初めて羽柴秀吉をよく見た。軽やかに馬に乗り、赤みがかった髭、猿のように鋭い目つきで、あたかも口笛でも吹くかのようにして現れた)
この「赤ひげに猿眼」という鮮烈なフレーズは、秀吉の容貌を伝える最も有名な一次史料の記述として、後世、数多くの歴史書や小説で引用されることとなった。小柄で異相であったとされる秀吉の人物像に、確かなリアリティを与える証言である。
また、『身自鏡』には、歴史の転換点の裏面を照らす、驚くべき逸話も記されている。それは、天正10年(1582)の本能寺の変の直後、備中高松城で毛利軍と対峙していた秀吉が、変の報せを受けるや、密かに毛利方の外交僧であった安国寺恵瓊を呼び寄せ、天下取りの壮大な計略を語って聞かせた、というものである 20 。この記述の真偽については議論の余地があるものの、もし事実であれば、秀吉の驚くべき思考の速さと底知れぬ野心を伝える、歴史の決定的な瞬間を捉えた貴重な証言となる。
吉保がこれらの逸話を詳細に記録しているという事実自体が、彼の非凡さを示している。彼は単に出来事を経験しただけではない。何が歴史的に重要であり、後世に伝える価値がある情報なのかを見極め、取捨選択する「記録者」としての高い意識を持っていた。彼の筆は、毛利家の一家臣というミクロな視点と、天下の動勢というマクロな視点とを自由自在に往還する。これこそが、『身自鏡』を単なる個人的な回顧録以上の、価値ある歴史史料たらしめている根源なのである。
『身自鏡』が持つもう一つの重要な価値は、戦乱の時代を生きた人々の生活実感を、美化することなく率直に伝えている点にある。特に、彼自身の少年時代に関する記述は、戦国時代の厳しさを我々に突きつける。
「その時分は、軍(いくさ)が多くて何事も不自由なことでおじゃった。(中略)あさ夕雑水(ぞうすい)を食べておじゃった」 21
この一文は、戦乱が続いたことで食料の確保がいかに困難であったかを物語る。さらに、衣服についても次のように告白している。
「おれが十三の時、手作りのはなぞめの帷子(かたびら)一つあるよりほかには、なかりし。そのひとつのかたびらを、十七の年まで着たるによりて、すねが出て難義にあった」 21
13歳の時にあつらえた唯一の麻の着物を、17歳になるまで着続けたため、丈が短くなってすねが見えてしまい難儀した、というこの告白は、涙ぐましいほどに具体的である。これは、毛利家に仕える武士の家に生まれた吉保ですら、少年期にはこのような困窮を経験したという事実を示しており、当時の庶民の生活が如何ばかりであったかを想像させるに余りある。
こうした困窮の記憶は、単なる苦労話として記されたのではない。それは、吉保の価値観や行動様式、いわば彼の人間としての骨格(ハビトゥス)を形成した原体験であったと考えられる。この経験があったからこそ、彼は安定と秩序を強く希求したのではないか。武功による一攫千金は魅力的だが、極めて不確実性が高い。それに対し、検地や医術といった専門技術は、より堅実に自らの地位と生活を安定させる手段となり得る。彼が『身自鏡』で自らの多岐にわたる技能を詳細に記しているのは、それらが観念的な教養ではなく、乱世を生き抜くための具体的な「武器」であったからに他ならない。彼の人生における様々な選択は、この困窮の原体験に深く根差した、極めて合理的で切実な生存戦略であったと解釈することができるのである。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いは、豊臣家の天下を終わらせ、徳川の世の幕開けを告げる分水嶺であった。西軍の総大将を担いだ毛利家はこの敗戦によって大きくその運命を変えられ、家臣である玉木吉保の人生もまた、新たな局面を迎えることとなる。武士としての道が大きく変容する中で、彼は自らが持つもう一つの技能、すなわち医術に新たな奉公の形を見出していく。
慶長5年(1600)に勃発した関ヶ原の戦いにおいて、玉木吉保個人が具体的にどのような行動をとったのかを記す史料は、残念ながら現存していない 3 。しかし、彼が属する毛利家がこの戦いで中心的な役割を担ったことは紛れもない事実である。
豊臣政権の五大老の一人であった毛利輝元は、石田三成や安国寺恵瓊らの要請を受け、西軍の総大将として大坂城に入った 22 。しかし、輝元自身は最後まで大坂城を動かず、関ヶ原の前線に送られた毛利秀元・吉川広家らの主力部隊は、徳川家康と密かに内通していた吉川広家の画策によって戦闘に参加することなく、西軍は一日で壊滅的な敗北を喫した 25 。この結果、毛利家は戦後の処分で、安芸・備後など中国地方120万5千石の広大な領地を没収され、周防・長門二国、わずか36万9千石にまで大減封されるという、極めて厳しい処遇を受けることとなった 27 。
この主家の存亡の危機と、それに伴う長年暮らした安芸国広島からの退去は、吉保を含む全ての毛利家臣の人生を根底から揺るがした。吉保も主家に従い、新たな本拠地となった周防・長門(長州藩)へ移住した 3 。藩の財政は困窮を極め、多くの家臣が暇を出される大規模なリストラも断行された 25 。そのような厳しい状況下で吉保が藩に留まることができたのは、彼の持つ吏僚や医師としての専門技術が、縮小された藩の再建と経営において、なお必要不可欠なものと見なされたからであろう。武功によって立身出世する道が事実上閉ざされた泰平の世で、彼は新たな奉公の形を模索する必要に迫られたのである。
関ヶ原の敗戦から数年が経ち、50歳を過ぎて老境に入った吉保は、自らの健康維持も兼ねて、少年期に寺院で学んだ医術に本格的に専念するようになる 3 。彼の名は、後世、武将としてよりもむしろ医師として知られる側面があるほど、この分野に深く傾倒していった 3 。
彼の医術への探求は、個人的な実践に留まらなかった。自らの知識と経験を体系化し、後進に伝えるべく、複数の医学書を執筆している。その代表的なものとして、以下の三点が知られている 3 。
これらの著作は、吉保の教育者としての一面を浮き彫りにする。単に知識を羅列するのではなく、和歌や物語といった、当時の人々にとって親しみやすい形式を用いることで、難解な医学知識を非専門家にも広く普及させようという、明確な意図が見て取れる。これは、減封によって人材が限られた長州藩において、医療知識を持つ人材を一人でも多く育成し、藩全体の民生と福祉に貢献しようという、彼の新たな形での奉公の表れであったのかもしれない。彼の晩年の活動は、武士の忠誠が、軍事や行政だけでなく、医療や教育といった形でも果たされ得ることを示す、新しい時代の武士像を提示している。
吉保が医術に専心した17世紀初頭の日本医学界では、曲直瀬道三(まなせ どうさん)を祖とする後世派医学、通称「曲直瀬流」が主流であった 29 。この流派は、中国の金元時代の医学を基礎とし、陰陽五行説に基づいて臓腑経絡の理論で病理を解明し、診断・治療を行うことを特徴としていた 31 。奇しくも吉保の主君の祖父である毛利元就も、かつて道三の診療を受けた記録が残るなど、その影響力は絶大であった 30 。
吉保が学んだ医学の具体的な流派を特定する史料はない。しかし、彼が京都で学んだこと 32 、そして彼の著作が実用性を第一に重んじていることから、当時の主流であった曲直瀬流の理論的影響を受けつつも、それに盲従するのではなく、自らの経験に基づいた実証的な医療を志向していた可能性が考えられる。
彼の著作の一つである『歌薬性』には、薬だけでなく食物の効能も歌の形で詠まれており、「食ハ 只 よくやハらげて あたゝかに あらハぬ程ハ 薬にもます」(食事はただ、よく柔らかく温かいものを、熱すぎない程度に摂れば、薬にも勝る効果がある)といった養生訓も含まれている 33 。これは、彼が病気の治療(キュア)だけでなく、日々の健康維持や予防(ケア)にも強い関心を持っていたことを示している。乱世を生き抜き、82歳という当時としては驚異的な長寿を全うした彼自身の生涯が、その養生思想の正しさを何よりも雄弁に物語っていると言えよう。
一人の人間の歴史は、その死と共に終わるわけではない。その血脈や家風は、時に思いもよらない形で後世に影響を及ぼすことがある。玉木吉保の生涯を追う旅は、戦国時代で終わらない。彼の家系は、長州藩士として幕末まで存続し、日本の近代化を準備した思想的潮流と深く関わっていくことになる。本章では、この壮大な歴史の伏流を解き明かす。
玉木吉保の子孫が、関ヶ原の戦いの後、主家に従って移住した長州藩(萩藩)で、藩士として家名を存続させたことは、ほぼ確実である。この歴史の連続性を証明する上で、決定的な鍵となるのが、長州藩が享保年間(1716-1736)に編纂した公式の家臣団記録『萩藩閥閲録』である 34 。
『萩藩閥閲録』は、藩主・毛利吉元の命により、家臣諸家に伝わる古文書や系譜を調査・集大成したもので、毛利家一門から中下級藩士、さらには町人や百姓の家に至るまで、1000を超える家の記録が収録されている、極めて信頼性の高い一次史料群である 35 。この『閥閲録』の中に、玉木氏の記録が含まれていることが確認されており、その家系を辿ることで、戦国期の玉木吉保と幕末の玉木家を結びつけることが可能となる。
関連史料である『長州藩の家臣団』には、「玉木氏(初め50石、後に40石。長府藩士乃木氏分家)」という項目があり、そこに幕末の教育者・玉木文之進の名も記されている 36 。この記述と、後述する玉木文之進の家が乃木家の分家であるという複数の記録を照合することで、戦国武将・玉木吉保の家系が、200年以上の時を経て幕末の長州藩に繋がるという蓋然性は極めて高いと結論付けられる。一人の武士の記録が、藩の公式記録によって裏付けられ、歴史の連続性が証明されるのである。
時代は下り、幕末の長州藩に、一人の傑出した教育者が現れる。玉木文之進(1810-1876)である。彼は、かの吉田松陰の叔父にあたり、天保13年(1842)に自宅で私塾を開いた。これが、後に松陰が引き継ぎ、高杉晋作や伊藤博文など、明治維新を成し遂げる幾多の人材を輩出することになる「松下村塾」の始まりであった 37 。
この玉木文之進の家系を辿ると、驚くべき事実に突き当たる。玉木家は、長州藩の支藩である長府藩に仕えた乃木家の分家であり、両家は代々深い交流があった 41 。文之進は実子に先立たれた後、乃木希典(日露戦争で活躍した陸軍大将)の弟である正誼(まさよし)を養子として迎えているのである 41 。
ここに、玉木吉保から玉木文之進へと流れる、時代を超えた「家風」とも言うべき共通性を見出すことができる。それは、武士としての矜持を保ちつつも、学問、特に実学を重んじ、それを教育という形で次代に伝えようとする一貫した姿勢である。吉保は、自らの知識と経験を『身自鏡』や医学書という形で記録・体系化し、主君や後世に伝えようとした。一方、文之進は、松下村塾を創設し、甥の松陰やその後の門弟たちを厳しくも愛情深く教育した。両者とも、単なる知識の所有者ではなく、「知識の伝達者・教育者」としての側面が際立っている。
この共通性は、単なる偶然の一致とは考えにくい。玉木家に、学問を尊び、それを社会に還元することを是とする価値観が、家風として代々受け継がれてきたことを強く示唆している。そうであるならば、戦国武将・玉木吉保の生き様と彼が遺した知的遺産は、250年という長い時を経て、日本の近代化を準備した思想的土壌の一部を形成した、という壮大な歴史的連続性の中に位置づけることができるのである。一人の戦国武士の生き方が、幕末の動乱、そして近代日本の形成にまで、細く、しかし確かに繋がっていたのだ。
玉木吉保は、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康といった、歴史の表舞台を彩る英雄たちの影に隠れ、その名が広く知られているとは言い難い。しかし、彼の生涯を徹底的に掘り下げることで、我々は戦国時代という時代の本質と、そこに生きた人々の息吹を、より深く理解することができる。
吉保の人生は、戦国武士の多面的な姿を我々に示してくれる。彼は単なる戦闘員ではなかった。高度な専門知識を駆使して主家の領国経営を支える行政官であり、豊かな教養を身につけた文化人であり、そして人々の命を救う医師でもあった。彼の生涯は、「文武両道」という言葉が、単に武芸と学問の両方に通じているという意味に留まらず、生き抜くために必要なあらゆる知識と技術を統合し、実践する力であったことを体現している。
そして何よりも、彼が遺した自叙伝『身自鏡』の価値は計り知れない。歴史がしばしば大事件や権力者の動向を中心に語られる中で、『身自鏡』は、一人の武士の視点から見た日常の生活、個人的な感情、そして具体的な価値観を伝える「ミクロヒストリー」の宝庫である。彼が記した衣服の困窮や、初めて見た天下人の容貌、戦場での恐怖と高揚。これらの生々しい記録を通して、我々は歴史を数字や事件の羅列としてではなく、生身の人間が織りなす、血の通った物語として感じ取ることができる。
激動の時代を82年間生き抜き、自らの生涯を冷静な筆致で記録し、さらにその家系が日本の近代化に間接的に関わっていくという、壮大な物語。玉木吉保という一人の武士の生涯を追うことは、歴史のダイナミックな連続性と、名もなき個人が歴史の中で果たし得る役割の重要性を、我々に改めて教えてくれるのである。